2008年10月18日

有名な古典的理論に異を唱えてみる

マズローの「欲求段階説」とか「自己実現理論」とか呼ばれるものの中では
人間の欲求が段階的に上がっていくとされています。

下位の欲求が満たされると、その上の段階の欲求が生まれるというのが基本的な考え方。

この理論自体に対する僕の納得度は100%ではないですが、
マズローが上位に位置させたものに関しては納得できる感じがします。

下位から、
・生理的欲求
・安全の欲求
・親和の欲求(所属、社会的欲求)
・自我の欲求
・自己実現の欲求
という五段階だと言われます。

個人の範囲としての欲求は五段階とされますが、
あまり有名ではないところとして、その上の個人を超えた欲求として
自己超越欲求(コミュニティ発展欲求)というのもあります。

この個人を超えた自己超越欲求というのは、NLPにおける
「ニューロ・ロジカル・レベル」で言うところの「スピリチュアル」に相当するようです。

つまりマズローは、「スピリチュアル」レベルの自分を超えた欲求は
自分自身の欲求を全て満たしたときに生まれるものだ、と
考えていただろうと推測できるわけです。

自分以外の誰かのために、たとえば家族とか国とかのために、という発想が
心からの欲求として生まれるには自分が全て満たされる必要がある、
そういう考え方に聞こえます。

でも、本当にそうでしょうか?


マズローの原著をしっかりと読み込んだりすれば真意に迫れるのかもしれませんが、
「下位の欲求が満たされると上位の欲求が生まれる」という部分に
不自然さを感じてしまいます。

食事なんていうのは一番下位の「生理的欲求」に含まれるものです。
本人が生きていくために、生物としての生理活動を行うことへの欲求。
食べなければ死んでしまいます。

でも、災害時などで家族の生命の危機にさらされたとき、
親が自分の食べ物を子供に与えて生き延びさせようとする行為は
多くの人の共感されるものだと思うんです。

また、多くの感動的な映画では世界を救うために自分の命を犠牲にする、
なんていうシーンが見ている人の心を打ちます。
これなども「自分を超えた誰かのために」という行為です。
それを自ら進んでやっている。

生理的欲求や安全の欲求をすっぽかして、自己超越欲求に達しているわけです。

これは極限状態だから、という条件付きなのかもしれませんが、
極限状態になったときに生まれてくる欲求こそ、
むしろ人間の根源的な欲求に近いと言えるような気もします。


もちろん、こういった自己超越欲求に生きるというのは難しいことです。

マザー・テレサが尊敬されるのは個人を超えているからかもしれません。
常日頃から自分を超えた他の人々のために生きているように思えます。

多くの人が極限状態にならないと表面化しないような本質的欲求を
常日頃から前面に出せるというのは、確かに欲求段階説に言われるように、
それ以下の欲求を大部分満たしていられるからという前提があるようにも思えます。

そうして考えると、下位の欲求が満たされると上位の欲求が生まれる、
という部分には「『ある程度』満たされると」という表現が必要な気がしてきます。

 下位の欲求が『ある程度』満たされると、上位の欲求が『表面化』しやすくなる。

そんな感じでしょうか。
要するに、欲求は入り混じって存在していて、切り分けられないということです。


また、生理的欲求と安全欲求の順位も微妙です。

ここで言う「安全」は、生命の危機に対する安全ほどではないのかもしれませんが、
基本的に恐怖や不安は、根柢の部分で自分自身の存在への否定、
つまり「生きていく」ことへの危険性と繋がっていると考えられます。

例えば、誰かから怒られることへ恐怖を感じる(安全でない)人もいると思います。
そういう場合は、幼いころに親から怒られていた記憶と一緒に恐怖を感じているものです。

子供は親に従わなければ生きていくことができません。
小さい子供の選択は、生きるために必要なことなのです。
ただ怒られるだけでも、十分に生命の危険にさらされているんです。

なので、自分自身の存在を人との関わりの中で大切にしてもらえるというレベルの
「安全」として捉えれば、それはむしろ「所属」の欲求に近いはずなんです。

もし、「安全」がもっと生命の安全に近いとすると、
それは極めて動物的な、生理的欲求に近いものということになるでしょう。

生物的な生命の「安全」に対する欲求が、生理的欲求を超えることもザラにあります。
山で遭難していて空腹の限界で動けそうにない、そんな状況でも
熊に襲われそうになったら、おそらく必死で逃げのびようと考えるでしょう。

逆に、食べるものが全くなければ、多少の危険を冒してでも
食物を手に入れるように努力することだって当然なはずです。

生理的欲求と安全の欲求は、生物的に考えれば一体のものだと考えられます。
生き延びるための優先順位でしか判断し得ないんです。

…そう考えると、安全の欲求というのが曖昧な印象になってしまいます。


社会的欲求とも所属の欲求とも言われる「親和欲求」に関しては、
孤独を恐れることと関係しているように思えます。

家族を基本として、集団に受け入れられる、つまり仲間がいるということでしょう。
自分は一人ではないという安心感かもしれません。
そういうことへ欲求があるものだ、と。

帰属意識と言ってもいいかもしれません。

ところが、これこそまさに「自我」なんです。
自分とは何者であるか、という拠り所がなくなるのは不安なわけです。

人は関係性の中で生きています。
自分は他人との関係性の中でしか意識できないんです。

紀元前3000年ごろまで、一人称は無かったと言われています。
集団生活が基本で、集団での生存が基本だったころ、
自分に対して意識を向けるという習慣すら無かったのかもしれません。

誰しもが、自分を意識するために集団の中に帰属したいものであって、
それこそが「自我欲求」そのものだということです。

逆に、欲求段階説で言われる「自我欲求」というのは
他者からの承認を求めようとする欲求のことです。
尊敬されたい、認められたい、という思い。

他者からの評価は動機付けの重要な要因です。
褒められたら、誰もが嬉しいものでしょう。

でも、それは何故でしょうか?
褒められない、認められないと、自分はどうなってしまうんでしょうか?

それを突き詰めていっても、やはり自分の存在価値とか存在意義に突き当たる気がします。
しかし、ここで言う存在意義は「何のために生まれてきたか」とは違います。
「自分は生きていていいんだ」という安心感に近いはず。

愛されているという実感を求めていると思うんです。
つまり、愛に対する欲求です。

子供のころから人は親の愛を求めて生きてきます。
自分の思い通りに扱われたいというワガママさを持っています。
世界は自分のものであると感じているかのような万能感があるものです。

でも、それは絶対に100%は満たされない。
傷つきながら、失望しながら成長してくるわけです。
と同時に、その裏側でいつも満たされたいと願っている。

それが、ここの部分の欲求であって、愛への欲求だと考えられます。

親和欲求と自我欲求もまた、一体のものだというのが僕の考えです。


そして、自己実現欲求。
言ってみたら自己満足のレベルです。

誰の承認も、愛もいらない。
自分がそれで幸せだ、満足だという状態への欲求。

自分が本当にしたいことをしたい、という欲求と考えると、
それは自分の生きる意味を見つけ、それに向って邁進するような状態かもしれません。

ここで重要なのは、自己実現を超えた「誰かのために」という発想にも共通して、
他人の評価を求めていてる段階とは明確に違うということです。

他人から感謝されるとか、誰かから尊敬されて喜んでいるのは
「自我欲求」とか「親和欲求」とかに分類されるところです。

感謝されたくて何かをするというのはワガママな発想です。
満たされなかった愛を満たそうとする行為です。
それは自己実現や自己超越とは別物です。

「誰かのために」という発想をしようとすると、
この部分が混同されやすいんです。

ボランティアのつもりが、実は自己満足になっていたりはしないか。
誰かへの贈り物のつもりが、実は相手の喜ぶ姿を見たいという自己満足ではないか。

それを判別できるのは予想と違う状況になったときです。
プレゼントを贈ったのに喜んでくれなかった。
それで悲しくなったり、怒りが沸いてきたら、相手へ期待していた証拠。
相手を自己満足に利用しようとしていたんです。

「自我欲求」のためでない「誰かのために」の行為は、
行為そのものをしている自分が幸せなんです。
結果として相手がどうであるかには依存しないんです。

自分の幸せが他人に依存しない。
これこそが「自由」です。
自分で自分の生き方を貫くことで、自分なりに幸せを感じられる。

ここを考えると、マザー・テレサが見返りを期待していないのが実感できます。
マザー・テレサの行為は「自己実現」の行為なんだろうと思います。
それをすることが本人の生き方として当然なんでしょう。

もしかすると「誰かのために」という発想も持っていないかもしれません。
自分の生き様として「自己実現」をしているだけなのいかもしれません。


そうやって考えていくと、「自我欲求」や「親和欲求」の大部分が満たされない限り、
本当に「自己実現欲求」は生まれてこないように思えます。
とても難しい段階だろうと思います。

今までのところを僕なりにまとめると、個人の欲求は大きく2段階。
『生物的欲求(生存欲求)』と『人間的欲求』です。

で、『人間的欲求』が『自己愛の欲求』と『自由の欲求(自己実現欲求)』に分けられる。

下位から、
・生物的欲求(生存欲求)
・自己愛の欲求
・自由の欲求(自己実現欲求)
という具合。

そして、自己超越欲求に関しては、見返りを求めないという意味においては
大部分が『自由の欲求』のほうに含まれますので、ここは本当に自己超越になります。

つまり、自分の個人としての存在を捨てられる、ということです。
自分の命を投げ出してでも満たしたいものがある、ということです。

大切な人を救うために自分の命を投げ出せる。
そういう状態。

極限的な状態になったときに生まれる、誰しもが持っている欲求。
それが『自己超越欲求』ということになります。

これは自分個人の欲求の範囲を超えた人類的な欲求と言っても良いかもしれません。
それこそが本当の『愛』ではないかと思えてきました。

『自己超越欲求』とは『愛の欲求』、「愛したい」欲求であって、
『自己愛』の欲求は「愛されたい」欲求ということになりそうです。


なんとなく考えてみましたが、僕にはマズローよりも納得できます。

cozyharada at 23:15│Comments(0)TrackBack(0)clip!全般 | NLP

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
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