2015年06月

2015年06月30日

英語の土台

スペイン語を習ってみて気づくのは、
 いかに日本人が英語に親しんでいるか
ということです。

中学校から英語教育を受けているだけでなく
(近頃は小学校から始まるようですが)
身の回りにカタカナ語として英語が溢れています。

デスク、オフィス、テーブル、シート、ベッド、ブック、ノート、ペーパー、
ナイフ、フォーク、オーブン、キッチン、リビングルーム、トイレ、ドア…
身の回りにあるものだけを考えても、日本語で呼ぶよりむしろ
カタカナ語で英語由来の呼び方をするものが沢山あります。

「中学校で習った英単語だから皆が知っているはず」という前提で
カタカナ表記にする場合もあるのかもしれませんが、
トイレ、ドア、ノート、ペン、ナイフあたりは小学校1年生でも
分かっているのではないでしょうか。

アルファベットで表記されたものも身近に色々とありますし、
英単語として意味を知らなくても耳に慣れている外来語は数多いようです。

例えば、野球が好きな子供だったら
「ソフトバンク・ホークス」という言葉に馴染んでいて、
後に soft、bank、hawk という単語を知ったとき
それぞれの単語の意味を聞いて「そうだったのか!」と覚えやすい。

カタカナ語を英語と勘違いして使ってしまって伝わらない…
なんていう話は問題点として指摘されることもあるようですが、
他の言語のように全く目にしたこともないことと比べれば
身近に英単語が溢れているのは役立つところが大きいと感じます。

上に挙げた英語由来のカタカナ単語を
仮にフランス語やスペイン語、ドイツ語などで知っているかと聞かれたら
勉強したことがない限り、日本人には知る由もないのではないでしょうか。


英語を教える人たちの中には、ネイティブスピーカーも含めて
 日本語にカタカナがあることで、発音やリスニングに支障が出る
と指摘する人もいます。

英語の音をカタカナに変換して聞いてしまう。
だから区別ができない、と。

確かに、日本語を英語圏の人が聞いた場合、
英語は表音文字ではないので、音を即座にアルファベットへ変換する
というのは簡単な作業ではないと思われます。

それでも違いは、文字として認識しようとするかどうかの話だけで、
外国語の音を母国語の音に近づけて認識してしまうのは
カタカナを使う日本人だけの問題ではありません。

例えば英語には、日本語でいう促音(小さい「っ」)がなく、
アクセントのある母音を強く発音する際に、ときには「ッ」のようになったり
ときには「ー」のように伸ばす感じになったりと区別が曖昧なようです。

ですから、英語話者からすると「音(おと)」、「夫」(おっと)、「嘔吐(おおと)」は
区別が難しいらしいです。

ちょうど日本人が英語の母音の区別に苦しむようなものでしょう。

これは単純に音の認識のしくみの問題だと考えられます。

発話を聞いたとき、「ア・イ・ウ・エ・オ」の、どの音に近いかによって
典型的な音の基準に当てはめて認識するんです。

絶対音感の人が「全ての音がドレミで聞こえる」というの同様でしょう。
実際の音は、厳密に音階として定義された周波数の音ではない場合でも、
1オクターブを12音階に分けた段階に当てはめます。

日本語は母音を5つしか持たないのに対して、
英語は(数え方によっては)10〜16個の母音があるとされます。

日本人からすると「ア・イ・ウ・エ・オ」の中間のような音があって、
倍ぐらいの音を区別する必要がありますから、
それは確かに大変なのかもしれません。

だからといって、日本人だけが特別に不利なわけでもないはずです。

実際、スペイン語の母音も日本語と近い「ア・エ・イ・オ・ウ」です。
音色は日本語と少し違うところもあるように感じられますが
それでも母音は5つしかないんです。

日本人が英語を聞くときにカタカナに変換して
5つの母音に近づけて聞いてしまうのが問題というのなら、
スペイン語圏の人も、スペイン語のスペルに変換して
同様に5つの母音に近づけて聞いてしまうことになる、といえます。

リスニングに関しては、カタカナがあるからとか
日本語の母音の数が少ないからというのは、
それ自体が特別なハンディキャップではないように思えます。

こうした音の違いは全ての言語間で起きるものでしょうし、
母国語に存在しない細かな音の違いは、区別が難しいものでしょう。

英語を勉強する日本人に限らず、ある意味では
外国語を身につけるときには避けられないハードルだろうと考えられます。


発音にしてもそうです。

日本人が英語を発音しようとすると、
カタカナを土台とした日本語の音になりやすく、
アクセントやイントネーションが平坦なものになりがちです。

もちろん、発音はネイティブに近いほうが聞きとってもらいやすいでしょう。

日本人だって、外国人がキレイな日本語の発音で話してくれるほうが
会話をするときに聞きやすく、余計な労力を必要としません。

逆に、英語なまりや中国語なまりの強い日本語を聞くときには
「何て言っているんだ?」と注意深く耳を傾ける必要が出てきます。

その負担の問題です。

僕個人の体験でも、かなり母国語のアクセントが影響している英語を
何パターンか聞いたことがあります。

それでも頑張れば英語として認識できますし、
英語ネイティブの人なら、多少の発音の違いは汲み取れるようです。

どこまで相手の話を理解しようとして訛りのある英語を聞いてくれるかは
言語というよりも、コミュニケーションの姿勢の話だと思われますので、
意志疎通の必要性が高い場面であれば、発音の違いはさほど重要ではない
という印象を受けます。

僕の知っているコスタリカ人は母国語がスペイン語で、
「英語が話せる、英語を教えている」と自信満々ですが、
その発音は、まるっきりスペイン語のままです。

中国出身でインターナショナルスクール育ちだといっていた若者も
「広東語と北京語と英語と日本語の4ヶ国語が話せる」と言っていましたが、
日本語はカタコト、英語の発音は広東語訛りが激しくて
僕には何を言っているのか全然分かりませんでした。

青色発光ダイオードでノーベル賞をとった中村修二氏にしても
アメリカの大学で教授をしていますが、その発音は日本語のアクセントのまま。
まさにカタカナ英語でアメリカ生活をし、大学の授業もやっているわけです。

英語を話すという意味では、母国語の発音の影響で訛りがあっても
あまり大きな問題にはならないのが実情なのではないでしょうか。

どちらかというと、
ネイティブ並みの発音を身につけようとする外国語学習者のほうが
少数派のように見えます。

※ちなみに、日本人の英語は
 アクセントが弱過ぎて聞きにくいとは言われるそうです。
 カタカナ英語でもアクセントやイントネーションの強弱をつければ
 かなり言葉として通じやすくなるということなのかもしれません。


リスニングにしてもスピーキングにしても発音の影響が軽減できる理由は
 文脈から単語を推測できる
ということでしょう。

1つ1つの音として聞かなくても、単語として認識できてしまえば
細かな違いは問題ではなくなるわけです。

日本人のカタカナ発音でも、ネイティブが文脈から単語として察してくれれば
似た音の単語から探し出してくれて、意味は理解してもらえる。

日本人が英語を聞くときでも、「この単語は、こういう音なんだ」と
単語単位で認識できるようになってしまえば、
細かな母音や子音の違いは影響しなくなりますし、
文脈から単語を推測できれば、さらに細かい音の違いは問題でなくなります。

例えば、L と R の音の違いも、文脈から単語を推測できてしまえば
rice と lice で間違うことはあり得ないでしょう。

とすると、文章の中で言葉を学んでいくのが重要そうです。

文章の中で単語が聞こえてくれば
細かな発音の違いが認識できなくても聞けてしまうことがあるし、
文章の形で発音していれば、訛りの強い英語であっても
ネイティブには想像しながら聞きとってもらえる、と。

もちろん、発音や細かい音の違いに注意を向けたほうが
リスニングやスピーキングの技能が上がることもあると思います。
実際に僕は、それを実感しています。

が、外国語として英語を使っている人たちを広く見てみると、
意外なほど、発音の違いは問題となっていないようだ、という話です。

日本の学校の英語学習では、文法や読解が中心で
発音やリスニングなどの「音」の要素は軽視されている傾向があるようですし、
また、日常的に目にすることの多い英単語も、カタカナ語として
音を誤魔化したままインプットされているのが実情です。

それでも、カタカナ英語に触れる量の多さが
英語のリスニングやスピーキングを妨げているか?と考えると、
必ずしもそうとはいえない気がするんです。

むしろ現実的には、カタカナ語としてのインプットで
英単語を知っているメリットのほうが大きいと感じます。


このことは英語以外の外国語を勉強すると実感できます。

単語を覚えるハードルも高く感じますし、何より
始めて見る単語だらけなので、単語の区別さえ困難さを感じます。
単語のスペル(形)から、品詞を推測することだって難しいんです。

なんとなくでも馴染みがあるというのは
意外なほど効果が大きいもののようです。

1と2の差よりも、0と1の差のほうが大きい、といった感じでしょうか。

日本人にとっての英語は、ゼロからのスタートではない。
小学校の時点でも、です。

そして中学3年間の英語だけでも、かなりの基礎になっています。

とかく批判されることの多い日本の英語教育ですが、
僕は個人的に、それほど悪くないと感じています。

スペイン語圏の人が英語を勉強するのと
日本人が英語を勉強するのは大きく違います。

文字の認識だってそうですが、
何よりも文法の違いが大きい。

単語の並び順に意味を持たせる英語、スペイン語に対して、
日本語では助詞を使って単語同士の関係性を説明します。

詳しく説明(=修飾)するときの順番も、
英語、スペイン語は後ろからで、日本語は前から。

細かな語形変化も重要な文法要素ですが、それ以上に
単語の並べ方という言葉の基本構造が別物なんです。

日本人は、この並べ方のルールを覚える必要があります。
そのルールを覚える段階としては、日本の中学校の英語教育は
それなりに効果的なんじゃないかと思うんです。

たしかに、中学校、高校と6年間英語をやったとしても
文法と読解中心の日本式英語教育では、
英語を会話の手段として使えるようになるのは簡単ではないでしょう。

音として聞いたり、発したりするトレーニングをしていませんから。

ただし、それはトレーニング量の問題が大きいとも言えそうです。
聞いて単語を捉える練習をしたり、
口頭で英作文をする練習をしたりしていない。

英語の授業にかけられる時間が決まっているわけですから、
何を優先して勉強するかという話になります。

ルールを覚える段階を減らして、リスニングや発話のトレーニングをしたら
「英語を話せる」日本人の割合は増えるのかもしれません。

あとは、その
 「話せる」の基準をどうするか?
でしょう。

スムーズではないけれど、なんとか英語圏で日常生活をこなせる
…ぐらいの英語力を求めるのであれば、中学校の途中や高校ぐらいから
リスニングや発話など、英会話のトレーニングを入れても良さそうです。

一方、大人としての日本語力に近いレベルの英会話を求めるとしたら、
文法や表現方法として、しっかりした土台が必要になると考えられます。

その土台作りの期間として中学、高校の英語の授業を使うと捉えれば
教育方針としては1つの形なのではないかと感じます。

ですから、高校ぐらいまで英語の授業を受けていた日本人の多くは
実際のところ、かなりの英語の土台が養われている。

だいぶ忘れてしまっているとしても、その土台はゼロではありません。
取り戻すのにも、その気になれば、さほど時間はかからないはずです。

日本語と英語の文法の違いを考慮したうえで、
大人になってから英語を使う必要性が出る場面を想定したら、多くの日本人が
なかなか効果的な英語の土台作りをしていたのではないでしょうか。

「外国語を話せる」という度合いではなく、英語の土台として注目すると
日本人には相当な英語のポテンシャルがあるようです。

2015年06月27日

論理の練習

以前テレビで、とある速読教室が取り上げられていました。

そこの速読教室に通うと、野球の素人でも
150km/hのボールが打てるようになる
…というのが番組として注目したところのようでした。

小学生でも主婦でもお年寄りでも、簡単に打ててしまうとして
教室の生徒たちがボールを打っている姿も放送されていました。

どうしてこんなことが可能になるのか?
速読のトレーニングとして目を早く動かす練習をすると
速く飛んでくるボールにも反応できる。
そんな趣旨でした。

それで実際に、運動が苦手なお笑い芸人をサンプルとして
本当に自足150kmのボールを打てるようになるか?
という「実験」らしきものをやっていたんです。

まぁ、結論としては、おおよそ「実験」と呼べる形ではなかったわけですが。


流れはこんな感じです。

まず、運動の苦手なお笑い芸人を数人選び、
彼らをバッティングセンターに連れて行きます。

そして手始めに90km/hに設定されたマシーンの打席に立たせる。
野球をやったことのない人たちですから、みんな空振りです。
ボールに当たりもしません。

トレーニング前だとこんな感じだ、と見せた後で
速読のトレーニングをします。
主に目の使い方のトレーニングのようでした。

それから今度は150km/hに設定されたマシーンの打席に立たせる。
剛速球が飛んできます。

もちろん素人ですから、フルスイングをして打てるはずもありません。
だからなのでしょう。
バットを短く持たせ、小さく構えて、
とにかくバットを出すだけの打ち方をさせていました。

ボールが飛んできたら、そのボールの軌道にバットを出すだけ。

するとボールがバットに当たります。
はじき返されたボールは飛んでいく。

90kmでも空振りをしていたのに、速読のトレーニングをしたら
150kmのボールを打てるようになった!という結果でした。


この主張には論理的に色々と欠けている部分があります。

実験としても何も示せていません。
このようなデータを出して論文を書いたら
どの分野でも学術論文としては受理されないでしょう。


まず『定義』が曖昧で、定義に沿ったデータの取り方をしていません。

具体的には「打てる」という部分です。

最終的には「バットにボールが当たる」ことを「打てる」と表現したようですが
まぁ、それは世間的に言って「打てる」の範疇ではないでしょう。

ただ、主張者が
 ここでは、バットにボールを当てられることを「打てる」と呼ぶことにする
と定義してしまえば、それで通る話ではあります。

問題は、実験として定義した「打てる」の概念が
実験から離れた実際の場面(たとえば野球の技術として捉えたとき)とは
大きくかけ離れているところです。

こういうときには
 実験が実際に応用されるケースを反映していない
という指摘を受ける可能性が高いはずです。

さらに実験レベルで問題なのは、
 「打てる」として定義した作業を、同じ内容で繰り返していない
ことです。

「バットがボールに当たる」ことを「打てる」と呼ぶとして
では「どんなやり方でバットをボールに当てるように試みるのか?」
という視点が統一されていません。

これは実験上の問題です。
作業は統一して行うことで、条件の違いの影響だけを比較できます。

比較したい2つの条件(トレーニング前とトレーニング後)で
「バットをボールに当てる作業」を変えてしまったら、
トレーニングの効果なのか、作業を変えた効果なのかが不明瞭です。

トレーニング前のときには、本人なりのフルスイングをさせていたのに、
トレーニング後には小さく構えてバットを出すだけにさせている。
この違いが大きすぎます。

もしかしたら、トレーニング前にも
小さく構えてバットを出すだけの作業で「打つ」ことを試みてもらっていたら
ボールに当てられていた(=「打てていた」)かもしれません。


次は、もっと致命的な『条件の比較』の問題です。

比べたい条件は「トレーニングの前とトレーニング後」のみであるはずなのに
トレーニング前は90km/h、トレーニング後は150km/hとなっています。

一般的なイメージからすると、
 90kmよりも150kmのほうが速いのだから
 150kmのほうが打つのが大変だ
と思われがちかとは推測できます。

90kmを打てないのだから、150kmはもっと打てないはずだ、と。

しかし実態はそうでない可能性があります。
むしろ150kmのほうが「打ちやすい」のではないでしょうか。
この「打てる」の定義であれば。

つまり、
バットを出して、飛んでくるボールに当てるだけなら
ボールの飛ぶ軌道が直線に近い150km/hのほうが
軌道を予測できる分だけ当てやすい
という可能性です。

90km/hのボールの軌道は山なりです。
野球初心者には軌道を捉えるのも大変でしょう。

しかもバッティングセンターのボールは同じようなところに飛んできます。
大きくコースがズレないものです。

タイミングに関しても、ランプが光ったり、投げる瞬間の音がしたりと
キッカケがつかみやすいはずです。

150kmのボールであれば、一度コースが掴めたら
あとはタイミングに合わせて、そこにバットを差し出すだけ。

例えば、ランプが光ったら「1、2、3」でバットを出すとか、
ボールが放たれる音を聞いたら、すぐにバットを出すとか。

音を基準にしたら、もしかすると目をつぶっていても当たる可能性がある。
バッティングセンターの条件は、そんなものかもしれません。

「バットにボールを当てられる」ことを「打てる」と定義するなら、
150km/hのほうが「打ちやすい」のではないか、という指摘です。

ですから、本当にトレーニングの影響だけを比べたいのであれば
トレーニング前後ともに150km/hのマシーンでやる必要があります。
(「速読のトレーニングをすると、150km/hが打てるようになる」が主張なので
 90km/hの条件で比較をすることはできません。)


ところが、
 トレーニング前後ともに150km/hのマシーンを使い
 同じ打ち方(バットの出し方)をさせて、
 バットとボールが当たる確率を比較する
という実験をしたとしても、
その結果から結論を導くのは最適ではありません。

実験としては認められるレベルでしょうが、まだ問題点を指摘されるはずです。

それは『作業への慣れ』の問題です。

仮にトレーニング後のほうが当たる(=「打てる」)確率が上がったとしても、
 それは150km/hのボールに当てる作業そのものを繰り返したため
 慣れてきたからではないか?
と指摘されると反論ができないんです。

ですから、こういうケースでは一般的に
同じ人物を使ってトレーニング前後の比較をしないと考えられます。

つまり、野球の技術レベルが同等の人たちを大勢集めて、
トレーニングをするグループと
トレーニングをしないグループとに分け、
両方のグループの結果で比較をする、と。

当然、事前に両方のグループで150km/hの打席に立ってもらいます。
そして同じだけの球数で、当たる確率を事前計測する。
(ここの時点で、平均的に両方のグループが同じぐらいだと望ましいでしょう。)

それから
トレーニングをするグループには速読のトレーニングを受けてもらい、
しないグループには、無関係な作業(例えば、普通に読書をしてもらうとか)で
同じだけの時間を過ごしてもらいます。

その後、両方のグループに再び150km/hのボールを同様に打ってもらう。

これで2つのグループを比較したとき、
バットに当たる(=「打てる」)確率が
トレーニングをしたほうのグループで高ければ、
 速読のトレーニングをすると、150kmのボールが打てるようになる
という主張は実験的にサポートされたことになります。

もちろん、こうしたデータはグループの人数、打った球数として
統計的な手法を用いて比較される必要があります。

得られた差が、偶然ではなく、条件の違いによるものだ
と統計的に言えることが求められるわけです。


このように、
「〜すると…になる」
という「〜」の効果を検証するには、
それなりの流儀が求められるんです。

とはいえ、
「速読のトレーニングをすると150km/hのボールが打てるようになる」
という主張が
上に提案したような形で示されたとしても、
それはあくまで
「トレーニングをしないよりは、したほうがボールに当たる確立が上がる」
という程度の結果であって、
どれぐらいの効果があるかについては議論できないものでもあります。

2つのグループには「違いがある」というのが結論ですから。

そのため、実社会へのメッセージとしては
あまり意味が大きくないようにも感じられます。

まあ、もっと言ってしまえば
 速読の練習として目を動かすトレーニングをやって
 150km/hのボールが打てるようになるからといっても
 それが早く本が読めることとの関係は不明瞭だ
という部分も残ってしまうんですが。

2015年06月25日

教養がない

どの程度までを一般教養と呼ぶのかを分かりませんが、
僕は学生時代に、いわゆる理系の方向に進んだこともあって
勉強した内容がかなり偏っているんだと思われます。

僕は応用化学科だったんですが、大学の1年生から既に
化学に関する科目が沢山あって、化学以外の科目は
基礎実験と物理、数学、それと語学、
あとは各期に2科目の一般教養だけでした。

理系の中でも相当に化学に限定されていて
物理を少しやるぐらいを除けば、同じ理工学部でも
他の学科の人とは相当に専門化された勉強をしていたみたいです。

実際、時間割の大部分は「〜化学」とか「〜実験」という名前でした。

ですから、僕が一般教養としてとった科目は
「科学とデザイン」、「環境と文化」、「心と機械」、
「精神分析」、「心理療法」、「流通システム」とか
それぐらいだったような記憶があります。

こうして見ても、半分ぐらいは理系の一般論ですから、
他の学部の人が勉強するような科目はゼロに等しいとさえ言えそうです。


一方、アメリカの大学では「 Major (メジャー)」と呼ばれる専攻もありながら
専攻以外の科目もかなりの数をとるようで、例えば
 心理学専攻でありながら、政治や経済、法律などの授業も取る
なんてことは結構あるようです。

しかもアメリカの大学システムだと120単位を取れば卒業可能なので
4年で卒業するとしたら1年あたり30単位。
3年で卒業したければ1年に40単位とればいいわけです。

大体の場合、1科目で一週あたり3時間の授業があって(90分×2、60分×3)
計算上は1科目が3単位に相当するのが一般的。

そのため、4年で卒業するために1年で30単位とるなら、
(春学期、秋学期に加えて夏学期も取るとしたら)
春と秋に4科目ずつ、夏に3科目(夏は期間が短いので進みが早く厳しめ)
を取っていく計算になります。

一学期に4科目しかないんです。
月〜金曜日に分配すると、1日あたり2コマが平均。

期末テストも4つで済みます。

「日本の大学は入るのが大変で、卒業するのは簡単。
 アメリカの大学は入るのが簡単だけど、卒業するのが大変。」
なんていう評判を目にすることがありますが、
この話だけだと、そうでもないように見えるかもしれません。

ただしアメリカの大学は、この週に4科目が結構みっちり。
予習の求められる量、出される課題の量が違うんです。

毎日、次の日の科目の予習と、宿題をやっている感じでしょう。
勉強する量は確かに多いようです。

特にアメリカ国内では全寮制のことが多いそうで
一日中、図書館や自習室など、キャンパス内で過ごすんだとか。

少ない科目をしっかりと勉強し、
読み書きのトレーニングを繰り返して卒業する。
そういうスタイルのようです。


それと比べると、僕の学生時代は、1日3コマぐらいが標準で
実験の日は大体が朝から夕方まで続いていました。
期末テストは10個ぐらい受けていたと思います。

4年生になったら研究室で実験をするばかりで
授業やテストはほとんどない。
とにかく3年生までに必要な単位数を先取りしておくようなスタイルでした。

本当は予習することになっていますが、どちらかというと
レポートに追われる感じで、授業のほうは出ているだけだった気がします。

好きな科目は一生懸命に聞いて、授業時間で理解を深め
テストで記憶に定着させていくような流れがありましたが、
嫌いな科目(嫌いな教授)の場合は、睡眠時間にあてるか
他の科目の課題を終わらせるのに使っていたものです。

ですから、継続的に知識を積み重ねていったという印象はありません。

専門科目の中でも好きなもの…、つまり最終的に研究分野として選んだものは
その周辺も丁寧に勉強していた記憶があるものの、
いくらかの科目は完全に「捨てて」いたともいえそうです。

とにかく期末テストの前に対策だけ練って、あとは放ったらかし。

自分の中で重要度をハッキリと分けてしまっていたんです。

まぁ、そうでもしないと、ついていけなかったとも言えますが。
毎週実験があって、毎週レポートを書くんです。
2年生からは週に2回実験があって、レポートも週に2回。

僕の勉強机には使いきったボールペンが大量に残っていました。

そのほかにも、別の科目で課題が出ていましたから、
いかにレポートをこなしていくかが日常で
知識を蓄えるための勉強はテスト前に集中するような感じでした。

ということで、机に向かう時間そのものは
僕の通っていた大学の、その学科では、それなりの量が求められていて
ただしその内容が、限りなく専門性に向けられていた、と。

ギュウギュウに詰め込んだスケジュールで
早めに専門家を育て上げるようなプログラムということでしょう。

そのため、一般教養は無視されていたに等しかったようです。


アメリカの大学だと、専門的なトレーニングは大学院から
という趣旨があるみたいで、そのあたりの違いも大きいんだと思われます。

修士課程の2年間が、日本の大学の3,4年生に相当する感じでしょうか。
博士課程は、日本だと3年のところ、アメリカは5年から。

日本の大学院なんて、修士課程も博士課程も、研究一色です。
必要な専門性の土台を学部時代に身につけさせて、あとは
専門家として研究実績を積ませるのが日本の大学のスタイル。

アメリカは、大学の間に一般教養を広く丁寧に身につけさせ、
知識だけでなく、論理的な思考力や文章力をトレーニングする。
専攻科目として知識の基礎を身につけつつ興味の対象を探してもらう。
そして見つけた専門分野についての大学院に入って、それから
詳しい知識を身につけつつ研究活動を始めていく。

教育にかける丁寧さが違うんだと感じられます。

それはもちろん、働き方にも表れるんだろうと思います。


で、僕は改めて振りかえってみて、つくづく教養がないことを実感しています。

化学まわりばっかりです。

大学を卒業してからの経緯で身につけてきた専門知識もあるとは思いますが
一般教養がない。

政治、経済、法律、文学、歴史…。
そういったものに疎いんです。

お金のしくみなんてチンプンカンプンです。

好景気と不景気とか、景気と貿易との関係とか、物価の話とか、
それらに対する政治の関わり方とか、よく分かりません。

バブル経済がはじけて、急に不景気になるなんて
一体、何が起きているのかと理解に苦しみます。

歴史の授業で習った「大恐慌」なんて、
 昨日まで好景気だと浮かれて、お金を沢山使えていた人達が
 一週間程度で急に生活苦に陥る
という不思議な話としか感じられません。

その状況は推測できます。
気持ちも想像します。

が、どういう仕組みで、そんな急激な変化が起こるのかが分かりません。
お金の総量は、一気に変わるわけではないはずでしょうけれど
景気だけが急激に悪化する、ということが理解できていません。

そしてそれに対するニューディール政策。

とにかく知らないんでしょう。

一般教養として勉強していれば違ったのかもしれませんが。

その一方で、政治、経済、法律、歴史のあたりは
その相互の関わりの複雑さがうかがえます。

どれか1つだけを理解することはできないという気がするんです。

複雑に絡み合ったシステムを全体像として理解するには
個別のしっかりした理解が求められると思います。

もう手に負えない予感がしてしまいます。

もし勉強していたら、大変なことになっていたんじゃないか?
なんていう思いが沸くほどに。

どれぐらいまで興味を持てるのか、
どれぐらい理解ができるのか、
底知れないものを感じています。

2015年06月23日

客観的に観察して

最近、あるキッカケで自分の姿を写真で見ることが続きました。

1つは自分がトレーナーとして、人前に立って説明をする姿。
セミナーの様子を示すための写真に写っていたものです。

もう1つは床に座っている姿です。
こちらは、気まぐれで瞑想会に参加したときの様子。

海外の仏教の一派が主催するものだったんですが
参加者全員で輪になって、座禅のような形で座りました。

で、その瞑想の時間の後、解説の話を聞くときの様子が写真撮影されて
後ろ姿としてだけ見えていたんです。


カウンセリング中の姿勢などはビデオ撮影で自覚していましたが
立ち姿や床に座る姿は見たことがありませんでした。

我ながら、随分と体が使えるようになってきたものだと感じました。

もしかすると全体的な立ち方や座り方そのものは
別人に見えるほどは違わないのかもしれません。

それでも全身の一体感やバランス、動きに対する体の各部の繋がりが
とてもスムーズに連携されているように見えました。

おそらく細かい部分の違いが組み合わさっているのでしょうから
一口に良い姿勢とか、姿勢の歪みなどといった言葉では言えないと思いますが
自らを客観的に振りかえったとき、かなりの違いとして認識できる範囲でした。

体のメンテナンスを続けてきたおかげかと思われます。


どちらが先とは言えませんが、内面の状態と姿勢も関連しますから
立ち方や座り方で推しはかれる内面はあるようです。

武道やスポーツでは、立ち方や構えから
調子や技量を読み解くことがあるようですが、
同様に、コミュニケーションにおいても
立ち姿、座り方から見て取れるものがあるんでしょう。

プロとして見ていられる体の使い方をしていたいものだと感じます。

cozyharada at 23:32|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2015年06月21日

お察しします

インターネットにあげられている記事だとか
たまに耳に入ってくる会話だとかで
「波動が高い」
という言い回しがあります。

意味は察することができます。

どうやら
「波動の振動数が高い」
という意味合いのようです。

その人たちが話題にしている「波動」というのがあって
それに「高い/低い」があるんだ、というんです。

同様の内容で「軽い/重い」、「細かい/粗い」と
言い分けられることもあるみたいですから、
話の内容と言葉の表現から察すると
何らかの波動の振動数についてだろうとうかがえます。

波動の「振動数」が高いのであれば
「波長」は短くなって、波形は細かく見えそうです。

波の移動速度の速さや、振幅の大きさ、位相の違いではなさそうですから
「振動数が高い」という意味で話しているのは、ほぼ確実でしょう。

「波動が高い」でも言いたいことは伝わります。

物理では「波動が高い」という表現は使われない気がしますが
何を言わんとしているかは察することができます。


同じくインターネットの記事だとか、ニュースだとか、テレビの情報番組とかで
「酵素が健康に良い」という話を耳にします。

意味は察することができます。

どうやら
「発酵食品は体にいい」
か、
「非加熱の野菜は体にいい」
ということのようです。

実際に生化学の用語として使われる『酵素』は
化学反応を触媒するタンパク質の分子のことです。
アミノ酸が連なったものです。

20種類のアミノ酸の並び順が異なると性質が変わり、
その並び順は遺伝子にコードされています。

ものすごく限定された化学反応だけを促進して、
反応速度を劇的に上げることで知られているものです。

生体内のわずか37℃の環境で、
あれだけ複雑な化学反応のプロセスを進められるのは
膨大な種類の酵素が存在しているからに他なりません。

生体内の化学反応の流れ(代謝)は、電車の路線図のように
代謝マップとして描かれますが、この複雑なマップでは
通常、1区間に対して1種類の酵素が決まっているんです。

そして、その全ての酵素が、遺伝情報を元に作られている。
全ての酵素は、その個体の遺伝子を元に作られるんです。

食べ物から摂取した酵素を利用することはありません。

何より、経口摂取したものは胃酸(塩酸)の中を通り、
消化酵素にさらされて分解されます。

その食物の分解のときに、食品の細胞内に存在する消化酵素も
同時に作用して、消化(分解)を促進する場合はありますが、
食べ物に含まれる酵素の類が機能をもつのは、ここまでです。
(ちなみに胃や腸は「体内」ではありません。
 腸から吸収されてからが体内です。)

どんなに酵素の豊富な食品をとっても、大部分は胃酸で活性を失い、
ペプシンやトリプシンなどのタンパク質消化酵素で分解されます。
そして、アミノ酸の形になって吸収される。

その意味では、肉や魚などの筋肉組織としての
タンパク質を食べるのと違いがありません。

ですから酵素を多く含む食品を摂取するメリットは
 消化されやすい
ということぐらいだといえます。

「非加熱(=生)の食材は酵素が多い」という意見は
この消化酵素の話なのかもしれません。

まぁ、事前に加熱調理すれば、食材に含まれる消化酵素が壊れても
炭水化物やタンパク質の分解が熱によって進むわけですから、
加熱調理と非加熱と、どちらが消化に良いかは分かりませんが…。

もう1つ「酵素」という名前で呼ばれているのが「発酵食品」のことのようです。

野菜や果物、穀物を中心に、発酵させた食品。
滋養強壮、栄養補給などの観点で推奨されます。

こういう発酵の大部分は、乳酸菌の働きです。
ヨーグルトほど乳酸菌を限定して作ってはいませんから、
漬物に近いと考えていただければいいでしょう。

乳酸菌そのものが腸の働きに良いとか、
発酵させる過程で特定のビタミンが増えるとか、
事前に発酵のプロセスで食材を分解しておくと消化吸収が良いとか、
そういったメリットが伺えます。

で、そのようなタイプの発酵食品を、なぜか「酵素」と呼ぶようなんです。
「酵素ドリンク」、「酵素ペースト」の類は、こちらです。

人によっては、この「酵素の元」を使って
自家製豆乳ヨーグルトなどを作るそうですが、
それだって乳酸菌の働きでしょうから、
生化学としては「乳酸菌」のことなんだろうとうかがえます。

たしかに乳酸菌の細胞内には酵素が沢山含まれているといえます。
ただ、だとすると納豆菌だって、パン酵母だって、麹カビだって
どれも酵素を同じぐらい含んでいるはずなので、
乳酸菌だけが「酵素」と呼ばれる理由は分かりません。

健康食品業界の慣例なんでしょうか。

とにかく生化学での学術用語としての「酵素」と
「酵素は体にいい」というときの酵素は
たぶん別物なんだろうと思えます。

呼び方が紛らわしいですが、産業界特有の呼び名はあるものですから
それは仕方のないことなんでしょう。

こちらで意味を察して受け取っておきます。


以上のような話は、
 何かについて説明したいときに
 専門用語とは違った単語を使ってしまっている
というだけのことですから、
受け取る側が頭の中で変換すれば
その意味合いを察することはできます。

しかし、音楽業界やビジネス界の人たちが
「化学反応」という表現については
なぜか僕は納得がいかないんです。

どうやら言わんとしているのは、
「異質なものを組み合わせると、予想外の相乗効果が生まれる」
ということのようです。

「シナジー」という単語だと、ただの相乗効果です。
単体を別々に使うよりも、同時に使うと効果が増す、ということでしょう。

一方、この人たちが使う「化学反応」には
「予想外の」といったニュアンスが感じられるんです。

ええ、察します。
意味はお察しします。
何を言いたいかは汲み取れます。

でも、です。

化学反応は予想外ではありません。
予想通りです。

理論を元に、予想を立てて行うものです。

適当に混ぜてみて、「お、なんか面白いことが起きた」っていうのは
化学ではないんです。

誰かと誰かが一緒に仕事をすると「化学反応」が起こる…。
言いたいことは汲み取れますけど、同時に
 この人は化学のことを誤解している
ということも汲み取れてしまいます。

ただの単語の使い方の違いに留まらず、
意味を誤解しながら比喩的に使っているように思えます。

ただの言い間違えよりも、勘違いの度合いが大きい気がしてしまうんです。

話の内容は察することができますが、
それ以上に引っかかってしまうんです。

2015年06月19日

長いけれど大事な話

「ありのままの自分を認める」という方向性が
上手く機能する場合があります。

その多くは、これまで過剰に頑張って
沢山の成果を『手に入れる』ことを続けながら
それでも「まだ足りない」と頑張り続けてきたとき。

いわば、
 ひたすらビジネスを拡大して、収入を増やし、
 大富豪と呼ばれるようになって、
 それでもまだ「もっと、もっと」とお金を求めていた人が、
 ある日
 「そうか、人生はお金ではないんだ。
  日々に感謝することが大事なんだなぁ。」
 と気づく
ようなものです。

これまでに「お金」という方向で徹底的にやってきた人が
あるときに反対側の大事さに気づき、それ以来
「お金ではありませんよ。『ありがとう』と言いましょう。」
と伝えるようになる。

大きな気づきは、そのような振り幅の大きさを伴うんです。

逆にいえば、振り幅の大きな発想の転換が起きたとき
「大きな気づきだ!」という実感をする、ということです。

ですから
「ありのままの自分でいい」
と感じられて、
それで一気に楽になる場合には、
振り幅の大きさの根拠となるものとして
「こんな自分ではダメだ。もっと頑張らなくては!」
と必死にやってきたいることが多いんです。


しかしながら
「ありのままの自分を認める」
という表現は、一見すると優しいため
多くの人に喜ばれます。

より正確には、
 多くの人の心にある一部分にとって喜ばしい
といえます。

「このままの自分がいい」
「今の自分がいい」
と思いたい部分です。

もっと良い自分になろうとする人にも、
「今の自分はダメだ」と苦しんでいる人にも、
頑張っている気持ちの一方で
「このままがいい」と思いたい部分があるものです。

色々な気持ちが並列で存在しているんです。

ただし、その並列の気持ちを相反するものとして捉えていると
そこに葛藤が自覚されます。

頑張りたい自分と、このままでいたい自分が葛藤する。

葛藤していなければ苦しくはないんです。
バランスの問題とイメージしてもらえばいいでしょうか。


頑張りたい自分が99%、このままでいたい自分が1%だとしたら、
その人は葛藤を感じることなく、ひたすら頑張り続けるでしょう。

たくさん頑張り続けて、頑張っている自分が好きだと感じるはずです。
どこか満たされない部分(1%)が顔を出しても、
新たな目標を設定して頑張ることで満たそうとします。

そして頑張っていることそのものが自分を安心させることにもなる。


同じように頑張りが大きい人…例えば、
頑張りたいが90%、このままでいたいが10%とかだとすると、
10%の満たされない部分がもう少し自覚されやすくなるはずです。

そうすると、たくさん頑張り続け、頑張れば満たされるんじゃないかと
さらに頑張って、それでも満たされないことが薄々自覚されてきます。

それであるときにハッと気づく。
「そうか、このままでいいんだ!」と。

このままでいたい自分が意識に上がって、
それを受け入れたときに、すごく楽になります。

振り幅の大きさから大きな気づきが生まれるのは
このぐらいの状態だといえそうです。


ところが、頑張りたい自分と、このままでいたい自分との強さが
同じぐらいに近づいてくると、どっちに進んでいいか分からない感じになり
葛藤という印象はさらに強まってくるものです。

「頑張りたい、でも、頑張れない…。
 このままでいいんだろうか?でもやっぱり頑張って進みたい。
 いや、それは大変だから、本当はこのままでいいのかも…。
 でも、それじゃあダメだ…。」
といった感じ。

この状態だと苦しい時期が長く続きます。
見動きを取りにくいからです。

頑張るために行動しようとすれば、
このままでいたい思いが邪魔をして一歩が踏み出せない。
このままでいいのかと受け入れようとすれば、
頑張りたいほうが邪魔をして受け入れることができない。
そんな八方ふさがりの状態です。

社会的には、生活していくため、対価にともなる仕事としての責任のため、
「頑張る」ほうが「正しい」ことのような考え方が浸透していますから、
どちらかというと「頑張りたい」自分のほうが肯定的に評価されやすいようです。

そのため、「頑張りたい」自分は、
「頑張らなければいけない」のような考えとして自覚されることがあります。

50:50というよりは、頑張るのほうに比重が置かれやすい、ということです。
頑張りたいが55%、このままでいたいが45%のようなバランスでしょうか。


反対に、「このままでいたい」気持ちのほうが大きい場合もあります。

「このままでいたい」が大部分を占めているとしたら、
その人には頑張りたい気持ちが自覚されませんから
日々は大変なことばかりに感じられるかもしれません。

もちろん楽な気持ちで過ごせるときもあるでしょうが、
それほど頑張りたいわけではないために、周囲からの要求が負担になる。
ストレスはかかるわけです。

「このままでいたいのに、頑張ることを要求される。嫌だ。」
という感じ。
頑張ることを求められない環境に身をおけば楽になれるんでしょうが、
現代の社会では頑張ることが求められますから負担は大きいはずです。

その負担は他者や社会への不満として表現される可能性もあります。


「頑張りたい」の気持ちも少しあって、ただそれが自覚されていない
…例えば、「頑張りたい」が10%、「このままでいたい」が90%とかとすると、
気分としては楽になってくることが多いようです。

「このままでいい」、「ありのままでいい」と言いながら
日常に負荷をかけることなく、楽なスタンスで過ごす。

そして自分の生活を振り返って、
「『ありのままでいい』って思ったら、とても上手くいくようになりました」
と「よい上手くいくようになった『変化』」を喜んだり、
「前よりも大分、ありのままの自分を受け入れられるようになった」
と自分の『成長』を喜んだりする。

良くなっていることや成長を喜んでいるのは
「頑張りたい」ほうの自分だと考えられます。

「頑張りたい」自分がそれほど強くなく、かつ自覚していないときに
「このままでいい」自分を優先しながら、同時に
「頑張りたい」ほうの自分を、望ましい変化が得られることで
「頑張っている」喜びも味わえる、と。



こうした葛藤度合いの違いによって、
「ありのままの自分を認める」という考えを目にしたときの反応も様々です。


おそらく分かりやすそうなのは、
「このままでいたい」気持ちのほうが大きい場合でしょう。

「ありのままの自分を認める」という言い回しは
自分の考えを後押ししてもらっているように感じられると思われます。

「そうだ、そうだ」、「いいこと言う」などと感じながら
今までの自分のスタンスを続ける。

頑張ることを要求されるストレスを感じているとしたら
自分の正当性を保証してもらったことになりますから
気分が楽になる効果はありそうです。

「このままでいたい」気持ちが強い人たちにとっては
「ありのままの自分を認める」という考え方は人気が出やすいと考えられます。


逆に、
頑張りたい自分が99%、このままでいたい自分が1%のような人は
ひたすら頑張るのが好きなわけですから、
「ありのままの自分を認める」といった発想は響かないと思われます。

否定をしたり、無視したりすることもあるかもしれませんし、
あるいは、「ありのままの自分を認められるようになる」という『成長』に向け
さらに頑張るための指標に変えてしまうこともあるかもしれません。

「ありのままの自分を認める」という考えを目にして、
それで急に何かの影響が出るという可能性は低そうです。


同じように、頑張りたい気持ちが大きくても
このままでいたい気持ちがもう少し強い場合では
(例えば「頑張りたい」90%、「このままでいたい」10%、など)、
影響が劇的になることがあります。

ただし、あまりに劇的なため、徐々に影響が出るというよりも
大きな転換が起きるか、起きないか、という二択のようなイメージです。

頑張っても満たされなかった10%の「このままでいたい」自分が、
「ありのままの自分を認める」という考えを知ったとき
一気に顔を出してくることがあります。

気づきが生まれるキッカケになるわけです。
「そうか、自分はずっと頑張ろうとしていた。
 でも、このままでいいって思いたい気持ちがあったんだ!
 なーんだ、このままでいいんだ!」
と大きな転換が生まれる。

しかしながら、これは起きるか/起きないかというシンプルな転換ですから
その考えを知っても、すぐには何も起きない場合もあります。

それでも「頑張りたい」気持ちが大部分で、
「このままでいたい」気持ちが不満として自覚されていたような
(「頑張りたい」90%、「このままでいたい」10%ぐらいの)人は、
「ありのままの自分を認める」という考えが、どこか心に残るものです。

不満として感じられていた「このままでいたい自分」が動かされるからです。
表に上がりやすい状態になる。

そしてあるタイミングで、「ああ、そうか!」となります。

「頑張りたい」自分と、「このままでいたい」自分とのバランスが
これぐらいの人には、この考え方が大きな意味を持ちやすいといえます。

実際に、その気づきが得られたときにも振り幅の大きさから
とてもインパクトの大きな体験となりますし、
だからこそ、その大事さを他の人にも発信したくなるのも納得できます。

とはいえ、繰り返しになりますが、このインパクトの大きさは
「頑張りたい」90%、「このままでいたい」10%のようなギャップの大きさと
同時に、「このままでいたい」自分を自覚できるだけの不満の量が求められます。

その絶妙なバランスにいる人が、
「ありのままの自分を認める」という発想を取り入れるだけで
スパッと大きな転換を迎えられる、ということです。


一方、頑張りたい自分と、このままでいたい自分との強さが同じぐらい
(頑張りたいが55%、このままでいたいが45%のようなバランス)
の人にとっては、影響の表れ方が異なります。

「頑張りたい、でも、頑張れない。
 本当はこのままでいいのかも…。
 でも、それじゃあダメだ。」
といった身動きの取れない状態の人は、
「頑張りたい」自分も、「このままでいたい」自分も、
両方とも受け入れていないと考えられます。

これが苦しいんです。
どっちに転んでもダメなんですから。

ただし、世間は「頑張る」ほうを推してくる。
(だから「頑張りたい」55%、「このままでいたい」45%のようなバランス)

このチョットした偏りがあるからこそ、
「ありのままの自分を認める」という言葉が響きます。

「変わらなくていい」、「頑張らなくていい」という方向性の言葉として解釈される。

この解釈は「このままでいたい」自分の側のものです。
45%と劣勢に立たされていた側が応援されるんです。
「そっちが正しいよ」と言ってもらえて安心する。

一時的にバランスが逆転して
「頑張りたい」45%、「このままでいたい」55%
ぐらいになるかもしれません。

そうすると今度は「頑張りたい」が黙っていません。
「そうはいっても…」となる。

「だって、それじゃダメなんだ!」
「親は頑張れと言っていたし、頑張らなかったら認めてもらえない」
「頑張れば社会でだって評価してもらえるはずだ」
などという考えが浮かびやすくなります。

しかし、です。

このバランスだったということは、
頑張ろうとすれば、このままでいたい気持ちが押しかけてきて
頑張って行動を起こそうとするヤル気が削がれてしまっていたはずなんです。

「頑張らないと!」と思いながら、今ひとつ
本気で頑張った言える程には何かに取り組んだとは感じられていない。

実際に頑張ったかどうかではありません。
頑張ろうとしたときに葛藤が生まれ、頑張っている気持ちに集中できないため
本気で頑張ったという印象が残りにくいんです。

そのため「頑張った」という自己評価が得られにくい。

頑張りたいのに頑張れたと思っていないから、余計に苦しいといえます。

「ありのままの自分を認める」という考えにサポートされて
「このままでいたい」側を認めようとする心の動きが起きても、
「頑張りたいのに、頑張れたことがなかった」という反対側の不満がよぎります。

「ありのままの自分を認める」という考えで楽になれた人は
自分が頑張ってきたと感じていたため、
 頑張らなくても、ありのままの自分で認めてもらえる
という体験に気づきやすく、納得もしやすかったはずです。

それに対して、「頑張りたい」と「このままでいい」のバランスが近い葛藤では、
 頑張らなくても、ありのままの自分で認めてもらえる
という体験を過去や日常生活から探そうとても、気づきにくくなります。

なぜなら、「頑張らなくても認めてもらえている」と受け入れてしまうと、
反対側にある「頑張りたい」自分が拒絶されてしまうからです。

この拒絶が無自覚に起こると、
 探しても見つからない
 過去を振り返っても思い出せない
 自分の気持ちに気づけない
といった状態になります。

「ありのままの自分を認める」スタンスの流派では、
 頑張らなくても大丈夫
 ダメな自分をさらけ出しても受け入れてもらえる
といった体験を探す手法を使うことが多いですが、
5分5分に近いバランスで葛藤している人には、この手法が合いずらい。

「ありのままの自分を認める」流派の人からすると、
厄介なクライアントとして認識されてしまう可能性があります。

気の毒な話に思えます。

苦しみの質が異なり、対処の方向性も違っている。
ただそれだけのことでしょう。

本当に厄介なのは…、
 「ありのままの自分を認める」という発想が、
 45%と劣勢に立たされていた「このままでいたい」自分にとって魅力的で
 それゆえに、「この発想で苦しみから出られるのではないか?」
 と期待を抱いてしまいやすい
ということかもしれません。

その期待ゆえに、
「ありのままの自分を認めましょう」と主張する人に助けを求めてしまう。
手法が合わない可能性があるのに、です。


「頑張りたい」というのは、必ずしも「無理をして必死で」の意味を含みません。
「一生懸命にやる」、「手を抜かずにやる」、「全力を尽くす」
のような印象で捉えている場合もあるんです。

そして「一生懸命に全力でやる」のは充実感があって喜ばしい体験ですし、
「以前にできなかったことが、できるようになる」という成長の実感もまた
喜ばしいものとして味わわれます。

頑張りたい自分と、このままでいたい自分との強さが同じぐらいのケースでは
この「一生懸命」、「全力」、「成長」といった体験を求めていることが多いようです。
『真剣』に「頑張りたい」といっているわけです。

それに対して、
「ありのままの自分を認める」という考えで大きな転換を迎える人たちは
「頑張る」ということが「無理をかけて」、「限界を超えながら」になっていて、
場合によっては「頑張らないと認めてもらえない!」というほどの必死さを伴う。
こっちの「頑張る」は『深刻』なんです。

この差が結果に大きな違いを生み出します。

「ありのままの自分を認める」という考えを目にしたとき、
「頑張る」が『深刻さ』を意味するほど「頑張りたい」自分に偏っていた人は
「そうか!頑張らなくていいんだ」と大きな発想の転換を迎えることがある。

頑張るのをやめた後は、楽しいことをやるようになります。
一生懸命さを維持したまま。
好きだから、楽しいから一生懸命になれるんです。
『深刻さ』がなくなり、ただ『真剣に』向き合う喜びは残ります。

ところが、
「頑張りたいのに頑張れない」と悩むほど
「頑張りたい」自分と「このままでいたい」自分とのバランスが均衡している人は
「頑張る」を『真剣さ』と結びつけていて、
「真剣に取り組めない」と感じるのが辛いと考えられます。

『真剣に』向き合う喜びを体験したい、と願っているからこそ、
「頑張らなくていい」、「このままでいい」という発想と結びつきやすい
「ありのままの自分を認める」という考えが響かないんです。

「真剣になれることを見つけたい」というメッセージともいえるかもしれません。

この違いを知った上で、
「『真剣に』頑張りたい」気持ちと
「このままでいたい」気持ちと、
両方に折り合いをつけるのが効果的でしょう。

世の中の多くが頑張ることを求めていて、
「やりたいことを一生懸命にやれるのが素晴らしい」かのように語られる中で、
自分だけ真剣に頑張れていないように感じられるのは苦しいはずです。

すると自然に、対極的な考えとしての「ありのままの自分を認める」とか
「頑張らなくていい」といった教えが魅力的に感じられるものです。

そしてその教えに期待して、取り組んでみて、上手くいかないことに落ち込む。

合わない可能性を検討してみてもいいのではないでしょうか。

「頑張りたい」自分と、「このままでいたい」自分のバランスをチェックする。
「頑張る」の意味が『真剣さ』なのか、『深刻さ』なのかをチェックする。

それで取り組む方向性が選びやすくなると思います。



では、具体的にどう取り組むか?

方針はシンプルです。

「頑張りたい」と「このままでいたい」は矛盾しないと認識しなおすだけです。
ただ同時にあるだけ。

「今の自分ではダメだ」という気持ちと
「今の自分がいい」という気持ちが
相反すると考えるのは
言語的、論理的な思考に慣れているからでしかありません。

たしかに、その一瞬の行動を考えれば
一度には1つの決定しかできません。

「頑張りたい」自分と「このままでいたい」自分は
一瞬だけ存在するものではないんです。

常に一人の中に存在しているものです。

ある瞬間には「頑張りたい」を優先し、
別のときには「このままでいたい」を優先する。
それだけのことです。

そのときそのとき、状況に応じて都合の良いほうを選べます。

「カレーが好き」な自分と
「ラーメンが好き」な自分が葛藤しないのと同じです。

カレーにしようか、ラーメンにしようか?と迷うことはありますが、
『迷い』は『葛藤』ではありません。

そのときの気分で決めるだけ。

誰もが丁度いい具合に両立させています。
それと同じことです。

頑張りたい気持ちが上回ったときに真剣に頑張る。
このままでいたい気持ちが上回ったときは、そのままでいる。

その瞬間に
 どちらの気持ちに基づいた行動をとるか?
だけの話です。

そうなると、もう
 「頑張りたいけど、頑張れない」
 「このままでいたいけど、このままでは良くない」
 「頑張りたいけど、このままでもいたい」
という葛藤ではなくなります。

「頑張りたいし、このままでもいたい。」
「頑張りたいときもあるし、このままでいたいときもある。」
そうなると気持ちは楽になります。

「〜したい」という気持ちに従って行動できるようになるでしょう。

もしかしたら、いつかまた他の気づきが起こることもあるかしれません。
それはまた、そのときの話です。

まずは葛藤で苦しんでいるところから楽になってもいいような気がします。

頑張りたければ、頑張ってもいい。
そのままでいたければ、そのままでもいい。

だから「ありのままの自分」なんです。

本当の意味で「ありのままの自分を認める」というのは
 自分の心の中で対立しているように感じられる気持ちを
 両方とも大切にする
ということだとも言えそうです。

色々な気持ちが並列に共存している複雑な存在が
「ありのままの自分」なのではないでしょうか。

cozyharada at 23:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2015年06月16日

DVDを借りるときに

ごくたまにDVDを借りて映画を見ます。

普段はあまり気にかけていませんが
映画を見るのが意外と好きなようです。

最近はDVDレンタルも仕組みが変わってきていて
一気に複数枚を借りるのが前提というか、
沢山を一度に借りたほうがオトクな仕組みになっています。

1つにはDVDそのものの製作費が下がったというのがあるんでしょう。
大量にコピーして貸し出すことができる。

以前は新作ともなると、少ない枚数を短期間で回して
回転数で利益を上げるような仕組みだったように思えますが、
それが最近は、多くを長めの期間で貸し出して利益を出す形みたいです。

最新作でも3泊4日とかで借りられるんです。
その代わり、店頭に置かれている枚数は多い。

DVDを入れるケースも薄型になって、倉庫に保管したり
輸送したりするのにも有利になっているんだろうと想像できます。

そして何より、まとめて複数枚借りると
1枚当たりの金額が下がって、しかも長期間レンタルできます。
TSUTAYAだと一週間とか。

まとめ借りをしない場合での1泊の金額と
まとめて借りた場合の一週間の金額とを比べると、
まとめて一週間のほうがずっと安くなるわけですから
多くの人がそちらのシステムを使うんでしょう。

1泊ずつ3枚借りるよりも、4枚一気に借りて一週間のほうが安いとなれば
チョットでも気になるものがあったときには一緒に借りてしまいたくなります。

そういう理由で、お目当てのものだけだと3枚にしかならないときにも
何かついでにもう1枚追加レンタルして、無理矢理まとめ借りをする。


これにはデメリットもあります。

それはレンタル期間を忘れやすいことです。

7泊8日と言われても日付はピンと来づらいように感じますし、
何より、一週間もあると思うと気持ちがノンビリしてしまいがちです。

「まだイイや」と思っているうちに返却日が近づいてくる。
おまけに、「とりあえずこれも1つ」なんて借りたものに関しては
最初から見たい気持ちが低いですから、放っておいてしまいやすい。

最新作を1本借りて1泊で返却するというのでしたら
見るための時間も予定しやすいですし、緊急性も上がります。
返却を忘れることも少ないでしょう。

一方、まとめて一週間も借りるとなると
見ないままで放置してしまって、返却日も曖昧になり、
気づいたら延滞してしまっている…
なんてことが起きかねないんです。

少なくとも、1本ずつを1泊でレンタルしている状況と比べたら
延滞率は上がっているんじゃないでしょうか。

最近は特に、海外ドラマシリーズのDVDなどもありますから
一気にまとめて借りたい人が増えているんだとも思えます。
その意味では親切ですし、ありがたいシステムです。

ところが、延滞料は1泊の料金と同じぐらいなのが危険なんです。
一週間分の金額を7日に分割した「1泊」分ではありません。
通常の1泊分の金額ぐらい。

1日延滞したら、それだけで元の1週間分よりも高くなる計算です。
まとめて借りていますから、当然、延滞料も大きくなります。

複数枚をまとめて長期間で借りて、ついでに借りたようなのも混ぜて
急いで見ようとする気持ちが下がっているところにレンタル期間も曖昧になる。
そして知らぬ間につい期間を過ぎてしまった…。

となると1日過ぎると料金は2倍以上になります。
2日過ぎれば3倍以上、3日過ぎたら5倍以上じゃないでしょうか。

ついウッカリ…、が驚くような延滞料を生みます。

本来、延滞料というのは、その期間レンタルできずに利益が出せなくなるのを
埋め合わせてもらうための仕組みではないかと考えます。

1枚を1泊ずつ貸し出し、回転を速くして利益を出すというスタイルなら
その保証の意味合いも理解できます。

仮に、1枚を貸し出して翌日に返却、その日のうちに貸出す、という流れなら
1日の延滞分は、一泊貸し出すのと同じ金額でも仕方ないかもしれません。

少ない枚数を回転させるときには、それが利益に直結するでしょう。

一方、最初から長期間を想定して、大量に在庫を用意しているのであれば
その延滞一日分が、通常の1泊分と同程度というのは割高のように思えます。

実際のところ、延滞料からの売上分が結構あるのではないか?
と気になってしまいます。

さすがに
 わざと延滞が起きやすい仕組みで安く貸し出して、
 レンタルの量を増やして延滞の頻度を上げ、延滞料金で利益を上げる
なんていうビジネスを想定しているとは思いたくありませんが。


もちろん僕自身は、この「まとめて借りるとオトクになる」システムで
色々な恩恵を受けている印象もあります。

期間の長さや金額もさることながら、それ以上に大きいのが
「4枚まとめたほうが得だから、何かもう1枚ないかなぁ」
と探して選んだ1枚の価値です。

最初からお目当てだったものや、最新作というだけで借りたものよりも
意外とこの「追加のもう1枚」が面白かったりするんです。

1枚ずつ選んで借りていたら見なかったであろう作品。
まとめてレンタルの仕組みで、それらと出会う機会に恵まれているようです。


ちなみに最近だと
「 LIFE! 」という映画と
「アバウト・タイム 〜愛おしい時間について〜」という映画が
僕の中で予想外の面白さでした。

どちらも非常に美しいストーリー。

ついでに借りたつもりだったんですが、
実はそっちのほうが印象に強く残ったというものです。

オススメです。





cozyharada at 23:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | 心理学

2015年06月14日

目立たない主役

どのぐらい有名か分かりませんが、ハリウッド映画に出ている俳優で
クリスチャン・ベールという人がいます。

クリストファー・ノーラン監督のバットマンシリーズ
いわゆる『ダークナイト三部作』で
主役のバットマン/ブルース・ウェイン役をやっている人です。

他にも、『ターミネーター4』で主役のジョン・コナーを演じていました。

アカデミー賞で助演男優賞を取ったり、主演男優賞にノミネートされたり
評価の高い俳優だと思われます。

演技への思い入れの強さでも有名で、
『マシニスト』という作品で、一年間寝ていない主人公の役作りとして30kgの減量、
180cm以上の身長で53kgまで減らしたそうです。

その後、『バットマンビギンズ』で主役のバットマンを演じるために
今度は半年で86kgまで体重を鍛えなおしたと言います。

かと思えば、コカイン中毒の元ボクサーを演じるために
髪の毛を抜いたり、歯並びを変えたりもするし、
肥満体の詐欺師を演じるときには見事な中年太りに変身。

徹底した役者っぷりの人物です。

何より、ダークナイトシリーズはヒット作でしょうし、
ターミネーター4も話題にはなったと思われるにもかかわらず、
どうもビジネス面としての知名度が伴わないように感じられます。

ダークナイトのシリーズは確かに面白く、
アメリカン・コミックのヒーローを単なる正義の味方ではなく
人並みに悩み苦しむ人間として描いたり、
魅力的な悪役を登場させたりと、非常に評価が高いそうです。

ところが、そこで有名になるのが監督のほう。
ダークナイトといえば、クリストファー・ノーラン監督なんです。
主役のバットマンを演じたクリスチャン・ベールではなく。

ターミネーター4にしても、むしろ目立ったのは
主役を脇で支えた準主役のようなサム・ワーシントンのほう。
その後、彼はアバターで主役をやって大ヒット。
一躍スターになった印象です。

実際、少し前に公開された映画『エクソダス 神と王』でも
主役のクリスチャン・ベールよりも監督のほうがアピールされていました。

日本国内で貼り出されていた映画のポスターには
「『グラディエイター』のリドリー・スコット監督が贈る…」
というキャッチコピーが。

確かに『グラディエイター』はアカデミー賞で作品賞を取っているらしいですし、
『エクソダス』と通じる映像の雰囲気ともいえそうなので
そういうアピールもあったのかもしれません。

権利のこととか様々な事情があるのかもしれませんが、
日本でも有名な俳優が主役だったら「○○主演!」のようなコピーもありそうです。

例えば
「ダークナイト、ターミネーター4のクリスチャン・ベール主演!」
のようなポスターだって良さそうな気もします。

でも、そうはなりませんでした。

監督リドリー・スコットと主演クリスチャン・ベール、
どちらをアピールするかとなったとき、
監督のほうが選ばれたということのようです。

仮に、「トム・クルーズ主演!」とか「ブラッド・ピット主演!」と書かれたら
それだけで映画の人気が出るようなことだってあるかもしれません。

クリスチャン・ベールでは、そうはならないみたいでした。

勝手な印象として、三部作になるほどの映画で
かつ話題をさらうようなことにもなって、
しかもそれが有名なバットマンのシリーズ…、ともなれば
もっと主役が取り上げられても良いように思えてしまいます。

同様の展開としてスパイダーマンのシリーズとか
トランスフォーマーのシリーズとかであれば、
俳優の名前までは分からなくても
「ああ、あのスパイダーマンだった人ね」
「あ、トランスフォーマーに出ていた人だ」
ぐらいには認知されているんじゃないでしょうか。

ところが、です。

クリスチャン・ベールは目立たない。

特に日本人からすると、どこにでもいそうな西洋人の顔として
区別がつきにくいのかもしれません。

それ以上に、おそらく
クリスチャン・ベールという人物として画面に映らないんだと思います。

その役の人物としてスクリーンに出る。

クリスチャン・ベールの演じるブルース・ウェイン(バットマン)ではなく、
そこにいるのは映画の世界のブルース・ウェイン。
そんな印象を与えるように感じるんです。

自分の個性を消せる、ともいいましょうか。

映画の一部に溶け込んでしまって、
映画全体の印象のほうを残してくれるのかもしれません。

だから作品が目立って、主役が目立たない。
作品を作った監督が取り上げられて、主役は目立たない。

ある意味では、スゴイ才能ともいえそうです。

cozyharada at 23:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2015年06月12日

心理学と心理療法と歴史

歴史を考慮に入れずに思想を理解するのは厳しいんだと痛感します。

個人の心理の形づくられ方
(つまり学習と、学習したパターンの利用のしくみ)
が掴めると、その人の心の動きは捉えやすいものです。

心を細かな部品の組み合わせとして捉え、部品に注目する。
『心理学』はまさにその流れで進んできて、個別の反応パターンを調べています。

調査の対象が、動物的反応、認知、社会的反応などと幅広くなっただけで、
やっているのは心の構成要素の探索だといえます。

だから心理学の歴史は、それ単独で調べても理解しやすいんです。
実験機器の発展や、文化背景からくるブームの影響ぐらい抑えれば
大まかな流れや心理学的知見の全体像を掴むのには十分な気がします。


それに対して『思想』の歴史は、歴史背景が大きく関わるようです。

当時の状況が人々の考え方に影響を与え、
その考え方の潮流が大きな世界情勢の動きを形作る。

この相互作用は、心の構成要素を理解するだけでは掴めません。

心の構成要素に影響を与えて、その人の心の全体像を作るのに
歴史的な背景が大きな意味を持っているはずです。

その時代、その場所に生きたからこそ持つにいたった発想があり、
それがその人の心の動きに大きな方向性を与える。

この「心の構成要素のしくみ」と「全体の方向性としての『思想』」の関係は
コンピュータの原理と応用例に少し似ているような気がします。

コンピュータの仕組みは「0か1」かのデジタル処理で
その組み合わせによって「〜だったら、…する」というルールが書かれるそうです。

しかし、コンピュータの原理を使ったものには
電卓、銀行のATM、地デジのテレビ、スマートフォン、テレビゲーム、パソコン…
などと様々な応用方法があります。

使われる状況や目的によって、同じ原理のものが違う働きをするんです。

テレビゲームが今のような形になるのに時代背景の推移が関わったように
ある思想が打ち出されるのにも、時代背景が関わっているといえます。

その時代、その環境だったから求められた思想、という可能性も大きいわけです。
状況の異なっている今の時代にも当てはまるかどうかは定かではありませんし、
今の状況と合わないからといって過去の思想を批判することもできません。

ポケットベル(=ポケベル)の流行を考えるのには
時代背景としてのバブル景気や、バブルに至るまでの戦後経済など
様々な知識が求められる、…それと同様に
思想を理解するのにも歴史の知識が必要だ、ということです。


思想にも社会、経済、政治などと色々なジャンルがありますが、共通するのは
 「全体像を捉えて、全体が向かうべき方向性を示す」
というところではないでしょうか。

新たな問題を提起したり、
すでに問題視されていることの解決策を提示したり、
望ましい形を新たに提案したり。

これを「人の心」というジャンルでやる場合もあります。
「人間はこういう風に生きたらいい」
「悩みはこうやったら解決できる」
「こうしたら幸せになれる」
などと。

自己啓発という単語は、これを表すストレートな表現でしょうし、
教育やビジネスの場に身を置く人でも、結局のところ
「人として、こうするのが良い」という『思想』を示しているといえます。
(実際、本や講演で「イイ話」として語られるのは、その人の思想です)

そして心理療法もまた、『思想』だといえます。

「こうすると心の問題が解決できる」という思想です。

ところが実にややこしいことに、心理療法は「臨床心理」という形で
心理学の一部として扱われるんです。

心理療法の中でも、行動療法は
心のしくみを元に開発されたと呼べるものの1つでしょうけれど、
多くの心理療法は、創始者のアイデア(思想)によって生み出されたものです。

昨今の臨床心理は、そうした心理療法の手法を
「効果があるかどうか」
「以前の方法と比べて効果が高いかどうか」
という視点で、統計的に検証します。

統計的に優位な差があれば「エビデンスがある」ことになるんです。

そこに「どうして効果があるのか?」という仕組みの説明はありません。
仕組みが語られたとしても、それは創始者の思想です。
エビデンスは効果に対してのもので、思想については無関係なんです。

○○療法という名の思想を実践したときに効果があるかどうか?を
統計的に調べるのが学問としての臨床心理の部分だといえるでしょう。

繰り返しますが、
「こうすると心の問題が解決できる」という方向性を示すのは『思想』です。

『心理学』では心の構成要素の仕組みや、個別の性質を調べて
「人の心というのは、こういうものだ」という知見を得たいんです。
そこに「こうしたら良い」という方向性の提案はありません。

この違いは物凄く大きいと思うんですが、
臨床心理も心理学の一部のように呼ばれるのが現状です。


心理学の歴史を語るときに登場するフロイトは
心理学の土台に影響を与えた人として紹介されますし、
現在でも精神分析や精神力動的アプローチが使われることから
フロイトの提唱した理論も心理学の教科書に登場します。

それでもフロイトのやったことは、現代の『心理学』とは別物で
むしろ『思想』の分野に含まれるものだと考えられます。

そしてフロイトだけではなく、そこから始まる心理療法の系譜もまた
大部分が『思想』だといえます。

ユングもアドラーも
「ユング心理学(分析心理学)」、「アドラー心理学(個人心理学)」
という名称の理論を提唱しています。

カール・ロジャースの「来談者中心療法」も
彼個人の思想に基づいていますし、
その後も多くの心理療法が『思想』に基づいて作られています。
(前述の通り、効果のエビデンスがあっても
 どういう仕組みで効果が出るのかの科学的裏づけはない)

心理療法は実態として、『心理学』とは大きく性質が異なっているんです。

さらに注意したいのは、呼び名に「心理学」という単語が含まれる
「ユング心理学」や「アドラー心理学」のほうでしょう。

心理療法は「〜療法」と呼ばれますから、
心理学という学問的側面よりも、手法的側面が強調されます。
効果があるかどうか、と。

それに対して「〜心理学」といってしまうと
心理学という学問の一種に捉えられがちではないでしょうか。
つまり学問として研究されてきたものだ、と。

ですが実際は個人の思想に基づいているものです。

思想だから研究されていないわけではないですし、
その思想を実践してきてた人たちも大勢いるはずです。
役に立ったと思っている人たちもいるでしょうから有意義なんでしょうし、
有意義だったからこそ、今もこうして語られるんだと思います。

単純に『心理学』ではなく『思想』だ、という話です。
学問ではない。
それだけ。

学問ではないことが良いとか悪いとかではありません。

むしろ、学問ではない思想のほうが役に立つことも多いと思いますし、
伝統的に語り継がれてきた思想の中にこそ
学問が検討できる範囲を超えた真理があるのかもしれません。

ただ『心理学』と『思想』は区別したほうが理解しやすいと考えられます。

区別のポイントは、
・思想は「こうするほうが良い」という方向性を示す
・思想は個人から生まれるため、そこに歴史的背景が大きな影響を及ぼす
ということ。

思想の持つ「こうしたほうが良い」という提案は
その思想を生み出した人が生きた歴史的背景を知ってこそ
その真意をつかめるのではないか。

いやむしろ、その人が生きた時代と社会の歴史的背景を無視して
その思想だけを鵜呑みにしてしまうのは危険もあるのではないか?
とさえ感じます。


特に僕のように、歴史へ興味を示してこなかった立場からすると
歴史を少しでも知るほどに、思想を分かったつもりになる怖さを痛感します。

もしかすると歴史の教科書では多少習ったのかもしれませんが、
複雑に絡み合った要素をまとめて理解するようなことはなかったものです。

「これがあった、こうなった」
「このとき、誰々がこうしたから、こういう事件に発展した」
などと出来事の羅列が歴史の勉強だった記憶があります。

しかしその裏側には、「どういう発想で、そのような行動に移ったのか?」
という心の動き、つまり思想があったはずです。

そして当時の思想を形作ったのは、それまでの時代背景と
当時の社会的、経済的、文化的、科学技術的背景でしょう。

そんなのは僕の歴史の理解において同じ土俵に上がっていませんでした。

そうした複雑な相互作用を視野に入れずに
思想を理解することは難しいようです。

フロイト、ユング、アドラーが生きたのは、大体
1800年代後半から1900年代前半のヨーロッパです。
(フロイトとアドラーはオーストリア、ユングはスイス)

第一次世界大戦が1914年ですから、
その前から社会情勢にも色々なことがあっただろうと想像できます。

それでは…、
どんな社会に生きたんでしょうか?
どんな生活をしていて、どんな苦しさがあったんでしょうか?
どんな過去の思想に影響を受け、何を大切にしたくなったんでしょうか?
どんな思想が流行っていて、それに対してどんな態度をとったんでしょうか?

そのあたりとなると、もうさっぱり見当もつきません。
とにかく色々と歴史を調べ、彼らの成育歴を調べずには情報がありません。

フロイト、ユング、アドラーが、独自の思想に辿り着いたのも
当時の状況を考えれば自然な流れだったのでしょう。

その時代、その社会では人々にとって「良い」ものだったのでしょう。

果たして、それは今の社会にどれぐらい当てはまるんでしょうか?
どの部分が今の世の中でも当てはまるところで、
どの部分が当時の社会情勢ゆえのものなんでしょうか?

歴史的背景の異なる現代に、過去の思想を適用するには
そうした分析もまた重要なのではないかと思います。

あまりにも大変で、やる人は少ないんでしょうけれど。

cozyharada at 23:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2015年06月10日

糖尿病と意識

たまたま話をしていた人が1型糖尿病で、
その人の弟も若い頃から1型糖尿病を発症していた、
ということで、色々と事情を聞かせてもらいました。

病気としての苦労が多いでしょうから
あまり話を逸らしたくはなかったですが、
低血糖状態での脳機能低下の話は興味深かったです。


血糖値が下がってくると適切な判断がつかなくなってくるそうなんです。

例えば、血糖値が下がっているのを体感覚的に自覚したとき
「まだ大丈夫か、家まで持つだろう」と、歩くほうの決定をしてしまう、とか。
それが実際には危険だった、と。

ただし、「適切な判断」かどうかの判断もできないので
後から振り返って「不適切な判断だった」と思うらしいんですが。

心理学の言葉を使えば「意志決定機能」が低下する、ということでしょうけれど、
この話には「意識」というものの仕組みを説明するものが沢山含まれていて
ありきたりの用語で説明してしまうのは勿体ないと感じました。

特に、昏睡になる前に血糖値を再上昇させて意識のレベルが回復すれば
その判断力が低下した状態のことも思い出せるそうなので、
ギリギリの低血糖状態でも「意識はある」し
「体験に対しても意識的」だといえます。

それでも適切な行動を起こすことができない。

その人が弟と、その友人とドライブに行っていたとき
車の中で弟が「お腹が空いた」と訴えたことがあったそうです。

それを聞いて友人は大急ぎでマクドナルドのドライブスルーに入り
弟の意見も聞かず、とにかくハンバーガーとジュースを購入。
ボーっとし始めている弟さんに手渡したそうです。

ところがもう血糖値がかなり下がっていて
「意志決定能力」や「判断力」が低下していたため、
弟さんはジュースとハンバーガーを持ったまま止まってしまったそうです。

はたから見ると、目は開いているのに
ハンバーガー片手にボーっと座っている感じ。

そこで友人がストローをジュースに差し込んだところ、
弟さんはジュースを口に運び、飲むことができたそうです。

ジュースの糖分はすぐに血糖値を回復させ、意識レベルも戻り始め
事なきを得たという話でした。

NLPの視点からすると、ここのポイントは
 ストローがあればジュースが飲めた
ということ。

トリガーとなる視覚刺激(ストロー)があれば
アンカーされた反応(飲む)は引き起こされるわけです。

シンプルな「刺激−反応」の繋がりは維持されていた。

しかし、そのために「ストローをジュースに差す」という行動は
「それによってジュースを飲んで低血糖を回復して危機を回避する」
という数ステップ先のメリットを予測して初めて動機づけられます。

ステップの長さに対応できなくなっているのか、
それともドーパミン系の報酬に基づいた行動が起きなくなっているのか、
正確には分かりませんが、ある種の機能が低下していると解釈できそうです。

心理学の言葉に変えると、
 古典的条件づけは残っているけれど
 オペラント条件づけは機能しない
ということかもしれません。

状況から連想されるパターンの予測は、例えば
 ストローを差すとジュースが飲めて、ジュースを飲むと血糖値が上がる
 →血糖値が上がって気分が良くなる(=報酬)
といった感じでしょうか。

この予測の機能自体が低下しているのか、報酬系が働かないのか、
とにかく「ストローを差す」という行動パターンが起こらなかったわけです。

一方、「ストローのささったボトルを見たら、ストローを吸い込む」とか
「ジュースが口の中に入ったら、飲み込む」といった
シンプルな反応パターンは機能した。

このような状態は、パーキンソン病の患者が歩くときに一歩を踏み出せず、
またぐような障害物を出されると、それをまたごうとして足が動き、
結果として歩き出すことができる、というのに似ていると考えられます。

つまり、パーキンソンのケースでも複雑な一連の行動を動機づけるのが困難で
それでも刺激に対する反応(=障害物があると、またごうとする)は働いている、と。

この類似性を考えると、低血糖時の機能低下は
ドーパミン系による動機づけのところと、より深く関係していそうに思えてきます。

とにかく、こうした現象と、そこに関わる行動を起こすメカニズムを考えると
心理学的な用語としての「意志決定能力」や「判断力」が、
もっと具体的な機能として説明できるのではないか、という話です。


そして、より注目したいのが
 低血糖になって複雑な行動パターンが起こせなくなっても
 自分が何をしているかをモニターする機能はある
というところです。

つまり「意識的」ではあるんです。
「意図的」に行動を考えて決めることはなくなっても。

もう少しいうと、
 意図的に考えている状態のときに働いているはずの機能が低下する
 (=一連の流れを予測して、行動を動機づける仕組みが働かない)
 ため
 「意図的に考えている」という状態がモニターされなくなっている
 (=意図的に考えているという意識がなくなる)
といった状態だと考えられます。

一連の流れを予測して、行動を動機づける仕組みが働いていないと
「意図的に行動を決めている」という意識体験が起こらない。

言い換えるなら
 「意図的に行動を決めている」というフィーリングは
 「一連の流れを予測して、行動を動機づける仕組み」が働いたときに
 主観的に体験される印象に過ぎないのではないか
ということです。

「意図的に行動を決めている」という感じは作られたもので
実際は、予測に基づいて行動を起こす仕組みが自動的に起きていて
意図的なことなんてないのかもしれません。

一方、予測に基づいて行動を起こす仕組みが働かなくなれば
「意図的に何かを決める」という主観的な印象すらなくなり、
ただボーっとした感じだけが残る。

そして分かりやすい刺激があれば、勝手に体が反応する。

そのような状態も主観的に「意識」に上がってはいるんです。

意図や意志決定は起きないので意識には上がらず
勝手に体が動いて行動する(=ストローがあると吸う)のは意識化される。

ちょうど、熱いものを触って瞬間的に手を引っ込めたとき
「体が勝手に動いた」と自覚されるようなものです。

ですから、「意識がある」と「意図的である」は別物だということになります。

意図的でなくなっても意識的ではある、というのもあり得るわけです。

「心がける」という意味で使われる「意識的に〜する」のような表現は
本来、「意図的に〜する」という言葉が適切なんです。

「意識」という言葉の使い方は
 「〜していることに意識的である」
のほうが適切だ、と。


「意識」と「意図」は別の機能だといえますし、
脳の機能としても別のものなんでしょう。

低血糖になってくれば、少ないエネルギーで生命を維持するために
生存に直結した機能のコントロール(例えば呼吸とか)や
シンプルな動作のコントロール(刺激に対して反射するとか)に
糖分が使われるようになると考えるのは妥当でしょうし、
実際にそのようなことが起きているように見えます。

当然、fMRI でも取れば、低血糖時には前頭葉の働きが落ちているはず。
そして出される結論は、
「やはり、意志決定に関わる前頭葉の働きが落ちていますね」
なんてところになるんだと想像されます。

大事なのはそこではないんです。

意志決定という機能の実態は何なのか?
主観的な体験としての「意識」とは何なのか?
そもそも行動を起こす仕組みとは何なのか?

そのあたりの個別の機能と脳との関係が分かれば興味深いですが、
それを調べるには現代の技術では制約が大きそうな気がします。

そのために糖尿病の人に協力を依頼するわけにもいきませんから、
動物実験をするのが精一杯のところでしょう。

マウスを遺伝子組み換えして、
先天的にインシュリン生産を低下させ、1型糖尿病のような症状を作る。

そして古典的条件づけとオペラント条件づけで別の学習をさせる。
通常時と低血糖時で学習した反応が起きるかどうかを比較するとどうなるか?

予測されるのは、
 通常時では、古典的条件づけ、オペラント条件づけの両方が働き、
 低血糖時では、古典的条件づけには反応するけれど、
 オペラント条件づけしたはずの行動は表れなくなる
という感じ。

可能であれば、オペラント条件づけの行動形成の際に
ステップの複雑さを変えながら用意すると、
多少は何か意味のある見解が示せるかもしれません。

ま、といっても予測を実験的に示すだけのことですから
得られる結論には何の驚きもないわけなんですが。


ということで、糖尿病の症状から、
「意図的な行動」と「意識」との関係が見て取れる
という話でしたが、
これが科学的に探究されるのは期待しにくいと個人的には感じています。

最終的には、
研究者自身が衝撃的な結論を受け入れられるかどうか
にかかってきてしまいますから。

cozyharada at 23:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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