2010年02月07日
三角形の構図
レオナルド・ダ・ヴィンチの絵の中でも、特に僕が好きな1枚として
『聖アンナと聖母子』という作品があります。
好きな理由は、その構図の美しさと人物の表情でしょうか。
画像はこちら。(http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/より)
大きく見たい場合にはこちらも。(http://transnews.exblog.jp/3468627/より)
この絵の中では、羊と戯れる幼きイエスの姿を聖母マリアが抱えようとして
その様子を後ろからマリアの母・アンナが眺めている場面が描かれていると言います。
ですが、僕には何というか、その表情や振る舞いから
人の一生や成長の過程のようなものが感じられます。
…多分、それは僕がその部分に興味を持っているからというところがあるでしょうけど。
それが想起されるのは、全体像としての三角形の構図にも理由があると思います。
上に向けて進んでいく印象が感じられるんです。
その上向きの流れには、世代的・年齢的な進み方も重なります。
上に行くほど精神的、下のほうほど現世的というように見ていけば
羊と戯れる幼い子供は「エゴ」の象徴、
中央の母親は「セルフ」、
上から見下ろす祖母の目線は「ハイアーセルフ」の象徴、
というようにも感じられます。
マズローになぞらえれば、
羊が「生理的欲求」と「安全の欲求」という動物的な欲求の部分、
母に抱えられようとする幼い子供が「所属と愛の欲求」を、
祖母に見守られながら子供を抱きかかえようとする母親が「承認の欲求」を、
そして、ただ全てを見守る祖母が「自己実現の欲求」を
反映しているようにも思えます。
人間の発達段階と照らし合わせても、
「他者からの承認を求めなくなって、ただ全てを愛で包みこめるような段階」
というのが想定されますが、聖アンヌのイメージは
まさにそんな様子のようでもあります。
そこで象徴的なのが背景の部分じゃないかと思うんです。
聖アンヌの顔の奥に見える荒涼とした光景。
それは寂しげで殺風景にも見えます。
全てを見守るという、その視点が持つ一歩引いた立ち位置は
ともすると、人との関わりを必要としない孤独な世界のようでもあるのかもしれません。
仙人が住む山のような印象。
荒涼とした山々からは、そんな孤独感に似たものも感じます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの描く絵の背景には
こうした荒涼とした世界が何度も登場しますが、
そこには彼の抱えていた心境が反映されていたのかもしれない。
そんなことを思ったりもします。
また、科学の目で世の中を眺めてきたレオナルド・ダ・ヴィンチの目線を
現世的な人間同士の関わり(母子の関係)を眺めている聖アンヌになぞらえれば、
人の生きる世の中を愛しながらも一歩引いて生きてきた自分自身の人生への
寂しさが表れているようにも思えてくる。
そう考えると、終生、彼がこの絵を手放さなかったことも分かるような気がします。
宗教的な意味合いを考える見方もあるのでしょうが、
僕には、この絵の中に込められた人の心が意識されてしまいます。
『聖アンナと聖母子』という作品があります。
好きな理由は、その構図の美しさと人物の表情でしょうか。
画像はこちら。(http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/より)
大きく見たい場合にはこちらも。(http://transnews.exblog.jp/3468627/より)
この絵の中では、羊と戯れる幼きイエスの姿を聖母マリアが抱えようとして
その様子を後ろからマリアの母・アンナが眺めている場面が描かれていると言います。
ですが、僕には何というか、その表情や振る舞いから
人の一生や成長の過程のようなものが感じられます。
…多分、それは僕がその部分に興味を持っているからというところがあるでしょうけど。
それが想起されるのは、全体像としての三角形の構図にも理由があると思います。
上に向けて進んでいく印象が感じられるんです。
その上向きの流れには、世代的・年齢的な進み方も重なります。
上に行くほど精神的、下のほうほど現世的というように見ていけば
羊と戯れる幼い子供は「エゴ」の象徴、
中央の母親は「セルフ」、
上から見下ろす祖母の目線は「ハイアーセルフ」の象徴、
というようにも感じられます。
マズローになぞらえれば、
羊が「生理的欲求」と「安全の欲求」という動物的な欲求の部分、
母に抱えられようとする幼い子供が「所属と愛の欲求」を、
祖母に見守られながら子供を抱きかかえようとする母親が「承認の欲求」を、
そして、ただ全てを見守る祖母が「自己実現の欲求」を
反映しているようにも思えます。
人間の発達段階と照らし合わせても、
「他者からの承認を求めなくなって、ただ全てを愛で包みこめるような段階」
というのが想定されますが、聖アンヌのイメージは
まさにそんな様子のようでもあります。
そこで象徴的なのが背景の部分じゃないかと思うんです。
聖アンヌの顔の奥に見える荒涼とした光景。
それは寂しげで殺風景にも見えます。
全てを見守るという、その視点が持つ一歩引いた立ち位置は
ともすると、人との関わりを必要としない孤独な世界のようでもあるのかもしれません。
仙人が住む山のような印象。
荒涼とした山々からは、そんな孤独感に似たものも感じます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの描く絵の背景には
こうした荒涼とした世界が何度も登場しますが、
そこには彼の抱えていた心境が反映されていたのかもしれない。
そんなことを思ったりもします。
また、科学の目で世の中を眺めてきたレオナルド・ダ・ヴィンチの目線を
現世的な人間同士の関わり(母子の関係)を眺めている聖アンヌになぞらえれば、
人の生きる世の中を愛しながらも一歩引いて生きてきた自分自身の人生への
寂しさが表れているようにも思えてくる。
そう考えると、終生、彼がこの絵を手放さなかったことも分かるような気がします。
宗教的な意味合いを考える見方もあるのでしょうが、
僕には、この絵の中に込められた人の心が意識されてしまいます。