2015年07月

2015年07月31日

循環

ネットのニュースで見ましたが、なんでも
イタリアの企業が新たな遺体の埋葬のプロジェクトを発表したんだとか。

人間の遺体を木の養分となるように、木の下に安置して
そこに人々の思いが詰まった森を作る、というコンセプトだそうです。

イタリアでは違法にあたるとのことで政府は認めていないとのことですが、
それ以上に僕には気になるところがあったので、チョット調べてみました。


林産試験場の資料によると、
木の重量のうち
 49.5%が炭素、
 44.0%が酸素、
 6.0%が水素
です。

炭素、酸素、水素で99.5%。
窒素は0.1%しかありません。

これが人間の場合は
 酸素 65%
 炭素 18%
 水素 10%
 窒素 3.0%
 カルシウム 1.5%
 リン 1.0%
となります。
(wikipedia の数値を元に計算)

動物である人間は水を大量に含みますから酸素の比率が高く、
植物である木は炭素の割合がとても高いことが見て取れます。

そして植物が成長するとき、
酸素、水素は主に土壌中の水から取り込まれ、
炭素は光合成によって空気中の二酸化炭素から取り込まれます。

木を形作っている材料の99%以上は、空気と水からできていて、
そのエネルギーの大部分は光から来ているということです。


一方、植物にとって重要とされる元素が窒素、リン、カリウムで
これらが肥料の三大要素と言われるそうです。

その他にもカルシウムや、微量の金属元素も必要となります。

こうした元素は根っこを通じて地中から吸収して
植物の体を作るのに使われる。

農作物を作る場合、これらの元素は作物に取り込まれますから
収穫するたびに土壌中から必要な養分が減っていくことになります。
だから農業では何かしらの肥料が必要になるわけです。

農業や林業ではなく、ただ自然に生まれる森や林となると、
木が朽ち果てた土壌には、そこに生えていた木に使われていた
窒素や、リン、カリウム、カルシウムなどが戻って循環しているはずです。

普通にイメージされる黒っぽい土には、そもそも
植物にとって必要な元素のある程度が含まれている、ということです。

その土壌から作られた植物を人間が刈り取って、
その土地から移動させてしまうから土から栄養分がなくなり、
だからこそ肥料が必要になる。

そういう仕組みを思い浮かべたとき、
土に植えた木の苗が育つにあたっての構成要素はどこから来るのか?
…と、思えてきてしまうんです。


肥料として使われる窒素やリンは土壌を補助するものであって、
そもそも木を植えるような土壌にはそれなりの養分が含まれている。

そして植物の体の大部分を構成する炭素は
空気中の二酸化炭素から取り込まれている。

動物同士の食物連鎖をイメージすると栄養が循環しているように思えますが、
植物にとっては二酸化炭素を経由するところが大きいんです。

ですから…。

木の下に埋葬したとして、その上に育った木を形作っているのは
大部分が埋葬とは関係ないものなんじゃないか?と。

木に水を与えなければ、水分の由来にはなりそうですが、
森にしてしまったら雨由来の水のほうが多くなるでしょうし。

おそらく、動物が土に還るときは、その大部分が微生物に使われます。
そして土中の微生物として、あるいはその微生物から出された成分として
土になっていくんでしょう。

土の中の有機物は、菌類の生育には大きく関係しますから
キノコなんかは影響が大きいはずです。
あとは土中の微生物を利用する小さな動物(虫などの類)の体に使われる。

そして動物経由で循環すると考えられます。

土に還った後は、その上に育っていく木よりも
むしろ他の形で様々な生物に循環していくのではないでしょうか。

本当にバラバラになって、全体に溶け込んでいくような感じだと思います。

土の上に植えた木に命が使われていくように思いたいのは、
そこに1つの切り離された形を見たい人間の気持ちの反映なんでしょう。

たぶん、実際はもっと自然という全体そのものに還るんです。

薄まってしまうような気もするかもしれませんが、
逆にいえば、どこにでもその一部が存在しているとも考えられそうです。

cozyharada at 23:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | 心理学

2015年07月28日

超専門店

先日、飯田橋にある『欧明社』という書店に行ってきました。

oumeisya


























小さな本屋です。

商店街に入っているような感じか、
それよりは少し大きいぐらい。

しかし、扱われている本が全部、フランス語関係なんです。

フランス語の勉強のためのものもあれば、
フランス語で書かれた小説などもあります。

日本人向けのフランス語の本と
日本在住のフランス人向けの本と
両方が並んでいる感じ。

アマゾンでも買えないような本が並んでいます。
フランス語の先生が利用したりもするようです。

日本国内のフランス語学校の中にも出店しているようですが
いずれにせよ、目的を明確にした人しか訪れない本屋でしょう。

もちろん通販もやっているようです。
日本全国のフランス語関係の人たちを相手にする上でも
きっと通販は創業当初から重要だっただろうと想像されます。

とはいえ、やはり僕は本を選ぶなら手にとって見てみたい。
特に外国語となると、自分に合ったレベルのものが求められますから
中身を見ながら探せるのは大きなメリットです。

おまけに「わざわざ日本唯一の専門店にやってきた」という自覚が
ただ一冊の本を選ぶにしても気合を入れてくれますし、
買った本を利用しようとする動機も高めてくれるように感じられます。


amazon に押されているせいか
街の小さな書店は減ってきている印象がある中で、
このこじんまりとした書店は力強く機能しているように見えました。

僕がいた時間でも数人が本を買っていきましたし、
電話注文なども忙しそうに対応していたようです。

どんな時代でも一定のニーズが常にあり、
他と競争することのない非常に特化された専門性を発揮する。

利用客の中には、この書店がすごく役に立った人もいるようで
ずっとその仕事を続けて欲しいと願っていることもあるみたいです。

だからこそ応援されているんでしょう。

それはいわゆる「ファンが生まれる」のとは少し違います。

店主が好きだとか、店の雰囲気が好きだとか、
そういう付加価値で密な関係性を作る感じではないんです。
心の距離を近づけて仲良しになるとか、
憧れを生み出してファンの集いを作るとかではないんです。

その専門性それ自体が、もう最大の魅力になっている。
「それがないと困る」ぐらいの必要性の高さが伺えます。

もしかしたら利用者からすると
「もっとこうしてくれたら…」
といった要望もあったかもしれません。

しかしその要望が叶わないといって不満の形になることはないと思われます。
不満以上に必要性が高いから。
こういう形を続けて欲しいと願っているから。

ファンがつくのではなく、応援されるビジネスだろうと感じます。
ときには助けられたことだってあったかもしれません。

他に類を見ない専門性を発揮すると
一切の競争に巻き込まれることなく活躍できる場合がある…
そんなことを見せてくれる書店だと思いました。

需要が供給を大きく上回っているからこそ起きる事態でしょうが、
今でもそんな状況が存在するという実例を見られるのは貴重な気もします。

専門性をアピールする売り込み方が色々と語られますが、
需要と供給のバランスを考えてみるのも1つの切り口なんでしょう。

2015年07月25日

倍速再生

フェイスブックにせよ、gmai などのフリーメールにせよ、
色々なタイミングで広告に出くわします。

検索履歴や、記入したキーワード、過去にクリックした広告との関係などで
示してくる広告を変えているんでしょうが、
大部分は僕にとって面倒臭いだけの情報だと感じてしまいます。

そんな中、先日、偶然に役に立つものを見つけました。


あるTOEIC 対策の英語教材の宣伝。
何やら音声の再生スピードを変えながら聞くことで
リスニング力を上げようというコンセプトのようでした。

で、そのリンク先のホームページ上にサンプル音源があったので
試しに聞いてみたんです。

そこに載っていた音源は、申し訳ないですが
僕には違和感だらけで必要とは感じませんでした。

1.5倍速や2倍速で再生して、それから
普通のスピードで聞くと、ゆっくりに感じて聞きやすくなる、
…とのことながら、
そもそもの1倍速が極端に遅い。

ゆっくりに感じた効果ではなく、純粋に1倍速の音と
他の英語ニュースなんかを聞き比べても遅いのですから、
実際には0.7倍速ぐらいだったんではないかと想像します。

あくまで宣伝用ですから、もしかすると
「こんなにゆっくりに感じられるなんて!」
と、驚いてもらうための戦略だったのかもしれません。

そういう訳で、その教材そのものは
僕にとって魅力的に響かなかったんです。


ただし、「倍速再生の英語を聞く」というコンセプトそのものは
何かチョット役に立ちそうな実感がありました。

頭の中で聞こえる英語のスピードを上げられそうに感じたんです。

実際には音の聞き取りそのものよりも
聞いた音を理解するプロセスに効果がありそうな印象。

ということで、自分なりに速聴の手段を調べてみました。


そうしたら速聴のためのツールがあるだけでなく、
そもそもウィンドウズパソコンに最初から入っている
「 Windows Media Player 」でも再生速度の調節ができたようなんです。

実際に試してみても、結構な音質で再生速度を変えてくれます。
2倍速ぐらいまでですが、期待する効果は充分そうです。

これに関しては自分の好きなものを倍速で再生できますから、
日本語の音声教材なんかも半分の時間で聞けてしまいますし、
録音したセミナーの復習なんかにも役立つんじゃないでしょうか。

さらには、いわゆるポッドキャストでも使えそうなものがありました。

NHKが配信しているニュースは iPhone で無料で聞けて
かつ再生速度も0.5倍速から2倍速まで調整できました。

こちらはチョット音質が落ちるかもしれません。

それでもNHKニュースは英語に限らず
様々な言語で放送されていますから、
語学のリスニングトレーニングとしては使えそうな気がしています。

初めのうちは再生速度を遅くしながら、
慣れてきたら再生速度を上げて鍛える、といった感じ。


探してみると、今の世の中には便利なツールが沢山あるみたいです。

それも無料で使えてしまう。

教材として工夫されたものを使うのも1つの手段でしょうが、
自分の工夫次第では、かなりの方法が編み出せそうです。

ヤル気さえあれば色々なことができるようになってきた…
そんな時代なのかもしれません。

2015年07月23日

歴史の見方

何年ぶりでしょうか、歴史の本を読んだのは。

少なくとも高校生以来だと思いますが、
高校のときは歴史に全く興味がなかったので
期末テストのときにさえ、ろくに読んだ覚えがありません。

まぁ、ちょっと変わった歴史の先生が多かったので
教科書をそもそも使っていなかったような気もしますが。

ですから、僕の歴史の知識は中学校ぐらいで止まっていました。

それ以後は、話の流れで断片的に情報を仕入れるぐらいで
全体の動きとしての歴史については何も知らなかったと思います。

最近、アメリカの近代史(南北戦争以後)の本を読んでいた関係もあって
少しだけ全体像を復習してみようと思いました。

で、買った本がこれ。



他にも大学受験向けの世界史の参考書を二冊買いました。

高校で習うレベルの知識だって、「復習」どころか
知らないことばかりといった印象でした。

特に僕にとって驚きだったのは、断片的な情報として残っていた出来事が
 どういう経緯で、
 どのような時代背景の中で、
 どんな動機によって起きたのか?
という部分。

歴史の繋がりが少しだけ見えた気がしました。
単なる出来事の羅列ではなく、物語が見てとれた感じです。

例えば、大航海時代では羅針盤が重要だったわけですが
その羅針盤は中国で作られたものが、モンゴル帝国の時代に
ヨーロッパへと伝わったものだったらしいんです。

そして当時の地中海ではオスマン帝国が強力だったため
地中海の西端・大西洋に面したスペインとポルトガルは
経済的な源を求めて大西洋へと航海を進めた、と。

それにルターの宗教改革が加わって、
アメリカ大陸への移動へ正当性が与えられる。

その裏には印刷物として情報を広めやすくするための
活版印刷技術が必要になっていた…。

そんな感じで沢山の要素が入り混じって
当時の人々の物語があったようなんです。

こういうところが少しでも見えてくると
歴史の勉強も多少は楽しかったのかもしれません。

もしかすると、高校生ぐらいの理解力、想像力、知識量では
物語を描くことさえ困難だった可能性もありますが。


ともあれ、上に挙げた本は、その辺りの物語を
簡潔に情報を減らしながらも描こうとしている点で
読みやすく、納得感の高いものだと感じました。

と同時に、歴史の本を眺めてみて改めて痛感することもありました。

それは、
 そもそも社会を全体として見ていない
ということです。

例えば、僕がテレビのニュースで見てきた
ベルリンの壁の崩壊や、ソビエト連邦の解体、湾岸戦争なども
今では、歴史の出来事として教科書に載っているわけです。

歴史を分かりやすく書いた本でも、その辺りまでは「現代史」として
含まれる範囲になっているようです。

しかしながら、その部分を改めて本から読んでみると
実際に自分がニュースで見ていた「知っているはず」の出来事であっても
全く違った意味のものとして解説されています。

つまり、自分が生きている時代に起きた出来事だって
その社会的な意味は全くと言っていいほど分かっていない、ということ。

もしかしたら当時から社会情勢に興味を持って
事情を理解しようとして情報収集していた人達であれば、
現代史の部分なんて「随分と粗っぽくまとめてあるなぁ」ぐらいに
思えるものなのかもしれません。

ですが普通にテレビニュースをボーっと眺め、
「そういうことが遠くで起きているんだなぁ」ぐらいに感じながら日常を送り、
自分や自分の国に関係しそうな部分だけが強調されたニュースを見ていれば
その歴史的出来事に関する記憶は、非常に偏ったものになるはずです。

おそらく当時のベルリンに住んでいた人達にとっての「ベルリンの壁の崩壊」は
物凄く大きな意味を持った出来事だったのでしょうし、
大きく心が動いた瞬間として今も思い出に刻まれていると想像します。

一方で、当時の共産主義の国で政治をしていた人達や
その動きに関わりながら対立していた国の立場からすれば
同じ「ベルリンの壁の崩壊」という出来事も、全く違った意味を持ったことでしょう。

それは日本にいながら部外者としてニュースを眺めていた人とも違うはずです。

そして、それらの立場のうち、どこか1つから見た出来事の意味を述べても
その解釈は社会全体を説明したものにはならないと考えられます。

家族療法やNLPでは
 「自分」、「相手」、「第三者」の立場を全て把握する
ということが
関係性を整える上でのカギとして強調されますが、
社会や歴史的イベントを理解するうえでも同様に
様々な立場から出来事を見ていく必要があるように感じます。


そのためにも個人的には、歴史の流れを
関係する様々な要素や、それぞれの関係と共に並べる形で
一覧できるようにして理解したい気になります。

年表が出来事の流れになっているのが不満なんです。

要素ごとに年表を作り、それぞれの影響を書きこむ。

例えば、
・生活スタイル
・環境(気候、土地など)
・思想
・宗教
・経済
・政治
・発明
・科学/科学技術
・欲求(不満、欲望)
といった要素を、各地域・集団ごとに時代の流れとして整理する。

当然、そこには地域間の関係性も書き込まれる必要があるんでしょう。

そのうえで、各要素間の相互作用として
・動機づける要因
・可能にした要因
・促進/抑制した要因
あたりを記入していくと、
歴史的な出来事に繋がる人々の行動や
その裏にあった気持ちが見えてくると思われます。

それらを踏まえて、歴史的な出来事を追記していく。

そんな感じの、地図と年表が一体になった資料があれば
歴史の物語を一覧として眺められるのではないかと思うんです。

そうしたら歴史の教科書や本によく見られるような
時期が進んだり戻ったりするような複雑さや、
どこか一局面だけを切り取ったような断片的理解は
避けやすくなるんじゃないでしょうか。

どこかにそんな風な整理の仕方をしたものはありませんかね?

2015年07月20日

みんなワガママになる

もう何年も前になりますが、
クレーム対応などを踏まえた
 「厄介な人とどのように関わるか?」
をテーマとしたセミナーに参加したことがあります。

セミナー内容はさておき、1つ印象に残っているのが
 どんどん日本人は自己愛性の傾向が高まっていて
 誰もがクレーマーになりかねない
という話です。

「自己愛性が高い」というのは「自分を愛している」の意味ではなく、
むしろ「自分は愛されて当然だ」という発想が強い感じです。

「自分は愛されて大切にされるのが当然のはずなのに
 なぜ、世の中は自分をこんな風に扱うのだ!?
 おかしいじゃないか!
 もっと私を大切にしなさい!」
のような気持ちを抱く傾向です。

英語でいうと「 narcissistic (ナルシシスティック)」。

「もっと大切にされて当然だ」と感じているわけですから
日頃から不満が大きいわけです。

期待が大きく、それゆえに
思い通りにならないことがあると不満が爆発しやすい。

程度の個人差こそあれ、そういった風潮が高まっているという話でした。


「最近の若者は甘やかされて育っている」なんていう意見も聞きますが、
世の中を見てみると、他にも様々な要因が見つかりそうです。

こうした自己愛性の高さの特徴は『期待が大きい』ともいえますから
言い換えると、「思い通りにならないことに我慢ができない」
とも捉えることができるはずです。

実際、最近の世の中は我慢する必要性が下がっている印象を受けます。


例えば、誰もが夏の暑さを嫌がりますが
2、30年前であれば、今ほど冷房が当たり前ではありませんでした。

確かに僕が小学校の頃は、夏でも最高気温が30度に到達せず、
今よりも随分と暑さも楽だったんだとは思います。

それでも夏の暑さは我慢の対象だったと記憶しています。

最高気温が30度を超えていた大学生の頃だって
冷房がついている教室なんて数えるほどしかありませんでした。

夏の授業は、うだるような暑さの中で行われ
テストの回答用紙なんて汗でシワシワになっているのが当然だったものです。

それが母校の校舎はすっかり改装されて、何年も前から
全ての教室が冷暖房完備になっているとのことです。

電車だってそうです。

以前は扇風機だけの車両もありました。
それ以前は、扇風機すらなかったとか。

今は冷房がついているのは当然で、むしろ
寒すぎる人のために「弱冷房車」なんてのもあるぐらいです。

暑いからと冷房をつければ、今度は「寒すぎる」と不満を言う人が出てきて
その不満に対処するために調整をするのが当然の風潮になっているわけです。

地下鉄のホームなんて以前は蒸し風呂のようだったものですが、
最近は地上駅のホームよりも涼しくなっています。
密閉されていない地下のホームに冷房をつけているんです。

随分と事情は変わってきています。


コンビニだって至る所にありますし、都市部のコンビニは24時間営業が普通です。
「朝7時から夜11時まで」が売りだったセブンイレブンだって、
その名前の由来の痕跡はスッカリ無くなってしまいました。

商品だって常に何でも揃っているのが当たり前で、
コンビニに置かれていない医薬品などは、むしろ
不便なこととして認識されているのではないでしょうか。

宅配便のサービスにしたって、
時間指定は守られて当然だと認識されていると感じます。
指定した2時間の範囲に届かなければ不満を感じ始める人が大半のようです。

子供の頃を思い返すと、郵便や小包がいつ届くかなんて分からず、
呼び鈴が鳴れば、そちらに合わせて出ていくのが自然だった記憶があります。

それが今では、「宅配便の時間に合わせて自宅にいるのが不便だから」と
逆に、最寄りのコンビニで荷物の受け取りをすることだってできるほどです。

いかに自分の思い通りに物事を進めたいか、というのが見て取れるようです。

特に、電話の進歩は著しい。

相手方の迷惑を考えて、自宅への電話のタイミングを計る…とか
友達にかけたいけど親が出たら嫌だから気をつける…とか
家族の誰かが長電話していると迷惑になる…とか
そんな話はもうすっかり思い出になってしまいました。

誰もが常に電話に出られるようになっています。
外出していても電話に出られる。

メールやSNSのメッセージともなれば、
電車の中だってやりとりできるのが当然という認識でしょう。

結果として、「読んだのに返事をしてくれない」なんて不満さえ出てきます。
「返事をくれるのが当然だ」という発想になってしまうようです。
我慢をしないんです。

システムに不具合が出て、1時間でも使えないような事態になれば
ちょっとした混乱のようになってしまうのかもしれません。

便利なことが増えてきて、思い通りにならない状態が少なくなる。
期待していることは、期待通りに進むのが当然になっている。

だから「我慢をする」という発想そのものが減ってきてしまっているのでしょう。


学校の話でいえば、スクリーンやモニターを使って授業をするのも当然で、
先生の板書が読めないなんて不満もなくなれば、
場合によっては資料をそのまま印刷してくれることだってあります。

板書が間に合わなければ、ノートに取らずにスマートフォンで写真を取ればいい。

いまどきの学会発表なんて、スライドを写真に収める人ばかりです。

プレゼンを必要とする教室や会議室はパソコンが繋がっていますし、
発表者が入れ替わりながら進むようなケースでは
それぞれの発表者が自分のパソコンを持ち込むのだって見慣れた景色です。

そしてそれが予定通りに使えるのが当然だと思っている。

そこで多少のトラブルが起きようものなら
それは不満の種になってしまいます。
問題として認識され、解決すべき課題として処理されていくことになる。

電車の話に戻るなら、精密なダイヤで運行するのが当然になっています。
数分の遅れは乗客の不満を招きます。

電車が遅れたり止まったりしたら、振り替え輸送の案内を出し、
料金を受け取らずに、他の鉄道会社と協力して対処に当たる。

そういう工夫の繰り返しで、
ますます物事は期待通りに進むようになっていっています。

そして誰もが、物事が期待通り・予定通りに進むことに慣れ、
それが当然だと感じるようになり、
自分の期待と違った状況を我慢することから離れていくようです。


利用者の満足度を高めるための工夫が
むしろ「これぐらい当然」という期待を高め、
どんどん我慢しない状態を助長して
さらに満足しにくく、不満を感じやすい人たちを増やしていく。

…そんな循環が起きているように見えます。

我慢の必要性が下がっている世の中だと感じます。
利便性の代償といったところでしょうか。

震災の後に感じた、世の中の「当たり前な」便利さに対する『ありがたみ』は
時間が経つにつれて薄れていっているのかもしれません。

自己愛性傾向の高まりは世の中の発展が促していて、
不満を避けようとする更なる快適さの追求が
不満を感じやすい心の状態を生み出していっている。

そんなサイクルが起きているようです。

2015年07月18日

見たくないのに

以前、ニュースか何かで見たんですが、
 ジャポニカ学習帳の表紙の写真が気持ち悪い
とのことで苦情を受けていたらしいです。

カブトムシや蝶、花などがカバー写真として使われていた記憶がありますが
その昆虫シリーズが「気持ち悪い」とのことで無くなり、
今は花が表紙に使われるのが主流みたいです。

確かに虫の嫌いな人はいます。
チョウやカマキリが苦手だという人も、結構知っています。

一方で、小学生の男の子ぐらいだと
カブトムシやクワガタは、カッコイイものの代表格でもあるでしょう。

何より、子供の頃のほうが、なぜか多くのものに対して
特別に「気持ち悪い」といった印象を持たないような気がするんです。

大人だったら気持ち悪がるような虫の類でも
子供の頃は、好奇心で見たり、触ったりできる。

わざわざ日蔭の大きな石を持ちあげて、
下にいるダンゴムシやらゲジゲジやらを捕まえたり、
イモムシだって捕まえたりできてしまう。

それが大人になると、いつの間にか気持ち悪い対象になっていくようです。

もしかしたらジャポニカ学習帳の昆虫が気持ち悪いと文句を言ったのも
子供たち本人ではなく、その保護者である親だったのかもしれませんし、
仮に子供が気持ち悪いと言ったとしても、その意見は
親の考えを採用しただけのものだったかもしれません。


その一方で、大人たちはフェイスブックなどのSNSを使って
自分の好きな写真を自分のページに載せています。

人物の写真や風景の写真、食べ物の写真ぐらいであれば
好みの差も少ないだろうと想像しますが、
自分の好きな花の写真、自分の好きな動物の写真となってくると
事情は変わってくることもあるはずです。

犬好きや猫好きはペットの写真を載せる傾向にありますが、
もしかしたら犬や猫に恐怖症のある人だっているかもしれません。

「金運がアップする」とかで、アルビノ(金色)のヘビの写真が
載せられているのを見たこともあります。

僕の祖母はヘビが大嫌いで、テレビ画面に映るだけでも嫌がっていましたから
それぐらいのヘビ嫌いの人は、うっかりパソコンやスマートフォンの画面上に
ヘビの写真が見えてしまって怖がっている可能性もあります。

道端で見かけたヤモリなどのハチュウ類の写真を載せる人もいますし、
チョウ、トンボ、カブトムシ、テントウムシなどの写真を載せる人もいます。
海の中の生き物や、鳥の写真もよく見かけます。

いずれも苦手な人が比較的多いジャンルだと思います。

本人は好きなんでしょうが、昆虫の幼虫やサナギの写真も
フェイスブック上で目にすることが意外とあります。

そういうのが嫌いな人だっているはずですが、
こちらの話はそれほど問題として上がってこない印象を受けます。

フェイスブックなどのSNSで見ているということは、
その写真をアップした人が友達だという意味だといえますから、
友達の好き嫌いに対しては文句を言わないでいるのでしょうか?

ノートの表紙の写真ぐらいなら、嫌な人は買わなければ済みます。
嫌いな動物の写真が載っている図鑑をわざわざ見る人はいません。

ですがSNSの場合、自分の意図に関わらず、
強制的に目に入れられてしまうこともあるはずなんです。

嫌な思いを感じながらも、人間関係のために我慢する人が多いのかもしれません。


ちなみに僕は、ハスの実が凄く苦手で、
トロピカルフルーツや南国の花、ある種のサボテンや、観葉植物などにも
見たくないものが色々とあります。

コケやシダなどの、ジメジメした場所に生える植物も結構苦手です。

好きな人たちが嬉しくて写真を載せているのでしょうから
そのことに対してとやかく言うつもりはありませんが、
何の前触れもなく画面上に表れる写真は対処が難しいと感じます。

見たくないものを不可抗力的に見てしまう。
SNSのリスクの1つかもしれません。

2015年07月16日

入門書の種類

ときどき Amazon の本のレビューを見たりしますが、
技術や知識を向上させていく種類の多くの分野で
「入門書に最適」、「初心者向けとして良書」といった表現を目にします。

こういうレビューを書けるということは、
書いた人自身は入門レベルや初心者ではなく
随分と経験を積んだ人なのだろうと伺えます。

僕自身もオススメの本などを聞かれて
「最初はこれが良いと思います」
なんて答えたりもしますし、
このブログでも本の感想を書いたりもしていますが、
その際にもやはり多少は知識・技術の習得段階を想定します。


このときに難しいのが、
 他人は必ずしも自分と同じルートで進まない
ということでしょう。

そこへさらに
 自分の通った進み方をオススメするわけではない
という事情も加わります。


もちろん人それぞれ本の読み方や理解の仕方に違いがありますし、
本を読んできた量にも違いがありますから、
「読みやすい」「分かりやすい」と感じる本の種類も異なるのが当然です。

字が少なく簡潔に書かれていることを「分かりやすい」と感じる人もいれば
丁寧に事例を解説しながら実体験と関連づけて納得するほうを
「分かりやすい」と感じる人もいる。

そういった個人差は当然のこととして存在するはずです。

ただ、それ以上に
書評として書かれる「分かりやすさ」「初心者向け」という言葉は
上に挙げたポイントを踏まえないと勘違いしやすいと思うんです。


「他人は自分と同じルートで進まない」というのについては
特に、本を読むタイミングの違いが重要でしょう。

言い換えると、「初心者」「入門」という単語をどの段階と取るか?です。

例えば、スペイン語会話の初心者向けの本では
アルファベットの読み方から始まって発音のルールに進む流れが多いですが、
日本で売られている初心者向けの英会話の本となると
アルファベットには触れないことのほうが多いのではないでしょうか。

それは中学校ぐらいで英語を勉強している前提があること、
そして世の中に英語が溢れていることが関係しているのでしょう。

入門といっても平均的な人が体験しているレベルによって
最初の段階として説明すべき内容が異なってくる、という話です。

これは仮に営業や接客の本を想定したときには
 すでに営業や接客の業務を体験している人に向けた本なのか
それとも
 これから営業や接客の仕事をやろうという人に向けた本なのか
といった違いとして表れます。

アルバイトとして考えている、就職先として検討している、
異動によって営業をすることになった…などの理由で
全くやったことのない接客や営業をやることになる人がいます。

その人たちが
 とりあえずやってみて、職場で教わりながら方法を身につけよう
と考えるのか、
 これから初めてのことをやるから、とりあえず準備として本で勉強しよう
と考えるのか、
その違いが同じ「初心者」であっても
0と1の差に繋がるわけです。

ちょっと経験したことのある初心者には分かりやすいことでも、
全く経験したことのない初心者には理解できないことはあるでしょう。

ここで、その入門書を読むタイミングの違いが大きな意味を持ちます。

レビューを書いた人が、その本をいつ読んだのか?

ちょっと経験したことのある段階で一冊目として読んだ入門書が、
初心者として困りながら取り組んでいる状況を解決してくれた
…という場合も「入門書に最適」といえます。

一方、全くやったことのない段階で「まずは知識から」と読んだ本が
「これからやることの全体像をイメージするのに役立った」とか、
「初めて経験する前の予習になっていて役に立った」とか、
「知識として概要を掴めるので、自分がやりたいものかどうかを
 事前に判断できて役に立った」とか
経験する前に読む「入門書として最適」となる場合もあるかもしれません。

経験する前、経験した後、…いずれの場合でも
「入門」と表現されることがあるため判断が難しい、という話です。


そのうえ
 自分の通った進み方をオススメするわけではない
のですから、
事情はさらに複雑になります。

つまり、
 自分は先に体験をしてから入門書を読んだのに
 他人に勧めるときには、経験をする前の相手であっても
 自分に役立った本をオススメする場合がある、
とか、
 自分は何冊も本を読んで勉強した後に出会った本なのに、
 他人に勧めるときには、一冊目として「入門に最適」だと紹介する
といったことです。

「自分はまず先に経験してみて、慣れながら学習を進めてきて、
 それから知識として整理するために入門書を読んでみた。
 そうしたら体験したことを上手く頭で整理できて『よく分かった』」
という人が、
「この本は分かりやすいよ。
 すごく整理してまとめてあるから、
 まずはどういうものかを知るのに読んでみると良いと思う。」
などと勧める。

あるいは、
少し難しい本を頑張って読んでみて
色々と自分なりの理解を進めて少しずつ納得していく過程で、
偶然、簡潔にまとまった本を購入して
「おお、これは良くまとまっていて分かりやすい!」
と感じる。
そして「これは入門書として最適だ」と、『初めて読むべき一冊』として紹介する。

そんなケースでは、自分が通った勉強のルートと違うものを
人に勧めていることになります。

たしかに本人の印象としては、その本が一番「分かりやすく」て
「良くまとまっている」と感じたわけですから、
他の人に勧める際にも「これが一番分かりやすい」と伝えたくもなるでしょう。

しかし、その分かりやすさもまた、事前の経験や勉強に基づいています。

経験したこともない段階で初めて読んだ本がそれだったら、はたして
同じように「分かりやすく」感じられたのでしょうか?

経験したことのある人が入門書を読んで納得するプロセスと
多くの本を読んでから簡潔な入門書を「分かりやすい」と感じるプロセスとは
詳しい情報がある中で、簡潔に情報を整理するという点で共通します。

簡潔にまとまっている「分かりやすさ」とは
詳しい情報や経験を持っているからこそ感じられるものかもしれないんです。

学校の教科書だってそうです。
まずは概要と、興味を引くための話から始め、
それから詳しい説明と例題を紹介します。
そして「この章のポイント」、「まとめ」という項目が来る。

いきなり「まとまった」ものを読んで
どれだけ理解ができるのかは、定かではありません。

ウィキペディアには比較的詳しい情報が出ている場合もありますが、
百科事典や「キーワード解説」ぐらいだと簡潔にまとまり過ぎていて
逆に、分かったような分からないような印象になることもあるものでしょう。

それでも、勉強した人が復習としてキーワード集を見れば
「あぁ、そうだった」と思いだせることもありますし、
詳しく情報をインプットした後に、簡潔にまとまったものを読むと
意味が整理されて納得感が得られることもあります。

喩えるなら、
誰かに連れられて行った初めての場所を案内してもらって
ホテルの部屋で地図を見直して「あぁ、ここがあれか」と位置関係を整理、
そして翌日からは一人で街を歩けるようになる、
といった感じでしょうか。


当然、逆もあるはずです。

全くやったことのない分野で一冊目となる入門書として
簡潔にまとまってはいないけれど、身近な例を出しながら
興味を引く形で少しずつ全体像を示してくれる本を読む。

「なるほど、そんな感じか」と、おぼろげなイメージだけは分かる状態です。

そこから少しずつ詳しい本に進んでいくと、
事前に全体の流れや枠組みの印象が残っているので
おぼろげなイメージがシャープな骨組みに変わっていく可能性があります。

「あぁ、そうだった」と思いだしながら納得しつつ勉強が進められるわけです。

僕のスペイン語の勉強は、まさにこの流れです。
まず、読み物として「スペイン語のしくみ」を説明した本を読みました。
それから一番カンタンなレベルの文法と会話の教科書に進んだのです。

堅苦しく文法を解説する一方で
徐々に慣れながら覚えていけるように会話例を組み立てている教科書でも、
先の展開が予想できている分、「この練習が何の役に立つか」を理解しつつ
一歩ずつ勉強していける実感がありました。

こちらの進め方も地図の喩えに合わせるとしたら、
地図を見てイメージをしておいてから現地を歩く感じでしょうか。
歩いているうちに、「あぁ、ここは地図で見たアレか。とすると、ここを曲がれば…」
なんて街の構造が掴めてくるような。


両方とも地図に喩えられますが、求められる地図の性質が違うといえます。

前者は実際に歩いたところを整理するための地図ですから
事実に基づいた簡潔な地図で構わないんです。
目印になるような分かりやすい建物や、大通りが示されていれば事足ります。
むしろ細かすぎたら見づらく感じられるかもしれません。

後者は現地に行く前にイメージを膨らませるための地図ですから、
旅行ガイドのように、詳しくて、実体験を想像させるもののほうが望ましいでしょう。
シミュレーションとして流れを準備しておくための地図です。

どちらも「その場所を初めて歩く『初心者』のための地図」ですが
目的が異なっているわけです。

「入門書として最適」という言葉は、
簡潔に描かれた地図のような内容に対しても
旅行のガイドブックに出てくる地図のような内容に対しても、
どちらでも使われるようなんです。

そして、その入門書を紹介する人は、多くの場合
「自分にとって役立った」という理由で、
それがどちらのタイプの入門書だったかを気にすることなく
「入門書として最適」などとオススメしやすいみたいです。

その結果、
 自分は経験や事前の勉強を整理する形で
 簡潔にまとまったタイプの入門書が役立った
にもかかわらず、
 経験もしたことのない人が一冊目に読む本としても
 「この本が一番分かりやすい」
などと紹介することになる。

読んだ人は、簡潔にまとまっているがゆえに説明が詳しくなく、
深い理解に繋がらないことで「難しい」とか、
「よく分からない」といった印象を抱きかねません。

あるいは逆に
 自分は旅行ガイドのようなイメージを膨らませてくれる入門書から入り、
 少しずつ詳しくなるような勉強を進めていった
のに、
 すでに経験している人への一冊目の本として
 自分が最初に読んだ概要予告のような入門書をオススメしたり、
 色々と本を読んでいる人から、オススメの本を尋ねられて
 自分が最初に読んだ入門書を紹介したりする
といったことも起きえます。

この場合、紹介された本を読んでも
「まぁ、それぐらいは知っていますよ」となるか、
「分かりやすいかもしれないけど、そこまで丁寧な必要はないな」となるなど、
情報の質のほうに不満が沸くかもしれません。


自分にとって、その入門書の「分かりやすさ」は
詳しい情報を簡潔にまとめて整理してくれたり
経験に基づく学びを助けてくれたりするような種類のものだったのか?

それとも、
知識も経験もない状態で概要をイメージさせてくれるようなものだったのか?

このあたりを自覚したうえで、
本を紹介する相手が
 すでに、ある程度の経験や情報を持っているのか?
 全く何も知らない状態での取っかかりとして本を読もうとしてるのか?
という違いを注意して、
それから「どんな入門書が役に立つか?」を考えても良いのではないでしょうか。

でないと、せっかくの本がイマイチ役に立たなくなってしまうと思うんです。

2015年07月13日

健康の知識

世の中には健康に関する情報がたくさん溢れています。

体に関する専門家の中には、自らの身体を頼りにしながら
健康な状態を維持している人もいるようです。

その一方で、健康に関する情報を伝え聞いて
それをまとめて発信するような人も見受けられます。

さらには、自分が教わった健康法や体にいいものを正しい知識として覚えて
正しいやり方をやろうと一生懸命になる傾向も見て取れます。

健康という体に関するものが、
知識になってしまう場合がある
という話です。

それが実際に体にいいものをもたらしているか?
それをやって体の状態はどうなのか?
といった自分の体に起きる結果を気にするよりも、
「良い」、「正しい」とされる知識が重視される。

もちろん、情報を知らずに、自ら健康を維持する方法を編み出すのは
それほど簡単なことではないのかもしれません。

健康のためばかりに時間と労力をかけられる人は少ないでしょうから、
専門家の情報を利用するのは、とても役に立つ方法だと思います。

ただし、最近だと「卵は高コレステロールのため一日一個まで」
なんていう情報が覆ったりもしています。
(卵のコレステロールは食品として摂取しても問題がないとのこと)

体のことに関して知識として手に入れられるものには
それほど厳密な正確さはないみたいです。

一生懸命にやっていたものが、ある日突然、覆ることもあるわけですし、
正しいやり方をするために必死になっていることで
逆に心が堅苦しくなってしまう可能性も否定できない気がします。

自分の体のことですから、自分で実感しながら
 何をしたら健康状態が回復するのか?
 何をしたら望ましくない状態になるのか?
と気にかけることも大切なんじゃないでしょうか。

僕は体の具合を常に気にしているほうではなく
いつでも健康という感じではないんだと思えますので、
自分の身体をモニターしながら健康を気にしていきたいと思います。

2015年07月11日

ネガティブにもリフレーミングする

コミュニケーションや心理に関することを勉強していると
『リフレーミング』という単語を目にすることがあると思います。

用語としてリフレーミングと呼んでいない流派の人でも
カウンセリングや心理療法の流れの中で自然と使っているというか、
そこを1つの着地点として捉えているケースも多いように見受けられます。

例えばトラウマを解消するようなセラピーにおいても
過去の出来事を思い出して、「抑圧されていた感情を出し切り」、
そのとき同時に、その出来事の解釈が変わる
という体験は起きやすいものです。

そして実際、トラウマが上手く解消できるかどうかを分ける要因として、
「抑圧された感情が出し切れたかどうか」よりも
「感情を解消したときに、出来事に別の解釈を与えられるか」のほうが
大きな意味を持っているように見えます。

辛かった感情に浸って泣きわめき、怒りや悲しみを再燃させるだけでは
不満は強化されて、辛かった過去はよりハッキリした記憶として定着します。

辛かった感情を吐き出しながら、そのときの出来事を大人の目線で見直し、
その中に望ましい要素を見つけたり、「仕方がなかった」と受容したりできると
辛かったはずの過去に新たな意味が与えられる。
それでトラウマに引きずられにくくなるようです。

このように「物事の受け取り方・解釈が変わること」を『リフレーミング』と呼び、
それによって、その後に遭遇する出来事を体験する際に
今までとは違った解釈で、より広い捉え方ができるようになるわけです。


では過去の辛かった出来事だけ思い返して、
そこへ別の意味を与えられるようにしたらいいのか?
というと、必ずしもそうではありません。

この別の意味を与える作業を無理やりに行うと、
辛かった感情を残したまま、その感情を止めるような形で
知的な作業として別な見方を強調することになりかねません。

いわゆる『合理化』のような感じでしょう。

辛かったという気持ちを切り離して
「あれは嫌な体験だったけど、まあ仕方なかった。
 あれがあったおかげで良かったこともあるじゃないか。」
という具合に
 「仕方ない」と思いこもうとする
状態になりやすい。

思いこもうとするのと、
自然と思えるのは違います。

リフレーミングは「見方を変えようとする試み」ではなく、
「リフレーミングされた」という「見方が変わった体験」のことを言います。

見方を変えようと努力し続けている段階では
まだリフレーミングされていないわけです。

新たな見方を与えようとするときに
辛かった気持ちのほうを無視することも、また
できないことなんです。

感情を解消して、
新たな見方を取り入れる。

両方セットにしたときに「リフレーミングが起こる」ということです。


言い換えると、
 辛かった思いを受け止めてもらいたい気持ち

 それは仕方がなかったと受け入れたい気持ち
の両方がある
といった感じでしょうか。

一方に肩入れした状態では、もう一方はないがしろにされ
なかなか全体として満足できる状態には至らない、と。

そこでリフレーミングの観点として重要になるのが
 必ずしもポジティブに捉えるだけではない
ということです。

肯定的に受け取るようにするだけではポジティブ・シンキングです。
それが悪いわけではないですが、
「仕方がなかったと受け入れたい気持ち」のほうだけに肩入れする作業のため
「辛かった思いを受け止めてもらいたい気持ち」が残る可能性はあります。

ですから、あえて物事の受け取り方として
苦しかったほう、つまりネガティブな側面にも目を向け
ポジティブとネガティブを両方意識にあげるようにする
という工夫が役に立つはずです。


あえてネガティブな側面に目を向け、
しっかりと「辛かった」、「大変だった」ということを受け止める。

そこで役に立つのが
「辛かった」、「大変だった」、「苦しかった」ということへ
納得感を高めるための工夫です。

なぜなら
「辛かった」はずの出来事があっても
今、それでも頑張って生きていられるということは、
自分にとって(少なくとも辛うじて)受け止められる範囲だった
という意味を含むからです。

「辛かったとは思うけれど、現にこうしてやっていられるわけだし、
 それほど大変だったと騒ぎ立てるほどでもないんじゃないか?」
といった気持ちが沸く場合があります。

そういうときには、ちゃんと「大変だった」と納得するための
別の要因が求められます。

その納得感を高めるための追加要因として、
別のリフレーミングも併用することができます。

自分の長所をあえてリフレーミングして、
長所ゆえに平均よりも苦しんだことへ目を向ける。

例えば、
 積極的で行動力と責任感があって、意欲的に前へ進もうとする
という長所があるとしたら、
平均よりも抜け出しているこうした個性は、おそらく
 だからこそ同じような思いを共有して
 本当に気持ちを分かち合える仲間が少ない
という寂しさを体験してきている…といった具合です。

強みがあるからこそ、体験してしまう大変さもあるわけです。

そのような見方をすると、トラウマ体験に対しても
いかに自分が大変だったかを素直に受け止めやすくなると思われます。

トラウマと関連させるなら、例えば…。
 本当は親に弱音を吐けずに寂しい思いをしていた。
 それでも頑張って乗り越えてきた。
 
 そしてそんな風に乗り越えられたのは、
 自分の我慢強さという強みのおかげだった。

 我慢強かったからこそ、弱音を吐かずに耐えることができてしまった。
 我慢強かったからこそ、それだけ多くの我慢をすることになってしまった。
 他の人なら限界を超えていたような状況でも
 自分は頑張って我慢をしていたようだ。

 本当によく頑張っていた。
 あぁ、随分と我慢していたんだなぁ。…
といった感じで受け止める。

そうすると気持ちへ注意が向きやすくなり、
あまり感じないようにしていた寂しさという感情も意識されやすくなります。
結果として感情が解消されて、最終的なリフレーミングに至りやすくなる、と。


このようにリフレーミングをする上での工夫としても
様々な側面に目を向けるが効果的なようです。

一見するとポジティブで、パッと見は問題解決の最短距離のような発想に
視野を限定してしまうのではなく、
むしろネガティブとさえ感じられるところにまで視野を広げていくと
結果的にはスムーズにリフレーミングされやすくなる、ということです。

苦しさを受け止めるということも、リフレーミングの工夫の1つといえそうです。

2015年07月08日

ファシリテーションとバラエティ番組

ファシリテーションと呼ばれるコミュニケーション技法があります。

主に複数の人同士の会話(たとえば会議とか)において
全員の話し合いのプロセスを「促す」のが役割のようです。

必ずしも、全員が偏りなく話せるようにするのが目的でもないようですし、
1つの結論に導くのが目的でもないようです。
時間を短縮するとも限らず、かといって沢山話しさえすればいいわけでもない。

ファシリテーターがいると、全員で好き勝手に話をする場合よりも
効果的に話し合いが進むという役割のイメージは思い浮かびますが、
では具体的に何をすることが求められるか?と考えると
なかなか一口に答えにくいような気がします。

おそらくそれは、方向性が不明瞭だからでしょう。
話し合いのゴール設定によって、ファシリテーションの中身は異なるはずです。


家族療法において家族全員と面接をする場合にも
家族療法家はファシリテーターのような役割を担う部分があります。

ただし家族療法家のスタンスによって、
どのように面接を進めるのかには個人差があるものです。

全員から事情を聞いて、家族療法家自身が臨床像を描き、
それに基づいて指示を与えるような方針もあります。

全員から意見を聞きながら、お互いに話し合う時間を増やし、
その話し合いにおける力関係を調整することで
家族の構造から問題を解決しようとするアプローチもあります。

家族成員が言葉にしていない感情や期待を汲み取って
他のメンバーに通訳する形で、家族間の気持ちの交流を促す方法もあります。

家族で課題に取り組んでもらい、その課題の進め方を指示したり、
取り組むプロセスをサポートしたりするやり方もあります。

このあたりの違いは、家族療法の中でも流派・技法の違いでもありますし、
その家族療法家が設定するゴールによっても異なるところでしょう。

目下の問題が解決すればいいのか、
家族という機能が改善すればいいのか、
家族自身が自ら問題解決できるようにトレーニングするのがいいのか、
家族が困難にあっても乗り越えられるように絆を深めるのがいいのか…
家族療法という話し合いの場によって何を目指すのかにも違いがあるわけです。

流派として区別できる範囲であれば、家族療法家の中にも
「自分は○○派の家族療法を行います」と明言する人もいますが、
結局のところ、家族療法を受けにくる人たちにしてみたら
そんな名称の区別は知らないのですから、大きな意味を持ちません。

結局のところ、「家族療法」という曖昧なカテゴリーのまま
家族療法家それぞれによって、アプローチもスタンスも異なる
というのが現状なのかもしれません。


ファシリテーションも同様の印象を受けます。

ファシリテーターによって話し合いのゴール設定が異なっていたり、
話し合いのメンバーに対してどのような影響を及ぼそうとするのかも
人それぞれ求めるものが異なっているように見受けられます。

ファシリテーションの中に、家族療法における流派のような
違いがあるのかは知りませんが、少なくとも僕が見てきたファシリテーター達は
それぞれ違ったスタンスで関わっているように見えました。

共通していたのは話し合いのメンバーに対して質問を投げかけたり
発言内容を要約したり、言い換えたり、といった方法論の部分。

何のために質問をするのか?
要約をすることで何を期待しているのか?
ファシリテーターがとる役割によって、話し合いにどんな影響を及ぼしたいのか?
(逆に、どんな影響を及ぼすことを避けようとしているのか?)
…そのあたりには共通点が見当たっていません。


イメージでいうと、テレビのバラエティ番組での司会のような感じです。

出演者に話を振ったり、それに対してコメントを出したり、
話を促したり、全体の進行をしたり、司会者がやることは沢山あります。

そうした一連の作業を「まわす」なんて言うようですが、
その「まわし」のスタンスも人それぞれスタンスがあるみたいです。

お笑い芸人がやるのとニュースキャスターがやるのでも違いますし、
芸人の中でも個人差が大きく見てとれるところです。

それは番組として、どういう笑いを取りたいのか
といったところと関係するのかもしれませんし、
その司会者自身が目指す笑いの形と関係しているのかもしれません。

明石家さんまのような司会の仕方もファシリテーションに含まれるのでしょうが、
明石家さんまの出ている番組は全て、「明石家さんま」の番組になります。
主役は司会者というイメージ。

出演者を最大限効果的に用いて、自分が笑いを生み出していく
といった感じなのでしょうか。

逆に、もっと若手の芸人が司会をやるようなケースだと
出演者全員を好き勝手にさせながら
暴走を止めるようにして進めるような形も見受けられます。

くりーむしちゅー・上田晋也のように、
ゲストがお笑いではなく俳優やミュージシャンのような場合でも
質問の仕方によって上手くコメントを引き出して面白くしていく形もあるようです。

一口にバラエティ番組の司会者といっても色々とあるように
ファシリテーターにも色々とあるのだろうと感じます。


バラエティ番組であれば、とにかく番組が面白くなって人気が出て、それでいて
制作側の趣旨から大きく外れていなければ自由度は高いのかもしれませんが、
ファシリテーションの場合は、話し合いそのものに目的があるはずです。

さらには話し合いの一場面だけでなく、長期的に見たとき
その話し合いの参加者たちがどうなっていくか
というトレーニング的な側面も含まれるといえます。

そこまで考慮すると、ファシリテーターの振る舞いが
どのように話し合いの参加者たちに影響を及ぼすのか?
と注意しておくのは、大切なことではないかと考えられます。

ファシリテーションの進め方次第では話し合いの方向性を
ファシリテーター自身の好みに沿ってコントロールすることもできますし、
ファシリテーターが話し合いの場の中心になることもできてしまいます。

その場に求められるファシリテーターの役割を想定しながら
自分の振る舞いを変えられるのも1つのスタンスなのかもしれません。

とはいえ、自分の思い入れが強い場面でファシリテーションをするときには
どうしても自分の存在価値を表現したくなるもののようですが。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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