2009年01月05日
通過儀礼
年末からの体調不良は思いのほか長く続いています。
正月の間はずっと熱っぽく、鼻詰まりとノドの痛みがあったんです。
何よりも首と肩の痛みが強く、寝るほどに苦しくなるのが厄介もの。
寝ることで回復を図ろうとしても余計に辛くなるので、なかなか体調が回復しません。
休めるときに体を休めるだけでも大事なことだとは思いますが、
体調が悪いというのは気分の良いものではありませんね。
ただ、少なくとも大晦日から正月の3日間ぐらいは、
ほとんど何も考えずにボーっとできていたので、
心身ともに休めたのではないかと考えています。
あんなに「なんとなく頭が働かない」という状態も滅多になかったですから。
追い込みが大変になりそうな予感。
そんな風に久しぶりに長時間、テレビの前にいることをしていたら
世の中の情勢が様々な形で流れ込んできました。
随分とネガティブな情報を目にします。
不景気やら、雇用問題やらと、専門家の意見が飛び交う光景。
実際にスーパーやコンビニ、飲食店などに行けば、
少しずつ値上がりしていることにも気づきます。
世の中に変化が起きていることを実感するわけです。
多くの人々にとって苦しい変化です。
ところで、NLPや臨床催眠においては「無意識の肯定的意図」というものを考えます。
我々の無意識は自分自身を守るために、すべての行動において
必ずポジティブな意味合いを含んでいる、ということです。
我々は全ての振る舞いを「良かれと思って」やっている。
目を背けたくなるほど嫌いな癖であっても、身体的な症状であっても、
無意識の意図という意味合いにおいては、大切な意味があるわけです。
これに関しては、無意識との交流を続けるほどに実感できるようになっていくもので、
この実感を積み重ねるほどに人を信じられるようになっていく部分があるように思います。
その「肯定的意図」という考え方を拡大していくと、
「自分の身に降りかかった苦しい出来事に対しても肯定的な意味がある」
というような発想が生まれてくるようです。
確かに、失敗や苦しい出来事から何かを学ぶということは良くあります。
それがあって人は成長していく部分もあるでしょう。
ただ、その場合には、失敗や苦しみの後で何かを変えることが前提になります。
次に活かすというのは、同じ失敗を繰り返さないために行動を変えるということです。
…まぁ、それが難しいから多くの人が苦しむわけですが。
そのように「失敗や苦しい出来事から何を学んだか」という発想を持つことは
過去の出来事を受け入れていく上では大切なことです。
僕自身、過去の苦しい出来事があったから今の自分があると思えるものが多々あります。
ここで気をつけなくてはいけないのが、
出来事を受け入れるにはその出来事を完了させる必要がある
という部分です。
苦しみを味わいつくし、痛みがなくなるまで、そのことと向き合うわけです。
そして、苦しみが過去のこととして受け入れられるようになって初めて、
「あの出来事から何を学んだか?」という発想が持てるようになるんです。
苦しんでいる最中にそういう発想で出来事を無理やり受け入れようとするのは
自分の無意識に対してフタをする行為です。
無理をかけています。
精神分析の言葉で言えば、それは「合理化」をしているに過ぎません。
自己防衛の手段になってしまっています。
そして、同様に苦しい出来事や望ましくない出来事に陥ったとき、
「これには何か肯定的な意図がある」というように考えて
無理矢理ポジティブシンキングに持っていくのも疑問です。
そういう時こそ、目を背けずに苦しみに向き合うことこそ、
本当に必要な学びかもしれません。
それを学ぶことが無意識の肯定的意図かもしれません。
確かに、望ましくない出来事が起きたおかげで別の道が開け、
結果的にもっと素晴らしい方向に進むということはあります。
ただ、それは結果論に過ぎないと思います。
望ましいか、望ましくないかは受け取り方次第で変わるものです。
だからといって、全ての出来事を望ましいものとして受け取ろうと頑張るのも
無意識のバランスに負担をかけることのように考えられます。
「自分にとっては望ましくない結果になってしまった。残念だ。」
「でも、これで次の展開があるかもしれない。」
両方の気持ちがあっていいんです。
残念なのは、それだけ強く望んでいたからでしょう。
その残念な気持ちをしっかり持っている人だからこそ、
別の形になっても前に進もうと行動を起こせるのではないでしょうか。
ところが望ましくない結果になってしまったことへ
無理矢理に肯定的意図を探し出そうとしてしまうと、
別の良いことが起きるのを待っているような姿勢になる可能性があります。
望ましくない出来事に苦しんだ人こそ、
別の行動を起こすだけの力を生み出せるような気がします。
上手くいかないときには、何かを変えることが大事だということです。
自分の身に降りかかった苦しい出来事。
出来事そのものに肯定的意図があるわけではないと思うんです。
苦しい出来事という結果を生み出す自分の行動を変えるための学びのチャンス。
それこそが、その出来事の意味だろうと思います。
今まで上手くいってきたパターンは、
それが上手くいくほど偏っているものです。
得意だというのは極端に偏った個性が状況に適しているということです。
状況が変われば上手くいかないことも出てきて当然です。
ある状況で上手くいく行動パターンや能力は、
逆のパターンが望まれる状況では逆効果になるわけです。
どんなことでも一人で頑張って乗り切ってきた人は
自分一人の力では対処できない事態に陥ったときに苦しみます。
自分の力で頑張るという特性が強過ぎると、人に頼るという特性が不足するんです。
自分にとって望ましくない結果が起きたとき、
それは今までのやり方ではない、別の方法が求められる場面かもしれません。
人には個性があります。
それは偏りと言ってもいいものです。
その偏りが上手く機能する場所を見つけるのが個性を活かすということでしょう。
ただ、それだけでは上手くいかない時もあるんです。
偏りを緩めて、個性とは逆のパターンを学ぶタイミングもあるわけです。
偏りが強くなれば、逆方向に振られる。
シンプルに言えば、そういうことです。
昔の生活では、職業的にも世襲性があったり、
世の中の価値も現在ほど多様ではなかったはずです。
そうした生き方をしていれば、ある程度の時期に必要な学びがあったと考えられます。
文化的に共通する多くの人に、同じような時期に起きやすい望ましくない出来事。
それに対応するための風習が、通過儀礼として行われていたのでしょう。
現在の不景気や金融危機というのも、同じようなものだと思います。
世の中の方向性を作ってきた人たちが、今までのやり方に偏り過ぎたんです。
今までのパターンでは上手くいかなくなってきた。
別の方向性が求められるようになってきた。
苦しい状況にある人々ほど、学ぶべきことがあるということです。
今までと違う方向性に気づくチャンスだということです。
偏りすぎたら、逆方向に戻る時期なのかもしれません。
正月の間はずっと熱っぽく、鼻詰まりとノドの痛みがあったんです。
何よりも首と肩の痛みが強く、寝るほどに苦しくなるのが厄介もの。
寝ることで回復を図ろうとしても余計に辛くなるので、なかなか体調が回復しません。
休めるときに体を休めるだけでも大事なことだとは思いますが、
体調が悪いというのは気分の良いものではありませんね。
ただ、少なくとも大晦日から正月の3日間ぐらいは、
ほとんど何も考えずにボーっとできていたので、
心身ともに休めたのではないかと考えています。
あんなに「なんとなく頭が働かない」という状態も滅多になかったですから。
追い込みが大変になりそうな予感。
そんな風に久しぶりに長時間、テレビの前にいることをしていたら
世の中の情勢が様々な形で流れ込んできました。
随分とネガティブな情報を目にします。
不景気やら、雇用問題やらと、専門家の意見が飛び交う光景。
実際にスーパーやコンビニ、飲食店などに行けば、
少しずつ値上がりしていることにも気づきます。
世の中に変化が起きていることを実感するわけです。
多くの人々にとって苦しい変化です。
ところで、NLPや臨床催眠においては「無意識の肯定的意図」というものを考えます。
我々の無意識は自分自身を守るために、すべての行動において
必ずポジティブな意味合いを含んでいる、ということです。
我々は全ての振る舞いを「良かれと思って」やっている。
目を背けたくなるほど嫌いな癖であっても、身体的な症状であっても、
無意識の意図という意味合いにおいては、大切な意味があるわけです。
これに関しては、無意識との交流を続けるほどに実感できるようになっていくもので、
この実感を積み重ねるほどに人を信じられるようになっていく部分があるように思います。
その「肯定的意図」という考え方を拡大していくと、
「自分の身に降りかかった苦しい出来事に対しても肯定的な意味がある」
というような発想が生まれてくるようです。
確かに、失敗や苦しい出来事から何かを学ぶということは良くあります。
それがあって人は成長していく部分もあるでしょう。
ただ、その場合には、失敗や苦しみの後で何かを変えることが前提になります。
次に活かすというのは、同じ失敗を繰り返さないために行動を変えるということです。
…まぁ、それが難しいから多くの人が苦しむわけですが。
そのように「失敗や苦しい出来事から何を学んだか」という発想を持つことは
過去の出来事を受け入れていく上では大切なことです。
僕自身、過去の苦しい出来事があったから今の自分があると思えるものが多々あります。
ここで気をつけなくてはいけないのが、
出来事を受け入れるにはその出来事を完了させる必要がある
という部分です。
苦しみを味わいつくし、痛みがなくなるまで、そのことと向き合うわけです。
そして、苦しみが過去のこととして受け入れられるようになって初めて、
「あの出来事から何を学んだか?」という発想が持てるようになるんです。
苦しんでいる最中にそういう発想で出来事を無理やり受け入れようとするのは
自分の無意識に対してフタをする行為です。
無理をかけています。
精神分析の言葉で言えば、それは「合理化」をしているに過ぎません。
自己防衛の手段になってしまっています。
そして、同様に苦しい出来事や望ましくない出来事に陥ったとき、
「これには何か肯定的な意図がある」というように考えて
無理矢理ポジティブシンキングに持っていくのも疑問です。
そういう時こそ、目を背けずに苦しみに向き合うことこそ、
本当に必要な学びかもしれません。
それを学ぶことが無意識の肯定的意図かもしれません。
確かに、望ましくない出来事が起きたおかげで別の道が開け、
結果的にもっと素晴らしい方向に進むということはあります。
ただ、それは結果論に過ぎないと思います。
望ましいか、望ましくないかは受け取り方次第で変わるものです。
だからといって、全ての出来事を望ましいものとして受け取ろうと頑張るのも
無意識のバランスに負担をかけることのように考えられます。
「自分にとっては望ましくない結果になってしまった。残念だ。」
「でも、これで次の展開があるかもしれない。」
両方の気持ちがあっていいんです。
残念なのは、それだけ強く望んでいたからでしょう。
その残念な気持ちをしっかり持っている人だからこそ、
別の形になっても前に進もうと行動を起こせるのではないでしょうか。
ところが望ましくない結果になってしまったことへ
無理矢理に肯定的意図を探し出そうとしてしまうと、
別の良いことが起きるのを待っているような姿勢になる可能性があります。
望ましくない出来事に苦しんだ人こそ、
別の行動を起こすだけの力を生み出せるような気がします。
上手くいかないときには、何かを変えることが大事だということです。
自分の身に降りかかった苦しい出来事。
出来事そのものに肯定的意図があるわけではないと思うんです。
苦しい出来事という結果を生み出す自分の行動を変えるための学びのチャンス。
それこそが、その出来事の意味だろうと思います。
今まで上手くいってきたパターンは、
それが上手くいくほど偏っているものです。
得意だというのは極端に偏った個性が状況に適しているということです。
状況が変われば上手くいかないことも出てきて当然です。
ある状況で上手くいく行動パターンや能力は、
逆のパターンが望まれる状況では逆効果になるわけです。
どんなことでも一人で頑張って乗り切ってきた人は
自分一人の力では対処できない事態に陥ったときに苦しみます。
自分の力で頑張るという特性が強過ぎると、人に頼るという特性が不足するんです。
自分にとって望ましくない結果が起きたとき、
それは今までのやり方ではない、別の方法が求められる場面かもしれません。
人には個性があります。
それは偏りと言ってもいいものです。
その偏りが上手く機能する場所を見つけるのが個性を活かすということでしょう。
ただ、それだけでは上手くいかない時もあるんです。
偏りを緩めて、個性とは逆のパターンを学ぶタイミングもあるわけです。
偏りが強くなれば、逆方向に振られる。
シンプルに言えば、そういうことです。
昔の生活では、職業的にも世襲性があったり、
世の中の価値も現在ほど多様ではなかったはずです。
そうした生き方をしていれば、ある程度の時期に必要な学びがあったと考えられます。
文化的に共通する多くの人に、同じような時期に起きやすい望ましくない出来事。
それに対応するための風習が、通過儀礼として行われていたのでしょう。
現在の不景気や金融危機というのも、同じようなものだと思います。
世の中の方向性を作ってきた人たちが、今までのやり方に偏り過ぎたんです。
今までのパターンでは上手くいかなくなってきた。
別の方向性が求められるようになってきた。
苦しい状況にある人々ほど、学ぶべきことがあるということです。
今までと違う方向性に気づくチャンスだということです。
偏りすぎたら、逆方向に戻る時期なのかもしれません。




