2008年01月19日
創始者は何をしていたか
エリック・バーンという人がいます。
といっても、1970年にお亡くなりになった方です。
交流分析を作った人ですね。
世の中には沢山の本があり、沢山の情報があふれていますが
何かの創始者の心に触れるということは、あまりできないような気もします。
例えば、催眠療法に革命をもたらしたような存在であるミルトン・エリクソン。
有名ですし、彼について書かれた本も沢山あります。
多くの逸話が残っていて、エリクソンの凄さは感じられます。
エリクソンの技術も様々な形に変えられて、今に伝わっています。
でも、エリクソンが何を大切にして生きていたのか、
エリクソンという人がどういう人であったのか、
そういうことは、なかなか感じられませんね。
晩年のエリクソンのビデオなどを見ると、彼の優しさや人柄が伝わってくるようでした。
催眠の技術を学ぼうとしてビデオを見ても、それは知識として知っていることかもしれません。
でも、動画の中には彼の人間性の一部が感じられます。
それも貴重な情報ですね。
そして、エリクソンは数多くの論文を残しています。
僕はまだ読んでいません。
それを読んだ先生は、本に語られていないエリクソンの想いを感じていたようです。
その想いを僕らに伝えてくれました。
もしかすると、それはその先生特有の感じ方かもしれません。
僕がエリクソンの論文を読んだら、感じ方は違うのかもしれません。
ただ、少なくとも源流に触れたとき、エリクソン本人を感じることができるとは思うんです。
例えば、いわゆるカウンセリングの技術の祖となったカール・ロジャース。
来談者中心療法とかクライアント中心療法と呼ばれるような傾聴を広めた人ですが、
ビデオで見る彼自身は決して話の内容を聞き、オウム返しするような人ではありません。
もっとクライアントそのものを全て感じようとしている印象です。
声の感じとか、体の雰囲気とか、話の裏側にあるものを感じようとしているようでした。
確かに、その意味ではクライアント中心でしょうね。
クライアントの話した上っ面の内容ではなく、相手そのものを中心に進める。
そう考えると、名前に偽りは無い感じがします。
でも、それが技術として広まっていったとき、
そこにはロジャース自身がしていたことは抜けてしまっているように思えます。
NLPも同じようなものかもしれませんね。
スキルの寄せ集めのような印象を受けることが多いようです。
でもバンドラー本人から受ける印象は全くの別物です。
映像で見ても、実物を見ても、業績を見ても、経緯を見ても、彼はユニークです。
僕が受ける印象。
それは反骨心や好奇心です。
とにかく既存のものを打ち破っていきたい。
今までのやり方以上のものを探しているような、そんな感じです。
今も彼は模索中でしょう。
バンドラーのホームページには怪しげなワークショップ情報が盛り沢山ですから。
彼はハチャメチャで、ヤンチャな人ですが、人を信じているんだと思います。
これまでのやり方に彼自身が感じられなかったものを
自分自身で反映させて形にしてきているんだと思うんです。
NLPはスキルが型として一人歩きしているのかもしれません。
それはそれで利用されているのですから素晴らしいことですね。
ただ、バンドラーは徹底的に型破りな人です。
NLPも型破りなものとして作られてきたと思います。
英国紳士的なジョン・グリンダーと袂を分かつのも当然でしょう。
なのに、できあがったNLPは再び型として広まっているという現実。
バンドラー自身のセミナーも生き方も型破りなのは、何か象徴的に感じられます。
よく出来ていて役に立つことは、技術として情報として
創始者の気持ちを離れて一人歩きしてしまうのかもしれません。
僕は最近、交流分析のエリック・バーンの人柄に触れられる本を読みました。
交流分析を情報として伝えているものは数多くありますが、
バーンが交流分析を作り上げた経緯や動機を書いてある本はどれだけあるのでしょうか。
交流分析はエリック・バーンの徹底した人間観察の結果なのだそうです。
極めて実感的な観察結果だということです。
誰にでも実感として納得できるように分類した情報。
だからこそ、それが広まったのでしょうね。
自我状態という考え方から始まり、彼の研究成果・観察結果が広がっていきます。
交流分析というジャンルの中に、いくつかの概念が入っている理由が理解できました。
なぜ、統一感がないのか。
それはバーン自身の観察結果と考察を少しずつ整理して追加したからでしょう。
交流分析というのは、エリック・バーンの気づきの集大成なのかもしれませんね。
徹底した人間観察に基づいているからこそ、誰にでも実感できる交流分析。
そこには実際に活用してもらおうという意思が感じられます。
その意思はどれだけ反映されているのでしょうね。
僕には分かりません。
1つ思うのは、多くの人は楽に早く分かりたがるようだ、ということです。
バーンは徹底的に人間そのものを観察してきた。
一方、交流分析を学んだ人は、交流分析で人間を見るようになりやすい。
分かったつもりで人を見てしまうのではないか、ということです。
人を見るために判断基準を持つのは素晴らしいことだと思います。
でも基準に当てはめて人を見ていてたら、
その人のことは見ていないのではないかとも思うんです。
創始者が何をしていたかを考えると学びの幅が広がりそうな気がします。
といっても、1970年にお亡くなりになった方です。
交流分析を作った人ですね。
世の中には沢山の本があり、沢山の情報があふれていますが
何かの創始者の心に触れるということは、あまりできないような気もします。
例えば、催眠療法に革命をもたらしたような存在であるミルトン・エリクソン。
有名ですし、彼について書かれた本も沢山あります。
多くの逸話が残っていて、エリクソンの凄さは感じられます。
エリクソンの技術も様々な形に変えられて、今に伝わっています。
でも、エリクソンが何を大切にして生きていたのか、
エリクソンという人がどういう人であったのか、
そういうことは、なかなか感じられませんね。
晩年のエリクソンのビデオなどを見ると、彼の優しさや人柄が伝わってくるようでした。
催眠の技術を学ぼうとしてビデオを見ても、それは知識として知っていることかもしれません。
でも、動画の中には彼の人間性の一部が感じられます。
それも貴重な情報ですね。
そして、エリクソンは数多くの論文を残しています。
僕はまだ読んでいません。
それを読んだ先生は、本に語られていないエリクソンの想いを感じていたようです。
その想いを僕らに伝えてくれました。
もしかすると、それはその先生特有の感じ方かもしれません。
僕がエリクソンの論文を読んだら、感じ方は違うのかもしれません。
ただ、少なくとも源流に触れたとき、エリクソン本人を感じることができるとは思うんです。
例えば、いわゆるカウンセリングの技術の祖となったカール・ロジャース。
来談者中心療法とかクライアント中心療法と呼ばれるような傾聴を広めた人ですが、
ビデオで見る彼自身は決して話の内容を聞き、オウム返しするような人ではありません。
もっとクライアントそのものを全て感じようとしている印象です。
声の感じとか、体の雰囲気とか、話の裏側にあるものを感じようとしているようでした。
確かに、その意味ではクライアント中心でしょうね。
クライアントの話した上っ面の内容ではなく、相手そのものを中心に進める。
そう考えると、名前に偽りは無い感じがします。
でも、それが技術として広まっていったとき、
そこにはロジャース自身がしていたことは抜けてしまっているように思えます。
NLPも同じようなものかもしれませんね。
スキルの寄せ集めのような印象を受けることが多いようです。
でもバンドラー本人から受ける印象は全くの別物です。
映像で見ても、実物を見ても、業績を見ても、経緯を見ても、彼はユニークです。
僕が受ける印象。
それは反骨心や好奇心です。
とにかく既存のものを打ち破っていきたい。
今までのやり方以上のものを探しているような、そんな感じです。
今も彼は模索中でしょう。
バンドラーのホームページには怪しげなワークショップ情報が盛り沢山ですから。
彼はハチャメチャで、ヤンチャな人ですが、人を信じているんだと思います。
これまでのやり方に彼自身が感じられなかったものを
自分自身で反映させて形にしてきているんだと思うんです。
NLPはスキルが型として一人歩きしているのかもしれません。
それはそれで利用されているのですから素晴らしいことですね。
ただ、バンドラーは徹底的に型破りな人です。
NLPも型破りなものとして作られてきたと思います。
英国紳士的なジョン・グリンダーと袂を分かつのも当然でしょう。
なのに、できあがったNLPは再び型として広まっているという現実。
バンドラー自身のセミナーも生き方も型破りなのは、何か象徴的に感じられます。
よく出来ていて役に立つことは、技術として情報として
創始者の気持ちを離れて一人歩きしてしまうのかもしれません。
僕は最近、交流分析のエリック・バーンの人柄に触れられる本を読みました。
交流分析を情報として伝えているものは数多くありますが、
バーンが交流分析を作り上げた経緯や動機を書いてある本はどれだけあるのでしょうか。
交流分析はエリック・バーンの徹底した人間観察の結果なのだそうです。
極めて実感的な観察結果だということです。
誰にでも実感として納得できるように分類した情報。
だからこそ、それが広まったのでしょうね。
自我状態という考え方から始まり、彼の研究成果・観察結果が広がっていきます。
交流分析というジャンルの中に、いくつかの概念が入っている理由が理解できました。
なぜ、統一感がないのか。
それはバーン自身の観察結果と考察を少しずつ整理して追加したからでしょう。
交流分析というのは、エリック・バーンの気づきの集大成なのかもしれませんね。
徹底した人間観察に基づいているからこそ、誰にでも実感できる交流分析。
そこには実際に活用してもらおうという意思が感じられます。
その意思はどれだけ反映されているのでしょうね。
僕には分かりません。
1つ思うのは、多くの人は楽に早く分かりたがるようだ、ということです。
バーンは徹底的に人間そのものを観察してきた。
一方、交流分析を学んだ人は、交流分析で人間を見るようになりやすい。
分かったつもりで人を見てしまうのではないか、ということです。
人を見るために判断基準を持つのは素晴らしいことだと思います。
でも基準に当てはめて人を見ていてたら、
その人のことは見ていないのではないかとも思うんです。
創始者が何をしていたかを考えると学びの幅が広がりそうな気がします。