2015年02月

2015年02月28日

発声の教え方

インターネットを使っていると、勝手に広告が表示されます。
僕が訪ねたサイトの履歴とかを参考に提示するんでしょう。

もちろん心理系やカウンセリング、コーチングなどの広告が多く、
そのほかにも英会話スクールや英語教材なんかも良く見かけます。

そしてなぜか最近、発声のトレーニング教材の広告も表示されました。

歌を歌うことが前提になった発声トレーニングのようなんですが、
広い音域で歌えるようにするための練習法の教材のようでした。

その広告のために、その発声トレーニング理論の開発者(おじさん)が
理論の解説をしている動画にもリンクが貼られていたんです。


試しに…と思って見てみると、
この解説動画の理論的な説明がなんとも分かりやすい。
理屈としてシッカリしている感じでした。

主に発声のための筋トレのようなニュアンスが含まれていて
日々のトレーニングを通じて、発声法そのものを上達させつつ
必要な筋肉も鍛えようということのようです。

主に「表声」、「裏声」、「ミックスボイス」の使い分けをするみたいなんですが
ここの解説がスッキリしていたんです。

人間の声帯を調節する筋肉は二通りあって、
声帯を引き伸ばす輪状甲状筋と
声門を閉じる閉鎖筋グループとで
別々にコントロールされている。

一般的な表声のときには主に閉鎖筋グループが収縮して
輪状甲状筋はリラックスしているのに対し、
裏声になると輪状甲状筋を優先に収縮させることになるんだそうです。

で、この2つの筋肉を両方同時に収縮させると
表声と裏声が混ざった感じの声になって
これをミックスボイスと呼ぶらしいんです。

表声の筋肉を使う度合いと、裏声の筋肉を使う度合いを調節して
表声を裏声を混ぜ合わせていく感じにして、
裏声ではない声で高音を出せるようにする、と。

色に喩えるなら、二色を一気に切り替える感じが
「表声で高音が出せなくなったら、そこから急に裏声に切り替える」
ようなもので、
二色をバランスよく混ぜ合わせてグラデーションを作る感じが
「表声から切れ目なく自然と高音を出し続ける」
ようなものなんだとか。

またトレーニング法に関しては、
 大部分の人が輪状甲状筋(裏声用の筋肉)をあまり使っていない
という前提に立って
 あえて裏声を中心に発声練習をする
手法をとっているとのことでした。

よくやるような低音から高音に向かって徐々に音階を上げていく方法ではない
というトレーニング方法の独自性についても、
ちゃんと必然性を説明してくれていたわけです。


ということで、「おっ、これは理にかなった方法のようだ」と感じた僕は
引き続き、その動画のシリーズを色々と見てみることにしました。

その中の1つに、デモレッスンの模様が含まれていたんです。

開発者の先生が実際にピアノの前に座って、一部は教材も使いながら
「教材を使ってこのような練習をしてください」という感じの動画です。

動画には、一人のモデルにトレーニング内容の発声をやってもらい、
それに対して先生がコメントをして指導をするところまで含まれていました。

「今のはこういう感じだから、もっとこういう風にやってください」と指示を出す。

おそらく、教材を元に練習するだけでは、
自分が上手くトレーニングできているか不明瞭になるため
「こういうポイントを注意しながらやってみましょう」という趣旨で
解説動画を追加していたんだろうと思われます。

しかしながら残念なことに、その先生の指示のコメントが
デモに協力している人に伝わらないんです。

確かに先生の見本は分かりやすい。
モデルの人の真似もやって、
「こうなってしまっているから、もっとこんな感じで」
と見本となるパターンも見せてくれます。

そこはハッキリと違いが分かります。

でも言葉の選び方として、デモの協力者には伝わらない。
なかなか改善されていかないんです。

良くなっていくときは指示内容が明確に伝わった結果というよりも、
モデルの人が半ばランダムな試行錯誤をやってみて
たまたま上手くいったときに先生からOKの合図が出る
といった形になっているようでした。

理論の説明は明確で、トレーニング法もキッチリと理論に基づいていて
おそらくそれで効果も出るらしい。
しかも先生の見本は、良い例と悪い例を区別して見せてくれる。

…ただ、
マンツーマンの指導の際のコメントは伝わりにくかったみたいです。

きっとそのマンツーマン指導で指示内容を理解できる人もいるんでしょう。
それは相性の問題です。


先生あるいはトレーニング法の開発者という立場は
 自分の中にあるものをアウトプットして他者に伝える
という自分主体のコミュニケーションをしているといえます。

一方、マンツーマンの指導で生徒に伝わる言葉で表現するのは
 目の前の相手を理解して、その人に合わせる
他者を中心としたコミュニケーション。

「発声」という現象を本人の中で理解して、それを理論化し
さらにトレーニング法に発展させて、理にかなった説明をする。
ここには他者が介在しません。
アウトプットの受け取り手として対象とされているのは不特定多数でしょう。

それに対してマンツーマンの指導では
 目の前の人の発声を見て、何が起きているかを分析し、
 「その人が内面として何を心がけてやっているのか?」を想像する
というプロセスが求められます。

ただの客観的な理解ではなく、相手の主観的な体験を感じとる必要がある。

そこを元にして、相手が納得しやすそうな説明の仕方を選ぶわけです。

目の前にいる特定された人物に注目するということです。
自分の理論に注目するのとは違うんです。

別にマンツーマンの指導が伝わりにくいのが問題だという話ではありません。
「教える」という行為は、大きく分けると2つの要素を含んでいる。
そこがポイントです。

この発声トレーニングの開発者は
自分の中の理論を整理してアウトプットするのが得意なんでしょう。
そちら側が優位だということです。

もしかしたら、実際のマンツーマンレッスンを担当するのは
その先生の弟子で、相手に合わせた説明が得意な人かもしれません。

教え方にも強みが分かれている。

トレーニング法の説明が分かりやすかっただけに
教え方の強みの違いが際立って見えたんだと思われます。

自分が培ってきたものをアウトプットする際には
このあたりの強みの違いを気にしてみるのも役に立つのではないでしょうか。

2015年02月27日

ちょっとズームアウト

僕の関心は細かいほうに向く傾向があります。
分解して理解していく方向性ともいえるかもしれません。

人の身体であれば、1つの人体から器官、組織、細胞、分子、電子…
という感じにズームインしながら捉える。
人の心であっても、プログラムという着眼点で捉えると
どこまでズームインしていくかを調整しながら理解しやすいんです。

そして、どの段階までズームインするかによって
「何の相互作用を理解するか」が異なってきます。

例えば、筋肉の骨格の相互作用から運動を見るのと
1つの筋肉にどのような神経伝達があって筋肉が収縮するのかと
筋肉を収縮させるアクチンとミオシンの分子レベルでの反応の仕方と
そのときの電気化学的エネルギーの収支と…
のように、それぞれのレベルで注目するものがあるわけです。

より細かいレベルの相互作用が集まって
それより大きな単位での働きを生み出しますが、
細かい仕組みだけを元にして全体を予測できるほど
現代のサイエンスは現象を深く理解できてはいません。

そして細かいものを無数に組み合わせて全体をシミュレーションするとしたら
今度は計算のほうで無理がかかってしまいます。

ですから、ある程度の要因は「大きな影響を及ぼさないだろう」として
目をつぶってしまって、それよりも大きな範囲(大まかなレベル)で考えるんです。

しかしながら、この細かい違いが全体に大きな影響を及ぼすこともあります。

つまり、大まかな範囲で理解しながらも、
細かいレベルで重要になりそうなものは考慮に入れておく
というのが、どのぐらい的確に物事を理解できているかを左右するといえます。

例えば、前述の筋肉であれば、収縮に使われるエネルギーと
エネルギー供給のための細胞レベルでの呼吸反応、
それから分子レベルでの反応と熱力学ぐらいは
異なるレベルの話ですが、まとめて視野に入れながら理解したい範囲に思えます。
そうすると、運動と疲労とコリの関係などもイメージしやすいだろう、と。


こうした発想に至ったのには、生化学をやっていた影響もありそうですが、
逆に考えると、こういう発想をしやすい傾向があったから生化学が好きになった
という風にも解釈できそうです。

振り返っても、どっちが先かは分かりません。
まあ、そういう発想の仕方がベースになっているという話です。

で、僕の関心の対象は「人間一人をズームインしていく」ほうに向きやすく、
そこから拡大しても、一人の人の周りの状況ぐらいまででした。

ある人が何かしらの反応パターンを持っているとしたら、
そのパターンが生まれるだけの環境要因があっただろう、と考えられますから
その人に影響を与えた周りの人間関係や出来事ぐらいまでは
自然と僕の頭の中で想像がめぐらされる範疇なんです。

言い換えると、「人の顔が認識できるぐらい」までの範囲。
集団として見るのは、あまり得意ではないみたいです。

細胞が集まって1つの器官を作ることについては
ただのズームインの度合いの違いとして両方に関心が向きますが、
人が集まって1つのグループを作るといった場合には
その1つのグループを「まとまった機能」として捉えにくいんです。

例えば、大阪生まれの人たちが集まったとしても
「大阪人」というグループとしては捉えられません。

大阪生まれの人たちに共通する性質について注目することはできても
その集団を一まとめにして考えるのに抵抗があるようです。
個人差があるじゃないか、と思ってしまう。

ですから、大阪に住んでいる人たち=「大阪府民」を一まとめにして
そのグループの生活を快適にするための手段やルールを考えたりするのは
僕にとって、なかなか興味が持てない範囲なんです。

どうしても「この仕組みにしたら、こういう人たちは苦しいんじゃないか」とか
一人一人の都合を考えたくなってしまって、妥協したくなくなってしまいます。

まったくもって政治家向きではないんでしょう。

また、経済のように大きな範囲でのお金の動きを理解しようとするのも
僕にとっては興味を持てない分野です。
これも扱うサイズが大き過ぎてリアリティを感じられないんです。

どうも「人の顔が認識できる範囲まで」という制約があるみたいです。


ところが、最近になって少し「顔の分からない集団単位での相互作用」にも
やっと関心が向くようになってきました。

歴史と文化です。

環境要因として個人のプログラムに影響を与えるもの。

歴史的なイベントは顔の見えない範囲でのものでしょうが
全体の流れとして多くの人々に共通の影響を与えているところがあるはずです。
そのことの重要性を実感してきたんです。

育ってきた国が違えば、通過してきた歴史が違います。

僕が歴史の授業が好きじゃなかったことを差し引いても
日本で育ってベトナム戦争をリアルな出来事として認識した人は少ない気がします。

僕がハリウッド映画で戦争ものを見るのと
アメリカ人が同じ映画を見るのとでは、受け取るものが大きく違うみたいです。

歴史的に大きな出来事がマスメディアを通じた情報伝達や教育によって
ある集団に共通したバックグラウンドを作り出すと考えられます。
そして積み重なるうちに文化に取り込まれていく。

そのように集団で共有されたものが、
その集団のメンバーがそれぞれプログラムを作っていく過程に大きく関わります。

目の前にいる、顔が見える範囲の一個人が
僕とは違うバックグラウンドで育ってきていたとしたら
こちらからでは理解どころか想像もできないことが多すぎます。

少しでも理解に近づけるように、
歴史や文化についても知りたい気持ちが高まってきたみたいです。

自分とは違ったバックグラウンドの人たちを一まとめにして捉えて
その集団との関わり方を考えるような外交活動は僕の関心の範囲外ですが、
実際に関わることになった一人の人とより深く交流できるように
歴史や文化についても知っておきたいとは感じるんです。

やがては、そうしたバックグラウンドの違いを徹底的に差し引いていった先に
全ての人に共通する本質的なものが見えてくるかもしれません。

どんなバックグラウンドの人にでも大事なことが見つかるんじゃないか、と。

バックグラウンドの違いを超えて効果的に関わる方法のヒントを掴むにも
まずはバックグラウンドそのものにも注目してみたいと思っているところです。

2015年02月24日

心のぶつかりあい

DVDで『猿の惑星:新世紀(ライジング)』を見ました。



素直に面白さを求めるなら、
このリニューアルシリーズの第一作・『創世記(ジェネシス)』とか
あるいはオリジナルのシリーズのほうが素直かもしれません。

ですが、この作品は見ごたえがあります。
色々と考えさせられたり、感じるところがあるんです。

舞台設定としては、地球が猿の惑星になる前のころ。
『創世記』では、どのようにして地球が猿の惑星となっていったかを
人間並みの知性を持つようになる一匹目の猿を中心に描いています。

ある一匹の実験用の猿が新薬の治験に使われて
それから知性を持つようになり、人間の元にいる猿たちを助け
その猿軍団を指揮する…ぐらいまでの話だったと思います。

一方、こちらの『新世紀』では、そこから10年後の世界が舞台です。

反乱を起こした猿たちは山へ入っていき、そこで集落を作っています。
人間のほうは、ウイルスだかのせいで大部分が死んでしまっている。
免疫があって生き残った人たちが集まって集落を作り、
手に入る燃料を使って、かろうじて文明を維持しながら生活している状況です。

そんな舞台で、別々の環境で生活していたはずの人間と猿が出会うんです。

その遭遇には、人間側に明確な目的がありました。
その集落の人たちが電気を使った文明生活を営むためには
猿の集団が住む山に入っていって、エネルギーの開発をしなくてはならない。

しかし、猿の集団としては人間と関わるのを避けて
独立した安心な生活を期待するところがあります。

そこで人間と猿の「関係性」が動き始めるんです。

ストーリーの大部分は、この猿と人間の「関わり」です。
「対立」や「戦闘」がメインなのではありません。

複雑な「関わり」が幾重にも進行していきます。


人間の側には猿と共存したいと考える人たちがいます。
猿と生活を尊重して、話し合いの相手として交渉をしたい、と。

中には猿を動物だというだけの理由で軽んじる人もいます。
そんな猿の集団なんて全滅させてしまえばいい、という人たち。

あるいは人間のグループの存続のために、皆のことを思って
甘いことは言っていられないと考える人もいます。

猿という自分たちとは違う存在に対して、それだけで恐怖を感じ
怖れから猿を攻撃しようとする人たちもいます。

もちろん、大部分の人たちは自分たちの安全が脅かされつつあるのを知り
混乱し、全体のムードに巻き込まれ、主流派の意見に傾いていきます。


猿のグループに目を向けても、そこには多様な考えがあります。

人間に対して好意的なのもいれば、
過去に実験動物にされていたことで人間を恨んでいるのもいる。
自分の家族を人間に襲われたと仕返しをしたいのもいる。

猿の中にも親子間の葛藤があったり、
組織化された集団における立場の争いがあったりもします。


信頼と不信。
平穏と抗争。
好意と憎しみ。
愛と不安。
…そうした様々な心の動きが対極的に描かれながら、
様々な想いをもった人間と猿が複雑に関わりあうんです。

しかし根底にあるのは、それぞれの個体が考える
「良かれと思って」の想い。

みんな自分の考える「正しさ」のために動き、
それが交錯し、ときに不慮の衝突を起こし、
状況をややこしい方向へと徐々に進めていきます。

とても自然な心の動きが、人間と猿の間の摩擦を強めていき、
同時に人間のグループ内、猿のグループ内でも軋轢を生んでいくんです。

それはまさに今の世界の縮図のようでした。
そしてまた、一人の心の中で起きている葛藤のようでもある。

とても考えさせられる内容であって、同時にそれが無理のないことに見え、
「良かれと思って」の行動が調和していない状況の切なさが感じられます。

その中で、猿を信じている一部の人間と
人間を信じようとする一部の猿とが関わっているときに、
生まれたての子猿だけが、人間と猿を区別することなく
ただ無邪気に人間へ関心を向けて、近づいていくシーンがあります。

平和というのは、このようにしてもたらされるのだろう
と思わせるような場面でした。


こうした人間社会の縮図のような切ない世界を見たことが
僕にとって『猿の惑星:新世紀』で最も印象に残っているところです。

考え方は、どのように育ってきたかで決まるところが大きいものです。
お互いの背景の違いが、考えの違いを生み出します。

そして背景が異なっている以上、
相手の考えを理解することは不可能なんでしょう。

そこに起きがちなのは、自分の考え方に基づいた勝手な期待。

考えの交換を求めて交流したところで
頭で理解し合って全てを調和させることは困難なのかもしれません。

しかし、人間でも猿でも、
(知性を持った猿なので人間と同じような感情的反応を示します)
…人間社会の中で見たとしたら、どんな人間であっても…
感情そのものは共通するところが多いようです。

感情を中心に向き合っていけば、
相手の背景や考え方を理解したり受け入れたりすることはできなくても、
ただその相手の感情だけを共感することは可能ではないでしょうか。

感情を中心としてコミュニケーションをしていく。
それこそが「分かりあう」ための手段なのかもしれません。

2015年02月22日

演歌の心とカウンセリング

先日、テレビ番組で演歌歌手・八代亜紀が話していました。

「演歌を歌うときには感情を込めない」と。

感情を込めてしまうと、歌は歌手その人のものになってしまう。
感情を込めずに曲の世界観だけを伝えるから、
聞いている人がそこに自分を投影して感動できる。

そんな趣旨の説明でした。

だから少し微笑むような感じで歌うんだそうです。
本人は「楽しく」という言葉を使っていましたが、表情から察するに
「良かったね」という慈しみの感じが近そうに見えました。

もちろん、歌手の中には感情を込めて歌う人もいるそうです。
それを聞いて感動する人もいるはずです。

しかしそれはコミュニケーションに喩えるなら、
自分の辛かった体験談を泣きながら語るスピーチのようなもの。

あるいは悲しいエピソードの映画を見て
「泣きました!」と言っているのに近いといえます。

聴衆・観衆はその強い感情に巻き込まれて心を動かされます。
そこには同情的な感動や、自分では体験しないフィクションの出来事を
頭の中で仮想体験して感情に浸るというプロセスが起きているのでしょう。

一方、演歌(少なくとも八代亜紀の場合)では
聞いている人が自分自身のこととして受け取れるだけの余白を残す。

「歌っている私の気持ちではないんです。
 あなたはこんな気持ちなんでしょう。」
といった感じでしょうか。

実際、番組中に八代亜紀は二種類の非言語メッセージで
「つらかったね」を言い分けていました。

1つは感情を込めた「つらかったね」。
自分でも辛そうな顔をして、泣きそうな声になりながら
「…つらかったね・・・」と。

もう1つは感情を込めないほう。
優しく微笑みを浮かべながら、暖かい目と穏やかな声で
「つらかったねえ…」と、いたわるような語りかけでした。

2つ目のほうの非言語メッセージには、なんだか
「それは、つらかったろう(でも、もう大丈夫だよ)」
といった奥行きがあるようにも感じられました。

演歌はそうやって歌うんだ、という話でした。
それによって聞いている人が自分の心と向き合って
自分のこととして感動することができるようです。


ここにカウンセリングとの共通点があるんです。

カウンセリングの意図を、クライアントの気持ちが楽になる方向性とすれば
クライアントが「ああ、分かってもらえた」と感じられることが重要になります。

クライアントの「分かってもらえた」が大事なんです。
カウンセラーの「分かります!」は大事じゃないんです。

日常会話であれば、誰かの悩みや不満を聞いたとき
「あー、それ!分かる分かる!それムカつくよねー」
「でしょー?本ッ当に嫌なのよー、もうー」
というコミュニケーションも役に立つかもしれません。

不満を通じてお互いの共通点を見出し「分かりあえた」体験があると思います。
お互いに分かりあえて安心するところもあることでしょう。

ですが、一般的にカウンセリングに来る人の期待は
「分かりあう」ことではないものです。

「分かって欲しい」んです。

カウンセラー側が「分かる、分かる!」というのは
カウンセラー自身が持っている不満と同じものを持った人を見つけて
「分かりあえた」と感じるイーブン(対等)な関わりです。

クライアントとカウンセラーの双方に
「分かってくれる人がいた」という認識が生まれ、
「分かりあえた」という実感になるのかもしれませんが、
それだと『半分ずつ』になってしまいます。

別にそういうカウンセラーがいたって
そのことで不満を述べるクライアントは少ないものです。
悩んでいたって大人ですから、カウンセラーとはいえども
自分の期待通りの対応をしてくれるとは限らないのは想定内でもある。

50%ずつであっても「分かってもらえた」気分は体験できます。
だから、まぁそれで良しとする。

それでも多くのクライアントが心の奥底で期待しているのは
自分を「分かってもらえる」ことであって、
100%自分のために関わってくれることではないでしょうか。

カウンセラーと「分かりあう」ことで
50%ずつの「分かってもらう」をシェアするのではなく。

100%の自分を「分かってもらえた」という体験こそを
望んでいるのではないか、と。

また、日常会話の場合には
「あー、それ分かる!実は私もこの間…」
などと話を自分のほうに持っていく場合がありますが、
カウンセラーがそんなことをしたら、さすがにクライアントも不満だと思います。

それと似ているのが、カウンセラー側がクライアントの話を聞いて
辛くなって泣いてしまうようなケース。

泣きたいのはクライアントなんです。
それでも耐えてきて、頑張って相談にやってきたんです。
そこでカウンセラーのほうが泣いてしまっては
気持ちを表現する機会をカウンセラー側に取られてしまったようなもの。

こうなってはクライアントの気持ちへの焦点は0%になってしまいます。


歌手が感情を込めながら歌うのは、
カウンセラーがクライアントの話を聞いて泣いてしまうのに似ています。

念のために繰り返しておくと、表現者が感情を込めるのは1つのスタイルです。
それをそうやって表現したいのであれば本人の好みですし、
またそういう表現を受け取りたい人たちもいるものです。

ただし、歌手などの表現者が、自分を主役としても受け入れられるのに対し、
カウンセラーが自分を主役としてしまうのは一般的に受け入れられません。
多くのクライアントは、自分が主役として話を聞いてもらうことを
期待しながら相談にやってくるからです。

だからカウンセラーが自分の感情を込めてクライアントに接するのは
クライアントが主役の度合いを下げてしまうため、望まれないわけです。

クライアントの話を聞いて泣いてしまっては
カウンセラーの側の感情が主役の座に入れ替わってしまいかねません。

(どうしても聞いていることさえ苦しいのであれば、
 「すみません。あまりにも大変な状況のお話をうかがっていて
  聞いているだけでも辛くなってきてしまいました。」
 といったフレーズに変えることで
 主役をクライアントに戻すことはできます。技術的には。)

クライアントにとって大切なのは
自分を100%の主役として扱ってもらうこと、
そして
自分の気持ちを「分かってもらう」こと。

ここがまさに演歌の「感情を込めずに歌う」と共通する部分です。

演歌の歌詞の世界が、聞いている人にとって自分のことだと感じられて、
そこで語られている想いが自分の気持ちを代弁してくれていると思える。
だから心に響く。

同様に、
カウンセラーの言葉がけにもカウンセラー自身の感情は載せず、
内容としては相手の気持ちを代弁するんです。

「辛かったですね」を辛そうには言わない、ということです。

クライアントの辛い気持ちを慈しみながら歓迎するんです。
まさに文字通り「歓迎」です。

「あー、ようこそいらっしゃいました。
 外は寒かったでしょう。
 あらあら、こんなに冷たくなって…。
 ねぇ、ほら、こっちへいらっしゃい。
 ここのストーブの前は暖かいですよ。
 今から食事を用意しますからね。
 たいしたものをお出しできなくて残念ですけど
 せめてお腹いっぱい召し上がってくださいね。
 じゃあ、このスープでも飲みながら待っていてください。
 体の内側から温まりますよ。」
…ぐらいの感じで歓迎するんです。

そういう感じで辛かった気持ちを受け入れる。
そこから出てくる「辛かったですね」には、
辛そうな感情が込められていません。

まさにテレビ番組で八代亜紀が言っていた
優しい雰囲気の「つらかったねえ」の感じ。

そうやって感情を込めずに歌った演歌が
苦しんでいる人にグッとくるのと同様に、
カウンセラーが自分の辛さを横に置いて語りかけたメッセージが
苦しんでいるクライアントの心に届く。

演歌の心はカウンセラーに近いんだと感じました。


カウンセラーが辛くなってしまったら、主役が入れ替わってしまいます。
痛いのはクライアントなのに。

クライアントとカウンセラーが一緒に辛くなったら、
「分かりあう」ことはできますが、100%の主役ではありません。
お互いが辛い気持ちなのだから、余裕もありません。
二人して痛がっていて、落ち着くのには時間がかかります。

ところが、クライアントの辛さをカウンセラーが歓迎しながら
カウンセラー自身の辛い気持ちを横へ置いておくと、
クライアントを主役としつつ、辛さが緩むだけの余裕を作り出せます。
クライアントには「分かってもらえた」という安心感が生まれます。

つまり、クライアントの「分かってもらえた」という実感は
くれぐれも「内容が伝わった」という意味合いではない、ということです。

自分の気持ちを分かった上で、それを受け入れてくれた。
…そういう状態になると、
クライアントは自分の辛さをカウンセラーに『預けられる』んです。

そこで負担が減る。
気持ちが緩む。
心が楽になる。

そして、眠っていた前に進む力に気づけるんです。

演歌を聞いて、明日を生きる力をもらうのと同じように。

2015年02月20日

遠慮のかたまり

最近になって思い出したんですが、
僕は小学校の2,3年生ぐらいから
長いこと遠慮をし続けていました。

小学校の一年生ぐらいのときは奔放で
周りを気にすることなく過ごしていたものです。

でも小学校2年生あたりから少しずつ
空気を読むようになっていきました。

一年生の頃は、授業中も発言しまくっていましたし
学級会などでも議長として場をコントロールしていた覚えがあります。

それがやがて場の空気を読むことを覚えていったんです。

僕が授業中に答えてしまったら、同級生の答える時間がない。
分かっているからといって、何でも発言していいわけではない。
誰も答えられず、先生の顔が困り出したころにだけ答えるようになりました。

また、たしか一年生の頃だったかと思いますが、授業参観日に
親と一緒に学校内の展示物を見て回る時間があったんです。
教室や廊下などに児童の絵や工作などが並んでいて、
それを見て回るという時間。

そのとき学年でも絵が上手いと評判だった子の描いた運動会の絵を見て
徒競走をする子供の右手と右足が同時に前に出ていることに気づき
「お母さん、これ手と足が一緒だね」
と言って、母から
「そういうことは言うもんじゃありません!」
と怒られたのも記憶に鮮明です。

思ったことは何でも口に出していいものではない
ということを、様々な経験を通じて学んでいった時期だったのでしょう。

とりわけ「分かる」、「できる」ということについては
それを隠すようにする必要があるかのように振る舞っていたものです。

そして皆との足並みが揃ってみえるように工夫しながら授業を受ける。

小学校ぐらいですと、勉強だけではなく
生活面で先生から注意されることもあるものですが、
そのときだって僕は皆に合わせていました。

皆が反省して自分で答えを出すまで待つ。
どういう対応をしたら先生の期待した方向に展開するかを読み
タイミングを見て皆にヒントを出すようなことをしてみたり。

皆がドッヂボールをやりたいと授業中に騒いでいるときも
先生の困った顔を見て、全体に巻き込まれずに黙っていたり、
先生の機嫌によっては同級生の側にまぎれたりしていました。

僕の中には先生の側の視点も含めて、
「他の人は今どういう状態で、何を求めているか?」
を察しようとする傾向が強かったようです。

だから遠慮する。
分かっていても、自分の得意なことでも
その場で求められることに合わせて抑えていたんだと思います。


成績については、紙のテストであれば隠す必要がなかったのか
特に家で勉強したりはしていなかったですが、良いほうだったようです。

比べたわけではないので分からないものの、
小学生なのにイミダス(当時流行っていた最新用語の百科事典のような本)を
暇さえあれば読みふけっていたりしていた記憶がありますから、
変な知識とかは多かったのかもしれません。

それでも、いわゆる受験勉強をしたことのなかった僕は
中学入学と同時に通うようになった近所の学習塾で
全然テストの点数が取れないことを思い知りました。

そのため僕の中には「勉強ができる」という自己認識は生まれなかったんです。

それから地道に塾の宿題を繰り返したり、演習問題を解いたりしているうちに
チョットずつ成績が上がっていって、なんとか志望校に合格できました。

ところが、中学校の同級生に勉強のできる子が多く、
同じ学年から国立へ2人、御三家へ1人、早慶に4人進学するという
一般的な公立中学校にしては珍しい年代にいたため、
僕は決して勉強が得意という認識を持たなかったんです。

同じクラスに、全国模試で偏差値90とか全国一位とかばかりを取るのがいれば
それは自分の成績と比較して評価してしまったのも無理はないでしょう。


そして高校に入ったら、同級生は皆、勉強の得意な人たちです。

しかも僕の中学時代の成績は、
ただ塾で出された問題をやるだけで身についた
トレーニングの成果でしかなかったんです。

いわば、義務教育の9年間、自分で勉強したことがなかった。
やらなかった小学生時代と、やらされていただけの中学生時代。
高校に入ったら、今度は自分で勉強をしないといけませんでした。

そこで初めて予習をするようになりました。
…とはいえ英語だけ。

僕の行っていた高校の英語の授業は、ひたすら洋書を読むだけのもの。
予習として単語を調べ、全文を訳して、それで授業中に解説を聞いて
ようやく授業についていけるという感じのもの。

それが週に6日ありますから、基本的に毎日、英語の予習をしていました。

それで勉強していたつもりになっていた僕は
数学や物理、化学、歴史、地理などは
ほとんどノータッチで日々を過ごしていたようなものでした。

テスト直前の2,3週間で全教科をカバーする感じ。

当然、出来が悪い。
最初のテストでは、中学校のときに取ったことのない残念な点数となり
それにひどくショックを受けたのを覚えています。

つまり勉強の仕方を知らなかったんです。

そこから少しずつ、どうすれば定期テストの点数が取れるかを理解していきました。

付属校だったので大学受験を考えなくてよかったので
僕の発想としては基礎力をつけるとかではなく、
ただ良い成績だけを取り続けることが目的となっていました。

そのため、毎日勉強しなくても点数が取れるものは放っておき、
最低限の勉強の量で点数を取るようなコツを掴んだんだと思います。

徐々にクラスの中で成績も上がっていったようですが、
僕よりも成績が優秀らしい人は他にもいましたし
あまり勉強のことを気にせずに過ごしていたので、
ここでもやはり「勉強が得意」という認識には至りませんでした。

もしかしたら成績優秀だった同級生の中には
毎日コツコツと勉強していたのもいたかもしれませんし、
授業中も真面目に取り組んでいた人もいたのかもしれません。

ですが、僕は周りに合わせて浮かないようにするという意図で
他の皆と同じように、真面目に授業を聞かないスタイルを取っていたんです。
先生の似顔絵を机の上に描いている毎日でした。

もし本当に授業が楽しくて、ヤル気があって、遠慮しなかったら
僕はもっと勉強に対して真面目に取り組んでいた可能性もあると思えます。

でも僕は「勉強が得意」なタイプだと思っていなかったこと、
それに加えて「学校で全力を見せてはいけない」と学んでいて
皆に合わせるように毎日を過ごそうとしていたこととがあったために、
『本気を出す』ことをしていなかったようです。

そしてその傾向は大学に入っても続きます。
必要最低限の勉強によってテストで点数を取る。

今にして思い返せば、本当の意味での勉強をしていたとはいえない気がします。


大学四年から研究室に配属され、毎日を研究室で過ごすようになっても
しばらくは本気を見せないスタイルが続きました。

興味のあった生物化学の研究室でしたから
そこでの勉強は楽しかったんです。
初めて積極的に学ぼうとし始めた時期だと思います。

そうしてヤル気になると、僕の好奇心や、知識の関連のさせ方、
そこから生まれるアイデアのあたりは、一気に大きなものとなりました。

一言でいえば、毎日研究室に行くのが楽しかったんです。
勉強するのも、考えるのも、作業をするのも、工夫をするのも、意見交換するのも。

自分の研究テーマや、同じ研究グループのテーマだけに限らず、
研究室のメンバー全員の目的と手法と進捗を理解しようとしていました。
そんなことをしていたのは僕ぐらいだったんだと思い返されます。

また、小学校のころから培ってきた空気を読む能力が役立ちました。
ゼミでディスカッションするとき、相手の知識と視点とを踏まえ、
抜け落ちているところを相手が気づくように質問する。

このあたりの広い興味の範囲と、流れを読んだディスカッションの仕方とで
当時の僕は徐々に皆から認められる存在になっていったようでした。

そして、研究室最後の一年となった修士課程2年生のとき。
僕は10数年ぶりに、学校で本気を出していました。

先輩の大部分が卒業(修了)して、数人の博士課程の先輩がいても
事実上の最上級生として扱われるようになる頃には、
かなり好き勝手に毎日を過ごさせてもらっていたように思います。

思う存分、自分の考えをアウトプットしても
それを受け入れてもらえているような関係性があったんでしょう。

それでも先輩や同級生への気遣いと
後輩への指導の視点は前提だったと思いますが。


この気遣いを含みながらも「思う存分にやれる」という楽しさは
その後しばらくの間続きました。

研究職として過ごした期間でも、やはり気遣いを交えながらも
自分の考えを主張して受け入れてもらえる関係性がありました。

それから、コミュニケーションだとか心理だとかを勉強するようになっても
遠慮せずに取り組める時期があったんです。

それは先生に恵まれていたためだと思います。
素直にインプットさせてもらえる喜びがありましたし、
深く考えた上での質問をしても、その深さに沿った答えを教えてもらえました。

ある意味では、研究者の頃や、コミュニケーションを勉強中だった頃は
素直で謙虚だったのかもしれません。

分からないから聞く。
分からないから可能性を広げようとする。
分からないから自分なりに考えて、その考えに対する意見を求める。

土台に「分からないから」という素直さがあったのではないか、と。
その「分からないから」という気持ちが
素直に「分かりたい」という願望を生み出し、
分かりたいから遠慮なく勉強しようとしたのではないかと思えます。

ですが、いつの頃からか、そうした素直さがなくなったみたいです。


「勉強が得意」だとは思っていなかったからこそ、
「遠慮せずに取り組める」場があったときに
素直さと謙虚さをもって、好きなことを思う存分学べた。

その一方で、思う存分、遠慮なく取り組んだため
段々と理解度が深まっていくことになった。

分からないことを素直に質問できる先生も減っていき、
遠慮せずに取り組める場も減っていったのだろうと思われます。

だから「遠慮せずに思いっきり取り組みたい」という願望が
内面の奥底から沸いていたんじゃないか、と。

でも「遠慮せずに意見を述べる」ということに関しては
もう受け入れられる場がないような気がします。

いや、もうわざわざ主張しなくても良いのかもしれません。

相手に合わせて気を配って関わり方を調整する。

その中に、エキスパート同士として尊敬しあえるような関係があると
心地良くいられるんでしょう。

遠慮を尊敬に、
気遣いを気配りに、
素直さを信頼に…
そんな感じで取り組めたらと良さそうです。

2015年02月18日

最初の癖

何かを学び、身につけるという場合、
初期の学習内容は後々まで残りやすいようです。

だからこそ「基礎が大事」ということなんでしょうし、
最初に誰から教わるかの影響が大きいんでしょう。


先日、そんなことを話していて
そのアメリカ人は長い間ずっと間違えていた英語があったそうです。

英語の代名詞には目的格と呼ばれるものがありますが、
その使い方を知らなかった、と。

目的格とは、「 I 」に対して「 me 」、「 he 」に対して「 him 」のようなもの。

もちろん、目的格の代名詞を単体で使う場合には
ネイティブですから間違えることはないそうです。
例えば、「 Tom and John 」だったら「 them 」になるとか。

しかし、その人は目的格に「 and 」で繋げた表現が含まれるとき
「 and 」の後ろを主格にしてしまう癖があって、「 and I 」としていたそうです。

主語で使われる場合には
「 My brother and I 」の形で使われるわけですが、
目的格になると、例えば「 with my brother and me 」となるのが文法的な正解。

その人は子供の頃から「 with my brother and I 」と言っていた、というんです。

そのことを知ったのは大人になってから。
知り合いに指摘されたと言っていました。
「君の育った環境は田舎の中流階級だろう?」と言われたんだとか。

アメリカでは地域によって経済的な格差があるらしく、
それに伴った教育レベルの差もあるんだそうです。
彼の育った地域には、厳密な英文法を身につけた教師がいなかったため、
先生が使っていたのと同じ表現を、知らないうちに学んでしまっていたらしいです。

その人の小学校の先生は、いつも「 with my brother and I 」のような形で
目的格だということを忘れて話していたとのことでした。

まぁ、日本語においてだって、多くの人が勘違いしていることがありますから
母国語でも文法的に間違った使い方をしているケースは珍しくはないんでしょう。

「的を射た意見」ではなく「的を得た意見」という人がいたり、
「〜せざるを得ない」ではなく「〜せざるおえない」という人がいたり、
「根本的」と「抜本的」の使い方を混同している人がいたり…。

学習の段階で勘違いしたまま通り過ぎてしまうと、
それは無自覚に使われる癖として定着してしまうようです。


僕の知り合いには、高校から大学までアメリカに留学していたとか、
高校から社会人の数年間までをアメリカで過ごすとかいった経歴の人がいます。

当然、英語はペラペラです。

でも、幼いころを海外で生活したケースと違って
英語を母国語として自然に身につけたわけではないんです。

中学ぐらいまでは学校で英語を勉強して、それからアメリカに移住。
英語学習の基礎の部分は、日本の教育に依存していたということです。

ですから発音は完全なネイティブのものとは違う。
流暢ではありますが、どこか日本人のアクセントがあるんです。
そして発音を間違えて覚えている単語などもあります。

そのうちの一人は、僕がカウンセリングのトレーニングを受けた講師ですが、
アメリカで実際に現地の人を相手にカウンセラーをしていた人です。
当然、英語で会話をする上で、不自由を感じることはないそうです。
むしろ、日本語で難しい議論をしたり、文章を書いたりするほうが大変なほど。

その人の大部分の発音も、かなり自然なアメリカ英語だといえます。

にもかかわらず、「 work 」を「ウォーク」と発音する癖がありました。
「 walk 」と「 work 」の区別がつきにくい感じ。

かといって「 r 」の発音が苦手なわけではありません。
もう「 work 」限定なんです。

中学校で習った頃に、あまり発音を意識せずに覚えてしまったのか、
スペルを覚えるのに「 or 」を「オー」と読んだほうが覚えやすかったのか、
間違えて「ウォーク」と発音しても先生に直されなかったのか、
あるいは中学校の英語の先生まで「ウォーク」と言っていたのか…。

真相は分かりませんが、とにかく中学校で英語の初歩段階として勉強した時期に
勘違いして覚えてしまったものが、訂正されないままに進んでしまったんでしょう。

高校や大学で習うような単語のほうが、逆に英語の発音の環境の中にいたため
大きな勘違いをすることなく、自然と身につけられたのかもしれません。


僕も発音のトレーニングとして意識を向けたとき、
中学校の頃に習った簡単な単語のほうが
発音を勘違いして覚えてしまっているものが多いことに気づきました。

むしろ「適当に覚えてしまっていたということさえ忘れていた」感じです。

大人になってから学習するほうが、様々なことを意識にあげながら
間違いを修正しつつ取り組んでいきやすいようです。

自分の行動に対して客観的に注意できる能力も上がっていますし、
大人になってから学習するものの方がモチベーションも高いことが多いものです。
丁寧に学習を進めやすい土台が整っているわけです。

それに比べると子供の頃の学習のほうが
慎重に正確にやろうという動機もなければ(むしろ「やらされている」場合も)、
何を心がけて取り組めばいいのかも曖昧になっている。

子供の頃の学習ほど、「なんとなく」やってしまっているんです。

そして「なんとなく」身につけてしまっている。

厄介なのは、その「なんとなく」身につけたものが
後々大人になってからトラブルを引き起こす場合があるところです。

そのうえ、子どもの頃に「なんとなく」身につけてしまったものほど
「癖」になっていて、大人になってから修正するのが大変な傾向にあります。

それはもちろん、大人になってからの学習でも同じです。

子供の頃よりは注意深く学習を進めることがしやすくはなっていますが、
注意深くやらなければ、「なんとなく」のまま癖を学んでしまいます。

基礎の段階ほど、その「なんとなく」が定着しやすく
後々まで影響を及ぼしやすい。

いかに最初のうちが重要かということです。

cozyharada at 23:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2015年02月16日

イメージと実際のギャップ

今年に入ってから、英語の発音を見直しています。
ちょっとトレーニングでもしてみようか、と。

意外とできていたこともありますし、
もっと強調しなければいけなかったこともあります。

できているつもりだったけれど程度が弱くて
会話の中では曖昧にしてしまっていた部分にも気づきました。

そして根本的に勘違いしていたものも。


何よりも厄介なのは、頭の中で思い浮かべる音(英単語の発音)と
実際に自分が出している音にギャップがあることのようです。

ただし、ギャップはマシな種類のもので、
僕の頭の中では日本語に近い音としてイメージされていて
一方、実際の発音では英語に近い音ととして出ている状態なんです。

ですから、ことさら意識せずに話してしまえば
おそらく発音上で問題視されるとことは少ないようです。

例えば、「O」の発音で、hot 、pot 、robot などの音。
日本語の「オ」と「ア」の中間のような感じでしょうか。
実際にはもっと口を縦に大きく開けますから、日本語にはない音ですが。

この音なんかは、単語の音のイメージとして
僕の頭の中に浮かんでしまうのは「オ」に近いんです。
ですから「 hot 」は「ホット」のような音としてイメージされていて
「 pot 」は「ポット」、「 robot 」は「ロボット」のような感じ。

きっと中学校・高校あたりのときに英単語を覚えようとして
頭の中で「ホット、ホット、ホット…」と繰り返しながらスペルを覚えたせいです。
単語の音のイメージとして「オ」の感じが染みついてしまっています。

その後、大人になってから英語のトレーニングを始めて
リスニングやスピーキングの練習にも力を入れ始めました。

そんなにカタカナ英語で覚えていなかったのもあるかもしれませんが、
それ以上にNLPを通じてモデリング(模倣学習)を心がけていたことと
ネイティブにペーシングすることで自然な英語に影響されやすかったこととで、
僕の英語の発音は少しずつ改善されていったみたいです。

ネイティブスピーカーの真似をするのを繰り返せば、
必要な口の筋肉も鍛えられますし、口や喉、舌の動かし方も身につきやすい。
もう単純にモノマネの範囲です。

見た目としての口の形や、舌の位置などを映像的にイメージして真似しなくても
ネイティブと同じ種類の音が出せているかを声真似していけば、
自動的に口や舌のポジションも近づいてくるんでしょう。

また、日本語でも方言がうつってしまったりするのと同様に
相手とペースがあってくると英語でも自然と音がうつりやすくなるようです。

リズムなどは典型的なところですし、口の奥寄りの部分で音を出す感じとか、
つねに口全体をルーズにしておいて、そこから必要な筋肉を動かす感じとか、
全体的な発声・発話のポイントは、ネイティブに影響を受けることで
少しずつ身についていったのではないかと感じています。

このモデリングとペーシングを通じた発音・発話の上達は、
 周りの人が話すのに影響を受けながら、
 周りと同じ音を真似していって自分でも発音できるようにしていく
という意味で、自然な言語習得のプロセスに似ているといえそうです。

つまり、あるときを境に、僕の英語の発音は
英語圏の子供が英語を母国語として習得していくような感じで
ちょっとずつ修正されていったところがある、ということ。

…もちろん、ネイティブスピーカーではないので
心掛けないといけないことが沢山あるわけですが。

で、話をイメージと音のギャップに戻すと、
僕はこの自然な発音学習のおかげで(せいで?)
頭の中にカタカナ英語のイメージを残したまま
実際の発音だけは改善してしまった可能性がうかがえます。

日本語の「ア」の音を出すとき、
わざわざ口の形とか舌の位置なんて意識しなくても
ちゃんと「ア」の音が出せるのは日本人なら一般的なこと。

同様に、僕はどうやら、わざわざ意識しなくても
それなりにアメリカ英語としての「 hot 」の音を出しているみたいです。

その一方で、頭の中には中学校のときに勉強した「ホット」が残っている。

なので、頭の中のイメージは、相変わらず「ホット」のような「オ」の音、
でも実際に出している音は「ア」と「オ」の中間のような「 hot 」、
という事態に陥っているんだと考えられます。

まぁ、会話をする上ではそれによって問題は少ないのかもしれません。

意識していない限り、口の動きは「 hot 」という英語のものに近いようですし。
リスニングに関してもカタカナ英語は頭に浮かばない状態になっていますから
「ホット」という音のイメージがあっても、それが邪魔をすることはなさそうです。

ただ、なんか奇妙な感じなんです。

頭の中で「ホット」というカタカナ英語に近い心の声が聞こえながら
実際に自分の口から出ている音を耳で聞くと、それは「 hot 」になっている。

なんなら意図的に「ハット」に近い音を心の声として思い浮かべてみても
やっぱり口の形の癖はあるようで、実際に出した音は「 hot 」のまま。

「ハット」、「ホット」と交互に繰り返しながら頭の中でイメージしてみて、
「 hot 」の発音をして客観的に耳で聞いてみると、
どちらの音もほとんど同じなんです。
自分で聞いて区別がつかない。

じゃあ、なおさら問題ない?
いや、なんだかギャップが感じられるんです。

カタカナ英語のパートと、アメリカ英語のパートがいるような印象。
これを統合したい気持ちがあります。


このギャップのメリットを考えていくと
トレーニング次第では、イギリス英語やオーストラリア英語も
区別して発音できるようになる可能性も想像できます。

実際に頭の中で起きていることを正確に表現すると
僕の心の声としてカタカナ英語ではない英語も聞こえているんです。

「 hot 」を英語の音としてイメージすることもできる。
それが文字とマッチしていないんでしょうか?
文字を読むときの自分は日本語モードなんでしょうか?

いや、どうやら「読んで理解する」という行為に関しては
英語でも日本語でも同じプログラムが使われている気がします。

でも発音や会話となると、日本語と英語でプログラムが別の感じ。

頭の中で、英語の音と日本語の音が両方聞こえる。
けれども頭の中の音として英語のほうが小さいんです。

そして頭の中で聞こえる英語の音は、なぜか
自分の声のような気がしない。

たぶん、ここに大きなギャップのポイントがあって、
統合の必要性を感じるところなんでしょう。

このギャップが埋まる感じを体験するには、
頭の中に自然と英語で考えが浮かんでくるまで
英語を使い続けるしかなさそうです。

長い道のりになりそうですが、それまでは並行して
発音を心がけることもやっていこうと思います。

cozyharada at 23:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2015年02月13日

名探偵

『名探偵コナン』というマンガがあります。
アニメや映画にもなっていて有名かと思います。

主人公の置かれた不運な境遇には
個人的に感情移入するところもあるんですが、
ちょっと視野を広げてしまうと
それは大した不運ではなさそうに感じられてしまいます。


念のため、このマンガの主人公について補足しておくと、
その人物は高校生でありながら名探偵として知られていました。

それがある事件に巻き込まれ、変な薬を飲まされて
目が覚めた時には体が小学生になってしまっていた、というストーリーです。

高校二年生が小学校一年生になってしまうんですが
頭の中は高校生名探偵のままですから、事件の犯人は推理できてしまいます。

しかし小学生の姿では誰も話を聞いてくれないし
事件に首を突っ込むことさえ許してもらえません。

そのため仕方なく小学生のフリをしながら、間接的に事件解決へ協力します。
上手く周りの大人を動かしたり、時にはボイスチェンジャーを使って
大人が話しているように見せかけたりして、犯人を追いつめるわけです。

この小学生の体をした大人の頭脳の持ち主が
上手いこと子供のフリをしながら事件を解決する様が見どころなんでしょう。

一方、この主人公には恋心を寄せる幼馴染の女の子がいます。
こちらも高校二年生。

高校生名探偵であるはずの主人公は捜査で旅に出たっきりで、
目の前にいる小学生がその主人公だとは思わずに、彼の帰りを待っている。

主人公のほうは、自分が小学生になってしまったことは隠して
高校生の身体に戻れる方法を探し続けている。

そんな側面もあるんです。

つまり主人公としては、おそらく
小学一年生のフリをしながら生活をするのは苦痛であって
なんとか大人(高校生)に戻りたいと願っている、ということです。


高校二年生が小学一年生のクラスに転校することになるようなものですから
その生活がどんなものなのかを想像すると、日々の不満は多そうに思えます。

同級生を友達とみなせるか、一緒に遊ぶことができるか、
授業の時間をどのように過ごすか…。
「なんでこんなことを」と思いながら毎日を過ごしそうな気がします。

ただ主人公の場合は、運が良いのか悪いのか、
頻繁に事件へ巻き込まれますから、探偵としての活動は続けられていて
その意味では全く退屈になってしまったわけではないのでしょう。

しかし目の前にいる幼馴染のことを思っても
やはり早く元の姿に戻りたいとは切に感じるところだろうと想像されます。


しかし、です。

このマンガが好きな人には申し訳ないですが、
高校二年生と小学校一年生の差は10歳しかありません。

もちろん、高校二年生にとっての10年は長いでしょう。
でも10年なんて、大人になれば意外と短く感じられるもの。

10年たてば、問題は大したことではなくなるんじゃないでしょうか。
あと10年我慢するだけで、元通り高校生名探偵に戻れます。
(実際、マンガでは年を重ねることがないので無理なんですが)

精神年齢からすると高校生と友達になることは難しいとしても
学校の勉強は高校二年生で追いつくわけですから、
普通の高校生活・大学生活を送るようになるはずです。

元から高校生名探偵は社会人に受け入れられていましたし、
再び高校生に戻った頃(実際には26年ぐらい生きた頃)
探偵として関わる人たちとも年齢は近くなっていることでしょう。

さらに年を重ね、30ぐらいになれば(実際は40年生きた頃)
「体は30歳、頭脳と心は40歳」という状態ですから、
そのギャップは大したものではないと思うんです。

それぐらいの人は沢山います。
どうみても20代にしか見えない40代女性…なんていうのが
取り上げられるぐらいですから。

確かに一回目に高校生だったときの同級生とは疎遠になりがちでしょうが、
僕だって高校の同級生とは卒業以来、ほとんど会っていません。

体が30歳の頃(実際は40年生きた頃)に、社会人として40歳の人と出会えば
その人とは元々同じ世代だったことになります。
それぐらいの時期になれば、10歳の差をどれぐらい意識するものでしょうか。

そこで友人になるかどうかは、実際に同年齢であるかどうかよりも
もっと個人的な事情のほうが重要でしょう。

体が30歳のころに実際に30歳の人と出会って、
その人と打ち解けて友人になったとしたら、そこには
10歳の精神年齢の差は感じられていないと思います。

年を重ねるほどに、体の年齢の差は意味を減らしていくもの。
徐々に問題はなくなっていくと思えてしまうんです。


幼馴染の彼女だって、いなくなっていたはずの高校生名探偵へと
徐々に姿が「似てくる」様子を見ていれば
「ひょっとして?」と気づくときがあるんじゃないかと思えます。

そもそも幼馴染なんですから、小学生の頃の姿だって知っているはずで
「子供の頃の姿によく似ているな」ぐらいの感想は持っても良さそうなもの。
体が小学生になるなんて普通は信じられませんから
「よく似た子供」ぐらいに思っていても最初は当然のことかもしれません。

とはいえ、段々と幼馴染の姿にソックリになってくる様子を見続ければ
疑い始める可能性はあるんじゃないか、と。

そして最終的には、10年若返ってしまった幼馴染が
再び高校二年生になるタイミングを迎えます。

その頃、幼馴染の彼女は26歳。
そこで関係がどうなるかは分かりません。
ずっと一緒にいたんだという事実をどのように受け止めるかも分かりません。

しかし、見た目の10歳の年の差が、どれだけ重要になるんでしょうか。
実際に生きた長さは同じぐらいなんです。
主人公が子供のフリをやめれば、心の成熟度は同じ程度でしょう。

そこからさらに年を重ねると
主人公20歳のとき、幼馴染30歳、
主人公25歳のとき、幼馴染35歳…。

年の差10歳の夫婦なんて、世の中には沢山います。

しかもただの見た目です。
若く見える35歳もあれば、大人びて見える25歳もいます。

ずっと二人の関係が続いたとしたら、主人公の10歳の若返りは
いつか何でもないことになるんじゃないかと思えてしまいます。


高校生が小学生に戻ってしまったら、
再び高校背に戻るまでの間か、長くても社会人になるぐらいまでの間は
心と体のギャップに苦しむだろうとは想像できます。

しかしその後は、見た目の年齢なんて関係なくなるんじゃないかと思ったんです。

2015年02月11日

リフレーミング上達のコツ

端的にいえば、リフレーミングのコツは
 〜蠎蠅瞭眦体験を的確に捉える
 ∨椰佑砲箸辰橡召泙靴す堝亜θ娠の方向性を考える
 その方向に変わるように、その内的体験の捉え方を変える
 い修凌靴燭並え方を、本人の受け入れやすい言葉で表現する
ぐらいなものでしょう。

´△倭蠎蠅陵解です。
相手を分かっている度合いが大きいほど
リフレーミングの対象となる内的体験も想像しやすいですし、
どんな変化を望んでいるかも想定しやすい。

は一般化できる内容です。
相手を選ばない。
「こういう内的体験は、こんな見方でも捉えられる」
という別の視点は、トレーニングによって広げることができます。

い倭蠎蠅旅イ澆帽腓辰晋斥佞箸いε世覗蠎蠅陵解が必要ですし、
また、内的体験を適切に言語化する意味では、自分の能力とも関連します。


言い換えるなら
 ・´↓い魯據璽轡鵐阿箒Υ供観察で上がる部分
 ・い脇眦体験の新しい見方を発見して
  それを言語的に表現する経験を積むことで向上する部分
だということです。

相手の個性と、その瞬間の体験内容とを理解し、
その体験の見方を変えて、
相手に合った形で言葉にする。

それには
・相手を理解する能力
・体験の受けとり方を変える能力
・適切な言葉を選ぶ能力
が求められるわけです。


このうち、相手を理解する能力については
ペーシング、共感、観察のトレーニングをするのが効果的です。

組み合わせではありますが、これらが磨かれれば
相手の話の内容を聞いている間に
その人の内的な体験(内的表象やイメージ)を
ダイレクトに受け取れるようになります。

相手の思い浮かべている内的表象やイメージを的確にキャッチする。
これがリフレーミングの作業の前段階として求められます。

リフレーミングを試みて言葉をかけたにもかかわらず効果がない場合、
多くは相手の困っている内容を捉えきれていないものです。

見方を変えるかどうかの前に、話のポイントがズレている。
相手の体験している内容が分かっていないので、
どんなに言葉を工夫しても「いや、そういう話じゃないんです」となりやすい。

まずは相手の問題としている内容を、言葉だけでなく
言葉になる前のイメージ(内的体験)として受け取りたいわけです。

それができれば、後はホンの少し見方を変えるだけで充分でしょう。


そして、体験の受け取り方を変えるのは、能力と言いながら、
実際には個人として経験してきたものによる部分が大きいんです。

数多くの自分の体験をリフレーミングして、
別の受け取り方ができるように経験を重ねていくと
受けとり方を変えるための視点が自然と身につきます。

何より、実際に自分が実体験として悩みの体験に対して
別の見方ができるようになって入れば
同じような状態のケースについて別の見方を提案するのは簡単です。

自分が乗り越えたことのある問題であれば
実際に自分が自分の問題についてリフレーミングしたわけですから
経験談として他の見方を思いつきやすくなる、ということです。

大袈裟な言い方をすれば、自分の中に偏った物の見方がなくなっていれば
どんな「問題」でも、良いでも悪いでもなく、ニュートラルに受け取れます。

ニュートラルというのは、
 「こういう点ではメリットでもあるし、こっちに目を向けるとデメリットでもある。
  だから良し悪しでは判断できないなぁ。」
といった感じのことです。

例えば、「ついつい、こんな考え方をしてしまう」といった場合、
(より具体的には「つい相手の短所に目が向いてしまう」など)
その考え方、物の見方をすることに悩んでいるともいえますが、
同時に、その考え方・見方にメリットがあると考えられます。

しかしながら、実際のところ、メリットの裏返しとしてデメリットもあるものです。
つまり、相手にとってのメリットをデメリットとして一度リフレーミングする、と。

相手の短所を見ることのメリットが、仮に
「反省点に気づいて、自分を省みて、自分を成長させる
ということだとしたら、
そのメリットの裏返しとしてのデメリットを考えてみます。

この場合、特に「自分を成長させたい」という意図がありますから
この意図に反しているデメリットに注目すると、
今までメリットだったものの効力を弱め、考え方を変えやすくなるはずです。

例えば
「他人の短所ばかりを見て、良いところを見ていないとしたら
 自分の良いところを省みることもしていないのではないですか?
 自分の長所に気づき、そちらを磨くというのも
 自分を成長させる方法ではないでしょうか。」
といった感じ。

「短所しか見ないのは実のところ、自分を成長させるのには不十分だ」
と指摘して、「長所に目を向けることで自分を成長させる」という
新たな視点を提案している形です。

このようにメリットをデメリットとしてリフレーミングするのが
効果を発揮する場合もあるんです。

ですから、物事を良いとも悪いとも捉えず、ニュートラルに捉えておく
というのが、他者の問題をリフレーミングするのに役立つんです。

そのために最も役立つのが、自分の中から偏った発想を減らすこと。
偏った発想があれば、それによって自分の中に悩みが生まれるがちですから、
自分の内面的な課題と向き合って、それを解消しておくのが効果的です。

つまり、自分の問題を徹底的にリフレーミングし続ける、ということです。

これがリフレーミング上達の大きなポイントのはずです。


最後に「適切な言葉を選ぶ能力」ですが、
これに関しても自分の内面と向き合うことで向上させられます。

適切な言葉を選ぶためには、そもそも
言葉を当てはめる対象としての体験を正確に捉える必要があります。

「ムカつく」とか「ヤバイ」とか、汎用性のある単語で
様々な状態を説明してしまっていたら、違いに気づきにくくなるかもしれません。

内面には沢山の状態が共存します。
複数の状態が組み合わさっているんです。

だから一言で表現する必要なんて、元々ないんです。

例えば、
 〜に怒りを感じている度合いが70%、
 …に対する悲しみが15%、
 ○○に気づけなかった自分を責める気持ちが10%、
 なんでこんな状況になってしまったんだろうとガッカリするのが5%、
のように
組み合わせとして自覚するようにします。

そして言葉にし切れないものがあれば、
それをまずイメージとして表現するように練習します。

イメージとして映像や音声、体感覚の違いを把握できれば、
「似ているようでも少しここが違う」といった繊細な部分に敏感になります。

その繊細な違いをピッタリくる単語に置きかえられれば理想的ですが、
繊細に捉えられるほど、知っているボキャブラリーでは不十分になりがちです。

それはストレスフルな体験ですが、でもそちらのほうが望ましいといえます。
体験の内容を曖昧なままにしていないからです。
適切な言葉を選ぶ前段階として、適切に体験を自覚している状態です。

そしてもし言葉がピッタリ来なかったら、イメージをそのまま説明しても良いでしょう。

より効果的にやるなら、喩え(メタファー)にしてしまえばいいと思います。

繊細に内的体験を捉えるほど、それを適切な少ない単語に変換するのは大変。
だからいっそのこと、イメージそのものをメタファーで表現してしまう。
そういうやり方です。

先ほどの例に戻るなら
「例えば、ラーメン屋をやろうという人が、色々な店を食べ歩いて
 そこで沢山の改善点を見つけてきたとします。
 そして自分の店で気をつけるポイントを整理して、たくさん工夫して
 非の打ちどころのないラーメンを作ったとしましょう。
 欠点が無いんですから、マズイ理由はありません。
 しかしそれでは、個性も際立った美味しさもない
 当たり障りのないラーメンになってしまうのではないでしょうか。
 自分だけの最高のオリジナル・ラーメンを作るために
 今までと違った着眼点で食べ歩いてみるのも良いものかと思います。」
といった具合。

こうしたメタファーは、相手の内的な体験をイメージとして捉えた後で
ニュートラルな視点から着眼点を変え、そこからイメージを広げて
新しい見方に基づくイメージを比喩に変換することで生まれます。

そのためには、まず自分の中に湧いてくる内的体験を
イメージとして的確に捉え、それをイメージのまま言葉に変換する
という練習が求められます。

相手の内的な体験を受け取って、それをイメージに変換する場合でも
最終的には自分の中に湧いたイメージとして言語化しますから、
トレーニングとしては「自分の内的体験を適切な言葉にする」必要があるわけです。

もちろん、練習には題材が必要です。
自分の内的な体験をイメージとして正確に捉え、
それを適切な言葉に変換する。
そんな練習が求められる、と。

普通に生活をしていたら、そんな練習をする機会はまずありません。

だから結局のところ、自分と向き合うのが手っ取り早いんです。
自分の悩み・問題の向き合う。

「この問題で、自分の内面にはどんな気持ちが入り混じっているんだろう?」
と内面を細かく分けて捉え、それぞれを体感をともったイメージとして自覚する。

そして自分で自分の悩みをできるだけ繊細に理解するんです。

一般的に、自覚して「理解できた」という実感が得られるときには
そのイメージが言葉で説明できているものです。
言葉になったとき、「そうか!こういうことで悩んでいたんだ」と実感します。

そのため、自分の悩みと向き合って理解するというプロセスが、
 内面をイメージとして捉えて的確に言葉へ変換する
ための最高のトレーニングになるんです。


まとめると…、

 内的な体験を適切な言葉に変換する
ためには、
 自分の悩みと向き合って理解する
のが効果的で、

 内的な体験を新たな受け取り方で捉えなおす
のには、
 自分の悩みを自分でリフレーミングして解消する
のが役立ち、

 相手の内的な体験をそのまま受け取る
ためには、
 ペーシング、共感、観察のトレーニングをする
必要がある

ということになります。

つまり、求められるのは
 ・ペーシング、共感、観察をトレーニングする
 ・自分の問題と向き合って解消する
という2つに集約されるわけです。

本質的には、これ以外には無いと思います。

表面的に小手先の技術を上げるためのテクニックや言語パターンはありますが
それは形式として「リフレーミングの言葉」を作るための方法であって、
相手に効果的なリフレーミングが起きるようになるかとは無関係です。

相手の問題を捉えていなければ、どんな言語パターンでも空回りです。

相手の内的体験が自然と変わるようなリフレーミングでなければ、
どんな言語的なテクニックでも悩みを減らすところまでは至りません。

相手の内的体験とマッチした言葉の選び方でなければ、
どんなに有名なセラピストの言葉の使い方でも受け取ってもらえません。

相手の体験を捉え、
相手の受け取り方を変え、
相手に響く言葉にする。
それには本質的な能力が求められます。

能力です。
技術ではありません。
テクニックや手法ではないんです。

だからもう、ひたすら地道に
 ペーシングと共感と観察の力を上げるトレーニングをして、
その一方で
 自分の悩み・問題と向き合って、それを解消していく
というプロセスを重ねるのみ。

他に絶対にないとは言い切れませんが、
地道だけれども、このプロセスが最短ルートでしょう。

少し一般化していえば、
 本気で他人とコミュニケーションをして、
 本気で自分の内面と向き合う
ということです。

それだけ。

それを続ければリフレーミングは上達します。

ただし、
本気で他人と関わるのも
本気で自分と向き合うのも
どちらも覚悟のいることです。

だから多くの人はやらないんだと思われます。

覚悟を決めて本気でやるだけ。
ただそれだけです。

2015年02月08日

コンシェルジュ

最近でこそ「コンシエルジュ(コンシェルジュ)」という単語を
色々なところで耳にするようになりましたし、
家電量販店にもコンシエルジュ・デスクがあったりもするようですが、
一般的にはホテルのお客様相談窓口のような職種だそうです。

僕が「コンシエルジュ」という単語を知ったのは、今から10年以上前。
漫画「コンシェルジュ」を通してでした。

その漫画を気に入ってしばらく読み続け、
シリーズ続編の「コンシェルジュ プラチナム」も読みました。

で昨年末についに「コンシェルジュ プラチナム」も完結。

いずれもホテルのコンシェルジュ業務、あるいはそこから発展した
人間関係のトラブルをサービスで解消する、というコンセプトで、
人の心を直接的な対象として描こうとした作品だと思えます。

ちなみに「プラチナム」のほうは
主人公が大学で心理学を専攻していたという設定で、
「○○のしぐさは、〜という心理の表れ」などと
人の動作から心理を読み解く場面が多々登場しますが、
まぁ、そういう内容は大学の心理学の範疇ではありません。

そういう表面的な心理学(心理テクニック?)を活用する一方で、
最終的には「客観的な分析ではなく、お客様の立場になること」が強調され
やはりシリーズとしては『おもてなし』を大切にしているように感じられます。


そして、「コンシェルジュ プラチナム」が完結して
今年の1月からシリーズ三作目の新連載
 「コンシェルジュ インペリアル」
が始まりました。

第一話だけ、ここから試し読みができるみたいです。

http://www.comic-zenon.jp/magazine/concierge_imperial.html


コンシェルジュという単語をタイトルに含めていながら、実態は「介護マンガ」。

なんと介護を舞台に、人の心とサービスとを描いていくようです。

前二作の主人公は天才と評価される人たちで
他の人が困ってしまう状況をサラッと解決していく爽快さがありましたが、
「コンシェルジュ インペリアル」の主人公は、どちらかというと
駆け出しで未熟ながら才能のある若者という感じ。

おぼつかなさもありながら、介護の現場に起きがちな事情を
主人公の成長とともに描いていく、なんていうスタイルなんでしょう。

介護をテーマにしたマンガなんて初めて見た気がしますし、
これまでのシリーズの面白さもありましたから、
個人的にチョット楽しみにしてるところです。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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