2008年08月18日
褒めないで
先日、テレビを見ていたらプロ野球「東北楽天ゴールデンイーグルス」の
野村克也監督が選手育成の方法を語っていました。
野村監督は叱ることはできても、褒めるのが苦手だそうです。
叱って伸ばす、褒めて伸ばす、などの人材育成術が言われることも多いですし、
中には管理職向けの「叱り方」セミナーや「褒め方」セミナーもあるようです。
野村監督にせよ、セミナーに参加する叱れない上司、褒められない上司にせよ、
自分がされてきた経験の範疇を出られないと言っていました。
自分が褒めらることなく、厳しく育てられてきた野村監督。
親からも上司からも叱られることなく育ってきた上司。
褒められなかったのも、叱られなかったのも、自分がされてきていないことは
自分がそうしようと思っても難しいというわけです。
なるほど、それはもっともな話だと思います。
困難状況での反応の仕方には生育過程が大きく影響します。
感情的に怒鳴られることを続けて受けてきた人は、
同様な状況に出くわしたとき自然と怒鳴ってしまうようです。
または、それを過度に抑圧し、反対におとなしくなってしまう。
だからこそ、そうした状況で柔軟な対応ができるようになることが大切なわけですが、
そのためには具体的な方法を学ぶ必要もあるはずです。
叱り方セミナーも褒め方セミナーも大切なスタンスだと思います。
ただ、もう一歩進めて考えてみると、そもそも褒める必要も叱る必要もない、
という考え方もあるわけです。
褒めず、叱らず、その人が伸びてくれれば良いわけですから。
褒めるも叱るも、上下関係を社会性に含む日本人特有の発想だと言われます。
褒めるのも、叱るのも、どちらも親が子供にすることなわけです。
親が子供を育てるときに、「よくできたね」「うまいね」と褒め、
社会的に問題のある(と親が思い込んでいる)行動を「それはダメだ」と叱る。
社会人としての褒めるも叱るも、その延長線上にあるんです。
上司や尊敬する人から褒められて嬉しいと感じること自体、
子供の受け取り方だということになります。
褒められたいと考えるのは、子供として扱われたいということを意味するんです。
褒めるのも、叱るのも、相手を大人として見ていないわけです。
大人同士のコミュニケーションでは、褒める・叱るは適切ではない。
まして部下だからと相手を呼び捨てにしたり、
「ちゃん」づけで呼んだりするのは相手を大人として扱っていないと言えます。
社会生活をしている上では、基本的に
相手を成熟した大人として関わるほうが望ましいでしょう。
交流分析で言うA(アダルト)の要素は社会生活のためにあると考えられますし、
P(親)とC(子)の交流がゲームを生み出しやすいことも関係すると思います。
だから、社会的な場においては親子関係を呼び起こすコミュニケーションとして
褒めるのも叱るのも望ましくないだろうと考えられるわけです。
ただし、コーチングなど欧米から輸入されたコミュニケーションスキルを
日本文化に取り入れようとした時に、これまで日本に存在していた単語を使ったために
最近では「褒める」という単語の中に様々な意味が含まれてしまいました。
本来は親が子供の行動に対してする「褒める」というコミュニケーションを指す単語が
社会的に対等な大人同士の関係で効果的な言葉がけも含んでしまっている様子があります。
日本に導入した人が分かりやすさ目的で意図的に混ぜてしまったのか、
それとも区別が曖昧なままに混ざってしまったのかは分かりませんが、
スキルとしてコミュニケーションを学ぶ時には名称と内容は明確なほうが好都合です。
親子関係のような褒め方で嬉しかったのか、対等な関係からの言葉が嬉しかったのか、
その違いを自分が明確に区別せずに「褒められて嬉しかった」と受け取ってしまうと
別の人に対して自分がする言葉がけが、親子関係的なのか対等なのかを把握できません。
それを理解できて初めて、スキルとして
大人同士の関係における言葉がけを身に付けられるはずです。
場合によっては、親が子供にするような「褒め方」は
相手の自立を妨げることすらありますから、
「褒める」ではなく「フィードバック」のほうが望ましいと考えられます。
効果的なフィードバックは精神的報酬になりえますし、
叱られるよりも受け入れられやすい形で行動変容につなげることも可能です。
成熟した大人同士の対等な関係から生まれるコミュニケーション。
このあたり、技術的な部分と含めて明確な形で扱ってみたいところです。
野村克也監督が選手育成の方法を語っていました。
野村監督は叱ることはできても、褒めるのが苦手だそうです。
叱って伸ばす、褒めて伸ばす、などの人材育成術が言われることも多いですし、
中には管理職向けの「叱り方」セミナーや「褒め方」セミナーもあるようです。
野村監督にせよ、セミナーに参加する叱れない上司、褒められない上司にせよ、
自分がされてきた経験の範疇を出られないと言っていました。
自分が褒めらることなく、厳しく育てられてきた野村監督。
親からも上司からも叱られることなく育ってきた上司。
褒められなかったのも、叱られなかったのも、自分がされてきていないことは
自分がそうしようと思っても難しいというわけです。
なるほど、それはもっともな話だと思います。
困難状況での反応の仕方には生育過程が大きく影響します。
感情的に怒鳴られることを続けて受けてきた人は、
同様な状況に出くわしたとき自然と怒鳴ってしまうようです。
または、それを過度に抑圧し、反対におとなしくなってしまう。
だからこそ、そうした状況で柔軟な対応ができるようになることが大切なわけですが、
そのためには具体的な方法を学ぶ必要もあるはずです。
叱り方セミナーも褒め方セミナーも大切なスタンスだと思います。
ただ、もう一歩進めて考えてみると、そもそも褒める必要も叱る必要もない、
という考え方もあるわけです。
褒めず、叱らず、その人が伸びてくれれば良いわけですから。
褒めるも叱るも、上下関係を社会性に含む日本人特有の発想だと言われます。
褒めるのも、叱るのも、どちらも親が子供にすることなわけです。
親が子供を育てるときに、「よくできたね」「うまいね」と褒め、
社会的に問題のある(と親が思い込んでいる)行動を「それはダメだ」と叱る。
社会人としての褒めるも叱るも、その延長線上にあるんです。
上司や尊敬する人から褒められて嬉しいと感じること自体、
子供の受け取り方だということになります。
褒められたいと考えるのは、子供として扱われたいということを意味するんです。
褒めるのも、叱るのも、相手を大人として見ていないわけです。
大人同士のコミュニケーションでは、褒める・叱るは適切ではない。
まして部下だからと相手を呼び捨てにしたり、
「ちゃん」づけで呼んだりするのは相手を大人として扱っていないと言えます。
社会生活をしている上では、基本的に
相手を成熟した大人として関わるほうが望ましいでしょう。
交流分析で言うA(アダルト)の要素は社会生活のためにあると考えられますし、
P(親)とC(子)の交流がゲームを生み出しやすいことも関係すると思います。
だから、社会的な場においては親子関係を呼び起こすコミュニケーションとして
褒めるのも叱るのも望ましくないだろうと考えられるわけです。
ただし、コーチングなど欧米から輸入されたコミュニケーションスキルを
日本文化に取り入れようとした時に、これまで日本に存在していた単語を使ったために
最近では「褒める」という単語の中に様々な意味が含まれてしまいました。
本来は親が子供の行動に対してする「褒める」というコミュニケーションを指す単語が
社会的に対等な大人同士の関係で効果的な言葉がけも含んでしまっている様子があります。
日本に導入した人が分かりやすさ目的で意図的に混ぜてしまったのか、
それとも区別が曖昧なままに混ざってしまったのかは分かりませんが、
スキルとしてコミュニケーションを学ぶ時には名称と内容は明確なほうが好都合です。
親子関係のような褒め方で嬉しかったのか、対等な関係からの言葉が嬉しかったのか、
その違いを自分が明確に区別せずに「褒められて嬉しかった」と受け取ってしまうと
別の人に対して自分がする言葉がけが、親子関係的なのか対等なのかを把握できません。
それを理解できて初めて、スキルとして
大人同士の関係における言葉がけを身に付けられるはずです。
場合によっては、親が子供にするような「褒め方」は
相手の自立を妨げることすらありますから、
「褒める」ではなく「フィードバック」のほうが望ましいと考えられます。
効果的なフィードバックは精神的報酬になりえますし、
叱られるよりも受け入れられやすい形で行動変容につなげることも可能です。
成熟した大人同士の対等な関係から生まれるコミュニケーション。
このあたり、技術的な部分と含めて明確な形で扱ってみたいところです。




