2015年03月

2015年03月31日

早口に対応する

英会話教室や英語教材などでは「レベル分け」のようなものがなされます。

その中に決まってといっていいほど登場するのが
「日常会話レベル」という単語でしょう。

難しい内容の議論はできないけれど
日常会話ぐらいだったら大丈夫ですよ
…といったニュアンスだと考えられます。

しかし僕の実感としては、一番大変なのが
むしろこの「日常会話」だと思うんです。

たしかにボキャブラリーとして単語だけに注目すれば
日常会話で使われる単語の種類は限定されます。
対応するのに必要な単語数は少なめでしょう。

しかしながら、日常に近いからこそ
微妙なニュアンスの違いを表現することも多いようです。

中学校で習うような単語ではあるけれど
組み合わせ方によってニュアンスの違いが生まれるわけです。

そのあたりが句動詞やイディオムに表れる。
よく使われる動詞と、前置詞などの他の単語を組み合わせることで
意味を多様にしていくんです。

ですから結局のところ、一単語としてのボキャブラリーは要求されなくても
単語を組み合わせた表現を1つの意味のまとまりとして捉えれば、
熟語表現のような形で、表現のバリエーションは知っておく必要があります。

でないと、
 単語は全部知っているのに、組み合わせた表現のニュアンスが分からない
といったことが起きます。

英語の本や雑誌などで「たった○○単語で話せる」みたいなアピールがありますが
それはこうした組み合わせのパターンを数に入れていません。

語学として身につけることを考えた場合、複数の単語を組み合わせた表現を
1つの単語のようなつもりで覚えることが求められるでしょうから、
日常会話だって覚えておくべき表現は沢山あるはずなんです。

むしろ一単語でニュアンスの違いを表現できるように
ボキャブラリーを増やしてしまったほうが、
文章の形としてはシンプルに作れるようになるような印象もあります。

1つの単語を1つの部品として文章の中で交換できますから。

熟語の形になってくると、まとまった量を丸覚えすることになるので
組み合わせを変えて自分の考えを言葉にするというよりも、
知っている言い回しをそのまま使うケースが増えそうにも感じます。

日常会話で使われる表現を、細かなニュアンスの違いに注意しながら
使いこなしていくというのは、なかなか大変だという話です。


さらに、日常会話では発話のスピードが速いのも特徴です。

そもそものリズムが速い。
スピーチや講義と比べるとテンポが速いんです。

また、早く言い終われるように、音が省略されたり繋がったりすることがあります。
複数の単語を繋げて、1つの決まった言い方に変えてしまう感じでしょうか。

日本語でいうなら
「ちわー」という音は「こんにちは」のつもり、
「っしゃっせー」なら「いらっしゃいませ」のつもり、
「あざーす」なら「ありがとうございます」のつもり…
といった具合。

速く言うために弱い音を誤魔化しながら繋げてしまうことが多く、
それゆえに1分間当たりの発話単語数が大きく上がるんです。

しかしこの発話速度は単なる早口ではありません。
渇舌の良いスピーチを二倍速で聞くのと
日常会話の早さを聞きとるのとでは、
仮に1分間当たりの発話単語数が同じでも
求められる聞き方が違います。

日常会話では、省略されたり繋がってしまったりする弱い音を
典型的な省略のパターンを利用しながら
「多分こういっているはずだ」という推測で補う必要があるようです。

これが大変なところだと感じます。
パターンとして知っていないと対処できない。
「こういう音の感じは、こうやって言っているはず」
と思いつけるようになるまで、ストックを増やし
パターン認識力を上げる練習が重要だろうと考えられます。

一方、スピーチや講義の話し方はテンポもゆっくり目ですし
渇舌を良くして、聞き取りやすく、分かりやすく話されるのが一般的です。

ボキャブラリーを増やしてしまえば、むしろこちらのほうが聞きやすいと感じます。
次から次へやってくる情報量の多さに対処するのは単なるリスニングではなく
理解力の要素が含まれますが、それを除いて聞きとりだけに注目すれば
スピーチや講義のほうが音としては聞きやすいのではないでしょうか。


ですから
・ボキャブラリーの代わりに熟語表現のバリエーションが求められる
・音が省略されて話速が上がった言い方を聞きとる必要がある
といった点で、
日常会話のやり取りをシッカリと行うほうが
専門性の高い議論よりも遥かに大変だろう
という話です。

おぼろげに聞けた単語を元に、相手の言わんとすることを想像して
なんとか最低限の意思疎通を行える…ということを
「日常会話レベル」と呼んでいるのかもしれませんが、
ネイティブの日常会話を高度に理解するとなると
それは語学をやる人にとって最もハードルの高いところのような気もします。

そういう意味では
 ネイティブ同士の日常会話のやり取りを題材にして
 リスニングのトレーニングをしつつ、表現のストックを増やしていく
方法は、現実的で効果的ではないかと思えます。

最近、そのための教材としてこんなのを見つけました。



題材としては個人的に刑事モノとかのほうが好みでしたが
恋愛ドラマのほうが日常表現が多く含まれるのかもしれません。

ちょっと取り組んでみようかと思っています。

2015年03月29日

比較して初めて

久しぶりにセミナーでアシスタントというのをしました。

トレーナーとして前に立って説明をしたりデモをしたりするのではなく
個別の実習のサポートに回る役割。

そういう形で2日間を過ごしたんです。

それが終わってみて、とても大きな発見がありました。

疲れない。

普段の1/5ぐらいの疲労感です。
いつもだったら残りの体力(気力?)が10〜20%ぐらいになっているのに
80%ぐらいは残っている感じでした。

これだったら後6時間ぐらいやっても余裕。

もちろん何もしていないよりは疲労感があります。
受講生に気を配る量も、それほど変えていないつもりでした。

おそらく全体に向けて一気にコミュニケーションをする最中に
全員を同時に観察して、それぞれの反応に対応しようとする作業が
体力を消耗するところなのでしょう。

それともう1つ。
理由はよく分かりませんが、こちらへの期待が多く向けられるほど
終わった後の消耗感は大きくなるようです。

サポート役に回っていれば、当然、
全員の期待を一気に受けることはありません。

それだけでも消耗が少なかったんだろうと思われます。

ですから、
 ○大勢の期待を一気に受けること
に加えて
 ○その全ての期待に応えるためのコミュニケーションをすること
の両方が重なって
いつもの疲労感を生み出していた
…ということなんでしょう。


普段と違う状態を体験してみて、改めて
普段の自分がどれだけ疲れていたのかを自覚しました。

本当にビックリするぐらいの差です。

2015年03月27日

私語

セミナーや講座、授業、講演のような形では
講師・インストラクター側が説明をする時間があります。

何かの実習をやる場合にも、当然
その実習時間の終わるタイミングがあって、
そこから先は再び説明の時間に戻ります。

そうした説明の時間に、受講生、生徒、聴衆が
近くの人と話をしていた場合、それは一般に「私語」と呼ばれます。

実際には説明の内容と関係があるもので
意味のある質問かもしれませんが、それでも
その場の設定からすると、私語とみなされます。

同じ質問や発言を全体に対して(つまり講師に向かって)した場合は
「質問」として受け取られますが、近くの人だけと話すと私語と捉えられる。


この「私語」を好ましく思わない人は多いようです。

うるさいから。
迷惑だから。
気になるから。
失礼だから。
ルール違反だから。
邪魔されている感じがするから。
…など。

嫌だと感じる理由は様々でしょうが、
その理由の大部分は映画館でも共通するところだと考えられます。

映画館でも隣の人と話をしている(私語をしている)人は
他の観客からすれば「迷惑だ」とか「うるさい」と嫌がられるでしょうし、
製作者からすれば「自分の作品を邪魔された」と嫌がるかもしれません。

ところが、セミナーや講座、授業では、私語の持つ意味は少し異なります。
上記以外の側面があるんです。

それは一言でいうと
 「見くびっている」
ということです。

講師やインストラクターを、ではありません。

本人の価値を、です。

私語をすることで、自分の価値を見くびっている。
そういう側面が含まれます。

もちろんそんなことには無自覚にやっているはずですし
それが最大の理由ではないことでしょう。

しかし、自分の価値を尊重していたら
全体には聞こえないような声で隣の人とだけ話をする
なんてことはできません。

なぜなら、全体に対して発言するのではなく近くの人とだけ話をするのは
「こうしておけば自分の話は無視して、講師は話を進めるだろう」
という想定が含まれるからです。

「どうぞ私の私語は無視して先に進めてください」
と言っているようなもの。

「自分は無視してください」という前提です。
自分は無視されても構わない、と。


もしかすると
 「無視されるぐらいでは自分の価値は揺るがない」
 という絶対的な自信があるのでは?
と考えるかもしれません。

それに関しては、おそらく
本当にそれだけの自信があったとしたら
わざわざ近くの人になんて話さないことでしょう。

質問したければ説明を中断してでも聞けばいい。
意見があるなら講師の話に挟みこめばいい。

「気になることがあるけれど講師に聞くほどじゃない」
と思うのだとしたら、そこには何らかの遠慮があります。
「そこまでの価値はない」ということじゃないでしょうか。

あるいは、誰かに聞いてもらいたい意見があるのなら
それは聞いてもらうことで尊重されたいという願望を含みます。
本当に自信があれば、聞いてもらう必要なんてありません。
知的活動としてディスカッションしたいのであれば
休憩時間にしたって良いわけですから。

そこまでの自信がないからこそ近くの人に話しかけ、
そのうえで、無視されることを期待している。

だから
 自分の価値を見くびっている
ということなんです。


たしかに講師・インストラクター側の対応は様々です。
無視して話を続ける人もいるでしょう。

しかし、
注意するにせよ
私語が終わるまで待つにせよ
あえて話しかけるにせよ
放ったらかしにはしていないんです。

気にかけている。
関心を向けているんです。

私語を無視しない人は沢山いるんです。

にもかかわらず、あたかも
「自分が全体と関係ない話をしているのは気にしないでください」
とでも言わんばかり。

そこには、自ら自分の価値を見くびる側面が含まれています。

自分を見くびり続けたいなら、それでも構いませんが
僕はそうはしません。

僕はトレーナー、インストラクターとして
受講生を無視しません。

本人がどれだけ自分自身のことを見くびっているとしても
僕はできるだけ多くの声を聞こうとしています。

僕は見くびっていないからです。

2015年03月25日

トイレの女神様が

しばらく前に『トイレの神様』という歌が流行りました。

その曲のサビに
「 トイレには それはそれはキレイな女神様がいるんやで
 だから毎日 キレイにしたら 女神様みたいに
 べっぴんさんになれるんやで 」
という歌詞があります。

別に歌に対してとやかく言うわけではなく、あくまで
 こういうストーリーが自然に語られる日本文化
として、興味深いものが感じられます。

それは因果関係への曖昧な認識です。


この歌詞では
「 トイレにはキレイな女神様がいる。
 だから毎日キレイにすると、女神様と同様にキレイになれる。」
という論理展開がなされています。

詳しく書くと
.肇ぅ譴鯔萋キレイにすると、キレイになれる
▲肇ぅ譴砲禄神様がいるから、トイレを毎日キレイにするとキレイになれる
トイレの女神様がキレイだから、トイレを毎日キレイにするとキレイになれる
といった因果関係が含まれていると解釈できます。

もちろん最終的には,痢屮肇ぅ譴鯔萋キレイにすると、キレイになれる」
という発想によって、トイレ掃除をさせようという教えなんでしょう。

△鉢は、,鯀按鵑箸垢襪燭瓩僚ぞ的な因果です。
しかもは実際に語られていない内容を汲み取った部分です。

△砲弔い討
 トイレには女神様がいるから、
 トイレをキレイにすると女神様が気に入ってくれて、
 トイレをキレイにした人を女神様の特別な力によってキレイにしてくれる
のような途中段階もあるはずです。

そうした因果関係の飛躍に対して、日本文化は曖昧なようです。
そこを汲み取って「まぁ、そうだろうね」と都合よく解釈してあげる風習がある。

もっといえば、別に
 トイレをキレイにした人を特別な力でキレイにしてくれる
のは、女神様でなくても構わないわけです。

「便所コウロギの精」がやってくれたっていいはずです。

しかしながら、ここでのように
 トイレの女神様がキレイだから、トイレをキレイにするとキレイになれる
という発想が登場します。

もうこの因果に至っては、僕には何を汲み取ればいいのかも分かりませんが、
もしかしたら、ただの「キレイ」繋がりかもしれません。

・キレイな女神様
・キレイなトイレ
・キレイなトイレの女神様
・トイレをキレイにする人
・トイレをキレイにするキレイな人
…といった「キレイ」にまつわる話を集めて
「キレイなところには、キレイなものが集まる力がある」
といった方向性にしているのでしょうか?

あるいは
「 トイレの女神様のキレイさは、トイレのキレイさに依存する。
 トイレがキレイさは、そこにいる存在をキレイにする力になっている。
 トイレのキレイさが持っている、そのキレイにする力は
 トイレを利用する人や、トイレを掃除する人にも働く。
 だからトイレをキレイにすると、自分もキレイになれる。 」
のような話なんでしょうか。

僕には想像もできませんが、
どうも「場の力」のようなものを想定している印象を受けます。
「キレイな場」が持っている「キレイにする力」のような。

どうやら日本文化には「穢れ(ケガレ)」の発想も根強くあるようですし、
「キレイ/汚い」を非論理的に、あるグループに関連する性質として
捉えるような傾向があると感じられます。

ひょっとしたら、トイレの女神様の話にも
そうした「キレイ/汚い」のイメージが関わっている可能性もありそうです。


いずれにせよ、因果関係については非常に曖昧になったまま
複数の要素を挙げ連ねて、「だからこうなるのよ」と主張するスタイルは
とても日本的な発想のようだ、ということです。

実際、日本人が英語のライティングで苦労するのは
日本語で浮かんだ考えを英語に変換する部分ではなく、
浮かんでしまう考えが論理的でない(因果関係が飛躍している)
という部分のようです。

僕自身もそうでしたし、僕が見てきた他の人もそうでした。
日本人だったら説明しなくても当たり前に分かってくれそうな文章が
英語のライティングでは「 How? 」と追求されてしまいます。
論理展開の途中が抜けている、というんです。

僕の考察としては、
 伝統的に日本の環境では自然に逆らうことなく、
 自然を「神」として崇め、自然の力を受け入れるようにしてきた
ことが関係しているように感じています。

何か自然災害によって人間の生活に不都合があったとき
「これは神のたたりだ」と受け入れる。
自然をコントロールしようとしなかったのではないか、と。

一方、西洋文明や、あるいはその前の大河文明では
天体の動きを観測したりしながら、自然の動きを予測しようとしてきた。
そして災害を回避したり、自然の変化を利用したりした。

必然的に「どうなったら、どうなる」という因果関係に対して
敏感な考察を行ってきたと考えられます。

自然の法則を理解して、利用したりコントロールしたりするのと、
自然を神の意思として受け入れるのとでは、
因果関係を理解しようとする意欲にも差があって当然ではないか。
…そんな風に思います。

良し悪しではなく、考え方や文化の違いということでしょうけれど、
それによってコミュニケーションのスタイルに違いが出るのも実態。

こうした違いを文化なんだと理解し合えたら楽なのかもしれませんが、
まずは、その文化の違いを説明するために、
相手に合わせた論理的な説明が求められるというのが皮肉な気がします。

2015年03月23日

DVD『砂漠の魔術師』予約開始

催眠療法家ミルトン・エリクソンの生涯を描いたドキュメンタリー
 『砂漠の魔術師(Wizard of the Desert)』
の発売が決定したそうです。

現在予約受付中。
http://erickson-movie.jp/dvd/で購入できます。

お値段は、6000円(+消費税)。
4月中旬に発送とのこと。

エリクソンにまつわるエピソードを
一番身近にいた人たちが、エリクソンを思い出しつつ話してくれます。

そのエピソードは単なるストーリーではありません。
全ては患者や生徒のために用いたメタファーです。

つまり、患者や生徒たちが、自分の受けたセラピーの一部を
当時を思い出しながら再現してくれている、ということ。

映画をみるだけでもセラピー効果が生まれるのは当然でしょう。

エリクソンの逸話を知りたい人も、
エリクソンの人間的な側面に興味のある人も、
セラピーの技法について興味のある人も、
様々な角度から楽しめる内容のように思います。

2015年03月21日

ワザと失敗

ネットで流れてきた動画で
「リコーダーがへたくそ」
というものを見てみました。

ただ実際に見てみると僕には「へたくそ」には思えませんでした。

むしろ相当に上手い人だという気がします。


こちらの動画です。



確かに音を外すことばかり。

しかしながら、
この指の安定したポジションとスムーズな動きは
素人のものとは思えません。

もちろん音と画像は別撮りだと思いますから
前提として、この人が演奏もしているという話にはなります。

この動画の人が音の外れた演奏をしているのであれば
きっと安定して同じクオリティの「へたくそ」さを再現できると思われます。

どれぐらい穴を押さえる程度を弱めると、どれぐらい音がズレるのか。
どういう息の吹き込み方をすると、どれぐらい素人っぽく聞こえるのか。
そのあたりを分かった上でやっているように見えてなりません。

そもそも本当に上手くなければ、
こんなにリズムが当たった演奏にはならないはず。


こういう笑える動画を意図的に投稿している人というだけではないでしょうか。

なんとなく音の外し方にもパターンがあるように感じられますし。

技術があると「望ましくない」とされるやり方も意図的にコントロールできますが、
意図的にコントロールしている限り、それはランダムではないんです。

どういうときにミスが起きるかというランダムさは
やろうとして出せるものでないのかもしれません。

そこが「わざと」失敗する難しさのように感じられます。

2015年03月19日

リズムの違い

音による影響には色々な種類があるようです。

例えば、声の高さ。
キーキーと響くような甲高くて、周波数帯の絞られた声は
頭に突き刺さるようでストレスフルです。

一方、関西のオジサンや喫煙者に多く見受けられる
低くてビリビリと響くような声は、よく聞こえてきてしまう感じで
意識にあがりやすくて、つい気になってしまいます。
他の雑音に紛れにくいとか
散乱しにくいとかいうのがあるのかもしれません。

もちろん音量が大きければ、そのほうが気になります。
どうしても聞こえてしまいますから。

人の話し声の場合、その上に感情が乗ってくるものです。
この感情のメッセージも厄介です。
普段、電車の中で静かに過ごしたいときに
怒りや不満の声を耳にすると、かき乱されたような感じになります。

しかし、僕にとって最も大変なのは、どうやら
スピードやリズムらしいんです。

同じ声量でも、同じような声のトーンでも
リズムが変わると巻き込まれる度合いが違います。

大きな声で、甲高い声で、楽しそうな感情を乗せながら話していたとしても
その話すスピードが生み出すリズムによって影響が違う。

同じように高い声でハイテンションで話していても
マダムの集まりが話していてるのと
ママ友が話しているのと
高校生が話しているのと
小学生が話しているのとでは
スピード感というか、テンポというか、リズムが違います。

そんなリズムのなかでも
速いときに気分を巻き込まれやすいようなんです。
影響されてしまう。

おそらく自分の普段のリズムとのギャップに戸惑うんでしょう。

特に、自分の中で予定しているものがあるときには
こうした速いテンポでハイテンションの会話が苦手です。

こちらとしては静かに目をつぶって気持ちを休めたい…
なのに、回りから活発でスピード感のある声が聞こえてきて
そのリズムに巻き込まれてしまうから、全然休まらない。

あるいは、考えごとをしたい場合、僕の内面では
静かで広いスペースに小さな音の考えが
ポツポツと浮かび上がってくる感じになります。

このときのスピードは速いものの、一定速度で抑揚もとても小さいので
急激に速くなったり声が大きくなったり高くなったりするような
テンションの高い感じの、起伏の多い会話とは違いが大きすぎます。

そのため、考えごとをしている場合にも
そうしたハイテンションの会話が気になってしまうんです。


ちなみに社会人男性になると若い人でも
なぜか、あまり早くは話さない傾向にあるので、
そうした人たちの会話は上に挙げた集団よりも少しスローペースです。
何より起伏が小さい。

リズムとして大人しい感じなんです。

音楽でいうなら、同じBPMでも
クラシックなのか、サンバなのか、ハウスなのか、ロックなのか…
で、印象が全然違うようなものでしょうか。

スピードや音量だけでなく、リズムの違いが雰囲気の差を生み出しますから、
自分の内面のリズムと合っていないものを聞くと、単純に相性が悪いんでしょう。

世代や年齢によって典型的な活動のリズムが違うんだと思われます。

そして僕の活動リズムと合わない人たちの会話は
僕にとっては、かき乱される印象に感じられる、と。

その人たちにとっては快適な、普段通りのリズムなわけですから
それをとやかく言うこともできません。

聞こえてきた場合には、こちらとしては遮断するために
別の音楽を聴くぐらいが精一杯というところです。

2015年03月17日

健康に『戻る』

「健康」というのが「良いもの」と認識されている限り
健康にはなれないような気がします。

「健康になる」とか「健康を手に入れる」のように
「今とは違う状態」という目標として設定してしまうと、
 その健康な状態に辿り着くために望ましいこと
を生活に取り入れようとするようです。

巷にあふれる健康に関しての情報は
ほとんどがこの
 健康という望ましい状態を手に入れるために効果的なこと
になっているはずです。

そうすると、
「○○は体にいい」
とか
「△△すると××になりにくい」
とか
「◇◇という栄養素には、〜の効果がある」
とか、
そういった話が増えてくる。

しかしながら考えてみれば
生物には「適した条件」があるだけであって
「もっと良くなるための条件」は存在しません。

基準から逸れると問題が起こるのですから
「基準に合っている」か「基準に合っていない」かの間で
どのぐらい基準に近いかが評価されているんです。

つまり100%に近いかどうかの話で、
高得点を競っているわけではない、と。

ところが巷の健康情報は
「これをすれば健康度数が上がっていきます」
とでも言わんかのように、「良いこと」を勧めます。

まるで
「あなたの今の健康度が40だとしても120だとしても、
 この栄養素が含まれた食品をとれば健康度は50上がります」
という感じ。

だから「健康に良い」とされることを沢山組み合わせるほど
健康度数は上限なく上がり続けていって、
いくらでも「もっと健康」になれるかのように情報や商品が氾濫する。

そして健康を「良いもの」として目標に据える人は
もっともっと健康な状態を追い求めたくなり、
「健康に良い」はずの知識を集め、実践をするのかもしれません。

しかし、繰り返しになりますが、
生物の仕組みに目をやれば
あるのは「健康から外れていく条件」だけであって、
その視点からすると
 「健康に戻る」ために「基準に近づける」
ための手段を
不足なく満たしていくことこそ求められていると考えられます。

言い換えるなら
「健康にいいこと」や「○○に効果的な栄養素」があるのではなく、
「不足すると健康でなくなること」や
「不足すると××になってしまう栄養素」がある
ということ。

例えば、
ビタミンB1が足りていない人と足りている人とを比べて
足りている人のほうが何かの病気になる頻度が低かったら、
それは「ビタミンB1が、その病気を予防する」のではなく、
「ビタミンB1が不足すると、その病気のリスクが上がる(かもしれない)」
という意味でしょう。

「アミノ酸を取ると筋肉になる」というよりも
「筋肉を再生するのに必要なアミノ酸が不足すると、筋肉が減る」
といったほうが実際の現象には近いんじゃないでしょうか。

「この運動をすると肩こりが治る」ではなく
「このように肩周りを動かす量が足りないと肩がこる」。

ですから、
 健康とは目標とされる「良いもの」ではなく
 生物にとっての基準・ニュートラルな状態だと捉えて、
 元に戻すためのことをすると考えたほうが
 100%の健康に近づけられるだろう、
という話です。

健康を「良いもの」と捉える状態は
ニュートラルから外れた現状をコンフォートゾーンに設定していて、
健康な状態を目標やゴールにしているわけです。

本来の生物的に適した状態から外れた現状というコンフォートゾーンが
普段の状態と認識されるようになって、そこが「いつも通り」のように
勘違いされてしまうんでしょう。

本来は不健康であるはずの「いつも通り」が当然のことになって
そこから上限のない「もっと健康な状態」という仮想のゴールを目指す。

「健康にいい」とされることは沢山ありますから
色々と組み合わせることになるんでしょうが、
そこには「自分には何が不足しているか」という発想がありません。

そうではなく、むしろ
「健康」という生物的なニュートラルをコンフォートゾーンに設定して
普段の状態がいかに「不健康」なほうにズレてしまっているかを自覚すると、
健康に戻るために足りないものを気づけるようになる。

そうやって健康を当たり前の状態と認識して
健康からズレてしまっている状態に不快感を自覚し
不足しているものを補って基準に戻そうとする
…ということを常にやっていれば
その人は「健康な人」ということになるんだと考えられます。

残念ながら、多くの人は自分の健康な状態を忘れて久しいはずですから
戻すべき基準さえ思い出せず、
「上限のない健康」のような仮想目標を目指すことになるのでしょう。

僕も常日頃から「生物的ニュートラルとしての健康」を思い出して
健康に戻すためのことをしていたいと思います。


…ただ、一気に基準から大きくズレてしまうと
 基準が分からなくなってしまいやすいのが悩ましいところ。

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2015年03月15日

言葉の意味を想像してみました

新聞や雑誌の記事の中でニュース以外のものを「コラム」と呼び、
筆者の個人的な見解が含まれるのが特徴とされます。

多くの場合、囲み記事になっていたり、
他のニュース記事や特集記事と比べると短めだったりするようです。

そのため紙面の内、一段ぐらいで収まる傾向が見受けられます。


僕自身は「そういう記事をコラムと呼ぶものだ」と何気なく捉え、
なぜコラムと言うのかなんて考えることもありませんでした。

よくあるカタカナ単語と同様に、外国語のものを引用しているだろう
といった程度で思っていたんです。

たぶん英語で短めの個人的見解の記事をコラムというんだろうな、と。

確かに英語でも「 column 」という単語があって
それは日本語の「コラム」に対応するそうです。
新聞の囲み記事は「 column 」と呼ばれます。

一方、「 column 」という単語そのものは
英語では別の使われ方をすることも多いんです。

おそらく最も一般的な意味は「柱」でしょう。
特に円柱状の構造物が「 column 」。

これは建築に限らず、例えば
大脳皮質の神経細胞が重なって厚み方向に作る柱状の構造も column で、
日本語に訳されるときにも「コラム」と書かれることがあります。
(実際に柱になっているというよりは、同じ機能に関わる範囲が
 縦方向に伸びるような形になっている、ということでしょう)

そして数学でも行列の「列」が「 column 」と呼ばれます。
エクセルでいうなら、横方向が「行( row )」で、縦方向が「列( column )」。

日本語は縦書きですから、原稿用紙を思い浮かべたとき
1行目、2行目…と縦方向の「行」が追加されていくように述べられますが、
英語は横書きなので横方向に文章が進んでいって
横方向の「行( row )」が1行目、2行目と追加されていくわけです。

なので横向きに長く伸びるものが「 row 」。
それと対比して、縦向きに伸びるものが「 column (=列)」なんです。

ちょうど柱( column )が地面から縦方向に伸びるのと同じように
縦方向に長い形が「 column 」と呼ばれる、ということのようです。


で、話を新聞に戻します。

日本の新聞は縦書きですが、段に分けられています。

縦一行当たりの文字数を少なくして、早めに改行することで
縦書きに並んだ文章が横長に進んでいく「段」の構造となっている。

ニュースのボリュームによって段数が変わりますが、
重大なニュースほど段数が多く、文字数をたくさん使って
詳しい内容を紹介することになります。

逆にチョットしたニュースとか、編集者や記者の意見などは
一段で終わったり、一段の半分ぐらいで終わったり、あるいは
他から切り離すために罫線で囲った範囲だけに収まったりします。

いわゆる「コラム」は、この短い囲み記事に相当するみたいです。

一方、英語の新聞や雑誌は、文章が横書きで書かれながら
紙面の左端から右端まで一行が伸びることはありません。

ほとんどの場合、早めに改行して
横書きの文章が縦方向に進んでいく形になります。
紙面の中には縦方向のブロックが並ぶわけです。

つまり1ページに、3列とか4列とかのブロックがある、と。
「列」ですから「 column 」です。

日本語の新聞や雑誌が「数段」で構成されるように
英語の新聞や雑誌は「数 column(s) 」で構成されているんです。

そして、その中には当然、短い記事があります。

短いから縦長の1ブロックで終わったり、それより短かかったりします。
1列以下で終わる。
「1 column 」です。

縦長の構造物になります。

短い囲み記事を英語で「 column 」と呼ぶのは、
きっとこのような紙面上の形から来ているんじゃないでしょうか?

そんなことを想像しました。

本当かどうかは知りません。
ですが、「 column 」という単語の意味を考えると納得感があります。


逆にいえば、日本語の新聞や雑誌で書かれている「コラム」の多くは
別に「 column 」の形をしていないんだろうと思われます。

「短い記事を『 column (コラム)』っていうんだな…」
ということで、そのままカタカナの言葉を使ったのかもしれません。

当たり前に使っている言葉ほど
その意味を振り返ってみると面白いような気がします。

2015年03月13日

信じる者は…

占いでもそうですが、多くの人は
断言してもらうことで安心する傾向にあります。

「これが正しい」と信じることで拠り所になるとか、
「これでいいんだ」と思えることで安心するとか、
そんな効果があると思われます。

実際のところ、この安心感(不安や心配から解消される感じ)は
かなりの効果を発揮します。

安心することで普段通り、練習通りのパフォーマンスが発揮できますし、
人間関係においては、堂々と自信をもって接することが
自分の望ましい結果に繋がることも多いものです。

つまり、不安なままやるから上手くいかないことが多い、という話です。

例えば
営業のやり方に自信がない人が売り込みをすれば
その自信のない雰囲気だけでも、相手は気軽に断りやすくなります。
自信をもって勧めてくれないから、商品も魅力的に感じられないこともある。

それが堂々と自信をもって関わってくれるだけで、相手は
「あぁ、この人は信じられそうだ」という印象を持つかもしれませんし、
雰囲気に気おされそうになって流れにまかせて買ってしまったりもするでしょう。

その場で買うにいたらなくても
「こんなに堂々と勧めてくれるんだから、きっと良いものなんだろう」
という印象ぐらいは残せるだろうと思われます。

ですから、何かしら拠り所になるものをもっておくのは
それだけで自信を持って振舞えるようになるという意味で
大いに役立つんです。

「これでいいんだ」と思えるだけで不安が解消され、悩むことが減り、
結果的に救われたようになる。
信じることの大きな効果でしょう。

世の中に「こうすれば上手くいく」という教えが多いのも頷けます。

そう言ってもらったほうが楽ですし、
頼りにできるものがあることで生まれる自信が効果を生む。

実際にその教えや方法そのものが役に立っているかどうかとは別に
拠り所ができることの効果も非常に大きいわけです。

本質的にいえば、どんな場合でも上手くいく方法なんてありえません。
1つの方法では上手くいかない例外的な状況があります。

何より、自分以外の相手が関わる場合には
自分でどうにかできる範囲ではないものも含まれてきます。

そのことを踏まえれば、
「自分にできる最善を尽くして、その先は諦める」
といったスタンスぐらいは原則と捉えられるかもしれませんが、
この原則は「上手くいく」方法ではありません。

するとやはり、「上手くいく」という結果にフォーカスした場合には
どんな場合でも使える方法は難しそうに思えます。

営業であれ、教育であれ、子育てであれ…
「これが正解」というものがあるとは考えにくく、
 「この人、この場合には合っている」方法
とか、
 「私はこれが大切だと思う」という価値観
とか、
そのあたりが現実的ではないでしょうか。

だからこそ多くの人は、
 自分でやってみて上手くいったかどうか
 自分がやってみて良いと思えるかどうか
を基準に、方法を模索するんだと考えられます。

このような正解がないにもかかわらず思い入れの強い分野では
「上手くやりたい」と願うからこそ悩みも大きくなります。

そして「これだ!」という正解を誰も知らず、
「自分の場合はこれが上手くいった」という経験則で誰もが乗り切っている。

誰もが試行錯誤しながら
「これで良いんだろうか」と不安を抱えつつ、
それでも自分なりに頑張っているんでしょう。

そんな不安の大きな人には、具体的に役立つ方法ももちろんですが、
それ以上に「こうしておけば間違っていない」という拠り所が役立つんです。

信じられるものを持つことで、まずは安心できる。
過剰に悩まなくなるんです。

「これでいい」という方法を信じた後に
それでも上手くいかないことがあるとしたら、
その場合は「自分のやり方は、まだ未熟なんだ」と
技術不足として認識することができます。

課題がハッキリする。
(本当かどうかは別にして)

すると、何に取り組めばいいかが分かっているため
問題意識はあっても、それに対して悩まなくなるわけです。

問題を抱えるのと
問題があることに悩むのとは
別物なんです。

何か信じられるものを持っているのは
そういう意味で、悩みを解消してくれます。

「こうすればいい」と信じられることで救われる部分です。


最終的には、正しいことなどないことを受け入れ、
それに不安を感じるのではなく、
それゆえの自由を感じ、喜びを感じながら、やりたいことをやる
…ということなのかもしれませんが、

まずは信じられる拠り所をもっておくのは
現実的に役に立つことのようです。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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