2015年10月

2015年10月31日

統計的エビデンスへの警鐘

先日インターネットのニュースで見て驚いたんですが、
Basic and Applied Social Psychology(BASP)という社会心理学の論文誌で
P値を使った統計的手法の使用を採用しない方針を決定したそうです。

P値とは数学で開発された統計の概念で、確率を表します。

心理学や社会学は統計を使って、データの信憑性を評価するわけですが、
そのときに良く使われるのがP値を使った『帰無仮説有意性検定』です。

ややこしいんですが、心理学の論文で頻繁に使われるのは
2つの条件を比較して、差があるかどうかという議論。

例えば、
毎日30分を6日間勉強するグループと
一日で3時間勉強するグループを比較して、
 平均点が毎日のグループで70点、一日で3時間のグループで65点
という結果が得られたとします。

70点と65点という数字だけを見れば差があるようにも見えますが、
たまたまそのときにこの結果が出ただけで、
もう一回調べたら成績が逆転する可能性だって否定できません。

つまり今回は毎日勉強のグループが調子が良くて
一夜漬けグループが調子悪かったのかもしれない。

あるいは毎日勉強のグループに一人だけ
ものすごく勉強の得意な人が混ざっていたので
結果的にそっちの平均点が上がったのかもしれない。

そういう偶然の要素が否定できないわけです。

物理や化学の実験は再現性が非常に高く、
条件も完全に同じにそろえられますが、
人を使った心理学や社会学の調査はデータにムラが出やすいんです。

だからこそデータを統計の手法によって検証して、
 2つのグループの差が『偶然ではない』
と示す必要があります。

このとき
「2つのグループの差が偶然だ」と仮定して(帰無仮説)、
それが偶然に起きる確率を計算します。

このときの確率がP値です。

論文などでは P=.012 などのように表記されます。
(確率が0.012 ですから1.2%ということ)

P=.012だったら、「差が偶然である確率が1.2%」という意味です。

なお論文ごとのローカルルールや、一般的な傾向によって
P値がいくつ以下だったら偶然ではないと判断するかが違いますが、
一般的にはP<.05 (5%以下)を基準にすることが多いようです。

で、「差が偶然である確率が5%以下だ」という計算結果が出ると
結論として
 「2つのグループの差が偶然であるとは言えない」
と表現していいことになるんです。

この状況を「有意差がある」と呼びます。

「違いがある」ではなくて
「違いがないとは言えない」と結論するのが特徴ですが、
まぁ、その辺は科学の流儀であって
利用する側はP値を計算して「有意差」かどうかを調べたいだけです。


いわゆる『エビデンス』というのは、
 統計的に有意差があった
という意味です。

例えば、うつ病の薬だったとしたら
プラセボを与えるグループと、薬を与えるグループとで
一定期間後の症状のレベルを測定します。
(うつレベルを評価する基準があって、数値として結果が表される)

分かりやすくするために(実際とは違う表記ですが)、仮に
投薬前はどちらも「うつレベルが平均で5点」だったのが
プラセボ群では服薬期間の後に「平均で4点」
投薬群では「平均で3点」になったとします。

この1点の差が偶然かどうかを調べて、
 確率的に偶然であるとは言えない
という結論になれば
 「この薬の効果にはエビデンスがある」
と評価されるんです。

もちろん新薬が開発されれば、古いのとの差を調べて
「以前の薬よりも効果がある」というエビデンスが取られます。

認知行動療法にエビデンスがあるというのも
 同じように効果を症状レベルの『改善』度合いで測定して、
 コントロール群(=何もしないとき、例えば「ただ話を聞く」とか)よりも
 大きな効果があることを統計的に示した
という話です。


まず注意しないといけないのは効果の尺度です。

改善度合いを数値化して評価していますから
統計的にいえるのは「効果の量に差がある」という話に留まります。

症状が改善するというエビデンスは、言葉として解釈すれば
「効果がある」という意味になりますが、
このやり方では「治った」というレベルになるかどうかの話は議論できないんです。

「飲むと症状が軽くなる」というエビデンスのある薬を飲んだからといって
「飲み続けていれば治る」かどうかは分かりません。

仮に症状レベル5の人が1年飲み続けたときにレベル1以下になる確率を調べれば
有意差あるかどうかという話ではなく、数値そのものを見て
「何%の人は治る可能性がある」といった『考察』ができます。

「差があるかどうか」という評価しかできない帰無仮説有意性検定は
「どれぐらい」の話ができないという弱点を持っているわけです。


さらに「差があるかどうか」の評価ですから、ものすごく小さな差でも
 確率的に有意な差である
という結論が出る可能性はあります。

実際、囲碁は先手が有利だというのが統計的に調べられています。
単純に勝率からですが、膨大な量の対局結果を調べると
勝率で先手が勝つ確率がほんのチョット高いんです(厳密な五分五分じゃない)。

だからチョットだけハンデをつけましょうというのがルールに採用されている。

もちろん必要なハンデの量は「どれぐらいの差か?」の話ですから
統計からは判断ができません。

「これぐらいのハンデでやってみましょう」とやってみて
その後の対局結果を集計して、五分五分かどうかを調べる。
まだ先手が有利という有意差が出ればハンデが足りないし、
後手が有利という有意差が出ればハンデが多すぎたことになる。
そういう微調整をするしかないんです。

何よりも統計的有意差というのは、集計するデータの母数が多ければ
ほんのチョットの違いでも「違いがある」と結論されます。

先手勝率50.1%が「先手のほうが有利」として結論されることもありえる、と。

今の世の中でエビデンスと呼ばれているのは
この「ほんのチョットでも差があれば効果がある」という視点に基づいています。

あえて解熱剤で説明してみますが、膨大なデータを取って
「飲んだら平均0.1℃熱が下がりました。結果は有意な差だといえます。」
だとしたら、その解熱剤は効果にエビデンスがあることになるんです。

もちろん開発を重ねる人たちは
 前の薬や手法と比べて効果が上がっているか
を繰り返し調べて
よりよいものを目指していくわけですが、
それでも「どれぐらい」という程度の評価ができないのは
P値を使った帰無仮説有意性検定の性質なんです。


Basic and Applied Social Psychology(BASP)という雑誌が
論文投稿者に対して決定した内容にも
「推測統計学的手法は求めないが、効果量等を含む有力な記述的統計を求める」
というコメントが含まれているそうです。

違いがあるかどうかを確率で議論するのは止めましょう、という話。
ではなくて、効果の量の違いをそのまま評価する方向にしたい、と。

その量の違いが偶然ではなさそうかどうかを見るには
とにかくデータの数を増やして偶然の影響を減らしてください…
といったアナウンスだそうです。

数学的な手法を使って客観的に「差がある」と結論はできなくなりますが
少なくとも今までの流儀の問題点は嫌だということなんでしょう。

よりよい方法を提案できてはいないけれど、
今までのやり方はダメだという姿勢を強く見せたかったと想像できます。

この論文誌は社会心理学ですから
その大部分に帰無仮説有意性検定が使われていたはずです。
それが心理学の実験のスタンダードですから。

そこを否定してまで問題提起をしたかったんだと思います。

科学的な客観性が失われるのを分かった上で
実社会へ応用される段階の効果を優先したのかもしれません。


個人的には、
予備実験として少ないデータ数でアタリをつけるときにはP値で検定をして、
効果がありそうだという話になってからデータ数を増やして
違いの大きさそのものを評価するような流れが無難な気がします。

しかし「エビデンス」という単語の実態が曖昧なまま
「エビデンスがあるから良い」という印象が独り歩きする現状には
この論文誌の方針が一石を投じたといえそうです。

2015年10月28日

来年1月の作品に含まれる予定の「煙」はこんな感じ。

ちょっとモクモクさせてみました。

とはいえ全体のバランスもあるので仕上がりはまだ未定。

先生と相談しながら方向性を決めていこうという最中です。
おととしぐらいまでは、なんとなく先生のを真似するぐらいしかできませんでしたが
去年あたりから少しずつ指示に対応できるようになってきた気がします。

「もっとここをこういう感じ」という言葉での教えを参考にしたり
自分でパターンを考えて意見をもらったりと
工夫を話しあえるようになってくると、いかにも「作品制作」といった雰囲気で
普段の練習にはない面白さがあります。

残念なのはチョット忙しくて充分な時間が取れないこと。
工夫をしながらやってみるのが精一杯のようです。

煙

cozyharada at 23:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

2015年10月25日

川の流れと水の循環

空気中の水分が集まって雲になる。

雲の水分が多くなると雨になる。

高いところに降った雨は川になる。

川は流れて海に辿り着く。

海の水は蒸発して、再び空気中の水分になる。


そうやって水分は循環するわけですが、
人間は川に名前をつけて区別します。

人生なんて名前をつけて区別された川のようなものかもしれない。
ふと、そんなことを思いました。

人生が川の流れに喩えられることもありますが、
実際は水の循環のほんの一部、
ある場所を流れているときだけを切り取って、
そこを人と呼んでいるだけなのかなぁ、と。

全ての水はただ循環しているだけなのに、川に名前をつけるのと同様、
人間は切り離された個体を見ようとする傾向があるのかもしれません。


竹やぶの竹は地下で繋がっていますが
地上の竹の部分を見て、竹が何本あるかを数える。

マツタケは地下に広がった菌糸が地上で集まってキノコの形になりますが
地上に表れたものだけを数えて「マツタケが何本取れた」と言います。

目に見えて区別できるところだけで、別の個体を意識するわけです。


渡り鳥は、どの個体がリーダーというわけでもなく
集団として自然に同じ方向へ進んでいきます。
イワシもボール状になって集団で泳ぎます。

それでも人間の目には、一匹ずつが個体として見えるようです。


その一方で、テレビの画面上でゲームのキャラクターが動いていたら
そのキャラクターを1つの個体として認識します。

本当は沢山の点が色を変えているだけなのに。


ただ沢山の水分子が集まって動いているだけなのに川の流れとして認識して、
同じ水が循環しているだけなのに川に名前をつけて区別をする。

そのほうが都合が良いことが多いのでしょう。

マツタケは菌糸の単位で見るよりも、
キノコという単位で見たほうが日常生活には便利です。

ですが、都合の良さが全てではありません。

人間の捉え方も、もう少し広げた視点から考えてもいいような気がします。

川だけを見るのではなく、水の循環を見るように、です。

cozyharada at 23:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2015年10月23日

また因果と相関が区別されない

先日、ニュースで
「受動喫煙によって子供が虫歯になる確率が2倍以上になる」
という研究結果が紹介されていました。

この「受動喫煙で2倍になる」という部分は
ニュースのタイトルになっていただけで
論文のタイトルは少し違います。

論文は
 Secondhand smoke and incidence of dental caries in deciduous teeth
 among children in Japan: population based retrospective cohort study
ですから、
 日本における受動喫煙と子供の乳歯の虫歯発生
が主題です。

論文のタイトルでは因果関係を示していません。
こういう表記のときは相関を見ているものです。

実際、論文のデータは子供の虫歯の数や程度を調べ、
その親がタバコを吸うかどうかという条件で分類したもの。

結果は…
 家族に喫煙者がいる子供は全体の55.3%で、その子供が虫歯を持っている割合は
 家族に喫煙者がいない子供と比べて1.46倍。
 特に目の前で吸われる環境にあった子では2.14倍多かった
ということだそうです。

ニュースなどでは「虫歯になるリスクが」とか
「虫歯になる可能性が」などと書かれていますが、紛らわしい表現です。

論文で調べたのは
タバコを吸う家庭にいる子供の虫歯の程度と
タバコを吸わない家庭にいる虫歯の程度を数えた
という話ですから、
「受動喫煙をすることが、虫歯のリスクを高める原因になる」
といった因果関係は示せません。

あくまで関係(=相関)があるだけ。

ニュースで紹介された「2倍になる」という単語は
因果を想像させるため、論文の表記では使えないはずです。



この因果と相関の違いについては科学的にはとても重要ですが
一般的にはあまり気にされないのかもしれません。

僕はここがどうしても気になるので
「またか」という印象を感じてしまいます。


虫歯でいえば、歯の磨き方の影響が大きいと思われます。

もしかしたら、タバコを吸う人と吸わない人では
歯の磨き方に違いがあるかもしれません。

論文を読んだわけではないですから
どういう層からデータを取ったのか知りませんが、ランダムだとすると
喫煙者と非喫煙者の生活スタイルの違いみたいなものは
傾向として出てくるのではないかと想像できます。

どうやって歯を磨くかは生活習慣の問題。
家族ではシェアされやすいでしょう。

歯の磨き方の良し悪しを数値化して評価すれば、
タバコを吸う家族と、吸わない家族での歯磨きスコアも比較できると思います。

もしこれで
 タバコを吸う家族と吸わない家族で歯磨きの程度には差がない
と結論できれば、
 親がタバコを吸う子供が虫歯を持っている割合が高いのは
 歯磨きの仕方のせいではない
と主張できるようになって、
 歯磨きではなくて受動喫煙の影響ではないか
と考察しやすくなります。


「生活習慣や歯の磨き方の違いがあるかもしれない」という話は一例ですが、
相関のデータからは
 受動喫煙すると虫歯になりやすくなる
という結論は出せないんです。

何か他の要因が関係して、虫歯の子供を増やしているかもしれない。

とはいえ、
 双子に同じ生活をさせて、
 片方にはタバコの煙を吸わせ、もう一方には吸わせない
などの実験は倫理的にできません。

となると、分子生物学的に
受動喫煙によって虫歯になりやすくなるメカニズムを説明する
というのが妥当な方向性ということになるでしょう。

もちろん、そうした研究も進んでいるとは想像しますが、
それを待たずして「受動喫煙で虫歯になりやすくなる」と因果関係を示しながら
ニュースで紹介してしまうのは誤解を招きかねないと思うんです。

取材の段階で情報に不正確さが含まれるのは仕方ないかもしれませんが、
入手した情報を表現するときに正確性を心がけるのは
ニュースを発信する側として意味のあることのような気がします。

あくまで相関として紹介したニュースを
視聴者が因果と勘違いするのは個人の責任の範疇だとしても、
伝える側が誤解を減らす努力をするのも
コミュニケーションとして重要なのだろうと感じます。

自分でも気をつけなければならないと思わされました。

2015年10月19日

コミュニケーションが顔に出る

近所で中国人と思われる3人家族を見かけました。
息子は小学校高学年から中学生ぐらいの感じ。

中国語で会話をしていました。

ですが店員に話しかけるのは息子の役目。
その少年の日本語は自然で、ネイティブの雰囲気でした。
一人でいたら日本人だと思われたことでしょう。

言葉だけでなく、声のトーンや姿勢、動作のスピードやジェスチャーも
いたって自然な日本人の雰囲気で、おそらく
中国語と日本語のネイティブ・バイリンガルだとうかがえます。

一方、両親は中国語しか話していませんでしたし
動作のスピードやジェスチャー、表情のパターンなども
中国人観光客によく見受けられるものでした。

両親と子供のコミュニケーションスタイルの違い、
そして子供だけが日本語をネイティブとして話す様子などから、
3人は中国からの観光客などではなく、両親が中国から日本に移住して
子供は日本で育ったのではないかと想像しました。

同時に、その少年が二人の子供だろうということも確かそうでした。

顔も似ているし、お箸の持ち方や食べるときの口の動かし方、
歩き方などの形がソックリだったんです。


興味深かったのは、少年の話し方。

中国語で両親と話すときと、店員に日本語で話すときとでは、
非言語メッセージが大きく変わります。

声のトーンは言語ごとに特徴がありますから
ネイティブ・バイリンガルであれば違うのも当然でしょう。

中国語のイントネーションや音の強さと関係があるのか
ジェスチャーのスピードも中国語を話すときのほうが速い。
キビキビした感じになります。

そのキビキビ感と連動するように背筋の伸び方も変わります。

もしかすると中国語の発話のほうが喉の筋肉を強く使うのかもしれません。
特に首の置き方が違うんです。

中国語のときは少し首を前に上げるように出した感じで、
頭と首が固定されたような雰囲気。
肩から顔を遠ざけたような位置になります。

日本語のときは頭の位置が下がって、首の力が抜けます。
頭が重さで下がろうとするのを首の後ろ側の筋力で支えるような位置関係。
頭が下がる分だけ、顔が肩に近づきます。

それぞれ中国人、日本人によく見られる姿勢。

試しに両肩を横に向けたまま、なで肩になるように押し下げて、さらに
少しだけアゴをあげながら頭を前方上側に突き出すようにすると、
首が固定される感じが体験できるかと思います。

日本人に多い「巻き肩・ねこ背」の姿勢と比べると、
首が動かしにくくて、うなずきをしずらいような感じもしてきます。

逆に言えば、日本人らしい姿勢は喉のあたりの力が抜けて抑え込まれているため、
口先だけでの発声は問題はなくても、
中国語のように抑揚が強くてハリのある発音はしにくそうだともいえます。

その少年は、中国語を話すときと日本語を話すときで、自然と首の位置を変えて
言語だけでなく、ジェスチャーや動作まで文化に合ったものに変えているようです。

両親と中国語で話すときには首をあまり動かさず
うなずきもしないで言葉だけを飛びかわすように会話するのに、
店員と日本語で話すときは頻繁にうなずき、声もソフトなトーンになって
遠慮がちに腰の低そうな対応をしていました。

どうやら中国のコミュニケーションスタイルは、
姿勢(とくに首の位置)と大きく関わっているようです。

その少年が両親と話すときと日本人店員と話すときとでは
言葉が変わるだけでなく、まるで文化背景ごと一気に変わるような印象がありました。

大袈裟にいえば、中国人と日本人を行ったり来たりする感じです。


僕がこういう雰囲気の変化を示す人を見たことがあるのは
英会話スクールで何度か話した日本人(日系人?)講師だけです。

その人は両親が日本人で、名前も顔も日本人そのもの。
ただし生まれ育ちがアメリカだったので英語がネイティブ。

両親とは家で日本語だけで生活をして、
学校に行くと英語だけで生活をする。
そんな使い分けがあったそうです。

そのため英語を話している限り、非言語メッセージもテンションもアメリカ人そのもの。
よくいるアジア系のアメリカ人にしか見えません。

ですが日本語を話し始めるとネイティブの日本語ですし
顔も日本人ですから、周りから見ると日本人になってしまいます。

ちょうどその中国人(国籍は分かりませんが)の少年も同じ感じなんでしょう。
両親とは中国語だけで会話をして、学校は日本の環境という。


とはいえ正直なところ、僕は最初、少し混乱したんです。

その少年は日本人に見えたからです。
中国語の想像しなかった。

ところが両サイドにいる両親を見ると、これはパッと見で中国人に見える。

その中で食事をする姿は確かに中国文化のスタイルだし
「じゃあ、この少年も中国人だろう」と思っていたら
少年がネイティブの日本語で店員に話しかけたわけです。

「あれ、意外と日本人家族なのか?」と疑問に思いました。
それもつかの間、3人はすぐに中国語で話し始めたので、
「やっぱり中国人か。少年だけ日本育ちなんだろう。」
という結論に落ち着いたんです。

なぜ少年が日本人にしか見えなかったかといえば、
それは表情筋の発達のしかたです。

顔のつくりはアジア人ですから似たようなものです。
僕の着眼点はむしろ、どういう表情筋の発達をしているか。
目の動かし方や、瞼の開け方にも特徴があります。

平たく言うと、発している雰囲気が日本人っぽかったということです。

この影響は日常的に接する人たちから受けたものでしょう。

学校で長い時間を一緒に過ごす日本人の友達と日本語で会話をするうちに、
自然と日本文化として共有されている表情の示し方、感情表現の仕方を身につけ
結果として日本人らしい表情が定着していったと思われます。

実際、僕が会ったアメリカ育ちの日本人英会話教師も
どんなに自然な日本語で日本人らしいコミュニケーションをしていても
表情筋の中にどこか日本育ちでない様子が見えていました。

このあたりは、どの文化圏で過ごす時間が長いかが重要なんでしょう。

長い間その文化のコミュニケーションスタイルを経験するほど、
自然とそのスタイルに合った表情筋が発達していく。

姿勢や声のトーン、ジェスチャーや動作のスピードなどは
その場で変えられる筋肉の使い方の話です。

しかし繰り返し使って鍛えられた筋肉は見た目に影響します。
より多く使った筋肉の特徴が顔に残る。

単純に量の問題なんだろうと考えられます。

僕からすると「○○人」という分類は、国籍や顔かたちではなく、
 どの文化圏で育った表情筋の発達をしているか
を意味しているようです。


言語を変えるときに瞬間的に切り替わる部分と、
筋肉として残って変わらない部分と、両方がある。

学校という環境の影響力がいかに大きいかを痛感しました。

2015年10月16日

認知の”フィルター”?

NLPは開発当初から”追加”される形で進歩してきました。

辻褄が合わないという理由で古くからあるモノが取り除かれたり
アレンジされたりすることは滅多になかったようです。

あるとすれば、
「こっちの手法があれば、こっちは使わなくてもいいだろう」
ということでコースのカリキュラムから抜かれるぐらい。

たとえばTOTEモデルという1970年ごろに最先端だった理論は
今もなおNLPの中に残っていますが、
人の振る舞いの大部分は、このモデルに従わないというのが
認知科学や脳科学の知見のようです。

(TOTEモデルは、現状と目標値との差をチェックして修正を繰り返し
 目標の基準に達したら作業をやめるというもの。
 人の行動の多くは、すでに学習されたものを使うだけなので
 予測した通りに動かすだけで、作業中の修正は非常に難しい。
 慣れない作業を意識的に練習するときぐらいがTOTEモデルに当てはまる。)

とはいえ開発当初から、それなりの全体像を示さなくては説得力がないですから
詳しく分かっていない部分は、既存の心理学やセラピーの説明、あるいは
当時最先端だった理論などを取り入れた形跡が見受けられます。


実際、サブモダリティという概念が提唱されるのはNLPができた少し後で、
サブモダリティの研究はスティーブ・アンドレアスによって大きく進みます。

NLPの基本的な説明は、
 人は五感を通して体験して、
 頭の中に作られる内的表象は五感の情報から成っている
というもので、
その土台となるのが
 内的表象を構成する要素としてのサブモダリティと
 サブモダリティの分類としての表象システム(=五感)
だといえます。

内的表象という考え方は初期からあったようですが、
それが具体的にどのように作られているかが丁寧に検証されるのには
スティーブ・アンドレアスの努力を待たないといけないようです。

彼は、人が頭の中で体験しているパターンを
映像や音声、体感覚を含むイメージとして調べ、
プログラムというものの実態に迫ろうとしたように見受けられます。

僕がスティーブの影響を受けたかというと分かりませんが、
もともと化学をやっていた僕にとっては、
体験内容を五感の要素(サブモダリティ)の組み合わせで説明するのは
元素の組み合わせで化学反応を説明する感じに近かったので
自然と詳しく調べたくなったように思います。

そして人の体験内容をイメージとして調べるほど
脳科学の知見と一致することも見えてきました。

人の認知は基本的に、パターン認識に基づいています。
そしてパターンを捉えるには、典型的な特徴を兼ね備えておく必要があります。

詳細過ぎてはパターンに当てはまらなくなるため、あえて情報を省略して
本質的な情報だけを備えた典型的なイメージに抽象化する。
(認知心理学でいうプロトタイプに近い)

この典型的なイメージに当てはまるかどうかで
パターン認識をするわけです。
(この典型的イメージはNLP用語で登場する「フレーム」と一致します)

この作業で、体験したものを分類して意味づけします。

目や耳から入ってくる情報をすべて調べていたら時間がかかりますから
ほとんどの場合、典型的なイメージ(フレーム)に当てはまったものは
「知っているもの」として過去の情報を頼りに内的表象を作ります。

ですから、実際にインプットした情報のうち
内的表象に使われる部分は随分と少ないんです。

ここでまず情報量が減りますから、
いわばフィルターにかけられたような状態になります。


さらに、典型的なイメージは重要度が高いものほど強調されて
自然とその部分に注意が集まるように歪められています。

感情が大きく動くキッカケとなった物事や
感情の動きが小さくても繰り返し体験する物事は、
他のものよりも強く記憶に残りますから、
体験記憶が抽象化されて作られる典型的なイメージの中でも
他より際立ったモノとして反映されていきます。

重要なものほど大きくイメージされているとか、
映像がハッキリしているとか、ピントが合っているとか
光が当たっているとか、他よりも浮き出ているとか…。

白黒の写真の中に、一部だけカラーの部分があったり、
ぼやけたテレビ画面の中で、一部だけピントが合っていたりしたら、
その部分にパッと注意が集まると思います。

それと同じようなことが、頭の中のイメージでも起きているんです。

このように重要なものを強調して歪んだイメージを作ることで
大事なことには意識が向きやすいという性質が生まれます。

僕は犬が好きですから、犬はパッと目に入りますし
遠くにいてもすぐに気がつきます。
ですが僕の経験上は重要度が低かったバイクなどは
目に入っているかもしれませんが気づいていないことも多いでしょう。

ここでもやはり、重要度の高いものだけに注目して
それ以外のインプットされた情報は意識に上げない状態になります。


つまり、
 典型的イメージ(フレーム)に当てはまるものは記憶の情報を利用して
 新しい情報としてインプットする必要性を下げる…
ことと、
 重要度の高い物事には典型的イメージ(フレーム)に歪みを加えることで
 他のものよりも注目しやすくして、
 重要度の低いものは意識に上げないようにする…
ことの両方で、
体験内容にフィルターをかけている、ということです。

NLPの初期の頃から、
人間の認知では大幅な情報の省略があることは知られていました。
そのためNLPが人間の体験を説明するときに使うモデルでも
「フィルター」という単語が使われることがあります。

ただし、概念として「フィルター」を取り入れたのが先ですから
 フィルターが内的表象として、どのような仕組みになっているのか
については放置されていたように見受けられます。

その一方で、「フィルター」という概念だけは先行して使われて、
既存の心理学、セラピー、自己啓発系の情報と組み合わせて
 「フィルターには色々な種類がある」
という形で説明されるようになったのでしょう。

今でも多くのNLP関係の書籍では、「フィルター」に当たるものとして
価値観、ビリーフ、メタプログラムなどが挙げられますが、
これもそれぞれの内的表象をサブモダリティのレベルで調べた分類ではなく、
概念として「フィルター」ということにしたのが実態だと考えられます。

内的表象として仕組みを理解しようとすると
”フィルター”とは呼びにくい部分が沢山あるように感じます。


だからといって、これらの説明の仕方を修正する必要があるかというと
僕にはそこまでの思いはありません。

細かく人の仕組みをプログラムとして理解しようとするなら、
心理学やセラピー分野から引っ張ってきた概念は一度横に置いて
その実態としての内的表象を調べたほうが効果的でしょう。
より人の心を的確に捉えられると思います。

しかしサブモダリティの組み合わせを調べて
人の内的表象をイメージとして理解する作業は
決して楽なものではありません。

便宜的に「フィルターとして、こういうのがあります」として
それぞれの着眼点だけ押さえているだけでも、
日常のコミュニケーションには大いに役立つことでしょう。

役立てるだけなら、丁寧に厳密な理解を心がける必要さえないわけです。
そちらのほうが多くの人に広めやすいし、使い勝手も良い。

「厳密にはチョット誤魔化しているんだけど、
 まあ、そういうことでもいいでしょう」
といったことは世の中に多いものです。

NLPも同様です。

ただ僕は個人的に、心を理解したい思いが強かったので
専門家としての理解をやめなかったんだと感じます。

ですから違和感を覚えることは色々ありますけど、
「フィルター」は比喩だと捉えておくことにしています。

cozyharada at 23:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2015年10月13日

繰り返される1日

NHKのEテレ(元・教育テレビ)で、不定期に
「哲子の部屋」という番組が放送されているようです。

先日、見る機会があって、ある回で紹介されていた映画と
そこに表れる人間の特徴がなんとも興味深かったんです。

で、僕も映画のDVDを見てみました。

「恋はデジャ・ブ」という1993年のコメディ映画で、
主人公はなぜかGroundhog Day というアメリカの伝統行事が行われる
2月2日だけを何度も繰り返すという設定です。

何をしても目が覚めると2月2日の6時ちょうど。

どんな悪事を働いても、ビルから飛び降りても、
必ず2月2日の6時に目が覚めて、同じ展開で出来事が進んでいきます。

ただ主人公だけが記憶をリセットされないので
全て何が起こるかは知っているし、知識だけがどんどん増えていく。

おそらく何年分もの時間、同じ日を繰り返して
その経験を通じて変化していく主人公の様子が見どころなのかもしれません。

素直に楽しめる映画だと思います。


NHKの「哲子の部屋」では哲学的な視点から
 人間はほとんど考えずに行動している
ということを、この映画の1シーンを引き合いに説明していました。

何が起きるかを知っているはずでも、主人公は同じ失敗を繰り返します。

1日という膨大な経験の全てを記憶しているのは大変なので
同じ日が繰り返されても見落としてしまって覚えられないことが
沢山あるんだということを、ここから見て取ることができます。

そして行動はパターン化されたものを自動的に使うだけで
気をつけて変えようとしない限りは、何度同じ場面を繰り返しても
同じように自動化された行動が出てしまう
…というのも指摘されていました。

ただしその一方で、自分の行動を変え始めた主人公は
自分の振る舞いをコントロールすることにも上手くなっていきます。

自動的なままだと同じパターンを繰り返すけれど
変えようと頑張りはじめると変わりやすくなってくる。
このあたりも人間の性質をうまく描いている印象を受けました。


ただ、それ以上に僕が気になったのは
主人公以外の人たちです。

主人公の目からすれば、人ですが、同時に出来事でもあります。
ただの出来事なので同じように毎日繰り返される。

2月2日朝の時点の記憶で1日を過ごして
また同じ日の朝に戻ったら同じように1日を繰り返します。

ある意味では2月2日を繰り返しているのは主人公だけではないんです。

厳密に繰り返しているのは、むしろ主人公以外の人たちでしょう。

主人公だけが2月2日が繰り返されているのを知っていて
主人公の記憶だけが更新されていくため、
朝起きた時点で、別の2月2日になってしまっているともいえそうです。

これでもし、主人公の記憶もリセットされて
本当に全てが同じ2月2日を繰り返しているとしたら
誰一人として繰り返されていることは気づきません。

画面の外で見ている我々だけが、ビデオを再生するように
同じことが起きているのを知っている状態になると思われます。

極論をすれば…、
 僕の今日の体験は、記憶が連続していて、昨日までの記憶が残っていて
 今日が今までのどの人も違う1日として起きているからこそ
 新しい1日として意識されているだけかもしれない
という風にも考えられてしまいます。

記憶がリセットされて、もう一度同じ日を体験し始めたとしたら
当然、その日の記憶の始まりは、前日までの記憶になります。

そこまでの記憶を頼りに、昨日とは違う1日の始まりを感じるでしょう。

そして1日分の記憶を蓄積して眠りにつく。
ところが朝起きると、その日1日分の記憶がリセットされて
また同じ出来事の1日が始まる。

これから起きることの記憶がないから
昨日までとは違う1日を体験しているように感じるけれども、
客観的には同じ日を繰り返しているだけかもしれない。

ちょうど映画の中の主人公以外の人たちのように。

つまり、僕が今日だと思っている1日は
もしかすると一回っきりではなく、何度も起きているのかもしれない
ということです。

ただ記憶がリセットされて目覚めるため
同じ日が起きていることにさえ気づかない。

「そんなことはない、昨日は○○をしていた」という記憶は
今朝に至るまでの経験の記憶です。

その時点に記憶が戻っているとしたら
きっと何の違和感もなく「今日」の印象を再体験できることでしょう。

本当に同じ日が繰り返されていたら
誰も気づくことができないのではないでしょうか?

時間を戻すことができないというのは、実のところ
記憶を戻すことができないだけのことで、
もしかすると時間は戻ることができるのかもしれません。

ただし、記憶ごと時間を戻ってしまうため
戻ったことに気づかないだけで、その日を新しい「今日」として再体験する。

時間が戻ったことにすら気づかないままで。

時間なんて記憶の連続性の中にしか存在しないような気がしてしまいます。

なんだか色々と考えさせられる映画でした。

cozyharada at 23:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2015年10月10日

罪の意識と向き合う

「〜なんてことをしてはいけない」という発想や
「人として〜していなければいけない」という発想があると、
その基準を満たせていない時に罪悪感が生まれます。

そこに「正しさ」の基準があって、
「正しくなければいけない」という考えも前提にあるといえます。

例えば、
「一生懸命に頑張らないといけない」とか
「人生では我慢しなければいけないことがある」とか
「好きなことばかりやっていてはいけない」とか…、
そういった考えがある場合には
気軽に楽しく好き勝手に生活するようなスタイルは抵抗があるようです。

その一方で、好きなことばかりをして楽しそうにしている人もいますから
そういう人を見れば羨ましくもなるし、
自分に対して不満やもどかしさを感じることもあるかもしれません。

そして、好き勝手に楽しく生きるスタイルの人は
その素晴らしさを強調して、同じように楽しく生きるための教えを広めます。

「我慢なんてしなくていい。
 好きなことをすればいい。
 そのほうが幸せになれる。」
といった内容が多いでしょうか。

日々の生活の中で不満を抱えながらも頑張って、
人に迷惑をかけないように責任感を働かせていれば、
そんな風にノビノビとした幸せは魅力的に思えると想像できます。

しかも「正しくなくていい」という教えも含まれますから、
「正しくいなければならない」と暗黙に考えていた人には
許してもらえたような安心感もあるのでしょう。

教えの内容に魅力を感じつつ、
今まで無理して頑張っていたのを「頑張らなくていい」と許してもらう。
「あぁ、素晴らしい教えだなぁ」と感じるのも自然なことだと考えられます。

そして教えに傾倒するうちに
「自分も好きなことをして生きたい」なんて思い始める、と。


ところが「正しくなければならない」という考えがなくなるわけではありません。

そもそも心の中にあった
「そんなに正しくなくったっていいじゃないか」
と思いたい部分が、教えを喜んでいる状態です。

教えとして
「我慢なんてしなくていい。
 好きなことをすればいい。
 そのほうが幸せになれる。
 正しくないことをしてしまおう。」
と言われたとき、
心の中の一部は
「やっぱりそうだよね。
 そんなに正しくなくったっていいよね。」
と安心するわけです。

その一方で、今まで主に意識に上がっていた
「正しくなければならない」と思う部分については
「いやいや、やっぱり正しくないのはマズイでしょう。」
と反論を始めます。

教わった通りに好き勝手なことに取りかかって
今までだったら悪いと思っていたこともやってみて、
「正しくないことをしてしまうのが良いんだ」
と考えようとするときに、
心の一部が
「いやいや、マズイだろう」
と反発して罪悪感を生み出すんです。

そこで
「罪悪感なんて必要ない。
 正しくなくったって大丈夫だから。」
と、考えを変えるように努力をしていくスタンスのようです。

今まで「正しくない」、「問題だ」と捉えたいたことを続けることで
そのやり方に慣れていく。

慣れるうちに
「正しくないし、問題だろうと思っていたけれど、
 意外と大丈夫なものなんだな」
と感じられてきて、罪悪感もなくなっていく
…ということだと想像できます。


とはいえ、これは時間がかかりますし、
「なーんだ!大丈夫なんだ!」と発想が入れ換わるには
タイミングも重要かもしれません。

そのときを待っている間は、もどかしくてたまらないことでしょう。

であれば、逆転の発想というのも役立つような気がします。

つまり、
 あえて思いっきり罪悪感を強める
という方向性です。


徹底的に罪を意識するんです。

人は生きているだけで、他の生き物の命を奪っています。

家畜は人間の都合だけで飼育されて一生を終えますし、
雑草や害虫と呼ばれて駆除される生き物も沢山います。

人間が生態系を大きく変え、地球を改造します。
なかなか分解されることのない材料で製品を作って
ゴミを地面に埋めて見えなくします。

野生生物は生息域を追われ、なかには絶滅したものもいます。
農作物を守るために殺される動物もいます。

そんなにしてまで食料として確保した他の命を
美味しいだの美味しくないだのという理由で選別したり、
余った分を廃棄したりしているわけです。

もしかしたら人間なんて存在しないほうが
地球のためには良いのかもしれません。

それでも人は生きます。

人間の都合で
地球に対して、他の生き物に対して
ワガママを言っています。

ワガママだけど、快適な環境のほうが嬉しいんです。
ワガママだけど、美味しい食事のほうが満足感が大きいんです。
ワガママだけど、虫に刺されるのもイノシシに襲われるのも嫌なんです。

現代の人間は普通に生活しているだけで
誰でも物凄いワガママを他の生き物に押しつけている
ということです。

その罪深さを意識したとき、
人間社会の中だけで設定された「正しさ」を基準とする罪は
どれぐらいの程度に感じられるでしょうか?


「正しくない」ことをする罪悪感には
  自分だけが正しくないことをしてしまっている
という後ろめたさが含まれると思います。

他の人は「正しく」やっているのに、自分だけズルイんじゃないか
といった比較があるはずです。

だからこそ、人が本質的にもっている膨大な罪を意識すると
誰もが皆、とても罪深い存在なんだと感じられて、
自分だけが罪悪感を抱く必要がないと思えてくる気がします。


それでもやはり人間社会での比較ばかりが目についてしまうなら、
他の人たちについても罪を探していってもいいでしょう。

仮に「いつでも100%正しい」という人がいたとしたら、
その人には「他の人を窮屈に感じさせる」罪があるかもしれません。

責任感が強くて手を抜かない人がいたとしたら
「周りの人も気を遣い始めて、誰も休めない雰囲気を作ってしまう」罪や
「大事な作業を通じて成長する機会を他人から奪う」罪、
「信頼してもらう喜びを他人に与えない」罪
などがあるとも考えられます。

そうやって見ていくと、
自分が「正しくない」と思っていることだけでなく、
どんなことだって必ずしも正しいわけではないのが分かります。

「自分だけが正しくない」と捉えて罪悪感を持つのが
正しいことではないと思えてくるのではないでしょうか。

場合によっては
 自分が「正しい」と思っていたことが
 実は他人に迷惑をかけることだった
と気づくこともあるはずです。

そして
 誰もが「正しくない」なかで
 お互いに迷惑をかけながら
 なんとかバランスが取れている
と実感できたら、
自分に対しても他人に対しても寛容でいやすくなると思われます。

そうして「正しさ」に対する考えが緩んでくれば
無理なく自然に、楽な状態になれると期待できます。

罪悪感がどうしても無くならないときには、いっそのこと
丁寧に罪を意識してみてはいかがでしょうか。

cozyharada at 23:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2015年10月07日

冷凍食品とセミナー

チャーハンを家で美味しく作るのは簡単ではないみたいです。

小学校の頃、我が家のチャーハンはベタベタで
夕飯がチャーハンの日はガッカリしていたのを覚えています。

だからでしょうか、中華料理屋やラーメン屋などで
すごく美味しいチャーハンが食べられたりすると余計に嬉しかったものです。

家庭料理としてのチャーハンと、外で食べるチャーハンとには
結構な差があるような印象を受けますが、
中華鍋にしても、ガスコンロの火力にしても大きな違いがありそうですから
味の違いが生まれるのも仕方のないことなんでしょう。

マンガ『美味しんぼ』によると、チャーハンは中華の基本だそうで
鍋の振り方や火や油の使い方などに腕の違いが表れるんだとか。

洋食の基本としてオムレツを練習するように、
中華ではチャーハンに基礎技術が表れるという話のようです。


その中でも、家庭で美味しいチャーハンを作るコツなんてのもありますし、
それどころか
最近では冷凍食品のチャーハンがとても良くできているようです。

一方、本格的にチャーハンを美味しく仕上げようと思ったら
技術を徹底的に磨くために修業が必要になる。

場合によっては中華鍋に砂利を入れて振り続けるトレーニングだとか
中華鍋で布巾をスムーズに動かす鍋振りの練習だとか、
そういった基礎練習さえも必要なのかもしれません。

しかしながら、そういった本格的なチャーハンの修行をするのは
全人口の中でもホンの一部で、中華料理屋を目指す人か
よほどの料理好きやチャーハンマニアぐらいなものではないでしょうか。

大抵の人はそこまでヤル気はありません。

そこまでチャーハンを人生の重要事項と位置づけていないからです。
沢山ある料理のうちの1つですし、たまに食事の候補に上がる程度でしょう。

だからこそ、世間一般では
 家庭で(そこそこ)美味しいチャーハンを作るコツ

 レンジでチンするだけで”本格的な”チャーハンを楽しめる冷凍食品
が人気になるといえます。

そしてよほどのチャーハン好きは、たまに美味しいチャーハンを求めて
プロの元に足を運ぶことになります。

そこまでの味をチャーハンに求める人も少ないのですから、
そのクオリティを自分で出せるように修行をしようという人は
さらに少数派になると想像できます。


こうした事情はチャーハンだけの話ではありません。

・体のケアをして健康になるにはどうしたらいいか?
・コミュニケーションを改善して人間関係を改善するにはどうしたらいいか?
・営業成績を上げるためにはどんな工夫が効果的か?
・組織をマネジメントするには何をしたらいいか?
・心の悩みを解決するにはどんな取り組みをしたらいいか?

このように様々な分野で、技術や手法、プロフェッショナルが存在しています。

どの分野においても
 本を読んで情報を仕入れるレベルから、
 セミナーや教室で教わったり、研修でトレーニングを受けたりする場合、
 徹底的に修行を積んで達人レベルを目指すケース、
 プロの力を借りて、代わりにやってもらうときまで、
幅広いアプローチがあります。

まさに
 チャーハンのポイントを本やネットで調べるレベル、
 料理教室でコツや技術を教わる場合、
 地道な鍋振りトレーニングと繰り返しの練習でチャーハン修行をするケース、
 美味しいチャーハンの店で外食をするとき
に喩えられるわけです。

そしてここでもやはり、
「どれぐらいの数の人が、どのレベルを求めるか?」
という部分が共通するようです。

チャーハン修行までする人が少ないように
コミュニケーションの技術を徹底的に修行する人も少ない。

多くの人にとってチャーハンが数ある食事の1つの選択に過ぎず
人生の一大事ではないため、
美味しいチャーハンを食べることへの動機が低いのと同様に、
コミュニケーションや仕事の問題解決などについても
それが人生の一大事ではないということなんでしょう。

とりあえず目下の問題が改善すればいいとか、
手軽に扱える範囲の工夫で対応できるほうが嬉しいとか、
そんな発想のほうが多数派を占めるんだろうと思われます。

だからこそ、それほど一生懸命に技術トレーニングを重ねなくても
すぐに一定程度の効果が期待できるような便利な手法が、
本でベストセラーになったり、人気のセミナーや研修プログラムになったりする。

手軽にプロのような美味しさを味わえる冷凍食品のような内容こそが
多くの人のニーズに合っているということです。

チャーハン修行をさせてくれる師匠を求める人よりも
美味しい冷凍チャーハンを買う人のほうが遥かに多い、と。

そして最近の冷凍チャーハンがパラパラで本格的なのと同じように
1日、2日のセミナーで、使い勝手がよくて効果も高いツールが紹介されれば
人気が出るのも当然のことなんだと感じます。

もしかすると
 どのメーカーの冷凍チャーハンが美味しいとか、
 レンジでチンするときのラップのかけ方とか、
 加熱の仕方で美味しさをアップする方法とか、
 簡単で美味しいアレンジレシピとか…
で盛り上がっている人たちを見て、
 「いやいや、チャーハンは高火力で一気に作るから美味しいんであって
  レンジで温めるだけの冷凍食品なんて邪道だ」
などと言いたい人もいるのかもしれません。

そのあたりは、もうニーズの違いということのような気がします。

冷凍食品のチャーハンのように、チンするだけで本格的な味わいがあるなら
そんなに嬉しいことはないと感じる人は沢山いるんです。
毎日鍋振りのトレーニングをするまでのつもりはないけれど
簡単に美味しいチャーハンが食べられるのは嬉しい。

そのニーズに応えるのも1つのスタンス。

徹底的にチャーハンの修行をさせてくれる教室もまた1つでしょう。

あとは広告やアピールの段階で
そのあたりに誤解を与えない工夫が大事かもしれません。

cozyharada at 23:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | セミナー情報

2015年10月04日

現実とは何か?

TEDのプレゼンテーションで興味深いものがありました。

「リアリティ」についてです。
ドナルド・ホフマンというカリフォルニア大学アーバイン校で
認知科学の教授をしている人が話しています。

下のYouYube動画でも字幕つきで見られます。


研究内容そのものはコンピューターで計算した
進化の方向性の話がメインのようですが、
そこから派生する説明の仕方が面白いんです。

とくに人間にとってのリアリティ(現実)の体験を
パソコンのデスクトップに喩えたのは秀逸。

デスクトップのアイコンやフォルダは
見やすくするため、操作しやすくするために役立っていますが、
デスクトップ画面の形でパソコンの中の計算が進んでいるわけでない。

パソコンのプログラムはもっと違った形で書かれていて
デスクトップ上の操作に応じて支持されたプログラムが動きます。


なかでもリアリティを理解しようとするうえで
量子力学には意味がないことを言ってしまっています。

物質を粒子やエネルギーに還元していったところで
所詮、人間が体験している世界の物質を分解したに過ぎない、と。

それはパソコンのデスクトップの喩えでいえば
画面上の小さなドットに注目しているようなものだというんです。

人間が経験している時空を細かく分解していけば
その時空の中の粒子が見えてきて、そこは空間だらけになる。
そして粒子そのものもエネルギーとして見ていけば
すべてはエネルギー状態で説明がつく。
…そういう話は結局、人間が経験する時空を前提にしています。

そもそもその時空がリアリティではないのではないか?
というのがドナルド・ホフマンの主張です。

僕も賛同します。
時間という概念から離れないと見えてこないものがあると思います。

エネルギーなんていうのは時間変化を追いかけて初めて見えるものですから
時間から離れて考えようとすれば力やエネルギーという発想を
見直す必要が出てくるでしょう。

「アイコンをフォルダの上にドラッグすると何が起きるか?」
といった話をどれだけ分析したところで、
パソコンの中で起きている計算を知ることはできないという意味で、
このホフマンの説は的を得ていると考えられます。


じゃあ、リアリティとは何なんだ?

そのことについては何も言われていません。
とにかく今までのは誤解ですよ、と。

だから科学としては他のアプローチを見つけていきましょう
というプレゼンテーションです。

このようにリアリティそのものを説明できたわけではないけれど
一歩進んだということを主張できるのが
いかにも科学者の発想なんだなぁと感じます。


ともあれ、メインの主張はすごく重要なポイントだと思います。

「人間は現実を体験していない」ということを言う人は多いですが、
その根拠として
「細かく見ていけば全ては粒子やエネルギーだから」
という物理・化学・量子力学などの話を引っ張ってくるのは
不十分だという話です。

粒子やエネルギーの説明は、
人間にとっての現実世界を科学という言葉で述べたものに過ぎず
そもそも人間にとっての現実世界がリアリティとは別物だとしたら
結局何も分かっていないことになります。

このように「何も分かっていない」という事実を受け入れるのは
決して簡単なことではありませんが
これを受け入れられるかどうかの差は大きいものじゃないでしょうか。



cozyharada at 23:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
〜言語表現力トレーニング〜


【日時】 2017年6月25日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


概要はこちら>>
次回開催は8月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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