2008年02月12日
科学と心理学
この間、心理学について書きました。
「ニセ心理学」なんていうのと関連して。
僕は心理学の中に、信頼していない部分があります。
同時に、心を扱うコミュニケーションの中で実際に役立てている心理学の知識もあります。
マズローの欲求段階説なんかは、とても大切にしていますし、
発達心理学は人の抱える課題として知っておくと役立つものでしょう。
絶対的信頼は置きませんし、洗練されていない部分もあるようですが、
視点として持っておくと非常に参考になります。
心理学の知識は人と関わる上でのベースとして持っていて損はないと思います。
今にして思えば、僕は大学に在学中から、研究室で実験をする一方で
心理学の本を読むのが好きでした。
なんとなくではあっても、ずっと興味は持っていたんでしょうね。
テレビ番組でも心理系のを見ていた記憶があります。
だいぶ前ですが、「それいけ!!ココロジー」なんて番組も記憶にあります。
大学の一般教養では加藤諦三先生の精神分析論に衝撃を受けたものでした。
で、心理学の読み物を娯楽として楽しんでいたんです。
「なるほど、そういうことがあるのか」と感心したり、知識を得るのを楽しむ一方で、
「そういう視点で人を見るんだな」と感じていたのを思い出します。
僕にとって、心理学というのは人を知ろうとする行為だったのでしょうね。
その意味においては心理学というのは実に素晴らしいと思います。
僕は理系で、ずっと研究をやってきていましたから
科学的であるということに関してはウルサイです。
妥協したくない自分がいます。
科学的だというと、なんでもかんでも理屈で説明する印象を持たれるかもしれませんんが、
むしろ僕は逆だと思っています。
科学的でない人ほど、色々なことを自分の理屈に当てはめて解釈しようとします。
法則をやたらと作ろうとしたり、
どこかから引用してきた情報を曲げて利用したり。
科学はもっと潔いんです。
これまでの科学の歴史に対して論理的に正しいかどうかで評価されます。
科学の歴史が覆されることもあるわけですが、
そうなったら「今までのは間違っていた」と認めます。
それは仮説だからです。
科学はほとんどが仮説だと知っているから潔くいられるんです。
科学は真理を目指しているのかもしれませんが、
科学が真理だとは考えない姿勢を持っていると思います。
いつでも自らを疑える客観性こそ科学の素晴らしさの1つだと思うんです。
分からなければ分からないだけなんです。
心霊写真を見せられたとき、科学者は「霊ではない」と批判する立場ではありません。
「どうしてこの写真が霊だと言えるんですか?」という視点です。
「他の可能性だって考えられませんか?」ということです。
心霊写真を見て、霊だと言うのは簡単です。
でも霊じゃない可能性だってあるんです。
分からないんです、本当は。
だから科学的には「分からない」という結論でしょう。
幽霊がいるか?と聞かれたら、分からないと答えるということです。
色々な可能性があって、分からないんです。
分からないものは分からない。
それを認めて、受け入れ、なお、分からない状態を楽しめる。
だから分かろうとすることができるんです。
人の心だって同じだと思います。
相手の心は分からない。
だから分かろうとできるんじゃないでしょうか。
人の心を分かるために心理学を勉強する。
そのはずだったのに、心理学の知識で人を決めつけて見てしまったら
それは人を分かろうとしているとは言えないと思うんです。
心理学が人の心を理解しようとするものであるならば、
心理学では人の心を完全には理解できないんです。
心理学は人の心の理解に近づくためのものだということです。
心理学も仮説だと受け入れた上で、人の心を分からないものとして
心理学を使おうとしたとき、目の前の人を理解するのには有効でしょう。
でも、「心理学ではこうだから」と人の心を決めつけたとき
心理学は目の前の人の心を理解しようとするものではなくなります。
人の心を理解しようとしないものを「心理学」と呼べるかどうか、
それは少し考えものですね。
「ニセ心理学」なんていうのと関連して。
僕は心理学の中に、信頼していない部分があります。
同時に、心を扱うコミュニケーションの中で実際に役立てている心理学の知識もあります。
マズローの欲求段階説なんかは、とても大切にしていますし、
発達心理学は人の抱える課題として知っておくと役立つものでしょう。
絶対的信頼は置きませんし、洗練されていない部分もあるようですが、
視点として持っておくと非常に参考になります。
心理学の知識は人と関わる上でのベースとして持っていて損はないと思います。
今にして思えば、僕は大学に在学中から、研究室で実験をする一方で
心理学の本を読むのが好きでした。
なんとなくではあっても、ずっと興味は持っていたんでしょうね。
テレビ番組でも心理系のを見ていた記憶があります。
だいぶ前ですが、「それいけ!!ココロジー」なんて番組も記憶にあります。
大学の一般教養では加藤諦三先生の精神分析論に衝撃を受けたものでした。
で、心理学の読み物を娯楽として楽しんでいたんです。
「なるほど、そういうことがあるのか」と感心したり、知識を得るのを楽しむ一方で、
「そういう視点で人を見るんだな」と感じていたのを思い出します。
僕にとって、心理学というのは人を知ろうとする行為だったのでしょうね。
その意味においては心理学というのは実に素晴らしいと思います。
僕は理系で、ずっと研究をやってきていましたから
科学的であるということに関してはウルサイです。
妥協したくない自分がいます。
科学的だというと、なんでもかんでも理屈で説明する印象を持たれるかもしれませんんが、
むしろ僕は逆だと思っています。
科学的でない人ほど、色々なことを自分の理屈に当てはめて解釈しようとします。
法則をやたらと作ろうとしたり、
どこかから引用してきた情報を曲げて利用したり。
科学はもっと潔いんです。
これまでの科学の歴史に対して論理的に正しいかどうかで評価されます。
科学の歴史が覆されることもあるわけですが、
そうなったら「今までのは間違っていた」と認めます。
それは仮説だからです。
科学はほとんどが仮説だと知っているから潔くいられるんです。
科学は真理を目指しているのかもしれませんが、
科学が真理だとは考えない姿勢を持っていると思います。
いつでも自らを疑える客観性こそ科学の素晴らしさの1つだと思うんです。
分からなければ分からないだけなんです。
心霊写真を見せられたとき、科学者は「霊ではない」と批判する立場ではありません。
「どうしてこの写真が霊だと言えるんですか?」という視点です。
「他の可能性だって考えられませんか?」ということです。
心霊写真を見て、霊だと言うのは簡単です。
でも霊じゃない可能性だってあるんです。
分からないんです、本当は。
だから科学的には「分からない」という結論でしょう。
幽霊がいるか?と聞かれたら、分からないと答えるということです。
色々な可能性があって、分からないんです。
分からないものは分からない。
それを認めて、受け入れ、なお、分からない状態を楽しめる。
だから分かろうとすることができるんです。
人の心だって同じだと思います。
相手の心は分からない。
だから分かろうとできるんじゃないでしょうか。
人の心を分かるために心理学を勉強する。
そのはずだったのに、心理学の知識で人を決めつけて見てしまったら
それは人を分かろうとしているとは言えないと思うんです。
心理学が人の心を理解しようとするものであるならば、
心理学では人の心を完全には理解できないんです。
心理学は人の心の理解に近づくためのものだということです。
心理学も仮説だと受け入れた上で、人の心を分からないものとして
心理学を使おうとしたとき、目の前の人を理解するのには有効でしょう。
でも、「心理学ではこうだから」と人の心を決めつけたとき
心理学は目の前の人の心を理解しようとするものではなくなります。
人の心を理解しようとしないものを「心理学」と呼べるかどうか、
それは少し考えものですね。