2008年07月02日
都合のいい学び
僕はマンガが結構好きなんです。
社会人になるまで、家には大量のマンガがありました。
今では大半を処分してしまいましたが、好きなものは少し残っています。
絵画でも、文章でも、書でもない。
その表現技法は実に素晴らしい可能性を秘めていると思います。
で、僕の好きなマンガの中に、「ゼロ THE MAN OF THE CREATION」というのがあります。
ストーリーは各回完結で、主人公である天才贋作者「ゼロ」が
芸術作品や破損した物品を複製しながら謎解きが進むようなパターン。
この物語自体が雑学的に面白い上に、芸術的要素も入っているので
僕の興味を俄然ひきつけてくれます。
しかも、主人公が孤高の天才というあたりも僕の心を打つようです。
その主人公の天才性を語るエピソードが盛り沢山なわけですが、
彼の特技は「本物を複製する」というところにあります。
初期には人間をも複製するようなエピソードもありましたが、
最近では美術品、骨董品が中心になってきています。
どうやって本物を複製するかというと、原材料から同じものを集めることに始まり、
作者になりきって作品に魂を込めるところまでやるんです。
この魂を込めるってのがカッコイイんですけど、
ここで強調したいところは別の部分です。
それは超人的な記憶力。
主人公は一度見たものを克明に記憶しています。
その記憶のみを頼りに、本物を複製することまでやるわけです。
映像記憶、フォトメモリー、直観像記憶などと呼ばれる能力です。
図書館の蔵書も全て暗唱できるレベルで記憶していたりします。
どこの図書館の何番の棚の、何段目の何冊目にある本の何ページかまで覚えていると。
実際、このような超人的な能力を持った人というのもいるそうです。
サヴァン症候群など、自閉的な傾向となることが多いと言われます。
そして、こうした直観像記憶というのは抽象化能力の反対にあるものです。
克明に詳細を記憶するということは大体の意味合いを掴むことと対極にあります。
直観像記憶ができるということは、シンプルなマンガが描けないということです。
実物どおりに描くことはできても、デフォルメした絵は描けないんです。
一般に人は、丸の中に点が2つあるだけで、それを顔として見てしまいがちです。
目が2つあるだけで、顔に見えてしまうんです。
車を正面から見ると顔っぽく見えますし、壁のシミが顔に見えたり、
木の凹凸が顔に見えたり、とかく顔を見つけたがる傾向があるようです。
それだけ人の顔というものに敏感にできているという意味かもしれませんが、
そのように顔を認識できるのは、顔というものを抽象化して認識しているからです。
「人の顔を描いて」と頼まれれば、特定の誰かの顔ではない
デフォルメしたマンガの顔を描くことができるのも、
顔を抽象化して理解しているからだということです。
それは直観像記憶とは逆のことです。
詳細な情報から意味を読み取るのも抽象化です。
「愛」と聞いて理解できるのは、「愛」にまつわる体験を抽象化して
「愛」という概念を抽象的に理解しているからです。
過去の体験を「こんなこともあったなぁ」と何らかの意味付けをするのも
体験を出来事の記憶から、意味の記憶へと抽象化していることになるんです。
直観像記憶の場合、それが起こらない(非常に起こりにくい)と考えられます。
詳細な情報を記憶することには、意味を理解するのが難しいという側面が付随するわけです。
「ゼロ」というマンガの主人公は直観像記憶もありながら、
同時に超人的な抽象化能力で誰にも思いつかないような発想をも生み出します。
正反対の特性を併せ持つ、天才なんです。
…まぁ、だからマンガなのかもしれませんが。
このように詳細な情報を正確に認識して整理・記憶する能力と、
情報を抽象化して意味を読み取り、意味ネットワークを作り上げる能力と、
両方に秀でているのが最高なわけですが、実際にはそれが難しいので
我々一般人は両方向を努力する必要があると思うんです。
現代社会においては、情報を正確に記憶する必要があるかと考えると
膨大な情報量をすぐに取り出せるIT関連技術があるわけなので、
記憶するよりは正確に整理することが実践的なように考えられます。
例えば、本から何かを学ぶ時、本一冊を暗唱できるようになるよりも、
その本一冊から意味を読み取って理解するほうが実用的かもしれないということです。
その時に気をつけなければならないのが、飛ばし読みのような理解です。
速読の技法の多くは、断片的な情報を集め、それを再構成する方法を取ります。
これにはリスクが伴う気がします。
情報を自分の持っている意味ネットワークでつなぎ合わせ、
自分の理解している内容に当てはめて納得してしまう可能性があるからです。
具体的に考えると、こういうことです。
「怒りの感情を抱えたまま人と接すると、相手に怒りが伝わってしまうので
怒りの感情は吐き出してしまったほうがいい」ということを学ぶ。
ここから「怒りは抱えたままにしないほうがいい」と理解する。
誰かに対して怒りの感情を持った時に、相手に対して吐き出す。
怒りをぶつけられた相手は不愉快になり関係が悪化する。
こういうことは情報を正確に把握していないことで起こります。
もっと詳しい内容として、場面や人間関係などを把握していれば、
相手に直接怒りをぶつけるという内容ではないことが分かります。
目的は相手に怒りの感情をぶつけないところにあるわけです。
部分的な情報だけが印象に残り、それを普段の自分がやっている行動や
自分がどこかで学んだ内容に結びつけてしまうと、情報の意味が変わってしまいます。
新たなことが学べなくなってしまいます。
新たなことを学ぶ時、何とも関連づけずに個別のこととして理解すると
本質を理解することができません。
同じ事例のときに、学んだことをソックリそのまま真似をすることになります。
うわべで知識を仕入れるということです。
一方、新しい情報を自分の知っていることに当てはめて解釈すると、
新しいことを学ぶことはできません。
自分の理解と考えを他人の情報の断片を使って補足しているだけです。
「〜さんもこういっていた」と言いながら自信を補っているわけです。
元の情報で重要だったポイントとは無関係かもしれないにも関わらず。
どちらも新たに学ぶ情報を正確に理解しようとしていないんです。
興味深いのは、うわべだけで理解するのも、自分に都合よく当てはめるのも、
どちらか一方の傾向が出やすいということではなさそうだという点です。
気をつけないと、どちらもやってしまいがちなんですね。
つまるところ、両方とも、良く考えていないんだと思います。
自分に全くない情報が入ってきたときには
関連付けられないから個別の情報としてソックリそのまま覚える。
まだ理解できていない状態なんだろうと思います。
本質的な意味がつかめていないから、似た状況でのマネしかできないわけです。
ところが、自分の理解している範囲に関わる情報が入ってきたら、
自分の理解している部分だけが飛び込んでくるんでしょう。
他の知らない部分は途端に目に入らなくなり、断片的な解釈が始まる。
その断片情報は捻じ曲げて解釈され、新しい学びにはならない。
これも分かったつもりになって本質的な意味を理解しようとしないからです。
全ての情報を正確に把握し、その意味を理解しようとする。
分かったつもりにならないことが大切なんだろうと思います。
うわべだけの知識を仕入れて分かったつもりにならない。
分かるまで、その意味を考える。
分かったつもりになって、新たな情報を曲げて解釈しない。
本当に分かるまで、その意味を考える。
「分かりたい」という気持ちが強ければ、
分かったつもりになることもないんでしょうね。
何者かの権威にすがり、その情報を鵜呑みにすることで安心したいのか。
自分で考えて、自分で答えを見つけたいのか。
目的が違うんだろうと思いました。
社会人になるまで、家には大量のマンガがありました。
今では大半を処分してしまいましたが、好きなものは少し残っています。
絵画でも、文章でも、書でもない。
その表現技法は実に素晴らしい可能性を秘めていると思います。
で、僕の好きなマンガの中に、「ゼロ THE MAN OF THE CREATION」というのがあります。
ストーリーは各回完結で、主人公である天才贋作者「ゼロ」が
芸術作品や破損した物品を複製しながら謎解きが進むようなパターン。
この物語自体が雑学的に面白い上に、芸術的要素も入っているので
僕の興味を俄然ひきつけてくれます。
しかも、主人公が孤高の天才というあたりも僕の心を打つようです。
その主人公の天才性を語るエピソードが盛り沢山なわけですが、
彼の特技は「本物を複製する」というところにあります。
初期には人間をも複製するようなエピソードもありましたが、
最近では美術品、骨董品が中心になってきています。
どうやって本物を複製するかというと、原材料から同じものを集めることに始まり、
作者になりきって作品に魂を込めるところまでやるんです。
この魂を込めるってのがカッコイイんですけど、
ここで強調したいところは別の部分です。
それは超人的な記憶力。
主人公は一度見たものを克明に記憶しています。
その記憶のみを頼りに、本物を複製することまでやるわけです。
映像記憶、フォトメモリー、直観像記憶などと呼ばれる能力です。
図書館の蔵書も全て暗唱できるレベルで記憶していたりします。
どこの図書館の何番の棚の、何段目の何冊目にある本の何ページかまで覚えていると。
実際、このような超人的な能力を持った人というのもいるそうです。
サヴァン症候群など、自閉的な傾向となることが多いと言われます。
そして、こうした直観像記憶というのは抽象化能力の反対にあるものです。
克明に詳細を記憶するということは大体の意味合いを掴むことと対極にあります。
直観像記憶ができるということは、シンプルなマンガが描けないということです。
実物どおりに描くことはできても、デフォルメした絵は描けないんです。
一般に人は、丸の中に点が2つあるだけで、それを顔として見てしまいがちです。
目が2つあるだけで、顔に見えてしまうんです。
車を正面から見ると顔っぽく見えますし、壁のシミが顔に見えたり、
木の凹凸が顔に見えたり、とかく顔を見つけたがる傾向があるようです。
それだけ人の顔というものに敏感にできているという意味かもしれませんが、
そのように顔を認識できるのは、顔というものを抽象化して認識しているからです。
「人の顔を描いて」と頼まれれば、特定の誰かの顔ではない
デフォルメしたマンガの顔を描くことができるのも、
顔を抽象化して理解しているからだということです。
それは直観像記憶とは逆のことです。
詳細な情報から意味を読み取るのも抽象化です。
「愛」と聞いて理解できるのは、「愛」にまつわる体験を抽象化して
「愛」という概念を抽象的に理解しているからです。
過去の体験を「こんなこともあったなぁ」と何らかの意味付けをするのも
体験を出来事の記憶から、意味の記憶へと抽象化していることになるんです。
直観像記憶の場合、それが起こらない(非常に起こりにくい)と考えられます。
詳細な情報を記憶することには、意味を理解するのが難しいという側面が付随するわけです。
「ゼロ」というマンガの主人公は直観像記憶もありながら、
同時に超人的な抽象化能力で誰にも思いつかないような発想をも生み出します。
正反対の特性を併せ持つ、天才なんです。
…まぁ、だからマンガなのかもしれませんが。
このように詳細な情報を正確に認識して整理・記憶する能力と、
情報を抽象化して意味を読み取り、意味ネットワークを作り上げる能力と、
両方に秀でているのが最高なわけですが、実際にはそれが難しいので
我々一般人は両方向を努力する必要があると思うんです。
現代社会においては、情報を正確に記憶する必要があるかと考えると
膨大な情報量をすぐに取り出せるIT関連技術があるわけなので、
記憶するよりは正確に整理することが実践的なように考えられます。
例えば、本から何かを学ぶ時、本一冊を暗唱できるようになるよりも、
その本一冊から意味を読み取って理解するほうが実用的かもしれないということです。
その時に気をつけなければならないのが、飛ばし読みのような理解です。
速読の技法の多くは、断片的な情報を集め、それを再構成する方法を取ります。
これにはリスクが伴う気がします。
情報を自分の持っている意味ネットワークでつなぎ合わせ、
自分の理解している内容に当てはめて納得してしまう可能性があるからです。
具体的に考えると、こういうことです。
「怒りの感情を抱えたまま人と接すると、相手に怒りが伝わってしまうので
怒りの感情は吐き出してしまったほうがいい」ということを学ぶ。
ここから「怒りは抱えたままにしないほうがいい」と理解する。
誰かに対して怒りの感情を持った時に、相手に対して吐き出す。
怒りをぶつけられた相手は不愉快になり関係が悪化する。
こういうことは情報を正確に把握していないことで起こります。
もっと詳しい内容として、場面や人間関係などを把握していれば、
相手に直接怒りをぶつけるという内容ではないことが分かります。
目的は相手に怒りの感情をぶつけないところにあるわけです。
部分的な情報だけが印象に残り、それを普段の自分がやっている行動や
自分がどこかで学んだ内容に結びつけてしまうと、情報の意味が変わってしまいます。
新たなことが学べなくなってしまいます。
新たなことを学ぶ時、何とも関連づけずに個別のこととして理解すると
本質を理解することができません。
同じ事例のときに、学んだことをソックリそのまま真似をすることになります。
うわべで知識を仕入れるということです。
一方、新しい情報を自分の知っていることに当てはめて解釈すると、
新しいことを学ぶことはできません。
自分の理解と考えを他人の情報の断片を使って補足しているだけです。
「〜さんもこういっていた」と言いながら自信を補っているわけです。
元の情報で重要だったポイントとは無関係かもしれないにも関わらず。
どちらも新たに学ぶ情報を正確に理解しようとしていないんです。
興味深いのは、うわべだけで理解するのも、自分に都合よく当てはめるのも、
どちらか一方の傾向が出やすいということではなさそうだという点です。
気をつけないと、どちらもやってしまいがちなんですね。
つまるところ、両方とも、良く考えていないんだと思います。
自分に全くない情報が入ってきたときには
関連付けられないから個別の情報としてソックリそのまま覚える。
まだ理解できていない状態なんだろうと思います。
本質的な意味がつかめていないから、似た状況でのマネしかできないわけです。
ところが、自分の理解している範囲に関わる情報が入ってきたら、
自分の理解している部分だけが飛び込んでくるんでしょう。
他の知らない部分は途端に目に入らなくなり、断片的な解釈が始まる。
その断片情報は捻じ曲げて解釈され、新しい学びにはならない。
これも分かったつもりになって本質的な意味を理解しようとしないからです。
全ての情報を正確に把握し、その意味を理解しようとする。
分かったつもりにならないことが大切なんだろうと思います。
うわべだけの知識を仕入れて分かったつもりにならない。
分かるまで、その意味を考える。
分かったつもりになって、新たな情報を曲げて解釈しない。
本当に分かるまで、その意味を考える。
「分かりたい」という気持ちが強ければ、
分かったつもりになることもないんでしょうね。
何者かの権威にすがり、その情報を鵜呑みにすることで安心したいのか。
自分で考えて、自分で答えを見つけたいのか。
目的が違うんだろうと思いました。




