2008年08月22日
オリジナルの学び
本を読むスピードというのは、その本によって違いますね。
僕の場合、1500円程度のビジネス書の大半は、
表現方法だとか、書式だとかに慣れていることに加え
内容にも前提知識があることも多いので楽に読めます。
出版社によって使ってあるフォントや1行当たりの文字数、
行間や改行の仕方などが違いますが、
多くの本が読みやすさを重視してくれている印象も受けます。
自分なりに振り返ってみると、読みなれた縦書きの書式では
パッと見た瞬間におおよそ縦の20文字が黙読の声のように浮かんでくるようです。
で、それを早く読もうとした場合、縦40文字×3行ぐらいを視野にいれ
おおよその内容を先行して掴みながら、20文字ずつ目で追うようになるみたいです。
ところが、それが洋書の訳本であったり、1行当たりの文字数が40文字を超えると
大幅に読むスピードが落ちてくる印象を受けます。
もちろん、理解しようとする内容によるところも大きいですが。
一般的に、専門的な内容の本になるほど読むのに時間がかかりますね。
単純に言えば難しいわけです。
でも、同時にそれは既存の情報ネットワークに組み込まれるのに時間がかかるほど
新しく価値のある情報だという風にも解釈できます。
つまり、読むのに時間がかかるということは、読み流すのではなく
知らない情報を理解しようとする行為をしているためだというわけです。
そうやって自分の持っている情報ネットワークと関連させて理解するというのは、
例えば、抽象的な表現であれば自分の持っている具体的な体験から
当てはまるものを探して関連付けるようなことになりますが、
こうした自分の体験の記憶を含む内的世界との関連付けが大切です。
そうして自分の内的世界と関連付けられた内容は自分の言葉になるんです。
同じ内容を誰かに説明しようとした時、自分の言葉で説明できるわけです。
時間をかけて読み、自分のものとして理解できたものは
説明した時にも自分の内的世界を活用しながら話せるようになります。
本に書いてあったのとは違う角度で説明できたり、違う例で話せたりするということです。
そして、さらに重要なのは、そもそも本に書かれた内容も
同じように筆者の内的世界を言語と結びつけながら生まれたものであるという点です。
本には筆者の世界が反映されている。
我々はその世界を、本を通じてさえ、文脈や微妙な言葉使いから感じ取れるんです。
それが声を通じた会話による説明になれば、感じ取れるものは更に増えるでしょう。
同じ内容を話しているのを聞いても、話す人によって納得感が違うことがあるのは
多分にこういった話し手の内的世界の反映が関係しているように思います。
本人が整理しきれていない話、納得しきれていない話は
聞いているほうも理解しにくいということです。
そういう意味では、オリジナルの話を、オリジナルの人が話しているのを聞くのが
最も効果的だと言えるはずです。
オリジナルの話には、オリジナルの人がその話を生み出すまでに経験してきた全てが
密接に結びつけられていますから、1つの内容に対する関連情報が多いわけです。
その濃密な関連情報を生で感じ取れるのが理想的な学び方でしょうから、
学問や理論の創始者から直接学べる場に行くのは素晴らしいことだと思います。
とはいえ、いつまでもオリジナルの学びが可能なわけでもありません。
伝えられた学びは進んでいくものなのかもしれません。
フロイトの弟子であったアドラーは、フロイトの弟子として有名なのではありません。
アドラー心理学と呼ばれるまでにオリジナルを作り上げたわけです。
「青は藍より出でて藍より青し」ですね。
伝聞だけなら薄くなる。
進めていけば深くなる。
そんな気がするんです。
僕の場合、1500円程度のビジネス書の大半は、
表現方法だとか、書式だとかに慣れていることに加え
内容にも前提知識があることも多いので楽に読めます。
出版社によって使ってあるフォントや1行当たりの文字数、
行間や改行の仕方などが違いますが、
多くの本が読みやすさを重視してくれている印象も受けます。
自分なりに振り返ってみると、読みなれた縦書きの書式では
パッと見た瞬間におおよそ縦の20文字が黙読の声のように浮かんでくるようです。
で、それを早く読もうとした場合、縦40文字×3行ぐらいを視野にいれ
おおよその内容を先行して掴みながら、20文字ずつ目で追うようになるみたいです。
ところが、それが洋書の訳本であったり、1行当たりの文字数が40文字を超えると
大幅に読むスピードが落ちてくる印象を受けます。
もちろん、理解しようとする内容によるところも大きいですが。
一般的に、専門的な内容の本になるほど読むのに時間がかかりますね。
単純に言えば難しいわけです。
でも、同時にそれは既存の情報ネットワークに組み込まれるのに時間がかかるほど
新しく価値のある情報だという風にも解釈できます。
つまり、読むのに時間がかかるということは、読み流すのではなく
知らない情報を理解しようとする行為をしているためだというわけです。
そうやって自分の持っている情報ネットワークと関連させて理解するというのは、
例えば、抽象的な表現であれば自分の持っている具体的な体験から
当てはまるものを探して関連付けるようなことになりますが、
こうした自分の体験の記憶を含む内的世界との関連付けが大切です。
そうして自分の内的世界と関連付けられた内容は自分の言葉になるんです。
同じ内容を誰かに説明しようとした時、自分の言葉で説明できるわけです。
時間をかけて読み、自分のものとして理解できたものは
説明した時にも自分の内的世界を活用しながら話せるようになります。
本に書いてあったのとは違う角度で説明できたり、違う例で話せたりするということです。
そして、さらに重要なのは、そもそも本に書かれた内容も
同じように筆者の内的世界を言語と結びつけながら生まれたものであるという点です。
本には筆者の世界が反映されている。
我々はその世界を、本を通じてさえ、文脈や微妙な言葉使いから感じ取れるんです。
それが声を通じた会話による説明になれば、感じ取れるものは更に増えるでしょう。
同じ内容を話しているのを聞いても、話す人によって納得感が違うことがあるのは
多分にこういった話し手の内的世界の反映が関係しているように思います。
本人が整理しきれていない話、納得しきれていない話は
聞いているほうも理解しにくいということです。
そういう意味では、オリジナルの話を、オリジナルの人が話しているのを聞くのが
最も効果的だと言えるはずです。
オリジナルの話には、オリジナルの人がその話を生み出すまでに経験してきた全てが
密接に結びつけられていますから、1つの内容に対する関連情報が多いわけです。
その濃密な関連情報を生で感じ取れるのが理想的な学び方でしょうから、
学問や理論の創始者から直接学べる場に行くのは素晴らしいことだと思います。
とはいえ、いつまでもオリジナルの学びが可能なわけでもありません。
伝えられた学びは進んでいくものなのかもしれません。
フロイトの弟子であったアドラーは、フロイトの弟子として有名なのではありません。
アドラー心理学と呼ばれるまでにオリジナルを作り上げたわけです。
「青は藍より出でて藍より青し」ですね。
伝聞だけなら薄くなる。
進めていけば深くなる。
そんな気がするんです。
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この記事へのコメント
1. Posted by ぐうたら三昧 2008年08月23日 20:07
>一般的に、専門的な内容の本になるほど読むのに時間がかかりますね。
単純に言えば難しいわけです。
でも、同時にそれは既存の情報ネットワークに組み込まれるのに時間がかかるほど
新しく価値のある情報だという風にも解釈できます。
これは、改めて言われると、まったくもって、その通りだと思いました。いい気づきになりましたm(__)m。
単純に言えば難しいわけです。
でも、同時にそれは既存の情報ネットワークに組み込まれるのに時間がかかるほど
新しく価値のある情報だという風にも解釈できます。
これは、改めて言われると、まったくもって、その通りだと思いました。いい気づきになりましたm(__)m。
2. Posted by 原田幸治 2008年08月30日 08:12
コメントありがとうございます。
サラッと読めて、パッと理解できる。
それはある意味で、すでに理解している内容を別の言葉で説明された状態に近いかもしれません。
理解が大変な難しい内容ほど勉強になっていると考えると、
本を読むのに時間がかかることも大切なことに思えてきますね。
サラッと読めて、パッと理解できる。
それはある意味で、すでに理解している内容を別の言葉で説明された状態に近いかもしれません。
理解が大変な難しい内容ほど勉強になっていると考えると、
本を読むのに時間がかかることも大切なことに思えてきますね。