2014年11月

2014年11月29日

言葉のバリエーション

セミナーの関係で色々な場所に行ったり
あるいはさまざまな地域出身の人たちに出会ったりすると、
日本語の方言のバリエーションについて実感します。

世界中の言語の方言については全然知りませんが
少なくとも英語の地域差とは全く異なった種類の違いが
日本語の方言には含まれているように感じられます。

英語のバリエーションは、母音や子音の使い方の違いがほとんど。
逆にいうと、音の雰囲気としてアメリカ英語っぽさとか
イギリス英語っぽさというのがあるわけです。

インド英語は「r」の音を強く出しますし、
「ar」のように伸ばすときでも、「ル」のような音が聞こえたりします。

オーストラリア英語はイギリス英語に近いようですが
「エイ」の音が「アイ」になるのは有名なところ。
「day」は「ダイ」みたいになる、と。

もちろん、イギリスの中でも地域差は大きいですし、
アメリカの中でも方言のようなものがあります。

ですが原則的には、母音の出し方の違いと、
「r」などの限られた子音の音の違いがメインだと思われます。

つまり、アクセントの位置には共通点があるということです。

(ちなみに単語の使い方の違いもありますが、
 それは日本語の方言にもありますし、
 とりあえずここでは置いておくことにします)


一方、日本語の場合、アクセントの違いが方言として多く確認されます。

単語のアクセントの位置がズレるんです。

特に関西語圏ではアクセントが大きく変わりますが
単語ごとに注目すると、日本中で異なったアクセントが多々見受けられます。

僕が仕事で周っている範囲だけでも色々と気になりますから
おそらくそうしたアクセントの違いは調べれば数え切れないぐらいあるのでしょう。

大阪の人が「尼崎」を「あまがさき」を平板アクセントで呼ぶのに対して
千葉にある「姉ヶ崎」は「あねがさき」の「が」にアクセントがあります。

名古屋の人は「まわり」の「ま」にアクセントを置くようですし
(僕は平板アクセントです)
北海道の人は「ご注文」の「ちゅう」にアクセントがあるようです
(僕はこれも平板アクセント)。

研究職をしていたときの同期に大阪出身で
北海道大学に通っていた人がいますが、
彼は「体積」という意味の「ボリューム」を
「リュ」にアクセントを置いて発音していたものです。
(英語だと「ボ」にアクセント、他の地域の人は平板アクセントでした。
 英単語なのに関西弁!)

最近ではニュースでもクラブ(昔のディスコみたいなほう)は
平板アクセントで読まれていますから、
そもそも日本語はアクセントの位置に対して寛容な言葉なのかもしれません。


一方、英語では単語のアクセントの位置を変えてしまうと
別の使いかたになってしまうこともあるようですし
(contact は名詞だと「o」にアクセント、動詞だと「a」にアクセント)、
アクセントの無い部分はハッキリとは発音しないのも英語の特徴のようです。

日本語、特に標準語の日本語で平板アクセントが多用され
抑揚のない淡々とした話し方の印象が生まれやすいのと比べると、
英語には単語のアクセントに伴って文章全体としての抑揚もあって
ずいぶんとリズミカルな雰囲気さえ感じられます。

アクセントを重視しない日本語だからこそ
方言によってアクセントの位置がバラバラになる
ということが起きているのでしょうか。

まぁ、現実的には英単語だってアクセントの位置が違っていても
「ん?…ああ、アクセントの位置がズレているのか」と
すぐに察知することができますから、
日本人が英単語のアクセントの位置を間違えて覚えていたとしても
それなりに通じてしまうというのも意外と起きることではあります。

にもかかわらず英語の方言では母音の発音が少し変わったとしても
アクセントの位置が変わることがないようなので興味深いんです。

一単語としてのアクセントよりも、むしろ
文章全体の抑揚として言語を学習することが、
アクセントの位置を自然に守るように受け継がれてきた理由の1つにも思えます。

日本語や英語以外の言葉で、方言としてのアクセントの位置に
どんな違いが含まれているのか、調べてみたいものです。

2014年11月27日

ゆるいスケジュール

どうやら意外と多くの人が「規則正しい生活」に魅力を感じるようです。

先日もセミナー中にそんな話が出ましたし、
様々な講座のワークで登場する悩みの話題にも
「朝起きられない」とか「早く寝られない」とかがあります。

その点、僕はそもそも「規則正しい」ことを求めていないみたいです。

僕にとって優先されるのは「規則正しさ」よりも
「実際に良い状態で活動できるか」のほうです。

ですから規則正しい生活パターンによって
頭の働きや体の具合が損なわれるのだとしたら
そっちのほうが嫌なんです。

そのため生活のスケジュールには、かなりの幅が設定されています。


そもそも仕事の内容によって起きる時間がバラバラだというのもありますが
そうした自由度の高い生活の中でも予定は含まれています。

特に他者と関わる予定では限度となる時刻があります。
「遅刻しないためには、最低限この時間までにドアを出る」
というタイムリミットがあるんです。

僕の中で明確に設定されているのは、まさにそのタイムリミットぐらいなもので
後は意外とフレキシブルになっているみたいです。

例えば、朝起きるときには、目覚ましを4つか5つぐらい設定します。
といっても目覚まし時計が4種類あるのではなく
スマートフォンのアラーム機能を4つの時間でかけている、ということ。

1つは「この時間に起きられたら、少し作業でもやろう」という早起きの設定。
もう1つは、それよりも15分ぐらい遅い「充分に余裕をもって何かできる」設定。
その次がさらに15分ぐらい遅い「まぁ色々とやれる」ぐらいの設定。
その後がある場合は、「ここならまだゆったり準備できる」ぐらいの設定。

最後に、それらの設定時間から大きく離れたギリギリの時間。
「この時間に起きれば、何とか遅刻せずに間に合う」という設定です。

実際に目覚ましの音を聞いて目を覚ましたとき
眠気と頭の冴え具合を元に、最初の目覚ましで起きるかどうかを決めます。

ここで起きてしまえたら早起きしてパソコンに向かいます。
やらないといけないことが溜まっているときなどは、
結構このタイミングで起きたりします。

もし最初のアラームの時点で、まだスッキリしないようであれば
そのまま次のアラームまで待つことにします。
眠気に応じて、2つ目のアラームを解除して朝の作業をやめることもあります。

基本的には、このように目を覚ましてみて、そのときの具合で
もっと寝るか、そのまま起きるかを決めるというスタイルだといえます。

作業の優先度と、頭と体の状態によって起きる時間が決まる
という感じでしょうか。


ギリギリの時間設定に向けてグラデーションでタイムリミットが迫るイメージです。

僕の頭の中には、縦書きで一日のスケジュールみたいなものがあって
ギリギリの時間のところに濃い色でピシッと線が引かれていて
その上側(早い時間側)に向けて徐々に色が薄まっていくゾーンがあります。

「この辺で起きられたら起きてしまって作業をしよう」というあたりが
スケジュール表で薄い色が始まるところだといえます。

僕にとっては、この色の濃さが、重要度というか切迫感というか
「やらなきゃ」といった気持ちの強さと対応しているようなんです。

一番色の濃いところ、つまりギリギリの時間はクッキリした輪郭があって
その先から色がなくなる境界線になっていますから
「ここから先はダメ」という感じが非常に強い。
まさに崖っぷちといった印象があります。

あまり良いイメージではないかもしれませんが、
だんだんと崖に迫っていくような気分があるのかもしれません。

ちなみに、早めに起きて取り組む作業が優先度の高いものだと
グラデーションの色が早めの時間帯から濃く描かれます。

それで重要度の高さを感じて早く起きる動機づけになるんでしょう。

どうやら僕の場合、「何かをする」というスケジュール上の時間帯が
グラデーションを伴ったゾーンとして設定されているのが
1つのポイントになっているんだろうと考えられます。

つまり、よく見かけるような「何時から何時まで睡眠」というゾーンではなく、
睡眠の領域はむしろ色がついていなくて
「何時から何時までに起きる」という起床ゾーンがあって
それがグラデーションで徐々に濃くなっていく、ということです。

「何時まで睡眠」、「それから朝の勉強時間」といった予定だと
区切りがハッキリし過ぎていて、逆にプレッシャーも大きく
「できた」/「できなかった」といった判断にも繋がりやすいのでしょう。

グラデーションだからこそ気楽で、常に許容範囲の感じがあるんだと思います。

朝の時間を気軽に過ごすコツの1つかもしれません

cozyharada at 23:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2014年11月25日

笑っていても

つくづく「笑いは緊張を緩和するときに起こる」というのを実感します。

緊張とリラックスという観点で、笑いが起きる瞬間を振り返ってみると
土台の緊張感・リラックス感によって、笑いの起こるタイミングと
その笑いの種類にも違いがあるように思えます。


ベースとしてリラックスして安心した状態が続いていると
人の体や顔では、筋肉の緊張がほどけたような様子が見て取れます。

そこに少し真剣な話の流れが生まれるとき
リラックスへの対比として緊張感が起きます。

この緊張感は決してストレスフルな意味での緊張ではなく
真剣さ、一生懸命さ、真っすぐさ、集中といった感じに近い。

グッと話に気持ちを集中して、流れを予測しながら、
暗黙のうちに「たぶん次はこうくるだろう」という期待にのめり込んでいる。

そこで予測と違った展開を、予測と違った雰囲気で示されると
視野の広がりと展開の緩みとともに笑いが起きるようです。

この場合、笑い声のトーンは柔らかく、力みのない感じで
呼吸を中心に胸から笑いが溢れてくるような雰囲気といったところでしょうか。

笑いが終わった後には、穏やかでリラックスした状態が残ります。


一方、ベースとなる状態が緊張しているときにも
それを緩和しようとして笑いが生まれる場合があります。

上下関係や、尊敬を含むような関係、初対面や、心を開き切れない関係でも
頻繁に笑いが起きることがあるようです。

この場合、関係性への緊張感から体に力が入っています。
特に肩のあたり、首のあたりには収縮するような緊張が生まれます。

もちろん、この緊張感をもったまま笑いもなく会話が進む場合もありますが
その緊張感を和ませようとして笑いを作り出そうとするケースがあります。

ちょっとふざけたことをいったり、からかうようなウソをいったり。
ちょっかいを出したり、逆に自虐的に笑いを誘ったり。

元々存在している高めの緊張感を和らげようとする笑いですから
笑いが消えた後には再び緊張した状態に戻りがちです。

あるいは、顔こそ笑いを残していながらも
体には緊張感が起こっていたりもします。

笑いもノドや首のあたりから生まれるような感じで
乾いた高らかな笑いのようでありながら
肩から下のところには固さが残っているように見受けられます。

厳しい言い方をすると
苦手な関係性をごまかすようなところもある
ということです。


つまり、
リラックスの中に集中や流れの感じを生み出し
そこからの解放として笑いが起きる場合と
緊張した関係性の中で、そこから逃れるために
笑いを作り出そうとする場合と
二つの方向性がありそうだ、と。

リラックスの中から生まれる笑いには
微笑みと共通する安心感があって、
笑わなくても大丈夫な関係性に
愉快さが追加されるようにして起きるのでしょう。

赤ちゃんや動物を見ていて自然と笑顔がこぼれるように
個人のパターンを超えた人間全般に共通する
生得的なもののように思えます。

逆に、緊張感を減らすための笑いは
上手くその場を乗り切るための工夫であって
学習によって身につけてきた反応です。

人によっては硬直したり、怒りを示したり、
キョトンとしたり、無視したり…
緊張感のあるコミュケーションをやり過ごすために
様々な反応の仕方が見てとれます。

その中で、笑いで済ますというのは
とても安全で無難な方法だとはいえますが、
リラックスから生まれていないために
体には不一致感が起きるものです。

体のどこかが硬直して、負荷をかけ続ける。

好き勝手に不機嫌になったり、
思いついたことをそのまま口にしたりするなら
そうした負荷は小さいでしょう。

緊張感のある関係の中で頑張って笑いを生むのは
気遣いとストレスへの我慢とで
体に負担を強いるものでもあるわけです。

笑っているけど笑顔ではないんです。

十分に安心してリラックスした状態で
ただ愉快に笑いがこぼれるのか、
少しでも不安や不満を解消できるように
笑ってしまおうとするのか、
その差は大きいと思えます。

その差は
「自然と」笑顔になるのか、
「無自覚に」笑って乗り切るパターンを使うのか
の違いだともいえそうです。

「笑い声があれば楽しい」という経験則があるため
笑いの中身を区別せずに
「沢山笑って楽しかった」
と解釈する場合もあるかもしれません。

しかし実態として体に緊張が残ることもある。

リラックスできる場があるというのは
そういう意味で大事なことだと思います。

2014年11月22日

受講生の立場

久しぶりに受講生としてセミナーに参加してきました。

1、2時間の講義に参加することは最近も多々ありますが、
朝から夕方までのセミナーは数年ぶりです。

かなり気分も過ごし方も違うものだなぁと感じます。

しかし何よりも驚いたのは、帰りの電車の中で感じる疲労感です。
「こんなにも疲れないのか!」とビックリしました。

自分がトレーナーをやる側ばかりになっていて
それにともなう体力の消耗が当たり前に感じられていたので
全く疲れていないことが新鮮でした。

10倍ぐらいは違う感じがします。

朝の体力が100だとしたら、受講終わりの残り体力は92ぐらい。

トレーナーのときは5から10ぐらいしか残っていない気がします。

別に適当に受講したわけではありませんし、
むしろ集中していたと思います。

おそらく疲労は気配りと関係しているんでしょう。

目や首、肩のあたりに表れる疲労感ですから
見たり聞いたりする量が多いんだろうと考えられます。

たしかにトレーナーとしてやっているときは
全員と同時に会話をし続けているような聴覚の使い方かもしれません。

普通に一人分で過ごすだけで、意外と楽なものなんだと実感しました。

2014年11月21日

【セミナー】日常に活かすカウンセリングの技術

ご案内: 12月7日(日)開催

   コミュニケーション講座 〜日常に活かすカウンセリングの技術〜



これまでに紹介してきたカウンセリング講座の流れを踏まえて
日常会話に応用可能な方法をトレーニングします。

ここでの「カウンセリング」の定義は「相談援助」であって
問題解決の部分は含みません。

問題を解決する手法としては心理療法の手法でも、コーチングでも
アドバイスでも、施術でも、役に立つ商品を提供することでも
何でも構いませんが、その前段階としてカウンセリングが行われます。

困っていることに対して、どのような援助をして欲しいのか?
それを明確にするための相談のプロセスがカウンセリングです。

だからこそ、欠かせないポイントとして
 「どのようなお手伝いをご希望ですか?」
といった焦点化の質問が含まれます。

この質問によって最終的にどんな援助をするかが決まります。

より安全に行うとすると、感情的なわだかまりを解消してから
具体的な問題解決に進んだほうが効果的なので、その場合は
 「色々なお気持ちがあるようですが、まずはどれを解消したいですか?」
などの意志確認を行います。

いずれにせよ、クライアント本人に直接的な質問をして
どんな取り組みをしたいかを言語化してもらうプロセスが入るわけです。

これがクライアント自身から問題へ取り組む意欲を引き出し、
また、カウンセラーは「手伝う」立場であって、
「取り組むのはクライアント本人である」ということを示唆します。

問題解決に対して積極的な姿勢になってもらうためにも
こうした絞り込みと意志確認の質問が重要なんです。


しかしながら、このような関わり方はカウンセラーが
プロとしてクライアントと関わる距離感を維持する前提ですから
日常的にはあまり馴染みのある会話とはいえません。

カウンセラーは友達ではなく、プロとして信頼される対象であって
過剰な親しみや好意を向けられるのは望ましくないとさえいえます。

だから焦点化と意志決定を質問の形で行って
クライアント自らが「こうしたい」という希望を言えるように進めるんです。

最終的には、「自分が頑張って取り組んだから問題が解決できた」
という印象で終われるようなサポートだということです。

そしてこの自立を促すようなプロとしての関係性は
日常会話で取り入れるには他人行儀なところがあります。

元々親しかった関係の相手に、こうした質問を使った場合
突き放されたとか、不自然だとかの印象を与えやすいでしょう。

まして日常会話で悩みや不満を話しているからといって
「手伝い」を期待しているとも限りません。

当然、第一声も
 「どんなご相談ですか?」
とか
 「今日はどんなお手伝いをご希望ですか?」
とはならないものです。

もっと自然な会話の流れで悩みごとが話され始めるのが一般的です。
聞き役が相談の主導権を握ることも稀なはずです。
悩みのある側が、本人のタイミングで悩みをそれとなく話し始める。

その話が相談なのか、愚痴なのか、報告なのか
解決したいのか、もう答えは決まっているのか、聞いて欲しいだけなのか
…そういったことは不明瞭なままに悩みの話が始まります。

明らかにカウンセリングの流れとは違いますし、
カウンセラーとクライアントという関係性でもないんです。

ですから、カウンセリングの流れをそのまま利用するというのは難しい。

むしろ、やろうとすると逆に相手は不満を覚えることもあるかもしれません。

もちろん
「カウンセリングの練習をしたいからクライアント役をやって」
と頼むとか、
悩みを話されたときに
「私はカウンセリングのトレーニングを受けているんだけど
 そんな形で話をしてみる?」
なんて確認をしてからカウンセリングに進むとか、
「カウンセリングの場」という関係性を作ってからであれば
カウンセリングの流れを使うこともできますが、
自然な形の日常会話で悩み相談を受けるには工夫が必要になります。


そこで今回の講座では、
カウンセリングの技術が日常会話として自然な流れで活かせるように
普段の悩み相談の場を想定した形でトレーニングを行います。

当然、相談のスタートは悩みを打ち明ける側です。
「いやー、実はさ、最近……」
などと話が始まります。

それに対して聞き役(カウンセラー側)は
悩みを打ち明ける側が期待している範囲に注意しながら
満足してもらえるところまで話を進めます。

一般的には
ヾ蕎陲離侫ードバック+ねぎらい
⊆蠹舛い良要性の確認
O辰寮依と焦点化
げ魴茲離汽檗璽
といった流れになるでしょう。

特に重要なのは、
・自然な形で話が収束するのか?
・話が続くようであれば、何かのサポートを期待しているのか?
・サポートを望むのであれば、どんな形が望ましいか?
といったポイントを、無理のない質問で確認するところです。

そして確認の結果を踏まえながら、無難な落とし所を見つけていく。

そのための転換点となるタイミングを適切に捉えるトレーニングと、
それぞれの段階での基本技術の練習とを行うのが
本講座のメインの内容となる予定です。

特に、会話の進み方を段階として捉えながら
次に進むかどうかの転換点を心がけるやり方は、
コミュニケーションが空回りしてしまうリスクを大きく軽減してくれます。

例えば、アドバイスが上手くいかないことが多いのは、
アドバイスの内容が問題なのでも、アドバイスそのものに効果がないのでもなく
アドバイスを行う段階がズレているから、という場合が大半です。

相手がアドバイスを期待する段階までポイントをクリアしながら進めば
アドバイスが役に立つことは沢山あるものなんです。

段階の見極めが、日常的な悩み相談のポイントです。

相談してきた人は、どの段階までを求めているのか?
このことを視野に入れながら、ステップを1つずつ進んでいきます。

進み方の流れと、次の段階に進む転換点を押さえておけば
悩み相談は比較的スムーズに終わるはずです。

「頑張って相談に乗ったつもりが、グチャグチャになってしまった」とか
「一生懸命に考えて答えたのに、逆ギレされた」とか
「何を言っても、『いや、でも…』ばかりで話にならない」とか…
お互いに嫌な気分で話が終わることも少なくなると期待されます。


プロではない友人や知り合いとして、気軽に悩み相談に乗りながら
相手に楽な気持ちになってもらうようなアプローチです。

日常会話としての悩み相談への対応のトレーニングとなりますが、
個別のステップで使う技術はカウンセリングと共通しますから
カウンセリングに関心のある方にも役立つ内容だと思います。

とりわけ、この視点をもって日常の悩みごとを聞くようになれば
日常生活を通じてカウンセリングの技能を上げることも可能です。

プロとしての相談の技術にも、日常のコミュニケーションにも
活用していただける内容ではないでしょうか。

相談ということに関心がありましたら、どうぞお越しください。



※ 初めての方でもご参加いただけます。
 
 その場合、ワークの進め方やフィードバックの内容などには
 個人差が出ることがあります。

 その点はご了承ください。 
 土台となるポイントを心がけて取り組んで頂ければと思います。




◆録音/録画、再生機材に関しまして

実習の模様は録画・録音を元に振り返ると学びが多いものです。

相手の非言語メッセージを見逃していないかチェックしたり、
何を言うべきか迷った部分を吟味したりできるのは、録画の強みでしょう。

講座中にも、ビデオを使った振り返りも行う予定です。
自宅で見直したい方は、ビデオカメラをご持参ください。
こちらでも1台用意しておきます。

必須ではありませんが、ご活用をお勧めいたします。


また、講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。





【セミナーの詳細】

≪コミュニケーション講座 〜日常に活かすカウンセリングの技術〜≫

【日時】  12月7日(日)
       10:00〜16:30


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

端的にいえば、人は寂しいもののようです。

他者からの承認や称賛、賛同を求めて話をしようとする。

困っている自分がいて、解決したい気持ちがあるのと同時に
今の自分を認めてもらいたい気持ちもあるんです。

両方が共存している。
だから一方だけに注目されると、もう一方の気持ちが反発します。

辛さを認めてもらう前に解決の方向に話を進められたときには
「自分の苦しさは分かってもらえない」と不満になる。
そして苦しさを分かってもらおうとして、問題の大変さを説明し続けます。
何を言われても「いや、でも…」と大変さや自分の正しさをアピールする。

逆に、「そんなに大変なら、無理に頑張らなくても良いんじゃないか」と言われれば
解決したいほうの気持ちが反発します。

両方の気持ちが承認や称賛、賛同を求めているということです。

そこで、両方の気持ちを満たしながら会話を進める方法が役立ちます。

特に日常の会話では、承認の必要性が高いようです。
多くの人は他者を承認しませんから。

「誰も自分の辛さを認めてくれない、誰も自分が正しいことを認めてくれない」
そんな状態で悩み相談がスタートしやすいのでしょう。

もしかすると、他の人にも同じことを話して
既に解決のためにアドバイスを受けているかもしれません。

周りから解決の方向性ばかりを強調されやすい環境にあれば
当然のこととして、苦しさを認めてもらうほうが不足しやすいはずです。

それで、
苦しさを認めてもらえるまで話をしたくなる
ということが起きると考えられます。


多くの人が自分の苦しさや不満を認めてもらえないままに過ごしています。

にもかかわらず、誰かから「苦しさを承認してくれ」という要求を向けられ
悩みごとを聞くことになる。

「こっちだって大変なんだ」という気持ちが沸いてきたり、
「自分勝手に不満ばかり言うな」という気持ちが沸いてきたりするかもしれません。

それでアドバイスをする。
自分の意見を聞き入れてもらおうとするんです。
悩みごとを聞いているほうの立場が、自分の意見への承認を求めて
アドバイスを言いたくなるわけです。

それで空回りする。

日常会話の多くは、双方が承認してもらおうと
相手からの承認を取りあうようなコミュニケーションが多いようです。

だからこそ、カウンセリングの技術を使って
相手の気持ちが楽になるようなサポートをすると
普段の会話とは違った方向性で話が展開するようになります。

もちろん、自分の中にある分かって欲しい気持ちは残るでしょうが、
相手が楽になる姿を見ると、自分の気持ちも楽になることはあるようです。

ひとまず自分の立場を横において、相手の気持ちを満たす方向で努力する。
それだけの姿勢で取り組むことで、関係性が上手く回り出すことがあります。

結果的に相手から感謝されて、自分の気持ちも満たされたり。

自分の側が先に、相手の気持ちを満たすように心掛けると
全体が上手く回り始めるのかもしれません。

身の回りの関係性が円滑に回るようになるキッカケとして
誰か一人のコミュニケーションを変えることも使えるということです。

自分を含めた関係性が上手く回るように
カウンセリングの技術を取り入れるのも1つだと思います。

他の誰かのためだけでなく、ご自身の負担を軽減させるためにも
関わり方の技術を練習してみてはいかがでしょうか。

2014年11月18日

少し落ち着きました

色々と重なっていましたが、少しキリの良い段階になりました。

もうすぐ12月のセミナーの案内を載せられそうです。


札幌に行ったり、母校を訪問したり、書き物の期限があったり、
書道展の作品を提出したり…、色々と重なっていた状態でした。

その内容がどんなものであっても、
一時期集中して取り組んでいたものが終わりを迎えると
なんだか寂しい感じがするものです。

スッキリした感じ、やり切った感じも無くはないですが
それ以上に終わってしまってポッカリした感じが強い。

別に暇になったわけではないとはいえ、
気持ちを向けていたものにカタがつくのは
ちょっとした卒業のような印象があるのかもしれません。

終わってから意識に上がるのですから、それだけ
その瞬間は集中して取り組んでいたともいえそうです。

やっている最中には、なかなか上手くいかないもどかしさを感じるものでも
終わったときにポッカリした感じが生まれるのだとしたら
心のどこかにはその作業を楽しんでいる部分もあるような気がします。


札幌は到着した日に雪が降っていて15cmぐらい積っているところでした。
結構しっかりと降っている最中でもあったので
寒さと移動の不都合で少なからず困難を感じたものです。

ところが翌日の昼間には雪も止み、足元の雪も解けきって
屋根や木に積もった雪だけが目に入るようになってくると
徐々に雪が溶けてなくなっていくことが寂しくも感じられました。

それも似たようなものかもしれません。

その瞬間の中に込められた楽しみや喜びを
表面的な困難のために見逃してしまう、ということがあるようです。

丁寧に味わいながら体験したいものだと感じます。

札幌141115 札幌141116













2014年11月13日

別視点からの同情

一般的な捉え方からすると
 誰かほかの人が苦しんでいたり、痛がっていたりするのを見て
 「気の毒だ」、「可哀想だ」と感じて何かをしてあげたくなる
ことを『同情』と呼ぶようです。

それは、自分と他者という同じ立場の存在(人間と人間)を想定して
他者だけれども自分と同じように痛みや苦しみを感じる
という状態だといえそうです。

ですが、これは細かく見ていくと
「もし自分があの状態だったら痛い・苦しいだろう」
という想像に基づいていて、
そのためには過去の自分の経験を参照していることになります。

つまり、自分の痛み・苦しみを引っぱり出してきて
その感じを元に「気の毒だ」、「可哀想だ」という気持ちを感じる、と。

ですから、自分には想像しようもない話を聞いたときには
その苦しみが理解できませんから、同情は生まれにくいんです。

自分が似たような体験をして、その苦しさを引きずっているときほど
相手の体験や話の内容に対して強く同情しやすくなるものです。

これは映画や歌、小説などのストーリーに対して
自分と重なる部分を見つけたときに心を動かされるのと同様です。

いわば『感情移入』なんです。

たまにカウンセラーで、クライアントの話を聞きながら
クライアント以上に泣いてしまう人がいますが、
それは典型的な感情移入ではないでしょうか。

本人にも似たような辛さが過去にあって
その記憶を引っぱり出しながら感情を強く味わっているのかもしれません。

こうしたことは人間と人間など、一個体同士の関係性で起きやすく
人間同士以外でも、犬や猫などの動物、場合によっては植物などでも
感情移入する場合が見受けられます。

いずれにせよ、一個体として区別できる単位になることが大半です。

なかなか複数の個体をまとめた集団に対して感情移入することはありませんし、
逆に、個体の中の一部分だけを取り上げて感情移入することも多くありません。

「営業部が可哀想」といっても、営業部にいる人たちのそれぞれを想定しながら
そこにいる人たちに感情移入するのであって、
営業部という単位全体に感情移入することは簡単ではない気がします。

あってもせいぜい「森が可哀想」というぐらいかと思います。

また、個体の一部分として、「犬の尻尾が可哀想」と感じることもないでしょう。
犬が尻尾を踏まれたとしたら、それは「尻尾を踏まれた犬」という個体を想定して
「その犬が可哀想」と感じるに過ぎません。
尻尾だけに感情移入することは簡単ではないのかもしれません。

ですから感情移入の対象は、一個体として区別される範囲になりがちなんです。


一方、NLPでは自分自身のプログラムの1つを「パート」という単位で捉えます。
やはりここでも擬人化して、一個体のような扱い方をしますが、
「それでも自分の一部である」という認識は残るようです。

この場合、「自分が自分のパートに感情移入する」という程度は低くなって
全体としての自分が自分の一部に『思いやり』を向ける感じが高まります。

似た感じの体験としては、
足の小指をタンスにぶつけたとき、その場所をさすりたくなるとか
腰が痛いときにトントンと叩きたくなるとか、
そんなものが挙げられそうです。

全体としての自分が、部分としての足の小指や腰に痛みを感じ
それを何とかしたくて、さすったり叩いたりする。

全体が部分を感じながら、部分に対して働きかけをするんです。
それは全体としては当たり前のことであって、
あくまで自分の内側で起きていることですから
他者への感情移入ではなく自分のこととして対処しているはずです。

足の小指をさすったり、腰をトントンしたりする右手は
足の小指や腰という単位と同じレベルだといえます。

足の小指や腰を一個体として切り離して捉えれば
右手も同様の一個体だということになりますから、
仮に足の小指、右手に意志のようなものがあったとすれば、
「足の小指がタンスにぶつかったとき、
 右手が自分がタンスとぶつかったときを思い出して、足の小指へ感情移入して
 それで右手は足の小指をさすることにした」
といった話になるところです。

ですが実際には、右手はそういう感情移入で足の小指をさするのではありません。

どちらかというと、全体としての自分が感じる痛みに伴って
右手は自然とさする行動をしているのでしょう。

全体としての自分が足の小指の痛みを感じて、痛みを和らげるための何かをする。
全体としての自分が右手に痛みを感じれば、同じように痛みを和らげようとする。

全体から見ると、右手の痛みも足の小指の痛みも同じようなものなんです。
どちらも自分が痛いんです。

それと同じような痛みの感じ方と、自然と痛みを和らげようと何かをする状態で
他人の痛みや苦しみに対して関わろうとするタイプの「思いやり」があります。

「他人」として見ないんです。
全体からすれば全ての人は同等な部分に過ぎません。

右手が足の薬指をさするように、痛み苦しむ他者へ何かをする。
そんな感じの関わり方があります。

感情移入ではない種類の『同情』といったところでしょうか。

ただそれだけのことで自然と何かをすることがあるようです。

2014年11月10日

ルールはいらない

マネジメントは管理。
仕組みとルールで人をコントロールする傾向が見てとれます。

それは効率的ですし、大規模な組織を運営するには欠かせないでしょう。

政治や法律も仕組みやルールを決めることで
その中で動く人たちの行動をコントロールして
目標とする方向へ導こうとするといえます。

大人数を相手にした場合には
全員の気持ちや事情、個人差を把握しきれませんから
集団をひとまとめにして対応しながらも
全体が上手く機能するように工夫するのが効率的なんだと思います。


しかし、仕組みやルールは、ときに人から考えることを奪います。

決められたやり方、ルールに従っていれば「正しい」ことになりますから、
その「正しさ」をもって自分を正当化できます。

「正しい」ことをしている以上、他者から責められる筋合いもなくなります。

自分の行動が他者にどんな影響を及ぼすかにはかかわらず、
ただ「正しい」というだけで「悪くない」ことになる。

「正しい」から問題と捉えなくなる。
自分が「正しい」ことをしていて、誰かが「正しくない」ことをしていたら
それは相手が「悪い」んだ、と主張できる。

その自分の行動が実際に他者へどんな影響を与えるかを考えなくても
「正しい」ことをしている限り、社会生活は問題なく送れる「はず」なんです。

わざわざ自分で自分の行動について考えなくて済む。
仕組みやルールを作った人たちが他者への影響を考慮して
「一番問題が起きにくい行動」を「正しい」こととして定めてくれたので、
それに頼っておけば安心なんです。

厳しい言い方をすれば
ルールや仕組みは、その中にいる人たちの考える能力をみくびっている
のかもしれません。

先に挙げた通り、一人一人の事情を踏まえてルールは作れませんし、
妥協しなくてはいけない範囲もあります。

全ての瞬間に
周りへ注意深く警戒して
他者の気持ちへ気を配って
多くの人への影響を考えていたら
忙しくていきていけません。

仕組みとルールに頼って
その範囲では気配りや考えを省略できるからこそ
他の専門的な部分へ力を注げます。

僕は税金のことを一切考えないから
その分、心とかコミュケーションに気持ちを向けられるんです。

皆、それぞれが専門分野を分担するためには
専門外では仕組みとルールに頼って考えなくてよくする必要がある、と。


ところが、そのメインの関心事の範囲でまで仕組みとルールに頼りすぎてしまうと
大事なことを考える機会まで失われてしまうことがあります。

少なくとも少人数のコミュケーションのセミナーであれば
僕はルールなんていらないと思うんです。

皆が注意深く相手のことや自分の振る舞いについて考えられれば
ルールや仕組みなんてなくても問題は起きません。

むしろ、社会生活のなかで無自覚なままルールに縛られているのだから
セミナーの場ぐらいでは社会のしがらみから離れて、
決まりごとを安易に頼るのではなく
自分と他者との両方へ気を配って最善の一瞬を過ごすように心がける
というのも意味のあることじゃないでしょうか?

開始時間と終了時間ぐらいは契約内容に含まれますから「守りたい」ですが
常識を疑って、そのコミュケーションの意味を考えてみる機会を促すのは
コミュケーションのセミナーとしては重要なポイントかと思います。

トイレに行きたければ好きなときに行けばいい。
許可が必要だとか途中で席を立つのは失礼だとかは
ただの思い込みに過ぎません。

ノドが乾いたら好きなときに飲めばいい。
アルコールが好きならそれもいい。
お腹が空いたら食べてもいい。
眠ければ寝てもいい。
座っているのが辛ければ、立っても横になってもいい。
大声を出したくなったら叫んでもいい。

それが常識だとか決まりごとだとか自分がいつもやっているからだとか、
そういった無自覚ないつも通りの発想で行動する限り、
自分のコミュケーションを意図的に変えることはあり得ません。

人との接し方も無自覚に自分のやり方を繰り返すだけだからです。
自分が「正しい」とか「当たり前」だと思うやり方を続けることでしょう。

一人だけセミナー中にビールを飲むのだとしたら
例えば、他の人の中に禁酒中で苦しんでいる人がいないか?
などと気を配って、
その上で自分の意図に沿って飲むか飲まないかを決める。

室内は禁煙だからタバコを吸わないのではなく、
苦手な人がいるからとか
壁紙が汚れるからとか
他の人の健康に害があるかもしれないからとか
そういった配慮を自覚してタバコを吸わないようにする。

何かを言いたい気分になったけど
講座全体の流れを妨げるとか
皆の注意が逸れるかもしれないとか
話が聞こえなくなるかもしれないとか
そういったことを考慮して、
それでも言うことのメリットとして
考えを整理できるとか
自分の理解度をアピールして尊敬してもらえるとか
講座の内容を深めたいとか
そちら側が上回ると判断したときに発言するようにする。

これらの場合には、
自分の行動の影響を自分で考えて
自分の意図に沿って行動を決める
という流れが含まれています。

ただ常識やルールに従って無自覚に行動するのとは別物です。

何でも好きにしたら良いんです。
コミュケーションのセミナーにルールは要りません。

自覚して配慮して選択しながらコミュケーションをすればいい。

それでも大丈夫だという前提でセミナーをするから
僕はセミナーにルールを設けたくないんです。

言い換えれば、
「それでも大丈夫だ」と人を信頼している
ということ。

コミュケーションを意図的に行えば
人はルールや管理なんて必要としないんじゃないでしょうか。

少人数のセミナーなら、それが可能だと思うんです。
そのトレーニングこそが最も役立つ部分のような気がします。

2014年11月08日

過去になってから

心の問題について説明がされるときに
「手放す」といった言葉が使われることがあります。

執着を手放しましょう、と。
そうすると楽になりますよ、というわけです。


確かに、その通りなんだと思います。
結果的にいえば手放すことで楽になるんでしょう。

ただその発想は、「手放した」人が後から振り返って
「ああ、なんだ。ただ手放すだけでよかったんだ。」
と思えるだけのことであって、
自分で意図的に「手放そう」としてできることではありません。

なぜなら、「手放そう」という意図の中に
目的意識が含まれてしまっているからです。

楽になりたい。
解放されたい。
だからそのために「手放したい」。

「手放せば〜になれる」という期待のもとに手放そうとするんですから
「手放す」行為に対して少なからず思い入れがあるといえます。

この思い入れ、目的意識こそが、言い換えれば執着なんです。

「手放したい…、手放したい…」と思っていると
手放すことで求めているものに対して、あるいは
手放すという行為そのものを目的として、そこに注意を向けてしまいます。

そこに思い入れが生まれて、手放すことにこだわってしまう。
手放すことに努力をすれば、その努力が執着そのものになって
「手放したい」という気持ちを手放せない、ということです。


むしろ、徹底的にやり切って絶望するとか
何かのタイミングで気づきがあって発想が逆転して「なーんだ」となるとか、
そういったことで「どうでもいい」感じになると
「手放す」という発想も頭から消えます。

気にならなくなるんです。

そしていつか楽になった自分を自覚して、
「あれ、そういえば執着を手放していたなぁ」
と発見する。

それで思い至るんでしょう。
「そうか、やっぱり手放すだけでよかったんだ。
 それなのに必死で頑張っていたなぁ。」
なんて。

手放すために頑張るのではなく、
自然と手放せるときがくるまで徹底的にやり切る。

本人が意図してできるのは、むしろそっちかもしれません。

どうやら、過去形でしか意味をなさない教えもあるようです。

2014年11月06日

道具と結果

書道を続けていると、それなりに道具の違いも感じとれるようになってきます。

筆、紙、墨のバランスによって書き味も違いますし、
書き上がった作品における墨の色合いや、かすれの出方も違います。

高級な羊毛の筆は、その線質においても、弾力においても
墨の含み方、筆先のまとまり方や開きやすさなどにおいても
やはり高いだけのことはあるように感じられます。

実際、僕の書道の先生は筆をたくさん持っていますし、
中には100万円ぐらいするようなものもあるそうです。

ですが、それはやはり、本人が書く目的として求められる部分だといえます。
自分が動かしたいように筆を動かせるか?
自分が求める線が表現されるか?

つまり書く行為や書き上がった作品が重要なのであって、
そこを追い求めるがゆえに、その手段として道具にもこだわるということ。

あくまで関心は書にあって、道具は手段なんです。

一方、書道をやっていたつもりが、道具にこだわり始めて
その道具の魅力にハマってしまうこともあるようです。

コレクションとまではいかなくても、良い道具を持っていることに満足する。


そうしたことは様々な分野で起きます。

ゴルフでも、沢山のドライバーやパターを持っている人がいます。
練習よりも道具にかける費用や労力のほうが大きかったり。

絵画の画材にこだわって、意外と絵は描いていなかったり。
プロ用のカメラやレンズを色々と買い集め
写真そのものには、それほどの気持ちが向いていなかったり。
高い望遠鏡を数多く持っているのに、天体観測は好きじゃなかったり。

料理でも、音楽でも、車でも、
道具への思い入れが上回ってしまう場合があるようです。


別にそれが悪いというわけではありません。
人それぞれ楽しみ方がありますし、
高品質な道具のもつ実用性を兼ね備えた美しさは魅力的なものです。

好きなものを集めるのだって1つの喜びでしょう。

戦国時代の武将だって、茶道をやるよりも
茶道具の名品を持っていることのほうがステータスだった
といったような話も耳にしたことがあります。

ただの好みの問題なんだと思います。
何に気持ちが向くかは予想のしようもないとも思われますし。


コミュニケーションだ人の心だといった場合にも、
このような違いは頻繁に見受けられます。

人の心や人間関係、コミュニケーションの結果に気持ちが向いているのか、
それとも
心理学や心理療法の技術、コミュニケーション・スキルに関心があるのか。

知識や技術を学ぶのは楽しいものです。
色々なことを身につける過程には喜びもありますし、
知識が増えることで自信も高まるかもしれません。

自分の人生に大きな影響を与えたコミュニケーション手法や教えがあれば
その方法や技術に対して強い思い入れをもつのも納得できます。

NLPに感動して、「素晴らしいものだから!」と広めたい人も見かけますし、
歴史に興味を持って関連する知識を増やすのが好きな人もいます。

有名な先生に教わってNLPの手法やテクニックを増やしたい人もいます。
海外のトレーナーが開発した技法を軒並み習いに行っている人もいます。

おそらくNLPやコミュニケーションの手法に関心が高いのでしょう。
むしろ、そっちのほうが主流かもしれません。

その意味では、僕の関心は一般的ではない気もします。
僕はあまりNLPや心理学が好きじゃないほうに分類されそうです。
少なくとも、僕より多くのトレーナーに教わっている人は大勢いるでしょうし、
僕なんかよりもNLPやその創始者を敬愛している人は沢山いるはずです。

僕にとってはNLPもコミュニケーション技法も心理学も脳科学も
「人の心」を分かるための手段なんです。

僕の関心は、ずっと「人の心」のほうに向いています。

NLPの視点で「人の心」をたくさん眺めてきたんです。
NLPの言葉で説明できる情報は色々とありますが、
それはNLPの知識として学んだものではなくて、
「人の心」の理解を求めてきた結果なんです。

そのための手段として知識を広げてきたとはいえ、
「人の心」という結果から離れることはなかったと思います。

たぶん、これからも。

手法や知識は華やかですし、習った実感も大きい気がします。
それに対して、人の心を捉えるための能力として
観察力や共感力をトレーニングするのは達成感が薄い。

地道なトレーニングを積んだ結果、振り返って上達を実感するような種類です。

それを続けるかどうかは、きっと
その人の関心の方向の違いによるんでしょう。

技術や知識に気持ちが向いているか。
人の心や人間関係に気持ちが向いているか。

この差は大きそうです。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《心を調える実践会》

【日時】 2017年9月10日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


【日時】 2017年9月24日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 北とぴあ
    801会議室

    JR王子駅より2分
    南北線王子駅直結

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次回開催は10/15の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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