2015年01月

2015年01月29日

本当に傾聴ができる人

ロジャースのClient-centered Therapy(来談者中心療法)と
その技法的側面としての傾聴やカウンセリングについて
最大の課題は

 カール・ロジャース本人以外に誰か一人でも「できた」のか?

ということじゃないでしょうか?


いわゆる三要件
・genuineness (純粋性、一致)
・unconditional positive regard (無条件の肯定的配慮)
・empathy (共感)

完全に満たした関わり方なんて、簡単なことではないはずです。

ある意味で理想論であり、
究極的な関わり方であり、
少なくとも
技術的なトレーニングで到達できる領域ではないと思えます。

本当にそういう関わり方をしてもらったとき、
人はきっと文字通りに「癒される」んでしょう。
よく使われる「癒された気分になる」という意味とは違って、
ブッダとかイエスとかが「癒した」というレベルで。


そこまで辿り着く人がロジャース以外にいたのか?
そもそも、ロジャース本人は辿り着いたのか?

個人的な印象としては、
晩年のロジャースの顔写真から見受けられるものには
その到達点を伺わせるところを感じます。

また、後年のロジャースが presence (そこに「いる」こと)を強調したり、
手法的な側面が強調されて伝わってしまったことから
「パーソン・センタード・アプローチ」という呼び名に変更したりしたことも、
本質的な関わり方の部分で大きな実感があっただろうと想像させてくれます。

だとしたら、その本質はどれだけ後続へと伝わったのでしょうか?


個人として100%一致して統合されている。

完全に無条件に人へ100%の関心を向けられる。

感情移入や同情ではなく、相手の感情をそのまま全て
自分が自分の感情に気づいているのと同じように、意識に上げる。

そのような「純粋性」と「無条件の肯定的配慮」と「共感」をもって
目の前のクライアントのために「そこにいる」ことが人を助ける、と。

なかなかハードルが高い気がします。

僕がロジャース派のトレーニングを受けたときのトレーナーは、
アメリカの大学院でカウンセリング心理学をやって
ロジャース派のインターンを経てカウンセラーの資格を取った人でしたが、
それでも「精神力動的アプローチを併用して効果を出している」と話していました。

そんな状態で関われることは滅多になかったようです。

実際、長年のプロとしてのカウンセリング経験を通じて
「ほんの何回かだけ、そういう状態になれたことがある」
と語っていました。

それは、随分と時間をかけたクライアントと
ある日、何がキッカケだったかも分からないけれど
ふとした瞬間に起こった不思議な体験だった、といいます。

まさに心が繋がったとしかいえないような状態で、感動的であって、
その瞬間からクライアントに劇的な変化が起き始めたそうです。

相当な量のトレーニングと、自己研鑽と、プロとしての実践を積んで
それでもなお、数えるほどしか経験できていない、という話でした。

体験さえすれば、「これのことか!」と実感できるほどのことであり、
かつ、一度体験してしまったら、「それ」ではない状態は
ハッキリ違ったものとして区別されるようになってしまうようです。

経験していないときには、立ち返るべき心構えとしての指標に過ぎなかったものが
一度実感したあとには、具体的な到達目標として設定されるようになる。

だからこそ、その状態がロジャース派の目指すところで
ロジャース自身が最も強調したところだったのだろうと思えます。

ロジャースもそうした体験の頻度が上がっていったのか、あるいは
常日頃から実感するようになっていたのか、その辺は分かりませんが、
グループとの関わりを優先するようになっていったという経緯を考慮すると
ロジャース本人は「そこを通過していた」のではないかと思えます。


僕も個人的に、ロジャースの説いた要件は実現可能なものであって
単なる理想論や精神論、心構えなどではないと感じます。

人はそれだけで癒される。

そのことを実感したことがないと、どうしても
何かしら別の手法で工夫したくなるのかもしれません。

あるいは、傾聴の手法的側面を強調して、その技法を信頼し、
ロジャースの説いた本質については、あくまで心構えとして捉えて
「ありがたい話」か知識として頭に留めておくことになる、か。

おそらくギャップが大き過ぎるんでしょう。
傾聴という手法の見た目上の分かりやすさと
実際の到達目標の高いハードルとの間で。

表面上はシンプルに見えて、手法としては分かりやすそうでありながら
実際に目指すべき関わり方の本質は、実感を必要とするものになっている。

その見た目上の分かりやすさと
体験レベルの到達点の高さとの差が
あまりにも大きくて、伝わりにくいように思えます。

ロジャースの説いた要件を実現しようとして取り組み続ける人は稀で
むしろ手法を身につけた後は、それらを実現可能なものとして目指さなくなる
…なんてことさえ起きる可能性がありそうです。

いったいこれまでに、どれだけの人が
ロジャースの言っていたことを実践してきたのでしょうか?


まぁ、開発者や達人、創始者がやっていたことは
どれだけ伝えようと頑張ったとしても、
同じレベルで伝わっていくわけではないものでしょう。

むしろ、創始者や達人が指導したとしても
そのレベルまで辿りつく後進のほうが少数派のようです。

ミルトン・エリクソンの弟子で
エリクソンと同じことができるようになった人はいないように見えます。
きっとどの世界でも同じようなものだろうと思います。

ロジャースのやり方は、一見すると誰にでもできそうに見えた。
だから手法として広まって、一般化された技法として定着した。
どこでもありがちな「誰も創始者に追いつけない」という事態があったけれど
手法として分かりやすかったがために、そのことへは気づかれなかった。

そんな経緯があったのではないかと想像しています。




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2015年01月27日

外国語の発音

言葉の上達には上限がないような気がします。

日本人とはいえ、日本語の使い方には大きな個人差があります。
そして大人になってからでも、文章の書き方やボキャブラリー
会話中の言葉の選び方など、様々な面で向上させられます。

逆に、大人になっても勘違いしたままの言葉の使い方があったり、
うろ覚えでチョット恥ずかしい思いをしたり、
本を読んでいて聞いたこともない単語を目にしたりすることもあります。

そういった体験を通じて、少しずつ修正を繰り返して
言葉の使い方が磨かれていくということなのかもしれません。


母国語でさえそうなのですから
外国語を学ぶときには、事態は一層複雑になると思われます。

なかでも厄介なのは、発音と、細かな日常表現のバリエーションでしょう。

特に、日常会話で見受けられる
 ネイティブにとって当たり前の使い分けでありながら
 わずかな単語の違いでニュアンスが大きく変わる表現
は、
外国語学習において最後まで残る課題ではないかと感じます。

こういうときには、こういう言い回しを使う
…といった決まり文句のようなフレーズは
ストックとして持っているかどうかの話ですから、
もう単純に覚えて増やしていくしかないようです。

これと比べると、文法なんてのは易しい部類でしょう。
一度概要を掴んでしまえば随分と楽になるはずです。

また文法の間違いは、文章においてさえネイティブでも起きるところですし、
会話中の文章であれば、文法的に正しい構造をしていないことはザラです。

英語のセミナーの内容を翻訳したりすると、書き起こした英文では
文章が完結していなかったり、動詞が2回出ていたり…なんて良くありました。

英語ネイティブの人が三人称・単数・現在形の動詞に「s」をつけ忘れる
ということは、ほぼ無いように見受けられますが、
比較級のところで「 easier 」の代わりに
「 more easy 」なんて言ってしまうケースは意外と見ます。

そういう意味で、文法の間違いはそれなりに起きることがあり、
あくまで言い間違いのようなレベルだと考えれば
さほどネイティブでも問題視されていないのではないかと考えられます。


ところが、日常表現として使われる細かなバリエーションは
ちょっとした単語の違いによって、全く別の意味になってしまうことがあります。

例えば
「 Do you have the time? 」
といえば、
日本語でいう「時間がわかりますか?」
のように「今、何時か」を聞く表現です。

これが
「 Do you have time? 」
となると、
「時間がありますか?」
のように、予定を聞く表現になります。

ただ「 time 」の前に「 the 」をつけるかどうかの違いで
意味が大きく変わってしまうわけです。

街中で通りすがりの人に
「時間、わかりますか?」
と尋ねるのか
「時間ありますか?」
と尋ねるのかでは
全く状況が異なるのは容易に想像できるところでしょう。

街中で突然「時間ありますか?」と聞かれたら
何かのお誘いだと捉える人が多いのではないでしょうか。

こうした違いは、ネイティブなら決まり文句として染み込んでいますから
間違えようのないところだと思われますが、
英語学習者にとっては、丸暗記をしなければいけない部分です。

覚えて、使って、自然になるまで染み込ませる。
そうしたプロセスが、様々な表現について求められそうです。


もちろん日本語にだって、このように
微妙な表現の違いで大きく意味が変わるものはあるでしょう。

そして日本人なら皆、その違いを自然に習得しているはずです。

同様に、外国人が日本語を習得するときにも、やはり
わずかな表現の違いを覚えるという困難がある。

そんな表現の間違いを外国人がしているのを
日本人が耳にしたとします。

例えば、蕎麦屋にやってきた外国人が
「私は、ざるそばでいいです」と言った、と。

「 で いいです」ということは日本語のニュアンスからすると
妥協の感じが含まれますから、店員への注文においては
(他にロクなものがないから、ざるそばでいいや)
という意味合いが伝わってしまうかもしれません。

しかし、おそらく多くの場合、
「あぁ、外国人だから言い間違えたんだな。
 ざるそば が いいです
 と言いたかったんだろう。」
と捉えて、失礼だとは感じないのではないでしょうか。

これには、日本人が外国人を特別視しやすい傾向が関係しそうです。
最近でこそ多国籍な場所が増えてきていますが
それでも日本人からすると外国人は目立つと思われます。

外見からでも「外国人だろう」と判断しますし、
日本語を話していたとしても、発音から「外国人だ」と判断することもある。

この「外国人だ」という判断の速さと
「外国人の日本語だから間違っていても当然だ」という認識が
微妙な表現の違いから生まれるニュアンスを
「言い間違い」として寛容に解釈しなおさせてくれると思えます。


しかし、英語圏の国、たとえばアメリカともなれば
見た目だけで外国人かアメリカ人かを判断するのは困難なはずです。

アジア系でもアメリカで生まれ育ったために
完全な英語ネイティブという人は大勢います。

ですから見た目で「外国人だろう」という判断は少なそうに想像できます。

場合によっては、発音によって
「英語ネイティブではない。外国出身か?」
と捉えることもあるかもしれません。

そうなれば、表現を微妙に間違えて、場面に相応しくない意味になってしまっても
「あぁ、英語が母国語じゃないから間違えたんだろう」
と、好意的に解釈しなおしてくれる可能性があります。

ところが、です。

これでもし、英語の発音が完璧だったらどうでしょうか?

とても自然な発音で、英語ネイティブからしても
普通に英語を第一言語として話す人だと思われるぐらい。

見た目からの外国人かどうかの判断が少ないとしたら、
発音で英語ネイティブの雰囲気を発してしまうと
「英語が母国語でないから間違えたのでは?」と
受けとり方を工夫してくれる可能性は少なくなりそうです。

そして言葉通りのニュアンスで受け取り
「なんてことを言うんだ!」と不快にさせてしまいかねません。


ここにジレンマを感じます。

発音が悪過ぎれば、コミュニケーションに支障が出る。
何を言っているかを分かってもらえない可能性が高まります。

リスニングにしても、自分がネイティブと同じように発音できるほうが
単語の音声に対する頭の中のイメージ(フレーム)が正確なため、
はるかにネイティブの英語を聞きやすくなると考えられます。

スピーキングとしても、リスニングとしても、
発音のトレーニングをするのは英語学習にとって効果的といえます。

一方で、発音が完璧な英語になってしまうと
アメリカ人から外国人扱いをしてもらえなくなるかもしれない。

結果として、言い間違いや、記憶違いで使ってしまった一言が
自分の意図とは違ったニュアンスで相手に伝わり
相手を不快にさせてしまうこともあるかもしれません。

もちろん、徹底的に上達を目指すのであれば、
 発音もネイティブに近づけるようにトレーニングをして、
 ネイティブが日常的に使う表現を、細かな違いに気をつけながら
 少しでも多く習得できるように勉強を続ける
というのが求められるのでしょう。

そのハードルは、なかなか高そうに感じられます。

その点では、
 明らかに日本人だと分かるぐらいのアクセントを残しながら
 英語として分かってもらえる程度に発音を矯正して、
 意志疎通には困らないぐらいの英語力を身につける
ぐらいのほうが
外国語習得として目指すレベルには都合が良いような気もします。

日本にいる外国人タレントでいえば
デーブ・スペクターのような日本語でしょうか。

LiLico のレベルまでの日本語は、外国語習得として
非常に高いハードルを越えたものに思えます。

海外で活躍するスポーツ選手のような英語の感じで、
英語力ではなくむしろ専門性の高さで受け入れてもらう…
そんな方向性もあるのかもしれません。

どこを目的とするかということなのでしょうけれど。

2015年01月25日

基礎があれば創作できる

世の中にあるコミュニケーション技術の大部分は
料理でいうならレシピに対応するものです。

手順に沿っていれば、1つの献立を作れるようになります。

多くのインストラクターは、テレビの料理番組のように
レシピと作り方を教えてくれます。


もうちょっと親身に伝えるトレーナーとなると
料理教室のようなスタンスになります。

実際にその人のやり方を見て、コツを教えてくれる。

あるいはステップに分けて、皆がついてこれるようにする。

料理番組を見て再現しようと思ったら
メモを見ながら、やり方を思い出して
自分で流れを作り出す必要があります。

一方、料理教室であれば全員が同じような流れで
素材を切る段階、下ごしらえの段階、火を入れる段階、味を調節する段階…
と、誰も置いていかれることなく、確実に完成まで導いてくれます。

料理番組のようなコミュニケーション・セミナーに慣れた人には
1つの料理を皆と一緒に完成させてくれる料理教室のようなトレーナーは
「自分でも一品を完成させられた」と実感できる機会として
とてもありがたい存在なのだろうと思われます。


それでも多くは、1つの料理のレシピを元に
その一品を作れるようにするところに焦点が当たっています。

確かに、それをいつも作れれば、その一品でおもてなしすることもできますし
何品か覚えれば、そのバリエーションで毎日の食事にも対応できるでしょう。

ただ、料理の腕前ということに関していえば
そこにはレシピには表れない技術やコツが存在します。

食材の目利き、包丁の技術、加熱のポイント、鍋の動かし方…
そういった基本スキルが、同じ品物を作ったときの出来上がりを左右します。

コミュニケーションでいえば、それらは、観察力やペーシング、
声のトーンやリズム、身体の姿勢によるリーディング、言葉がけのタイミング、
オープンでリラックスした身体の使い方、流れの読み方、自分の状態への自覚…
といったことに対応するといえます。

僕の講座の趣旨は、大部分がそちらです。
土台の技術を磨くほう。


このことを、まさに料理に喩えて説明してくれた人もいました。

趣旨が伝わっているだけでもトレーナーとしては感慨深いものですが、
それ以上に、実際の技術が上達していくのには驚きさえ覚えます。

自分で課題を設定して、心がけながら取り組んでいる様子が見て取れます。

相手への関わり方だけでなく、自分の内面を的確に捉えるセンスも
同時に磨かれていくようです。

ですから、トレーナーとして課題を曖昧に伝えるだけで
趣旨を汲み取りながら実習が効果的に進んでいくようにさえ見えます。

極論をすれば、こちらが頭の中でイメージしながら言葉で補足すれば
その頭の中のイメージを共有して、それを再現してくれるような印象。

料理の喩えに戻るなら
「今日のテーマは○○。〜な感じの方向性で作ってみてください」
と伝えると、
個性にあふれながらも、趣旨がピッタリ一致した料理が
オリジナルレシピで仕上がってくるような感じでしょうか。

まるで料理の鉄人を見ているかのようです。

その人自身の『才能』が絡み合っているのは間違いありませんが
人と関わる技術が磨かれていく様は、不思議とさえ思えます。

個別のレシピなんて忘れてしまっても
料理の基礎技術を磨いていけば
自在に創作料理を作れるようになる。

そういうことなのかもしれません。

まぁ、その方向性を目指したいと思い、
それ相応の努力を続けようとするベースがあるか、
というのは問われるのでしょうけれど。

2015年01月23日

2月の予告

2月15日(日)の講座では
カウンセリングを中心とした一連の流れへ
実践的に取り組む予定です。

カウンセリングとして課題(ニーズ)を明確にし
その課題を解消するための取り組みまでを行う、という流れ。

最優先は感情のケアになりますから、
 問題と絡み合った感情を明確化して
 そのうえで感情をケアする技法まで取り組む
形式が中心になるかと思われます。

言葉がけで感情のケアを済ませられれば
取り組む課題は、より具体的な問題解決になります。

内面的なテーマへどれだけ深入りするかも含めて
皆さんとディスカッションしながら取り組めればと考えています。

人と真剣に向き合うプロセスの醍醐味を味わっていただければ幸いです。


詳細なご案内は後日に予定しています。

2015年01月21日

2015作品

今年の独立書展も終了したようです。

今回のは、こんな感じ。

独立展2015






































木簡の草書を基調としたものです。

リズムと全体の雰囲気を重視して書いてみました。

だいぶ「かすれ」もコントロールできるようになりましたが
もうちょっと最初の4、5文字目あたりにも「かすれ」を入れても良かったかも。

自分としては納得できる範囲のものを提出しましたし、
作品解説会では「踊りを見ているようだ」とのコメントを頂きました。

何よりも、写真になったものを自分で見直してみて
ガッカリしないというのは大きいと感じます。

もちろん「もっとこうすれば…」という修正点は
あとからいくらでも見つかってきますし、
数年して見直せば、さらに見つかると予想されます。

それでも、「もっとこうしたら良かったけど、まぁまぁかな」と
自分で思えるぐらいの仕上がりにできるかどうかは
自分の中で重要な基準になっているようです。

最近、『心が思い通りになる技術』が3刷になるとのことで
改めて修正点を探すために一通り読み返しましたが、
やはり時間が経ってから見直すと、直したい部分は多々見つかります。

それは全体を良くするための校正のレベルになってしまうので
誤字の修正といった範囲を超えてしまいますから
あくまでも気がついて修正したい気分になる程度の話でした。

やはり客観的な視点で振り返ったり、
英文でのライティングのトレーニングを受けた経験が引き出されたりすると、
「もっとこうしたら良いのに」というアイデアは浮かんでくるものです。

それでも自分で納得できる範囲になっているのは一安心です。

世間に対してアウトプットしたものが、後から振り返ったときに
自分にとって恥ずかしいレベルだったとしたら
それはちょっと居心地が悪いだろうと思えますから。

その意味で、今年の書道の作品は納得感のあるレベルとして
1つの基準を満たせるものだったんだと感じます。

cozyharada at 23:25|Permalinkclip!NLP | 全般

2015年01月18日

年に一度の

ここ数年続いていた年始の行事、年に一度のゴルフは
残念ながら今年、実現できませんでした。

ちょっとしたスケジュールの都合です。

それでも一年ぶりにゴルフクラブを握り
練習場でボールを打つぐらいのことはしました。

一年間まったくゴルフをしていなかったにもかかわらず
意外と僕の身体は動きを記憶しているようで
とりたてて不自由なくボールを打つことができます。

いや、それどころかむしろ
まったくやっていなかったのに上達しているフシもありました。

多分、身体の使い方が上手くなっているのでしょう。
整体のおかげで、身体を動かしやすくなり、かつ
身体の各部への意識が高まったからだと考えられます。


僕は元々、意識の中心が目のあたりに集まっている度合いが高く
「見る」ということに偏っているところがありました。

運動においても中心が目のあたりになりやすい。
動作中に視野が変わることに不安があったんです。

だから自然と視野を変えないように身体を動かす癖がつき
回転運動の軸が目のあたりになりやすかったようです。

ところが、身体への意識の仕方が変わったことで
動作を身体の各部で分割して捉えられるようになってきた気がします。

意識を分散して色々な場所をそれぞれコントロールしやすくなった感じ。

見る度合いを抑えながら動けるようになったのか
イメージしたのと近い動作をしやすくなったように思えました。

現時点では、身体の動きの主観的なイメージと客観的な結果が
一致していないところもあるはずですから、
ビデオを使いながらチェックしていけばスイングを安定させられそうな印象です。

今から改めて、それなりにゴルフへ熱心に取り組んだら
以前よりも結構上手くなれるのではないかと思います。


ただし、それには時間もかかりますし
多少のトレーニングなども必要でしょう。

久しぶりに運動をして最も驚くのは、
一年ぶりでもボールを打てることではなく、
練習をする体力さえ衰えてしまっている
ということです。

すぐに疲れるんです。
筋持久力がない。

練習の初めの頃は、イメージ通りに身体がついてきますが
すぐにそれに筋力が届かなくなってしまう。

そもそも練習を続ける筋力が失われているということです。

パフォーマンスを維持できませんでした。

ゴルフの練習では心肺能力を感じることはありませんが
日頃の駅の階段でさえ、その低下は感じられます。

同様に筋持久力も衰えているんだと痛感しました。

瞬発力というか、スピードを上げる作業はそれなりに残っているみたいですが、
この際、全身運動としてのスピードですから筋力は共同作業として発揮できます。

しかし、そのうちのどこか数か所で必要な筋力を維持できなくなると
途端に全体のバランスが崩れ、全体のスピードも落ちて
しかも的確なコントロールができなくなってしまうようです。

ただの「運動不足」といえばそれまでですが
その運動特有の動作に必要な筋力は
それ用の練習をすることで鍛えられるところがあるのかもしれません。

その意味では、定期的に練習をするのは
技術の維持のためではなく、必要な体力の維持のためにこそ
大切なところなのかと思えました。

毎週ゴルフの練習に通っていた頃、
結構なお年寄りで、毎日のように練習場に通っては
いつも沢山のボールを打っている人を見かけていたものです。

当時は
「あんなに毎日同じことを繰り返したって
 練習のための練習であって、癖を固めるだけで
 上達しているところなんてないんじゃないか?」
と批判的に見ていましたが、
少なくとも体力維持には役立っていたのでしょう。

加齢によって衰えがちな体力を考えれば、
18ホール回り切る間に筋力がもたなくなってミスをすることがないよう
一定のパフォーマンスを維持するのには、毎日の練習によって
ゴルフスイングのための筋持久力を養うのが効果的だったかもしれない、と。

あの年で毎日、何百球もボールを打ち続けていたことが
予想外に大変なことだったんだと実感した出来事でした。

2015年01月15日

好きでもないのに

同じ間違いを何度も繰り返すのは、なんだかバカバカしいような気もしますし、
パターン化されたものを変えられるようにするのが
心理療法やNLPの目指すところでもあります。

とはいえ、「ダメかもしれない」と思いながら一応チャレンジしてみることも
新しい可能性を切り拓くのには大事なことでしょう。

僕にもそんな風に繰り返される間違いがあります。


今の住まいの最寄り駅の駅近郊は、それなりに栄えていて
なかでも飲食店の割合が高いように見受けられます。
宴会シーズンともなれば沢山の酔っ払いで溢れるほど。

そして「飲んだ後はラーメン」ということなのか、
ラーメン屋の数も多いようです。

激戦区とまではいかなくても、
それなりにラーメン屋の集まっているところなんだとか。

その中に一軒、開店して3、4年ぐらいの店があります。
駅から徒歩2分程度の立地です。

カウンターだけの小さい店で、ピーク時には行列もできたりしていますが
混雑時を除けば並ばずに入れるような店。
それでも時間を問わずコンスタントに人が入っていますから
かなり安定した売り上げで店を続けられているのでしょう。

その店のある場所は随分と前に一度ラーメン屋がオープンして、
それからしばらくして閉店、居抜きで別の店に改装、また閉店…
というのを繰り返していた不安定な立地だったようです。

そんな場所で安定して3、4年も続き、かつ今も安定した客入りとなると
そのラーメン店の質も想像できるのではないでしょうか。


で、僕はたまに、そこのラーメン屋へ行くんです。

何種類かラーメンのバリエーションがある中で
塩ラーメンを除けば、どれもとても美味しい。
(塩ラーメンも一般的な店なら看板メニューのクオリティだと思いますが
 他の2種類のラーメンの完成度と比べると見劣りしてしまいます。)

つけ麺も人気なようで、多くの人がつけ麺を頼んでいるものの
僕は甘酸っぱい味付けをあまり好まないので
つけ麺は選択肢の中に入りません。

曜日限定で出されている「まぜそば」というのも、
僕はその店のスープに魅了されているため食べません。

まぁ、ラーメンという食べ物の原価を考えれば
スープに一番コストがかかるはずですし、特に
その店は上等なスープを作るために高級な素材を大量に使うらしいので
スープの消費量が少ないメニューは利益率が高いんでしょう。

「つけ麺」はスープ割りをしたとしてもラーメンよりスープ使用量が少なく
「まぜそば」ともなるとスープを使用しませんから、よりローコスト。

そういうところで利益を稼いでいる分、ラーメンの値段を低めに抑えて
コストパフォーマンスの良い品物を提供しているんだと思います。

ですから僕は経営努力に感謝をしながら
その店のハイクオリティなラーメンを堪能しています。


おそらく店長の料理センスが素晴らしいんです。
とりわけ味のバランスのとり方が絶妙。

様々な成分を立体的に組み合わせてバランスを取れる人なんだと感じます。

調理場をバイトが担当することもありますが
同じラーメンを作っているはずなのに店長とは味が違うんです。

醤油ダレやスープの配合バランスで味が変動する。
もちろん店長でも変動はありますが、その安定度にはレベルの差があります。

他の人が作ったのも充分に美味しいですし満足します。
それでも腕の違いは明白に見て取れるということです。

そして、店長の料理の腕前は、月に一度の「限定ラーメン」でも確認できます。

その店では月に1、2回らいのペースで創作メニューを出しています。
店長を含めた調理場担当の従業員が持ち回りでアイデアを練り
オリジナルのラーメンを作って販売する。

ここでセンスの違いが露骨に表れるんです。

他の人の創作メニューには当たり外れがありますが
(本当は当たった記憶がない…)
店長のは外さないんです。

どんな奇抜なことをやってきても、全体としてバランスを取れる。
すごく偏らせたラーメンであっても、ほんのチョットのダシの成分で
ギリギリのところでバランスを取ってくる。

あとチョット薄かったら…
あとチョット塩分が弱かったら…
みたいなラインを見極めて立体的なバランスを取るようです。

表面的に味を濃く集めるだけだったら簡単かもしれませんが
縦方向で味に厚みを出せる人は多くないのかと思えてしまいます。

ですから僕の中では、その「限定ラーメン」という創作料理が
店長のアイデアと工夫を楽しませてもらえる貴重な機会となっています。

「はー、そうきたか!」
「んー、ここでバランスを取っているんだなぁ…、いやー、お見事」
などと心の中で呟きながら食べる感じ。

もう僕としては、店長の腕前とセンスに対して大きな信頼があり、
同時に、予想もつかない味を期待させてもらえる部分もある。

驚きを期待しながら、ちゃんと驚かせてくれるわけです。

これはなかなかできることではないはずです。
「驚き」とは予想と違う体験で生まれるものです。
「予想を裏切ってもらえるだろう」と予想しているところで
それでもなお予想を上回って驚かせてくれるんですから並大抵ではない。

一流のマジックを見るときのような気分に近いかもしれません。

きっと料理人としても一流なんでしょう。
安定した客入りが長く続いているのも納得です。


こうして考えてみると、僕は明らかに
そのラーメン屋の店長の腕を信頼・尊敬していて、
その店長が作るラーメンが好きなんです。

いや、より正確には、その店長の料理が好きなんです。
たまたまその人がラーメンを作っているから僕はラーメンを食べに行くだけで
多分、ラーメンじゃなくても良かったんだと思います。

ただし、店長特有の「味を三次元で組み立てて絶妙なバランスを取る」能力は、
様々な素材を自在に組み合わせて新しい味を生み出してもいい料理として
ラーメンという特殊な分野だからこそフル活用できたともいえそうです。

ともあれ、僕の側からすると「ラーメンだから」という理由はない、ということです。

あくまで一回の食事に対しての全ての選択肢の中から
そこのラーメン屋が浮かび上がってくるだけのことなんです。

カレー、焼き肉、そば、ハンバーグ、焼き魚、パスタ、鍋…
といったジャンルの中に含まれる「ラーメン」ではないんです。

「今日は魚にしようかな、カレーもいいな、いやラーメンにしようかな」
というレベルで登場する「ラーメン」ではない。

もっといえば
「今日はラーメンが食べたい。どこのラーメンがいいかな?」
と考えてから
「駅の近くのあのラーメン屋にしよう」
と絞り込まれるものでもありません。

独立した1ジャンルとして思い浮かびます。

ラーメンを食べたいのではなくて、
その店の店長の料理が食べたくて、それが結果的にラーメンになる。
そういう順番みたいです。


にもかかわらず、です。

そこのラーメンが美味しいものだから、僕のイメージの中で
「ラーメンは美味しい」といった印象も出来上がってしまう。

なんとなく「美味しいラーメンが食べたいなぁ」と思うときがあるんです、たまに。

そして滅多にいかないのにラーメン屋に入って
期待しながら食べて
…そしてガッカリする。

そのたびに実感します。
「あー、やっぱりラーメンは好きじゃないんだ」と。

たぶん僕はラーメンという食べ物が好みではないんでしょう。
むしろ好きこのんで食べるほうではない。

一方で、子供のころ家族で食べていたラーメンと餃子の印象が強くて、
味そのものは全く覚えてもいないけれど、なんだか喜んでいた記憶はあって
思い出として「ラーメン」というのが美化されているのかもしれません。

そこへ近所の腕のいい店長が作るラーメンの印象が加わる。

あの丼に入った麺が美味しいものとしてイメージされてしまうんです。

頭では「店によって味は違う」と分かっています。
今までに何度もガッカリしたのも覚えています。

店に入るときに30%ぐらいの気持ちとして
「やっぱりここでも期待外れになるのかなぁ…」
と感じている部分もあります。

なのに、おいしい可能性に期待してしまう。
なんならチョットしたラーメン好きのような気持ちになっていたりもします。

そして案の定、食べた後に思い出すんです。
「やっぱりラーメンが好きなわけじゃないんだ」って。


僕は何度もこれを繰り返しています。

また間違いを繰り返すのだろうと思いながらも繰り返す。
「もしかして…」と思いながら。

のめり込んでいないから「可能性へのチャレンジ」で済んでいますが
これがムキになってきたら「ギャンブル」のレベルになりかねませんね。

cozyharada at 23:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2015年01月13日

裏切られない信じ方

自分の「信じている」ことを否定されるのは
多くの人にとって心地良くないもののようです。

それが深い信念のようなものではなく、もっと気軽に信じ込んだものでも
一度「そうだ」と信じたものをひっくり返すのは苦痛を伴うのかもしれません。

「信じていること」ではなく、「理解していること」であれば
筋の通った情報を知ることで「あぁ、そうだったんだ」と自分の考えを修正し
新しい理解の仕方を取り入れることに抵抗は生まれません。

が、「信じている」ことの場合、そもそもの信じる根拠が
自分のなんとなくの印象です。

理由を尋ねれば答えてくれるでしょうが、それは後づけ。
「なんとなく」で信じたことを、整合性がつきそうな形で後から解釈したものです。
人間の基本的な機能として「もっともらしく後づけで説明する」というのは
非常によくおこなわれる自然なプロセスですから、当然のことでしょう。

ただし、この「後から解釈する」プロセスは、
「人間らしさ」とあまりにも強く結びついています。

その瞬間の「なんとなく」の受け取り方が無自覚に起こった後から
一連の流れを過去のこととして振り返り、もっともらしいストーリーを見つける。
そうして時間の流れが認識されるわけです。

そしてこの時間の流れ、記憶の中の出来事の連続性こそが
『自分』という概念と密接に関わります。

『自分』とは、自分の身体の範囲と、身体が関わった環境中の出来事とを
体験したことのエピソードとして記憶されたもの、のように考えられます。

『自分』は、「これまでこういう経験をしてきた存在です」という認識に基づく。
その認識の中に、一連の筋の通ったストーリーを見出せると
大抵の場合、人はなぜか安心するみたいです。

「安心する」というよりは、「不都合を感じなくていい」というほうが正確でしょうか。

「自分ってこういう存在」とみなしている筋書きがある一方で
それに反する体験が記憶の中に存在してしまうと、不一致が生まれます。
「自分は○○のはずなのに、でも…」という葛藤が生まれる、と。

例えば、それまでの人生で親切な行動を取ることが標準だった人は
電車の中でお年寄りに席を譲らなかったという体験が一度でもあると
そのことが頭の中で強烈な違和感を生むわけです。
そしていつまでも後悔する。


NLPなどの言い回しで説明するなら「ビリーフ」があるということです。

「自分は〜〜だ」という思い込み、つまりビリーフがあって
それと反する体験があったときに不快な感じを体験する…
そんな説明でしょう。

しかしより本質的には、これは存在の危機から生まれるものだといえます。

『自分』という存在が揺らぐんです。

なぜならその『自分』という存在は、記憶の中で
もっともらしい筋書きとして作られたものであって、
その「もっともらしい筋書き」に『自分』の根拠を置いているからです。

筋書きを訂正しなければならないかもしれない場面に遭遇したら
そこで存在の確かさが揺らぎます。
自分という存在が危うくなるんです。

そのため多くの人は、自分の信じていること
(=なんとなく作ってしまった自分の経験の筋書き)
を否定されるのを嫌うんだと考えられます。


「理解」の場合には、『自分』と結びつきません。
その物事を客観的なこととして捉えています。
『自分』の筋書きとは別のところに理解の筋道を作っていますから
それを修正したとしても『自分』は揺らぎにくいんです。

一方、なんとなくの印象で「そうだ」、「その通りだ」と思ったことは
「信じたこと」として『自分』の筋書きの中に組み込まれます。

その瞬間は何も考えずに疑うことなく「そうだ」と受け止める。
それだけだったら、ただ流されていくだけです。

そこに振り返るキッカケが生まれると
筋書きの「もっともらしさ」は強化されます。

振り返って、自分が体験したことと「その通りだ」と思ったこととを
もっともらしいストーリーで説明し始めます。
不一致のないようにしようとする。

「その通りだ」と受け入れた瞬間には考えてもいなかったことを
あたかもそのときから考えていたかのように筋書きを作ります。

そしてその筋書きを言語化した場合には
「筋書きを語った」という体験もまた『自分』という筋書きに追加されます。

「語った筋書き」は全体として「もっともらしい」ものでないといけないんです。
でないと『自分』という筋書きが揺るがされますから。

しかしながら、根拠なく信じているだけだったことには、
新たな経験によって、もう信じられなくなってしまう場合もあります。

当然、ショックを受けます。

根拠なく「この人は良い人だ」と信じていた相手から
何かヒドイ仕打ちを受ければ、「裏切られた」とショックを受ける。

これまで「良い人」として関わってきた自分の筋書きが否定されたわけです。
自分の存在が揺らぐ。
ここにショックを生み出すものがあるのではないでしょうか。


誰かからヒドイ仕打ちを受けたと場合で考えると、
「この人は良い人だ」と信じている度合いが強かったときほど
受けるショックの大きさも増えるはずです。

そして、
 「もっともらしい筋書き」を作ることで『自分』というストーリーを確保する
という意味においては
「あの人は良い人だね」などと誰かに言ってしまうほうが
より筋書きの修正が難しくなりますからショックを強めることになります。

なんとなくの印象として「良い人そうだ」と感じながら長く接してきて
それで「裏切られた」と感じるような出来事があったとしたとき、
誰か別の人に「あの人は良い人だ」などと話していなければ
無理矢理に頭の中で「筋書きを作り替える」ことで対処が可能です。

「いや、本当は心のどこかで違和感があったんだ。
 あんなに優しそうだったけど、どこか腹黒さを感じていたし。
 そういえば、あのときの笑い方は不自然だった。
 本当は分かっていたんだ、良い人ではないって。」
などと『自分』を修正することができる。

実際、誰かに「良い人だと思っていたのに裏切られた」なんて話には
 「いや、確かにね、ちょっと違和感もあったのは本当なんだ。
  あーあ、あのときの直感に従っておけば良かったよ。」
などの内容が含まれることはよくあるものです。

そんな風にして「信じたこと」の修正を余儀なくされたときには
 『自分』という根拠が揺るがないように
 筋書きをもっともらしい形に作り替える
ということが多くなされるわけです。

これが1つの存在感の守り方なんでしょう。


最近、インターネットのニュースで
「STAP細胞は巨大利権によって潰された」といった陰謀説を目にしました。

かなりの頻度で見ましたし、ネット上でも広がりを見せたそうです。

「考えて理解する」ことをしようとすれば、STAP細胞に絡む情報は
その内容に科学的な根拠が一切なかったと受け取るのが妥当です。
最初から「作られた」ことを示すデータは存在していなかったわけですから。

しかしそれを「製薬業界の利権で潰された」という。
…STAP細胞なんて夢の万能細胞が実現してしまったら
 今の医薬業界は大ダメージを受けるから、業界に潰されたんだ、と。

実際には、STAP細胞以前にも、ES細胞やiPS細胞が
万能細胞として研究されています。
いわゆる再生医療という分野は研究が進んでいるんです。

なぜ今になってSTAP細胞だけを潰すひつようがあるのか?

そもそも再生医療の研究を推し進めている中に
製薬企業が含まれています。

そういう情報を吟味してしまっては、「信じる」ことができなくなります。

「STAP細胞はある!」と信じた人たち
 (※実際には「ある/ない」ではなく、「作れる/作れない」ですが…)
とくに、「STAP細胞はスゴイ!」などと意見を表明してしまった人たちは、
それを覆すことに大きな抵抗を感じたことでしょう。

自分の筋書きに修正が求められたわけですから。

そして『自分』という存在を脅かされるぐらいであれば
何か別の筋書きを作ってしまったほうが安全だったのかもしれません。

…STAP細胞はあった。
 ただ陰謀で潰されてしまった。
 (だから自分がSTAP細胞の存在を信じたことも
  STAP細胞を称賛したことも、筋書きとして一致している。
  自分のストーリーを修正する必要はない。)

そんなプロセスが起きていた可能性が想像されます。

「筋書きを修正すべきは自分ではない、世間の情報だ!」
と、『自分』の存在を守ろうという意図が含まれていそうに感じられます。

自分を否定するのは非常に苦痛なものですから。

cozyharada at 23:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2015年01月11日

心残り

人に気持ちを向けるという行為は簡単なものではないようです。


誰かとコミュニケーションを取っているときに
その人に対して気持ちを向けるのは
それなりにやってきたつもりでいます。

トレーナーとして活動を始めて3年目ぐらいに
目の前の人に全力で気持ちを向けることを行動レベルでするようになりました。

心のことだとかコミュニケーションだとかの勉強を始めて、
やがてトレーナーとして仕事をするようになり、
多くの技術を身につけ、それなりに問題へ対処できるようになってきた
…そんな自信で勘違いをしていた時期があったものです。

あるセミナーに参加してカウンセリングのスーパーバイズを受けていたとき
クライアントの重要な非言語メッセージを見逃していた指摘を受けました。

人の気持ちを大切にできるようになりたくて始めたはずの勉強が、
技術やテクニック、心構えを身につけるほうに集中してしまって
「どうしたら問題が解決できるか」「どうしたら目標を達成できるか」
ばかりを考えるようになってしまっていたようです。

目の前の人になんて全然関心を向けていなかった。
クライアントはただの題材になり下がっていました。
いくらセミナー中の実習だとはいえ、クライアントの問題を理解することや
技術を上手に使うことばかりに一生懸命になっていて
そこで目の前の人が発している気持ちを捉えようとはしていなかったんです。

それに気づいたときは悔しくて涙が出たものでした。

そういう自己嫌悪に近いほどの衝撃を伴った反省をすれば
それ以降は一生懸命に、人へ関心を向けるようになるものなんでしょう。

観察力があるとか無いとか、そういう話の前に
そもそも人に関心を向けていなければ何かが観察できるはずもありません。

見られないんじゃない。
見ていない。

聞けないんじゃない。
聞こうとしていない。

目に見える行動や能力以前の違いとして
関心を向けられるかどうかがあります。

僕は少なくともコミュニケーションを取っている最中には
目の前の人に関心を向けることをしてきたつもりです。

それが目の前の人を大切にする行為だと思うからです。


ですが、コミュニケーションの最中に相手へ気持ちを向けるのはできても
直接的には何もしていないときに気持ちを向けるのは簡単ではありません。

その人のことは意識の範囲からドンドンと遠ざかってしまいます。

一生懸命に接したつもりだったとしても
接していないときに一生懸命に気持ちを向けていたかというと、そうではない。

そしてそれを後悔するんでしょう。
「ああ、もっと一生懸命に気持ちを向けておけば良かった」と。

自分は一生懸命にやったか?と過去を振り返って自問するとき
「もっとできたんじゃないか」という気持ちになる。

行動としては充分にやったと思えるのと同時に
自分の中には不十分な感じが残るような気がします。

それはいわば、
 自分の奥底にある大切な想いの大きさに比べて
 実際に向けてきた関心の程度が届いていない
と判断されるということでしょう。

できるだけやったか?とか
全力でやったか?とか
最善を尽くしたか?とか
そういう話ではないんです。

自分の奥底に自覚しきれていない
「他の人を大切に想う気持ち」
が大きく存在していて、
それが意識の前面に上がったときに比較対象として自覚される。

そして自分が行動のレベルと関心の向け方のレベルで実際にやったことと照らし
 「大切に想う気持ち」に見合うだけのことをやったか?
と省みる。

そのときに、想いの大きさをようやく自覚して
不十分だった感じを体験するのだろうと思われます。

感謝と同時に感じられる「もっとできたんじゃないか」という心残り。
それを実感できていたら、もっと丁寧に生きようとするのかもしれません。

2015年01月08日

【セミナー】才能を磨く

ご案内: 1月25日(日)開催

   コミュニケーション講座 〜才能を磨く〜



『才能』という言葉を聞くと、
 「何かを自然と上手にできる」
ような意味合いを受け取るかもしれません。

確かに技能としての才能もあります。

ただ今回の講座では、より本質的な『才能』に目を向けます。


前置きとして一般的に『才能』として語られることの多い方向性を挙げると、
 ー然と(苦もなく/楽に)上達できる
 ⊂綯の上限が高い(他の人よりも高い技能レベルまで到達できる)
 その分野に求められる身体的特徴を持っている
といった3つが見受けられそうです。


まず分かりやすく、かつ対処のしにくいところから
「その分野に求められる身体的特徴」について考えてみると、
例えば、相撲や競馬、ファッションモデルなどは
生まれつきの身体的特徴の影響を強く受ける分野だといえます。

昨今のスポーツでは、体が大きいほうが有利になる傾向はあるようで、
選手の平均身長が高いバレーボールやバスケットボールであっても
1つの技能に特化する形で小柄な選手が活躍することはありますが、
やはり競技の花形というか、大部分で求められる方向性は
「身長が高い」という身体的特徴に左右されるはずです。

技術レベルを誰もが高められるようになってきた近代スポーツでは、
体が大きく、筋力やスピードが上がりやすいのは重要な才能なんでしょう。

逆に、競馬の騎手は馬にかける過重を小さくできることから
小柄なほうが望ましいとされます。

ファッションモデルは背が高く、容姿としても
流行りの顔に近いことが求められます。

その分野で有利に働く身体的特徴がなかったとしても
技術を高めることで競えることは充分にあるとはいえ、
やはり生まれつきの身体的特徴で有利になる傾向があるわけです。

ですから身体的特徴はコントロールしようのない『才能』の1つだと考えられます。


一方、 崋然と上達できる」に関しては、
 学習の効率が良いとか、
 技術の必須要素を見つけられるとか、
 見つけた必須要素を習得するための方法を発見できるとか、
そういったことで特徴づけられそうです。

そしてこれらのことは、いわゆる『コツ』として本質的には学習可能なものなんです。
問題は、「その『コツ』を意識化して、意図的にトレーニングできるかどうか」。

この『コツ』を言葉や手本、ドリルで伝えられる人は
「トレーナーとしての指導技術がある」ということになるでしょうし、
それを自分で見つけて取り組める人は、勝手に練習方法を工夫しながら
一人で上手くなっていくと考えられます。

一般的に「自然と上達できる」という意味での『才能』は、この
 自分で勝手に技術の必須要素を見つけ、習得のための工夫ができる
ということになるのでしょう。

その場合だと、指導者に関わらず、他よりも早く上達するはずです。
そして「あの人は皆よりも上達が早い。才能があるんだな。」と見られるわけです。

ですがこの『才能』は、『コツ』を意識化して、意図的にトレーニングできれば
本来は誰にでも習得可能なものですから、高められる素養だといえます。

これに関しては『モデリング』の範疇であって、習得可能な才能、
つまり能力として上達させられるものなんです。

かなりの部分でコントロールの効く範囲だということです。


では、△痢崗綯の上限」に関してはどうでしょうか?

ここには1つの要素として「その分野に求められる身体的特徴」が関わります。

どれだけ相撲の技術を徹底的に身につけていったとして、
身長が低く、筋肉もつきにくく、体重が増えにくいタイプの身体だとしたら
相撲の強さとして到達できる上限にはハンデがあるはずです。

また加齢にともなう身体の変化は、多くの分野において不利に働きます。
人生のより早い時期に始めて、早いうちから上達のコツを身につけて
長くトレーニングを積んできた人のほうが、年齢的に有利な時期を
活躍のために、より長く使うことができて有利でしょう。

例えば、イチローの技術の要素を徹底的に解明して、コツを掴み、
上達のために最高効率の練習方法を編み出し、
イチロー並みのストイックさで全ての時間を野球に費やしていったとします。

つまり『上達の能力』に関してはイチローと同じレベルまで高めた、という想定です。

この場合、身体的な特徴としてイチローには及ばない可能性もありますし、
そのトレーニングを始めた年齢がイチローよりも遅ければ
年齢的なハンデによって、同じレベルまで到達しきれない可能性があります。

ですから、
・その分野で有利に働く身体的特徴を持っているか
・その分野のトレーニングをどれだけ早い時期に始めたか
が、
『上達の上限』を決めるのではないか、ということです。

裏を返すと、
身体能力を必要としない分野であれば
『上達の上限』という意味での『才能』は、
 もしかすると存在しない、か
 あったとしてもあまり違いがない
と考えられそうだ、と。


しかしながら、現実には明らかに『上達の上限』、つまり到達点には
大きな個人差があるように見えます。

そのメインの理由は、前述の『コツ』でしょう。
その分野で求められる技術を細分化して、必須の要素として見つけ、
その要素を習得するための方法を編み出せるか。

これについては先にも述べたとおり、「モデリング」が有効です。
そして今回の講座はモデリングではありません。

上達の上限に個人差がある、もう1つの重要な理由。
より本質的な理由です。

それは『楽しめるか』です。

言い方を変えると、「モチベーション」とか「ヤル気」とか、
「好きかどうか」とか「喜びを感じられるか」とか、そんな感じ。

それによって、費やせる労力が異なります。

時間だけでなく、集中力にも差が出る。
全身全霊でトレーニングに集中し、そのうえで
一日の大部分をトレーニングに費やして毎日を過ごす人と、
気が向いたときにチョットだけトレーニングする人とでは
上達の程度に差があるのも当然のことでしょう。

イチローは言うまでもなく、幼いころから時間としても気持ちとしても
その大部分を野球に注いできているはずです。

この部分の『才能』が、上達のスピードや、パフォーマンスに大きく影響します。

今回の講座では、自分の内側にある『楽しみ方』という才能を掘り下げます。

ただの好き嫌いではありません。
楽しかったことを色々と探るのも役立ちますが
『楽しさ』や『喜び』の中心部分を明確にします。


色々と人を観察してきたところ、どうやら人には
喜びの感じ方にパターンがあるようなんです。

ある意味「元型」のようなものでしょうか。

誰しもが持っている「喜び」、「楽しさ」の種類。

例えば、「物事の関連性を見出す」のが楽しい、とか。
「大勢の一部として溶け込む」のが楽しい、とか。
「人の感情の動きに触れる」のが嬉しい、とか。
「予定した通りに物事が進む」のが嬉しい、とか。

何をするのが楽しいか、何をするときに喜びがあるか、ではありません。

その行為の中に「何を見出して喜びを感じているか」です。

こうした『〜する喜び』を洗い出す作業をします。

おそらくこの「喜びの元型」には種類があって、
人それぞれ、どれかが表に出やすく、程度の違いを生んでいるのでしょう。

そして本質的には持っているはずの「喜び方」を
あまり活かせずにいる分野があるものです。

自分のケースでいえば、例えば
「特徴ごとに整理されている喜び」というのがあって、
これが勉強したことを記憶しやすくしたり
思い出しやすくしたりするのに役立っていますが、
この喜びは、部屋の中を片づけるときには働いていません。

引っ越し直後や、大掃除で物を入れ替えたりするときには
関連性や使いやすさごとに整理して満足感を得ているものの、
毎日コツコツと整理整頓をするような形では使えていないんです。
だから割と散らかりやすい。

仮に、部屋の整理整頓をすることを目標としたとすると
この「特徴ごとに整理されている喜び」を部屋の中で感じられるようにしたら
きっと今よりも整理された部屋になるだろうと考えられます。

ここでは身近な例を挙げましたが、
もっと大きな目標に対してでも、同じことが言えます。

自分の中にある「喜びの型」を明確にして
それを場面によって使い分けるように工夫ができれば、
今まで苦手だと思っていたことを『楽しんで』できるようになります。

人前で話すのが苦手なんていうのも、
「喜びの型」を使い分ければ、喜びとともにできるようになるんです。

つまり、
 「何かを楽しんでやる」という『才能』を引っぱり出し、
 その才能を苦手分野で発揮できるようにしよう
というのが
この講座のテーマだということです。


自分はどういうことを喜べるのか?

喜べなければ、やりようがありません。
喜びの源泉が分かっていれば、やりたいことが沸き上がってきます。

何かをすると設定しておく必要もないのかもしれません。

その瞬間に喜びを感じられるものが
自分の内側から沸き上がってきます。

それを自覚しながら、そのことをする喜びを味わえる。

具体的な目標設定とは違いますが、
一年を過ごす上での確固たる指針になるのではないかと思います。

ご参加の方同士で、喜びのタイプの違いを知れるのもまた
有意義な機会になることでしょう。

本質的な取り組みになるものと期待しています。
自分と共に過ごす時間を満喫してください。



※ 内面と向き合う実習を行います。
 
 NLPや心理療法などの経験があるほうが取り組みやすいと思います。
 
 ご不安な点、ご不明な点などがありましたら、
 申し込みフォームの「ご意見・ご要望など」欄にご記入ください。

 おってお返事させていただきます。



◆録音/録画に関しまして

 講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
 記録いただいても構いませんが、あくまで
 個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

 ※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
  十分にご配慮ください。






【セミナーの詳細】

≪コミュニケーション講座 〜才能を磨く〜≫

【日時】  1月25日(日)
       10:00〜16:30


       ※開始時間にご注意ください 
       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 301集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

考えてみると、「関心があるかどうか」は
誰かがコントロールできる範疇ではないものなんでしょう。

同じときに同じイベントに遭遇したとして、それ以来
そのことに興味を持つようになるか、
何事もなかったかのように過ぎ去っていくか、
その違いには大きな個人差があります。

自分の過去を思い返せば、
よく分からないけれども生物や化学が好きだったものです。

小学校のとき、皆と同じように月の観測をしました。
秋のある日、友達と一緒に夜更かしをしながら
1時間に一度、月の方向と角度を測って記録したのを覚えています。

その日は楽しかったけれど、それは
観測待ちの時間に皆でファミコンをしたのが楽しかったり
普段はできない夜更かしをしたり、夜中にカップ麺を食べたりする
特別なイベントとして楽しかったのであって、
月の動きに興味があったからではありませんでした。

それよりも顕微鏡でミカヅキモを観察したり、
タマネギの細胞をスケッチしたりするほうが楽しかった。

リトマス紙で色が変わるのが面白く、
二種類の金属板をレモン汁につけて電池を作るほうに心が躍りました。

水だけが固体よりも液体のほうが密度が大きいために、氷は水に浮いて、
だからこそ氷は水面から厚みを増すように作られていく。
そのため氷河期でも海底は凍らずに、生物は生き残った。

それには水の結晶構造と水分子の形が関係していて、
水分子が作る水素結合こそが、もっとも身近で、しかも特殊な現象であり
それによって生命活動が可能になっている。

「うおー、水ってなんてスゴイんだ!」

…そんな感動を覚えた理由を説明することができません。

なぜ、天体の動きに興味をもって天文学を勉強するのではなく
生物を支える構成物に興味をもって生化学を勉強したのか。

毎日のように夜空を見上げ、月とオリオン座を確認しているのに
天文学や宇宙物理に興味をもたなかった理由は何なのか?

あんなにも大腸菌の遺伝子をたくさん覚えたのに
12星座すら言えないのは何故なのか?

「好きになる」、「興味をもつ」、「関心が向く」。
これこそが何よりの『才能』なのかもしれません。


興味がないことを、興味が持てるようにするというのは
とてつもなく難しいことのように思えます。

コミュニケーションに興味を持つ人の中には
人間関係で苦い思いをしたという体験がキッカケとなった人がいます。

しかし、同じような体験をしていても、そんなことは意に介さず
苦手だからと割り切って生活をしている人も大勢いるわけです。

「あの経験があったからコミュニケーションに興味をもった」
のように理由を説明すると
あたかも必然であったかのように感じられるかもしれませんが、
実際には『関心を持てるだけの何か』があったからこそ
その体験をキッカケとして関心が高まった、といえるはずです。

そのことをキッカケとして関心を持ち始めるだけの『才能』があった、と。

そして、興味があって「やりたい」と思っているはずなのに
「なぜか今ひとつ上手くいかない、気持ちが乗らない」
ということがあるとしたら、それは
 才能の発揮の仕方にアンバランスなところがある
と考えられます。

「この種の喜びを味わいたい」という想いが整理しきれていないために
才能同士がぶつかり合っているような状態です。

皆が協力しあって、足並みをそろえて1つの方向に進めば
もっとスムーズにことが運ぶところを、
色々な才能が別の方向に進もうとして空回りしている。

であれば、自分の内側を吟味して、整理しなおして
全体が協力し合えるように取り組めばいいんです。

誰から頼まれたわけでもなく、
誰から強制されることもできない
 「興味がある」、「関心が向く」、「好きになる」
という状態。

その自分ならではの『才能』を存分に発揮するとき
そこには「喜び」が溢れます。

目標を達成できるかどうかは分かりませんし
幸せになれるかどうかも分かりません。

ただ「喜び」は増すと思われます。

それこそが、ここでいう『才能を活かす』という意味かもしれません。

せっかくの才能ですから存分に発揮されてはいかがでしょうか。

cozyharada at 23:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!セミナー情報 | NLP
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

近日公表

《コミュニケーション講座》
〜言語表現力トレーニング〜


【日時】 2017年6月25日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


概要はこちら>>
次回開催は8月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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