2017年02月

2017年02月27日

マジックの映画

今年の3月は個人的にバタバタしそうです。
セミナーのスケジュールがタイトになる予定。

その前の余裕のある時期ということで
TSUTAYAにてDVDをいくつか借りてきました。

貧乏性とでも言いますか、まとめて借りると得になる仕組みなので
無理にでも4本以上をレンタルしてしまいます。

今回は見てみたかったものを2本と、
あとは「チョット気になっていた」ぐらいのものを2本。


ところが、結局印象に残るかどうかは事前の期待とは関係ないようです。

もともと見てみたかった新作のほうが忘れてしまって
そもそも何をレンタルしたのかさえ思い出しにくかったりします。

チョット気になっていた程度のものは、
まぁそれなりに楽しめることもありますし、
意外なほど面白かったりすることもあります。

先日見た「グランドイリュージョン」は僕にとって、思いのほか楽しい内容でした。

マジックの種明かし的な部分と、心理誘導としてのトリック、
そしてストーリーとしての騙し合いのようなところが
心理系の話を好む人には魅力的なのではないでしょうか。

退屈するところがなく、幾重にも騙しが繰り返されていく感じは
映画全体がマジックショーのような楽しさにも共通しそうです。

同時に種明かしの部分は、マジックの種を教えてもらえるときの好奇心や
推理モノで犯人やトリックが明かされるときの感じに似ていて
引きこまれるところがあると思います。

そういう意味で色々な楽しみがあった印象。
それほど期待してはいなかったのですが。

催眠術のくだりに関してはいくらか演出が過ぎる気がしたぐらいで
全体的には楽しい映画だと感じました。


催眠とか心理系の話が好きな人は、結構な割合で
マジックにも興味を持つことがあるようです。

人の注意や関心がどのように動くか、
人がどのように思い込みを持ち、どのように物事を信じるか。

そんなところに心理的な側面があるからでしょうか。

テクニックとしてのマジックではなく、
心理誘導の側面が強調されたストーリーでしたから
そういうところで余計に楽しめたのかもしれません。

2017年02月24日

プレゼンと講演

最近、プレゼンのことを考える機会が増えています。

1つは今、英語でのプレゼンテーションの講座に出ているから。
もう1つの理由は、別のプレゼンの講座について
ちょっとした依頼を受けていることです。

自分でやってみても、人のを見てみても、
教えられている内容を考えてみても、
対比として実感するところがあります。

僕が普段、講座でやっているのはプレゼンテーションではない。

人前で話すこと全てを「プレゼンテーション」と呼ぶことはできそうですが
いわゆる一般的なプレゼンテーションの意義は、
講座や講演とは違うところにあるのかもしれません。

目的こそプレゼンター本人の趣旨によって変わるとしても
短い時間で何らかの主張をするのがプレゼンのような印象を受けます。

伝えたいこと、表現したいことがある。
それでこそのプレゼンだろう、と。


その点、講座や講演は内容が重視される傾向があります。

「教える」、「シェアする」、「知ってもらう」などのように
聞く側、受ける側が「理解する」、「分かる」ことが大きな意味を持ちます。

客観性のある情報が多く、役に立つかどうかが重視され、
話し手本人の想い・価値観は主目的ではないでしょう。

もちろん、講座や講演でも熱い想いが表れたり、
直接的に価値観が語られることもありますし、
その内容で講座や講演をやる以上、その内容を大事だと感じる度合いは
少なからず話し手本人の中で高いことが多いとは思われます。

それでも、講座や講演では内容が重視されることのほうが多いでしょう。
多くの場合、聞く側には必要性があって聞きにくるはずです。

仮にどれほど講演者のファンだったとしても、その講演内容が
聞き手にとって全く理解不能なジャンルのものだったりしたら、
講演を聞きに行く理由はかなり減ってしまうと思われます。

同じ講演者で聞き手にとって興味のある内容のときと
興味がない内容のときと2つあったとしたら
ほとんどの人は興味があるほうに参加するでしょう。
そこに内容の重要度が表れていると言えます。

内容が重視される分、時間は長めに設定されることが多く
5分や10分の講演や講座ということは滅多にありません。


一方、プレゼンテーションとなると時間が短めです。

そして「聴衆に対して影響を与える」という意図が含まれやすい。
ただ説明をするのではなく、少なくとも心を動かしてもらう。

説得や啓蒙のような意味合いがあるだろう、と。

聞いている人が理解できるだけではなく、
納得してもらい、今までとは違う考えや行動に導こうとする。

プレゼンターが大事だと思うことを拡げる意義があるように思えます。

内容が主観的な側面を持っていて、
プレゼンターの価値観や想いを強く反映しているはずです。

話し手の主観的な気持ちが強く出て、
聴衆に新しい考えや行動をもたらそうとするのがプレゼン。
話し手が客観的な情報を伝え、その内容を求める聴衆に対して
求められている情報を伝えるのが講座や講演。

そんな特徴がありそうです。

例えば、パソコンのソフトの新製品があったとして、
それに興味を持っていない人に説明をして魅力を伝え
「それは良い」、「欲しい」という気持ちを持ってもらうのはプレゼン。

同じ商品でも既に興味があって、それを使う事情がある。
ただ何ができるのか、どうやって使うのかを具体的には知らない。
だからそのソフトの使い方を教えてくれる説明を聞きに行く。
これだと講演や講座の分類でしょう。

Why を重視するのがプレゼンで、
What、How を重視するのが講座・講演ともいえるでしょうか。


実際には両方の側面が完全に分かれることは少なく、
プレゼンでも内容に興味があるほうが魅力的に感じられるでしょうし、
講座や講演でも話し手の想いに共鳴できるほうが感動が得られます。

重なり合う部分はあったとしても、
どちらの側面を重視するかによって趣旨が変わってくるという話です。

そして当然ですが、同じように人前で話すとしても
プレゼンと講座では方法が異なります。

僕個人のことでいえば、プレゼンのほうが講座よりもずっと緊張します。

プレゼンという形態をとっていたとしても
客観的な内容を説明する度合いが強いほうが話すのが気楽になります。

短時間で影響を及ぼすことを心がけるプレゼンのほうが
高い密度で多くの工夫を詰め込む必要も出てくるでしょう。

努力目標も高くなりますから、緊張しやすいんだと思います。

その点、講座では受講生のニーズに応える側面が重視されますし、
長い時間の中でいくらでも調整できる余裕もあります。

話が途切れることがあったとしても講座なら問題にならず、
プレゼンだと問題になることだってあるかもしれません。

趣旨の違いがあるわけです。

そういう意味でいうと、僕が普段やっているのは講座であって
プレゼンではないように思えます。

とりわけ最近は、伝えたいことや想いなどもなくなってきていますから
プレゼンの側面はほとんど無い気がします。

裏を返すと、英語でプレゼンをやったときに緊張したとしても
英語で講座をやればもっと気楽にできる可能性があるということ。

まぁ、日本語ならプレゼンのほうも多少は頑張れるとは思いますから
英語でも同じようなプレゼンのレベルに近づけるよう努力しておけば、
どんな形でも気軽にできるようになるでしょうけれど。

cozyharada at 23:39|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2017年02月20日

問題意識〜心の癖に気づけるか〜

人には無数の心の癖があります。

パターン化された行動や感情、考え方など
自動的に起こるものは心の癖といっていいでしょうが、
特にワンパターンで他の選択肢がない状態は
「癖が強い」、「パターンが強固」、「柔軟性がない」といえそうです。

しかしほとんどの心の癖は、それがワンパターンであったとしても
それほど大きな”問題”になりません。

全ての人が心の癖をもっていますし
その癖の間で相性の良し悪しは生まれますが、
大部分は「よくある範囲」の結果に終わります。

ここでいう結果は、そこで起こるコミュニケーションそのものとか
その後の人間関係とか、相手との関わりから生じる利益だとか、
あらゆるものを含んでいます。

とにかく自分が外的な刺激に対して反応した結果のことです。

で、この結果に対して「望ましい/望ましくない」の評価がなされます。
単純に「好き/嫌い」の話です。

「望ましい/望ましくない」の評価は、基本的に経験がベースです。
慣れの問題。

慣れ親しんだものを快適に感じて「望ましい」とすることもあれば、
慣れていないだけの理由で不安を感じて「望ましくない」とすることもある。

特別なケースでだけ味わえる報酬と似た出来事であれば
喜びの記憶が引き出されて「望ましい」と評価されますし、
ストレスになるような出来事でも頻繁に経験して慣れてしまえば
そこが「よくある範囲」になりますから、「望ましくない」とは評価されません。

ここで、「快適」だとか「不安」とか「喜び」とか「ストレス」とか、
評価の基準となっているものが感情になっているのがポイントでしょう。

自分が何かをしたときの結果として起きる出来事に対して感情が起きる。
それがポジティブな種類の感情なら「望ましい」、
ネガティブな種類の感情なら「望ましくない」という評価になる、と。

実際には、自分の中に起きている感情に対して
さらに次の感情が生まれる場合があります。

例えば、すぐに落ち込んでしまう自分に腹が立つ、とか。
落ち込みの反応に対する評価の結果、次の感情が生まれるケースです。

逆にネガティブな感情が起きているのに、
それをネガティブに評価しない場合もあります。
ストレスに慣れてしまうようなケースはこれです。

つまり、
”垈な気持ちになることに対して不快になる場合、
不快な気持ちが生まれても、そのことに慣れていて
 不快なことについての不快感は抱かない場合、
ただ不快な気持ちが起こって、すぐに忘れてしまう場合、
がある、と。


いわゆる”問題”として認識されるのは,離院璽垢任后
ポイントはパターン化されているかどうか。

,痢嵒垈なことに不快になる」は、
自分の感情のパターンに対して不快感を抱くケース
(例:つい怒って怒鳴ってしまう自分が嫌いだ)、
自分に嫌な気持ちが起きる環境や人間関係に対して不快感を抱くケース
(例:いつも虚しい気分になる職場が嫌だ)、
の両方を含みます。

自分のパターンが問題となる場合、
環境や人間関係が問題となる場合。

いずれにしても不快な感情が繰り返されていることに注目してください。

繰り返される不快感をパターンとして捉えた結果、
その状態について不快な気分が生まれ、問題意識を持つわけです。

一方、△痢嵒垈な気持ちに慣れている」場合は、
繰り返される不快感があっても、
そのパターンに不快感を持っていません。

例えば、常にイライラしている(自分の感情のパターン)とか
ウンザリする職場の人間関係がある(環境や人間関係)とか、
日頃から不快な感情が繰り返し起きているわけです。

それでも、その不快な感情のパターンを「当たり前」の範囲に設定してしまうと
そのパターンについて不快感を持つことはなくなります。

慣れてしまうわけです。
我慢しているという意識もなく、「そんなものだ」と受け入れてしまう。

望ましい状態を期待して、それが期待外れになればネガティブな感情が起きますが、
そもそも望ましい状態を期待せず、不快感が沸く状態を「当然」と認識するため
期待外れから生まれるネガティブな感情がないんです。

だから嫌なことは起きているし、嫌な気持ちは繰り返し味わっているけれど、
そのことを大きな問題だとは思わない。
耐えられてしまうケースです。

それに対しては、繰り返しのパターンが認識されていないのが特徴です。

ネガティブな感情が起きる。
けれどもすぐに忘れる。

「嫌なことがあった」という出来事としては思い出せても、
そこに自分の感情のパターンを見つけたり、
繰り返しネガティブな感情を起こさせる環境や人間関係を特定してはいません。

例としては、電車の中で足を踏まれて腹が立つようなものです。
嫌な出来事だったし、感情も動きます。
けれどすぐに忘れる。

一回限りの出来事でパターンにはなっていないわけです。

これが例えば、「いつもイライラしてしまう自分が情けない」となれば
,砲ける感情のパターンへの問題意識となりますし、
「こんなに頻繁にイライラさせられる通勤電車は間違っている、ムカつく!」
となれば、,砲ける環境・人間関係への問題意識となります。

そして「いつもイライラするけれど、そんなものだ」とか
「いつも通勤電車にはイライラさせられるけれど、日本なんてそんなものだ」
などと認識されると、△良垈感に慣れた状態となります。

はネガティブな感情が繰り返し起きるというパターン認識がなく、
そのときにネガティブな感情になってもすぐに忘れる。
だから問題意識はない。

,魯優ティブな感情が繰り返されるパターン認識から、
そのパターンに対してのネガティブな感情が生まれて問題意識を持つ。

△魯優ティブな感情が繰り返されるパターン認識はあるけれど、
そのパターンに対してはネガティブな感情が生まれず、問題意識もない。

そういう違いです。


いわゆる「問題」は、,
 ネガティブな感情が繰り返し起きるパターンに対して
 さらにネガティブな感情を抱く
ときに自覚されるようです。

逆に言うと、そのパターンが嫌だから何とかしたいと思う、と。

心の癖として見ると、
まずネガティブな感情が沸くパターンそのものが挙げられます。
この癖を修正すれば、そもそも不快な感情が起きなくなるでしょう。
(,隆蕎陲離僖拭璽鵑悗量簑螳媼院

それからネガティブな感情が起きる前に、時間的な順番として
何かしらのキッカケとなる出来事が起こっているはずです。

この出来事を未然に防ぐようなコミュニケーションができれば、
ネガティブな感情が沸く心の癖はそのまま残るけれど
そのネガティブな感情が起きる原因はなくなります。
(,隆超・人間関係への問題意識)

ちなみにこの場合、修正するのはコミュニケーションの仕方としての
心の癖だということになります。
感情レベルの癖ではなく、行動やコミュニケーション技術として
心の癖を修正するという話です。

また、ネガティブな感情が繰り返し起きるパターンについての認識も
1つの心の癖です。

△里茲Δ法崚たり前」、「こんなもの」と考えるようにすれば
ネガティブなパターンに対して更にネガティブな感情が起きることはなくなります。

あるいはネガティブなパターンが起きることを、
もっと肯定的に捉え直しても良いでしょう。
「これは学びのチャンスだ」とか、「嫌なことがあれば、他で良いことがある」とか、
様々な考え方で、ネガティブなパターンに対処している人がいます。

,杷Ъ韻気譴詭簑蠅梁仆茲箸靴董⊃瓦諒覆鮟だ気垢詈法は色々あるわけです。


いずれにしても心の癖を修正すれば問題意識がなくなります。

大部分の人は、そうやって問題意識を元に物事へ取り組みます。
そして問題意識がなくなれば、あまり気にせずに普段の生活を送る。

しかし問題意識がないことと、心の癖がないこととは違います。

環境が変われば、今までは問題になっていなかった心の癖が
急にネガティブなパターンを生み出して問題になることもある。

まぁ、その都度、問題意識を元に心の癖を修正していけば
自然とスムーズな方向に進むかもしれません。

ただし問題意識を指標にしていると、
将来に厄介なことに繋がるかもしれない心の癖を
自覚できない場合もあります。

△離優ティブなパターンに慣れているケースは、その典型です。

人は慣れてしまうんです。

慣れてしまうと、慣れていることにさえ気づかなくなる。

問題意識がなくなってきた後には、
繰り返されるパターンに対するネガティブな感情が減ります。

「このパターンが問題だ」という認識がなくなるわけです。

すると自分のパターンを自覚するキッカケが減ります。

その後は、自ら「どんなパターン、心の癖があるだろう」と振り返り、
その癖を修正する段階が来るのかもしれません。

別にそんな面倒臭いことをしなくても生きていけますし、
問題意識がないのであれば幸せな状態だとは言えるでしょう。

事前に対処するか、問題が起きてから対処するかの違いだけでしょうか。

あまり気にしなくても良いところとも言えそうですが
1つ僕が気づいているのは、
 そういうパターン・心の癖を自ら発見して修正することを事前にしておくと
 人生の展開がスムーズになる場合が多い
ということです。

知らないうちに自分を制限していた何かが取り払われて
チャンスが上手く機能しやすくなるようなイメージ。

根拠はありませんが、そういう側面もあるような気がします。

cozyharada at 23:21|Permalinkclip!NLP | NLPの基本情報

2017年02月17日

Sweet Fruit from the Bitter Tree

異文化間マネジメントとかNGOマネジメント、
国際問題をテーマにしたような人たちと関わる内容の1つに
「 Conflict Resolution 」というのがあるそうです。

日本語にすると「問題解決」とか「紛争解決」などと訳されるみたいです。

「問題解決」というと「 Problem Solving 」と同じになってしまいますから
「紛争解決」のほうが良さそうでもありますが、
必ずしも「紛争」と呼ばれるほど強烈ではないものも対象になりますし、
個人間の対立なんかもテーマになりうるようです。

上手い言葉が見つからないものの、なんとなくのイメージとしては
もめ事、ぶつかり合い、対立関係を仲裁して、
平和的な結論に導くようなものといえるかもしれません。

コミュニケーションや人の気持ちに関する内容ですから
心理学とも関係してくるようで、心理学の雑誌なんかでも扱われたり、
さまざまな理論が提案されていたりもします。


で、最近買った本が、この「 Conflict Resolution 」に関してのものなんです。

といっても理論的なものではなく、
 人間関係のトラブル、特に命の危険が迫るような状況において
 どうやって平和的解決へと導かれたか、
についてのエピソードが集まったもの。

理論をもとに解説することもできたはずですが
あえてエピソードだけを紹介して、読み手に解釈をゆだねる形になっています。

ある程度有名な人の逸話を引用していることもありますし、
著者の身近な人のエピソードをインタビューしたものも含まれています。




著者はマーク・アンドレアス。

NLPの開発において大きな役割を果たしてきた
スティーブ・アンドレアス、コニリー・アンドレアス夫妻の息子です。

前書きによると、卒論を書き終えて時間ができたときに
こういう逸話を集めてみようと考えて取り組み始めたのだとか。

まぁ、出版元のReal People Press はスティーブの会社ですから
書き上がりさえすれば形にするのは大変ではなかったのでしょう。

とはいえ、集められているエピソードは良い話が多く、
こういったストーリーを見つけてこられる感受性が養われたのも
NLPに触れながら育ってきた背景が関係しているのかもしれません。


良い話のネタ本としても役に立ちそうな気がします。

cozyharada at 23:58|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2017年02月14日

久しぶりの緊張

英語でのプレゼンの講座も3回が終わりました。

初回は欠席しているので4週目が終わったところです。
残りは6回。

内容は以前にも書きましたが決して充実したものとはいえません。
それでも場数を積むための練習ができるのはありがたいです。

講師の狙いがイマイチ掴めないですし、
貴重なチャンスなのに勿体ない時間の使い方になっているのも気になるので
講座に参加している時間には残念なときが結構あるのが正直なところ。

だからこそ、その2時間の中で自分が話す10分間は余計に貴重と感じられ、
集中して取り組むことができる印象があります。

一回当たりの実りは大きそうです。


そして、明らかに自分の中に「上手くやろう」という気持ちがあるのも分かります。

話している最中も「自分が想定通りにできているか」に注意が向いていて
聴衆の立場を考えたものにはなっていません。

まぁ、自分の想いを表現する場ではありませんから
熱く語るようなタイプのプレゼンでもないですし、
講演会や講座ではないので聞く側に配慮するものでもありません。

その意味では普段のセミナーとは全くスタンスが違います。
セミナーでは受講生にばかり関心が向いて
上手くやろうという想いも、事前の想定もほとんどない。

母国語ではないから余計に準備をすること、
母国語ではないから実践練習として挑戦したいこと、
限られた時間で練習課題が含まれていること、
決められたテーマに沿って主張を組み立てる必要があること。

…このあたりが組み合わさると、話し始める前から
「こういう内容で、こんな感じで…」という構成が頭の中に設定されます。

事前に自分の中で基準が作られてしまうわけです。
達成目標が決まる。

だから「上手くいくかどうか」が気になるというメカニズムでしょう。

その結果、緊張します。

こんなに緊張するのは久しぶりです。

緊張するには
・「上手くやろう」という気持ちがある
・上手くいっているかどうかの評価基準がある
・自分に注意が向いている
あたりが条件として必要になるようです。

人前で話すといっても目的は様々ですから、
今回のように自分のためだけの練習の場という意識は
余計に聴衆への関心を下げ、緊張の度合いを上げるのかもしれません。

緊張するほどの場面が日常で多くない僕としては
こういう時間を経験できるのもなかなか良いものだと感じています。

ちなみに質疑応答の時間は、僕の場合、一気に緊張がなくなります。

質問に応える際は、
・自分が上手くできるかではなく、相手に分かってもらえるかが重要になる
・上手い返答の評価基準はない(分かってもらえるよう工夫する)
・自分ではなく質問者のほうに注意が向いている
という状態に変わるからでしょう。

その意味では何かを教えるとなると
相手の立場に立てるようになりますから緊張しなくなると想像されます。


それにしても久しぶりにこういうトレーニングをすると、なかなか楽しいです。

難しいことに挑戦する楽しさ、
何か新しいことをやっている楽しさ、
できなかったものを出来るようにしていっている楽しさ、
緊張するほど自分のために一生懸命になっている楽しさ…。

色々な楽しさがミックスされている感じがします。

今まで自分がやってきたことを英語でもできるようにしてみようかと思い始めました。

久しく味わっていなかった楽しさがあって貴重な時間です。
まぁ、自分がプレゼンをする時間と、その直前の緊張の間だけですが。

まずは、もっと慣れる機会を増やしたいものです。

cozyharada at 23:12|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2017年02月11日

一方通行の情報

僕のFacebookは基本的に仕事繋がりです。
受講生の方の投稿が上がってくるのが大半。

もちろん友達として登録されていますから
その人たちが「いいね!」をしたものは僕のところからも見られます。

すると、僕の好みとは無関係の記事も数多く目にすることになります。

もちろん心理系の話題が一番多いとは思いますが、
政治的な話題とか、健康の話も頻繁に見受けられますし
自己啓発やスピリチュアルの方向性の記事も上がってきます。

心理系の話は比較的、技術論や心構えについてのものが多く、
さまざまな方向性が入り乱れている印象を受けます。
好みや専門性の違いといった感じ。

それがもう少し個人的な信念と結びついたものになると
方向性が両極に触れてくるような雰囲気が見てとれます。
両極端の考えの人がいる。

そもそもがプライベートな繋がりを想定した使い方ではなかったですから
個人的な信念は表現しないほうが無難だろうと思って、
他の人の信念に関することにも意見表明は控えると決めておきました。

両極の考え方があったとき、片側にだけ「いいね!」をすれば
自分自身の意見を示しているのと同じになってしまいますし、
両方に「いいね!」をすれば、相反する考えを示してしまいます。

何より、僕が「いいね!」した記事を他の人も見ることになりますから
場合によっては見たくないものを見てしまう知人も出てくる可能性があります。

なので自分の中の決まりごととして「いいね!」をしないことにしたわけです。


とはいえ、科学的な情報がシェアされていると
その内容が気になってしまう場合はよくあります。

「いいね!」をするかどうかではなく、むしろ論理的な矛盾を指摘したくなる。

例えば以前によく見かけた内容の記事で
「カレーを食べると幸せホルモンのセロトニンが分泌されて幸せになる」
といったものがありました。

ここには
・脳内の神経伝達物質としてセロトニンが幸福感に関わっている
・セロトニンの90%は腸で作られる
・カレーを食べると腸の働きを活発にするためにセロトニンが作られる
などの情報がミックスされています。

確かに科学的な知見として、セロトニンと幸福感の関係は知られています。
セロトニンの90%も腸で作られるというデータがあるんでしょう。

しかし、腸で作られるセロトニンは
腸の神経系において神経伝達物質としてメインで使われるために
全身の大部分のセロトニンが腸に存在するらしいんです。

それに伴って腸で使われるセロトニンも腸で作られる。
だから90%のセロトニンは腸で作られ、そこで使われるようです。

問題は、この腸で作られたセロトニンが脳には運ばれないということ。
脳のセロトニンとは別の話なんです。

仮に脳でセロトニンが沢山作られたとしても
セロトニンの分泌とは直結しないような気もしますが、
まぁ、セロトニンが多く作られたほうが幸福感が上がるとしましょう。

だとしても腸で作られたセロトニンと、
脳内のセロトニンに基づく幸福感は別の話のはずなんです。

もしカレーを食べると腸のセロトニンが増えるというデータがあったとしても
「カレーを食べると幸福になれる」という話にはなりません。

美味しいカレーを食べると幸せを感じられる人は多いでしょうが、
それは腸のセロトニンとは無関係でしょう。

さらには、「セロトニンの大部分が腸で作られる」ということと
「脳のセロトニンが幸福感と関わる」ということを引き合いに出して
「だから腸が大切」という結論に持っていくケースも見受けられます。

腸は大事だと思います。
腸内細菌の影響の大きさも示されてきていますし、
体感としても腸の働きの重要性は実感します。

ただ、そのこととセロトニンが腸で作られることとは関係ありません。

腸の大切さを主張するのに、論理的に無関係な知見を持ってくるのは
意図的なのか知らないだけなのか定かではありませんが、
詳しく検証されないままに“科学的な話”が利用されることは多いようなんです。


Facebookなどでシェアされる情報には
その人の好みや信念に沿った内容が多いと考えられますが、
不確かな話でも広められてしまう危険性も高いように感じます。

その不確かさや論理的な矛盾を指摘するのが良いかどうか分かりませんから
引っかかったとしても、特に何もしないことのほうが多いのが現状です。

信念は支えになります。
大事にしていることも感じとれそうです。

だからこそ人間関係としては、その信念を尊重したいものです。

そして一方で、不確かさに気づいてしまうところもある。

最初から情報として僕の目に入ってこない形になっていれば
そんなことを気にすることもないのでしょうけれど…。

インターネット検索と違って、幅広い情報が入ってくるのが
SNSのメリットでもあり、デメリットでもあるのかもしれません。

cozyharada at 23:31|Permalinkclip!コミュニケーション | NLP

2017年02月08日

やっと見終わりました

DVD「メンタリスト」ファイナルシーズン、見終わりました。

これまでの半分の量しかありませんでしたが
ちゃんと面白かったです。

やはり最後ということもあって、これまでを復習するような印象でした。
「前にもこういうシーンがあったなぁ」という
いかにも”メンタリスト”な感じをまとめた、といったところでしょうか。

それでいて終わりに向けて物語を整理していくような側面も。
つまり主人公たちの人生についての描き方です。

物語の始まりから時間が経過しています。

メインのテーマであった宿敵レッドジョンとの対決は
シーズン6の途中で終わっていますから、
その後は次のステージに移っているようなんです。

これでの推理物、サスペンス物の側面を弱め
より人間らしいところにフォーカスが当たっている。

僕にとってはそのほうが面白かったかもしれません。

ひねくれ者だった主人公も素直な表現が増えていた気がします。

以前は、チームとは仲良くなっているとしても
事件解決が優先されていた印象がありました。

それが終盤になると、事件よりもチームとの繋がりが優先されていて
身近な人のために行動するようなことが増えている感じ。

そのあたりの「人としての変化」のような側面が、
シリーズを通して見てきた視聴者からすると
心を動かされる部分ではないかとも思います。

前半のシーズンでは最終話が常に、次回への繋がりを予測させる内容で
ハラハラして、次が気になるようなところで中断する作りだった気がします。

それはそれで見る側には楽しさがありましたが
やはり最終シーズンとなると、そのあたりにも当然違いがある。

きっちりと全体をまとめがら、とても後味の良い終わりになっていました。
ある意味ではもっともストレートで、今までで一番ひねりが無いとも言えます。

世の中にある他のドラマでは、もっとひねった終わり方もあるでしょう。

逆に「メンタリスト」は、ゾンビとか超能力とか不思議な世界といった
特殊な設定がない人間社会の犯罪捜査ものであって、その中で
心を操る形で独自のひねりを生み出してきた物語だった気がします。

ドラマ中の人の動きこそが面白さの特徴で、
心をひねった扱いにするのが独自性だった…。

そう考えると、もっともストレートに、後味良く終わるのは
全体のまとめあげ方として落ち着きのある心地良さを感じられました。

もちろん好みは分かれるかもしれませんが。

とにかく僕には好印象の終わり方で、
終盤のシーズンだけでも何度も見直したいような気もしています。

…なかなかそれだけの時間をまとめては取れないのが残念なところです。

cozyharada at 23:36|Permalinkclip!NLP | コールドリーディング

2017年02月05日

場数を増やしたいです

先日、重い腰を上げて参加することにしたプレゼンテーションの講座の
一回目のクラスがありました。

教わる内容に関しては最初から期待していませんでしたし、
比べ物にならないぐらい素晴らしいプレゼン講座をする知り合いもいますから、
講座の内容やトレーニング内容がどんなものでも気にならないつもりでした。

単純に場数を踏ませてもらえれば充分、という発想だったわけです。

行ってみると実際には指定の教科書があって、
それも英語学習者向けの教科書で、かなり初歩的な印象でした。

多くの英語学習者(日本人に限らず)が陥りがちな傾向を
英語らしい特徴とともに解説したような教科書という感じ。

どんなイントネーションが効果的だとか、
アメリカ文化の中でオーソドックスなプレゼンのスタイルとか、
どうやったら関心を引けるような構成になるかとか、
そういった内容がメイン。

英語でビジネスをやっている人たちに、
会議でのプレゼンのスタイルを教えるような入門教科書のようです。

想像していたよりももっと初歩的な内容の教科書でしたが
まぁ、オーソドックスなスタイルを練習しておくのは悪くないでしょう。

ここまではそれほど気になりません。
英語でプレゼンをする機会があれば、あとは
プラスアルファの情報といった印象ですから。


ところが残念なのは、メインとなる練習の機会。
基本的に2時間の中で、一人一回しか練習するタイミングがありません。

それも曖昧な指定のまま、一人10分とかをやります。

参加者の人数分、10分のプレゼンがありますから
2時間の授業時間のうち大部分は他の受講生のプレゼンを見るだけなんです。

質疑応答する時間もありますが、それは内容に対しての質問やコメント。
プレゼンターが質疑応答に慣れるためのサポートであって
聞いていた聴衆側としてフィードバックをする機会は無いようです。

プレゼンのあと、講師が一人ずつにフィードバックをしていましたが
そのフィードバックを活かす機会が翌週までないわけです。

やりっ放しになってしまっていて、かなり勿体ない。

そもそも練習のためのプレゼンを10分もやる必要性が分かりません。

同じ時間をやるんだったら、5分を二回やったほうが遥かに効果が高いでしょう。

フィードバックをするのなら、5分やった後にアドバイスをもらって、
それを踏まえて、その場ですぐに二回目の5分をやる。
それで効果の違いを見たほうが学習効率が上がります。

10分を無駄に使っている印象が避けられません。


しかも聞いているほうの負担が大きい。

参加者は全員日本人で、決して全員がスムーズに話せるわけではないんです。
プレゼンするほうの負荷も大き過ぎるし、
聞くほうだって何といっているのか、何を言いたいのか、
汲み取ろうとする労力が大きくなります。

練習する時間が少しで、聞いている時間ばかりになってしまうのも
講座の構成として満足感が低くなりやすそうです。

まして僕の期待は場数をこなすことでしたから、
機会の少なさがかなり残念な印象になってしまっています。

この先の授業では展開が変わる可能性もないとは言えませんが、
講師のスタイルからすると期待するのは厳しそうな印象です。

英語でプレゼンをする勉強会とかがあれば
そういうのに参加してみたい気持ちになってきているところです。

ひとまずは数少ない機会を存分に生かしたいものです。

cozyharada at 23:04|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2017年02月02日

4/23(日)講座の内容

次回の講座は 4月23日(日) を予定しています。

内容は『セルフ・イメージ』について。
セルフイメージを調整する方法を扱います。

とはいえ、
 理想の自分のセルフイメージを作り上げて
 そこに向かって環境を望ましく変えていく
という種類のものではないつもりです。

また
 理想のセルフイメージを目標として設定して
 それに相応しい行動を続けることで理想に近づく
といった行動変容的なアプローチでもありません。

むしろ、
 今の自分には適切ではない昔のセルフイメージの名残りに気づき
 それを現状にマッチした形に調整する
というスタンス。


セルフイメージは意外と後を引くようなんです。

例えば、僕の知り合いでも
小学校低学年の頃にダントツで背が高かったから
「自分は背が高い」というセルフイメージを持っている人がいます。

ところが今、その人の身長は平均ぐらい。
もっと背の高い人なんていくらでもいます。

自分よりも背が高い人と並ぶと、今でもビックリすると言っていました。

能力的なこと、性格的なこと、身体的特徴について…
随分と昔に「自分ってこういうものだ」と捉えたイメージが
今になっても残り続けていることが結構あるわけです。

「セルフイメージ」という単語の定義が不明確ですから何とも言えませんが
ここで扱うのは「自分についての思い込み(ビリーフ)」といった感じでしょうか。

「私は〜である」という認識。

これが現状とマッチしていないと思いのほか
自分を制限してしまう場合があります。

例えば僕の場合、小学校の頃から背が低く、走るのが遅かったため
「運動が苦手」というセルフイメージを持っていた記憶があります。

実際には、逆立ちとかバランス系の運動はクラスでも上手いほうだったり
野球でもゴルフでもスイングのフォームが綺麗だと言われたり
運動全般としていえばポジティブな評価を受けることもありましたが、
幼少期の「運動が苦手」のイメージは今も少し残っている気がします。

色々と内面を見たり、いくらかはスポーツを遊びとしてやった経験から
「運動が苦手」というセルフイメージは薄れ、今はどちらかというと
「走るのが苦手」というセルフイメージだけが強く残る感じかもしれません。

子供の頃でいえば背が低ければ足も短く、
身体の発育が他の子供よりも遅いわけなので筋力も低くなる。
走るのが遅かったり、持久力が無かったりするのは、ある程度
自然な範囲だったとも思われます。

しかしそこで生まれたセルフイメージはずっと後を引き
走ることに関しては嫌な印象ばかりが続きました。

今、健康のために少し身体を動かそうかと思っても
走る方面ではヤル気が出ないことに気づきます。

もしかしたら、今の体力でいえば、同年代なら同じぐらいかもしれない。
コツコツ続けたら走る楽しさに気づける可能性もあります。

でもやらない。
ヤル気にならない。
苦手意識があるから。

当然、走ることが含まれるスポーツには手を出しません。

それどころか、どんなスポーツをやるにしても心肺能力を高めるために
有酸素運動を続けるトレーニングが含まれるかと思うと、
それに対しても拒否感が出てきてしまいます。

そういう制限ができているケースが多いんです。


ポイントは
 必ずしもそれが問題になっていない
ということ。

これが仮に、何らかの事情でマラソン大会に強制出場させられるとかになれば
僕は「走るのが苦手なのに、走らなければならない」という思いから
悩みを持ち始めるでしょう。

それと比べると現状の僕は困ってはいません。
走るのが苦手でも日常生活には何ら支障がない。
今のところは。

一般的には悩みが出てから修正しようとするんです。
自分の思い込みや心の癖が、現状と合わなくなってきた。
環境を変えるか、自分を変えるかして適応する必要がある。
それが悩み・問題ができるときです。

ですが現状で支障がなければ悩みは出ませんし、
自分に不自由な部分があるとも気づきません。

その一方で、支障をきたしてはいないものの
自分の人生に制約をかけている可能性は否定できないわけです。

もしかしたら、もっと好きになれること、もっと楽しめること、
もっと喜びを感じられることがあるかもしれない。

そういう制約をかけているのが「古いセルフイメージ」なんです。

もうそんな自分ではなくなっているのに
まだ古い自分のままだと思いこんでいる。

それを解消しておこうという発想です。
そのための作業をやるような講座を考えています。

イメージワークをやるような種類の内容です。
コミュニケーション技術というよりは
自分の内面を扱うような、セラピー的な内容といえます。

詳細は日程が近づいたらご案内します。

cozyharada at 23:53|Permalinkclip!セミナー情報 | 全般
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程更新

《コミュニケーション講座》
〜内容は後日〜


【日時】 2017年8月20日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


概要はこちら>>
次回開催は9月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



ホームページ
バナー1


プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
Archives
最近のコメント
QRコード
QRコード