2015年09月

2015年09月29日

巻き込まれ力

どうも近頃、ペーシングを自然にするようになっているというか
他人に同調することで影響を受けやすくなっている気がします。


先日、とてもテンションが高く、よく話す知人と一緒になったときも
その人が隣の席に座っていると、僕も楽しい感じになりました。

もちろん久しぶりに会った楽しさはありますが、
体のリズムや僕自身のテンションとして感じられるものに
普段ではどんなに楽しくても体験しない種類のものがありましたから、
おそらく、その人のテンションに巻き込まれていたと考えられます。

丁寧に体の使い方を真似して(いわゆるモデリング)、
その人の内面に近いものを感じられるのと似ています。

モデリングをすると普段と全く違う姿勢や
動作のスピード感、力感やリズム感などを通じて
内面的に感じられる気分が自然と変わるものなんです。

僕としては意識的に丁寧に真似をしているつもりはないですし、
ましてや姿勢が一緒になっていたとは思いませんが
それでも近くにいると、その人のテンションと同じような感じになるようです。

きっと、そのときの様子をビデオにとって客観的に観察したら
僕とその人のリズムや雰囲気はかなり近づいていただろうと想像できます。

その場でも同時に少し自分を客観的に分析している視点がありましたから
普段だったら体験しないような楽しさを体感覚で味わっているのが
実感として気づけるぐらいの違いだったといえるでしょう。

「あぁ、こんな風にウキウキした状態でいられたら楽しいだろうなぁ」
と感じていたものです。

また、つい先日も、久しぶりの打ち合わせで
普段の自分では体験しないような元気でアグレッシブな感じを味わいました。

いつもよりも言葉数が多かったでしょうし、声も大きめだったと思います。

会う人の雰囲気によって自分の気分が変わる度合いが
なんだか随分と大きくなっている印象を受けるんです。


語学に関しても、この影響が大きくなっている気がします。

ネイティブスピーカーと話すときのほうが圧倒的にスムーズなんです。
外国語の講座だと、日本人同士で会話の練習をしたりしますが
ここでもやはり影響を受けているように感じます。

もしかしたら英語で独り言をいうよりも
日本人と英語で話すほうが苦手かもしれません。

ネイティブと話すと、そっちに助けてもらえて、
日本人と話すと、日本語感覚に引っ張られてしまう。
そんな事態が起きているんじゃないか、と。

今年の4月ぐらいから再開したフランス語についても
ネイティブが近くにいるとパフォーマンスを活性化してもらえる感じを受けます。

もちろん、全く持っていないものは使えないと思いますが、
何かしらの形でインプットしたものは、フランス人が近くにいると
自然と引っ張りだしてもらえるみたいなんです。

「なんか、こんな風に言いそうだな」と思いながら、なんとなく口をついて出たものが
意外と文法的にも言い回しとしても自然なものだったりする。

4月から3カ月ぐらい講座が続いて、2か月ぐらいの中断があって、
その間に自分で勉強していたものが記憶の中には蓄積しているんでしょう。

そうやって記憶した情報を引っぱり出すときに
ネイティブの状態に巻き込んでもらえると
どうも言葉の繋がりがスムーズになるように感じられます。

催眠術で「英語が話せるようになる」という暗示を入れると
急にペラペラと英語で話しだす人がいる…
というのに近いんじゃないでしょうか。

知識として蓄積している英語があって、フレーズとしても聞いたことがあって
あまり意識としてアクセスされにくい記憶に英語が残っている。

普段の状態だとそこにアクセスできなくて、一生懸命に「考える」作業で
英語の文章を「作ろう」としてスムーズに言葉にならない。

ところが、催眠で「話せる」という状態になりきると、
文章を考えて作ろうとする状態が抑えられて、
代わりに記憶の中にあったフレーズを再現しやすくなる。

催眠術では、そんなことが起きていると考えられます。

それと似たように、フランス人と一緒にいるときには
考えて文章を作ろうとする程度が小さくなるように思えるんです。

記憶が自然とアウトプットされやすい状態とでもいいましょうか。

相手に巻き込んでもらえるメリットの1つでしょう。


語学に関しては、この状態を上手く利用してトレーニングしたいものですが、
逆に振り返ってみると、近頃の自分は他人からの影響の度合いが大きく、
自発的な心の動きが少ないような気もするんです。

気分や心理状態の変化が、巻き込まれによるところが大きい。

楽しい人が近くにいれば楽しくなるし
元気な人が近くにいれば元気になるので、
それはそれで良いんですが…。

はたして、それは「自分が楽しい」と言えるんだろうか?
といった疑問が頭をよぎりることがあります。

その意味でも、体を動かすときの喜びを意識できたら
もう少し自発的な楽しさが感じやすくなるのかもしれないと思っています。

ですからチョットだけ運動の機会を作ろうかなぁ、と。

涼しくなってきたので歩くぐらいは心がけてみたいものです。

2015年09月26日

【セミナー】ネガティブ・リフレーミング

ご案内: 10月12日(月・祝)開催

   コミュニケーション講座 〜ネガティブ・リフレーミング〜



久しぶりの講座になります。

内容は『ネガティブ・リフレーミング』。

あまり耳にしない言葉かもしれませんが、それもそのはず。
自分で適当につけた呼び名です。

『リフレーミング』とは物事の見方を変えることをいいます。
注目する部分を変えて、新たな意味づけを加えるプロセスです。

例えば、人づきあいが悪くて嫌なヤツだと思っていた人が、
道端で困っている人を率先して助けている様子を目撃したとします。
すると「なんだ、ああいうところもあったのか!」と印象が変わります。

「人づきあいが悪くて嫌なヤツ」という認識が
「人づきあいでは不器用だけど優しいヤツ」という認識になる。

その結果、「人づきあいの悪さ」が目についた場面でも嫌な気分にならず
「まぁ、ああいうヤツだからな」と気軽に受け止められるようになる。

…そういう風に、
着眼点が変わることで新たな意味づけが加わることが
リフレーミングと呼ばれます。


「見方が変わる」といっても良いかもしれませんが、
それまでの見方がなくなるわけではありません。

新しい着眼点が追加されるため、総合評価が変わる感じです。

ですから上の例なら「人づきあいが悪い」という印象は残っているといえます。


「人づきあいが悪い」という特性をリフレーミングする場合でも
同様に着眼点を追加しています。

「人づきあいが悪い」とは言い換えると、「マイペース」のようにも捉えられます。

この場合、「人づきあいが悪い」だけだと
 誘いを断ったり、話しかけても素っ気なかったり、
 皆の会話の輪の中に入ってこなかったり…
といったところに注目しているはずです。

ところがこれを「マイペース」とリフレーミングすると
 どんなときでも自分一人で黙々と作業をしているとか、
 自分の趣味は楽しんでいるとか、
 周りに影響されずに、いつも落ち着いているとか…
他の部分も自然と思いだされるものです。

「人づきあいが悪い」を「マイペース」と言い換えたとき、
頭の中で「マイペース」という定義に当てはまる事例が探索されるんです。
そして「マイペース」の基準にも当てはまると判断されれば
「あぁ、たしかにそうもいえますね」と納得する。

逆に、「マイペース」の基準に当てはまることが見つからなければ
「いや、そういうことじゃなくて、つきあいが悪いんですよ」と違和感が生まれます。

リフレーミングは
 頭の中で着眼点を増やして総合的な評価を広げている
というのが実態です。

リフレーミングした後にも当然「人づきあいの悪さ」は意識されますが、
それを「マイペース」さの表れとして受け止めることで
「必ずしも悪いことではない」と感じられているのが重要です。

「人づきあいが悪い=短所」、
「マイペース=人柄」
といった印象の違いが影響を与えているわけです。


むりやり良いところだけに注目して、悪いところを無視している
というのとは違います。

良い悪いという評価に対して柔軟になる感じ。

良いとも言えるし、悪いとも言える。
そんな視点を持つことがリフレーミングです。


そうやって良し悪しの判断から離れていくと
さまざまなことがその人の『個性』として見えてくるようになります。

個性のメリットもあれば、デメリットもある。

このデメリットの部分に視野が広がってくると
人の苦しみが見えやすくなります。

その苦しみに対して思いやりを持ちやすくなるんです。

個性のデメリットへの着眼点を増やして
思いやりの気持ちを高める作業を、ここでは
 『ネガティブ・リフレーミング』
と呼ぶことにしました。

いわゆるリフレーミングが、短所やデメリットから
長所やメリットに視点を広げるように使われがちですので、
そちらを『ポジティブ・リフレーミング』とすることで
対比として『ネガティブ・リフレーミング』と呼んでみたわけです。

人は誰しも、嫌なところに目が向きやすいものです。
腹の立つことは多いし、他人の短所が気になります。
思うようにいかないことも悔しいですし、短所ゆえに自分を好きになれない。

そういうときは一般的な(ポジティブ)リフレーミングが効果的です。

ですがリフレーミングとは、そちらの側面だけではありません。
とにかく視野を広げていくんです。

あえて苦しみにも目を向けていく。
誰もが苦しみながら生きて、なお頑張って生き抜いている。
その方向に着眼点が広がるほど、人をいたわり慈しむ気持ちが高まります。

いわばネガティブ・リフレーミングは、慈しみの技術なんです。

当然、他人に対しても思いやりを持つことができますし、
自分自身に対して慈しみを向けることもできます。

短所を長所にリフレーミングするやり方は
自分を過剰に低く評価しているときには有効です。
「好き」になれる度合いが高まりますから。

しかし最終的には、「好き」は「嫌い」との対比を必要としてしまいます。
一方、思いやりや慈しみは、良し悪しなどの評価とは無関係です。

自分も他人も受け入れやすくなります。


技術的には、人の個性をもとにして
その個性と結びついた苦しみを推し測る練習をします。

視点を広げる方向として整理するための枠組みも紹介します。

人の相談にのるような立場の人であれば
ねぎらいの言葉をかけやすくなったり、
共感的な話の聞き方がしやすくなったりすると期待できます。

主観的な体験としては、深く共感してもらえたときのような
ねぎらいの実感があるだろうと考えられます。

この着眼点が染みついてくれば
人の長所を見て、羨ましくなることも減るでしょうし、
他人の振る舞いを見て不快に感じることも減るでしょう。


直近のご案内ですが、興味とご都合が合いましたらお越しください。



もしかすると最少決行人数に届かない場合もあるかもしれません。
その点はご了承ください。



◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。






【セミナーの詳細】

≪コミュニケーション講座 〜ネガティブ・リフレーミング〜≫

【日時】  10月12日(月・祝)
       10:00〜16:30


       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 303集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

人の気持ちを理解するのは難しいものだと思います。

ですが、人の苦しみを思いやるのは想像力さえ働かせれば難しくありません。

自分も含めた皆が苦しいんだと感じられると
他人をいたわる気持ちだけでなく、
自分に対しても優しくなれるものです。

苦しい自分にハマりこむのではなく、
すべての苦しい存在の一人として自分を眺める。

そんなつもりになれると、心が軽くなります。

心理やコミュニケーションの技術は
優しさを相手に伝わりやすい形で表現するものといえそうですが、
ネガティブ・リフレーミングは優しさを大きくするための視点
といった感じかもしれません。

別に優しくなくても構わないと思いますが、
それが大事だと感じる方にはオススメです。

2015年09月23日

お手本を見て学ぶ

今年もまた書道作品の制作シーズンになりました。

まずは先生のお手本を見せてもらうところから。

流派や教室によってお手本の扱いは違うらしいのですが
僕が通っている先生は親切で熱心な方なので
一人一人にお手本を書いて、見せてくれます。

日頃の練習のときは半紙のサイズで
古典の臨書(昔に書かれた名作を手本にして書くこと)をするばかりなので
作品用に大きな紙に書くところは、年に一度しか見ることができないんです。

作品感の出し方というか、
「どうやったら、ただの真似ではない1つの作品としての表現ができるか」
という部分を教わることができるのは、このお手本の機会ぐらいなものです。

紙面全体のバランスのとり方とか、雰囲気の強調の仕方、
リズムや筆の動きを線に反映させるための体の使い方、
目を引くような線質を出すための筆使い…
そういった様々な技を見ることができます。

特にオリジナル作品のお手本ともなると
構成や線質、白黒のバランスを組み立てていくプロセスを見られるので、
ただの模倣から表現の段階へと移行するところが学べる貴重なチャンスなんです。


書道は芸術とは言いながらも、デタラメが許容される世界ではありません。
古典や名作のエッセンスだけを抽出して、組み合わせたりしながらも
そのうえにオリジナリティを加えていくことが求められます。

その意味では料理に似ているのかもしれません。
美味しさの基準は、いろいろと美味しいものを食べるうちに身につく。
美味しくするための基本を学ぶ。
それから創作料理に進んでいく、といった感じでしょうか。

オリジナル料理だと言いながらデタラメに食材を混ぜてしまっては
何が美味しいんだか分からなくなってしまうはずです。

やはり重要なポイントは本質的な要素として抽出される必要があります。

名作の真似をしてエッセンスを掴み、紙の上に表してみたい雰囲気を
そのエッセンスを取り入れながら組み立てていくわけです。

普段の練習では真似のところまでですから、
自分の中にどれだけのエッセンスが抽出されてきているのかを
自覚することさえできません。

日頃の練習で経験的に身につけてきたエッセンスを
自分なりの応用として出してみる段階が作品制作なのかもしれませんが、
古典の臨書で学べるのは筆使いや、文字のバランスのとり方といったところまで。

作品としての良さの基準は、他にも歴史を通じて積み上げられてきています。

そのほかにも
紙面全体の構成、
白黒のバランスのとり方、
雰囲気の強調の仕方、
紙面全体の動きの流れ、
線質、
筆の動きを反映するリズムや立体感、
全体が醸し出す雰囲気、
…などと
たくさんの要素が必要なようです。

日頃の練習から、作品までの間には
これだけ多くのステップがあるということ。

これらを学ぶチャンスは古典の臨書からというよりも
達人のやり方を見るときにこそあるような気がします。

料理の喩えに戻るなら、普段の臨書の練習は
 包丁の使い方や鍋の振り方のトレーニングから
 オムレツやチャーハンなどの基本料理を徹底的に練習する段階
のようなものでしょう。

作品制作のプロセスは
 実際に様々なレシピで料理をしてみながら
 達人の様々な技を盗みつつ、味を近づけていく工夫をする段階
といった感じ。

この機会が少ないんです。


年に一度、お手本を書いてもらう時期は
先生が作品を作り上げるプロセスを間近で見せてもらって
そのやり方を模倣するチャンスなわけです。

普段できない勉強ができます。
そのため、できるだけ多くの人のお手本書きの作業を
一生懸命目に焼き付けておきたい。

先生は別に、作品制作のコツを言葉にして、
セミナーで教えてくれるわけではありません。

ときどき「もっとこうしよう」という言葉は聞けますが
その理由については推し量るしかないみたいです。

ですから、ひたすら見る。

僕の好きだったマンガで
『ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜 』
というのがあって、
一目見たものは何でも複製できる贋作者が主人公でした。

僕は中学か高校生ぐらいの頃から
 見たものを真似できるようになる
ということに憧れがあったのかもしれません。

今、僕が書道教室で先生のお手本を見るときは
まさにそんなつもりで凝視している気がします。


先日は6時間ほど見てきました。

他の生徒は平気な顔をしていましたが
僕はもうヘトヘトです。

目は疲れるし、アゴはいたくなるし、首も肩も重くなるし…
三叉神経が刺激され過ぎて偏頭痛ギリギリの状態でした。

皆どうしてあんなに平気な顔で楽しそうに過ごせるのだろう?
と疑問に思うばかり。

もっと体力が必要なのかもしれませんが。

見て盗むというのは大変なものだと実感します。

2015年09月20日

英語の情報量

以前、少しだけ翻訳の仕事をしたことがあります。
英語から日本語です。

英語の文字数や単語数をカウントしても当然
日本語の文字数とは一致しませんが、
一般的な行間とフォントサイズで訳を進めていくと
日本語のほうがページ数が多くなるものでした。

だいたい1.5倍ぐらいだったかと思います。

そのうえ、英語で使われている代名詞を
意味が分かるように日本語へ置き換えて訳すと
さらに少し量が増えます。

実際、洋書を翻訳した日本語版の本は分厚いものですが、
洋書で購入すると、いわゆるペーパーバックで、随分とコンパクトです。

紙質や書式もあるんでしょうが、厚さにすると
翻訳した日本語版は2倍ぐらいの感じがします。

言い換えれば、英語のほうがコンパクトに情報を伝達できるということです。


さらに話すスピードにも差があります。
やはり英語のほうが速い。

音節の数が少ないからです。

日本語は子音と母音を1つずつ組み合わせて単語にしますが、
英語では子音を並べられるので、単語辺りの音節数が少ないんです。

しかも冠詞や前置詞などの弱く発音する音については
本来は一音節なのに、文章全体の拍数には含まれなくなったりもします。

このあたりは、ディズニー映画「アナと雪の女王」で有名な
「 Let it go 」の歌詞を見ると明らかです。

メロディーに乗せながら日本語に変換するためには
音節の数を工夫する必要があります。

かなり意訳をして「 Let it go. 」を「ありのままの」としたようですが、
「 Let it go. 」が3音節なのに対して、「ありのままの」は6音節。
結果、サビの部分では「 Let it go 」を2回続けるところを両方使って
「ありのー、ままのー」としているわけです。

冒頭部分では
「 The snow glows white on the mountain tonight 」が
「降り始めた雪は」に対応しています。

直訳すれば「今夜、雪が山の上で白く輝く」ですから
音の数としては、とても追いつきません。

歌詞を訳したホームページなんかも見つかるので見ていただければ
日本語版の歌詞が大きく意味を減らしているのが実感できるはずです。

細かいニュアンスを削って、だいたいの流れだけにした感じ。
翻訳というよりも、要約に近いぐらいに情報量が減ります。

つまり
それだけ英語のほうが同じ音数に多くの情報を込められる
ということでしょう。


英語を日本語に翻訳するとページ数が1.5倍から2倍になるぐらい
英文のほうが情報量が多くて、
かつ
それを少ない音数で発話してしまうわけです。

日常的な会話では、あまり意味のない音がたくさん入りますから
それほどの情報量で話していないこともあります。

しかし論理的な内容のスピーチとなると
かなり短時間で多くの情報を込めていることになります。

当然、頭の中で流れる言葉も、英語のほうが展開が早いわけなので
思考のスピードについても英語のほうが速いだろうと考えられます。

論理を飛躍させずに、きちんと説明する考え方にしても話し方にしても
英語そのものの特徴があるから、やりやすいのかもしれません。

逆いえば、日本人は文化として論理的に説明することに慣れていないだけでなく
日本語という言語の特徴からしても、論理には不向きな可能性がある、と。

その一方で日本語には擬音語や擬態語が豊富にあって
内面のイメージをそのまま音にして伝えるような手段が発達しています。

モーダルオペレーターと呼ばれる助詞の微妙な調整で
ニュアンスを細かく文字に表すことも可能です。

論理的な情報量が少なくなっている代わりに
心情を表現するための情報量が多くなっている
ともいえそうです。

英語のほうが論理的な整合性を元に意見を調整して結論を出しやすく、
日本語のほうがお互いの心情を理解し合うことで意見をまとめやすい
といった違いがあるんじゃないか、と。

コミュニケーションのスタイルの違いが
言語の特徴とも結びついている印象を受けます。


そして、この特徴の違いが日本人の英語学習のハードルにもなると思われます。

スピードについていけない。

音の進みが速いからだけでなく、時間当たりの情報量が多すぎるのもまた
理解のスピードとして負担が大きいでしょう。

ですから、何を言っているかを一字一句書き起こせるぐらいに
リスニング力があったとしても、
思考のスピードとして話を理解しきれないケースも充分にありえるはずです。

これについては頭の中での言語のスピードを上げる必要があるでしょうから、
自分の頭の中で、早口な内部対話を聞くようにするのが良さそうに思えます。

とにかく早口で考える。

それから英語でも意味が分かりながら発話できる文章を
これも早口で声に出す練習をしたり、
速度を上げて頭の中で再生したりすると
良いトレーニングになるのではないでしょうか。

最終的には慣れで乗り越える壁ということだとは思いますが
スピードの影響を克服するトレーニングは
英語学習の初期段階からやっておいたほうが効果的なように感じます。

フレーズを覚えるタイプの言語学習ではトレーニングしにくい部分でしょう。

世界中で主流になっている言語学習の方法論は
言語の構造が似ている場合にはスムーズだろうという気がします。

日本人が韓国語を覚える場合には、その特徴の共通点から
一般的な言語学習スタイルが通用しそうですが、
性質が大きく違う言語を学習するには、色々な工夫があると良さそうです。

言語ごとの特徴をもとに、高いハードルになりそうな部分を見極める。
それから適切なトレーニングを作って、実践する。

「○○語を話す人向けの、△△語トレーニング」
といったカスタマイズがあっても良いと思うんです。

cozyharada at 23:39|PermalinkComments(0)clip!心理学 | NLP

2015年09月16日

分かりやすさゆえの危険

物事を細かく分けて考えるのは面倒臭いものなんでしょう。
全てを1つのことで片づけられたほうが便利ですし、効率的です。

しかし、細かく分けて別の名前で呼んでいるのは
そこに違いがあるからです。

そしてその違いに合わせて対処の仕方を変えるからこそ
より高い効果を発揮できるものもあります。

例えば、大腸菌とカビでは生物学上の分類が違います。
大腸菌は原核生物で、カビは真核生物です。

細胞のしくみが違います。
だからこそ、細菌を殺すための抗生物質と
カビを殺すための抗真菌剤とでは成分が違うんです。

細菌を生きられなくする薬は、細菌の細胞の仕組みに働くのであって
カビの細胞の仕組みには働きませんから、
カビにはカビの細胞の仕組みを阻害する薬が必要になります。

「どっちもバイ菌でしょ」と扱ってしまったら
対処しきれない可能性だってあるわけです。

さらに、違いを利用するからこそ
人間にとって都合の良い結果を生み出すこともできます。

抗生物質はまさに、人間と細菌の性質の違いを利用しています。
細菌にあって人間にない仕組みを阻害するため
人間には無害で、かつ細菌だけを退治できるんです。

専門技術には原則もありますが、同時に細かな違いに注目するからこそ
対処できる問題が沢山あるということです。


ところが違いを知らない状態だと、共通点のほうに目が行きやすくなります。
同じようなものだろうという前提で考える。

その結果
 「○○でこうだったのだから、同じような△△でもこうなるだろう」
という議論を展開しがちになるようです。

先日、インターネット上の記事に感受性が鋭すぎる人の話がありました。
近くにいる人の怒りや悲しみを吸い取って、
知らず知らずのうちに共感してしまっている人がいる、と。

自覚がないから、人のいるところに行くと、なぜかイライラするようになって
本人が体験する必要のない苦しさまで感じてしまっている、といった話でした。

そのときに著者は、「感受性が高い人は周りの感情を吸い取ってしまう」
という現象に説得力を持たせようとしたのか、
”科学風”のデータを引用していました。

どこかの大学が
「植物細胞が周りにあるセルロース分子を吸収する」
という発見を科学論文に投稿していたというんです。

確かに植物細胞(実際には藻類ですが)が環境中のセルロースを分解して
糖分として利用するという報告は今までになかったらしく、画期的だそうです。

セルロースは植物細胞が作り出す食物繊維のようなもので、
環境中のセルロースを利用するということは、他の植物細胞が出したものを
別の植物細胞が吸収する可能性がある、という論旨のようでした。

この
 「他の植物細胞が出したものを別の植物細胞が吸収する可能性がある」
という部分だけを、そのネット記事の著者は参考にします。

「他の細胞が出したものを、別の細胞が吸収する。
 だったら人間だって、他人が出した感情を吸収してしまうのも当然だ。」
そういう説明でした。

細胞レベルと個体レベルで、どれだけの違いがあるのか?
植物と人間でどれだけの違いがあるのか?
液体中のセルロースと、空間を伝わる感情と、どれだけ違うのか?
…そういう発想には至らないようです。

植物細胞も人間も同じ生き物だ。
セルロースも感情も同じ「出たもの」だ。
このような共通点を土台にして、
 同じようなものだろう
という発想で根拠に使おうとしているわけです。

違いに目を向ければ、もう、とんでもなく別次元の話です。

以前、人工甘味料の危険性を主張するのに
「砂糖にはアリが寄りつくのに、人工甘味料には寄りつかない。
 アリも食べないようなものは人間に有害なんだ。」
といった実験結果を見せている記事も目にしました。

アリを寄せつけないものが人間に有害なら
虫除けスプレーなんかを使ったら人間はどうなってしまうんでしょう?

人工甘味料に危険なものがあるかもしれないこととは関係なく、
主張の仕方として、根拠にならないデータを使う人が多い印象を受けます。

違いを知らないことで共通点だけに目を向けて
 「○○でこうだったのだから、同じような△△でもこうなるだろう」
と主張するのは論理的ではありません。

日本の学校教育では論理についてハッキリとは学ばない気がしますから
「そうとは限らない」という反論の仕方をトレーニングする機会も少ないようです。

別に論理的でなくたって構わないかもしれません。
説明をしたり意見を述べるときに論理的である必要は
日本文化では小さいようにも見受けられます。

論理的でないから意見を言ってはいけないということではありません。

ただ、世の中への影響として危険性を感じることもあるんです。


とくに医療関係の情報などは、その信憑性を評価することが大変な分だけ、
どの話を信じればいいのかが難しいところかと思います。

例えばワクチン製剤には、
安全性に疑いのある成分が含まれているという話を目にします。
ワクチンのせいで被害が出たという話もあるようです。

確かに、インフルエンザのワクチンのように、
性質から考えて効果が低そうなものもあると思います。

インフルエンザ・ウイルスには型が数多くあって、遺伝子の変異も入りやすい。

一方、インフルエンザのワクチンは全ての型に対応できるわけではない。
その年にどの型が流行るかによっても意味が違うし、
流行った型のワクチンを投与したからといって予防できるとも限らない。

そこで、「効果があるかも分からないのだから使いません」というのは
個人の見解として好きにすればいいところだといえます。

しかし、インフルエンザのワクチンの効果に疑問があることを引用して
「ワクチンは良くない」という主張の根拠に使うのは危険な気がします。

ワクチンで害があったというデータがあるのなら、
それはワクチンを反対する根拠になりますが、その話の流れに
インフルエンザ・ワクチンの効果を疑う内容を追加するのは無関係でしょう。

インフルエンザのワクチンに効果が薄いからといって
他のウイルスへのワクチンの効果がないわけではありません。

ポリオの生ワクチンが危険だというデータは
ポリオの生ワクチンへの反対には根拠になりますが、
全てのワクチンへ反対することとは無関係です。

違いが分かれば、全てを反対するだけでなく、
危険な部分を改善するように対処することだってできるわけです。

一部を取り上げて、全てに反対するスタンスは
問題解決法の1つではあると思いますが、
より望ましい解決策を見つけるうえでは邪魔になるときもあると思われます。

特にウイルスの感染症は、皆でワクチンを接種することで
一気にリスクを下げられるという特徴があります。

ウイルスは人間などの宿主がいなければ、自分だけでは増殖できません。
全ての人間がウイルスをやっつけられる状態になっていれば
ウイルスはその地域から減っていくわけです。

実際、そういう過程を経て、ほぼ撲滅に近い状態まで進んだウイルスもあります。

しかしウイルスがどこかに潜んでいる可能性はあります。
もし、大規模な人数でワクチンを使うのをやめたとしたら
その集団がキッカケでウイルスがまた増え始めないとも限りません。

ウイルスが街中に充満して、大量のウイルスを吸収しやすくなったら
昔にワクチンを打ったけれども免疫が弱っているような状態の人は
体内でウイルスの増殖を食い止められずに発症してしまう…
なんていう可能性さえ思いつけてしまいます、分かりませんが。

感染症を予防する観点からすれば、
ワクチンは全員で投与することにも意義があるんです。

しかし、です。

ワクチンの効果が薄い一部のケースの話と
ワクチンの危険性の話とだけを繋げたら、
「ワクチンはやめましょう」という大袈裟な結論も導けてしまいます。

違いを知って内容を吟味すれば、
「社会的にも、個人的にも本当に必要なワクチンを
 危険の少ない形で使うにはどうしたらいいか」
という話でも理解できるでしょう。

一方、危険性の話だけを元にして大袈裟な結論を信じたら
逆に危険な事態へと進んでしまう可能性もゼロではないと思います。


インターネットの普及で、誰でもがメッセージを発信できる時代です。

細かい違いを知って、賛成・反対の意見を戦わせる人たちもいますが、
そういう細かい話を知りたい人ばかりではありません。

細かい違いには目をつぶって、分かりやすい結論の部分だけを
伝聞で広げていくこともできる世の中のようです。

その結論だけが広まって、ある程度の規模の行動に繋がったとき
社会全体に影響が出るような危険もあるような気がしています。

「個人の責任の範囲」で終わらないリスクを生みかねないのも
誰でも気軽に情報発信ができるようになった現状の特徴ではないでしょうか。

2015年09月13日

DVD見ました

これは素晴らしい映画でした。

小児ガン患者の生活を描いた映画ですから
好みも分かれるのかもしれません。

ハッピーエンドの種類ではないものの、とても考えさせられます。



決して公平とはいえないこの世の中で
それぞれがどのようにして生きていくのか…。

綺麗ごとでは片づかない部分に踏み込んでいる気がします。

主人公の目を通した見解の1つは生々しくも納得感のあるものですが、
同時に、その1つを見せられることで自然と
「それでは自分はどう思えるだろうか?」
と、一人一人の考えを問いかけられているような感じにもなりました。

珍しく何度も見てみようと思えた映画です。


原作の小説もあるみたいです。
日本語訳のバージョンも。

普段、小説は読まないんですが、
この原作は英語で読んでみようかと思っています。



2015年09月10日

心理国家資格

なんでも心理系の国家資格「公認心理師」の法案が通ったそうです。

これまでは臨床心理士に権威がつけられているようでしたが
それでも民間資格に過ぎなかった。
だから国家資格を作りましょう、という話みたいです。

とはいえ、実際に求められる基準は臨床心理士と大きくは違わない印象も受けます。
むしろ受験の条件は現行の臨床心理士よりも少し甘くなっている気もしますし、
「医師から指示を受けるようになる」という点では制約が増えているようにも思えます。


現行の臨床心理士は、アメリカの Clinical Psychologist と比べると
待遇に大きな差があります。

収入面でも、労働条件でも、ゆるされている行為でも
アメリカの Clinical Psychologist よりも厳しいようです。

Clinical Psychologist は、州によっては薬も処方できます。
原則的には、精神科医が担当するようなケース(精神病理)を
心理学的にエビデンスのある方法でアプローチします。

日本でカウンセリングとしてイメージされがちな
人間関係の相談や日常的な心の苦しさについての悩み相談は
アメリカでは「カウンセリング心理学」の範囲に入ります。
臨床心理学ではありません。

Clinical Psychologist は「臨床心理学者」なんです。
だから精神科と担当するケースが重複します。

しかも「学者」です。
「士」ではありません。

日本の臨床心理士が修士課程の後に受験の基準を満たしたり、
おそらくいずれは公認心理師が学部卒業で受験基準に達したりするのと違って、
最低5年間の博士課程を修了しないと「Psychologist (心理学者)」と名乗れません。

心理臨床の研究をして、トレーニングの傍らでデータとをって、
論文を投稿して、博士論文の審査を受けて、それでようやくPsychologistです。

アメリカの博士課程は最低5年(延びることも多い)ですが、
日本の博士課程は3年です。
しかも3年で取らせられないと、教授の指導力の評判が落ちますから
日本の学術界は一般的に甘いんです。

日本で博士課程に進学する人数と比べても、アメリカは少ない。
当然、倍率も高くて、博士課程を修了するための勉強量も膨大だとか。
皆が5年間の全てを勉強にささげ、それでもドロップアウトする人が出てくる。

そしてClinical Psychology で博士号を取った後、数年間のインターンをして
ようやく州ごとの「Clinical Psychologist」の基準に達します。

メディカル・スクールに行って精神科医になるのと同じような大変さのようです。

医師に近い権限や待遇があっても当然かもしれません。
(とはいえ、僕が大学で教わっていた先生は Clinical Psychologist でしたが、
 学会に行くと精神科医からは低く見られるのが当然だと言っていました。)

日本の臨床心理士や、今後作られる公認心理師についても
アメリカの Clinical Psychologist とは別物のようです。

むしろカウンセリング心理学で修士を取得した人が州で認定される
「 Marriage-and-Family Therapist 」と比べたほうが近いような気もします。


何より、社会における心理職のニーズがアメリカのほうが高い。

有罪判決を受けた人が、刑務所に入る代わりに
カウンセリングやセラピーを受けるのを選べることが多いといいます。

ドラマでも見ますが、警察官が銃で人を打った場合には
セラピーを義務付けられていたり、
心理相談を受けることが特別なことではないのでしょう。

風邪をひいたら病院に行く、
揉めごとがあったら弁護士に相談する、
内面的な苦しさがあったらカウンセリングに行く。
…そういう風に、数ある専門家の1つとして
当たり前の選択肢に含まれているのかもしれません。

そもそも日本では、困ったときの相談窓口が一般的ではありません。
もしかしたら占い師やクラブのホステスが代わりを担っているのでしょうか。

逆に医者の信頼度は過剰に高い。
テレビに出てきて医者が何かをいえば、たちまち鵜呑みにされます。

西洋医学の医者が科学の視点を失っているのには驚きを隠せませんが、
一度「医者」という肩書を持ってしまえば
社会的に通用する度合いはとても高いように見受けられます。

この状況のままで、公認心理師という国家資格を作ったとして
いったいどういう効果が生まれるのでしょう?
何を期待しての国家資格化だったのでしょう?


民間に氾濫するカウンセラーやセラピストを取り締まって
全てを国家資格に一任するのは厳しい気がします。

医療行為と、そうでないものの基準と比べたら、
心理臨床行為とそうでないものの基準は曖昧です。

困ったときの相談に国家資格が必要となったら、
友達同士で愚痴を聞くこともできませんし、
上司が部下と面談をするのも、福祉相談員が利用者の話を聞くのも
占い師が悩みについて占うのも、全て禁止されてしまいます。

医者並みの立場を求めるのだとしたら、資格そのものの難しさも
医師国家試験ぐらいまで基準を上げるのは最低限必要なところでしょう。

問題は
 日本にその教育をできる人がいるのか?
というところかもしれませんが。

仮に医者並みの難しい資格になったとしても、
クライアントは精神科医や心療内科医との取り合いになりかねません。
そうなれば製薬会社の後ろ盾が期待できない心理系資格は不利です。

じゃあ、民間のカウンセラーへ相談に行く人たちを
国家資格保有者へ引っ張ってくるのか?

それには国家資格化よりもさらに大変な努力が必要でしょう。
どうやって世間一般の人を啓蒙するかという話になります。

現状、占い師やクラブのホステスに悩み相談をしている人たちを
カウンセリングやコーチングのクライアントに引っ張ってくるのだって大変です。

困ったときに目が向く先は、かなりの場合、本人の中で決まっています。
それがズレるのは、よほどのことがあったときです。

こうした呼び込みを「啓蒙活動」と捉えるのか「マーケティング」と捉えるのかは
スタンスの違いなのでしょうが、いずれにしても
人が集まりやすいのは呼び込みが上手いところになるようです。


公認心理師の国家資格化は、どうも
体のケアの分野と同じような状況で留まる気がしてなりません。

あん摩マッサージ指圧師や、はり師、きゅう師、柔道整復師、理学療法士など
体のケアに関する国家資格は様々です。

その一方で、世の中には色々な整体、マッサージの仕事があります。

いうまでもなく、効果は資格とはあまり関係がないものでしょう。
その人の腕によるところが非常に大きい。

腰が痛い、肩が痛いとなったとき、どこへ行くのかも人それぞれです。
医者に全幅の信頼を置く人は整形外科に行きます。

マーケティングやマスメディアの影響を受けやすい人もいます。
色々と受けてみて効果のあるところを選ぶ人もいれば、
家や職場の近くにあるところに通う人もいます。

民間のマッサージのビジネスを快く思わない国家資格保有者もいますし、
整形外科に行っても治らないという腕のいい民間資格者もいます。

臨床心理士の延長のような公認心理師という国家資格を作っても
そんな状況と似たことになるのではないか、と。

とくに公認心理師は今のところ「医師の指示」を必要とするようですから、
整形外科に所属する理学療法士のような立場が近そうです。

いったい何を狙っての国家資格化だったのだろうかと気になるばかりです。

2015年09月07日

目移りしても

自分から参加したいセミナーを探すのは、もうほとんどなくなってしまいましたが
ときどき宣伝や誰かのFacebook でセミナーが気になることがあります。

なんとなく気になって宣伝の中身を見て、セミナーの内容を眺めてみて
そしてやっぱり行かないことになる。

日程が合わないこともありますが、内容としても気持ちが動きません。
行っても満足しないで帰ってくることになりそうな予感がしてしまいます。

実際、そういう経験が多かったのが大きいのかもしれません。

同時に自分の頭の中で、内容を素直に受け取れない姿が浮かんでもきます。
もう積極的に何かを吸収しようという意欲が薄まっている印象も感じます。
吸収するスキマが小さくなっているイメージでしょうか。

喩えるなら、
 食べ放題にいって、だいぶお腹いっぱいになっているのに、
 まだ取っていない料理が何種類も並んでいて
 しかもまだ次々と新しい料理が運ばれてくるのを見ると、
 「もうちょっと食べたいなぁ」とお皿を持って料理を見に行く
ような感じです。

それほどお腹がすいているわけではないけれど、
やっぱり美味しそうに見えるし、食べてみたい気持ちがある。

それで実際に「どれにしようかなー」と見て回っていると
結局、それほど食べたいヤツがなくてテーブルに戻ってきてしまう。

でも料理が並んでいるのを見ると気になるし、
新しい料理が運ばれてきたら、一応チェックしてみたい気分になる。

近くまで行って眺めてみれば味の想像はついてしまうし、
もうチョット食べたい気持ちがいくらあっても
「この状態で食べるほどのものでもないか…」と手が伸びない。

腹八分目で食べるのをやめて、
「せっかく食べ放題なのになぁ」
などと少し寂しい。

そんな状態のようです。

とにかく一通りお皿に乗せて食べてみたり、
好きなものを何度もおかわりしたりしていた時期が
ただ懐かしくて、未練がましいだけなんだろうと思います。

本当はもうそれほど食べたくないのかもしれない。


一方、現実的に食事のことを考えても、もう僕は
山盛りのご飯をグビグビと飲み込むようには食べられません。
脂っこい焼き肉をモリモリ食べるもの厳しいです。

若い男性や中学生、高校生ぐらいが
一心不乱に食べている姿を見ると嬉しくなります。

自分はあんな風には食べられないけれど
「美味しそうで良かったね」と微笑ましく眺める感じ。

こちらには懐かしさはあっても、
「自分もあんな風に食べたいなぁ」と思うこともありません。

もう量を食べられないことが実感できているし、
モリモリ食べたい気分にもならなくなっているんでしょう。

だから、沢山食べる人を見ると微笑ましい気分になる、と。

セミナーの宣伝を見たときとは、チョット事情が違っているようです。

もう量を食べられないことを受け入れて
モリモリ食べなくても良くなってくるのと同じように、
セミナーについても諦めがついてくるのでしょうか。

予想がつきませんが、とりあえずは
そのときどきの”空腹感”に応じて何かをすることになるのだろうと思います。

2015年09月04日

動物の感情

動物にどれだけの感情があるのかを知る由はありませんが、
客観的に判断すれば、動物に人間と同じような感情を見ようとするのは
人間の側の都合だろうと考えられます。

例えば、コンピューターの画面上の点が動く場合でも
ランダムにスピードを変えながら色々と動き回る点を見ると
そこに何か意志のようなものを感じてしまうものです。

予測不能な変化は、擬人化したくなる。

「台風が進路を変えた」なんていう表現も、
まるで台風に意志があるかのようです。

実際は、全ての空気はつながっていますから
台風どころか高気圧や前線なんていう「もの」も存在しません。
ただ決まった範囲に名前をつけて区別しただけのものです。

にもかかわらず、区別できるようになったものは自分とは違う存在として捉え、
同時に自分がやっていることと同じようなことをしているはずだと見たくなる。

これは自分と区別される「他人」に対して、
 自分とは違う存在だから内側の様子は知ることができないけれども
 内側では自分が体験しているのと同じようなことが起きているだろう
と想定するのと共通した性質なんでしょう。

ロボットでも自然現象でも「心」を見ようとする人間が
比較的自分と似ている動物を見て
そこに心を感じたくなるのは無理のないことでしょう。


実際、ダーウィンはそれと同じことをやりました。

人間にも動物にも共通する基本感情というのがあると想定したわけです。

悲しみ、怒り、軽蔑、嫌悪、恐怖、驚き、幸福の7つは
世界中の文化に共通であって、霊長類でも観察できる、と。

しかしながら、こうした感情は
人間が社会生活をしている中で感じる体感覚に名前をつけたものです。

そして頻繁に体験されるものだからこそ、一般的な感情として扱われます。
怒りや悲しみなどは、人間が頻繁に体験するものでしょう。

怒りや悲しみに相当する呼び名が様々な文化に存在していて
しかも表情から判断させても共通した認識をする。
だからユニバーサルだというんです。

繰り返しますが、これらはあくまで社会生活の中で体験されるもので
大人が名前をつけた感情です。

生まれた直後から体験されている感情かどうかは分かりません。

ところが、赤ん坊でも猿でも
大人が怒りを感じたとき、悲しみを感じたときの表情と同じ表情を示します。

ここで「内側は分からないけれど、自分と同じだろう」と
想定したくなる性質が働きます。

「同じ表情を浮かべているのだから、自分が体験している感情と同じだろう」。
無自覚にそう想定して、赤ん坊にも猿にも怒りや悲しみがあると考えたのでしょう。


そうとは限りません。

本来、赤ん坊も猿も、その表情を別の状態で使っていたのかもしれません。
それが社会生活の中では、怒りや悲しみと呼ばれる状態と結びついた。
学習の結果として流用されるようになった状態であって、
怒りや悲しみという感情は、生物として元々持っているものではない可能性があります。

つまり、怒りや悲しみは社会生活をする人間の大人が
生育過程で身につけてきた反応パターンなのではないか、と。

そうであれば、他の動物や乳児は、
人間の大人が体験している怒りや悲しみを感じていないことになります。

そして、よく考えてみると、そちらのほうが筋が通っています。

怒りは悲しみは学習の産物だと考えられます。
決して本能的、動物的なものではない。

逆に、火事に巻き込まれている最中に感じる恐怖や、
急に大きな物音がしたときに感じる驚きは、動物にも共通するものでしょう。

でも、怒りや悲しみはもっと複雑です。
おそらく動物は感じていません。


たしかに表情だけなら、犬でも猿でも
人間が怒っているときのような様子にも
悲しんでいるときのような様子にもなります。

犬や猿のそうした表情は、きっと
もっと生物的に共通した感情反応だと思われます。

怒りではなく、それは敵意です。
悲しみではなく、それは心細さ(寂しさ)です。

敵意は身の危険(群れの危険)が迫っているときに
ストレス応答として『戦う』準備をしている状態だといえます。
敵を追い払って、元の安全な状態に戻ろうとするホメオスタシスです。

心細さ(寂しさ)は、群れとの繋がりを求める状態です。
繋がりの強いメンバーと離れたときに、元通り近くにいようとする動機づけ。
他のメンバーを呼ぶとか探すといった行動を引き起こします。
一緒にいる安全な状態に戻ろうとするホメオスタシスです。

人間の乳児も同じような反応を示します。

母親が離れれば、心細さ(寂しさ)の反応が起こって泣く。
動物が群れのメンバーを呼ぶようなものです。

敵意を表し始めるのは少し成長してからですが、例えば
オモチャを取られて癇癪を起こすのは動物に近い反応といえそうです。

むしろもっと早くからあるのは、
ストレス応答としての『戦う』状態を利用して
泣き叫ぶことで思い通りにしてもらおうとするケースです。

人間の赤ん坊は自分で身を守れる状態で生まれていません。
そもそも体を使いこなせない段階で生まれています。

ですから身を守る手段は、親や世話をしてくれる人に
自分の不都合を解消してもらうところにあります。

ですが、ちょっと泣いたぐらいでは
思い通りに不都合を解消してもらえないことがある。
まして泣いても来てくれない場合などは生存の危機です。

身の危険が迫っていますから、敵に襲われたのと同じような状況といえます。
当然、ストレス応答として、状況を打破するために『戦う』モードになります。

そして全身に力を入れ、目いっぱい泣きわめく。
2歳前後になると、泣いているかのように叫びながら
大人でいうところの怒りの状態で、親をコントロールする場合も見受けられます。


そうやって生存の危機を回避しようとして、心細さ(寂しさ)と
周りを思い通りにするためのエネルギー(敵意/ストレス応答)とを学習します。

やがて、思い通りにならないことがあったら『戦う』のストレス応答を使って
力いっぱいにメッセージを表現する反応の仕方を身につけます。
怒鳴ったり、叩いたり、癇癪を起したり…。

そののちに表現の部分で我慢することも学んだりしますが、
この時点でも充分に
 「思い通りにならなかったら、怒る」
という怒りの基本パターンが身についているといえます。

こうやって学習した怒りという反応パターンは、
動物の敵意とは質が異なっています。

動物は自分を脅かすものに対して敵意を表現しますが、
人間は、思い通りにならないときに怒りを感じるわけです。


また、乳児の心細さ(寂しさ)は助けを求めるメッセージとして学習されます。
どうすることもできないときに、とりあえず心細い状態になり、泣いて親を呼ぶ。

そうやっていくうちに、
 「どうすることもできないときに、心細くなる」
という悲しみの基本パターンが定着します。

もちろん、親が近くにいないことで、心細さ(寂しさ)が生まれる場合もあります。

しかし、大人が「悲しみ」と呼んでいる感情は、
純粋な心細さや寂しさからは、もう離れてしまっています。

自分ではどうすることもできない状態、挽回できないような状態になったとき
心の中には子供のころに学習された心細さ(寂しさ)が沸き上がります。

つまり「失われた」という認識に対して、心細さが沸くわけです。

だから失敗して悲しくなるとか、思い通りにいかなくて悲しくなるなど
本来の心細さとは違った対象に、心細さや寂しさと同じような反応が出るんです。

ここに動物が体験する心細さ(寂しさ)との違いがあるといえます。


子供の頃には「失う」体験はそれほど多くないものです。
アイスを落っことしたとか、オモチャが壊れたとかでしょう。

しかし経験を重ねるにつれて、愛着を感じる存在、繋がりの強い存在が増えます。
そしてその繋がりが失われることを経験します。

このときには「どうすることもできないときに、心細くなる」反応パターンに加えて、
「その相手と一緒にいたい」と、繋がりを取り戻そうとする心の動きが表れます。

この繋がりを取り戻そうとする反応は、動物の心細さ(寂しさ)と同じです。

乳児のときに体験していた心細さは動物と同じでしょう。
それが大きくなるにつれて、「どうすることもできないときに心細くなる」ようになる。
そうやって学習した「失うときに浮かんでくる心細さ」を悲しみと呼び始める。
ところがやがて、繋がりを失う経験をして、動物と同じような心細さも味わう。

最終的には、
失うときに感じる「どうしようもできないから心細い」という学習結果と、
「繋がりから離れてしまったから戻りたい」という動物的な心細さの反応の両方を
体験するようになっていくんです。

どちらも体の反応としては心細さですから区別が難しいのは仕方ありません。
しかし、反応を生み出す理由が違います。
感情の対象が違います。

失ったときの「どうしようもできないから心細い」という反応も悲しみと呼び、
純粋に「大切な繋がりに戻りたい」心細さが追加されたものも悲しみと呼ぶ。

元が別なんですから、対処の仕方も違います。

「大切な繋がりに戻りたい」のは、動物と同じで心細いんです。
ただ「一緒にいたい」という欲求に過ぎません。

動物は、どこに行ってしまったのか分からないけれど
一緒にいたい相手を求めて、心細さや寂しさを表現します。

それは「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみとは別物です。

そして人間もまた、一緒にいたい相手を求めて、心細さや寂しさを感じます。
これも「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみとは別物です。

ですから、大切な人を失ったときには、
 失ってしまって「どうしようもできないから心細い」という人間特有の悲しみと、
 「大切な相手と一緒にいたい」という心細さ(寂しさ)の両方が起きている
ということです。

同じ身体感覚ですが、何を対象にしている反応かが違うわけです。
大切な人を失って、
 「どうすることもできないのが悲しくて、また会いたいから寂しい」
という具合に、2つの感情を分けてもいいのかもしれません。


人間は自分が感じている「悲しみ」と「心細さ(寂しさ)」の区別も曖昧にして
多くのことを「悲しい」の一言で片づけてしまっています。

そのうえ、動物にまで自分と同じような悲しみがあると想定しがちです。

動物は寂しさを表現するようですが、悲しいわけではありません。
動物は敵意を表現しますが、怒っているわけではありません。

怒りも悲しみも学習の産物です。
人間特有だろうと考えられます。

ややこしい話ですが、丁寧に区別してこそ理解できる気持ちもあるような気がします。

2015年09月01日

元も子もない話

世の中には色々な教えがありますが、わりとよく聞くのは
 全ての人は皆それぞれ素晴らしい
といった趣旨のものです。

社会的に認められる能力や成果には違いがあるのは認めた上で
 人それぞれ違った素晴らしさがあって、それは比べられるものではない
と説明する感じでしょうか。

一人一人の個性には優劣がなく、
誰もが皆、唯一無二のかけがえのない存在だ、というわけです。

「ナンバーワンではなく、オンリーワン」なんていうのも同様のメッセージでしょう。

それで納得できて、気持ちが楽になれれば素晴らしいことだと思います。


しかし、そうした趣旨の言葉が暖かく響くのと同時に、
それだけで心底救われるということもまた少ないようです。

もしそのメッセージだけで誰もが心の底から納得できて
 「誰もが皆、違った素晴らしさを持っているんだ。
  あの人も素晴らしいし、私も素晴らしい。
  だから誰かを羨むことも、誰かを憎むことも、自分をさげすむこともない。」
と自然に思えるようになるとしたら、
世の中から悩みはなくなっているはずです。

でも実情は違います。

むしろ同じようなメッセージが形を変え、発言者を変えて何度も登場する。

そして、そうしたメッセージを聞くたびに
 「そうだよなぁ。なんて素晴らしい言葉だろう。その通りだ。感動する。」
などと感じる人がいるようです。

何度でも感動して納得できるということは、
まだ納得しきっていなかったということでもあります。

一時的に「その通りだ」と思える。
しかしすぐに、そう思えない状態に戻ってしまう。

あるいは、自分の心の中に、そのメッセージだけでは納得できない部分もある。

「そうだよなぁ」と思う一方で、
「でも…、そうはいってもやっぱり私なんて…」
といった気持ちが沸いてくることもあるのでしょう。

自分の心の中で、納得できる部分と、納得できない部分とが対立しているから
この種のメッセージを聞くことで、自分を言い聞かせたいのかもしれません。

「でも…、そうはいっても…」と否定したくなるほうの気持ちを抑え
「いや、やっぱり誰もが皆、素晴らしいんだ」と思えるように、
それによって「自分は大丈夫だ」と思えるように、
何度でも同じようなメッセージを繰り返す、ということです。

そのメッセージを聞いて感動している間は、
「でも…、そうはいっても…」という気持ちに流されることなく
「自分は大丈夫」という方向で気持ちをコントロールできるわけです。

もちろん、それで気持ちが楽になるのであれば結構なことですし、
そうやって自分の心を整えるのも1つの方法だといえます。


ただし、
 「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」
という発想には、
その言葉の使われ方として避けがたい特徴が含まれているんです。

それは「素晴らしい」というフレーズです。

「素晴らしい」というのは、日常的に使われることもある単語で
「良い」という意味合いをもっています。

ですから良し悪しの判断が使われやすいんです。
「〜なら良い」、「〜は良くない」といった判断基準が連想されやすい。

あらゆることを無条件に「素晴らしい」と実感できる人でない限り、
「〜なのは良い」という条件つきの評価をしてしまいがちです。

「ナンバーワンでなくオンリーワン」というのも
「他人と同じでは良くない」という前提を生みやすいでしょう。

「何か特別なことがなくても、全ての人はオンリーワンだ」と思おうとしても
他の人と違うことを見つける段階で引っかかってしまえば
「やっぱり自分なんて特別ではない、大したことはない」と感じてしまいかねません。

個性の違いを動物や植物に喩える場合もありますが、
例えば、鳥とイモムシを比べれば、鳥のほうをポジティブに捉える人が多く、
バラと雑草を比べれば、バラのほうをポジティブに捉える人が多いはずです。

「イモムシだって、やがてはチョウになれる」なんていう話でも
チョウは蛾やクモやアブラムシよりも望ましいものとしてイメージされていますし、
「雑草なんてない、それぞれに名前があるんだ」と言いながらも、
道端の草よりも花屋に並んだ花のほうがポジティブに感じられやすいでしょう。

それぐらい人は、知らず知らずのうちに、物事に価値の順序をつけているんです。

チョウになるかどうかではなく、イモムシそのものの魅力を素晴らしいと感じて
どんな虫でも甲乙つけがたくて悩んでしまうほどに
 「全ての虫は素晴らしい!」
と思える人は滅多にいません。

それだけ「素晴らしい」ということに、基準をつけて判断しているわけです。

「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」と思おうとしたら、自然と
「あの人は、こういうところが素晴らしい」という具合に
「素晴らしい」部分を基準に照らし合わせながら探してしまいやすいんです。

そういう癖が出てきてしまう。
これを避けるのが大変です。


言い換えるなら、「素晴らしい」ことには、「価値がある」前提が含まれます。

「別に、何かの能力に秀でいなくてもいい。
 何もできなくてもいいし、特別でなくてもいい。
 それでも、全ての人は生きているだけで価値があるんです。」
そんな言い方にしたとしても、結局は
 価値がある=良いこと
という前提が外れません。

そして「存在そのものに価値がある」と言われても、
実社会では、価値があることを証明するために努力をしている現実があります。

価値は常に他者からも、自分からも、客観的に評価されているんです。

そして、その価値の大小を評価されて、値段をつけられている。
自分の価値を他人と比べることが、常日頃からなされているのが現状です。

それだけ積み重ねられた「どれだけの価値があるか」を判断する経験があるのに、
「いや、生きているだけで価値があるんです」と言われるぐらいでは、
染みついてしまった考えはカンタンには変わりません。

「全ての人は皆それぞれ素晴らしい」という考え方に納得ができても、
長年かけて染みついてきた
 「素晴らしさの度合いに応じて価値の大きさを評価する」
という発想は打ち消しきれないわけです。


だったら、いっそのこと逆転の発想にしてしまってはどうでしょうか?

 「そもそも全ての物事に価値なんてない」
 「全ては無意味で、無駄なものだ」
 「人生に意味なんてないし、生きることに目的も価値も存在しない」
 「使命だの天命だのは単なるこじつけ」

最初っから、意味も価値もないものだと考えてみるんです。

自分の人生には意味なんてないし、価値もない。
他の人の人生にだって、意味も価値もない、と。

仕事で成功するとか、夢を実現するとか、幸せな生活をするとか、
人から尊敬されるとか、誰かから大切にしてもらうとか、社会に貢献するとか、
誰かの役に立って感謝されるとか、世の中を平和にするとか…。

そんなものはそもそも何の価値もない、無意味なことだとしてみる。

だから誰かが成功していようが、活躍していようが、お金持ちになっていようが、
頑張っていようが、イキイキと楽しそうにしていようが、
全部無駄なことをやっているんだと考えてみるんです。

当然、自分がどんな状況にあっても同じです。
それもまた意味も価値もないことだと考えます。

誰が偉いということなければ、誰がスゴイということもない。
誰が優れていて、誰が劣っているということもない。
そもそも全てに価値も意味もないんだから。

最初から無意味なことで優劣を競いあっているに過ぎないんだ、と。
バカバカしい話なんだ、と。

そう考えれば、誰かを羨ましく思う必要もありません。
自分を卑下する必要もありません。

誰もが皆、もともと価値なんてないんですから。

価値の大きさの違いさえ出ません。
そもそも価値なんてものが存在しないんですから。

そして、なんの意味もない不毛なことでジタバタしている人たちを
可愛らしいものだと思って眺めてみる。

「今年、サンタさんは僕が欲しかったオモチャをくれたよ」
「えー?僕のところには百科事典しかくれなかった。サンタさんは不公平だ」
「そんなことないよ、ちゃんとサンタさんに手紙を書けば欲しいものをくれるよ」
「そうなの?知らなかった。ズルイよー。」
なんて話をしている子供たちを
 「可愛いものだなぁ…」
と眺めるような感じです。

そんな風に、すべては無意味なものとして捉えようとするほうが
よっぽど悩み、苦しみ、不満がなくなるのではないでしょうか。


まぁ、そう思えれば…の話ですが。

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 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
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《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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