2008年09月19日
なにがなんでも
他人に対して怒りや悲しみ、不満などが沸いてくるのは
多くの場合、相手への期待があるからでしょう。
「こうあって欲しい」、「こういう対応をして欲しい」
そういうことを意識するにせよ、無意識にせよ、相手に対して感じている。
だから、その思いが満たされないときに「不満」と感じ、怒りや悲しみを感じるわけです。
その中には、自分にとってのルール、自分にとっての「当たり前」という
勝手な信条体系に当てはめて他人の行動を評価して、
それを守らない相手に怒りをぶつけるなどというのも含まれます。
自分にとって当たり前としてきたルールを鵜呑みにして、それを疑うことなく、
当然他人も従うべきものだと考えるのは、自他の区別がつかないことを示す気がします。
ただ、その裏側には本人の大切にしていることが存在しているとも言えるはずです。
自分が大切にしていることを相手が大切にしないから不満だということです。
そのとき「自分にとって大切なんだから、あなたも大切にして下さい」というのは
自分勝手な主張にも思えますが、それを相手に伝えた上で相手が何を選択するかは、
自分にどうこうできるものではありません。
相手がどうしてくれるかは別にして、自分から大切な思いを伝える。
それで相手が大切にしてくれなかったとしても仕方ない。
そのような形で自分の選択に責任を持つことが大人の対応だと考えます。
自分から相手に求めるものを伝えることなく、
「相手が大切にしてくれない」と不満を感じるのは大人のすることではないわけです。
そうしたことを踏まえても、時には
怒りや悲しみ、不満を感じることが大切なときもあると思うんです。
自分の思い通りにならないことへの不満さえ、大切な時もあるはずです。
それは自分が大切にしているものを守るときです。
自分が大切にしていることに他人が酷い扱い方をした。
そこで起きる不満は「大切にして欲しい」という前提からは少し違います。
「もちろん大切にしてもらえるに越したことはない。
でも、相手が大切にしてくれなくてもいい。
ただ、それを土足で踏みにじるようなことはしてもらいたくない。」
そこに常識とかルールやマナーは関係ありません。
本人がとても大切にしていることがあるかどうかです。
それを「自分のもの」として認識しているかどうかも関係ありません。
自分のものだから大切だというのは身勝手な発想だと思います。
「自分の」所有物というものを意識するのは小さい子供も同じですが、
対極的に見て、本当に「自分のもの」と呼べるものは無いでしょう。
何かのモノを買ったというときでも、それは多くの人の仕事の成果に対して
自分がした労力で手に入れたお金を支払って、自分がそれを使う権利を得たに過ぎません。
自分の命だって本当に自分のものと言えるかどうか。
人生に対して真剣な人は、そういう意識をするときもあると思います。
重要なのは、自分が気持ちと労力と時間を大きく向けるものがあって、
それが本人にとって大切なことだというところです。
全く見ず知らずの存在でも、自分にとって大切なものであれば
自分の身体と気持ちを向けていくことができるわけです。
それぐらい大切なものというのは、人にはあるわけです。
そういうものを他人から、ないがしろにされたとき
強い怒りや悲しみが沸いてくるのは当然だとも思うんです。
それだけ大切なものだということです。
そうした不満だって自分勝手といえば、自分勝手なものでしょう。
ただ、自分にとって、それだけ大切なものだったということは変わりません。
激しい怒りや悲しみをもってしても大切にしたいことがある。
どうしても許せないことがある。
何が何でも守りたいものがある。
そこで沸いてくる強い感情は、大切な何かを守るためのエネルギーでもあるはずです。
それだけ大切にしたいことがあるというのは、幸せなことでもあるのかもしれません。
多くの場合、相手への期待があるからでしょう。
「こうあって欲しい」、「こういう対応をして欲しい」
そういうことを意識するにせよ、無意識にせよ、相手に対して感じている。
だから、その思いが満たされないときに「不満」と感じ、怒りや悲しみを感じるわけです。
その中には、自分にとってのルール、自分にとっての「当たり前」という
勝手な信条体系に当てはめて他人の行動を評価して、
それを守らない相手に怒りをぶつけるなどというのも含まれます。
自分にとって当たり前としてきたルールを鵜呑みにして、それを疑うことなく、
当然他人も従うべきものだと考えるのは、自他の区別がつかないことを示す気がします。
ただ、その裏側には本人の大切にしていることが存在しているとも言えるはずです。
自分が大切にしていることを相手が大切にしないから不満だということです。
そのとき「自分にとって大切なんだから、あなたも大切にして下さい」というのは
自分勝手な主張にも思えますが、それを相手に伝えた上で相手が何を選択するかは、
自分にどうこうできるものではありません。
相手がどうしてくれるかは別にして、自分から大切な思いを伝える。
それで相手が大切にしてくれなかったとしても仕方ない。
そのような形で自分の選択に責任を持つことが大人の対応だと考えます。
自分から相手に求めるものを伝えることなく、
「相手が大切にしてくれない」と不満を感じるのは大人のすることではないわけです。
そうしたことを踏まえても、時には
怒りや悲しみ、不満を感じることが大切なときもあると思うんです。
自分の思い通りにならないことへの不満さえ、大切な時もあるはずです。
それは自分が大切にしているものを守るときです。
自分が大切にしていることに他人が酷い扱い方をした。
そこで起きる不満は「大切にして欲しい」という前提からは少し違います。
「もちろん大切にしてもらえるに越したことはない。
でも、相手が大切にしてくれなくてもいい。
ただ、それを土足で踏みにじるようなことはしてもらいたくない。」
そこに常識とかルールやマナーは関係ありません。
本人がとても大切にしていることがあるかどうかです。
それを「自分のもの」として認識しているかどうかも関係ありません。
自分のものだから大切だというのは身勝手な発想だと思います。
「自分の」所有物というものを意識するのは小さい子供も同じですが、
対極的に見て、本当に「自分のもの」と呼べるものは無いでしょう。
何かのモノを買ったというときでも、それは多くの人の仕事の成果に対して
自分がした労力で手に入れたお金を支払って、自分がそれを使う権利を得たに過ぎません。
自分の命だって本当に自分のものと言えるかどうか。
人生に対して真剣な人は、そういう意識をするときもあると思います。
重要なのは、自分が気持ちと労力と時間を大きく向けるものがあって、
それが本人にとって大切なことだというところです。
全く見ず知らずの存在でも、自分にとって大切なものであれば
自分の身体と気持ちを向けていくことができるわけです。
それぐらい大切なものというのは、人にはあるわけです。
そういうものを他人から、ないがしろにされたとき
強い怒りや悲しみが沸いてくるのは当然だとも思うんです。
それだけ大切なものだということです。
そうした不満だって自分勝手といえば、自分勝手なものでしょう。
ただ、自分にとって、それだけ大切なものだったということは変わりません。
激しい怒りや悲しみをもってしても大切にしたいことがある。
どうしても許せないことがある。
何が何でも守りたいものがある。
そこで沸いてくる強い感情は、大切な何かを守るためのエネルギーでもあるはずです。
それだけ大切にしたいことがあるというのは、幸せなことでもあるのかもしれません。
トラックバックURL
この記事へのコメント
1. Posted by 濱田嘉信
2008年09月21日 08:19
とても分かりやすい研修でした。
まだまだほんの少しではありますがNLPに対して私の理解が進んだような気がします。
長いスパンで考えて少しずつ学んでいきたいと思います。
今後も何かございましたらどうぞよろしくお願いいたします。
まずはお礼まで。




