2016年02月

2016年02月29日

統合と合成

NLPや心理療法では『統合』という言葉を使うことがあります。

「複数の物をまとめて1つにする」といった言葉ですが
まとまって「出来上がった1つのもの」に焦点があたる傾向にあるようです。

比較として挙げておくと、『合成』も
「複数の物を合わせて1つにする」という意味でありながら
「1つにまとまっていく」プロセスに焦点が当たっているように思われます。

その意味では、『統合』のほうが
「(全体という)より大きなものの一部になる」
ニュアンスがありそうで、
『合成』では元のものの量や大きさにはかかわらず
「(合成される)元のものは全て対等に「素材」として扱う」
ニュアンスがあるように感じます。

AのほうがBよりも大きくて影響力も強いとしたら
『統合』する場合、「AにBが統合される」といった表現も可能で、
『合成』する場合は「AとBを合成する」のようにニュートラルな表現になる、と。

ですからNLPや心理療法で『統合』という言葉が使われる場合も
やはり「より大きなものになる」という意味合いがあるように感じます。


NLPには「葛藤の統合」の手法があって、資格取得コースでも紹介される
かなりスタンダードな方法の1つだといえます。

「Aしてしまう」心の一部と、「Bしてしまう」心の一部が葛藤している。
それを『統合』しましょう、というんです。

作業としては「Aしてしまう」部分と「Bしてしまう」部分だけを扱って
2つをくっつけ合わせるような段階を含みます。
ですから「AとBを合成している」印象も受けるわけです。

しかしここで使われているのは『統合』という単語です。
2つの心の部分が一体となった後で出来上がるものに焦点が当たっている。

「AとBをくっつけてCを合成する」という話ではないんです。

実際、手法を使った後の心の状態を見てみると、
この作業は『統合』なんだということが実感できます。

最終的には、心の一部が全体に『統合』されます。


「〜してしまう」という心の働きは、
自分でコントロールできていない感じがするものです。

ですから「…したいのに、〜してしまう」とか「〜したいのに、〜できない」とか
そういった形で「思い通りにならない」こととして問題視されます。

ここで問題視しているのは「〜したい」と願っている心の部分です。

その願望に普段から気づいていて、それが自分にとって当たり前になっている。
馴染みがあるから、それを「いつもの自分らしい」と認識するんです。

この「いつもの自分らしい」心の範囲が、一般的に『意識の心』と呼ばれます。

意識の心は、ただ普段から意識に上がることの多い心の部分であって、
意識に上がるからこそ、その心の動きが望んでいることにも気づきやすい。

いつも意識に上がっている心の範囲を「自分」として認識することになって
(知っている自分を「自分とは○○だ」のように自己認識する)
意識に上がりやすい心の範囲の性質を「自分らしさ」として捉えます。

それが「自分」という「意識の心」の範囲です。

裏を返せば、「自分」として認識している「意識の心」の範囲から外れた部分
(つまり普段は意識に上がらず、知らない心の部分)については
「無意識の心」として、「自分」ではコントロールできないものと感じるということです。

こちらの「無意識の心」の範囲が担当している働きは、
「〜してしまう」とか「〜できない」のように
望ましくない物として認識されることになります。

そのためNLPや心理療法で扱っている葛藤は
「…したい」という「意識の心」の働きと
「…ではないことをする」という「無意識の心」の働きが
 意識の心の認識からは『対立』しているように見える
という状態だといえます。

客観的にニュートラルに捉えれば
 「…する(Aする)」働きと、「…ではないことをする(Bする)」働きが同時にある
だけのことです。

が、「…する(Aする)」ことが日頃から意識に上がっていて
その結果として「自分らしい」と認識していると、
「…ではないことをする(Bする)」のは、「自分らしくない」ことになります。

だから
 「…したい(Aしたい)のに、…ではないこと(B)をしてしまう」
のような表現で語られるわけです。

一部だけしか気づいていないことで、意識の心の範囲から外れたものは
「自分らしくない」と捉えられてしまう。
そこに問題意識が生まれていると説明できます。


で、葛藤の『統合』をしようという話になります。

一般的に期待されるのは、意識の心の願望に近づけたい方向性です。
 「…したい(Aしたい)のに、…ではないこと(B)をしてしまう」
なら
 「…できる(A)できるようになる」
という結末。

しかし、その方向性は『統合』とはいえません。

『統合』は、できあがったより大きなものに焦点を当てます。

ここでは、気づいていなかった『無意識の心』の範囲の働きを自覚して
それを意識できるようにしていきます。

そうすると今まで『無意識の心』が担当していた(と認識されていた)ことが
『意識の心』の一部分になるんです。

つまり『無意識の心』の一部が『意識の心』に統合される、と。

そして出来上がったものは、やはり『意識の心』です。

ただしそれは元の『意識の心』のままではありません。
今まで無意識だった範囲が追加されていますから
『意識の心』が広がったことになります。

『意識の心』として日頃から自覚されるものを「自分らしい」と知るわけなので
『意識の心』の範囲が広がれば「自分らしさ」もまた広がります。

「自分らしさ」が変わるんです。

ですから
「…したい(Aしたい)けど、…ではないこと(B)をしてしまう」などの問題は
最終的に
 「AしたいからAをするし、BしたいからBをする」
というシンプルな願望の間での選択に変わります。

対立がなくなるわけではないんです。

「対立している」と認識していた「自分らしさ」がなくなるんです。

問題は「対立していること」ではなく、
「対立」という認識を生むような心の偏りだった、ということです。

意識されていなかった心の部分に気づき、
そちらも意識の範囲に『統合』していくことで、
偏った意識の仕方をバランスの良い全体として整える。
そういう作業だといえます。

『統合』で、できあがった全体のほうに焦点を当てるのだとすると
葛藤の統合で最も変化するのは、まさに『全体』のほうなんです。

自分らしさとして認識されている意識の範囲全体のこと。

こちらが変わります。
いわば「自分」が変わるんです。

問題が「今までの自分」に都合良く修正されるのではなく、
「今までの自分」が「新しい自分」に変わる。

そういう性質のプロセスだといえます。

そんな風に考えると『統合』という言葉は、言い得て妙なんだと思います。

cozyharada at 23:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2016年02月26日

北の特徴

セミナーの関係で大阪、名古屋、札幌を訪れます。

いずれも大都市ですが、土地の広さの兼ね合いでしょうか、
札幌のホテルは少しゆったりしている気がします。

ホテルの朝食もビュッフェ形式なのは同じながら
少しだけ北海道らしい食べ物が入っていたりもするんです。
スープカレーとかジャガイモとか魚介類とか。

食事にこだわっていないと、逆に寝具や部屋の内装が良かったりして
やはり快適な印象があります。

もちろん中には狭いところや、いたって特徴のないホテルもありますが
その分、値段が安いようです。

相場は大阪や名古屋よりも低いんじゃないでしょうか。

ちなみに外国人観光客の多さはどこでも変わりません。
ビュッフェのジュースを自分の水筒に入れる人が札幌にいたのは
もしかすると旅行の種類の違いかもしれません。


ただ僕にとっての札幌のイメージは、ホテルよりも
空や空気によって大きく左右されています。

空が広い感じがするんです。
空気も澄んでいて落ち着いたような感じもします。

音も静かなんじゃないかと思います。
交通量が違いそうな感じ。

そして湿度も違うような気がします。

札幌の外気温は気象情報によるとマイナス10℃ぐらいとのことでしたが
実際に外を歩いてみると、それほど「寒い」とは感じないんです。

確かに空気は冷たい。
手袋をしていないと空気の冷たさが分かります。

その一方、衣類で覆われているところは寒くない。
手袋をしてしまえばマイナス10℃なんて分かりません。

都内の体感気温でいうと5、6℃といったところでしょうか。
10℃ほど暖かくはなくても、東京の2℃のような冷え込みはありません。

体温が奪われない感じなんです。
熱伝導が違う。

空気はひんやりとしていて「冷たい」。
それが体にとって「寒い」わけではない。

気温と体感温度の関係が、東京とは随分と違うようです。

ですから冬の札幌を歩いていても、僕にとっては「涼しい」という感じです。
ひんやりと心地良い感じさえします。

雪は不便なんでしょうけれど、北だから「寒い」ということではなさそうです。

しかも夏は最高気温も湿度も低くて過ごしやすい。
梅雨もない。

自分で雪かきをしなくていい旅行者としてであれば
札幌はとても過ごしやすいところなんじゃないかと感じます。
(移動に時間がかかるのは仕方ないでしょう…)


思い返すと、僕は子供のころから冬のほうが好きだったものです。
正確にいうと、夏が好きじゃなかった。

真夏でも冷房をガンガンにかけて、布団に包まって寝るほうが好きでした。

海に行きたがることもなかったですし、南国への憧れもありませんでした。
どちらかというと雪景色が好きだった記憶があります。

ギラギラした太陽、青い空と海、白い砂浜と緑の木々…
そんな南国のカラフルで賑やかな感じより、
一面に青白いような静けさが好きだったようです。

で、札幌で積み上げられた雪を見ていて気づいたんです。
僕の部屋には白いものが結構あって
そこにも雪景色が好きなことと共通点があるんじゃないか、と。

白くて、やや丸みがあって、光沢がない。
表面はツルツルではなく、サラサラとした感じ。
その見た目と、誰も踏み入れていないパウダースノーの感じが似ています。

何が原因かは抜きにして、僕の好みの質感は
パウダースノーのような白くてサラサラしたもののようです。

よく聞いていた歌手の歌声も、色にすると白くてサラサラした感じでしたから。

何気なく、当たり前のように好みを持っているものでしょうが、
よくよく気をつけてみると、いろいろな物に共通点が見つかるようです。

僕の場合、北のほうに、そういう特徴が多いみたいです。

cozyharada at 23:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2016年02月24日

語学の基準の違い

語学をやっていると、たまに
「私は独学で英語を身につけました」
というような人を見かけます。

どの部分を指して「独学」と呼んでいるのかが気になります。


どうも英語の場合、「独学で身につけました」という人は
 英会話スクールに通ったりすることなく
 本を読んだり、自分なりに勉強したりして使えるようになった
ということなんだろうと思われます。

しかし、そもそも英語は教育の中で「学校の先生から教わって」います。

「独学です」という人も、中学・高校ぐらいの英語教育は受けていますし
なんなら大学受験のために結構な英語の勉強もしているわけです。

僕は今、フランス語を勉強していますが、これは一年前に再開したものです。
高校のときに週2時間を3年間、大学で週1時間を1年間やりました。

量でいえば、中学3年間の勉強量のほうが遥かに多かったと思います。
時間割で見ても、英語の授業回数は多かったですし、
そのほかにも高校受験のために塾で勉強をしました。

単語とか文法とか、かなりの練習問題をやった記憶があります。

文法項目としても、動詞の時制は「過去・現在・未来」と一通り、
関係代名詞や分詞などの修飾節も扱ったと思いますし、
助動詞、比較、代名詞、主な接続詞などもカバーしていたはずです。

中学英語の内容でも、きっちり使いこなせば
相当複雑な内容のアウトプットもできるほどです。

ボキャブラリーにしても文部科学省の基準では1500〜1600語ぐらいだとか。

「グロービッシュ」と呼ばれる非ネイティブのための通じやすい英語では
1500語ぐらいを組み合わせてコミュニケーションするそうですし、
ネイティブでも日常の9割の会話は2000語ぐらいから成り立つ
なんていう記事も見かけたことがあります。

中学英語をキッチリやれば、それだけで英語の土台はかなりできている、と。

実際、僕の高校時代の英語の授業は、洋書をひたすら読解するだけでしたが
辞書さえあれば、時間をかけてなんとか内容を追いかけられました。

高校に入ってから習った(と思われる)仮定法やさまざまな構文も
結局は表現のバリエーションを増やすためのものでしかなかった気がします。


対比としてフランス語を考えると、文法事項として関係代名詞など
英語と共通する部分の学習スピードが上げられたため
中学英語よりは高校のフランス語のほうが進みは早かった印象があります。

とはいえ授業時間数は中学英語よりも少ないし、塾にも通っていません。
時間あたりに覚える必要のあった量は増えている一方、
勉強時間は圧倒的に少なかったはずです。

だからこそ大学1年までフランス語をやって、期間としては4年あったけれど
テスト前の勉強を入れてもトータルで300時間程度だったと思います。

たぶん中学英語にさえ遠く及ばない時間でしょう。

文法項目としても(フランス語のほうが複雑ですが)中学英語レベルまで
一通りカバーすることなく、僕の学生時代のフランス語教育は止まりました。

今、フランス語を再開して、復習もしながら取り組んでみて分かったのは
僕が学生時代に扱った範囲は、初級レベルを終えていなかったということです。

ヨーロッパ(アメリカは含まない)には外国語習得のレベルの基準として
 CEFR (Common European Framework of Reference for Languages、
      外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠)
と呼ばれるものがあります。

A1、A2、B1、B2、C1、C2の6段階。
A1が初級で、C2が上級にあたりますが
A1も検定試験を受けるので、ある程度の勉強をした後の状態になります。

僕がイメージする感じだと、
海外旅行で基本的な情報交換ができるぐらいでA1という感じでしょうか。
A2なら現地でなんとか生活ができるぐらいかもしれません。

B1だと、やっと学校についていけて留学も可能な感じ。
B2なら専門分野をスムーズにやり取りできるので、
その言語でビジネスや学問を着実にこなせる状態。

C1までいくと分野を選ばず流暢なコミュニケーションができて
自分の言いたいことをニュアンスに沿って選べるような感じ。
通訳でもC1レベルの人は大勢います。
現地の仕事で採用されるときには、言葉の問題で足を引っ張らないレベル。

C2は日本人が辿り着くには大変なレベルで、
文法構造が似ている欧米の言語圏だからこその区別といった感じでしょうか。
イタリア語とスペイン語なら似ているので、C2にも辿り着きやすい、と。
ほぼネイティブ並みといった段階のようです。

で、僕が学生時代にカバーしたフランス語の範囲はA1を終わって
A2には受からないぐらいまでです。

今使っている教材が最後まで行くとA2をカバーできますが
日本の一般的なフランス語「レッスン」の基準では
「上級レベル」とされる講座を終わって、やっとA2です。

そこから習ったものを全て身につければA2のテストには受かるだろう、と。


なお、僕は去年半年ほどスペイン語も勉強しましたが、
こちらは完全にゼロからスタートしたものです。

アルファベットの読み方をやって、「私の名前は〜」とか、数の数え方とか
まさに日本の英語教育の出発地点と同じようなところ。

かなり急いで進む講座でしたが、それでも半年ではA1の教科書の半分まで。

同じラテン語系ですからフランス語と対比させると
僕の中ではフランス語のほうが学習が進んでいるのを実感できました。

A1とA2のレベルの違いも体感的に納得できている気はします。

フランス語もスペイン語もヨーロッパ言語ですからCEFRの基準に乗ります。
しかし日本の外国語学習の一般的な基準だと「上級講座」でもA2に満たない。

CEFRの上級をC1・C2、初級をA1・A2ぐらいだとすれば
日本の外国語レッスン基準では「上級」にあたるものが
ヨーロッパの基準では「初級」にも辿りついていないことになります。
  (※老舗のフランス語学校ぐらいはB1以上のクラスもやっています)

日本語とヨーロッパ言語の違いの大きさが
このギャップを生み出すのでしょう。

それだけ日本人にとっての外国語(ヨーロッパ言語)習得は道のりが長いようです。


ところが話を英語に戻すと、事情は少し違ってきます。

中学英語でも、CEFRのA1基準は超えているんじゃないでしょうか。

CEFRのA1は英検だと3級ぐらいとされています。
中学生で英検3級は充分に可能な範囲です。

先にも触れたようにグロービッシュの考え方では、中学英語+αでも
かなりのコミュニケーションができるとされています。

文法事項やボキャブラリーとして
表現のバリエーションを広げることを考えなければ、
他に必要なのは運用のためのトレーニングということになります。

高校英語では、文法項目としてそうしたバリエーションを広げます。
そして長文読解に慣れつつ、ボキャブラリーを増やしていく。

大学受験で英語を勉強するような段階になれば
実のところ、かなりの英語の知識を身につけることになるようなんです。

ある英語の指導者は、英検1級に合格するのには
大学受験の文法参考書をカバーすれば充分だと言っていました。

高校までに習う内容で、かなり高度な英語まで扱える土台が身につく、と。

ボキャブラリーについては積極的に増やす必要があるようですが
それでも受験参考書のレベルでも重要単語は抑えられるみたいです。

「高校英語をキッチリ抑えれば英検準1級には受かる」という人もいますから
高校までで相当な範囲をカバーしているといえそうです。

CEFRでいえばB2ぐらいでしょう。
日本のよくある英語教育の基準に照らすと、B2は「中上級」とされます。

ですから、中学英語で「初級」の上のほう、高校までの教育で「中級」、
受験英語で頑張ったら「中上級」までは行っているということです。

高校まで終われば、英語の「知識」としては「中級」以上なんです。
(忘れなければ、ですが)

授業時間数だって英語は多いですし、
日常生活にもカタカナ語として英語は溢れています。

日本人はかなり英語を「知っている」んです。

ゼロから始まる他のヨーロッパ言語では
A2レベルまで到達するのだって、結構な時間と労力を要します。

だから日本国内では「上級講座」になる。
ヨーロッパの基準でいえば、内容は「初級」レベルなのに、です。

一方、日本国内の英語教育のレベルは、ヨーロッパの基準に沿っています。

そして語学学校に通うまでもなく、高校教育を終えたところで
ヨーロッパ基準の「中級」から「中上級」ぐらいの知識が身につく。

教育の過程で、結構な英語の勉強をしているわけです。


ただ、日本の英語教育は英語の知識が重視されて
英語を使うためのトレーニングの要素が少ない。

だから英語を使えない人が多いとされてしまうんでしょう。

高校卒業の英語レベルから英検1級に受かろうと思ったら、
 ・英検1級用の単語帳でボキャブラリーを増やす
 ・模擬テストや過去問で長文読解のトレーニングをする
 ・リスニング教材や過去問を使って聞き取りの力をつける
 ・スピーキングのトレーニングとして英会話の時間をとる
あたりが必要になると思われます。

逆にいえば、これは英語についての知識の問題ではなく、
知っていることを使えるようにするための練習です。

頭の中に溜まっている情報を繋ぎ合せるトレーニングをして、
アウトプットのスピードを上げるだけのことです。

繰り返して、慣れて、自然にできるようにする。
反射的にできるようにするという意味では
スポーツのトレーニングと変わらないはずです。

知識を運用するにはトレーニングが必要。
でも知識は多くの人が、かなり持っているんです。

他の言語を勉強すると痛感します。
英語と比べると、圧倒的に知識が足りない。

知識を蓄えるところから始めないといけません。

それに比べると、英語は運用のトレーニングをしながら
知識を少しずつ増やしていくこともできます。


日本の英語教育には賛否両論あるようですが、
日本人はかなりの英語を知っているとは言えるはずです。

そしてその知識の大部分は学校教育で培われています。

「独学で英語を身につけた」という人は、確かに
トレーニングの部分を自分一人でやったのかもしれません。
語学学校に通ったりせずに。

でも土台となる英語の知識は
 「英語の先生から教わった」
のではないでしょうか。

日本の英語教育は
 ここまでやったら、あとは本人のトレーニング次第で身につく
という土台を築いてくれている気がします。

他の言語を最初からやろうとすると、
学校教育で一通りやった英語のレベルまで追いつくのが
どれだけ大変なことかも感じられると思います。

2016年02月21日

安心してください

前回、とにかく明るい安村の決めゼリフ
「安心してください、履いていますよ」
について、心情として説明をしてみました。

「安心してください」というフレーズは、お笑いという状況の中で
見ている人の心の動きとマッチしていると考えられる、と。

そもそも「履いていないんじゃないか?」とは心配していないところに
ちょっとしたギャップがあって笑いを誘う。

かつ笑いの準備としても、安心できる状態に戻りたい背景があるから
「安心してください」のフレーズが反発されにくい、という話でした。


今回は、日常の場面で「安心してください」と言われたら
人はどのように反応するだろうか?という話です。

「安心してください、履いてますよ」と対比させて考えてみると
 心配している人に対して、「安心してください」のフレーズはマッチするか?
が注目のポイントになります。


そもそも心配している人には、心配したいだけの理由があります。
ネガティブな予想を立てているわけです。
「もしかしたら、〜になってしまうんじゃないか?」と。

あるいは不安になっている場合も想像できます。
こちらは何が起きるか予想できていないために起きる感情です。
「このままだったら、どうなってしまうんだろうか?」のように
漠然とネガティブな想像をする状態。

いずれにしても
 「安心できる状態に戻るために何とかしたい。
  でも、どうしたらいいか分からない。」
のが中核となります。

具体的な対策が分かり、それに集中できれば
とりあえずの安心感が確保できます。

心配や不安には、『最終的に』安心したい動機がありますが、
それは同時に
 安心できる状態に戻りたいからこそ、
 対策を探すために心配や不安をしている
ことでもあるわけです。

言い換えると、
 「安心したい。
  でも、何をしたらいいかが分からない。」
といった葛藤があるんです。


そして2つの気持ちが葛藤している状態では
片方の気持ちにだけ肩入れすると、もう一方に反発が生まれます。

例えば、友人関係で不満があるとします。
ずっと仲のよくしてきた友達グループの一人だから、これからも仲良くしたい。
でも揉め事があってギクシャクしている。

仲良くしたいけれども、仲よくできない状態。

そんなときに
「皆と上手くやっていきたいんだったら、仲直りしなよ」
と言われても
 「向こうが悪いのに、なんで私が折れなきゃいけないの?」
と反発が出ます。

逆に
「向こうが悪いんだから、もうそんなヤツとは仲良くしなくて良いよ」
と言われたら
 「そうしたら皆と上手くやっていけないじゃない」
と反発が出る。

相反する気持ちの片方だけをサポートすると
反対側の気持ちが強まってしまうわけです。

同様に「安心したい、けど何をしたらいいか分からないから不安」なときに
「安心してください」と伝えても、
 「いや、そんなこといったって、どうしたらいいか分からないし…」
と反発が出てしまう可能性があります。

「どうしたらいいか分からない」という不安や心配の種があるから
それを解消したいのが意識の大部分を占めています。

それに対して「安心してください」というのは、その気持ちを否定して
抑え込ませようとするメッセージにも受け取られかねません。


かといって「心配しないでください」というのも使い方が悩ましいものです。

「〜しないでください」という命令は、ときに逆効果になる場合があります。
とくに「〜を考えないでください」のような指示は
聞いた瞬間に考えが頭に浮かんでしまうので、
あえて考えさせるための方法として使われることさえある。

今まで意識に上がっていなかったものを意識化させる効果があるんです。

ですから仮に相手が心配していなかったとしたら、
「心配しないでください」伝えることで、逆に
「あれ、そういえば大丈夫なんだろうか?」と心配が始まるかもしれません。

実際に心配している人にとっては、すでに心配が意識の中で起きていますから
むしろ「心配しないで」と言われることで、
心配を抑えようとする心の動きが始まる可能性はあります。

不特定多数の相手に向けた広告などの文章で心配材料を減らすために
「心配しないでください」と伝えるのは、心配している人には有効かもしれませんが
それまで心配していなかった人を、わざわざ心配させてしまって
逆効果になってしまうこともありえるでしょう。

もちろん心配している人に対してでも
「心配しないでください」は命令になっているわけですから
「安心してください」と同様に、相手の心の動きに沿っていないことにもなります。

その辺を考えると、「心配しないでください」というのも
なかなかリスクの高い言い回しのようです。


そうすると効果的だと思われるのは、
 心配してもいいけど、心配しなくても大丈夫
というニュアンスを強調する方法でしょうか。

心配している状態に対しては「心配ですよね」と同意する。
同意をして相手にペースを合わせてから
「でも心配しなくても大丈夫」と伝える、と。

「大丈夫」は効果的なフレーズとされます。

飛行機のフライトアテンダントも、緊急事態には
「大丈夫です」と言うらしいです。

非常時に心配している人たちに「心配しないでください」というのは無理がかかるし、
「安心してください」と言われると、わざわざ『安心』:を強調されることで
「そんなに強調するってことは、ひょっとして何か特別なのか?」と
逆に想像をめぐらせてしまいかねません。

よくセミナーやワークショップなどで、主催者や講師側から
「ここは安心・安全な場所ですから」などと言葉にして強調されるのを見ますが、
 あえて強調することで対比としての『危険性』や『心配』をあおる可能性もある
というのと同じような話です。

だからこそ、説明はひとまず置いて、安心の方向性へ導く言葉として
「大丈夫です」を使うのだろうと考えられます。

当然、「大丈夫です」と言われた人は
「そうなのか?」と一呼吸つくことはできても、
「どうして大丈夫だって言えるんだ?」と疑問を持つこともあります。

そこで「大丈夫です」の後に、状況説明を付け加える。

「心配ですよね。でも大丈夫です。なぜなら…」と。

こういう流れが一般的に有効なように見受けられます。


もう1つ有効そうなのは、命令ではなくて、状況説明にするという方法でしょう。

「心配かもしれませんが、その必要はありません。」
「心配に思うのも当然です。ですが、実はそれには及びません。」
という感じ。

「心配する必要はありません」も同様です。

この表現は心の動きを変えるように命令しているのではなく、
心配を起こしている状況のほうに注意を向けることで
本人の心の動きに対して、少し客観的になれるように導いています。

心配を生み出している状況かと思っていたが、そうではないという。
じゃあ、いったいそれはどういうことなんだ?
…そのように説明に対して関心が向きます。

これだけでも漠然とした心配の感情からは離れられますし、
説明の内容に納得できれば、感情レベルでも
「ああ、そうか」と落ち着きを取り戻すことができるわけです。

心配という単語で、もしかすると自覚していなかったかもしれない心配事に気づく。
そういうことがあったとしても、心配の感情そのものに振り回されないよう
心配の種(心配を生み出す要因)に目を向けるような言葉だといえます。

そして何よりも、心配や不安は「どうしたらいいか分からない」という
具体的な対策がないことで生まれる感情ですから、
具体的な説明をすることで収まりやすい効果もあるんです。

どうしたらいいか分からなくて不安なところに、
「今は、どうして心配の必要がないかを理解しましょう」
と、具体的な行動指針を示していることにもなります。

より心配を減らすのであれば、心配がいらない理由を説明した後で
「その心配は、こういう理由ですから、こうすれば解消できます」
と対処法まで伝えることも可能です。

飛行機の非常事態のようなケースであれば
 「お客様、大丈夫です。
  今、○○の状態にありますが、●●なので心配には及びません。
  〜をして万が一に備えてください。」
といった説明になるでしょうか。

心配を生む状況を説明して、心配そのものから心配の種に注意を移す。
理由を説明して納得してもらうことで、心配の種を減らす。
具体的な対策を指示して、「何をしたらいいか分からない」状況を無くす。
それによって心配という感情を体から減らしていく、ということです。


心配している人に対しては、
 「安心してください」
よりも効果を期待できる流れがあるように感じられます。

心配している人の心の動きに沿うように言葉の展開を考えていけば、
もっと色々と有効な語りかけが出てくるんじゃないでしょうか。

安心・安全はキーワードのように耳にする言葉になってきた感じがありますが、
本来はそれほど強調される性質のものではないような気がします。

だからこそ「安心してください」がお笑いのフレーズになるんでしょう。

言葉として強調することなく伝わってこその安心。
そういう観点で説明を考えてみるのも1つかもしれません。

cozyharada at 23:10|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2016年02月18日

安心してください

お笑い芸人の「とにかく明るい安村」には決めゼリフがありますね。

海水パンツを体の角度で隠して見えなくしてポーズ、
それから元の正面の姿勢に戻っての一言です。
「安心してください、履いてますよ」、と。

お笑いの解説はするものではないかもしれませんが、
コミュニケーションの理解のために題材として使わせてもらうと
この「安心してください」のフレーズは興味深いんです。

「安心してください」が笑いを引き出すために使えるのは、
 最初から誰も心配していない
からです。

一見すると全裸に見えるポーズだけれど
海水パンツが見えないように隠しているだけで
裸ではないことを誰もが知っています。

最初に履いている姿も見ているし、「全裸に見えるポーズ」という補足まで入る。
裸じゃないのに裸に見える角度を無理やり作っているから『お笑い』であって、
誰も「もしかして本当に全裸なのでは?」とは思っていない。

とてもバカバカしいことをしていて、それでも見事なアイデアのものもあれば
「さっきと同じパターンじゃないか」というのもあります。

このシーンを見ているときの心の動きは、見る人によって差が出やすいはずです。
「ははー、バカだなぁ」とか
「それ、いつもやるポーズじゃないか!」とか
「そんな姿勢はしないよ」とか
「ああ、あるある!」とか…。

見ている人にも個人差があるのと同様に、
個人の中でも複数の気持ちが同時に沸いていることもあるでしょう。

バカバカしくて、ありえなくて、でもチョットありそうな微妙なポーズで笑いを誘う。
普通の漫才やコントであれば、『ボケ』に当たる部分だと解釈できます。


ところが漫才やコントと違うのは、『ピン芸人』だということ。
ボケた後、『ツッコミ』は入りません。

人は学習するものです。
すぐに慣れる。
慣れて安心した流れを使い続けます。

お笑いを見れば「『ボケ』の後には『ツッコミ』が来る」となんとなく予想しています。
だからこそ『ボケとツッコミ』が存在しないピン芸人には工夫がいるのでしょう。
ボケ、ツッコミ、両方の要素を一人芸の中に組み込むためです。

どうやら『ツッコミ』の役割としては、
 ボケの不条理さを指摘する
という部分にありそうです。

おかしいことを「おかしい」と指摘する。
「どのようにおかしいのか?」を指摘する。

ある意味では「分かりやすくしている」とも言えるんじゃないでしょうか。

そこでフッと安心します。

普段の社会生活では起きない不条理なこと、つまりボケが示されて
人は一時的に軽い混乱に入ります。
予想を裏切られた状態で、驚きにも似たものです。

ここで予想外の度合いが大き過ぎれば、見ている側は「驚き」が強くなってしまう。
ありきたりの範囲であれば、予想がついてしまってシラけてしまう。

丁度いいレベルの予想外に遭遇したときの軽い混乱。
いわば異常事態ですから、体としては緊張に近いものになると考えられます。

そこでツッコミです。
「おかしさ」を指摘してくれることで状況が理解できる。
「これはこのように不条理なのだ」と事態が飲み込める。

それで「そうだよね」と安心できるんです。
いつもの状態に戻れる。
ここに緊張が緩む瞬間があります。

笑いは、この「緊張の緩和」の瞬間に起きていると考えられています。


ピン芸人だと、
 不条理なことを起こして軽く混乱させ(ボケ)
 それを分かりやすく指摘することで当たり前の状態に戻す(ツッコミ)
という流れを一人でやる必要があります。

よく見受けられるのは
 不条理でありながら、それが理解できる程度に分かりやすくする
パターンでしょう。

ツッコミが言葉で分からせてくれなくても、
見ている人が自分で理解して、混乱から回復できるような形で見せる。

分かりやす過ぎれば予想がついてしまうし、
予想を大きく上回ってしまうと混乱が続いてしまいます。

このバランスのとり方にピン芸人の技量があるのかもしれません。

落語は一人で複数の役をこなしてボケとツッコミの両方を登場させたりもしますし
理解できる程度の「予想外」レベルを絶妙に狙う傾向がありそうです。

陣内智則は画面効果や特殊な状況設定で不条理さを引き起こし
自分が『ツッコミ』として納得のサポートをしているようです。

バカリズムは絵や場面設定を工夫することで視覚的に分かりやすくして
不条理な驚きの大きさと、分かりやすさとを両立させていると考えられます。

多くのピン芸人が「いつものパターンで落とす」という手法を使うのも
不条理さを大きくしながら、「いつも通り」の安心感に戻せるからでしょう。

『ボケ』と『ツッコミ』という混乱させる役割と安心させる役割の分担を使わずに、
「不条理による混乱」と「何が起きたかの納得」に落差をつける。
ここの調整を一人でやるのですから大変なものだと思われます。


そして冒頭に取り上げた とにかく明るい安村 も
「いつものパターン」に戻すことで緊張を緩めていると解釈できそうです。

海水パンツ一丁で、音楽に合わせたタイミングで、全裸に見えるポーズをする。
そして「安心してください、履いてますよ」の決めゼリフ。
この一連の流れに「いつものパターンの安心感」が生まれます。

全裸ポーズそのものには、
 バカバカしいほど分かりやすい、
 ありそうなシーンが誇張されている、
 ありえないほど不自然になっている、
 工夫できるポーズに限界があるからこそ、お決まりのポーズに落ち着く…
といった様々なパターンが登場しますから、
ツッコミの説明なしで納得するには見る側の努力も必要になってしまいます。

ときには混乱が解消されずに続いてしまったり、
逆に混乱が小さかったりするケースもあるでしょう。

このあたりのポーズのバリエーションも、流れのランダムさとして
予想外の混乱を生むのに使われていると考えられます。

だからこそ安心できる状態にリセットするための
「いつものパターンが」効果を発揮するのでしょう。

それが「安心してください、履いてますよ」にある、と。


冒頭にも指摘したように、「海水パンツを履いていないんじゃないか?」とは
誰も心配していないはずです。

見ている人は、いつもの流れに戻ることで
混乱からの回復(緊張の緩和)を体験できます。

そのうえ「心配してないよ!」という心の中のツッコミを聞けます。

この部分、ある意味では、とても分かりやすい流れだということです。

「全裸に見えて心配したかもしれないですけど、大丈夫ですよ」という意味で
不条理なセリフを聞かされて、それに対して
「そんなことないって!心配してないから」と
素直に訂正しながら、不条理さを理解して安心できます。

いつものパターンという安心感に加えて
分かりやすいボケに対する安心感もある。
その意味で、混乱を解消してリセットする効果が非常に高そうです。

しかも、コミュニケーションの観点からすると
「安心してください」という単語自体にも効果があると理解できます。

そもそもお笑いを見る側として、リラックスして安心したい前提があります。
着実に緊張の緩和を体験して、安心できる土台を保ちながら
混乱と納得を繰り返していきたい心の動きがあると考えられます。

ずっと混乱したままでも嫌だし、期待外れも嫌なんです。
安心して笑っていたい。

そういう気持ちが心のどこかに存在しているはずです。

「安心してください」のフレーズは、その部分に響きます。

話の文脈とは違いますが、催眠でちりばめの暗示が効果的なのと同様に
短い言葉単体で、心のある部分とマッチすることがあるんです。

混乱と安心が共存する笑いのプロセスにおいては
 「安心してください」は見ている人の心の一部にペーシングしている
ともいえるわけです。

流行るのも納得のフレーズなのかもしれません。



と、ここまで色々と説明してきましたが、別に
お笑いの解説をしたかったのではありません。

「安心してください」のフレーズは、お笑いだからこそマッチしている
という部分を強調したかったんです。

このセリフが他の場面で使われたらどうでしょうか?

例えば、信頼を失いかけている政治家が
「安心してください、日本は大丈夫です」
と言ったとしたら、どんな反応が心の中に沸くでしょう?

「安心してください」が非日常的な「お笑い」の場面で見事に成立するのは
裏を返すと、日常のコミュニケーションでは空回りする可能性がある
ということに繋がるのかもしれません。

次はその辺を説明してみます。

2016年02月16日

その変更は改良と呼べるのか

安定と変化のバランスは、どのような場面でも求められるのかもしれません。

世の中が変わっていくのは自然なことですから
ずっと同じでいては対応しきれない部分も出てきますし、
時間とともに自分の身体が変わり、経験も積み重なっていきます。

だからこそ適応するために変化は必要ですし、
より上手く状況に適応するために成長したいもの自然なことでしょう。


そうして少なからず変化が求められる反面、
今のままでいるほうが安定していて楽だという気持ちも沸いてくるようです。

「より良くしていきたい。
 でも無謀なことはしたくない。」
そのあたりの気持ちのバランスの中で
人は少しずつ変わっていくように思えます。


しかしながら、このバランスは必ずしも均等ではありません。
偏りに個人差があります。

「より良くしていきたい」、「成長したい」という気持ちが強い人は
常日頃から工夫をして、積極的に変化を取り入れようとします。

「もっと良いものを!」
「どうしたらもっと良くなるだろうか?」
そんな想いから工夫を続けるようです。

何度かブログで書いていますが、僕がよく行くラーメン屋の店長も
積極的に変化を取り入れる傾向が強そうなんです。

時々、レギュラーメニューとは違ったものを作り
いつも様々な工夫で楽しませてくれるのは、その傾向の表れでしょう。

実際、ラーメンという種類の食べ物を好きではない僕が
「店長の作った料理を食べる」という目的で足を運び続けているのも、
そもそもの開業前に多くの試行錯誤を繰り返したであろう
レギュラーメニューの完成度の高さにあると思います。


そしてこの店長、今でもちょっとずつ
レギュラーのラーメンに手を加え続けているみたいです。

最初の頃は、味の成分の粒が際立ちながらも全体のバランスが取れた感じで
それが徐々にまとまって一体感のある仕上がりに変わってきていました。

初期のほうが、荒削りながらスケールの大きさと全体感が調和していて、
最近は、洗練されて、まとまりが出てきた一方、こじんまりとしてきていた。

土台の構成は同じですし、同じラーメンだと認識できる美味しい範囲で
工夫の形跡が見て取れていたわけです。

で、特に最近は、この微調整による「改良」の意欲が高まっている様子なんです。

二回前は絶妙なバランスでした。
洗練されたまとまりを維持したまま、主張がグッと強まった感じ。

ところが前回は、オヤッ?と。
チョットやり過ぎちゃったんでしょう。
生のショウガが立ち過ぎていて、僕は少し驚きました。

しばらく前のときには下準備しかしていなかったアルバイト店員が
その日は調理に関わっていたので、
 「ひょっとして不慣れな手違いじゃないか?」
と心配した僕は食べ終わったあとに、勇気を出して聞いてみたんです。

どうやら手違いではないらしく
「今日は意図的にショウガを効かせてみた」とのことでした。

日々の色々な工夫をしている中で、
たまたまその日は、そんな内容だったようです。

もちろん、それでも充分に美味しかったですし
他の人がどう感じていたのかも知りません。

ただ僕の記憶では、ここまで大袈裟な際立たせ方は初めてだったんです。
全体が調和してきているからこそ、生ショウガだけが突出してしまった様子。

もしかしたら思い切って幅を広げようとしているのかもしれません。

ちょうど僕が感じていた
 洗練されているからこその小さくまとまる仕上がり
を打破するために、
大きく何かを動かそうという工夫だったのかもしれない、と。

もしそうだとしたら、僕としては今後に期待が広がります。
壁を打ち破り、次の飛躍をするためには
そのようにジタバタともがくタイミングも重要でしょうから。


その一方で、僕には少しだけ心配なこともあります。

いや、厳密には自分にも反省するところがある、というところでしょうか。

「より良くしたい」、「常に最善のものを提供していきたい」という想いは
日々の実践の中に工夫の痕跡を残します。

実践で効果を確認したい部分がある。
新しいことにトライするわけです。
そして上手くいったかどうかをチェックする。

毎回うまくいけば問題はありません。
どんどん良くなる一方です。

しかし時には工夫が空回りすることもあります。

反省をして、さらに工夫が重ねられる。
それは当然のことなんだと思います。

当然だし、より良くするには避けられないものかもしれません。
が、じゃあ、その「空回り」の一回に当たってしまった相手はどうなんだ?と。

提供者側は、何度も繰り返される日々の中の一日です。
何百の一、何千分の一かもしれない。

ところがサービスを受ける側(お客さん)は、それが唯一のチャンスにもなり得ます。
一分の一かもしれないんです。
その日しかないかもしれない。

たまたまやって来た、そのたった一回が
偶然にも工夫が空回りした日だったら…。

二度と来てもらえないのは自分の責任ですが、
それでガッカリして帰っていったとしたら残念です。

常により良いものを目指すために工夫を続けるのが重要な一方、
変化を求め過ぎて「ハズレ」の日を作らない安定感も重要だろうと感じます。


もちろん、僕が食べた今までにない思い切った工夫のラーメンも
充分に美味しくて「ハズレ」とは程遠い確実なクオリティの範疇だったと思います。

だからといって、たまたまその日に初めて遠くから食べに来て
「あれ?こんなにショウガがトゲトゲしたのは好きじゃないかも…」
と感じた人がいなかった保証はありません。

より良いセミナーをやろうとして工夫したことが
「うーん、こんな感じかぁ…」と嫌がられたこともあったかもしれません。

ましてや「まあ、とりあえず試しでやってみて、反応を見て考えよう」
なんていうスタンスは取りたくありません。

誰にでも満足してもらえる工夫をできるわけではないのですから、
精一杯の意気込みとして、工夫の範囲は
 自分が自信をもって提供できるクオリティになっているか?
を指標にするしかないのでしょう。

トライアル・アンド・エラーの「エラー」は自分だけの内側で留めたい。

「工夫の犠牲になる人がいる可能性」を忘れずに
ベストを更新していきたいものだと感じます。

2016年02月14日

押しのける人

夜9時過ぎだったでしょうか。

電車に乗っていました。
山手線、新宿駅だったかと思います。

ラッシュではないものの、平日ですからそれなりに混んでいて
隣の人と触らないけれども多くの人が立っているような状況でした。

僕は比較的運のいいことに、ドアのすぐ脇、イスの端のあたりに位置取れて
ドアに対して横を向くように(横並びのイスに寄りかかる形で)立っていたんです。

ちょうどドアを通る人の流れが見えるような向きです。


僕の前方には白杖を持った男性が立っていました。

車両としては真ん中ぐらいでしょうか。
ドアの真正面の中央ぐらいにいたんです。
出入りが確実な場所でしょうから、自然なことだと思います。

白杖を持っているといっても、電車の中では体に抱える形になります。

僕の角度からは杖が見えていましたし、
顔や目の様子からも視覚障害の方だというのは伺えました。

が、その人の後ろ側にいた人からは、その杖が見えなかったようです。

そもそもそれほど他人に気を配っている人も多くありません。
いったい何人がその人に気づいていたことか。


そして電車は新宿駅に到着しました。

ラッシュは過ぎているとはいえ、乗り降りの多いタイミングです。
ホームに入る電車の窓からも、乗車待ちの人の列が見えました。

車内アナウンスの反応からして、その人も新宿で降りそうな様子でした。

ふだん僕は電車が止まったことを目で見て確認していますし、
ドアが開く前から降りる準備をしています。
そしてドアが開くや否や一歩を踏み出せる準備をしています。

きっと多くの人がそうでしょう。
僕よりももっとセッカチな人は、まだドアが開いてもいないのに
前の人を押すように体重移動を始めたりもします。

ところが視力に障害がある人にとっては
電車を降りるための一歩を出すタイミングも簡単ではないのかもしれません。

電車が止まったことを揺れで確認する。
ドアが開く音を聞く。
車内アナウンスを聞く。
他の人の流れを感じとる。

さまざまな要因を総合的に判断して、まず確実に
 「ドアが開いている」
と思えたときに歩きはじめるのでしょう。

実際、その男性も歩き始めるのが遅かったんです、
他の人と比べて。

電車のドアが開いて、人の流れが起き始めて
ワンテンポ遅れて一歩目を踏み出す感じ。

1、2秒も違わなかったと思います。


ですが、早く電車を乗り降りするのに慣れている他の人たちは違います。
そもそも気分もセカセカしているし、一瞬でも早く降りようと気が立っている。

ちょうどその男性の後ろ側にいたオジサンも
何かの理由でイライラしていたのでしょうか。

ドアが開いたらすぐに歩きだそうとしました。

その前には目の不自由な男性がタイミングを計っています。

後ろにいたオジサンからすると遅かったんでしょう。
目の前で立ちすくむ男性に視覚障害があるとは気づいてもいない。

その人は舌打ちをしながら、白杖を持った男性を押しのけるようにして
電車から降りていきました。

その様子はまるで
 非常識で迷惑なヤツをこらしめる正義感と
 自分に害を及ぼすヤツを排除しようとする不満と
両方が混ざりあったような感じでした。

表情からも、歩き方からも、押しのける際のぶつかり方からも
抑えきれない怒りがはみ出ているかのよう。

そしてドスドスと足を踏み荒らしながらホームへ降りると
自分が押しのけた男性を睨みつけるようにして振り返りました。

あたかも「何やってんだ、コイツ!邪魔なんだよ!」とでも言わんばかりに
ガッと勢いよく、不良少年がガンを飛ばす雰囲気で後ろに振り向いたんです。

すると電車の中では、自分が押しのけた男性が
ゆっくりとした足取りで歩き始めようとしていたところでした。

脇には白い杖が抱えられています。
足取りからも顔からも、すぐに目が不自由なことが分かったのでしょう。

一瞬でした。


睨みつけて怒りを表そうとしていたオジサンは
パッと表情を変えました。

「あ!やっちゃった!」という感じ。

さっきまでの苛立ちはどこへやら、みるみる姿勢は縮こまり
表情にも申し訳なさが溢れてきました。

もともとは睨みつけて、そのままホームの階段に進もうとしていたのに
足が地面にくっついてしまったかのように体が固まっていました。

そして口元をアワアワさせながら、何かを言いたそうな様子でした。

ちょうど電車を降りようとする男性に謝りたかったんだと思われます。

声をかけようと身を乗り出し、でも躊躇して留まる。
今にも「あの…」と言いそうな口の形で
近づこうと体重を前にかけ、すぐにやめて元に戻る…、
そんな動きを繰り返したあと
結局、そのオジサンは声をかけるのをやめて階段へと歩いて行きました。

気まずそうな背中で、早くその場を立ち去りたいかのような早足で。


押しのけて電車を降り、睨もうとして振り返り、状況を把握して急に反省。

きっとこのオジサンも、最初から白杖に気づいていたら
違った対応をしていたと思います。

不満に身を任せて厳しく押しのけることもなかったでしょう。
焦らずに待ったかもしれないし、
横を静かに通り抜けようとしたかもしれません。

もしかしたら逆に、親切心から声をかけていた可能性だって否定できません。

状況の捉え方によって、心の前面に表れるものが違うんです。

押しのけるほうが本心なのでもなく、
謝ろうとするほうが本心だというのでもない。
どちらも共存している。

自分の身に置き換えれば、どちらを前面に出すかも重要でしょう。

他人を見るときにも、その人のどの側面を見るかが関わるともいえます。

僕は幸い、その出来事の一部始終を見ていました。
しかし中には、押しのけたところだけしか見なかった人もいたかもしれません。

同じく電車の中にいて白杖に気づいていない目撃者だったとしたら
ただ単に「人を押しのけて出て行ったオジサン」ぐらいに感じる。

ホームで電車を待っていた人なら白杖にも気づいていて
「視覚障害のある人を押しのけて電車から降りてきたオジサン」
というように”ヒドイ人”として判断していたところかもしれない。

あるいはホームを歩いていて途中から目撃し始めた人ならば、
「目の不自由な人に声をかけようとするオジサン」と映った可能性もある。

僕のように一部始終を見ていたら
「一時のイライラに任せて行動したら反省してしまった
 ちょっと気の毒で、可愛げのあるオジサン」
ぐらいにも感じられそうです。

他人のどの部分を見るかが、自分の判断に影響する。

とても意味深いところじゃないでしょうか。

自分に見えたものだけが、その人の全てではない。
当たり前のことですが、見ていないものを汲み取るのは簡単ではありません。

だからこそ判断には気をつけたいものだと思います。

2016年02月11日

呼吸というプロセスを感じる

催眠、瞑想、ヨガ、座禅、気功…など、さまざまな方法の中で
『呼吸』が大事にされます。

決められた呼吸法があったり、呼吸に意識を向けたり、呼吸を数えたり。

いずれにしても、呼吸に意識が向くことは共通するはずです。

特に催眠や瞑想、座禅などの場合、呼吸を意識することで
「心を無にして」、思考から離れようとする場合があるようです。

確かに、普段はあまり意識していない呼吸を意識に上げることで
普段の意識状態とは違った状態、つまりトランス状態になりますから、
思考中心の普段の意識から離れる目的において
「呼吸を意識する」という方法は効果的だと考えられます。


ただし一口に「呼吸を意識する」といっても
実際には「どのように意識するか」に違いがあるんです。

1つは「呼吸していることを意識する」やり方。
もう1つは「呼吸活動を意識に上げる」やり方。

「呼吸を意識する」といったときは前者が多いように見受けられます。


「呼吸を意識してください」と言われたとき、一般的にやりがちなのは
 自分が息を吸ったり吐いたりしていることを意識する
とか
 決められた長さや回数で、息を吸ったり吐いたりする
という方法でしょう。

このように呼吸の長さを数えたり、呼吸の回数を数えたりすると
意識の状態としては、『呼吸』という現象を客観的に観察するモードになります。

さらには呼吸の仕方をコントロールしようとしたりすれば
呼吸を制御する機能に意識が向いて、呼吸はコントロールの対象という
さらに客観的で、切り離された状態になります。

日常生活で自分の行動を意図的にコントロールしようとしたり
体の外の出来事を客観的に分析したりする状態と近いんです。

もちろん普段とは違う意識状態だとはいえますし、
言語的な思考ではなく、シンプルに観測するだけの状態には近づけますが、
「心を無にして呼吸だけを意識する」ことを目指すにしては
かなり積極的、意図的に意識を”使っている”状態だということです。


しかも呼吸を数えたり、呼吸の長さを意識したりする場合、
呼吸の活動として注意が向く場所も限られてきます。

多くの人は、鼻や口を空気が通るときの感じや、呼吸音、
胸やお腹が膨らんだり、しぼんだりするのを意識するようです。

単純に「呼吸を意識してください」と言われたときの意識の仕方は
 その人が普段、呼吸をどのように感じとっているか
の影響を受けやすいからでしょう。

普段から腹式呼吸の傾向がある人は
『呼吸』と言われたときにお腹にも注意が向くでしょうが、
胸や肩を大きく動かして呼吸する傾向の人は、そちらに注意が向きそうです。

走って息切れしているときには、喉や気管を通る息の感覚も自覚しますから
普段からランニングをしている人は、そのあたりも意識するかもしれません。

一方、日頃から自分の呼吸も気にせずに話すことへ一生懸命な人であれば
「吸って、吐いて…」ぐらいの認識だけになる可能性もあります。

いずれにしても呼吸を意識するときには
馴染みのある呼吸の感じ方が土台になるという話です。

そしてこの馴染みのある呼吸の認識が、頭に近い部位で起きやすいんです。

鼻や口、呼吸音などは頭で意識されます。
気管や胸、肩でも、まあ頭に近い場所です。

多くの人にとって思考をベースにした意識活動は
その意識の中心を頭に置きやすいものです。

考えるときの内部対話は頭の中や、頭の周りの空間で聞こえますし、
イメージを思い浮かべるとしても、顔の周りの空間が使われます。
独り言をつぶやくようにして考えごとをするときも、口や喉に注意が向きます。

呼吸を意識したときに注意が向くところが頭に近いと、
身体への注意の向け方というレベルでも
普段の意識状態に近いものになってしまうわけです。

すると呼吸に意識を向けていたはずが、ふとしたときに
別の何かの考えに移ってしまいやすかったり。

身体意識として起こる場所が近くにあると
両方が意識に上がりやすくなって、その間を意識が移ろいやすいんです。

例えば、呼吸の数を内部対話として意識していたら、
沸いてくる別の内部対話(つまり雑念)に意識が移りやすい、と。

一般的な傾向としては呼吸を頭に近い場所で意識しやすいため
単純に「呼吸を意識してください」と指示された場合には
普段の思考を中心とした意識の仕方に戻りやすいということです。


つまり、とりたてて工夫せずに「呼吸を意識する」ことをしようとすると
 ・『呼吸』という現象に対して客観的になりやすい
 ・呼吸に注意が向く体の部位が頭に近い
という2つのポイントから、
意識が普段の状態に戻りやすく、思考から離れるのが難しい。

ただ呼吸を意識すると言われると
頭の近くで「呼吸していることを意識する」やり方になって、
目指すものに辿りつくのが簡単ではないんです。

仮に頭から離れた部位を狙って、腹式呼吸を心がけたとしても
「お腹がふくらんだ…、へこんだ…」と客観的に出来事を認識してしまえば、
これもまた「呼吸していることを意識する」状態になってしまいます。

抽象度の高い概念として呼吸を認識するから
「吸う、吐く」、「お腹がふくらむ、へこむ」といった簡略化された情報が意識され
言語的に意識しやすくなるともいえます。

実際に「息を吸う」という活動が起きるためには、
身体のレベルでは物凄く複雑なプロセスが進行しています。
さまざまな筋肉の動きがあるんです。

筋肉が動けば、それを意識に上げることが可能です。

単純化された「吸う、吐く」、「ふくらむ、へこむ」ではなく、
感覚体験として「どの場所に、どのように力が入り、どう動くか?」と
細分化して意識に上げるようにする。

そうすると一回息を吸うだけで、それはもう膨大な感覚体験が意識されます。
とても言語化できるレベルではありません。

結果として客観的な分析の活動は意識に上がりにくくなり、
呼吸という活動を生み出す身体の働きを感覚的に意識できるようになります。

普段の意識状態とは大きく違っていますし、
分析的で客観的な思考中心の意識からも離れやすくなる。

これが「呼吸活動を意識に上げる」やり方です。


実際、呼吸の可能にしている全身の筋肉の動きに注目すると
その範囲は非常に幅広いものです。

肋骨の間が広がる感じ、背中側に回るような広がり、
腰や骨盤、肩や肘、首の付け根、腿のあたりでも
呼吸にともった運動が感じられるはずです。

息を吸ったり吐いたりするのは結果なんです。
それを生み出す元となる全身の筋肉の運動に注目する。
そしてその感覚体験を意識に上げる。

広がった部位を一度に意識しますから
思考活動に意識が集中してしまうことも減ります。

全身に広がった呼吸の意識は、頭から離れた場所にありますから
普段のような頭に中心を置いた意識でもなくなります。

呼吸活動のプロセスの全てを細分化して同時に意識する方法ともいえます。


呼吸を意識することで何を意図しているのかにもよるのでしょうが、
「心を無にして」思考から離れることを目的とするのであれば
『呼吸活動を意識に上げる』やり方のほうが効果的ではないかと感じます。

呼吸していることを意識しているのか、
呼吸活動を意識に上げているのか?

この違いは相当に大きいものではないでしょうか。

cozyharada at 23:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!心理学 | NLP

2016年02月09日

エッセンスと不純物

続きの内容、3回目です。

効率化するために中身を凝縮して取り出すプロセスは
物を作るだけでなく、学習においても含まれていて
大きく分けると
 ・本質的(重要)な成分だけを分析して抜き出す 【エッセンス】
 ・微細な成分まで含めて全てを抽出する 【エキス】
と2つがある。

学習においては達人のやり方を分析して
そのエッセンスを抜き出す『モデリング』という方法がよく使われて、これは
 ・個人がコツを掴んで自分の上達に役立てる
 ・使いやすくて便利な手法を作り、学習しやすいものとして他人に広める
うえで効果的。

これが前回までの概要です。


モデルとなる達人のやり方を誰かが分析して、エッセンスとして抜き出したものは
部分的なもので達人そのものを再現しているわけではない、というのが注意点。

分析者が気づけないものはエッセンスの中に含まれてこないんです。

注目した部分のみを断片的に切り出すからこそ効率化される反面、
本当に大事な部分が捨てられてしまう可能性も否定できない。

例えば、カール・ロジャースのパーソン・センタード・アプローチなどは
その技法的な側面としての傾聴が方法論として抜き出された結果、
無条件の肯定的配慮や共感的理解といった部分が
薄まってしまっているような印象を受けます。

概念として言葉の上では「無条件の肯定的配慮」とか「共感的理解」などが
それなりに分かりやすそうな言葉で説明されているので
学習者が自分なりの認識で分かったつもりになれてしまいます。

一方、ロジャースが要求している水準は高すぎて、なかなか辿りつけない。

もしロジャース自身が生徒のカウンセリングをスーパーバイズしていて
「それはまだ無条件ではありません。
 今、自分が何をしたらいいかと考えましたね?
 考えをした段階で、相手に対して無条件に関心を向けているとはいえません。
 自分の内側に関心が移ったからです。
 もっと相手を感じようとしてください。
 …
 …そう、それが無条件の肯定的配慮ということです。
 無条件という意味が分かりましたか?」
などとやってくれれば、
その生徒は本当に大事なものを掴めたかもしれません。

このレベルの学習は、学習者自身が知らなくて
気づくための基準さえ持たないことに取り組んでいるので、
学習者自身がロジャースを分析してエッセンスを取りだそうとしても
一向に見つかることのないものを身につける段階です。

それには分かっている本人が、生徒に直接指導するのが効果的でしょう。
もし指導することができるのであれば。

ロジャースがどうだったのかを僕は知りませんが、もしかすると直系では
分かっている人が生徒を指導して、分かった生徒が次の先生になり…
といった直接的な伝授を繰り返していたのかもしれません。

ただ、それではあまりにも広がらない。
文字に記録することも難しいし、伝わるまでにも時間がかかるでしょう。

もっと効率的に身につけたいと考え始める人がいても自然だと思います。
ロジャースのエッセンスを分析したり、あるいはロジャースの教えのうち
分かりやすいところだけを断片的に「初級の技術」として広めたり。

ロジャースは無条件の肯定的配慮を
「必要3条件」の1つとしていたんです。

「必要」ということは、「できていなくてはいけない」ということです。
部分的にできるようになったとしても、それでは必要条件を満たしていません。

初級だけとか、ロジャースの技法をたくさん見につけたとか、
そういうレベルの差は「必要条件」にとっては無関係なんです。

「満たしているか、満たしていないか」。

ロジャースのいう『無条件の肯定的配慮』とは何かを理解していて
それをできるようになっていたら「必要条件を満たしている」ことになって、
 「まだ分かっていない」
と判断されたのなら、それは基準に達していないということです。

一度「分かる」状態になったら
「できているかどうか」も本人が判断できますから、
無条件の肯定的配慮を「分かった」かどうかがポイントだといえます。

ここには「分かっているか、分かっていないか」のどちらかしかない、と。

どれだけの技法をロジャースのエッセンスとして学習しても、
必要条件としての無条件の肯定的配慮を分かっていなければ
それはロジャースの言っていたアプローチとは別物だということになります。

繰り返しになりますが、もちろんエッセンスとして抜き出された技法そのものは
何かしらの形でコミュニケーションで役立つものでしょう。

技法を学ぶのは役立ちますし、それを広めるのも有意義だと思います。

ただ
 ロジャースの主張していたアプローチになっているか?
 ロジャースが考えていた援助の核心に辿りついているか?
という観点からすると、
エッセンスとして部分的に抜き出された技法とは関連が薄いんです。

エッセンス的な技法を中心に学習していくスタイルでは
ロジャースの主張していた核心に辿りつくのは難しいんじゃないでしょうか。

だからこそ、エッセンス的な学習ではない別の学習スタイルが求められるわけです。


そこでよく使われるのが、1つの修行の型です。
技法の型ではありません。

目標とするところに到達するための要素を濃縮したトレーニング。
指示通りに丁寧に、ひたすら根気強く続けていると
いつか「できた」と分かる瞬間がやってくるとされます。

座禅とか瞑想とかには、この種類のものがあるようです。

語学でいうと、名演説を丸暗記してコピーする方法が当てはまりそうです。

ポイントは作業を広げないことといえます。
決まったことを繰り返して、徹底的にその作業の習熟度を上げていくんです。

例えば、英語のスピーチを学習の初期段階で覚えるとしたら
かなりハードルの高い行為だといえます。

それでも少しずつでいいから丸暗記をしていく。
そして暗唱できるようにする。

ただの暗記ではなく、リズムとは発音とかも含めてコピーする方法です。

英語の力がつくほど覚えやすくもなりますし、
覚えたものに意味を感じやすくなって、気持ちも込められるようになります。

表現のバリエーションは増えないかもしれないけれど、
英語の核になる部分を先に作ってしまおうという方針のようです。

もちろん、語学であれば並行して会話の練習をしたり
英文を読んだりもするでしょう。
そのときに暗唱できるレベルにした中核があると
なんとなくの「英語感覚」のようなものが作られているので
吸収が早くなるとされています。

僕自身はそれほど丸覚えをしたことはありませんが、
何度も繰り返しシャドーイングした教材は
表現の幅を広げていく際の中心になっていた気はします。

中核はパターン認識から作られていくものです。

やみくもに広げた実例からパターン認識をしようとすると
共通するパターンを見つけるのに時間がかかるわけです。
数が多いとランダムに見えて、共通点が見えにくい、と。

だからパターン認識がスムーズになされるように
共通点が見つかりやすい程度の数に留めたほうが効率がいい。

しかも1つ1つの事例(語学の場合は文章)にも理解度がありますから、
サラッと流してしまいかねないほど数が多いのも困りものです。

そして理解度を高めて学習の効果を上げるには
1つの事例から得られる情報量も多いほうが良い。
簡単なものの繰り返しだったら身につくパターンが少なくなってしまいます。

名演説を丸覚えするというトレーニングは、その意味で
限られた文章量でありながら高度な表現と分かりやすさを両立させているため
多くのパターンを抽出できると期待されます。

簡単な文章をたくさん覚えても得られるパターンのバリエーションは小さいし、
難しい文章をたくさん読み流しても理解度が下がってパターンが見つかってこない。

適度な高度さが限られた量に凝縮されているのが名演説だということです。

この「高度で、多くのパターンが含まれ、かつ量が多すぎない」特徴が
まさに濃縮された教材になっているわけです。

部分的な要素だけを取りだすエッセンスとは違って
その濃縮されたものを丸々吸収するスタイルが、
エキスのタイプの学習だといえます。

カウンセリングのトレーニングをするときに最初の2分を徹底的にやるのも
そこに大事な要素が濃縮されているからです。

カウンセリングのエキスが最初の2分にある。
1時間のカウンセリングセッションの数をこなして経験を積むよりも
しっかりと吟味しながら最初の2分を徹底的に練習するほうが
早く多くのものを吸収できますし、大事なことに気づきやすいんです。


エキスともいえる濃縮されたトレーニングの型を続けていくと
地道ですが自然と到達できるところがあります。

逆にいうと、狙ったところまで自然と到達できるように
工夫されたトレーニングの型を作れるかが肝になるんでしょう。

もちろん、トレーニングのサポート役として
そのトレーニングに必要なやり方で取り組んでいるか
(効果が薄まってしまうような取り組み方になっていないか)
をチェックする人がいるのも重要です。

また狙ったところに到達したときの状態が
指標として言葉で説明されているのも参考になるようです。

いずれにしても、目標とされるところに到達しようとする場合
学習者が認識できないレベルの内容も漏らしてしまうことがないように、
大事なものが全て詰まったエキスのようなトレーニングを
ひたすら地道に続けるというのが効果的だと考えられます。

分かっていないことが分かるようになるためのトレーニングですから
実感は得られにくいかもしれませんし
変わり映えもなくて退屈にも感じられるかもしれません。

かといって「いつになったら分かるときが来るんだ?」と焦れば
トレーニングを続けるのも苦しくなりそうです。

トレーニングそのものの習熟度を上げることに目安を置いて続けるか、
副次的に上がっていく技術に目を向けてトレーニングし続けるか。
そのあたりが地道に続けるコツでしょうか。


まとめると、
エキスとエッセンス、凝縮して学習を効率化する2通りの方向性があって
それぞれに違った効果が期待されるわけです。

エキスを学習するのは、分かっていないことを分かるようにするため。
エッセンスを学習するのは、分かっている技術を早く上達させるため。

そのあたりのトレーニングの趣旨を意識すると
自分が何に取り組むほうが良いのかも見えてくるような気がします。

cozyharada at 23:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2016年02月06日

エッセンスと不純物

前回のつづきです。

そのものの性質を再現しようとしたり、効率的に表現しようとしたりする場合
それと丸々同じものをするよりも、凝縮してしまったほうが都合が良いものです。

この凝縮の仕方が、大きく分けると2通りあるという話。

1つは本質だけを選び出して、無駄を不純物として排除するやり方。
バニラビーンズの香りを再現するのにバニリンという主要成分を見つけ
それをバニラエッセンスとして使うなどのケースです。

こちらは『エッセンス』と呼ぶのが良さそうです。

もう1つは、そのものの全てを不純物も含めて濃縮するやり方。
ただ濃くして、量だけをコンパクトにする。
バニラの香り成分を(ほぼ)全てアルコールに溶け出させ
濃厚なバニラの香りの液体、バニラ・エキストラクトを作るような場合です。

こちらはエキストラクトを省略して『エキス』と呼ぶのが都合が良いでしょう。

濃縮の仕方には、エッセンスとエキスがある、と。


で、技術や知識などの学習を効率的にするためにも
エッセンス的な方法と、エキス的な方法があるわけです。

前回はそんな話(呼び名を付け加えました)。


NLP(神経言語プログラミング)の発端は、心理療法家の研究でした。
達人と呼ばれた人たちが何をやっていたのか?
それを抽出しようというのが出発点だったんです。

その対象には催眠療法家ミルトン・エリクソンも含まれていました。

エリクソンにも沢山の弟子がいました。
しかしエリクソン自身では、分かりやすい方法論は指導していません。

もちろん大事な教えは沢山残していますし、本人も論文を書いたりしています。
が、エリクソンの方法論を書き遺しているのは、ほぼ全て他人です。

弟子やエリクソンに興味をもった研究者たちが
エリクソンのやり方を研究、分析して、抽出したんです。

これはエッセンスです。
エキスではありません。

エリクソンはおそらく、自分自身の講座や、弟子への治療的介入によって
エリクソン・エキスを注入していたんじゃないでしょうか。

ところがエリクソンの「系譜」の人たちは
自分の目線でエリクソンのセラピーを抽出して方法論にしようとしたようです。

初期のNLPもまた、エリクソンのセラピーからエッセンスを抜き出そうとしました。
それがエリクソンの言語パターンとしてのミルトン・モデルや催眠の技法です。
資格取得コースでは詳しく扱わないようなものも含めると
NLP関係者が抽出したエリクソンの技法は本当にたくさんあります。

それらはエッセンスなんです。
”無駄”を省いている。

だからこそ早く身につくわけですし、
誰もがエリクソンに近いことをできるようになります。
「近い」ことが。

それは偉大なセラピストのしていたことの一端でしかありません。
他を省いているからです。

複雑なバラの香りのうち、1成分だけを分析して
それを「バラの香り成分」として伝えているようなものです。

確かにバラに含まれている香り成分ですし
部分的に抽出しても、バラの特徴の一部は感じとれるでしょう。

エリクソンの技術の凄さを物語るのは、むしろ
そうやって部分的に抽出した1成分のような技法であっても
それを採用するだけで充分に大きな効果を得られるところともいえます。

一方で、その成分は一部であって
 エリクソンの使っていた手法の1つを学びやすく整理したものだ
ということを見逃すことはできません。

エリクソンのエッセンスの1つであって、
エリクソン全体のエキスではないんです。

様々な先達が分析したエリクソン成分は
それぞれが名前をもった技法として発表されています。

言うまでもなく、その技法を一通り勉強して身につけたからといっても
エリクソンと同じことができるようにはならないでしょう。

それはバラの香り成分を様々ブレンドして
元のバラの香りを作ろうとするようなものだからです。

配合のバランスも難しいし、
抜け落ちてしまう成分だってあるはずです。

もしかするとエリクソンが一番大事だと思っていたところを
誰一人として分析していないかもしれません。

ここがエッセンスを抜き出す種類の学び方の難しいところだと感じます。

つまり、
 他人が分析して成分を抜き出す以上、
 そこには分析者の基準が含まれてしまう
性質が避けられないということ。

本人が抜き出したエッセンスと、他人が分析して抜き出したエッセンスでは
ポイントの整理の仕方に差が出てしまう可能性が高いわけです。

そして分析者が辿りついていない視点で本人がやっていることがあったら
その部分に分析者が気づくことはないでしょう。
知らないし、思いもよらないところなのですから。

とりわけミルトン・エリクソンは常人離れしたことをやっていて、
エリクソンを分析、研究した人たちは、大部分が生徒にあたります。

師であるエリクソンのしていることを、どれだけ理解できていたのでしょうか。
気づくことができず省いていしまった成分に
実にエリクソンらしい部分があった可能性も考えられるのではないでしょうか。


このように、ある人のしていることを他者が分析して
その重要な要素・成分を抜き出し、整理することを
NLPでは『モデリング』と呼びます。

達人のようになれるように真似をして
そのコツ、つまりエッセンスを抽出するわけです。

繰り返しになりますが、その抽出過程には他人の分析が含まれます。
モデリングをする人が、モデルとなる人を分析して
モデリングする人自身の判断基準でポイントを掴むんです。

そのポイントが、モデル(真似される側)にとって重要かどうかは無関係です。

そして、それで構わないんです。

コツをつかみ、上達することが目的なのであって
モデルと同じになることが目的ではないからです。

役に立つエッセンスを抽出できれば充分。

モデリングの結果、あるエッセンスを抽出して上達して、
それでもまだモデルとの間にパフォーマンスの差があるなら
もっと抽出できるところがあるはずだ、と考えれば良いんです。

もう一度モデリングする。
そしてまた新たなエッセンスを1つ抽出する。
それをもとに上達する。
…また違ったエッセンスをモデリングする…。

達人をモデリングするときには
そうやって何度もモデリングをしたらいいんです。

実際、NLPはミルトン・エリクソンを繰り返しモデリングしたようです。
初期にまとめた言語パターンだけでなく、
エリクソンを元にした技法は後々にも追加された形跡があります。

実際、創始者の一人、リチャード・バンドラーは
ある時期、シャーマニズムにハマっていました。
シャーマニズムセミナーなんかもしていたぐらいです。

もしかするとエリクソンの中に、そうした超人的な側面を見たのかもしれません。

モデリングする側の着眼点が変われば
抽出できる成分の種類が変わってくるという話です。


モデリングには、そのエッセンスを抽出する人の着眼点が含まれる。
この性質は避けられません。

モデリングをした人が、「これこそがエッセンスだ」と思ったから
そこがモデルの特徴として説明されるんです。

モデルとなる人を設定して、自分でモデリングをして
エッセンスを抽出し、自分が上達できるようにする。
この限りであれば安全です。

目的が「自分が上達する」ところにあるからです。

極論をいえば、
 モデルと似ても似つかなくたって上達したんだからOK
ということだってありえます。

あるいは目的を「すぐに使えて役立つ手法を作る」ところにあれば
自分がモデリングしたものを方法論として形にするのもいいでしょう。

NLPの技法でいえば、ミルトン・モデルという言語パターンは
ミルトン・エリクソンと同じように催眠療法を使えるようにするためのものではなく、
「催眠をするときや、他者へ影響を与えるときに効果的な言葉の使い方」
という使い勝手の良いものだといえます。

ディズニー・クリエイティブ・ストラテジーという技法だって
それだけでウォルト・ディズニーのようになれる『エキス』ではなく、
ウォルト・ディズニーの特徴の1つをエッセンスとしてワークに変えたものです。
使いやすくて効果的ですが、ウォルト・ディズニーになるのが狙いではありません。

抜き出したエッセンスがモデル本人をそれほど再現していないとしても
すぐに役立つ手法を作るという目的に沿っていれば
それもエッセンスの使い方としては有効でしょう。

NLP全体もそうやって多くの人を断片的にモデリングして
様々なエッセンスを抽出して作られました。

ですからNLPは、エリクソンをはじめとするモデルの誰とも似ていません。
その分、人間の誰しもを理解するための着眼点に辿りつけたともいえそうです。

喩えるなら、
 バラの香り成分だけにこだわってエッセンスを調べたのではなく
 様々な香り成分のエッセンスを研究していった結果、
 香料の一覧をストックすることができて、香りとは何かを理解しやすくなった
といった感じ。

エッセンスを抽出するやり方には、
成分を理解して、応用の範囲を広げるメリットがあります。

元のものを忠実に再現するのには、それほど向いていないかもしれません。

同様に、モデリングの目的は
・自分が上達するためのコツをモデルのエッセンスの1つから手に入れる
・誰にでも役立つ手法を作るために達人のエッセンスの1つを分析する
ところだと考えられます。

いずれにしてもモデリングした後に得られたエッセンスの部分は
モデル本人を反映しているから価値があるのではなく、
何かしらの形で役に立つから価値がある、ということです。


モデリングして得られたエッセンスは、もうモデルから離れているんです。

誰かが抽出したモデルのエッセンスをどれだけ学んでも
モデルのようになるのは難しい。
遠いんです。

エリクソンを研究して作られた技法は数多くあります。
それを学んで期待できるのは、エリクソンに近づくことではなく、
自分が上達したり理解を深めたりするほうにあるはずです。

すでに他の人が抽出したものを学ぶのは自分に役立てるため。
モデリングの性質からすると、そう割り切ったほうが無難ではないでしょうか。

もしエリクソンに近づきたいなら、まだ自分で
エリクソン本人を真似するほうが効果的でしょう。

ひたすら自分でモデリングを繰り返す。
誰かが抽出したエッセンスとしての技法は、あくまでも一成分として理解しつつ
とにかく自分でエッセンスの量を増やしていきます。

どんなに複雑なバラの香りでも、成分を一通り分析して
細かいものまで忠実に混ぜれば、元の香りに近づくだろう、といったスタンスです。

それでも自分が気づけないことはエッセンスとして抽出できませんから
これには限度があるのかもしれません。

やはり達人と同じ境地にまで辿り着く方法論としては、
エッセンスを抽出するのは向いていない気がします。

同じ境地に辿りつくには、エッセンス的な学びよりも
エキス的な学びのほうが効果的なのかもしれません。

次はその辺りを『エキス』の観点で書いてみます。

cozyharada at 23:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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