2016年06月

2016年06月28日

なぜ眉毛があるのか?

現代社会というか西洋文明の特徴なのかもしれませんが、
物事に『目的』を見ようとする傾向が強いような気がします。

言い換えると、「何に役立つか?」という発想。

とくに進化論的な見方をする場合には
「○○は何に必要だったのか?」と考えることが多いようです。

「生存に有利だから残ってきた」と説明するスタンスからすると
今の生物が持っているものが、まるで全て
何かの役に立っているかのように見えるのかもしれません。


しかし遺伝子の突然変異を分子のレベルで見ていくと変異はランダムであって、
有利な変異というものはないと考えられます。
(分子進化の中立説:木村資生)

例えば人間はビタミンを必要として、不足すると病気になりますが
これは遺伝子の変異によって、体内でビタミンを作る機能が失われているからです。

人類の祖先において、どこかの段階で
ビタミンを作るのに必要な遺伝子に突然変異があった。
ただ、食物からビタミンを取れていたため、ビタミンを作れなくなることが
生存に悪影響を及ぼさなかった。
だからビタミンが作れないという変異が残ることになった。

そういう事例が沢山あります。

有利だから残ってきたわけではなく、
問題がなかったから残ってきたに過ぎない、と。

逆に、その環境で不利に働く突然変異は淘汰されたと考えられます。

もちろん相対的には片方が不利なので、
残ったほうは有利だと見ることもできるでしょうが、
「積極的に有利に働く」という見方はしないわけです。

「問題があったか、問題がなかったか」の話であって
「有利だったかどうか」の話ではない、という考え方。


そういう発想で見ていくと、
必要以上に目的論的に物事を解釈しないこともできるんじゃないでしょうか。

例えば、眉毛。

子供の頃か学生の頃か忘れましたが、随分前に
「眉毛は汗から目を守るためにある」
といった”目的”の説を聞いたことがあります。

たしかに、そのように「役立っている」可能性はあるでしょう。

ただ「結果的に役立っている」ことと、
「最初からその目的で、そのような形になった」こととは違います。

実際、他の動物を見てみても、眉毛に相当する毛は見てとれるようです。

犬は全身が毛におおわれていますが、毛の長さは部位によって異なるものです。
特に長毛種では、その長さの差が顕著に見られます。

毛の長い犬では、目の上の部分、眉毛部分に長い毛があります。
一方、顔のうち目の下あたりから鼻の周りは毛が短い(歳をとると白髪になる部分)。

仮に全身の毛が短くなっていったと仮定すると、
毛が長かった場所では、短くなりながらも毛が見てとれる長さで残りそうです。

そして人間が体毛を残している部位は、犬の毛が長い部位と合っているみたいです。

元々毛が長かった場所だから眉毛が残っている。
そのように考えることだってできるのではないでしょうか。

全身が毛に覆われていても眉毛に相当する毛があるのですから
その眉毛には「汗から目を守る」目的は無さそうに思えます。
(全身が毛に覆われていれば汗が顔を流れることは少なく、
 眉毛だけが汗をせき止める役割にはなりえない。)

他の動物との関係をみると、人間が持っている体の仕組みでも
そこに人間特有の目的を説明しようとするのには
無理が出てくることが多いように感じられます。


遺伝や進化で説明される体の性質にせよ、
もっといえば遺伝子に書かれるとは考えにくい心の性質にせよ、
目的や必然性を説明したくなるのは何なのでしょう?

納得できる説明があると安心するのかもしれませんし、
理由づけをして理解することで「工夫すれば対処できるはずだ」という
コントロール感を持ちたいのかもしれません。

裏を返すと、完全にランダムなものだとしたら自分の存在意義が不安定になり、
自分にはどうすることもできない世界を諦めなければいけなくなります。

世の中を思い通りにして、自分が存在する意味を見出したい…そんな欲求が
物事を目的論的に説明したい気持ちには関係しているような気もします。

たしかに現代社会は、人間が環境を思い通りにしようと工夫してきた集大成でしょう。
思い通りにコントロールできることを増やしてきたといえます。

思い通りにできることが増え、そのことに慣れてきたからこそ
思い通りにならないことへの不満が高まっているのかもしれません。

そして人間にはコントロールできないランダムなことに抵抗を感じる…。

そんな傾向がありそうな印象を受けています。

cozyharada at 23:34|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年06月25日

負けず嫌い

負けず嫌いは、大きく分けると2通りいるように見えます。

1つは、負けるのが嫌いだから「自分が負けている」と認識したときに
何とかして、その負けている部分を挽回して勝とうとする傾向。

もう1つは、負けるのが嫌いだから
「自分が負けている」ことを薄々感じながらも
そのことを否定しようとする傾向。

負けないための努力の方向性が違うといえます。


※ここでは日常的に使われる言葉として”負けず嫌い”を選びましたから
 「勝ち負け」の表現で説明していますが、日常生活ではもっと広く
 「優位に立てない」ことや、「失敗を認める」ことが
 「負け」のように扱われる場合もあります。


1つ目のほうは、自分が負けていることを自覚してしまっているので
その部分で悔しさが大きく、次に向けた必死の努力に繋がりやすい。

負けの原因となる部分を修正して、次には勝てるようにと頑張る。

勝負の最中(スポーツなら試合中、議論なら話し合いの続く間など)には
負けないために必死の抵抗をします。
不利な状況を挽回しようとして必死になる様子は、
客観的には怒っているように見えることもあるかもしれません。

怒りのエネルギーを使って「勝ち」の状況を取り戻そうと頑張っているわけです。

ところが一度、「負け」を自分で認めると「悔しさ」が前面に表れます。
「悔しさ」には「悲しみ」の要素が含まれるのが特徴でしょう。

負けを認める時点で、「勝つ」ことへのこだわりとか
「勝つ」ことで得られる自信や自分の存在意義とか
自分にとって大切なものが一時的に失われてしまいます。

こうして大切なものが失われたときの感情が悲しみ。
負けて悔しいときには、悲しい感じがあるわけです。
悔し泣きがあるのも、この理由からだといえます。

この「悲しみ」の側面が表れるのが、
「負けを認める」種類の”負けず嫌い”における大きな特徴でしょう。

もちろん、具体的な勝ち負けの部分に関しては
まだ挽回の余地がありますから、そちらに対しては
期待外れを取り戻そうとする怒りのエネルギーも沸きます。

だから「次こそは!」と努力が続くわけですが
一時的に「負け」のショックを受けてから立ち直ろうとするはずです。

このように「負け」の辛さを受け止めながら
なお「負けるのが嫌い」で、勝ちを求めようとする、ということです。


一方、もう1つのほう…、
 「自分が負けている」ことを薄々感じながらも
 そのことを否定しようとする”負けず嫌い”
は、「負け」を認めたときの悔しさを避けようとする傾向だといえます。

意識的に「負けている」と認識せずに、
「負けていない」理由を探すほうに意識が集まるようです。

「負けない」ための努力の方向性が
負けていない部分を見つけようとするところにある。

戦いや競争の最中に、その争いで負けるのを嫌う
とも言えそうです。

1つ目のほうの”負けず嫌い”が、次の争いで勝ちを取り戻そうとするのとは
この部分で大きく違うわけです。

「負け」を認めて次の争いで勝ちを取り戻そうとする場合にも
争いの最中から負けないように頑張る部分もありますが、
「負け」を認めるタイミングに差があります。

2つ目のほうの「負け」を否定するタイプの”負けず嫌い”は
その争いが一区切りついても「負け」の部分に目を向けようとはしない。
そういう傾向として2つが区別できそうです。

争いに区切りがついても「負け」を認めないというのは、例えば
スポーツなどの競技であれば判定に不服を言い続けたり、
その勝負がおかしかった理由を主張したりして、
客観的な勝ち負けの判断を否定します。

言い争いのような人間関係であれば、
相手が諦めて会話を終息させるまで
「負けていない」理由を説明し続けるようなケースでしょう。

外から見ていると、怒りのエネルギーが前面に観察できます。

負けを認めるほうの”負けず嫌い”が最終的に悔しさを表すのとは異なり
争いが終わるまで(終わった後も)怒りの雰囲気のままです。

悔しさよりは不満が強そうに見えるかもしれません。

大事にしたいものは、どちらも共通しています。

「勝つ」ことへのこだわりとか、「勝つ」ことによる自信や自分の存在意義とか
そのあたりの大切なことを持っていたいわけです。

ただし、負けを認めるタイプの”負けず嫌い”のほうでは、その大切なものを
 失ってショックを受けてから取り返そうとする
のに対して、
負けを認めないタイプのほうでは、
 失わないように守ろうとする
と区別できます。


強さの使い方が違う、とも言えるかもしれません。

負けを認めるほうには、
自分の存在価値が失われるショックを受け入れる強さがあります。

負けを認めないほうには、
自分の存在価値を守るために必死で抵抗し続ける強さがあります。

どちらも自分の存在を保つための方法として身につけたものでしょう。

指導や教育としても関わるときにも
配慮の方向性が異なってくると思われます。

負けを認めるほうは、課題を指摘するだけでも
本人自ら課題を克服しようとするようです。

負けを認めないほうは、課題の指摘が「負け」を意味してしまうかもしれないため
「負け」の雰囲気を出さないように、良いところをフィードバックする形で
伝える必要があるかもしれません。

一口に”負けず嫌い”と言われるものも、
中身を区別すると対応を選びやすいのではないでしょうか。

cozyharada at 23:03|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2016年06月22日

待たされるのを諦められる

この前、パスポートの更新に行ってきました。
10年用だったので、当然ですが10年ぶりの作業でした。

交通の便からしても、また10年前に行ったところと同じという理由からも、
新宿の東京都庁の地下にある発券所へ行きました。

ちょうど都知事のニュース絡みで多くの人が集まっていたり、
社会科見学の中学生がいたりと、とても賑やかな感じ。

10年前のことはスッカリ忘れていましたが、パスポート申請のところにも
平日の昼間だというのに結構な行列ができていました。


申請のために、まず申請用の書類に記入が必要でした。
それから必要書類や写真の一式をもって窓口に並ぶ。

この窓口のシステムが少し面白いものでした。

いきなり正式な手続き窓口には並ばない仕組み。
まずは書類や写真の不備がないかをチェックする窓口があります。

細かく確認をしてくれる担当者がいて、書類に穴がないようにしてくれます。
それから正式な手続き窓口のほうへ移動する。

正式な窓口のほうでは書類を出すと、あっという間に作業をして
すぐに受取日の連絡まで、一気に段階を進めてくれました。

事前にチェックが済んでいるからこそ、スピーディーに行けるんでしょう。

ところが、この事前チェック窓口と、正式な手続き窓口とで
数に偏りがあるんです。

正式な手続きのカウンターは横に長く、沢山の人が座っていて
大きめな銀行の窓口のような形をしています。

一方、事前チェックの窓口は3つしか受付がない。
なので入口の近くから窓口に向かってズラッと行列ができています。

それを横目に、奥にある正式な窓口カウンターの前はガラガラで
待合のイスも人がほとんど座っていない状態。

あきらかに最初のチェック段階で詰まっていました。

しかも僕が並んだときには外国人の手続きに手間取っていたようで
3つの内の1つの受付が全く進まず、事実上2つの窓口で対応する形。
当然、行列は長くなります。

そういう事情は僕の行ったときだけだったのかというと
どうもそうではないようで、後日パスポートを受け取りに行ったときも
やっぱり申請所の前には行列ができていました。

書類チェック用の窓口が足りないんだと思われます。

安易に考えると、正式な申請用の窓口のいくつかを配分して
チェック窓口と手続き窓口を同じぐらいの数に調整すれば良さそうですが、
何かの事情があるのかもしれません。


そのうちの1つは、僕が経験した限りではスタッフの処理能力です。

チェック窓口に求められる知識やコミュニケーション能力は、
正式な手続きの窓口で決められた作業を繰り返す能力と比べて
ずいぶんと高いものだろうと考えられます。

外国人が並ぶこともあれば、まったく手続きを知らずにやってくる人もいるでしょう。
必要な書類が足りないまま訪れてしまって、無駄足になる人だっているはずです。

事前にホームページなどで調べれば戸籍謄本が必要なことは分かりますが
普通に区役所に行くようなつもりで何も持たずに来てしまう人もいると思います。

戸籍謄本の発行は東京都ではなく、市区町村が行っていますから
人によっては遠いところまで取りにいかないといけません。
その苦労を考えると、二度手間になるのは気の毒です。

もちろん、自分で調べもしなかった責任があると言われればそれまでですが、
そういう風に考える人が全てではありません。
むしろ「教え方が不親切だ!」、「誰もがインターネットで調べられるわけではない!」
などと怒る人だっている可能性があります。

そういう厄介な事情に対応するだけのコミュニケーション技術も
事前チェックの受付には求められるはずです。

実際、僕も今回は、写真の件で二度手間になってしまいました。

ホームページで調べて証明写真が必要だと知っていたので
近所のスピード写真でパスポートサイズの写真を撮って、持参していたんです。

本籍地の区役所にも行って戸籍謄本を取るために並び、
色々と移動をしてから都庁のパスポート発券所までやってきた。

「面倒なことをこなしてから最終地点にやってきた」という印象がありました。

ところが僕が持ってきたスピード写真は、メガネに光の反射が写り込んでいて
パスポート用には使えないというんです。

このとき、ドライに事務的な説明をする人であれば
 「メガネが反射して光っている写真は使えません。
  もう一度撮り直して来てください。」
のように伝えて終わりでしょう。

しかし窓口担当者は、申請に来ている人の気持ちを汲み取る能力を持っていました。

分かりやすく問題点を指摘するだけでなく、ダメな理由も教えてくれます。
しかも、ダメな理由を手続き上の問題としてではなく、
申請者個人のトラブルの原因として指摘してくれました。
 「あー、こうやってメガネが光ってしまっていると、パスポートに使えないんですよ。
 ごめんなさいね。これだと目の色が分からないでしょう。
 海外だと目の色で本人かどうかを確認するので、
 この写真でパスポートを作ってしまうと、海外に行ったとき
 入国審査でなかなか通してもらえないと思います。
 ちゃんと目の色が分かるようにメガネが反射していない写真にしてもらえますか?」

そのうえで、写真を撮り直せる近くの場所も教えてくれて、
心配だったらメガネをはずして写真を撮っても良いとも指示してくれる。

(受付の部屋の目の前に、パスポート用写真でビジネスをしている写真屋があるのに
 半額ぐらいで済む普通のスピード写真の場所まで教えてくれました)

しかも、一通り説明をしたうえで、こちらの気持ちを配慮した気配りまで。
 「せっかく写真を持ってきてくださったのに、
 無駄になってしまって申し訳ありませんね。
 お手数ですけど、撮り直してきて、また持ってきてもらえますか?
 今、並んで待っていただきましたから、写真を撮って戻ってきたときは
 もう並ばないで結構ですからね。
 こちらをスタッフに見せていただいたら、そのまま手続きに進めますから。
 じゃあ、すみませんけど、お願いします。」

実際の負担として並ぶ必要がないようにしてくれていますし、
手間とお金が無駄になったことへの気配りも示してくれました。

それだけで気分よく手続きを進められると思います。


それに対して、チェック後の手続きのカウンターは、実に淡々としたもの。
ひたすら作業内容をこなし、こちらの質問にも素っ気なく返答するばかり。

手続きが終わっているのかどうかさえ不安になるぐらいのものでした。
スタッフとして自分の作業を完了させるのが意図になっている感じ。

どれぐらいの経験のある人なのかは分かりませんが、
書類に書かれたものを入力して、パスポート作成の流れに乗せ、
あとは申請者に受け取り日時の紙を渡すだけですから、
事前チェックと比べると随分とシンプルな作業だと思われます。

パスポートに関する実情について知識が豊富で
受付窓口としてのコミュニケーションにも長けている人が事前チェックを担当して、
慣れていない人が申請書類処理のほうを担当する。
そういう区別があるとも推測できそうです。

あとは事前チェックの窓口を担当できるスタッフが何人いるかという話。
確実性を採ると、正規のカウンターを余らせることになって
事前チェック窓口に行列ができるとしても、今の形に落ち着くのかもしれません。

もし無理やりチェック用のカウンターを増やしてトラブルが多くなってしまったら
そちらのほうが問題になる可能性もあります。

つまり現状のスタッフの教育レベルでは
この形が最善という判断かもしれない、という見方です。


僕個人の印象としては、
行列ができる場所には工夫の余地がありそうだったとはいえ
一番厄介なはずの書類確認を気分よく通過できるのは助かりました。

行列に並ぶのは「混んでいる」という理由づけだけで
意外と我慢できるものなのかもしれません。
日常生活のなかで並んで待つことは少なくありませんから。

とくに長く待つ回数が少ないのは喜ばれると思います。

これが仮に、書類チェックで並び、写真撮影で並び、書類申請で並び、
手続き終了のアナウンスまでにも並ぶ…などとなれば
トータルの待ち時間が同じだったとしても不満は溜まりやすい気がします。

目に見えて分かる行列の長さを指標に、一度必要なだけ待てば
あとはスムーズに待たないで手続きをしてもらえるという形は、
最初に覚悟したハードルだけを越えれば良いので
それ以上の不満が溜まっていくリスクは少ないと考えられます。

同じ込み具合を処理しなければいけないんだとすると、
一見するとアンバランスとも思える窓口配置が
実は効果的なんじゃないかと感じました。

役所の手続きのように、満足感を提供するタイプではなく
問題なく当たり前が維持されるのを期待されるタイプの仕事では、
不満を最低限に抑える工夫が重要なのかもしれません。

2016年06月18日

教えの立場

領収証を整理していると、本屋のレシートが少ないのを実感します。
本当に本を買わなくなってしまったんだなぁ、と。

ここ最近は語学関連は購入することがあっても
それ以外は少ないみたいです。

もっと本を読みたい気持ちはあるんですが、
どうも手に取ることが減っている感じ。

移動の新幹線や飛行機の中でも本を読むより
睡眠で体を休めようとするのも関係しているかもしれません。


そんな中でも買って読むことがあるのが、仏教関連の本です。

本格的な仏教書を読むわけでもなく、
かといって僧侶が書いた仏教的生き方のような本でもなく、
仏教全体の概説や、各宗派の位置づけの違いなどについて知っていくと
歴史的な観点からも面白いものだと感じています。

状況に応じて、相手に応じて、時代に応じて、
教えの趣旨が異なっているのでしょう。
そのあたりが宗派の違いとして表れているのかもしれません。

何を意図して、誰のために、どういうサポートをしようとしたか。
その観点で見ると個性の違いにも納得できる気がしますし、
内容は違えど「教える・伝える」ことを仕事にしている僕個人としても
スタンスを柔軟にして対応するヒントが得られそうです。

生活環境として厳しい時代に生まれた教えには
多くの人を苦しみから救うスタンスがあるように見受けられますし、
教えを信じることの比重が大きいように感じます。

一方、日常を離れて修行するようなスタンスでは
その非日常のコミュニティに属すための特殊な流儀があったりする。

僕がコミュニケーションや心理を学んできた過程でも
修行的にトレーニングする側面を好んでいたせいか、
仏教関連の本を読んでいても修行が強調されたものに
何か惹かれるところがあるみたいです。

特に、禅と呼ばれる流派は、本質へ一気に迫ろうとするように思えるので、
シンプルに重要なエキスを濃縮したようなトレーニングを好む僕には
違う分野ながらも教わるところや賛同するところが多いようだと感じます。


禅というと、いわゆる禅問答や座禅が有名だと思いますが、
いずれにしても仏の教えを頭で理解して知っているのではなく
心と体でどのように納得していくかを狙ったものだそうです。

それだけ実践の側面が強く、仏教を学ぼうとする人たちと
立ち位置の違いを強調したかったところがあるみたいです。

元々インドで生まれた仏教が中国に伝わってきたときに
経典が伝わってくる順序や脈絡がズレてしまったことから
教え同士の関連性を調べたり、全体像を整理したりする動きがあったんだとか。

するとどうしても客観的で知的な理解になりやすかった。
それに対する実践的な立ち位置として禅が生まれた。
そんな話を読みました。

だからなのか、ちょっと過激なユーモアも含まれているらしく
「シッダールタ(釈迦)の言葉をあれこれ解釈するのは
 シッダールタが尻を拭いた紙を後生大事にするようなものだ」
みたいな表現さえあるらしいです。

カリスマの言葉をありがたがって自らは実践しようとはしない
…そういうのはどの分野にもあるもののように見えますが、
仏教の伝統の中にもあった話なんでしょう。

と同時に、禅にこのようなスタンスが表れるのは
言葉では理解できないところを伝えようとするからでもあるようです。

言葉を通してでは、どうしても頭で知的に理解しようとしてしまう。
もっとストレートに、言葉以外の部分で伝授していく部分が大きい。

だからこそ頭で考えようとしても無理のある禅問答を出したり、
言葉を止めて座るなかで体得していく座禅をしたりする、と。

この辺もコミュニケーションのトレーニングで重要になる部分だと感じます。
言葉ではないところで伝わるものが大きな違いを生みます。

しかしながら、言葉ではないところでの伝達は
それ相応の関係性やトレーニング量が関わるのでしょう。

ある程度の覚悟が必要なようです。

気軽に学んで、すぐに自分の課題が解決して、悩みのない日常に戻る…
そういう種類のものではありません。

そこで面白いのが、禅宗で修行の道に足を踏み入れるときには
儀式として「一度、断られる」ステップが入る、ということ。

覚悟を試すとも言えますし、心理学的には
修行のコミュニティに入るための通過儀礼だともいえます。

よく芸人や落語家が弟子入りするときに
師匠の家の前で一日中待っている、なんて話がありますが
断られても「そこを何とか」と粘るような時間を体験するらしいんです。

もちろん、このハードルの高さが修行を続ける覚悟を磨くにも役立つのでしょうし、
弟子をある程度は選抜するような効果もあるのかもしれません。

ただ僕の印象としては、それ以上に
 そこまで大変な思いをしなくても大丈夫じゃないか?
と示唆してくれている部分もあるように感じました。

修行の末に苦しみから解放されるとしても、
いずれは何かしらの形で日常に戻っていくわけです。

だったら早いうちに苦しみを楽にして日常に戻ったって良いだろう。
わざわざ大変なところにいかなくても良いのでは?

そんな配慮も含まれているような気がしました。


やみくもに広げようとするのではなく、教えが必要な人に届くようにする工夫。
そのあたりにも「教える・伝える」立場として学ぶところがあるように感じています。

cozyharada at 23:06|Permalinkclip!全般 | コミュニケーション

2016年06月15日

目的もなく勉強する

フランス語の講座に通い始めて1年ちょっとになります。
そろそろ次のステップかと感じ始めてきたあたり。

英語やフランス語など人気のある語学は
比較的多くの大学で公開講座として扱われています。

いわゆる英会話スクールのような形よりも安価に受けられる印象です。

まぁ、大学の講座ですからマンツーマンではないものの、
マンツーマンが必要になるタイミングは
ある程度の基礎が身についてきてからかとも感じますから、特に学習初期は
10数人程度のグループで授業形式というのも効果的なものだと思います。

今、僕がとっている講座にも10人ちょっとの受講生がいますが
その幅の広さは他の環境では滅多に体験できないものじゃないでしょうか。

年齢層でいうと、上は80過ぎのマダムから下は女子高生まで。

職種としても仕事帰りにやってくる会社員もいますし、主婦もいます。
会社経営を退いて顧問程度に悠々とした生活をしている人や
会社を定年退職して都心から離れたところに住んでいる人もいれば、
70を過ぎても働いている会計士、大学の名誉教授なんかもいます。

日本語・英語の比較言語学の教授をしているアメリカ人も来ていますし、
インドの都市開発プロジェクトをやっている建築士(日本人)なんかもいて
なかなか国際色も豊かな感じ。

英語に興味を持つ人と比べるとフランス語をやる人は少ないせいか
学生時代にずっとフランス語をやっていたとか、フランスに住んでいたとか
フランス語圏のアフリカ諸国と行ったり来たりしている人とか、
国際経験としても初めて聴くようなエピソードが多く耳に入ってきます。

最年少の女子高生もベルギーからの帰国子女です(ベルギーはフランス語)。


そんなバリエーションが豊富な受講生ですが、
世間一般の人と同じような傾向が見て取れるところもあります。

受講理由の話題になったときです。
「なぜフランス語を勉強することにしたのですか?」という話。

日本の教育で「なぜ?」に対しての答え方を
『原因』と『目的』の2つに区別する発想は、習った記憶がありませんが
フランス語の先生はハッキリと分けて説明しています。

原因は「なぜなら、〜だったから」という形。
目的は「〜するために」という形。

公開講座のフランス語だと受講生の年齢層が幅広いため
受講理由として原因と目的の両方が表れます。

そして若い人ほど目的で説明しやすく、
高齢の人ほど原因で説明する傾向があるようです。

目的にはどうしても将来の想定が含まれますから
若い人のほうが目的意識が高いものなのかもしれません。

・アフリカでの仕事で使えるように(目的)、
・フランスに旅行に行ったときに会話ができるように(目的)、
・せっかくベルギーに住んでいて話せるようになったフランス語を
 もっと使いこなして将来に活かしたい(目的)
などは目的の例でしょう。

一方、原因に意識が向く人の多くは、端的にまとめてしまえば
「なんとなく興味があるから」
でしかありません。

あとは細かい話として、
「娘がここの大学に通っていて、家族には割引が適用されるから」
といった理由の人もいましたが、これだって
そもそも「なぜか関心があったから」という原因なしには受講に繋がらない内容です。

ある程度の割合の人は、「ただなんとなく勉強したい」という
純粋な興味・関心だけを出発点にしていて、
 「それが何の役に立つか?」
なんて気にしていないんです。

ところが若い世代には「〜のために」、「〜に役立つから」などと
フランス語の勉強を、目的達成の手段と捉える人が多いようなんです。

やはり無難な会話の入り口は「どうしてフランス語をやっているのか?」あたりですから
どうしたって僕もフランス語を勉強する理由について質問されることがあります。

僕の場合、とくに目的はありません。
なんとなく興味が沸いたから。

とくに勉強したいことがなくなってきて、
スペイン語の授業を英語で受けられる機会があったから
それだったら楽しめるかなぁと思って始めたタイミングが去年。

高校のときの第二外国語がフランス語だったので、どちらもラテン語系で似ているため
両方同時にやれば習得効率が良さそうだと考えてフランス語も再開しました。

結局、スペイン語は講師のラテンのノリについていけず中断して
今のところフランス語に集中しておいているという感じです。

ある程度の形になってきたあたりで先生を選びながらスペイン語をやってみるか、
ロシア語かドイツ語かオランダ語でもやってみるかもしれませんが、
いずれにしても何となく勉強を続けたいからというだけの理由でしかありません。

その関心が現時点ではフランス語に向いている、と。

このように「なんとなく何かを勉強したい」という動機が
なかなか理解してもらえないんです。
かなり不思議がられます。

仕事で使う必然性のある人からすると
 なぜわざわざ好きこのんでフランス語なんかを勉強するんだ?
という話なのでしょうか。

一方、高めの年齢層の人たちは、そのあたりのことについて質問しません。
自分がただの興味から趣味として勉強しているという自覚があるせいか、
単純にフランス語の勉強を楽しんでいる様子が見て取れます。

そして、そんな風に純粋な興味・関心から勉強を楽しんでいる人ほど
話題がフランス語そのものになるんです。

若い世代ほど仕事の話とか、何にフランス語を使いたいのかとか、
どういう経歴の人なのかとか、その人の生き方や目標に関心が向くようですが、
年齢層が上の人は、どうしたらフランス語が身につくかとか
どうやって単語を覚えているかとか、フランス語学習について話したがります。

言うまでもなく、フランス語の勉強を楽しんでいるのは
純粋な興味から勉強を続けている年齢が高めの世代。

必要に迫られてやっている若い世代と比べると予習・復習も入念です。
一生懸命さも違います。


どちらの習得が速いのかは分かりません。

必要に迫られる人のほうが使う機会が多かったりもするでしょうから
一概に比べることもできないでしょう。

ただ、僕が一緒に講座を受けていて気分が良いのは年齢が上の人たちです。
皆、本当に楽しそうな様子で時間を過ごしています。

講座の時間が夜だというのも、講座そのものに集中しやすい理由でしょうか。

昼間のカルチャースクールなんかだと、講座そのものに加えて
終わった後のティータイムのおしゃべりを楽しみにする人もいるようですから。

別に友達を作りに来ているのではなく、ただフランス語を勉強したい。
そういう動機の人と一緒に過ごすと、なんだか少しホッとします。

将来どうとかなんて考えずに、ただ今やりたい勉強をする人たちです。

ともすると「いくつになっても勉強できるなんて素晴らしい」と感じるかもしれませんが
年齢を重ねてきたからこそ、ただ勉強する楽しさを味わえるのかもしれません。

単純に勉強をしたいだけの僕からすると、そうした人たちと同じ場にいられる時間は、
ちょっとした気休めにもなっているような気がします。

一般に見受けられるような、必要に迫られて何かを身につけようとするスタンスは
切実さがあってモチベーションの強さが刺激的ではある反面、
何者かに駆り立てられるような慌ただしさも感じます。

その点、フランス語講座にいる高めの年齢層の人たちには
必死さも駆り立てられるような焦りもなく、落ち着いた雰囲気があります。

ただ勉強を楽しむ。
そういう環境も良いものだと感じます。

とくに急いで身につける必要もありませんから
これからも少しノンビリと勉強していこうと思います。

cozyharada at 23:21|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年06月12日

2016選抜展

選抜展には、これを出品しています。

木簡の臨書です。

2016選抜






























もっと伸びやかな感じを出したかったんですが、
どうにも難しかったです。

余白を作りながら1文字ずつの粒立ちが良い感じにしようとすると
なおさら縮こまった雰囲気が出やすいのかもしれません。

もう1つは筆の軌道がポイントになるような気もしています。
実際の長さ以上に伸びやかに見せる方法があるみたいです。

2文字目の『沙』なんかは、”さんずい”を少し左に寄せて
3つの点の感覚を不均等に詰めてやると、
相対的に”つくり”の「少」が大きく見えたようにも思えます。

そして”さんずい”が左に寄ったぶん、「少」の左の点の書き始めも左に寄る。
合わせて右の点も紙の端まで寄せて、大回りする感じで”左払い”に繋げる。
そうするとグルッと遠回りするぶんだけ長さの感じが強調されそうです。

他にも何文字か工夫をしたら、もっと伸びやかにできたことに気づきます。

ある時期に集中して書く作業をしてしまうと、
客観的に振り返るのが難しくなるんだろうと感じられました。

写真に取ると客観性は上がりますが、表装する前だとそれも難しい。

とくに展示室のように広いところに並ぶときと、狭い室内で見るときでは
大きさの印象が随分と変わってしまいます。

家具を買うときに似ているのでしょうか。
広い店で見たときには丁度よさそうだったのに、家に持ち帰ってみたら
思いのほか大きくて場所を取ってしまった…というような。

そのあたりのことを踏まえながら、伸びやかに大きく見せる工夫が
今後の重要な課題になりそうです。

cozyharada at 23:22|Permalinkclip!全般 | NLP

2016年06月10日

小さくなるには?

やっぱり気になって、『アントマン』のDVDを借りて見てしまいました。

以前にも書きましたが、どうにも僕の考え方の癖として
アントマンの設定だけは過剰に気になってしまうんです。

同じマーベルのシリーズでも、アベンジャーの系統だとかX−MENであれば
設定のあり得なさは無視して楽しめるんです。

アイアンマンなんて手の平と足の裏から出るジェット噴射で空を飛ぼうとしたら
空中の姿勢が制御できないだろうとは思います。
それでも、そんなこと以上にあり得ない科学技術が満載ですから
もう架空の話として割り切れるんでしょう。

ハルクなんて仕組みを気にしても仕方ないレベルですし、
スパイダーマンの設定は「夢があるなぁ」ぐらいなものです。

遺伝子組み換えを使った研究をしていた僕からすると
「突然変異によって特殊能力を獲得」という設定はメチャクチャに感じますが、
スパイダーマンにせよ、もっと思い切った能力が出てくるX-MENにせよ、
”超能力”という架空の設定だと割り切れるだけの大胆さがあると思うんです。

何より、アベンジャーにも登場するマイティー・ソーは
キリスト教が一般的なアメリカなのに神様の一人として描かれています。
絶対神としてのGod と矛盾しても気にしないぐらいの大袈裟な設定こそが
アメリカンコミックのヒーローを楽しむうえのポイントなのかもしれません。

言い換えると、「この映画の世界は、こんな設定の架空の世界です」となれば
その設定を前提として見られるので違和感がない、ということです。

「こういう設定の世界ですよ」と架空の世界観を設定してもらえれば
あとはその世界の中での話として、”こっちの世界”の知識は抜きにして
ファンタジーを楽しめるようです。

それなら宇宙で戦争があっても、エイリアンが出てきても、死神が出てきても、
特殊能力を使うヒーローがいても、タイムトラベルをしても、
「そういう設定のお話」として割り切ることができます。


ところが『アントマン』は微妙なリアルさを感じてしまうんです。

舞台となる世界はアベンジャーズと共通するらしく
一部の人物が重複して出てきたりもしていますから、
アイアンマンやハルクやソーと同じぐらい架空のものとして理解しつつ
単純に「小さくなれるヒーロー」として楽しめばいいんでしょう。

それを許してくれないのが
 主人公の能力で小さくなるわけではなく
 画期的な科学技術を使った特殊なスーツを着ると誰でも小さくなれる
という設定です。

ここにどうも科学の視点を引っぱり出されるトリガーがあるみたいです。
つい「科学的にどういうことか」を考えたくなってしまいます。

そのうえ、おそらくユーモラスな作品にするためだと思われますが
妙なリアリティを表現してくるんです。

「普通の大きさの世界から小さな世界を見たら…」という視点が
単純なヒーローの戦闘シーンにはあり得ない、コミカルさを生み出しています。

あんなにカッコよく戦っているのに、普通の人の目線から見たら
物凄くスケールの小さい戦いをしている。
その様子を一般人からの客観的な視点で表現したりしています。

だからこそ笑える要素なんですが、その客観性が
架空の世界の設定という暗黙の了解を減らしてしまうのでしょう。

これは描かれている世界が日常的であるほど
そこに自分を投影しやすく、リアルに感じられるという性質だと考えられます。
ホラー映画が日常的な世界で展開するのと同様です。

宇宙戦争で人が死んでも怖さはないのに、
街に表れた殺人鬼に殺されると怖い。
世界が日常に近いほど「架空の世界」という設定の印象が薄れて
「現実にこんなことがあったらどうしよう…」という恐怖を生みやすいといえます。

予告編にもありましたが、アントマンには、コミカルな雰囲気を出すために
一般家庭の子供の部屋が戦闘場面になるようなシーンが描かれています。

この日常への近さが「架空の世界」という印象を弱めるため、
”こっちの世界”の科学のルールを適用して見たくなってしまうんだと思われます。


そして実際にアントマンを見てみたら、気になるところは更に増えてしまいました。

アントマンの世界では「原子間の距離を短くする素粒子」が発見されて、
その働きで物質を小さくすることができる、という設定だったんです。

いよいよ化学から素粒子物理の範疇です。

原子間の距離が小さくなるということは、原子半径が小さくなるわけですから
原子核と電子の距離が短くなることだと考えられます。

アントマンではアリに乗れるぐらいまで小さくなっていますから、
1、 2mmにまで縮んだとして、サイズは1/1000ぐらいです。

原子核から電子までの距離が平均的に1/1000になるには
どんな変化が必要なんでしょうか?

久しぶりにシュレディンガーの波動方程式とかを調べて
色々と考えを巡らせてみました。

その一方で重要なのが、
 アントマンは小さくなったときに体重が軽くなっている
という設定なんです。

アリにも乗れますし、人の肩に乗ってもも気づかれません。

原子間の距離を縮めるのと同時に
原子量も小さくすることができる…?
もう分かりません。

質量が軽くなったら電子の軌道は遠ざかりそうな気もしますし…。

なんとか説明がつくんだろうか?と、2,3日の間
チョコチョコと調べながら考える時間が続きました。

結局ダメだったんですが。

まぁ、ある意味では、映画2時間以上に
だいぶ長い間楽しめる作品だったということかもしれません。

cozyharada at 23:06|Permalinkclip!全般 | 心理学

2016年06月07日

選抜書展に出品しています

例年1月の初めに開催される独立書展には
教わっている先生の指導で僕も毎年出品しています。

数えてみると、これまでに6回出しているようです。


で、実はこの独立書人団が開催する展覧会は年に2回あるんです。

1月に加えて夏ごろ。
上野の東京都美術館で開催されます。
今年は6月11日から19日まで。

こちらは「選抜書展」と呼ばれていて、
1月のいわゆる「本展」が全員の作品を陳列するのに対して
こちらでは審査に通ったものだけが並ぶシステムです。

スペースの関係とかもあるのかもしれませんが、
全部で数百点とコンパクトに収まっている展覧会だと言えそうです。
(ちなみに1月の本展は2000点ぐらい)

その選抜書展に今年は僕も出品してみました。
一応展示してもらえるようなので、期間中には足を運んでみるつもりです。


今まで選抜書展には出品せず、本展だけに出品していた理由には
先生の指導が関係していました。

選抜展のほうが生徒一人一人が頑張る度合いが大きいんです。

もちろんアドバイスはこまめにしてもらえますが
全体構成から文字の組立てなど、基本的に自分で考える必要があります。

自分でやってみて、それから先生にフィードバックしてもらえる。
自分主導で進めていく感じなんです。

そのため教室から出品しようという人数も少なくなります。
実際、僕も今年が初めての出品でしたし。

ちょっとハードルが高いような印象を持っていたんだと思います。

ただ僕の中で、そろそろ構成を考えるような練習も必要かと感じ始めてきた。
それで今年は気軽なつもりでやってみようと考えました。

自信がついてきたというわけではありません。
むしろ壁を感じてきたというところでしょうか。

普段の練習では一文字一文字に注意が向いてしまって
全体の構成を考えたり、表現方法までの工夫は練習できません。
筆遣いやバランスのとり方がメインになります。

しかし作品として大きな紙に書くときには全体構成が重要なようです。

特に「作品感」というか、書表現としての工夫が求められるみたいなんです。

これをトレーニングするには、構成とバランスを工夫しながら
自分なりに考える努力が必要だと感じていたんです。

それを実践するには展覧会への出品が手っ取り早い。

そういうことで今年は選抜展にも作品を提出しました。


どんな練習にも共通するかもしれませんが、
個別の技術練習だけには含まれない実践の要素というのもあるようです。

野球であればキャッチボールやノック、バッティング練習を繰り返しても
やはり試合形式を繰り返して実践経験を積む必要もあるでしょう。

カウンセリングの場合も、個別の技法の練習に加えて
一通りの形としてセッションを通して実践する必要もあります。

つまり、個別の技術トレーニングと、実践形式のトレーニングと
両方の側面が重要になる、と。

野球の場合には練習試合、
カウンセリングの場合にはセッショントレーニングなど、
実践(本番)とほぼ同じ形の練習が可能です。

ところが書道教室には、あまりこの実践形式の練習がないようです。
少なくとも僕が普段やっている書道の練習は
個別の技術練習の度合いが強いんです。

実践形式でトレーニングをしようと思ったら
実際にやってみるしかない状況なわけです。

とはいえ、自分だけで勝手に実践形式で練習しても
充分な効果をあげられるほどのトレーニングにするのが難しい。
我流になってしまうリスクがあります。

やはり専門家から指導を受けながらトレーニングしたいところです。

そういう風に考えると、作品の形で実践的な指導をしてもらう機会は
最大限に利用したいものだと思います。

作品制作には相応の時間がとられますから
来年もできるかどうかは分かりませんが、
今後もタイミングを見てやってみたいと考えています。

cozyharada at 23:24|Permalinkclip!全般 | NLP

2016年06月05日

演歌の魅力に気づき始めました

ここ最近、八代亜紀の味わいが感じられるようになってきた気がします。

もっと広く「演歌が好きになった」と言えるのかもしれませんが、
そこまでの思い入れがあるほどではありません。

今の時点では「八代亜紀がスゴイ」というところ。


別に好きになろうとして好きになったわけではありません。

それでもキッカケとなる出来事はありました。
大きくは2つ。

1つは以前見たテレビ番組です。
何人かの歌手が集まって歌について語る番組でした。

そこで八代亜紀が自分の歌い方について説明していたんです。

「感情を入れて歌わない」と。

歌い手が感情を入れて歌ってしまうと、それは歌手の歌になってしまう。
でも演歌は聴く人それぞれのものなんだ、と。

あえて感情をあまり入れずに歌うことで
聴く人が自分を投影する余地を作るようにしてから、
演歌歌手として人気が出てきた…。

そんな話だったかと思います。

人の心を打つ伝え方は大きく2通りに分けられます。
 ・自分が感情に浸って伝えることで、共感や同情をしてもらう
 ・相手の心に響くことを思いやりを込めて伝える

もちろん、どちらも人気が出るでしょうし、人を感動させるものです。
セミナーでもプレゼンでも両方のやり方が可能です。

カウンセリングでカウンセラーが自分の感情に浸ってしまって
クライアントに同情される形は一般的ではありません。
主役はクライアントだという発想が主流です。

演歌も通じるところがあるのかもしれません。

人気のある歌手でも、自分が感情に浸るタイプも多々見受けられますが、
演歌では聞く人の心に響くように歌う、ということなのかと思いました。

僕にとって、この着眼点は新鮮だったんです。

それまで僕が歌を聴くときは、僕が歌手に共感する形で
歌手目線に入りこむようにして歌を味わう部分が大きかったからです。

映画を見る感じに近いと思われます。
その世界観に入りこんで仮想体験する。

ところが演歌では、自分の世界に対して
歌が共感してくれようとしているようなんです。

自分の世界に浸りながら、演歌が自分の気持ちを代弁してくれるのを聞く。
ちょうどカウンセリングで、ねぎらわれるような体験でしょう。

そういう視点のシフトを知ったのが興味を持つ1つのキッカケでした。

自分に馴染みのあること(カウンセリング)と共通点を見つけたら
そこから理解をしやすくなった、というわけです。


もう1つのキッカケは、知人の話です。

その人は歌手やボイストレーナーを仕事にしていて
演歌歌手のバックで歌ったりもしているそうです。

で、演歌歌手の凄さを教えてくれたんです。

なんでも演歌は、曲ができたときから”あの歌い方”なわけではないんだとか。
デモテープの段階、楽譜の段階では、ただのメロディーでしかない。

そこに演歌特有の節回しをつけて、表現を広げるのは歌手なんだそうです。

で、ヒット曲は節回しが素晴らしく、
あのような表現を思いつくのはスゴイことだと聞きました。

言われてみれば確かにそうです。
フラットな楽譜を渡されて、そこから演歌に仕上がるまでのプロセスがある。
無限の表現のバリエーションが考えられるわけです。

その中で仕上がった1つ。
それを見つけられる演歌歌手のスゴさというのがある。

そういう着眼点でした。

要約すると、
 沢山の可能性の中から1つのベストを生み出す力
といった感じでしょうか。

その話を聞くまでの僕には、出来上がった曲のイメージしかなかったんです。
ですが実際には、いくらでもアレンジがあり得るはずです。

無数にあるアレンジの中から、人の心を打つ表現をしているのが
ヒットしている演歌だという話。

どれぐらい譜面から外すかという工夫をすることを考えてみると
雰囲気を表現しながらも過剰にしない範囲を見つけるのは至難の業でしょう。

そういう着眼点で演歌を聞くと、巧みなアレンジの幅に注意が向くようになります。

いわば僕は、その人の話を聞いて
演歌を聴くときの注目ポイントを教えてもらった、ということです。

実際に見聞きしているその1つだけを意識するのではなく、
他の可能性も視野に入れることで、選ばれなかった選択肢との対比ができます。

対比させる作業によって注意が集まり、何かに気づきやすい状態になって
漫然と流さずに関心を向けられるようになるわけです。

このような関心の高め方は、間違い探しにも似ているかもしれません。
1枚の絵だけを見たときには注目できない細かい部分でも、
間違いを探そうとして対比させたときには関心が向けられるようになります。


つまり、
興味の無かったものに関心を向けるためには
ー分に馴染みのあるものとの共通点を見つけ、
 そこを着眼点として注目できるようにする
同じようなもの(他の選択肢)と対比させることで差異を意識し、
 特徴を際立たせるための着眼点を探そうとして注目できるようにする
といった方向性がありそうだという話です。

,里曚Δ和召里發里箸龍δ姪世鯊山見つけられるほど着眼点が増えますし、
△里曚Δ蓮同類のものと対比させる数を増やすほどに着眼点が増えます。

いずれにしても、興味がないということは着眼点さえないはずですから、
共通点や対比を数多く見つけるほどに関心も向けられるようになるでしょう。

特に心がけていたわけではありませんが、
今まで興味がなかった演歌に対して、そういう作業をやるキッカケがあったようです。

あとは数をどれだけ増やすかですが、今のところ
そこまでの関心には高まっていません。

まずは八代亜紀の味わいぐらいに集中しておこうと思います。

cozyharada at 23:34|Permalinkclip!NLP | 心理学

2016年06月02日

シリアルの思い出

食べ物の好みは幼少期の体験に強く影響を受けるようです。

むしろ、
 慣れ親しんだものを美味しく感じる
という要素のほうが大きいような印象さえ受けます。

常日頃から食べ物のことを気にして行動をしてはいませんから
食べ物のことが意識にあがるのは何かのキッカケによるところが大きいでしょう。


「昼ごはんに何を食べようか?」という考えであっても
時計を見るとか、周りの様子が目に入るとか、
環境要因がキッカケになって浮かぶことが多いはずです。

そしてもちろん、食べ物そのものに関する五感の情報が入ったときにも
色々な記憶が想起されます。

例えば、深夜にテレビで食べ物の特集を見て空腹を感じるのも
食事に関する記憶が蘇って、「味わってみたい」感じとか
「物足りなさを埋めて満足したい」感じとかを思い出し、
「食べたい」という気持ちが自覚されたり、
あるいは
食事中の「お腹の具合はどれぐらいか」を意識する状態が引き出されて
その時間帯の実際の空腹感が意識に上がるようになって
「あぁ、ちょっとお腹が空いたなぁ。食べたいな。」と感じたり、
そういうところに依存していると考えられます。

スーパーやコンビニの食品売り場を見ても同様のことが起きるでしょうし、
まな板に包丁が当たる音や、何かを炒める音からも記憶は引き出されます。

匂いの影響も強いはずです。

僕は子供の頃、祖母と同居をしていて
祖母の食べられるものが限られていたため、
我が家ではブリの塩焼きを食べる頻度が高かったらしいんです。

だからといって特別にブリが好きなわけではありませんが、
記憶としては強く残っているようです。

春の終わりから夏の始まりぐらいの時期になると、
夕方、近所を歩いていてもブリを焼く匂いがしてきます。

子供の頃、夕方によく感じていた匂いです。
その瞬間、色々な記憶が浮かんできます。

好きだったという理由ではなく、昔を懐かしみ
「またあの時のような気持ちを感じたい」という愛着から
なんとなくブリの塩焼きを食べたい気持ちにもなりました。


同じく僕がふと昔を思い出すのが、シリアルです。

それほど頻繁だった記憶もありませんが、
朝食にコーンフレークなどを食べていたことは結構あったものです。

おそらくシリアルそのものよりも、牛乳の影響が大きい気がします。
毎日牛乳を飲んでいましたから。

シリアルを見ると牛乳を思い出し、両方が組み合わさった記憶が
子供の頃の朝の感じを記憶から蘇らせるようです。

毎朝学校に行くために早く起きて、朝食を食べる。
朝の明るい景色とともに、小学生の頃の活発な体の感じも思い出されます。

朝からイキイキと活力のある感じが、心のどこかに戻ってくるんでしょう。
そして現在と対比される。

当時と比べると重苦しくなっている体の感じが少し自覚されて
昔の元気さを取り戻そうとするかのようにシリアルが食べたくなる。

…そんなところかもしれません。

で、ときどきシリアルを買って朝食に食べるんです。

子供の頃にどうだったかは記憶にありませんが、
最近はシリアルを食べると、なぜかお腹の調子が悪くなります。

お腹が下るか、ガスが溜まってお腹が張るか。
ほぼ確実にどちらかになります。

それでも懐かしさや幼少期のポジティブなイメージが勝るみたいです。

記憶の影響は大きいものだと、つくづく実感します。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!NLP | 心理学
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
〜受け取ってもらう伝え方〜


【日時】 2017年8月20日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


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次回開催は9/10 & 9/24の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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