2018年08月

2018年08月31日

使い捨てボディタオル

注文していたアメニティが届きました。
ボディタオルっていうんでしょうか。

身体を洗うときに使うナイロン製で薄手のタオルです。

こちら。

【1個33円】ボディウォッシュタオル(フォーミー)120個
【1個33円】ボディウォッシュタオル(フォーミー)120個

早速、自宅で試してみました。
120個もありますから。

薄手ながら比較的大判で、生地もしっかりしています。

ホテルのアメニティ用として販売されているらしいんですが、
僕が滞在したことのあるビジネスホテルに置かれているヤツは
もっとペラペラで小さいものばかりでした。

それらと比べると、品質は高めなのではないかと思います。

タオルそのものは柔らかいです。
一般的な「やわらかめ」ぐらいなんでしょうか?

僕は自宅で「固め」を使っているので
それと比べると頼りなさはあります。

このあたりは好みかもしれません。

泡立ちも良く、洗いあがりもサッパリ。
ただ泡を塗りたくるだけでなく、
ある程度は、こすり洗いもできていそうです。

特筆すべきは、泡切れの良さでしょう。
すぐにボディソープが落ちてくれます。

泡立ちの良さと加わって、シャワーの時間を短縮できそうな予感。

なかなか良い感じです。
値段も安いですし。

出張のお供として活躍してくれるんじゃないかと期待しています。

まぁ、120個はチョット多かったかもしれませんが。
収納の中でいささかスペースを取っています。

cozyharada at 23:16|Permalinkclip!全般 | コミュニケーション

2018年08月27日

伸びる時期

フランス語のスピーキングに力を入れてみて
ちょうど2か月ぐらいが経ちました。

多少ですが効果が実感でき始めてきた印象があります。

言葉が口を出やすくなってきただけでなく、
リスニングについても内容を把握しやすくなってきたようです。

音を取るのはリスニングそのもののトレーニングが必要ですが
早く話された内容を理解するには、話せるようにするのが
欠かせないのではないかと感じます。

特に、内容的に複雑でないもので、かつ単語としても
よく知ったものばかりで構成された文章であれば
自然と頭に入ってくるようなときも出てきます。

「あれ、今の何語だったかな?」と。

こういうのは地味ですが、トレーニング効果を実感できる
貴重な瞬間だと思います。

語学をやる上でヤル気を維持するのは容易ではないとされますが
その理由の1つは、
 努力に対する報酬としての
 「できるようになっている実感」が得られにくい
にもあるでしょうから、効果をふと感じられるのは大事なはずです。


日本で語学をやっていると、その先生は
少なくとも2か国語を使える可能性が高いといえます。

日本人の先生であれば日本語と、その外国語。
ネイティブの先生でも、日本に来ている以上
ある程度は日本語を使えることが多いと考えられます。

実際には英語圏の人、特にアメリカ人は
英語以外の言語を身につける率が非常に低いらしいですから
アメリカ人の先生の場合、日本に住んでいても
あまり日本語を話せないこともあるようですが。

その点、英語以外を母国語とする日本在住の外国語の先生は
複数の言語を使えることが多いように見受けられます。

ヨーロッパ言語は日本語よりも近いため、
学習が楽だというのはあるでしょう。

聞いていると、フランス人からしたら
イタリア語を身につけるのは簡単らしいですし。

もちろん、語学の先生をやるぐらいですから
そもそも外国語が好きだということもありそうです。

フランス語の先生をやっている人たちからは
やはり日本に来た理由が「日本語を勉強していたから」だ
というのを聞くことが多い実感があります。

なのでフランス語の先生に話を聞くと
大体は日本語もそれなりに使えるレベルになっていますし、
学校教育も含めて英語もある程度は身につけているようです。

英語に関しては語学教室として、英語を教えられるメリットがあるため
かなり母国語に近いレベルで英語を話せる人もいます。

そして語学好きの場合、もう1つぐらい話せる言葉があったりする。
合計すると4か国語ぐらいは使える人もそれなりに多いんです。

日本人では複数言語を使い分けるケースが多くないようなので
個人的にはこうした人たちと言語習得について
トレーニング法などを話し合ってみるのは興味深いです。


言語習得について話をしてみると
やはり帰ってくるのは一般的な内容というか
僕が効果的だと感じるものと共通している印象を受けます。

それほど真新しいものはありません。

逆に、僕が躓かなかったところで止まってしまったケースは聞きます。

それは最初の段階です。
始めてみたけれど、すぐにやめてしまう。

中には、たくさんの言語を始めてみたけど
どれも続かず、結局は母国語と英語と日本語に落ち着いて
今は日本に来て日本語を勉強している、という人もいました。

興味を持ち始めるところと、興味を維持するところは
大きな違いがあるようです。

ここも1つには実感が得られるかどうか、が関係するんでしょう。

語学の初めの時期は新しいことを数多く吸収できて楽しいものです。
が、すぐに複雑さに行き詰まりやすくなる。

覚えなければならないことの多さがハードルを上げ
分かる喜び、知る楽しさを上回ってしまうと
挫折しやすくなるようです。

ここが語学の1つ目の壁。

そこを超えると勉強は続けられます。
僕は言語の仕組みが分かっていく段階は苦にならないので
覚えることの多さが大変に感じられても
勉強段階を続けることができます。

日本人には、この「勉強を続ける」過程を長くやるケースが
多いのかもしれません。

中学校以来の英語の「勉強」の名残りとして。

ところが、単語を覚えたり、文法や読解など
勉強を続けているだけでは使えるようにはなりません。
少なくとも話したり書いたりするのは別物です。

この「やっても話せるようにならない」ところが
2つ目の壁になるようです。

いろいろと語学をやった人だから聞ける『語学の壁』の共通点。

そして、どうすれば壁を越えられるか?

このあたりの話は有意義に感じています。

何より、この壁が多くの人に共通して存在することが
言語習得の自然なプロセスとして認識できると、
その壁を受け入れやすくなるとも思われます。

そういう時期があると知っているだけで
気軽に続けやすくなる。

このあたりも含めて、言語習得のポイントなんかも
掴めてきたら良さそうに感じています。

cozyharada at 23:47|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション

2018年08月24日

使い捨てアメニティ

一年分を数えてみると、それなりの数のホテル宿泊があります。

大半は仕事の出張でビジネスホテルですが
宿泊先によって置かれているアメニティには違いがあるものです。

ある程度はホテルの値段にも関連するんでしょう。
なるべくお得に選べると滞在中も快適です。

使い捨てスリッパもあると風呂上りなんかは助かります。

個人的にはホテルの歯ブラシは好みに合わないことが多かったので
最近は持ち歩くようになりました。

ボディソープの類は、備えつけのものが肌に合わなくて
後からヒリヒリしてきたりすることがありますから
出張が増えてきたタイミングから普段使いのものを小分けにして
持参するのが当たり前になってきました。

なので、僕にとってホテルに備えつけのアメニティは
さほど重要ではありません。
女性には気にする人も多いのかもしれませんが。

ホテルを選ぶ際にもアメニティを基準とすることはなく
基本的にセミナー会場との距離や、部屋とバスルームの広さ、
あとは清潔さなんかがポイントになっています。


そんな中で最近になって気づいたのが、
アメニティの中にボディタオルがあると便利だということです。

ナイロン製で薄手のタオル。
ボディソープをつけて泡立てて、体を洗うためのもの。

普通の長めのタオルでも構わないと思っていたんですが、
利便性からいうとボディタオルがあると好都合でした。

ボディソープの量も少なくて済みますし、
泡立ちもいいので体を洗うのにも、タオルから石鹸を落とすのにも
総合的に時間が短縮される感じがするんです。

自宅でもナイロン製のボディタオルを使っていますから
馴染みという意味でもホテルにボディタオルがあると快適です。

海外の長期滞在の際には持参していたんですが、
国内出張のときには持って歩いていなかったんです。

理由は、出張の場合、朝方にシャワーを浴びることが多いからです。

朝にシャワーを浴びてボディタオルを使うと、
ホテルを出るまでに乾かないんです。

濡れたものを持って歩くのが気になるだけの話なんですが。

その点、ホテルに使い捨てのボディタオルが置かれていると
気兼ねなく使えて便利だと実感しました。

ところが、ボディタオルが置かれているホテルは多くありません。
スポンジのところもありますし、どちらもないところもある。

そんなときは、仕方なく大判のタオルを使って体を洗っていました。


それで調べてみたんです。
使い捨てのボディタオルが買えないか、と。

ホテルで扱っているようなヤツが安価で手に入れば
これは出張のときに便利なんじゃないかという考えです。

通販で見てみると、結構見つかるものなんですね。

中には業務用のものもあって、500個セットとか
とても使いきれないような量だったりしますが、
数十個から100個ぐらいも見つかりました。

1個あたり30円とか50円のものもあるので
これぐらいの値段だったら試してみても良さそうに感じています。

あまり大量に買い込んでクオリティに不満があったり、
自宅での保管が邪魔になったりしたら嫌なので
まずは1年分ぐらいで試してみようかと思います。

お気に入りが見つかると良いんですが。

cozyharada at 23:54|Permalinkclip!全般 | NLP

2018年08月21日

私が感じたことを言ってもいいですか?

コーチングのある流派の人たちが使うのをよく耳にするフレーズで
「私が感じたことを言ってもよろしいでしょうか?」
といったものがあるようです。

もちろん微妙な言い回しの違いはあるとして
大体こんな感じの内容。

僕は個人的に、このフレーズを使うのはオススメしない立場です。

意図と効果が分かったうえで、あえて使うなら
それでも構わないと思いますが、
誰かが言っているのをむやみに採用するのはリスクを伴います。


一番大きな危険性は、ダブルバインドです。

エリクソニアン・ダブルバインド(治療的ダブルバインド)ではなく
ベイトソンの言っていたほうのダブルバインド。

2つの矛盾するメッセージを同時に伝えることで
相手に心理的ストレスをかけるというもの。

「私が感じたことを言ってもよろしいでしょうか?」は、一見すると
相手に許可を求め、合意をとっているようですが、
実態としては中身が分からないし予想もつかないので
許可の出しようもない質問になっています。

つまり
 本来は許可の出しようもないことについて
 無理やり許可を出さないといけない
という矛盾に押し込んでいる、と。

しかも、わざわざ許可を取るぐらいだから
何かしらの特別性を予感させます。
大事なことなのか、ショッキングなことなのか
ともかく心の準備をさせているわけです。

特別性を示しているから、その申し出を拒否するのはやりにくい。
半強制的にYesという状況を作っているといえます。

その一方で、相手に許可を求める質問形式をしているので
Yesと答える相手は「自分が許可をした」という
客観的な結果をつきつけられます。

ある種、Yesと答えたほうに責任が生まれるんです。

何を言われるか分からないけれど、
大事そうだから聴く以外の選択肢は思いつきずらく、そして
内容が分からないからこそNoと答える理由も見つからない。
だからYesと答えると、何を言われたとしても
「言っても構わない」と許可を出した方の責任になる。

許可を出す以外にない要求をされながら、
許可を出したらその責任を自分が取らされる、ともいえます。

言われた内容がショッキングだったり、聞きたくないことだったり
傷つくようなものだったとしても、
「言っても構いません」と許可を出してしまっている以上
そこに不平を示すことができなくなってしまう構造なんです。

この点で、大きな心理的負荷をかけます。


最近は減りましたが、一時期よくあった電話営業に似ています。
「今、少しお時間ありますでしょうか?」と、
何をするのかを示さないままに時間をとれる状況かどうかを尋ねる。

事実として時間が取れる状況だとすると
正直な人は「時間がある」という事情を返答してしまいます。

すると営業内容として執拗な説明と売り込みが始まる。

「英語が話せたら良いと思ったことはありませんか?」とかも
一度Yesと答えてしまったら、その点で責任がかかってくるのが
仕組みとして共通点のあるところです。

英語が話せたら良いと思っているのだから、
英語教材の説明を聞くのは当然な流れ…
そんな断りずらさを生み出している。

時間があると答えてしまったのだから
「電話営業につきあう時間はない」とは言いにくくなる。

僕も以前、その当時に仕事の連絡をもらっていた人から
「原田さん、〇月△日って空いてます?」
という質問のされ方をしていました。

最初の頃は、素直に空いているかどうかだけを答えていましたが
そこで「空いている」と返答してしまうと
決まって無理な仕事を追加されることになっていたものです。

どんなに他がタイトなスケジュールでも
その日が空いているので「空いている」と言ってしまっていたんです。

そうすると無茶苦茶なスケジュールができあがって
まったく身動きが取れなくなる。

でも「空いている」と言ってしまっているので
「すみません、その日は無理です」
とは言いにくかった記憶があります。

ですから、あまり理解できていなかった当時の精一杯の工夫として…
 ー「原田さん、〇月△日って空いてます?」
 「どうしたんですか?」
 ー「実は、急なんですけど、こういう仕事をしてもらえないか、と」
 「うーん、その日は厳しいですね」
といったやり取りで乗り切っていたのを覚えています。

いずれにしても、逃げ道を断たれる感じで質問されると
プレッシャーを感じるものだ、という話です。


つまり「私が感じたことを言ってもよろしいでしょうか?」は
逃げ場のない状況に追い込まれるような心理的負荷と、
矛盾した要求をつきつけられる心理的負荷とがかかる
厳しいフレーズだといえます。

さらに、その厳しさ、無理な要求を、
合意を取るような質問の形で表面上マイルドにしているのも
メッセージの中に不一致感を追加します。

このフレーズが効果を発揮するには、場面と相手を選びます。

精神的に元気な状態で、かつ
自ら答えを見つけ出せる力強さがあるクライアントに対して、
その人が目を背けている問題へ半強制的に直面化を図るときには
こうした前置きで負荷をかけること自体が効果を発揮します。

「内容によらず、自分の人生に関わることであれば
 自分ごととして責任を取りますよね!」という
逃げない姿勢、物事に直面する姿勢を準備させる流れとして、
あえて逃げ場のない状況を作るやり方はあります。

が、僕が受ける印象からすると、
このフレーズが独り歩きして、単純に
「あなたの話を聞いていて私の頭に浮かんだことを言いたい」
という個人的意見を発するための手段になっている場合が多そうです。

だったらそう言ったほうがメッセージの不一致感が少なくて
相手への心理的負荷は小さくなります。

「あなたの話を聞いていて私の頭に浮かんだことを言いたくなりました。
 私の個人的な意見ですが、言っても良いですか?」
という感じ。

それだったら人によっては
「あなたの意見は聞かなくていいです」
と答えるかもしれないし、
聞く方を選択したとしても、個人的意見という前置きがあるから
あくまで1つの参考意見として聞き流すこともしやすくなります。

何より、「私が言いたいから、言わせて欲しい」という
正直な気持ちを示すのは、オープンさのアピールになります。

デメリットは、プロのコーチやカウンセラーとして聞いている場合、
「私が個人的に言いたくなったから言う」というのは
子供っぽい要求で、プロっぽくない印象を与える可能性でしょうか。


また、僕がお世話になった先生の中にも
似たようなフレーズだけれど趣旨の違うものを使う人もいました。

それは
「率直に申し上げてもよろしいでしょうか?」
というものです。

ポイントは「率直に」が入っているところ。
そして「申し上げる」という謙譲語です。

「率直に」が含まれることで、次に来るメッセージの内容が
厳しいものであることを予感させます。
覚悟を問いかけています。

同時に「申し上げる」という丁寧な言葉遣いをすることで
相手を一人の成熟した大人として扱っています。

つまり、
 「これから厳しいことを言いますが、
  大人のあなたであれば大丈夫ですよね」
という趣旨が入っているわけです。

ここにはしっかりとした心の準備をさせるプロセスと
相手に対する信頼と尊重のメッセージが含まれます。

具体的に何を言われるかは分からないけれど
厳しいことを言われそうだという予感はさせています。

その点で矛盾は少ないといえます。
直面化を図るための逃げ道を減らす度合いは残しつつ、
心の準備をさせる配慮は含まれている。

そして厳しいことを言うと予感させることで
「自分が厳しいことを言うので、傷つくかもしれません」
という方向性のメッセージも含まれます。

そこには
「結果として傷つくかもしれないけれど、
 私はあなたを傷つけてでもこれを伝えます」
という覚悟も伝わりやすいでしょう。

傷ついたとしたら、言った方の責任でもあることを
ある程度は内包している趣旨があります。

裏を返すと、傷つく可能性があることを知りながら
それでも言うほど大事な内容だという意味もある。

だから次に続くメッセージには
相当な心の準備と、覚悟と、
しっかり受け取ろうとする態勢が作られやすい。

核心をつく直前にこそ使われる質問なんです。

当然、クライアントを選びます。
直面できるだけの元気と力強さが必要ですし、
このフレーズの背後に込められた意図を
汲み取れる人である必要があります。

関係性としても、
こうした厳しさがクライアントへの信頼の証として解釈されるだけの
カウンセラー・コーチに対する信頼関係と敬意が求められます。
立場として「先生」「メンター」だからこそ成立する質問だ、と。


そうした関係性が築かれていない場合、あるいは
「先生」や「メンター」ではなく「カウンセラー」のような場合、
クライアントが元気を失っていたり、
フレーズの背後に込められた意味を読み取らなかったりするする場合、
…そういうときには、意図をハッキリ言語化するのが効果的です。

例えば、
「〇〇さんであれば受け入れられるだろうと判断して
 厳しい言い方になりますが、あえて言ってしまおうかと思います。
 大事なポイントだと思いますので覚悟をして聞いてください。
 心の準備はよろしいですか?」
といった形。

許可を求めて、聞くか聞かないかと責任を相手に負わせず、
「あくまで自分の判断で」というところを言語化したやり方です。

この後にくるメッセージ内容の厳しさを事前に通知しながら、
大事なことだからと理由も示しているわけです。

もちろん、これも相手に厳しい言い方をするわけなので
それが受け入れられる相手かどうかの判断が求められます。

ただし、その判断をしているのがカウンセラー自身であって
傷つけたとしたらカウンセラーの責任になるようにしているのが
相手への負荷を減らす工夫となっています。

これさえも厳しい場合には、もっと趣旨を明確にしながら
合意を取るようにするのが堅実でしょう。

つまり、
「この問題について重要ではないかと思える点に気づきました。
 より本質的なところにスピーディーに切り込んで
 早く解決の方向へ進めるために、
 厳しいところもあるけれどストレートなやり方をするのも
 1つの手かと考えています。
 もしくは着実に時間をかけながら、負担を少なくして
 自然な気づきに任せて進めていくやり方もあります。
 どちらがよろしいでしょうか?」
のように質問するスタイルです。

これであれば趣旨が伝わりやすく、
クライアントがある程度の展開を予測しながら
自分の好みの関わり方を選ぶことができます。

こっちのほうが安全性が高く、
かつ合意を取ってもいる点でクライアント本人に責任を持ってもらい
取り組む姿勢の積極性を高めることも可能です。

もし、こうした選択すら難しいような相手だとしたら
そのときには相手の自主性をひたすら尊重して、
カウンセラー側の見解を伝えるかなどは考慮しなくてもいいでしょう。
ただ本人のペースに任せる。


まとめると…。

許可や合意を求めたり、覚悟を問いかけたりするような質問は
場面と相手を選んで使う必要があるということ。

そして、
ダブルバインドになったり、メッセージに不一致なところがないように
表現の仕方を工夫する必要があるということ。

安全性を高めるのであれば、趣旨を言葉にして伝えることで
前置きとしての意義を果たしやすく工夫するということ。

そのあたりが注意点だと考えられます。

この後に何を言われるかも分からない時点で
「言ってもいいかどうか」の許可を問うような質問は、
前置きとしての効果が薄いといえます。
相手に心理的負荷をかけることもありえます。

場合によっては、カウンセラー側が自分の意見を主張したいときに
それを正当化するための手段にさえなってしまいかねません。

慎重さが求められる種類の質問だと思います。

そもそも前置きの質問をするのは
次の展開を予告してクライアントに心の準備をしてもらうための
計画的で用意周到なやり方です。

だからこそ、前置きの質問をするのだとしたら
その質問のフレーズそのものも、慎重かつ周到に
言葉を選んで使える必要があるはずです。

見た目以上に、高度な技術なんです。

cozyharada at 23:35|Permalinkclip!コミュニケーション | NLP

2018年08月17日

【セミナー】ストレスとの関わり方

ご案内: 9月9日(日)

   コミュニケーション講座 〜丁寧なストレスの取り扱い方〜


日程だけ先にご案内していましたが、
今度の講座についての詳細な内容のご紹介です。

お申し込みフォームは下の方にあります。
手っ取り早くするのがお好みの方はそちらへどうぞ。


今回のテーマは、ストレスです。

多くの人はストレスを自覚していません。
そのストレスがどこから来ているのかも知りません。
原因も分からないので対処の仕方を知りません。

なので世の中のストレス対策の主流は、
「イライラや疲労が溜まっていないかチェックする」という
症状レベルからのストレス度合いの診断と、
「無理をしない、休憩する、リフレッシュする」といった
曖昧なやり方で、ストレスレベルを一時的に下げるための
”ストレス解消法”とを組み合わせたものになりがちなようです。

一般的な情報として多くの人に広めようと考えた場合
そうしたアプローチは効果的ではありますが、
個人のストレスにしっかりと向き合おうとしたときには
いささか物足りない部分もあるかもしれません。

万人向けで無難な効果を出すものは、
個人にとっての本質的な対処法にはなっていない。
そういうのは良くあるものです。

「肩コリには、こういうストレッチをしましょう。
 こんな予防体操をしましょう。」
というレベルは一般向けの無難な話。

本気で改善したければ、マッサージや整体、鍼灸など
もっと具体的で個人の症状に合わせた対処になっていく。

ストレスに関しても同様です。


特に最近は、社会全体のストレスレベルが上がっています。
この夏前後からストレスを抱える人が多いように見えます。

それも責任感が強く、自ら物事を解決しようとして
積極的に取り組む人ほど、ストレスの量が高まります。

一生懸命に生きるほど、ストレスを受けやすい。
他人の分まで負荷を受けることになるんです。

その人の属している社会、組織、コミュニティ、家族など
他人との関係性の中で、バランスが崩れ始めたときに
歪みが表面化しやすいところがあるんです。

一生懸命で、人の苦しみに敏感な人のところに
歪みの影響が負荷としてかかってきて、
それがストレスとして蓄積してくる。

その意味で、ストレスは必ずしも本人だけの問題ではありません。
しかし本人が改善できるものでもあるんです。

実際、個人的にそういうご相談を受けることも多かったですし、
世の中を広く見てみても、社会的な事件や災害なども含め
ダメージを受けている人が多いように見受けられます。


そしてそれは必ずしも直接的な人間関係だけに限りません。

テレビのニュースをつけていれば、
見るだけで苦しくなるような内容が溢れています。

一方では、他人を責め立てるような内容のものも多い。
鬼の首をとったかのように悪者をボコボコに叩く風潮は
それを見ているだけで鬱積した不満や怒りの強さを感じます。

テレビを見ないという人でも、ネットのニュースや
SNSの記事は容赦なく情報を届けてきます。

無防備に心を動かされる事情が多いんです。

仮に、そういった一切の情報をシャットアウトしていたとしても
社会生活をしていれば、他人の影響を避けることはできません。

会社の同僚や上司がイライラしていれば、
それだけで余計なストレスを被っているわけです。

プライベートで嫌なことがあって、その不満を
会社でまき散らすような人だって大勢いますから。

場合によっては、その同僚や上司のイライラの原因の中に
テレビのニュースやネットの影響が出ている可能性だって否定できない。

そうした社会全体のストレスレベルの高さは
個人のストレスと無関係ではないんです。


しかし、ほとんどの人は、自分のストレスが
どこから来ているのかを自覚できていません。

なんとなくイライラする。
いつの間にか疲れている。
なぜか身の回りで厄介なことが続く。

そういうときに、分かりやすい”原因”のような他人がいると
「この人との関わりがストレスになっている」と解釈しがちです。

もちろん、具体的に嫌なことが起きているのですから
それが大きなストレス要因になっているのは間違いないでしょう。

ただ、それが全てではないという話。
もっとストレス要因に対しての理解を深め、
ストレスの表れ方を自覚できるようになれば、
自分が体験するストレスの量は随分と軽減できます。

具体的に嫌な出来事があっても、身近に厄介な人がいたとしても、
ストレスを受ける量そのものは、かなり減らせるんです。

そしてストレスを減らして楽になった状態のほうが
その具体的に厄介なことについても対応がスムーズになります。

まずはストレスを減らす。
必要以上に自分が苦しまない。

そのための知的な理解を深める学習と、
具体的な対応策としての手法の実践トレーニングとを行います。

大まかな内容としては…。
●ストレス要因とストレスが生じるタイミング
●個人的ストレスと集合的ストレスの気づき方
●余分なストレスを受けないための考え方
●ストレスの種類に応じた解消の仕方
●ストレス要因の解決の仕方
●どうにもできないストレスへの対処の仕方


このあたりのことを、
●ディスカッション
●認知的トレーニング
●イメージワーク
●瞑想
●催眠的アプローチ

などを組み合わせて扱っていきます。

近頃の僕は、10年前の自分には想像もできないほど
膨大な量のストレス要因を受け取っています。

対処の仕方を身につけてきたからこそ
日々を過ごせているような気がします。

ですから、僕が効果を実感しているものの紹介ということです。

自分に合った方法を持ち帰っていただいて
日々の実践によって楽になってもらえることを願っています。

もちろん、ここでの時間そのものが
ストレスを軽減するものとなれば何よりですが。



◆録音に関しまして
ワークショップ中の内容は、ICレコーダーや
スマートフォンなどで記録いただいても構いませんが、
あくまで個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。



※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。





【講座の詳細】

≪コミュニケーション講座 〜幅を広げるリフレーミング〜≫

【日時】  2018年 9月9日(日)
       10:00〜16:30


       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。

    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。



終了しました


ポスト・トラウマティック・グロウス(PTS)という言葉があります。

PTSDに対応する形で作られた概念で、
 トラウマ的な体験の後に、人間的な成熟をする場合がある
というものです。

どんなに強いストレスでも、それを元に成長する人がいる、と。

特に大病の後にPTSが起きることが多いようです。
命や人生、自分という存在に深く向き合うのでしょう。

その一方で、
 適切なレベルのストレスがあるからこそ人は成長していく
という考え方も多いようです。

いずれにしても、ストレスは必ずしも悪者ではないという話です。

しかし、だからといって
ストレスが素晴らしいものだ、ということでもありません。

ストレスに圧倒されて苦しんだり、
ストレスの積み重ねで体を壊したりすることも多いはずです。

ポイントは、いかに適切な対処ができるか。

それは「ストレスがあるから成長できる」なんて
気軽なリフレーミングをすることではありません。

もっと具体的な対応が求められます。

ストレスのかかるタイミングこそ、
他人のせいにして被害者のように苦しむのではなく、
かといって全てを自分のせいにして落ち込むのでもなく、
自分の心の癖や考え方の癖を見つめて
余分なストレスに苦しまないための適切な状況理解力を磨く。

ストレスのかかるタイミングこそ、
避けられない苦しみから目を背けるのではなく、
苦しんでいる自分を誤魔化すのでもなく、
かといって苦しみに圧倒されるのでもなく、
全てを包含できるだけの度量を育む。

そして、ストレスのかかるタイミングこそ、何よりも
しっかりと自分で苦しみを軽減する。
人との関わりで受けた緊張を緩め、心のダメージを回復して
成長できるだけのエネルギーを取り戻す。

そういう取り組みが必要ではないでしょうか。

ストレスへ適切に対処して
本来の力を発揮していただきたいと思います。

お越しをお待ちしています。

2018年08月14日

知らない間にストレスが

9月9日の内容はあらかた決めました。

心身のリラックスとストレスケアをテーマに
催眠の技法や瞑想法、負荷を減らすリフレーミングなどを
やっていこうと考えています。


ここ最近、時間的に慌ただしくて
詳細なご案内を書くことができず遅れてしまっていますが、
数日中に申し込みフォームを載せる予定です。

ご検討下さい。


日中の気温と湿度が高いと、それだけでグッタリした人が増えますし、
反面、人のことを構えなくなるぐらい余裕を失うようにも見えます。

イライラできないぐらいグッタリしているともいえますが
裏を返せば、日常の不満を意識できなくなるぐらい
心身が疲れている状態だともいえるかもしれません。

満員電車に乗るのも大変なものでしょうし、
夏休みの時期になって非日常的な忙しさを感じる人もいるでしょう。

気づかないうちに人は環境や他人に巻き込まれて
心身を疲弊させていることがあるようです。

そのあたりのことを詳しく扱いつつ
体験的に実感してもらいながら、
具体的な対処法まで練習してみたいと思っています。

cozyharada at 23:13|Permalinkclip!心理学 | セミナー情報

2018年08月11日

原因と責任と可能性のはなし

先日、フェイスブックのコメントで
我ながら上手くまとまった内容があったので
切り出して加筆しながら転載しておこうと思います。


苦しみには自分の歪み、自分の心の癖が関わっています。
その意味で、全ての苦しみには自分の責任がある。

ここで「責任」とか「原因」という言葉を使うと
0か100かで考えられることがあるようなんですが、
責任や原因は、1つのことに100%集まるわけではありません。

「自分に責任がある」「本人に原因がある」というのは、
他に主要な責任の所在があったり、他人が大きな原因だったりしても
一部は少なくとも自分の範囲が含まれている、という意味です。

特に、出来事として「厄介なことが起きる」場合については
そのことが起きることの責任や原因は
限りなくゼロに近いこともありえます。

(ゼロと言わないのは、自分について向き合っていくと、最終的には
 自分と世の中との区別がなくなって、あらゆることに対して
 他人事として切り離して判断することができなくなるからです)

厄介な出来事が起こることには自分の責任や原因がほぼゼロだとしても
それをどれぐらい、どのように苦しむのかには
自分の心の癖が関与する度合いが大きくなってきます。

明らかにゼロよりも大きくなる。

例えば、悲惨なニュースを見ていて犯罪者に対して怒る人もいれば
犯罪に走るまでに至ったその人の境遇を悲しむ人も、あるいは
自分とは関係ないということでそれほど心を痛めない人もいますから、
どれぐらいの大きさで、どんな苦しみを体験するかには
かなりの個人差があるわけです。

そして体験の仕方に個人差があるということは、
そこに本人ならではの要因、つまり本人の責任の範囲が
少なからず含まれている、といえます。


また、自分にとって厄介な出来事が起きているときは
必ずと言っていいほど、どちらか一方だけに責任があることはなく
何か1つだけのことが原因になっていることはありません。

ニュートラルに、客観的に、網羅的に状況を捉えて
何にどれぐらいの責任と原因があるかを列挙するのが
悩まないためのコツの1つでしょう。

全部を自分のせいにして苦しむ必要はありません。
客観的に見たら、自分が原因、自分の責任という部分は
実際にはそれほど大きくない場合もあります。
困るべき人が別にいるケースです。

また、全部を他人のせいにしてしまっては
苦しみを減らせる可能性から逃げてしまうことになります。
これは苦しんでいる自分を楽にしてあげるチャンスから目を背ける点で
自分が自分を苦しめていることとも捉えられます。

何かに取り組むのは、それ自体がエネルギーを要求しますから
苦しみが大きすぎて何一つ元気がないときには
まず気持ちを楽にすることが最優先にはなりますが、
自分が取り組める課題を見つけられれば気力が高まる効果もあり得ます。


「原因」という言葉は、それが「根本原因」だと言っているのではない。
「責任」という言葉は、「その人のせいだ」と言っているのでもない。

あくまで
 沢山の要因が絡み合って物事は起こっていることを認め、
 その中で様々な原因と責任の所在を適切に分配して判断する
ということです。

複数の要因の中から「主要な原因」を特定することはできるかもしれません。
だからといって、主要な原因に対処するだけが解決方法でもありません。

様々な要因が絡んでいるのであれば、原因として小さなことでも
そこを変えることで全体が変わっていく可能性はありえます。

主要な原因が他人や、何か他の環境要因にあったとしても
自分が関わっている部分があるのだとしたら、
原因となっていることの小さな1つを自分に見つけられるかもしれない。

そしてそれが見つかれば、その「自分が原因」の部分は、
自分の責任の範囲として、自分がコントロールできる範囲として
主体的に取り組んでみることが可能になります。

このとき、自分の態度が変わるんです。
能動的、主体的になる。

そして実際に、自分が原因となっている部分に取り組めば
「自分のできる範囲の全てに対して、自分の責任を果たした」
と自然に思えるようになります。

最善を尽くしたと感じられてくるんです。

結果として望ましい方向には変わらなかったとしても
「できることは全部やった」と確信して言えるようになる。

残念な気持ちや悲しい感じは出てくるかもしれません。
しかし苦しみの種類が、以前とは別物になっています。
ずっと受け入れやすい形になっています。

これが自分の責任の範囲を明確にする効果です。


ある出来事に対して苦しむとしても、
その責任の全てが自分にあるわけではない。
もしかしたら相手に99%の責任があるかもしれません。

ただし、残りの1%の自分の責任が自分の側にあるのだとしたら、
その残りの1%に取り組む自由は、自分に100%あります。

とりわけ苦しみについては
自分の歪み、自分の心の癖が関わる度合いも大きいものです。

そこには結構な割合で、自分が取り組める範囲があるんです。

自分の問題の度合いが1%しかなくて、
客観的には99%相手のせいだとしても、
その問題で苦しむことには自分の範囲がもう少し大きく関わります。

苦しまないための取り組みには自分が取り組める余地が結構あるんです。
かなりの可能性が残されているんです。
その可能性に対して自分が100%扱うことができるんです。

苦しいのは自分のせいではなくても、
苦しまないのは自分の範囲で取り組む「ことができる」。

『全ては本人の受け取り方の問題』と言って、
不幸が本人のせいだとか、本人が不幸を引き寄せているとか、
そのように考える人もいるようですが、そうではないと思います。

どんな不幸に苛まれても、
その中で自分の責任の範囲については
自分で何とかできる「余地」が残されている。

そこに希望があるんです。

2018年08月07日

色紙に書くなら

僕の通っている書道教室では
ときどき先生による作品制作のキャンペーンがあります。

表札とか看板とか、掛け軸とか額装作品とか、社名データとか
そういった書作品を先生が書いてくれるんです。
通常価格よりも低い値段で。

キャンペーンが行われる時期は、想像ですが
何かしら教室経営に関しての必要性もあるんでしょうけれど、
それはさておき、割引価格は依頼するモチベーションにはなります。

いろいろな事情を考えたり想像したりして、
僕も多くの生徒と同様に、色紙作品をお願いしました。


色紙に書いてもらえるのは最大4文字ぐらい。
正方形の通常サイズの色紙ですから、4文字にすると
1文字当たりの大きさはかなり小さくなります。

普段の半紙のお手本よりも小さいぐらい。

自分の好きな字を書いてもらえて、飾れる体裁にはなるとはいえ
普段から見慣れているサイズだと少し物足りない気がしました。

書いてもらう4文字にしても、一般的な四字熟語か
教訓を含んだ仏教用語にするのが標準のようだったので、
そうすると書作品としての意味よりも
文字の意味情報のほうが強調されてしまいそうに思ったんです。

だから4文字はやめておこう、と。

じゃあ2文字なら大きくなるかというと
正方形の真ん中に2文字を配置すると、これも結局
1文字のサイズは4文字のときと同じぐらいになってしまいます。

左右の余白が大きくなるだけか
少し横幅の大きい字にしてスケールを大きくするか、でしょう。

中には、知り合いや自分の子供が生まれるタイミングに合わせて
子供の名前の色紙を書いてもらった人もいるようです。

その場合、「命名 〇〇 平成△△年…」みたいに
全体の体裁は整ったものになります。

これはこれで良い思い出になりそうです。


僕は個人的に、せっかく書いてもらうとしたら
普段のお手本では見られないようなものを見たかったので、
色紙の中に1文字だけという体裁を選びました。

文字が大きくなりますし、正方形の色紙の中に
どういう風に配置するのかなども見応えがありそうでしたから。

となると、あとは何の文字を書いてもらうか。

一文字となると、その文字そのものの字形や画数などが
できあがりに大きく影響します。

つまり格好がつきやすい字もあれば、そうでないものもあるということ。

一般に画数が多い方がバランスを取りやすい気がします。

また、普段から先生のお手本を見ていると
ある程度のパターンを想像できそうなものもあります。

「この字で頼んだら、こんな感じの出来上がりになりそうだな…」
といったイメージが浮かぶものもあるんです。

もちろん、それ以上にしてくれるとは思いますが
せっかくなら予想もつかないものが見てみたい。

それから、これまでに先生が、一文字の作品(一字書)として
発表したことのある字だと、これは頼むのに遠慮が出ます。

色紙のサイズで大きな作品と同じスケールは出ませんし、
どうしても過去の作品と比べたくなってしまいます。

そうなってくると、
 どんな風に書いてくれるか想像もつかず、
 過去に一字書作品として製作されたことがないもの
が良さそうに思えてきます。

そして画数が多い方が格好がつきやすいということは
裏を返せば、画数が少ないほうが難しさが上がるということ。


なので最終的に、僕は「一」を選びました。

漢数字の1。

横棒一本、一画の文字です。

ただの線ですが、そこに書道の技術を込めてもらうと
先生だからこそできる作品になるんじゃないかと思ったんです。

まして一本の横線を、正方形の色紙の中に書いて
それで全体のバランスもとるとなると、
これは僕には想像ができません。

そして先生自身、線質そのものの美しさにこだわっていると
日頃から話していますので、きっと
書道の道具と技術からしか生まれない
黒い線そのものの芸術が見られそうな気がします。


ということで先日、先生にお願いをしてみました。

もしかすると失礼なお願いかもしれないので
おそるおそる確認を取りながら。

無理難題という位置づけにしてしまったら
先生の立場からすると自分を落としてしまうことになるでしょうし、
かといって何枚も書き直さないといけないような
時間を要する作業をお願いしてしまったら迷惑かもしれません。

あるいは先生の実力を試すような
「挑戦的な依頼をしてきた」と捉えられても
それは本意ではありません。

単純に、
 自分にはできない高いレベルのことを見せてもらいたい
という話。

僕の側からすると、せっかく依頼をするわけだから
「できるだけ見応えのあるものを」という思いですが、
先生の側からしたら
「この値段じゃあ割が合わない」と感じる可能性も想像できました。

なので頼むときも若干、お伺いを立てる感じになります。

実際にお願いしたときは、あまり前向きな雰囲気ではなく、
先日の教室でも「ずっと悩んでいる」と言っていたので
あまり簡単な作業ではなかったんだと思います。

難しいわけではないとの話でしたが、
方向性を決めるのに迷う、とのこと。

どんなものが出来上がってくるのか、楽しみです。

cozyharada at 23:25|Permalinkclip!NLP | 全般

2018年08月04日

無意識の深さと遠さ

無意識に「深さ」があるという発想が誤解を招きやすいと思います。

ある意味、フロイトやユングのやらかしちゃったところというか。
まあ、鵜呑みにした後続もでしょうけれど。

特に「氷山」をモデルにするような形だと、
「深い無意識」は表面に上がってこないイメージになります。

結果として、「深い無意識」(=「潜在意識」)は
「意識」の本人には計り知れないものとなって
「潜在意識に支配されている」とか
「潜在意識が90%以上」とか
「潜在意識に暗示を入れる」とか
「潜在意識を活用する」とか、
どこか他人事の対象になってしまうようです。


無意識のアクセスしやすさは、ただの距離。
深さはなく、遠いか近いかだけ。

言い換えると、
 親しみのある範囲ほど意識に近く、
 慣れていない(親しみのない)範囲ほど
 アクセスしにくい「遠い」ところの無意識になる
ということ。

深さで無意識のアクセスしにくさをイメージすると、
深いところはいつまでたっても意識できないかのように考えがちです。

氷山の水面下、深いところは水面に上がってこなそうですし、
水面に上がれるのは浅いところが浮上する程度の感じでしょう。

しかも表面に出た意識を「顕在意識」などと読びながら
「顕在意識」の内容が万人に共通しているかのように想定すると、
対応する「潜在意識」のほうにも万人に共通した性質があるかのように
仮定したくなるのかもしれません。

これはある程度、仕方のないことだと思われます。

人は基本的に、他人の内面を想像できるようになる過程で
自分の経験を参照しながら
「これが仮に自分だったとしたら、こういう風に思うはずだ。
 だったらこの立場の人は、こんな風に感じるのだろう。」
といった視点の切り替えをしていくといえます。

こういうのは小学校の道徳の授業でやるような訓練です。
「自分だったら、どう思う?」みたいな作業。

その想像の積み重ねによって、他人の行動を見たときに
「一般的にこういう風に考えたり、感じたりするものだ」
という知見が作られていって、
自動的に他人の気持ちを汲み取ることに慣れてくるわけです。

ですが同時に、「自分だったら」をベースにしている以上
「その立場にいる自分」を想像しているに過ぎなくて、
「その立場にいる相手」の気持ちを想像しているわけではありません。

相手の気持ちを想像するには、相手の「立場」をもとに考えるのではなく、
相手の表情や非言語メッセージから感情を読みとって
相手の「感情」をもとに想像する必要があります。

これはまた別の訓練を求められます。

しかしいずれにしても、自分の体験をベースにして察するので
「他人にも自分と同じ心の動きがある」と想定したくなるのが
自然な発想だといえます。

だから人間には共通した心の動きがあるという前提で
人は心理学を研究し始めたのでしょうし、
動物にだって人間と同じような心があると想定したくなるんです。

犬が走り回っていたら「楽しそう」だと想像しますが
果たして犬が体験しているものが、人間と同じ「楽しさ」かどうか
それは定かではないはずです。

動物だったら人間と同じような仕組みがある可能性もあるでしょうが、
それがアンドロイドだったりしたら、もっとハッキリすると思います。

明らかにアンドロイドだと知っていて、
プログラムされた通りに動いているだけだと知っていて、
そのアンドロイドが他のアンドロイドが壊れるのを見て
涙を流し、泣き声を上げ、人間と同じような表情や姿勢をしたら
きっとそこに「悲しんでいる」という解釈をするのではないでしょうか。

本当にアンドロイドの反応がプログラムなのか、
もしかしたら本当に心があるのか、
その判断ができなくなりそうなのは、結局
 人が他者の内面を、自分の体験をもとに想像するのが根本にあるから
だといえるでしょう。

そういう仕組みがある以上、
人に共通する「顕在意識」や「潜在意識」がある
と考えたくなるのも分からなくはありません。

そして共通すると想定するからこそ生まれてくる
氷山のような「無意識の深さ」のモデルについても。


でも実際に内面を探る作業を重ねていくと
そうじゃないことが沢山見えてきます。

「深い無意識」だと思っていたものも、
やり方を工夫すれば意識に上げることができます。

つまり、普段の意識状態ではアクセスされない情報だっただけで
意識の仕方を変えるだけで、意識に上げることは可能なんです。
その意味ではもう、「無意識」ではなくなります。

そして一度でも意識に上げたものは、
「深い」無意識ではなくなります。
すぐにアクセスできるものになる。

意識に近いところにやってくるんです。

より正確には、「意識」の範囲が広がるということです。

無意識と呼ばれているのは、意識に上げる方法に馴染みがないだけのこと。
アクセスするルートがないんです。

そしてそのルートの道のりが遠いほどアクセスしにくい。
近ければ、うろうろしている間に偶然たどり着けることもありますが、
遠くにあればチョットうろうろしたぐらいでは到着しません。

この距離とルートがあるからこそ、
意識と無意識のモデルは「氷山」よりも
平面的な「ジグソーパズル」のようなイメージのほうが
近いんじゃないかと感じます。

ピースが繋がって絵柄が分かっているところが「意識」。

その範囲に隣接するピースだったら、端っこの形と絵柄をもとに
次に当てはまるものを見つけやすいはずです。

これが近くてアクセスしやすい「無意識」の範囲。
そして一度ピースがくっつけば、繋がった面積が大きくなりますから
「意識」の範囲が広がったことになります。

一方、完全にピースが連続していなくても、
ちょっと離れた場所に小さな塊を作ることはできます。

ピースの形同士を繋げて、少ない数のピースのまとまりができる。
特にそれが主要な絵柄と関係するように見えれば
全体に対しての配置も想像できるようになります。

この場合、少し離れた”島”のような形で
「意識」が広がっているといえそうです。

そして隣り合うピース同士を繋げていくと
面積として広げなくても、細い道のように遠くまで
「意識」の行き先を進めていくことができます。

これが「無意識」を探るルートのようなもので、
その先に何か、全体の絵柄を決めるうえで重要な部分が
ピースの模様として見えてくることがあります。

こうなると「無意識」の意味に気づけたり、
過去の重要な記憶が戻ってくることになったりして、
遠い無意識にアクセスできたことになります。

つまり遠くにある情報にアクセスするには、
主要な意識の範囲である絵柄の分かった塊から
少しずつ隣のピースを繋げていって
遠くまでルートを伸ばしていく必要がある、ということです。

実際に無意識の範囲にアクセスる手法は、
こういう連想の広げ方をします。

沢山のピースからなるジグソーパズルにおいて
すでに絵柄の分かった塊の範囲がある。

そのメインとなる面積の大きな塊を「意識」として、
そこから近い場所のピースはアクセスしやすく、
遠い場所のピースにアクセスるには
隣接するピースをコツコツ繋げて
遠くまでルートを伸ばす必要がある。

そういうイメージが理解しやすいと思います。


なので実態としても、ある人にとっての意識に近い情報が、
その人にとってアクセスしやすくても、
同じ情報が、別の人にとってはアクセスしにくいことがあるんです。

つまり、ある人にとっては完全に無自覚な「潜在意識」の記憶や行動も、
別の人にとっては常日頃から自覚している「顕在意識」ということがある、と。

例えば…。

寂しいときに心の隙間を満たすために甘い物を食べる、という人は
自覚しながら甘い物を食べます。

寂しいときほど、それに気づいて、甘い物を食べたい気持ちが大きくなる。
だから、食べたいときに食べる。
逆に寂しくない日は、別に食べなくていい。

そもそも「なぜか食べてしまう」のではなく、
食べたいから食べているだけなんです。

一方、同じ理由なのに自覚できていないで、
「なぜか甘い物をやめられない」という人もいます。

すごく寂しい日も、あまり寂しくない日も
「なぜか」甘い物を食べる。
で、「また食べちゃった」と後悔する。

この人にとって、甘い物を食べるのは
『潜在意識に勝てない』というヤツなんでしょう。

ところが、「なぜか甘い物を食べてしまう」ほうの人が、
物事をコンスタントに予定通りこなしたりする。

そして「甘い物を食べたいときにだけ食べる」ほうの人が、
物事を先送りにすることもあり得ます。

前者は「やろうと思ったからやる」だけのことで、
そこに「つい先送りにする」という発想さえありません。

後者は「やらなきゃ」と思っても、なぜか「つい先送りにしてしまう」。
すぐやるか、後でやるかの決定プロセスが無自覚なんです。
だから『潜在意識に勝てない』。
「つい先送りにする」ことの『深層心理』が分からない、と。

ある人にとっては当たり前で、日ごろから意識的なわけです。
理由は明白で、そこに『深層心理』もありません。

でも同じことが別の人には
なぜか分からない『潜在意識』のことになっていて、
そういうときにだけ『深層心理』が登場する。

こうしたことも、単純に距離の近さ・遠さだけで考えればスムーズでしょう。

そもそも「意識」の範囲に個人差がある。
ジグソーパズルの中で見えている絵柄の部分が違うんです。

そこから近い範囲もあれば、遠い範囲もある。

そういう考え方のほうが上手く説明できますし、
個人差についても理解もしやすいでしょう。


無意識は「深さ」ではなく、
平面的な場所の「遠さ」で考える。

それがオススメです。

cozyharada at 23:23|Permalinkclip!心理学 | NLPの基本情報

2018年08月01日

英語のアナウンス

近頃は日本にいても至るところが国際的になってきているというか
外国人を想定した対応が増えてきているようです。

駅や電車の中など、公共交通機関であれば
観光客が利用することも当然あり得ますから
そのあたりの配慮をするのは1つなんでしょう。

羽田空港からのモノレールだと、車内アナウンスが
日本語、英語、中国語、韓国語と4か国語になっています。

JRも新型の車両だと、車内の液晶モニターには
4か国語で表示が出ていた記憶もありますし。

モノレールの終着駅になっている浜松町は
駅構内の駅員からのアナウンスも英語バージョンがあります。
アナウンサーやネイティブに言わせたものではなく、
英語が話せる日本人駅員が録音した音声っぽいです。

小田急線では、たまに車掌が自ら英語でアナウンスすることもある。
箱根方面が外国人観光客に人気なんでしょうか?
国内線飛行機の機内アナウンスより、しっかりした英語でした。

国外でも、ロシアの駅ではキリル文字表記とアルファベット表記と
両方がなされているらしいです。
英語に寄せるのは無難なやり方なのだろうと思われます。

交通機関以外では、飲食店も外国人対応が増えるのは自然でしょう。
英語メニューを置いておくことで観光客に対応しやすいですから。

最近は大型ドラッグストアや家電量販店も
中国人観光客に合わせたものが増えてきているように見えます。

専用の免税カウンターがあったり、中国語の案内や
中国語が通じるレジも用意されています。

この場合、英語よりも中国語が重視されるのは
利用客の大部分が中国人観光客だからなんでしょう。

コンビニ店員が外国人アルバイトになっているのは
都市部では良く見受けられる光景になってきましたが、
大阪・心斎橋のコンビニでは、当たり前のように
中国人観光客に中国人店員が中国語で接客をしていて
自分が異国に来ているような気分にさえなることがあります。

これからオリンピックに向けて、外国語対応の範囲は
まだ増えていくのかもしれません。


公共交通機関や飲食店、観光地や土産物を買いそうな場所で
英語や中国語の案内が増えるのは、そういう意味で納得がいきます。

親切とも言えますし、具体的なメリットも大きいんでしょう。

一方で、目的がよく分からない外国語アナウンスも耳にします。
僕が通っているジムです。

会員制のジムですから、自然と利用者は地元の人となります。
電車で来る人がいたとしても、少なくとも日本に住んでいる人が対象。

実際、ジムの受付は日本人だけですし、
契約の資料も日本語しかありませんでした。

施設内の案内も基本的に全て日本語です。
マシンの説明文も日本語ですし、注意事項も日本語で掲示されます。

確かに利用者の中には外国出身の人もいます。
中国、中東、南アジアがメインでしょうか。
近くに住んでいる人たちだと思われます。

ヨーロッパ系の人はスペイン人を一人見かけるぐらいです。

ですから基本的に英語圏ではないはずです。
英語表記をするメリットはあまりないでしょうし、
この人たちも日本在住ですから日本語でコミュニケーションをして
それでジムに入会していると想像できます。

にもかかわらず。

ジムの中で流れる注意事項のアナウンスが
日本語と英語の両方なんです。

内容は注意事項ですが、ラジオのDJみたいな雰囲気。

音楽を流している途中で、ときおり流されるアナウンスで
利用上の注意や避難時の注意などを録音したものです。

録音ですから、当然プロの人が吹き込んだものでしょう。
だから妙にFMラジオみたいな印象が出ているんだと感じます。

で、この注意事項に日本語バージョンと英語バージョンがあるんです。

日本語のアナウンスが終わったら、そのまま引き続き
英語バージョンでアナウンスが流れる。
そして再び音楽に戻っていく。

英語を必要としている人がいるようには思えないんですが…。


仮に目的が、安全のため、入念に英語でも注意喚起することだとしたら
吹き込みのアナウンスはネイティブにやってもらえばいいはずです。

ところが実態は、日本人アナウンサーの声。
日本語アナウンスを読んだ人が、そのまま引き続き英語も読んでいます。

当然、用意された原稿を読んでいるだけでしょう。
だから英語がネイティブでなくても、内容チェックだけされていれば
問題がないとは言えるのかもしれません。

ただ、発音がなんとも気になるんです。

雰囲気は英語っぽいんです。
だから余計にFMラジオのDJっぽいんでしょうけれど。

しかしちゃんと聞くと、母音の発音がいい加減だったり、
ところどころ日本語的な子音が混ざっていたり。

リズムと抑揚はアメリカンな感じになっていますから
FMラジオぐらいの雰囲気にはなっているものの、
英語としては引っかかるところがあるんです。

中には完全に発音を間違えている単語さえあります。

「携帯電話は指定の場所でお使いください」といった内容で
「Please use your cell phone in designated area」
みたいなフレーズが流れるんですが、
この「designated(指定された)」の発音が違う。

片仮名で書くと「デジグネイテッド」みたいな感じのところ、
その人は「デザイネイテッド」って言っているです。

まぁ、確かに途中まで「design(デザイン)」と同じですから
分からないではないですけど。

本当に目的が英語圏の人に伝えることであれば
内容チェックだけでなく、発音チェックだってするでしょう。

その必要を省くなら、英語ネイティブに読んでもらえばいい。

しかし、英語がカッコよく読める日本人アナウンサーがいれば
正確でなかったとしても、それで済んでしまったわけです。

どうも「英語が入っているとカッコイイ」というフシが
感じられてしまいます。

そして僕は毎回、「デザイネイテッド」のところで引っかかります。
何度聞いても、そこが気になる。

そもそも何の目的で英語を入れているんだろう、と。

国際化の対応としての英語が増える一方で
「英語ってカッコイイ」みたいな発想も
まだ残っているのかもしれません。

cozyharada at 23:33|Permalinkclip!NLP | コミュニケーション
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
育むコミュニケーション


【日時】 
  2018年12月23日(日)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回は1月〜2月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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