2010年01月29日
残念なことに
風邪を引いてしまいました。
ちょうど一年前の同じ日にインフルエンザで病院に行っていた記録が残っていたので
なんだか妙な感じがしました。
この時期は僕の中で要注意なのかもしれません。
僕の中で「風邪」と呼ぶのは熱が上がったときを指しているようなので、
普段の頭痛は風邪とは捉えていません。
様々な体調不良の状態の中で、発熱を伴うものを風邪と呼ぶ癖があります。
どうやら、僕の経験上、発熱があったときには特別な状態だったのでしょう。
学校を休むとか、お風呂に入ってはいけないとか。
そうやって考えると、人によって「風邪」と呼ぶ状態も
きっとそれぞれ違っているんだろうという気がしてきます。
そして、それは医者によっても違う可能性がある。
ともすると、自然治癒で対処できるレベルの内科的な体調不良は
全て「風邪」と呼んでいるかもしれません。
ですから、僕の中で「風邪」は自分の回復力で直すものというイメージがあります。
薬に関しても、症状を緩和する作用と、腸内環境を整える作用ぐらいでしか
信頼していないので、あまり内科には行かないほうなんです。
体調不良を押してでも仕事をしなければいけない状況だったりすれば
症状を抑える薬を飲みますが、原則的には体を休ませるほうを優先する傾向です。
ただ、今回は発熱が長引くと厄介なのと、インフルエンザの可能性も心配だったので
病院に行くことにしたんです。
僕は仕事上、多くの人と関わりますから、インフルエンザにかかったりすると
自分の体調が回復しても数日間は感染拡大のリスクを考えて
自宅待機しなければいけなくなってしまいます。
なので、僕の最大の関心事はインフルエンザかどうかを調べることでした。
発熱だって僕の意識にとっては苦しいことですが、
身体のレベルでいえば免疫系の働きとして意味のあることのはずです。
無理矢理に解熱剤で熱を下げたからといって、それは治ったわけではない。
ウイルスか細菌か分かりませんが、病原体の働きを弱めることと、
表面的な症状を弱めることは意味が違うと僕は考えています。
解熱鎮痛剤を飲むかどうかを選択するのは本人だと思っているわけです。
ところが、その医者ときたら、患者である僕の話を全く聞こうともしません。
問診票に記入した内容を読んで、それに対して診断を下すだけ。
一瞬たりとも目が合うことはありませんでした。
内科医おきまりのような聴診器でのチェックも、扁桃腺を見ることもせずに、
問診票という紙に書かれた文字しか見ていないんです。
その筆跡から患者の状態が分かるとでも言うんならともかく、
目の前の患者の顔色ぐらいは見たらどうかと思うんですが…。
ミルトン・エリクソンがそこにいたら、きっと、こんなことを言ったでしょう。
「患者は机の上にはいませんよ」
で、全然こちらを見ることもなく、紙の上だけを見て診断を終えようとしたので
こちらからインフルエンザの検査を願い出ることにしました。
すると、「あぁ、腹痛があるんならインフルエンザじゃないですよ」と一言。
文字で書かれた腹痛の程度すら確認もせずに。
インフルエンザの検査を願い出る人にも色々といるはずです。
僕は仕事への影響を考えて疑わしきを排除する必要があった。
人によっては漠然とした不安から検査を頼む人もいるでしょう。
マスコミで報じられた新型インフルエンザのイメージは恐怖も植え付けたでしょうし。
どんな理由で言っているかの推測はできなくても、
「何かしらの動機があって言っている」ぐらいの発想は持って欲しい気がします。
−「何か心配がありますか?」
「仕事をしても大丈夫な保証が必要なんです」
…時間にして、ほんの数秒。
こうしたことは、コミュニケーション技術とか、患者への気持ちとかの問題ではなく、
そもそもの発想として気づかないでいることで起きるのだろうと感じます。
こんな医者は特殊なケースかもしれませんし、
日々の忙しさの中では仕方のない部分もあるのかもしれませんが、
もうちょっとコミュニケーションや、人の気持ちの部分も
考えられたらなぁ、と思いました。
診断のために患者から情報を得ていく部分でも
患者の気持ちを安心させていく部分でも、
医療におけるコミュニケーションの重要性を改めて感じた出来事でした。
ちょうど一年前の同じ日にインフルエンザで病院に行っていた記録が残っていたので
なんだか妙な感じがしました。
この時期は僕の中で要注意なのかもしれません。
僕の中で「風邪」と呼ぶのは熱が上がったときを指しているようなので、
普段の頭痛は風邪とは捉えていません。
様々な体調不良の状態の中で、発熱を伴うものを風邪と呼ぶ癖があります。
どうやら、僕の経験上、発熱があったときには特別な状態だったのでしょう。
学校を休むとか、お風呂に入ってはいけないとか。
そうやって考えると、人によって「風邪」と呼ぶ状態も
きっとそれぞれ違っているんだろうという気がしてきます。
そして、それは医者によっても違う可能性がある。
ともすると、自然治癒で対処できるレベルの内科的な体調不良は
全て「風邪」と呼んでいるかもしれません。
ですから、僕の中で「風邪」は自分の回復力で直すものというイメージがあります。
薬に関しても、症状を緩和する作用と、腸内環境を整える作用ぐらいでしか
信頼していないので、あまり内科には行かないほうなんです。
体調不良を押してでも仕事をしなければいけない状況だったりすれば
症状を抑える薬を飲みますが、原則的には体を休ませるほうを優先する傾向です。
ただ、今回は発熱が長引くと厄介なのと、インフルエンザの可能性も心配だったので
病院に行くことにしたんです。
僕は仕事上、多くの人と関わりますから、インフルエンザにかかったりすると
自分の体調が回復しても数日間は感染拡大のリスクを考えて
自宅待機しなければいけなくなってしまいます。
なので、僕の最大の関心事はインフルエンザかどうかを調べることでした。
発熱だって僕の意識にとっては苦しいことですが、
身体のレベルでいえば免疫系の働きとして意味のあることのはずです。
無理矢理に解熱剤で熱を下げたからといって、それは治ったわけではない。
ウイルスか細菌か分かりませんが、病原体の働きを弱めることと、
表面的な症状を弱めることは意味が違うと僕は考えています。
解熱鎮痛剤を飲むかどうかを選択するのは本人だと思っているわけです。
ところが、その医者ときたら、患者である僕の話を全く聞こうともしません。
問診票に記入した内容を読んで、それに対して診断を下すだけ。
一瞬たりとも目が合うことはありませんでした。
内科医おきまりのような聴診器でのチェックも、扁桃腺を見ることもせずに、
問診票という紙に書かれた文字しか見ていないんです。
その筆跡から患者の状態が分かるとでも言うんならともかく、
目の前の患者の顔色ぐらいは見たらどうかと思うんですが…。
ミルトン・エリクソンがそこにいたら、きっと、こんなことを言ったでしょう。
「患者は机の上にはいませんよ」
で、全然こちらを見ることもなく、紙の上だけを見て診断を終えようとしたので
こちらからインフルエンザの検査を願い出ることにしました。
すると、「あぁ、腹痛があるんならインフルエンザじゃないですよ」と一言。
文字で書かれた腹痛の程度すら確認もせずに。
インフルエンザの検査を願い出る人にも色々といるはずです。
僕は仕事への影響を考えて疑わしきを排除する必要があった。
人によっては漠然とした不安から検査を頼む人もいるでしょう。
マスコミで報じられた新型インフルエンザのイメージは恐怖も植え付けたでしょうし。
どんな理由で言っているかの推測はできなくても、
「何かしらの動機があって言っている」ぐらいの発想は持って欲しい気がします。
−「何か心配がありますか?」
「仕事をしても大丈夫な保証が必要なんです」
…時間にして、ほんの数秒。
こうしたことは、コミュニケーション技術とか、患者への気持ちとかの問題ではなく、
そもそもの発想として気づかないでいることで起きるのだろうと感じます。
こんな医者は特殊なケースかもしれませんし、
日々の忙しさの中では仕方のない部分もあるのかもしれませんが、
もうちょっとコミュニケーションや、人の気持ちの部分も
考えられたらなぁ、と思いました。
診断のために患者から情報を得ていく部分でも
患者の気持ちを安心させていく部分でも、
医療におけるコミュニケーションの重要性を改めて感じた出来事でした。