2016年09月

2016年09月29日

色々なセミナーのスタイル

自分でNLPのセミナーをやることは多いですが、
反面、他の人のを受けたり見たりすることは少なくなっています。

セミナーを受けるとしてもNLPの範囲からは外れていたり。

先日、物凄く久しぶりに、
僕がNLPの資格取得コースをやっている団体で
別のトレーナーが講座をしているところを見学してきました。

他の種類の講座の様子は見たこともあったんですが
NLPそのものは多分、もう何年も見ていなかったと思います。

分業しているというか、
別の場所で違うセミナーを担当することが多いからでしょう。


久しぶりに見学して、色々なことに気づきました。

もちろん以前に見たときとの違い、発展の具合もありましたし、
前には感じとれなかった工夫などにも気づけました。

ご本人の変化もあるでしょうし、
こちらの受け取り方が変わった部分も大きいんだと思います。

そして僕にはできないことを沢山やっていました。

技術的にというよりも、持ち味としてといったところでしょう。

つくづく素晴らしい講師だと実感しました。
コンサルタントとしても一流でしょうし、セミナーの先生としても凄い。

トレーナーとかカウンセラーとかセラピストとかの呼び名よりは
講師・コンサルタントとしての方向性が強い印象でした。

的確なのは「先生」でしょう。
啓蒙的なニュアンスが含まれます。

受講生に気づきを与え、軽いショックとともに反省させ、
力強く前に進ませるだけの意気込みを高められる。

何が問題だったのかという本質的なポイントを指摘するとともに
解決策としても光明を示すわけです。

「この方向に行けば、きっと良くなる!」と強く思わせることができるんです。
希望を与える感じでしょうか。

受講生自身の内側にあった「良くなりたい」という動機を引き出して
「頑張ろう!」という意欲を高めるスタイルだと言えそうです。

小さくまとまるのではなく、受講生それぞれが社会で活躍するために
一歩を踏み出させてくれる意味で啓蒙的だと思います。


一方、僕もその人も教わっていた先生は、メンター(師匠)のスタンス。

やることはカウンセリングやセラピーがメインですし、
技術的なトレーニングもしています。
当然、講義の部分もある。

ですが、メインは受講生を「成長させる」ところにありそうです。

セラピーの技術でいっても凄いのは言うまでもないんですが、
苦しむ人に手を差し伸べるようなセラピストの立場とは少し違います。

優しく包み込む雰囲気でセラピーをする一方で、
徹底的に自立をサポートしていく。
徐々に自分の手がかからなくなっていく方向で支援するんです。

技術のトレーニングもスーパーバイズが中心の印象で
効果的な練習方法を考えるタイプではなさそうでした。
(本人が思いつきでセラピーをするせいか、言葉での解説も曖昧だったり…)

内面的なところに訴えかけるような啓蒙の要素はなく
比較的淡々と進んでいくスタイルでした。

ただし、個人の成長を促すためにカウンセリング・コーチング的な介入や
セラピー手法を使ったトレーニングをして、
受講生本人が内面的に大きな学びを得られるようにはしているようです。

僕が見学した講師も、この先生を尊敬して参考にしているそうですが、
啓蒙的なスタンスや心を揺さぶる点では、メンターというよりも
やっぱり「先生」の感じが強そうなんです。


また、スピーカーと呼ばれるような人は、本人の実体験を交えながら
聞いている人たちの心を動かします。

話している本人が気持ちを込めて大事なことを「表現」しているため
聞いている側が感情移入しながら話に没頭できます。

主役はスピーカーの側だといえるでしょう。

聞いた側への効果としては
「こういう人がいるんだ!私も頑張ろう」
といった思いが出てくるところ。

パフォーマーと呼べそうな人も本人が主役という点では共通しそうです。

ただし、実体験に気持ちを込めるのがメインではない。
何かしらの技術を使って、自分が表現したいことを上手く作り上げていく。

完成度の高いパフォーマンスを見てもらう感じでしょうか。

スピーカーが想いをその人なりのやり方で表現するのに対して、
パフォーマーは練りに練ったものを完璧に作り上げていく印象です。

どちらも伝えたいものがあるという点では、「先生」とも共通しますが
先生のほうが、主役が受講生となる度合いが強い気がします。
受講生本人が内側から何かを湧きあがらせるように働きかける。

スピーカーやパフォーマーは刺激になりますし、
尊敬を集めてファンがつきやすい反面、
受講生の側が話し手から何かを「もらう」印象を受けます。
「良いことを教わった」、「刺激をもらった」のように。

僕が見学した人は、受講生の内側から意欲を引き出す点で
スピーカーやパフォーマーではなく、「先生」っぽいわけです。


トレーナータイプの人なら、受講生全体の動きをコントロールしながら
技術が向上して「できるようになる」ためにトレーニング方法を工夫します。

僕はチョットこの方向性に近いところがあると思います。

トレーニングを通じて、受講生同士に交流を引き起こして
全体がお互いの学びを促進させていくような雰囲気。

主役が受講生になる点で、ファシリテーター的な傾向も含まれる気がします。

トレーナー側にハッキリしたプランがあるわけではなく
その場で柔軟に効果的なトレーニングを組み立てていく感じ。

講座の進行なども厳密に予定と合わせようとはしないかもしれません。

また、カウンセラーやセラピストのようなスタンスで
集団を相手にする場合もあります。

これは別に、
職業としてのカウンセラーやセラピストがセミナーをする
という話ではありません。

同じようにカウンセラーという職業の人たちが講師をやっても、
スピーカーっぽくなる人もいれば、先生っぽい人、トレーナーっぽい人など
スタンスは様々です。

スタンスとしてのカウンセラー・セラピストというのは、むしろ
職業が何であるかにはかかわらず、人と接するときに
 相手の苦しみが楽になるように関わっていく
ところが特徴だと思います。

受講生の側としては、自分個人の問題が解消されて
楽な気分になって会場を後にするような感じ。

僕のスタイルには、こちらの要素も混ざっている気がします。

主役が受講生になる度合いが極端に高く、
何か自分の大切な想いを伝えようという啓蒙的な姿勢もない。

本人の中から「頑張ろう」という意欲を引き出すところもなく、
むしろ無理をしてきた苦しみから楽になってもらおうとする。

「先生」とは随分と違うスタンスなわけです。


そうやって考えてみると、僕が「先生」スタイルで
刺激を与えながら希望を示し、反省とともに力強く前に踏み出させる
ということをやるとしたら、普段とは随分と違ってしまうでしょう。

そういう意味で僕には真似ができなそうですし、
僕にはできない素晴らしい要素を発揮しているその人には
是非とも「先生」としての活動を続けてもらいたいと思ったんです。

世の中には「先生」を求めている人たちが大勢いるはずですから。
おそらくカウンセラーやセラピストが必要な人よりもずっと多く。

cozyharada at 23:59|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2016年09月26日

混乱が続いています

どうやらイギリスから帰ってきてからというもの
少しおかしなことになっているようです。

履きなれている靴を履いてセミナーを一日やったら
それだけで結構な靴ずれができてしまっていました。

その靴で靴ずれになったことは今まで一度もなかったんですが。

歩き方が少し変わったんだと思います。
少なくとも着地の仕方が違っていることは自覚できています。

それが良いのか悪いのかの判別も微妙なので
あまり気にしていないのが現状でしょうか。

客観的に見て、人の歩き方は
かなり他者の影響を受けやすい印象があります。

育った環境・文化で歩き方は似てきます。
遺伝的なところより、環境の影響が大きい。

出身地ごとに歩き方が違う、と言えそうなぐらいです。
日本にいても外国人の歩き方の違いは見て取れますし、
同じ日本で育った人でも、地域差さえあるように見えます。

他の人を見ていて影響を受けるところもあるのかもしれませんが、
もっとリズムに近い部分で影響されるんじゃないかとも思えるんです。

実際、二人並んで歩いている人たちは、かなりの場合
足並みをそろえ、同じタイミングで足を着地させるものです。

足音がバラけるのは心地良くないんじゃないでしょうか。

ここでいう足音にはタイミングもありますが、
着地のときの勢いなども含まれる気がします。

ペタペタ歩くのか、ドスドス歩くのか…など。

おそらく、このあたりの影響から
知らないうちに僕の歩き方に違いが出てしまったんだと思われます。

また、もしかするとセミナーによって受けた自分自身の内面の変化も
多少は関係しているかもしれません。

身体への意識の向き方が広がった自覚はありますから
意識の仕方の違いが動作の違いに結びついた可能性もあるでしょう。


とはいえ、歩き方ぐらいだったら「おかしなこと」とは感じません。

なんというか、頭の中が混乱した感じもあるんです。
出てくる言葉がおかしい。

今までのパターンも崩れている気がします。

先日、書道教室に行ったときのことです。

建物に入るために、エントランスでインターホンを押します。
大体、インターホンからは「はい?」という言葉が出てきます。
それに対してこちらから名乗ると、教室の中にいる生徒がドアを開けてくれる。
そういう流れです。

以前は、「こんにちは、原田です」と言っていたんです。

その日は何故か、「はい?」という声に慌てて
何を言っていいか焦りながら、やっと「…原田です」と言えたぐらいでした。

それまでのような手順が崩れていたようです。

さらに教室に入ってからも、他の生徒がやってきて
僕がインターホンに出ることになったとき、
返答がグチャグチャになってしまいました。

インターホンが鳴る。
応答のスイッチを押して「はい?」という。
スピーカーから、やってきた生徒の声がする、「○○です」と。

以前だったら、「はい、今開けます」といって
エントランスのドアを開けるスイッチを押していました。

それが何故か混乱していて、よく分からないけれど
「ありがとうございます…」みたいなことを口走っていました。

まぁ、小さな声で誰も聞きとれなかったようですから
大して恥ずかしくはなかったですが…。


普通に考えごとをしていても英語やフランス語が頭の中に浮かんできたり、
英語とフランス語がごちゃまぜになることもあります。

セミナーで話していても、言葉が浮かんできにくいこともありました。

イギリスにいた期間も一週間程度ですし、
一人で行動していましたから、それほど英語を話していたわけでもありません。

その割には混乱が長続きしている感じがします。

整うまでにどれぐらいかかるのか、ちょっと気になります。

cozyharada at 23:16|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2016年09月23日

言葉の研究

英語音声学会というところが主催する講演会に行ってみました。

イギリスからやってきている大学教授が
自分の研究テーマについて講演するものでした。

演者は二人。
それぞれロンドンにある別の大学で教授をしているご夫婦です。

夫婦で同じ分野の研究をしている教授だという話は
海外だとそれなりに耳にするケースだと思います。

普段どんな話をしているのか気になるところですが、
講演内容そのものは、それぞれの専門分野についてだけなので
その辺のところは知る由もありません。

ただ、家庭的なエピソードとして1つだけ興味深い話を聞けました。
夫婦で英語音声学をやっているとこうなるのか、といった感じ。

娘が小さいころ、歯が生え変わるときのこと。
乳歯が抜けて、出血して、娘さんが泣いていたんだそうです。

そのとき父親が近くにいたらしいんですが、
興味はむしろ英語の音声のほうに向いてしまったんだとか。

口から血を流している娘に、色々な単語を言わせてみたとのことでした。

歯が一本欠ければ、空気の通り方が変わります。
音の響きが変わりますから、特に「S」や「SH」の音(日本語のサ行など)は
音色が変わってしまうはずです。

そのことに興味をもって歯が抜けた娘に発音をさせた、と。

確かに一回目の発音は空気が抜けてしまって変な発音になっていた。
ところが、二回、三回と繰り返して言っているうちに
すぐに娘は発音に慣れてきて、ほんの数回ほど言い直しただけで
普段通りの発音に戻っていったそうです。

人間の適応能力の高さをうかがわせるエピソードだと思います。
幼少期からすでに、出すべき発音の基準が頭の中にできあがっていて
耳で聞いた音と合わせるように修正ができるということでしょう。

その順応スピードの速さには驚きもありますが、
娘の出血よりも自分の研究内容に興味が行ってしまうあたり
いかにも専門性の高い大学教授だと感じます。


そして講演内容は、さらに専門性の高いマニアックなものでした。

化学系、バイオ系で研究をしていた僕にとって
研究というと実験によってデータを取るものという印象があります。

心理学についても大学で勉強した時期がありますが、
アメリカの大学では心理学もサイエンスの分野に入るため
実験をしてデータを数字として評価するのが標準的です。

それもただ測定することに意味があるのではなく、
データを利用して仮説を検証するのが目的といえます。

一方、音声学では装置を使ってデータを取ったとしても
仮説を検証しようという度合いは少ないようでした。
(※その教授の研究がそうだっただけかもしれません)

特徴を調べて、まとめて、発表する。
場合によっては、グループ間で特徴を比較したりもするのでしょう。
そういうパターン抽出的な要素が強いように思いました。


特に二人のうちの一人は、古い論文をもとに
現代の分析方法を用いてデータを取り直すことをしているようです。

そうして昔の著名な言語学者のやっていたことの精度を
現代の尺度で改めて見直してみよう、ということみたいです。

その研究が今の社会にどのように役立つのかは僕には分かりません。

もしかしたら役に立つかどうかなんて関係のない分野かもしれません。

興味をもった。
調べたかった。
だから調査した。

そんなシンプルな思いでやれる研究活動というのも
なかなか贅沢なものだと感じます。

特に大がかりな装置が必要でもなさそうでしたし、
データを取るための実験試薬が必要なわけでもないでしょう。
研究費用も少なくて済むのかもしれません。

まして歴史と伝統がしっかりしているイギリスですから
過去の文献を探るのは得意分野にも思えます。

何より、僕が一番興味を持ったのは、
その教授から感じ取れた歴史への敬意のようなものでした。

昔の人はどんな言葉を使っていたのか?
それも文字に残る記録ではなく、話し言葉として、音声として、
今とどのように違う言葉を話していたのか?

英語という言語の変化を追いかけようとするスタンスには
言語活動に込められた人類の系譜を知ろうとする雰囲気を感じました。

シェイクスピアの時代から舞台演劇で継承されてきた英語がある以上、
日常的な言語の変遷にも興味を持つのは頷けるところかもしれません。

僕も日本語の変遷に、少し興味がわいてきました。

時代劇や落語、映画で耳にする江戸時代・明治時代の言葉は
本当にあんな感じだったんでしょうか?


サイエンスの研究において過去の内容は、
現代の研究における土台・前提という印象があります。
常に積み上げながら未来に進んでいく。

それに比べると、世の中にはむしろ
過去を発掘していくような研究分野もあるみたいです。

そちらはそちらで面白さがあるんでしょう。

2016年09月19日

【セミナー】良くなるとは何か?

ご案内: 10月16日(日)開催

   カウンセリング講座 〜良くなるとは何か〜



ずいぶんと久しぶりの開催になりますが、10月は講座を開催します。

内容はコミュニケーションです。
カウンセリングの技術をベースにしながら
日常的な範囲のコミュニケーションまで視野を広げます。

自分自身の内面的変化などは範囲外です。


テーマは『良くなる』ということ。


相手の関わりにおいて、相手のためを思い、相手に良くなってもらいたい。

では「良くなる」とは何でしょうか?


世の中のコミュニケーション技術は援助的なものが多い傾向にあります。
カウンセリングにせよ、コーチングにせよ、クライアントが主体というスタンス。

例えば質問法とか、いわゆる技術としての傾聴とか、
それぞれのコミュニケーションスタイルの中から技法だけを取り出せば
日常のあらゆる場面に活かしていくことは可能です。

子育てコーチングや、部下指導のためのカウンセリングなど
さまざまな方法が紹介されているようですが、その多くは
「コーチング・カウンセリングの技法や考え方を取り入れよう」という話であって
実際に「子供や部下に対してコーチやカウンセラーとして関わる」わけではない
と思われます。

つまり技法として相手の役に立つコミュニケーションをすることと
立場としてコーチやカウンセラーになることとはイコールではない、という話です。


そして日常の多くのコミュニケーション、特に関係性が近いときは
相手に対して関わるときの自分の気持ちが影響してきます。

自分の側のメリットのために、組織としての要求として、
親としての想いから、教師としての情熱を反映して…などと
自分の側の願望が関係性を複雑にします。

手法としてコーチングやカウンセリングの技術は役立つとしても
親や教師や上司は、プロフェッショナルとしてのコーチやカウンセラーとして
相手と関わるわけではありません。
一回の限られた時間のコミュニケーションに対価をもらうプロではない。

プロとしての立場を取るのであれば、主役は完全に相手自身であって
相手の人生は相手のものですから、そこにコーチやカウンセラーが
自分の想いを表していく必要性はありません。

どんなに自分の価値観と違うことを相手が求めていても
それがクライアントの望むことであれば、その考えを尊重するでしょう。

一方、関係性が近いほど、相手への気持ちもドライではなくなりがちです。
自分のために、お互いのために、相手のために、と
自分の側の願望が表に出てきやすいはずです。

こうなってくると、求められるコミュニケーションの方法も変わってくるでしょう。

プロとしての立場でなら活用できたカウンセリング・コーチングの手法が
近い関係だと空回りをする場合があるということです。


実際のところ、こういった話はよく耳にします。

コミュニケーション技法を教えるプロだったり、
カウンセラーやコーチをやっている人だったり、
トレーニングを積んでクライアントやお客さんとの関係は凄く良くなったのに
身近な人との関係になると対応が分からなくなる、というんです。

場合によっては、プロとしての使うときには効果的なメッセージが
家族に対して使ったときには「廻りくどい!」、「面倒臭い!」などと
かえって嫌がられる結果になってしまう、とかも。

もちろん「相手のためを思って」の関わりでもあるでしょうし、
お互いのためでもあるのでしょう。

しかし自分の想いが反映されているときには、ある種の技術を使うと
どこか相手をコントロールしようとしているような雰囲気を発してしまう…
という場合があるようなんです。

100%相手のためであれば気にならないものが
自分の都合を通すために技術で工夫しているような雰囲気が出る、と。

実際にそういう意図があるかどうかの話ではありません。
不自然な印象があったときに、相手からすると
「何かしようとしているのではないか?」という違和感に繋がるだけのことです。

これは主に、
非言語メッセージと言葉の内容との間の不一致
から生じると考えられます。

「相手のために」と気を配った形の言葉遣い(言葉の内容)
+相手に向けられた自分の願望が表れた表情や声のトーン。
この組み合わせが不一致なんです。

プロとして関わる場合は、
「相手のために」と気を配った形の言葉遣い(言葉の内容)
+自分の願望が含まれない表情や声のトーン
のように一致しやすいわけです。

相手のためを思っている内面と
実際に言葉として表れるメッセージとが合っていれば問題がない。

対人援助的なコミュニケーション技術は、プロとしての立場を前提にするため
相手のためだけの関わり方の方法として作られています。

だから相手のためだけを思っていられるプロとしての立場であれば
相手のための言葉の技術が効果的に働きます。

ところが、自分の想いが反映されやすい身近な関係性となると、
相手のためを前提とした言葉の技術に
自分のための気持ちが組み合わさってしまって、
受け取る側からすると不自然な雰囲気になりやすいようです。

この部分を
・言葉の内容の側面から(技術として)
・自分自身の気持ち/想いの側面から
両方で整理しようという趣旨
です。


相手のため、お互いのために「良くしたい」という想い。

そこに知らず知らずのうちに反映されてしまう自分の願望。

これを意識することで、コミュニケーションの技術を使い分けやすくなります。

その関係性においての「良くなる」が何なのかを明確にして
「良くする」ために効果的なコミュニケーションを選びやすくなります。

例えば、しっかりと話を聞いてくれることは支えになりますが、
親しい関係では一方が常に聞き役になるわけではありません。

本人の考えを尊重できるように質問で気持ちを引き出すのは効果的ですが、
質問によって相手の考えの方向を導いて自分と同じにするとなると、
相手に我慢を強いる可能性も否定できません。

技術が効果的に働くケースと、空回りしやすいケースとを整理して
それぞれの技術を意図をもって使えるように練習する予定です。


相手に良くなってもらいたいときに自分の想いが出てしまうのは
プロとしてクライアントやお客様に関わるときにもあることのようです。
特に、自分にとって大事だと思うことを仕事としている場合は。

教育や指導におけるコミュニケーション、
身近な人とのコミュニケーションなどを考える上では
とりわけ重要な内容だと思います。

カウンセリングなどの技法に興味を持って
実践的に使ってみようと思っている方にもお勧めです。

あまり”ワイワイと楽しい”種類のセミナーではないかもしれませんし、
むしろ、自分の気持ちに気づくための真剣さが目立つかもしれません。

座学ではなく、少人数制の参加型・体験型ワークショップです。
気軽なスタンスで積極的に取り組んで頂ければ幸いです。



※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。



◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。





【セミナーの詳細】

≪カウンセリング講座 〜良くなるとは何か?〜≫

【日時】  2016年 10月16日(日)
       10:00〜16:30


       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。




終了しました

自分自身が学んできた過程を振り返っても
技法そのものを教わる機会は多々ありました。

技の種類を求めれば限りはないですし、
手持ちのツールが増えていくような喜びもあったものです。

反面、それぞれの技法の使いどころは
実際に試しながら効果を見ていくしかありませんでした。

達人と呼ばれる人たちのやり方を参考にしたくても
こちらで見られるのは、彼らがカウンセリングやセラピー、
トレーニングや講座などをやっている場面に限定されます。

日常的なコミュニケーションを見る機会は本当に限られていました。

その意味でも、技法を場面ごとに使い分ける視点は
自らの実体験から得てきたもの、そして
クライアントの方々と協力して見つけてきたものとなっている気がします。

今回の講座では、こちらから提案する使い分けの方法もありますが、
「どういう風に考えれば自分で使い分けられるようになるか」という
着眼点をお伝えすることになると思います。

ご自身で気持ちと向き合いながら、
ご自分にとって最も役立つ形での技法の使い分け方を探る。

そういう時間としていただければと願っています。

ご興味がありましたらお越しください。

2016年09月16日

人間的成長

『成長』というと、なんだか
「もっと良くなること」のようなイメージを持っていました。

何かの技術を身につけたり、
前よりももっと上手く対応できるようになったり、
今までどうにもならなかったことに対処できるようになったり。

つまり「上達」や「向上」と結びつけていたようなところがあったと思います。

これは僕だけの話ではないかもしれませんが。


ここで「良くなる」というのは
 何かの目的に沿っていて、目的とするほうへ向かうのに役に立つ(効果的)
ことだといえます。

技術を身につけるにしても、その技術はその分野の中で役に立つもののはずです。

例えば、コミュニケーションの技術としてコーチングの質問を学んだとしたら
それができることでコミュニケーションに役に立つという前提がある、と。

もっというと「コミュニケーションに役に立つ」という中にも
 誤解がなく、もめごとがなく、お互いが気持ちよくいられて、
 しかも自分が望んでいるような関係性に進んでいく
などの想定があるでしょう。

仕事の技術においても、その仕事で求められる成果を出しやすくなるのが
「良くなる」という意味に当たると考えられます。

僕が書道の技術を磨いて上達しようとし続けているのも
書道の分野における基準に沿ったことがしやすくなる(=役に立つ)方向性です。

あるいは野球のバッティングで苦手な内角に対応できるようにするのも
「ヒットを打って得点に繋げる」という野球の目的に沿っています。

こういうのは「向上」なんだと思います。
「良くなっている」ということ。


ただ、気にしないでいると「良い」とされる内容に対して
それが当たり前のことのように捉えてしまいがちなようです。

「良い」とされることには目的とする方向性がセットになっている。
「こっちの方向に進むものだ」という想定があるわけです。

この想定を意識に上げなくても、頭の中で省略してしまって
「これが良いこと」という想定だけで対応できてしまいます。

そもそも何を求めていたのかを知らなくても
「これが良いことだ」と与えられた基準だけで
「向上」しようとすることもできます。

スポーツぐらいならシンプルだから心配には及ばないかもしれません。
ルールが設定されていて、競技の目的も決まっています。
ルールの中で決められたゴールに近づきやすくする努力が役立ちます。

ところが「良いコミュニケーション」とかになると
何をもって「良い」とするのかも曖昧です。

もめごとがないほうが「良い」のか、
積極的に意見交換がなされるほうが「良い」のか、
自分の思い通りに他人を動かすのが「良い」のか、
思いつくままに全てをぶつけ合うのが「良い」のか、
お互いを思いやって気を配るのが「良い」のか?

目的とする方向性が一概に定まらないわけです。
あくまで好みの問題。
価値観です。

ですから言い換えると、「良い」とは
 特定の価値観を満たすのに役立つこと
となります。

実際、英語のアカデミックライティングやディベートなんかだと
「○○が良い」という主張をするために話を組み立てますが、
そこでは「○○の選択をすると△△の価値観を満たせる」というポイントが
『理由』となります。

しかしこうした主張はどこまでいっても
「ある価値観を満たすのに効果的だ」という話でとどまり、
「価値観Aと価値観Bではどっちが大切か?」という結論には至りません。

価値の順列に基づいて最終的な結論を出すのは
もうただの好みでしかありません。

そうなると社会一般で「良い」とされていることだって
「暗黙のうちに文化で共有されている価値観に沿っている」
ぐらいの話だと思えてきます。

そういう風に考えると、「良くなる」ということは非常に曖昧なものだと感じられます。

スポーツや学校の勉強のように基準がハッキリした中での「良い」はともかく、
人生全般や人間関係などのように多様な価値観の中での「良い」となると
何をもって「良い」とするかは難しいものではないでしょうか。


その一方で、世の中には「人間的成長」とか
「個人としての成長」などの表現があるようです。

僕自身も「人としての成長」といった曖昧なものを
「良くなること」という更に曖昧なものと結びつけていたところがあります。

「人間として良くなる」とはどういうことでしょう?

この疑問に1つの結論を出すのは大変そうです。

ですが「成長」と「良くなる」を別物とすれば
「人間的成長」に関しては理解がしやすくなると思われます。


そもそも「成長」は「植物が成長する」、「子供が成長する」などのように
ただ「大きくなる」のような意味がありそうです。

もちろん進化論的に考えれば、大きくなることには
生存や子孫を残すうえでのメリットがあるのかもしれませんが、
もっといえば、植物や動物の成長はあくまで自然な時間経過です。

種から芽が出て、幹を太く、枝を広げながら大きくなっていく。
植物はそうなっています。

魚も時間がたつほどに大きくなっていきます。
広大な海の中で大きいことに何のメリットがあるかは分かりませんし、
身体が大きいほど餌の必要量が増えるデメリットもあるでしょうが、
それでも大きくなっていきます。

そういう自然な時間経過に伴った変化としての『成長』もあるようです。

人間的成長についても、自然と変化していくことだと捉えれば
それが良いかどうかとは無関係に捉えられそうです。

「なるようになっていく」という意味での成長には
「良くなる」かどうかとは別の話として
受け入れやすいニュアンスがあるような気がします。

できなかったことができるようになる「上達」は喜ばしいでしょうし、
目的に役立つ技術を身につける「向上」も楽しいものです。

ただ、そういうのとは別に
成長とはきわめて自然に起きることじゃないかと思った次第です。

cozyharada at 23:54|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2016年09月13日

【閲覧注意】黒い虫 cockroach

日本には嫌いな人が多い、あの黒い虫の話です。

苦手な人は読まないほうが良いかもしれません。


今回、イギリスにセミナーを受けに来て、
前後に時間に博物館などを見て回りました。

一口に博物館といっても、何を中心に
どんな趣旨で展示するかというのは随分と違いがあるようです。

僕は歴史系のものには、あまり興味を引かれないのですが
それが科学にまつわるものだと途端に面白くなります。

サイエンスミュージアムみたいな名前だと楽しい傾向がある、と。


で、訪れた科学系の博物館の中に、生物を中心としたところがありました。

骨格標本とか、はく製とか、標本とかが多いところ。

これはとても面白かったです。

人間を含めた数多くの動物の骨格や筋肉の様子を一度に見比べられます。
さらに人類の進化に沿った骨の様子なんかもありましたから、
現代の人間がいかに特殊かというのを幅広く見られたわけです。

そうやって一通り楽しく見終わったあと、別のフロアに移動しました。


そうしたら、そこは虫のフロアだったんです。

昆虫だけに限りません。
節足動物のコーナーといえばいいでしょうか。

一階は「動物」の展示ではなく、「脊椎動物」の展示だったようです。
そして二回が「節足動物」の展示。

チョウとかカブトムシとかなら気軽に楽しめたんですが
もっと子供受けしなそうなヤツがメインでした。

そこにゴキブリコーナーもあったんです。
ガラスケースの中に、まるでカブトムシでも飾っているかのように飼われている。

といっても日本によくいる『チャバネ』ではなく、羽のないタイプ。
アメリカとか沖縄にいる『ワモン』です。

まぁ、形はどうあれ、やっぱり迫力がありました。


ところが、です。

そうやってゴキブリを嫌なものとして見るのは世界共通ではないみたいです。

特にイギリスは緯度が高く、気温が低いため
普通の生活環境では繁殖しないんだとか。

めったに見ない虫なんだそうです。

だからこそ変な先入観がなく、
普通に珍しい虫の展示を見るような感じで見られるようです。

僕が行ったときも、ベビーカーで子供を連れたお母さんが
熱心に子供に説明をしていました。

「これはチョウチョウね。じゃあ、これは?そう、トンボねー。じゃあこれは?」
なんて。


認識や印象なんてものは、実際のところ
生活環境や文化によって刷り込まれたもののほうが大きいのかもしれません。

地域によってはゴキブリを家の守り神みたいに捉えるところもあるそうです。
日本でもヤモリを「家守」と書いたりして良いものと捉えるのと似ているんでしょう。

まぁ、そうはいっても見た目として
ヤモリのほうがカワイイ顔をしていると思うんですが。

cozyharada at 16:02|Permalinkclip!心理学 | NLP

2016年09月10日

イギリス観光しました

イギリスでのセミナー参加の前に、少しだけ観光をしました。

といっても時間が十分にあるわけではないですし、
僕は建物への興味もそれほどないので、
どうしても美術館や博物館めぐりが多くなってしまいます。

イギリスの大きな美術館・博物館は無料なことが多いようです。
寄付金を求める箱がありますが、まぁ義務ではない。

日本の美術館のように行列ができるわけでもないですし、
フラッシュをたかなければ写真撮影まで許可されています。

美術系の学生が授業の一環で集まって
引率の先生の解説を聞きながら見て回ったり、
デッサンをしていたりもしました。

油彩セットをもってきて、模写するのもOKみたいです。
しかも乾くまで美術館に置いていって構わない様子。

日本よりも名画がずっと身近にある感じがします。

とはいえ、ラテン系やアジア系の観光客が
名画と一緒に記念撮影している様からは、
やはりただの観光地でしかない側面も見て取れます。


先入観としては「英国紳士」みたいな偏見を持っていましたが
そんな人を見かけることさえありません。

ニュースやアナウンスの英語は
日本でも「イギリス英語」として聞けるような発音ではあるものの、
それ以外のところでは全く雰囲気が違います。

気取った感じとか、お高く留まった感じなんて、むしろないぐらい。

「ロンドンっ子」みたいな人たちは、
アメリカ人のテンションの高い陽気さや積極性とはまた違った
オープンで親切で気さくな明るさがあるようです。

パブに集まって過ごすことが多い習慣にも納得します。

なんというか、
日本でいえば小さな田舎町の親しみやすさに近いような気もします。

伝統が色濃く維持されながら、社会的な階層ごとに文化が守られていく。

日本などアジア諸国のように、高度経済成長の時期を経験したわけでもなく、
アメリカンドリームやフロンティア・スピリッツのように
「成功」や「獲得」を経験してわけでもないために、
「成し遂げよう」とか「もっと良くなろう」とかする発想が薄いのかもしれません。

自分の置かれた元々の環境で、毎日を楽しく生きようとする。

そこに、焦りや必死さが薄い、地元密着的なライフスタイルがあるんでしょうか。

なかなか興味深い環境だと感じます。

2016年09月07日

イギリスにやってきました

セミナー参加が主目的ですが、少し早めにイギリスに到着しました。

最近はWiFi環境が整っているので
色々なところでインターネットが使えて便利です。


英語は5,6年前に集中的に勉強を始めて、
そのあとは大学の授業を英語でとったり
週一回ぐらいで英会話教室に行ったり
英語のセミナーに行ったりしています。

しかし日常会話の英語をキャッチするのは大変です。

パッと話しかけられると準備ができていないんでしょう。
聞き返さないといけないことが既に何度もあります。

まぁ一度聞き返せば質問は分かりますから一応の返答はできていますが。


なので英語では今のところそんなに困っていないので一安心といったところです。

ただし僕の海外経験は非常に少ないんです。
過去にあるのは10年以上前にアメリカに一週間行ったことだけ。

NLPのトレーナーコースのときです。

団体移動でしたし、日本人も一緒だったので
もう皆のあとを追っかけるぐらいなものでした。

ですから今回のイギリスは人生二度目の海外。
初のヨーロッパ、初のイギリスということになります。
そして初めての一人海外、と。

どうやら最近のイギリスは入国審査が厳しいらしく
場合によってはパソコンの電源を入れさせられることもあるんだとか。

僕の場合は、「日本人が一人で初めてのイギリス旅行」
というのが引っかかったようです。
結構な質問攻めに遭いました。

友達はいるのかとか、誰かに会うのかとか、
具体的にどこに行く予定なのかとか、行って何をするのかとか。

セミナー参加以外は何も決めていないので正直なところ返答に困りました。
そして返答に困るから余計に質問をされるという悪循環。

ちょっと緊張しました。


それ以外は今のところ順調な感じです。

空気感とか全体のリズムとかではペースが合うというか、とても快適です。
ロンドン中心部から離れたところの車窓からの景色は
日本の田舎の感じとも大差ないように思えてしまいました。
違うのは建物がレンガ造りというぐらい。

ロンドンの中心部の街並みは石造りの建物ばかりで独特ですが
まぁ、そんなに気になりません。

どれが店なのかがパッと見で分かりにくいぐらいなもの。

良く言えば、すべてが街並みに溶け込んでいるのでしょう。
日本のように、近代化が進むとガラス張りの高層ビルが増える…
というのとは少し違うのかもしれません。

個人的にはイギリスのアナウンスが好きです。

飛行機でも地下鉄でも、イントネーションと内容が美しい。
すごく気の利いたことを言っているように聞こえます。

回りくどい言い方の裏を読むのは日本文化との共通点のような気もしますし。


残念なのは僕がお酒を飲めないこと。

お酒が飲めたらパブでイギリスらしさを満喫できたかもしれません。

IMG_0978

cozyharada at 23:03|Permalinkclip!全般 | コミュニケーション

2016年09月04日

国際化の波

札幌へ出張に行くと、意外と日本は広いんだと実感します。
気候が全く違いますから。

9月の頭だと、もう充分に秋といった空気でした。
陽射しも弱いし、気温も低く、カラッとしている。
雲の形も夏のものではありませんでした。

そしてその広さを象徴するように
札幌に最寄りの新千歳空港には全国から沢山の便が到着します。
なかなか大きい空港です。

九州や大阪、名古屋があるのはもちろん、
同じ北海道内の函館を結ぶ便があるのは驚きです。
北海道も充分に大きい。


それだけの大都市で観光地でもあるともなれば
日本各地だけでなく、世界中からも人が集まるのも当然なのかもしれません。
外国人も沢山います。

となれば空港の対応も外国人に向けたものが増えてくる。

モニターに映し出される便の案内も、空港内のアナウンスも
日本語、英語、中国語、韓国語と4パターンもあります。

こちらとしてはモニターを見ている時間の半分が
解読不明な情報になるわけですから、若干のもどかしさもあるところ。

搭乗窓口や荷物の預かりカウンターでも
もはや英語だけでは対応しきれないみたいです。

保安のために検査を厳しくすれば、
チェックするために中身を確認する頻度も高まります。
合わせて会話の必要性が上がるわけです。

そのたびに言葉の伝わりにくさで余計に時間がかかってしまう。

利用する側としても空港側としても厄介なことが増えているのではないでしょうか。


そしてついに先日、空港の搭乗口にも外国人スタッフを見かけました。

機内への搭乗のアナウンスをする係です。
自動改札のようなところに立っていて、飛行機の準備状況に応じて
乗客に登場のタイミングを伝える人たち。

なぜか電話の形をしたマイクでアナウンスをする人です。

そのアナウンスをしていたのが中国人だったんです。

もちろんアナウンス自体は日本語。
ただ出身は中国だろう、と。

顔も名前からも確認はできますが、それ以前にアナウンスを聞いたとき
その発音から中国語が母国語であることがうかがえました。

実際のところ、かなりの日本語力だろうとは思われます。
子音の発音なんかは自然でした。

アナウンス特有の声のトーンや、独特の節回しのようなイントネーションも
トレーニングを積んだのか、見て学んだのか、
とにかく他の日本人スタッフのアナウンスと同等です。

にもかかわらず、母音が違う。

伸ばすところや、小さい「っ」が入るところ、母音が重なるところなどが
短い1つの母音になってしまう傾向があるようでした。

全ての音節を均等な長さで発話するのも難しいのかもしれません。

他の部分がしっかりしているだけに、余計に際立って不自然な印象でした。


中国人観光客にも対応できるように中国出身のスタッフを置くのは重要なんでしょう。
その人が全体向けの日本語アナウンスをする理由は分かりませんが。

ともあれ、母音の癖を直すのは難しいものなんだろうと思いました。

国際化は今後もますます進む可能性があるでしょうから
外国語を使う人たちも増えるような気がしますし、
オフィシャルな場面でも外国語を使う必要性も高まるかもしれません。

そんなとき、日本語を母国語とする僕が違和感を覚えたように
ちょっとでも外国語なまりが含まれると気になることもあると想像されます。

伝われば構わないというスタンスもあるでしょうが、その一方で
相手に気を使わせないための努力もあると感じます。

国内線の機内の英語アナウンスなんて発音が英語っぽくありません。
英語しか分からない人のために気を使って英語アナウンスをしているはずなのに
聞く人のことを考えていないような話しぶりです。

お互いに歩み寄って理解し合おうという努力が前提となる関係性なら
多少分かりにくい言葉になっていても、「外国語だから」と寛容になりやすいでしょう。

しかしそれが相手のために相手の母国語を使うというケースになると
相手に気を使わせないように努力するスタンスが出てくるとも思うんです。

相手に負担を書けないための気配りとして多言語を用意するのであれば
その言語のクオリティ自体にも努力する余地がある気がします。

特に今回のアナウンスを聞いて「日本語の母音は独特なんだ」と痛感した僕としては
自分が楽なやり方をしそうなところほど気をつけたいと思いました。

自分が当たり前にやってしまうところほど
他の言語や文化からすれば違和感のあるところになる可能性がありますし、
自分でそのことにさえ気づけないかもしれないわけですから。

cozyharada at 23:46|Permalinkclip!コミュニケーション | NLP

2016年09月01日

近々イギリスに行く予定です

9月の前半に一週間ほどイギリスに行ってきます。

主な目的はセミナーへの参加。
より正確に言うと、内容よりも講師が重要な感じです。

コニリー・アンドレアスというNLPの大御所の一人に会ってきます。

コア・トランスフォーメーションと呼ばれる手法を開発したことで有名ですが、
一時期、体調を大きく崩して海外でのセミナーが不可能になったそうです。

それで、日本でコア・トランスフォーメーションを紹介するセミナーをやる際は
代わりに妹のタマラ・アンドレアスが来ることになったんだとか。

今回僕が受けに行くのと同じ内容のセミナーは日本でも開催されていて、
やはりそちらもタマラが担当するとのこと。

でも僕としてはコニリーのセミナーに参加したいんです。


僕は以前、あるプロジェクトの関係でコニリーの音声教材を翻訳したり
日本語音声の収録をしたりしていたことがあります。

だからコニリーの話は凄く耳に馴染みがあるんです。
一文が長すぎて理解がしんどいこともありますが、発音は聞きやすい。

おそらく僕の英語にはコニリーの影響が出ていると思われます。

そのあたりも個人的に思い入れがある理由の1つでしょう。


また、日本でセミナーをやる場合、通訳が介在されます。
頭の中が英語と日本語を行ったり来たりになってややこしいですし、
それ以上に時間が余計にかかります。

日本語と英語の性質の違い上、どちらかというと
通訳が話す時間のほうが長くなってしまうのが一般的です。

実習中心のセミナーでしょうから講師が一方的に話す時間が短い分
同じ内容を英語のみでやる場合より一日長くなる程度で済むようですが、
それでも進行の仕方はゆっくりした感じにはなると思われます。

価格にしても海外で受けるより、ずっと高額になります。
通訳代とか色々入るだけに仕方ないのでしょうけれど。

何より、日本で受けるほうが間接的な度合いが高まります。

開発者のコニリーからトレーナーのタマラへの伝達、
そしてトレーナーのタマラから通訳者への伝達。
大げさに言えば、2ステップ余計に追加されることになります。

非言語コミュニケーションの重要性が気になる僕としては
できるだけコニリー自身から直接的に受け取りたいとも思うんです。


あとは何となくの親近感でしょうか。

コニリーの話し方、動作、内面的な状態、頭の使い方…
そういった様々なところに自分との共通点を見出しているんだと思います。

若いころは頭デッカチで、クライアントの気持ちに共感しようとするよりも
「どうやったら問題を解決できるか?」と技術面に目が向きがちだった様子にも、
なんだか自分と重なるところを感じてしまいます。
(向こうのほうが先に通ったルートですが)

それから親近感を覚えるもう1つのポイントは、見た目です。

子供のころに同居していた父方のおばあちゃんと少し似ている。

僕が子供だった頃、70過ぎぐらいの祖母の姿に
60歳を過ぎたぐらいだと思われるコニリーとが
なんだか少し似てきている感じがします。

僕自身のおばあちゃんに対するポジティブなイメージが加わって
コニリーに対してもポジティブな印象を受けているのかもしれません。
(※もちろんコニリーのほうが見た目も実際も若いです)


そんなところからイギリスでセミナーを受けて来ようと考えたわけですが、
コニリー・アンドレアス自身はイギリス人ではありません。

コニリーはアメリカ人でコロラド在住です。
普段はコロラドでセミナーをしています。

体調が悪くなって海外でのセミナーを中止していたはずのコニリーが
なぜイギリスでセミナーをやるのか?

実際には、もう数年前から海外での活動を再開していたんです。
そのキッカケとなったのが、今回のセミナーの内容なんだとか。

自分の身体に対する意識が変わって健康度が上がった。
医者もビックリするような回復だったそうです。

そういう話だからこそ本人の思い入れの強さもあるでしょうから
ますますコニリー自身の様子を見ておきたいと思った次第です。


…ところで、
 「コニリーの健康状態が回復したのに
 なぜコニリー自身が日本に来てセミナーをやらないのか?」
という疑問については不明です。

いろいろと大人の事情もあるのかもしれません。

コニリーを日本に呼ぶのは難しそうな気がします。

cozyharada at 23:19|Permalinkclip!NLP | 全般
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《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

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《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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