2016年03月

2016年03月31日

雪の車道

子供の頃、雪が降ると空を見上げていました。

窓を開けて身を乗り出して、雪が降ってくる夜空を見上げる。
街灯に照らされた雪の粒がランダムに降りてくる様子は
星空を飛びまわるような印象さえもたらしてくれたものです。

なんとなくそんな雪の空を見上げながら
ボーっと空に吸い込まれるような感じが好きだったんです。


で、先日、仕事で札幌に行ったとき
似たような景色を見ることができました。

「できました」というか、「見る羽目になった」というほうが正確でしょうか。

新千歳空港に到着すると、送電トラブルだか何だかで
JRが全線運休の状態だったんです。

空港から出られない人たちはバスかタクシーを使うしかない状況。
バスのチケットカウンターは異常な長さの行列になっていて
さらに外のバス停にも長い行列ができていました。

バスの行く先も僕が目指していた札幌に直通ではなく
どこかの駅から地下鉄で再び移動する必要がある様子でした。

バスに乗れる時間も目途がつきませんでしたし
地下鉄の終電さえも危うい可能性があったので、
仕方なくタクシーで移動することにしたんです。

当然、タクシー乗り場も大行列。
なんとか1時間でタクシーに乗れて、札幌方面に移動を始めました。

3月末ともなると、あまり雪も残っていないようでしたが
高速のような自動車専用道路を走っている途中から
雪が舞い始めたんです。

北海道の雪は、溶けた水分を含んでいないらしく、とても軽い。
道に軽く積もった雪が、前の車の風圧で舞い上がります。

雪の降る中で他の車の後ろを走ると
まるで吹雪の中にいるかのような状態でした。

僕は他の乗客との乗合の関係で助手席に座っていたんですが
街灯の少ない暗闇の中、ヘッドライトに照らされつつ舞う雪には
幻想的である以上に恐怖を感じさせるほどのインパクトがありました。


そしてしばらく走ると、あるところから雪が強くなってきたんです。

軽いけれども大粒の雪が降ってきます。

軽いせいなのか、雪の落ちてくるスピードは遅い。
車は自動車専用道路で80kmぐらいで走っています。

車が雪の中を通り過ぎるスピードのほうが
雪が降りてくるスピードよりも速いんでしょう。

フロントガラス越しに見える雪は
まるで前から向かってくるような感じでした。

前方は真っ暗な道。
雪は車のスピードのため、相対的に向かってくるように見える。
そしてその雪がヘッドライトに照らされている。

まるで子供の頃に僕がよく見上げていた夜の雪空のようでした。

視野の前方、自分に近いところには
あたかも雪が自分に向って降ってくるかのような景色があって、
進行方向の先は真っ暗であまり見えない。

となると自然と視点は雪に集まってしまいます。

子供のころと同じように、ついボーっとしてしまうんです。


これはもう本当に怖いぐらいでした。

僕はタクシーの助手席に座っているだけですから大丈夫ですが
もし僕が雪の中を車で運転しなければならなかったとしたら
それはきっとすごい恐怖だろうと想像されます。

簡単に意識が飛んでしまいそうになるんです。

東京に住んで天気予報だけを見ている限りでは
雪が降っていることと寒いことぐらいしか思い知ることができませんが、
実際に北海道で生活をするとなると
その生活環境には様々な大変さがあるのかもしれません。

実際に体験してみないことには想像さえできないことが
やっぱり沢山あるのでしょう。

cozyharada at 23:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 全般

2016年03月29日

反省のしかた

先日の一日講座の受講生で
ものすごく真摯に反省できる方がいらしていました。

何をもって「反省」と呼ぶかには個人差があるところでしょうが
誰も反省の仕方を教えてもらったことはないでしょうから
ある意味では誰もが我流の反省をしていて、個人差があるはずです。


先日、僕が飲食店で見かけたケースでは、
アルバイトの店員が失敗して店長に怒られていたとき
その店員は見るからに「落ち込んだ」様子になっていました。

明らかに元気がなくなって、悲しそうで、気まずそうな感じ。
かといって失敗をしなくなるかというと、そうではありませんでした。

むしろ冷静さを失っているから余計にミスが増えたりもしているようでしたし、
以前から頻繁に怒られる傾向のある人だったんです。

何度注意されてもミスが治らない。
それは指導の仕方も関係するでしょうが、1つには
 怒られたときに「落ち込む」だけで「反省」はしていない
こともあると考えられます。

つまり、「今回の問題はここにあったから、次はこのように対応しよう」といった
問題の洗い出しと次回のシミュレーションが含まれていないようなんです。


他にも「反省」しているように見えて
実は、上手くできなかった自分を「悔しがっている」だけという場合もあります。

「悔しい」ときには「落ち込み」ほど元気が失われることはなく、
むしろ「次こそは!」、「今度は見返してやる!」とヤル気を高めます。

だからといって、頭の中で改善策のシミュレーションをしているかといえば
そうではないこともあるんです。

また人によっては、上手くできなかったことを指摘されて
自分の価値が否定されたような印象を受け、「傷つく」こともあります。

「落ち込み」とは違い、傷つけられた相手に対しての不満が含まれる。

傷つきに加えて、問題点を指摘された相手に対して注意が向くときは
「自分がこんなに傷ついているのは、アイツのせいだ!」のように
「恨み」が沸く場合もあるようです。

逆に、問題を指摘された相手に注意が向かない場合には
その非がすべて自分にあるかのように捉えて「自己嫌悪」になることも。


いずれにしても感情的な動きが大きくて、内面が不安定になるのが特徴です。

問題を指摘されたことから心が乱れる。
感情が沸き上がって冷静でいられなくなる感じです。

もちろん、これらの状態にもメリットがあります。

周りからすると「問題意識があるように見える」ことです。
少なくとも問題に気づき、ショックを受けているらしい、と。

落ち込みでも、傷つきでも、恨みでも、自己嫌悪でも、
とにかく一大事として受け止めている様子には見えます。
何事もなかったかのようにサラッと受け流してはいないわけです。

一般的に、そういった感情的なショックの反応を見せられると
人はその後で更に追い打ちをかけるようなことはしません。

「どうやら”反省している”らしい」と勝手に解釈して
そこで話は一段落しやすいんです。
「まあ、まあ、これぐらいにしておきましょう」と。

しかしながら
 実際に、問題点を自ら振り返って
 改善点として次回のシミュレーションをする
といった次に活かす考え方をしているかは分かりません。

むしろ次に活かすための分析やシミュレーションは
感情が強く沸き上がって冷静さを失っているときには
逆にやりにくくもあるものです。

周りからすると”反省している”ように見える
落ち込みや傷つきといったショックの反応は、現実的には
次に活かす考え方をするのに不向きだと考えられます。


では、
 まったくショックを受けることなく淡々と
 改善点だけを取り上げてシミュレーションさえできれば良いか?
…というと、必ずしもそうではありません。

周りから反省しているように見えないだけでなく、
全く感情が動かない場合にも、今度は記憶として定着しにくいんです。

痛みを伴うから記憶が定着しやすい。
二度と同じことを繰り返さないようにするには
痛みを避けようとする学習の働きを利用するのが効果的だということです。

その意味では、「反省」には
・冷静に問題を分析して、次回以降の行動を変えるために工夫すること
・心の痛みとしてのショックを受けること
の両立が必要だと考えられます。

ショックを受け過ぎて冷静さを失えば、学びが活かせません。
ショックが無さ過ぎれば、学びが定着しにくくなります。

適度なショックが必要だ、と。

そのためのポイントになるショックの受け方は、
 『自分の基準に沿わないことをした』と自分で自分を傷つける
やり方です。

もちろん強く自分を傷つけるわけではありません。
自分を責める感じ。
自分で自分を注意する。

誰かから問題を指摘されたとしても、自ら問題に気づいたときでも、
他の人がどうこうではなく、問題に真正面から向き合うんです。

とくに自分の価値観と照らし合わせるのが重要なようです。

「自分は気づかないうちに、自分の価値観と沿わないことをしていた。
 自分では大切だと思っていたはずなのに、
 全然大切になんてできていなかったじゃないか!
 一体これまで自分は何をやっていたんだ!」

そんな感じのショックの受け方です。

大切なこと(=価値観)を大切にできなかった申し訳なさがあり、
同時に、そのことに気づけていなった自分への不甲斐なさがあります。

そして今まで気づかずに続けていた問題点の意味の大きさを振り返り
「もう絶対にこんなことをしてはいけない!」と意欲を固めます。

自分にとって受け入れ難い過ちだと捉えるからこそ、
それを避けようとするエネルギーが強力になるんです。

そして「意地でも同じことは繰り返したくない!」と意志を固める。

その過程では、自動的に過去の行動すべてから問題点がチェックされます。

問題が指摘されたり、問題に気づくタイミングは一瞬です。
ある1つの出来事の最中に「反省」のときが訪れます。

しかし一度「反省」が始まり、それを真摯に正面から受け止めたときには
同じような問題さえも許せなくなって過去を一通り振り返ってしまうんです。
「ひょっとして前にもこんなことをやっていたのではないか?」、
「いつからこんなことを続けてしまっていたんだ?」と。

だからこそ一気に問題点に気づくことができますし、
「したくないことをしてしまっていた」という受け入れ難さも
その過去の経験の回数分だけ積み重なるので、不甲斐なさも大きくなります。

そのうえで「二度とこんなことを繰り返したくない」という想いの強さが
注意の方向を未来に向けさせます。

落ち込みのときのように「あー、やってしまったぁ…」と過去に向かない。

感情としてはショックを受けながら、思考は未来を向いている。

その結果として、問題を繰り返さないための工夫や修正が
記憶に嫌というほどハッキリと定着するわけです。


このように
「自分は、自分がやりたくないはずのことを
 気づかないうちにやってしまっていた。
 こんなことは絶対に繰り返してはいけない!」
と、問題に直面するための真剣で、前向きな姿勢が
効果的な「反省」のやり方だと思われます。

僕が講座で出会ったその方は、
まさに真正面から自分の行動を見つめ、
そこに妥協のない問題点を探していました。

そして心の中にショックを受けながら
苦しみを感じるからこそ前に進もうとする強さも見せていました。

一切の言い訳を挟まないだけの強さと真摯さがあり、
大きな心の痛みを受け止めようとするだけの想いの強さがあるようでした。

それはともすると自分に厳し過ぎるように見えることもあるかもしれませんが、
本当に自分の大切なものを大切にするために
自分自身で変わっていこうとするスタンスは、
自分を大事にしようという「自分への優しさ」の表れでもあるはずです。

2016年03月26日

出来るようになるために

たとえば「英語を話せる」ことの基準は
人によって随分と違うものです。

日本人の英語学習者がネイティブと比べれば
どこか見劣りする部分があるのは仕方のないことかもしれません。

出来るようになってくるほど、
今まで出来ていなかった部分に気づけるだけの着眼点も身につく。
いつまで経ってもネイティブには追いつけない気がするんでしょう。

一方、「私は英語をまったく話せません」という人であっても
実際には日本人なら相当な英語を知っています。

ゆっくり時間をかければ不自然でも文法どおりに文章を作れたり
単語さえ辞書で調べればコミュニケーションできることも多いはずです。

少なくともそのレベルは、アラビア語やスウェーデン語のように
文字通りまったく知らない言葉を「話せない」というのとは意味が違います。

何をもってして「出来る」と呼ぶかは
比較対象や判断基準の量によっても
かなり異なってくるようです。


出来ていないのに「出来ている」と思ってしまえば伸びません。

探せば多くの改善の余地が見つかって
そこをトレーニングすればもっと上達できる。
そういう場合でも「出来ている」つもりの状態からだと
出来ていない部分を探すのが難しくなってしまうみたいです。

内面的に見ても、自信があるから出来ていると思ってしまうようでいて、
実は、出来ていないことを謙虚に受け止める自信がない可能性もあります。

自信があるからこそ、出来ていないことを受け止め、
もっと出来るようにしていこうと思えてくることもあるでしょう。


反対に、出来ているのに「出来ていない」と思っても上達しにくい。

出来ているところを認めるから、それを定着させられるし、
出来るところ増やすために次の課題に集中できます。

出来ているところを見つけるから上達の喜びが感じられて
続けていくだけのヤル気も高まります。

内面的には、自信のなさが「まだまだだ」という視点を生み出すこともあれば
逆の場合もあるかもしれません。

限界を知ったり、さらなる高みを知ったりすれば
頑張った見返りが不十分に感じられてショックを受けることもあります。

最初から「出来ていない」と思っておけば
「せっかく頑張ったのに…」というショックは受けなくて済みます。

「出来ていない」と判断するのが謙虚なようでいて、実は
自信や期待の高さと関係していることもあります。

高い理想を見ているから「出来ていない」と感じるのだとしたら
その高い理想地点に辿り着ける可能性を認めてもいるわけです。

たとえば英語のネイティブと比較して「英語が話せない」と判断するのなら
ネイティブと同じようになれる可能性を否定はしていない、ということです。

最初から「ネイティブと同等にはなれない」と諦めていれば
そこと比べる発想が出ないのではないでしょうか。

さらにいえば、もっと出来る人と比較をするときに
その高みへ辿り着くまでの努力の量を考慮していない場合もあります。

出来るまでの道筋を踏まえることなく「出来ない」と言っているのだとしたら
自分の努力の量について見ていないのかもしれません。


出来ているところと、出来ていないところをニュートラルに見る。
目指す到達点として、辿り着けそうな範囲を設定する。
そこへ到達するまでに必要な努力を知る。

いずれも客観的に捉えられると
上達の効率も高くなるのではないかと思われます。

cozyharada at 23:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | 心理学

2016年03月24日

みそっかす

地域によって呼び方に違いがあるかもしれませんが、
僕の育ったあたりでは「おみそ」と呼ばれる待遇がありました。

「みそっかす」とか言うのも聞いたことがあります。

いずれにしても、ある種の特別待遇です。
ルールを決めて遊ぶ中で、例外的にルールが適用されない人。


僕には姉がいて、近所に姉と同い年の子供も大勢いたので
自分よりも2、3歳年上の人たちと一緒に遊ぶことが多かったんです。

小学校に上がる前とか、小学校低学年とか、
もしかしたら幼稚園に通う前ぐらいにもあったかもしれません。

それぐらいの年齢での2、3歳の差は体力に大きな違いがあります。

当然、鬼ごっこでも何でも、子供のやる遊びには
走る速さをメインとして体力の優劣が影響します。

2、3歳も年が上の子供たちと一緒に遊ぶとなれば
どうやったって不利なわけです。

対等のルールでやったら、まず真っ先に負けます。
鬼ごっこだとしたら、すぐに捕まって鬼になって、
その後は誰も捕まえられずにずっと鬼のままになってしまう。

外で遊ぶときには、一人だけ幼いという理由で
圧倒的なハンデを負ってしまうわけです。

しかし、その体力差があることは子供たちも知っています。
毎回負けるヤツが決まっていては面白くもない。
だから、特別なルールが設定されるんです。

それが「おみそ」、「みそっかす」でした。


大人の視点からすると、
 適切なハンデの量を調整すればいい
と考えられますが、
子供同士ではそこまでの考えは及びません。

体力差を埋める妥当なハンデではなく、
過剰な特別待遇が設定されていました。

鬼ごっこであれば、「捕まっても鬼にならない」とか。

ほぼ無敵です。

今にして思えば、ゲームに参加しているとは言えない状態でしょう。

それでも完全に仲間外れにされるわけでもなく、
とりあえずは皆の輪の中で一緒に走り回ることができました。

当時の僕は、必ずと言っていいほど「おみそ」だったので
それが当たり前だと疑っていなかったようですから、
一緒にワイワイやれることが「楽しい」と感じていたんだと思います。

ゲームに参加して、対等なルールの元で競い合う…
そんな楽しさをそもそも知りませんでした。

ですから「おみそ」の扱いを不満に感じたこともありませんでしたし、
何やら皆よりも特別に大事な扱いを受けているようで
チョット気分が良かったりもしたものです。

それはもしかすると、ただの甘やかしであったり、
腫れものを触るような扱いだったのかもしれません。

少なくとも「対等な立場の一人の人」として見る扱いではないでしょう。

疎外しようとはしない気遣いがある一方で、
自分たちが楽しむことを優先していて、
年下の子も一緒に楽しもうというスタンスではない気がします。

しかしながら、当時の僕はそれが当たり前で
その特別待遇に良い気分を感じ、
『対等に関わる』交流の喜びを知らないままに育っていきました。


僕は今も背が低いですが、小学校、中学校と
背の順に並べば常に最前列にいる子供でした。

背の高い子と比べたら、頭一つ分以上の差があることもザラ。
逆立ちなどのバランス系の運動は苦手ではなくても、
走るのが遅いという理由だけでもスポーツへの苦手意識が強かったんです。

そこに「おみそ」の経験が追加されますから、
僕は同級生と一緒のときでも、積極的に遊ぶほうではありませんでした。

サッカーはゴールの前に立っている。
ドッジボールは逃げてばかり。

基本的に
 輪の中に入って堂々と対等に振る舞う
というのが苦手だったようです。
(それに気づいたのは20歳を超えてからですが…)

そんな中、小学校の高学年の頃だったでしょうか、
友達の家に遊びに行って、その近くの公園に行ったんです。

その公園は学童保育の施設が併設していて、学校が終わった後
小学校の1年生から6年生まで、一通りの児童が集まる場所でもありました。

そこには監督をする先生のような大人が2,3人。
子供を遊ばせるのが主な仕事のようでした。

で、たまたま友達と公園に行ったその日、
そこでは学童保育の子供たち全員が公園全域を使って
何か独特のゲームをやっていたんです。
鬼ごっこと何かを組み合わせたようなもの。

僕と友達は、公園の隅で様子を見ていました。

ちょうど1ラウンドが終わったのでしょうか、
もう一度ゼロからゲームがスタートして
鬼役の先生が僕を捕まえました。

僕は見ていただけのつもりだったんです。

輪に入るのには慣れていないし、
ルールだって知らないし、
学童保育のメンバーでもない部外者だと思っていたし、
いつも自分は「おみそ」で特別待遇だから捕まったこともなかったし。

ですが、その保育の先生には、そんなことは関係ありませんでした。

メンバーの顔を認識できていたのかどうかは分かりません。
もしかしたら学童保育の児童だと勘違いしたのかもしれません。

でもそれ以上に、そもそも子供を区別していなかったんだと思われます。

「おみそ」なんていう特別待遇で甘やかさない。
年齢が離れていても対等に楽しもうとする。

捕まったとき、僕は確か「見ていただけだ」と言いました。

ところが先生はそんなのは無視。
「いいから、いいから!」と僕をゲームに強制参加させたんです。

ちょっと複雑なルールがあって戸惑ったところまでは覚えています。

その後どうなったのかの記憶はありません。

ただ、ずっと鬼をやって不愉快だった記憶もないですから
きっと無難に同じように遊びきれたのでしょう。

おそらく、ややこしいルールの中に
年齢差があっても対等に楽しめるような工夫があったんだと思います。

そのときが多分、僕が対等に扱われた初めての経験だったはずです。


それが嬉しかったのか?

いえ、そうではありません。

僕にとってはショックなだけでした。
初めての出来事でしたから。

特別待遇を外された不満のほうが大きかったかもしれません。

ですから、そんな一度の体験だけでは
 輪の中に入って対等に振る舞おうとしないで
 無難に迫害されずに過ごそうとする
というパターンは無くなりませんでした。

中学で野球を始めますが、僕は相変わらずの「おみそ」でした。

チームのほとんどは小学校から野球をやっていた子でしたから
僕が技術的に追いついていないのも関係していたんでしょう。

スポーツそのものへの苦手意識が足を引っ張っていたところもあった気がします。
バッティングセンターに行けばそれなりのレベルだったのに、
たまに試合に出させてもらっても、自信がないから何もできないまま終わるばかり。

勉強が得意だったこともあって、チームの監督は僕にスコアをつけさせました。
ベンチにいて暇じゃあないようにという配慮だったのか、理由は分かりませんが。

いずれにしても中学校の野球も、腫れものを触るような特別待遇だったわけです。

高校では個人競技としてゴルフ部を選びました。
そもそも輪の中で何かするものではありませんでしたから
まぁまぁ、それなりに楽しんでやれたようです。

何より、ゴルフ部の同級生には僕のように
輪の中に入らないタイプの生徒が結構いたんです。
だから安心感があったのかもしれません。

とはいえ、運動への自信の無さは解消される方向にいった印象でも
輪の中で対等に振る舞うには程遠い状態だったんです。


そして大学。
学部4年から研究室に配属になります。

たまたまその研究室では野球が流行っていたんです。

土日に野球を少しやったり、
休憩時間に校舎の屋上でキャッチボールをしたり。

当然、僕には輪の中に入るスタンスがありません。
誘われて皆についていっても、外から見ているばかりでした。

そんなとき、ちょうど僕の実験の指導をしてくれていた2つ上の先輩が
僕にもキャッチボールをやらないかと声をかけてくれたんです。

運動には自信がありませんでしたし、
いつも「おみそ」でしたし、
野球には良い思い出がありませんでしたし、
輪の中に溶け込むのも苦手でした。

だから「僕はいいです」と返事をしました。

そのとき先輩が
 「こんなことで遠慮するもんじゃないぜ」
と言ってくれたんです。

普段は皆からイジられてばかりで、ちょっとオッチョコチョイで、
先生からも厳しく評価されやすいところのある人でしたが、
ときどき凄くカッコイイ人でした。

なぜか言葉尻が男前だったのを覚えています。

それで僕は輪の中に入れてもらったんです。

中学校のときだけとはいえ、野球をやっていたのは事実ですから
久しぶりのキャッチボールだって決して下手なほうではありませんでした。

もっと上手ではないのに楽しそうにしている人たちも見ました。

上手い下手とは関係なく、年齢がどうとか関係なく、
ただ一緒に楽しむだけの交流があることを初めて知りました。

そこから僕の人間関係は少しずつ変わっていった気がします。

研究室のあの先輩は、その意味で
僕の人生で最初の師匠だったんです。


小学校のときの学童保育の先生がやろうとしてくれたことは
当時の僕にはまだまだ理解ができなかったのでしょう。

そのことの意味がわかったのは、
大学で先輩から対等に扱ってもらって、さらに時間が経った後でした。

もしかしたら、小学校のときの体験が種になっていて
研究室の先輩はその芽を開かせてくれたのかもしれません。

どちらも懐かしい話です。

cozyharada at 23:47|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2016年03月22日

青い鳥と続編

たぶん2012年だったかと思いますが、
あるセミナーに参加をしてイメージワークをやっていたとき
森の中を子供が走り回っているようなイメージが出てきたことがあります。

何かを探し求めて走り続ける感じ。
アンデルセンとかグリム童話に出てきそうな洋風の服装だったのもあり、
ワークが終わった後、そういう内容の童話が気になり始めました。

で、「これは『青い鳥』に一番近いんじゃないか?」と思って
その日の帰りに本屋に寄って、『青い鳥』を買って帰ることにしたんです。

最初は子供向けの絵本のコーナーを探しました。
とりあえず2冊ぐらい(出版の系統が異なる)は見つかりましたが
あまりにもアッサリした内容だったのと、あまりにも子供向け過ぎだったので
「せめて小学生ぐらい向けのものはないか?」と調べてみました。

そして『青い鳥』で検索したところ、文庫本で
メーテルリンク原作の『青い鳥』があることが判明。
童話『あおい鳥』は、戯曲『青い鳥』のアレンジのようでした。

せっかくならということで、文庫本のほうを購入。
読んでみると、僕が知っていた『あおい鳥』とは別の話にさえ感じられます。

もちろん話の流れは同じです。
チルチルとミチルが青い鳥を探しに行く。
見つからない。
帰ってきたら家にいる。

しかし『青い鳥』は「幸せの青い鳥」ではありませんでした。

実際、「幸せ」はチルチルの冒険の中で、別の形で登場します。
あきらかに「幸せ」と「青い鳥」は別物だというのを示しているといえます。

一言でいうと、とても深い。
示唆に富んでいるといいますか、メタファーのようでした。

ところどころに出てくる描写が、世の中の理を説いているようでもあり、
同時に全体として、内面の探究のプロセスを描いているようでもあります。

「青」は『真理』の象徴なのかもしれません。

Amazonなどで検索して気づくのは
著者のメーテルリンクという人が『青い鳥』以外にも多くの著作を残し、
その中には死後の世界への考察や哲学的な内容が多いということ。

そうしたことからもメーテルリンク自身が内面の探究を通して
「自分とは何か?」ということを深く理解したのではないかと思えます。


ちなみに『青い鳥』の続きのような話として
『チルチルの青春』という本があります。

こちらは子供向け(小学生ぐらいが対象?)の翻訳しかありません。

絶版だったので、僕は埼玉県の図書館まで読みに行きました。

こちらも実に示唆に富んでいます。

それを「示唆」や「メタファー」として捉えられるのか
ただの「架空の設定」として捉えるのかの違いは、
読む人によるところが大きいのでしょう。

僕が『チルチルの青春』を読んだのは2016年に入ってからです。
2012年に『青い鳥』を読んで、そのままの流れで続きに進んでいても
きっと僕には読みとれなかったことが多かったと思います。

「帽子の額のところにつけられた宝石を回すと
 今まで見えなかったものが見えてくる」

『青い鳥』にも『チルチルの青春』にも共通する設定は
「世の中をどのように見られるか」という本人の捉え方を言っている気がします。

込められたメッセージに気づくには、僕の捉え方さえも
変わっている必要があったのかもしれません。

僕にとってのメーテルリンクは、しみじみと感じいることの多い著者なんでしょう。

2016年03月19日

関心と好奇心

結論から言ってしまえば、
関心を向けるのは難しいんです。

人は好きなものに対しては細かく注意が向きます。
いろいろと知りたくもなるし、いつも見ていたり聞いていたりしたい。

裏を返せば、常に関心が向いて、いつも意識に上げているものを
「好き」と呼んでいるのかもしれません。

反面、「好き」ではないものには、日頃ほとんど注意が向かないものです。

視野に入っていても見ようとしていない。
記憶を頼りに大まかな処理をして、実物には目を向けません。

理科の授業などで、観察したものを絵に描くことがあったかもしれませんが、
あれは本質的には、記録に意味があるのではなく、
 描こうとしたときに自然と細部にまで注意が向くようになる
ことが重要なのではないでしょうか。

つまり、ただ観察しようとしても、それは普段の延長でしかなく
見たつもりにしかなっていない、ということです。

絵に描こうとしたとき、初めて普段は見ていなかった部分も見るようになる。
関心の向いていなかったところに関心が行く、と。

そのように普段とは違う見方を必要とする課題を設定するのは、
普段の関心の範囲から出るように強制する方法の1つだといえます。

そうでもしない限り
自分の知っている範囲の延長で済ませてしまいやすいんです。


人と関わる上でも、相手にどれだけ関心を向けられるかは重要です。

カール・ロジャースが述べたカウンセリングの必要条件の1つ
『無条件の肯定的配慮』も、いわば
相手へ100%の関心を向けられることと言い換えられるかもしれません。

(配慮は英語で「 regard 」の訳。
 日本語の「配慮」ほど「汲みとる」ような「気配り」のような意味は弱く、
 「関わりがある、関与がある」の意味を土台として
 気持ちがつながっているとか、気持ちが向いているといった趣旨に近い。)

自分の価値観、善悪の基準とは無関係に、
とにかく相手のすべてに対してニュートラルに関心が向く。
好きなものをずっと眺めていられるときと同じように相手に注意が向いてしまう。

そんな感じで人と接すると、相手は自然と満たされて楽になれるものだ、と。
そういう主張だったようです。

これは僕も経験上、実感するところですし
それこそが何よりも難しいところでもあると感じます。


相手に関心を向ける重要性を説いているのは、
おそらくミルトン・エリクソンもそうだったように思うんです。

ただ彼は「好奇心」という言葉を使っていたみたいですが。

「好奇心」は大きく分けると、2通りです。

1つは「知らないことに関心が向く」こと。
もう1つは「奇妙なことに関心が向く」こと。

日本語で「好奇」というと、
 (”普通”と比べて)変わっている、珍しいことを面白いと感じる
意味合いが強いように思います。

純粋に「知らないことを知りたい」という気持ちよりも、もう少し
「あれ?なんでだろう?おかしいな?不思議だな?」という感じ。

「奇妙なことに関心が向くこと」としての好奇心として
解釈されがちなのではないか、と感じます。

一方、ミルトン・エリクソンは多分
「知らないことに関心が向くこと」を好奇心と呼んでいたと思われます。

なぜならエリクソンの土台には、
口癖のように発せられていた「 I don't know 」にも表れるように
「知らない」というスタンスを重視していた様子がうかがえるからです。

目の前のクライアントのことを本当に知らない。
だから知ろうとできる。
それを「好奇心」と呼んだのではないか、という話です。

しかしながら「知らない」というスタンスを維持しながら
何かに関心を向けるのは難しいものだといえます。

「知らない」は「知っている」の反対として認識されやすく、
知っていることに結びつけながら情報を増やすのが一般的です。

「これは知っている。でも、こっちは知っていることと違う。
 じゃあ、いったい何なんだ?」
といって知りたい気持ちが沸く流れです。

そうやって、知っていることと関連づけながら知ろうとするのが
知らないことを知ろうとするときの一般的な方法なわけです。

これは実のところ、「奇妙なことに関心が向く」に近いんです。

「(”普通”と比べて)変わっている、珍しいことを面白いと感じる」のは
自分の知っている”普通”と比べることに基づきます。

知っていることと対比するから
「あれ?なんでだろう?おかしいな?不思議だな?」と感じる。

知っていることがあるから生まれる好奇心なんです。

ですから「知らないことに関心が向くこと」としての好奇心のつもりでも、
知っていることと対比で「知らない」という認識を使っている限り、
その実態は「奇妙なことに関心が向く」のほうに近いことになります。

なぜこの性質を強調するのかといえば、
「知っている」との対比としての「知らない」は、結局
自分の都合で相手に関心を向けることになるからです。

「知っている」つもりのことには関心が向かないし、
「知らないから関心が向く」という条件つきの関心になります。

無条件の関心ではない、ということです。

一方、エリクソンがしていたと想像できる
「何も知らない」のスタンスからすると、
そこから生まれる好奇心は、全てのものごとに対して
無条件に向けられる純粋な関心になりえます。

相手に向けられる関心が無条件のものになるかどうかは
 ・「何も知らない」ことをベースにして好奇心が沸くのか
それとも
 ・「知っている」こととの対比として「知らない」ことに好奇心が沸くのか
の違いで変わってくると考えられるんです。

「好奇心をもって関わる」という言葉の内容からすれば
どちらも好奇心に違いないわけですが、
それぞれの種類の好奇心が作り出す内面は大きく違うはずです。

「何も知らない」から生まれる好奇心には
相手へ無条件の関心を向けさせる効果があって、
その態度が相手の心を満たすことができると期待されます。

「知っている」との対比としての「知らない」から生まれる好奇心には
そこまでの効果は期待できません。

「知っている」の対比としての「知らない」は、
自分の興味のないことに関心が向かないのと同じように、
一部のものごとにしか関心を向けないといえます。

「知っている」の延長にしか関心が向かない。
結局、大部分には無関心なままです。

「何も知らない」ということを徹底的に実感できたとき
やっと純粋な関心が生まれ始めるのではないでしょうか。

2016年03月16日

ゲームが気になったので

最後にゲームをやったのがいつかは思い出せませんが、
子供のころには結構やった記憶があります。

シンプルな初期のゲームが中心で、
そんなに上手ではなかったので全部をクリアするなんて
滅多にない経験たったものです。

その中でも比較的丁寧にやっていたのがドラゴンクエスト。
ちゃんとやったのは、ドラクエ とドラクエ ぐらいでしょうか。

根気がないほうだったので最初の2つは途中で終了。
しかけが増えてきて楽しかったのが と だったんだと思います。

以降の時期には、もうゲームから離れていた気がします。


冒険映画の世界を自分が操作できるような内容は
・決められた課題がある
・多少の謎解きがある
・頑張りさえすれば先に進める
という
現実世界よりもシンプルな設定と相まって
達成感を味わいながら続けられたのだろうと思われます。

中でも「頑張りさえすれば何とかなる」という特徴は
操作の上手い・下手とは無関係だったのが大きいでしょう。
それで途中で投げ出さずに済んだ気がします。

そこには「レベル」という仕組みと、「やり直し」が主に関係すると考えられます。

頑張って続けていると「レベル」が上がる仕組があって
着実に主人公が強くなっていくんです。

前には勝てなかったモンスターにも、続けていれば勝てるようになる。

また敵との戦いに敗れた場合、「死んでしまう」にもかかわらず、
もう一度やり直すことができます。

特にドラゴンクエスト・シリーズでは、完全なやり直しにはなりません。
「やられる」前までの記録は残りますから
上がった分のレベルは維持されますし、途中で手に入れた宝物も持ったまま。

ペナルティとして持ち金が半分になりましたが
出発前の場所に戻ってもう一度立てなおすことができる上に、
「やられる」前までの経験を活かせるんです。

何度でもやり直せて、チャレンジした経験は次に活かされる。

こういう考え方で物事に取り組めると
実際の世の中でも新規探索傾向や成長欲が高くなるはずです。
積極的に仕事へ取り組むタイプになりそうです。


しかし現実世界では、頑張っても上手くいかないことがあります。

もう一度同じことにチャレンジできるわけではありません。
似たような場面が次にあれば経験は活かせますが、
クリアできるまで同じ課題に挑戦し続けられるわけではない。

時間や状況が制約をかけます。
一度しかチャレンジできず、我慢しなければならないこともあります。
気軽にやり直せないものも多いでしょう。

ただ頑張って続けていれば自然と課題をクリアできる…
というものでもありません。

頑張ったのに報われないことがあって、
それを受け入れて新たな方向に進むときもあります。

そういう現実世界のもどかしさがあるからこそ
余計にゲームの世界のシンプルな仕組みは
簡単に達成感を味わう方法として魅力的なのかもしれません。

いわば「思い通りにできる喜び」がある、ということでしょうか。

予想通りに進んだとき、思い通りの結果を出せたとき、
「上手くいった」という達成感を味わえます。

規模の大小にかかわらず、です。

裏を返せば、思い通りにならないときには不満を感じます。
パソコンの動作が鈍いときにイライラするのも同じです。
時間のロスなんて微々たるものですから、
期待通りにならないことに不満が沸くと考えたほうが自然でしょう。

小さな達成感を味わい続けるのは
日々を楽しく過ごすコツの1つかもしれません。
満足感が次のヤル気を生み出します。

思い返せば、子供の頃の僕は
スポーツで達成感を得ることが少なく、勉強は義務感で進めていたので、
ゲームで得られる達成感は、なくてはならない要素だったようです。

犬と一緒にコタツに入りながらやっていたゲームは
当時の僕にとって心の支えの1つだったんだと思います。

一方、高校に入ってからはゴルフ部で
思考錯誤する楽しさと
上手くいかないもどかしさと
思い通りにいったときの達成感とを
行ったり来たりしながら日々を過ごしていました。

ゲームに飽きたというよりは、達成感や成長の喜びを
他のところで得られていたとも思えます。

関心の矛先がシフトしたということでしょう。


今、ゲームをしたいかと内面に問いかけてみると
思い通りになる喜びを感じたい気持ちはあるような気がします。

あとは物語の世界に浸る楽しさでしょうか。
こちらは映画を見るときと同じものですから
面白いドラマや映画があれば、そちらで代用されてしまいそうです。

思い通りになる喜びについては、それ以上に
地道に繰り返さなければいけないゲーム中の作業へのハードルが大きく、
ゲームでやろうという気分にはなっていません。

そんな中でゲームが気になったのは、
語学の上達の実感が薄いからじゃないかと思えてきました。

なんだか一気にいけそうで進めていない印象があるせいか、と。


もう1つはゲームの設定から触発されたものです。

魔法や武器やレベルアップは要りませんから、
「宿屋で一泊すると体力が全快する」という設定がチョット羨ましい。

僕はホテルに泊まっても体力があまり回復しません…。

cozyharada at 23:47|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年03月14日

動画を見比べて変化を見つける

NLPの開発初期から関わっていたメンバーで
様々な手法を作り出したことで知られるアンドレアス夫妻。

下の動画のコニリー・アンドレアスは臨床心理学で博士号をとり
心理療法的な観点からNLPに取り組んでいった人です。(右側)

彼女が形にしたコア・トランスフォーメーションは
日本でも有名になっています。

そのコニリーの短い動画2つを見比べると
 高名なトレーナーでさえ変化をしていくものだ
ということが見て取れます。


まずは最近の動画から。

数十秒ですから内容は気にせずに、非言語メッセージに注目してください。

穏やかな表情。
詰まりのない穏やかに広がる声。
緊張が見当たらない体幹部…。

自然で作られた感じのないジェスチャーは
ダラけて流れるところも、過剰に力が入るところもなく、
リラックスしながらも隅々まで意識が行き届いているのがうかがえます。

受講生への説明として全体に気を配る一方で
クライアントの反応を見ようとして大きな関心を向ける目には、
目の前の相手への信頼と思いやりが見てとれるかのようです。




そして2つ目の動画は、もっと若い頃のものです。
約30年前に収録されたものとのこと。

その間の変化が見てとれます。

ファッションとかメガネとか、そういった表面部分ではなく、
また内容そのものでもなく、非言語メッセージに注目すると
「コニリー・アンドレアスという人がどのような研鑽を積んだのか」
が想像できるのではないでしょうか。



30年前の動画では、まず座り方が違います。

背もたれに寄りかかり、上半身を固定させるような様子があります。
肩と首に力が入っていて

時折クライアントを観察して”見極めようとする”かのような鋭い視線には
知性が感じられる一方で、眉間や口元の固さは厳しささえも感じられます。

話のスピードもクライアントより若干速く、返答のタイミングもかぶせ気味。
声のトーンは喉が詰まり気味で細く、広がりが少ない感じです。
声が胸やお腹で響くよりも、頭で響くため、冷たい印象があるかもしれません。

手の動きのスピードに注目しても、やはり動きが速く、力感のメリハリがあります。
若さゆえの速さとも言えそうですが、脱力気味に動作がスピーディーに終わるのは
身体の細部までは意識が行き届いていないことの表れと考えられます。

…と、このように批判的な評価をしているようですが、
それもあくまで最近の非言語と対比をしてのものだとご理解ください。
30年前から一流の心理療法家で、最前線のトレーナーだったわけですから。

裏を返せば、そんな人でさえ研鑽の跡が見られるということです。


30年前のコニリーは、セラピー技法においても色々と研究をしていたようです。

アンドレアス夫妻の共著で説明されている手法の多くが
イメージを活用したものである一方、
コニリー自身は言葉の使い方にも思い入れが強かったそうです。

一時期はクライアントの問題解決のお手伝いを
あえて全て会話だけで行うようにしていた時期もあったとか。
ストイックに技術を追求するタイプのトレーナーなんでしょう。

奥底には人の苦しみに目を向ける思いやりが常にあったと想像されますが
こちらの若い頃の動画では、技術への意識の高さがうかがえます。

技法に興味があり、どうやってセラピーの仕組みを解明するのに一生懸命。
自らの臨床経験やNLPのテクノロジーに信頼を置きながら
巧みな技術と知識で自信を裏づけしていた頃なのかもしれません。

それが最近の動画では、
存在そのものに自信があって
クライアントが前に進む力を信頼しながら
ただ目の前の心の動きに興味を向けている
といったように見えます。

そこには技術の向上や様々な手法の開発、トレーニングの経験などよりも
はるかに大きな影響として、コニリー自身の内面の変化がありそうです。

別の動画で本人も言っていたように、
「誰よりも自分自身をクライアントとしてセラピーしてきた」
ことで、内面を調えてきたのでしょう。

2つの動画を見比べるだけで
『成熟』ということの意味を感じられるような気がします。

以前の自分の動画もチョット見てみたくなりました。

cozyharada at 23:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!NLP | NLPの基本情報

2016年03月11日

一日講座のご案内

やっと資料作りが終わりました。
こちらの講座のテキストです。

『一言で相手を癒す言葉を学ぶ一日講座』
日本コミュニケーショントレーナー協会主催です。

「奇跡の一言」なんて大それたタイトルがついていますが、
宣伝のためということで差し引いてお考えください。

奇跡なんてものはなく、
望ましい方向に進むのも
残念な方向に進むのも
どちらも当たり前のことではないでしょうか。

そういう結果が起きるやり方だ、ということです。

だからこそ工夫をして、トレーニングをすれば
目に見える結果も変わってくるはずです。

本当に最善を尽くせるようになります。
心をこめたメッセージを届けられます。


内容としてはコミュニケーションの土台を鍛えるトレーニングです。
とりわけ、相手の心を楽にするコミュニケーションについて。

自らメッセージを発信するというよりは
相手に合わせて、相手のために関わる側。

相手が出している様々なメッセージを受け取れるようにトレーニングして
そうしたメッセージに対して、どんな対応をするか、です。

そのために講座中では、受け取る能力を鍛えます。
同時に、受け取ったものについて言葉を返す練習もします。

そのうえで、相手に応じて、状況に応じて
自分の関わり方を選べるような視点も紹介します。


こちらで開催してきたカウンセリング講座や
コミュニケーション講座で扱った内容とも重複します。

繰り返しご参加の方には、復習的な印象があるかと思います。

一方、『一言で相手を癒す言葉を学ぶ一日講座』では
全体を1つの意図に沿って組み立ててあります。

そこが大きな違いでしょう。

単純にいえばダイジェスト版。
1つ1つの能力や技術を磨くトレーニング時間は短いですが
それぞれの技術の関係性や目的はハッキリすると考えています。

特に「〜に役立つ」という具体的な場面設定があるわけではありません。
カウンセリングの技術で使われるものが中心ではあっても、
カウンセリングの講座ではないんです。

ですからカウンセリング的な対話の流れは扱いません。

「2,3分のやり取りの中で、どうやって相手の心に響く言葉を届けるか?」
この一点です。


しかしながら一番の特徴は、講座全体の意図が
 心構えを身につける
ところにあると思っています。

心の状態…感情や気持ちは、自然と湧いてくるものです。
心がけるものではないんです。

たとえば受容的であろうと心がけたら、それは
「受容的な心がけで生まれる行動や考えを作り出す」努力をしていて
心の中としては、受容的ではない部分が抑制されているわけです。

もちろんそれでも表面上の行動は似たようなものになりますから
コミュニケーションにおいて効果は発揮することでしょう。

ただし本当に心の中が一貫して受容的になっている人と比べると
全身から発せられるメッセージが違います。

多くの人にとって意識化ができないような細かい非言語メッセージで
「なんとなくの雰囲気」としての違いが見てとれるものです。

雰囲気の違いさえ意識できていなくても
「なんとなく安心する」とか「なぜか心を打たれる」とか
そういった反応の違いが相手には起こります。

ここを目指す講座です。

他者が楽になってくれるように接する上での心構え。
自然とそういう一貫した心の状態になれるようにトレーニングします。
心がけるべき大事な話をするのではありません。


その前提となる発想が
 心の状態は認知によって生み出される
ということです。

同じ状況でも人によって受け取り方が違います。
同じ出来事でも意味づけの仕方は人によって違うんです。

受容的な気持ちが湧いてくる人と、
拒否反応が沸いてしまう人とでは、
そもそも受け取り方・意味づけの仕方が違うんです。

相手の状況の認知の仕方が違う。

言い換えると、注目している部分が違うということです。

だったら注目する部分を変えればいい。
目的とする心構えが自然と湧くような認知の仕方となるように
相手への注目の仕方を変えていくわけです。

技術や能力を鍛えるトレーニングの中に
そうした注目の仕方を混ぜ込みます。

その注目の仕方なしには技術が使えない。
能力を鍛えようとすると、自然とその注目の仕方になってしまう。
そういう工夫です。

結果的に求める心構えが自然と生まれてくる、と。


そこまでこの意図に集中しなくても
自然と身についていく心構えではありますが
この講座では、あえてハッキリと狙いを定めました。

あまり精神論を前面に出すことはしないできましたが
この講座では心構えがテーマになっています。

ご興味があれば検討してみてください。

2016年03月07日

謙虚ということ

自らの行いを振り返り、
自分の非を認め、
自身の行動を修正しようとする。

そういう謙虚さがあると、厄介な状況に遭遇したとき、
問題の責任を自分の中に見出し、ときに反省して
自分を変えようとすることができます。


もちろん世の中には、「自分は正しい」という立場を貫き
問題は他人にあるとして不平や避難を繰り返すケースもあります。

「自分は分かっている」、「自分はできている」、「自分は大丈夫」と思って
上手くいかないときには相手の中の問題点に理由を見つける。

自分がどうであるかを省みることなく、
新たな着眼点で自分を振り返ろうとしない。
そういう傲慢さです。


例えばカウンセラーやセラピストなどでは
「クライアントの問題」という視点が登場する場合があります。

上手くいかない事例に、どうすれば対処できるのか?

「自分のやり方が良くない」と反省して、努力をする謙虚な方向性もあります。
が、クライアントが変わりたいと思っていない場合、
どんなにカウンセラーが頑張っても空回りしてしまいがちです。

それをカウンセラーが「自分の技量不足、自分の責任だ」と捉えれば
厄介な関係性が長引くうえに、カウンセラー側の負担も大きくなってしまう。

だからといって「クライアントが変わりたいと思っていないからだ」と
全てをクライアントの責任にして一蹴してしまったら、
カウンセラーの技量の問題が見逃されてしまうかもしれません。

クライアントとしてやってきた以上、「変わりたくない」はずはないんです。
「変わりたい、でも同時に、変わりたくもない」というバランスでしょう。

人によっては「変わりたくない」のほうがずっと強いこともあると思います。
それでも「変わりたい」気持ちがないわけではない。

その意味では
 「変わりたい」気持ちを引き出して
 「変わりたくない」気持ちを解消する
のも、カウンセラーの技術の1つだといえるはずです。

責任を全て自分の側に見つけるから上手くいかないこともあるし、
問題の責任を相手に全て押しつけるから上手くいかないこともある。

そういう話です。


個人的には、なるべく謙虚でいたいものだと感じます。
傲慢になってしまうと気づけないものも多くなるはずですから。

ただ、こうした話をよく考えてみると、
 自らの行いを振り返り、
 自分の非を認め、
 自身の行動を修正しようとする
というスタンスは、
必ずしも『謙虚』とは呼べないような気もしてきます。

この発想の元には
「自分が何とかすれば状況は変えられる」
という考えがあると思われるからです。

つまり
「自分がコントロールできる範囲としての自分を変えれば
 問題の状況もコントロールできる」
という考え方です。

「自分さえ頑張れば何とかなる」というのは
ある意味では『傲慢』とも言えるのではないでしょうか。

「自分には全て思い通りにできる」と言っているようなものですから。


なんでもかんでも自分の責任にしたがる考え方は
謙虚なように見えて、実は傲慢だ、と。

全ての責任を他者に押しつけて自分を振り返らないのも傲慢。

どちらにしても偏ってしまうのが傲慢だとしたら、
 何でも自分でコントロールできると勘違いする
のでもなく、
 自分は正しいと思い込んで自らを省みない
のでもなく、
偏っていないかどうかに気づいていられることこそが
『謙虚』なのかもしれません。

思い通りにならないことがあるのを諦めながら、
それでも最善を尽くすことそのものに喜びを見出し続ける。
そんな謙虚さといえるでしょうか。

おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
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  執筆・講演…

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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