2010年05月11日
落語の時間
今年のゴールデンウィークには、ちょっと出かけることもできました。
印象的だったのは、落語を聞きに行ったことです。
柳家花緑。
「5代目・柳家小さん」の孫に当たる人。
以前からテレビなどで見ていて好きだったのですが、
今回、初めて生で落語を見ることができました。
いやぁ、面白かった。
そして、勉強になりました。
落語家というのは噺家(はなしか)とも呼ばれますから
「話をする人」のように考えられますが、
その「話をする」の意味は、英語の「 speak 」とは随分違うもののようです。
最初の部分で日常的な小話を交えていた中でも出てきたこととして
世間一般で、まだ落語は有名ではないという内容がありました。
特に、若い世代には。
ある日、高座が終わった後にサイン会をしていたら
2人の若者がやってきて感想を述べて帰ったんだそうです。
「落語って分かりやすいんですね」と。
その意味を聞いてみると、なんでも
落語を能や狂言のような伝統芸能と同じものと考えていて
現代人には何を言っているのか分からないものだと想像していたのだとか。
確かに古典芸能ではありますから、
そういうイメージと結びつくこともあるのかもしれません。
僕の実家は祖父母が同居していましたから、
小さい頃から日曜日の夕方には「笑点」を見るのが恒例でした。
なので、落語家に対しては普通に芸能人のように見ていた気がします。
とはいえ、落語は笑点とは随分違う。
最近は違ってきているようですが、以前の笑点の番組構成は、
・冒頭、客席に故・三遊亭圓楽が司会者として登場し、最初の芸人を紹介
・1組の芸人が10分程度の芸を披露
・CMあけ、舞台を変えて大喜利
といった流れでした。
この大喜利の前に放送される1ネタには、マジックや漫才の他にも
短めの落語を見られるときもあったんです。
そのおかげか、僕の中では落語がそこそこ有名なものだったようです。
「落語家」=「カラフルな着物の人たち」ではなかったと思います。
落語で何がなされるかは、なんとなく見ていたつもりでした。
その後、高校・大学ぐらいから落語のCDを聞くようになりました。
CDで聞いても落語は面白い。
ですが、聞いているだけでは分からないところも沢山あるのも事実。
特に動きで笑わせてくれる部分では、客席の笑い声が入っているのに
CDを聞いている自分には面白さが分からなかったりするんです。
落語家は芝居の一人舞台ほど演じ分ける作業を明確にはしませんが、
単純に話の内容を覚えて暗唱しているのとは違います。
やはり、それぞれの登場人物や情景を描く作業をしている。
欧米のスタンダップ・コメディは、一人の印象がずっと強い。
面白い話を教えてくれる感じ。
最近のテレビ関連に照らし合わせると「すべらない話」のような印象でしょうか。
落語は、それよりも登場人物の描き方が丁寧です。
そして役を演じる。
ナレーションの比率が低いわけです。
1つの場面が、情景として描かれるように登場人物のやりとりとして語られる。
なので、話をするのと同時に演じている部分も強いんです。
特に、上手いと言われる落語家は、その演じ方、情景描写の仕方も見事なようです。
実に「それっぽい」。
芝居と違うのは、それが座ったままで行われること。
そして、違いの示し方が曖昧なことでしょうか。
見ている側として、誰がいて、どこで何をしているのか、
といった情景がイメージできるのだけれど、それが明確には示されないんです。
見ている側の想像力をかき立てる。
落語を分かろうと思ったら、見ている側にも工夫がいるのかもしれません。
そこにはリアリティや極端なまでの誇張はなされない。
さりげなく、くどくない範囲で、でも「それらしく」。
そんな感じの作り込み方を感じます。
例えば、有名な「時そば」で登場人物が蕎麦をすするシーン。
これは「しっぽく蕎麦」と言って、ちくわだけが具材として使われた
かけ蕎麦に近いシンプルな蕎麦です。
これを食べるときの音を出すのも、落語家の芸のうち。
演劇の舞台だったら、効果音を使えばいいかもしれませんが、落語では違います。
落語家が、蕎麦を食べる音も出すわけです。
この擬音、こだわって聞けば
「しっぽく蕎麦で、その音はしないだろう、
それは、とろろ蕎麦ぐらいの音だ」
という印象のもの。
でも、「それっぽい」ほうが大事なようです。
いかにも蕎麦をすする音。
その特徴を利用するのが1つのスタンスのように見えます。
登場人物の描き方も、細かな動作も、目線の配り方も、擬音の出し方も、
多くの人が共通して持っている「それっぽい」パターンに当てはまる。
あとは、見ている本人が自分の記憶を元にイメージを作っている、と考えられます。
つまり、落語は聞く側にも努力がいるということです。
自覚しているかどうかは別にして、落語を聞くということは受動的ではないんです。
「 speak 」つまり、一方的に話をするというコミュニケーションの形でない
と書いたのは、そういう意味でもあります。
落語家と見る側とでは、共同作業をしているところがある。
そして、落語を実際に見に行って感じるのは、
落語家自身も客席とコミュニケーションを取っているということ。
柳家花緑は、客席との交流が上手い人でした。
すごく気を遣っています。
よく見ているし、よく聞いている。
客席とラポールを取りながら、自分のトランスに巻き込んでいくんです。
佳境に入るほどに、お年寄りに眠気を誘うのも当然でしょう。
落語という内容をただ話しているわけではないことを強く実感しました。
落語はスピーチ、講演や演劇とも違う相互交流のコミュニケーションのようです。
それは、ライブでしか感じられない面白さを提供してくれるものだと思います。
印象的だったのは、落語を聞きに行ったことです。
柳家花緑。
「5代目・柳家小さん」の孫に当たる人。
以前からテレビなどで見ていて好きだったのですが、
今回、初めて生で落語を見ることができました。
いやぁ、面白かった。
そして、勉強になりました。
落語家というのは噺家(はなしか)とも呼ばれますから
「話をする人」のように考えられますが、
その「話をする」の意味は、英語の「 speak 」とは随分違うもののようです。
最初の部分で日常的な小話を交えていた中でも出てきたこととして
世間一般で、まだ落語は有名ではないという内容がありました。
特に、若い世代には。
ある日、高座が終わった後にサイン会をしていたら
2人の若者がやってきて感想を述べて帰ったんだそうです。
「落語って分かりやすいんですね」と。
その意味を聞いてみると、なんでも
落語を能や狂言のような伝統芸能と同じものと考えていて
現代人には何を言っているのか分からないものだと想像していたのだとか。
確かに古典芸能ではありますから、
そういうイメージと結びつくこともあるのかもしれません。
僕の実家は祖父母が同居していましたから、
小さい頃から日曜日の夕方には「笑点」を見るのが恒例でした。
なので、落語家に対しては普通に芸能人のように見ていた気がします。
とはいえ、落語は笑点とは随分違う。
最近は違ってきているようですが、以前の笑点の番組構成は、
・冒頭、客席に故・三遊亭圓楽が司会者として登場し、最初の芸人を紹介
・1組の芸人が10分程度の芸を披露
・CMあけ、舞台を変えて大喜利
といった流れでした。
この大喜利の前に放送される1ネタには、マジックや漫才の他にも
短めの落語を見られるときもあったんです。
そのおかげか、僕の中では落語がそこそこ有名なものだったようです。
「落語家」=「カラフルな着物の人たち」ではなかったと思います。
落語で何がなされるかは、なんとなく見ていたつもりでした。
その後、高校・大学ぐらいから落語のCDを聞くようになりました。
CDで聞いても落語は面白い。
ですが、聞いているだけでは分からないところも沢山あるのも事実。
特に動きで笑わせてくれる部分では、客席の笑い声が入っているのに
CDを聞いている自分には面白さが分からなかったりするんです。
落語家は芝居の一人舞台ほど演じ分ける作業を明確にはしませんが、
単純に話の内容を覚えて暗唱しているのとは違います。
やはり、それぞれの登場人物や情景を描く作業をしている。
欧米のスタンダップ・コメディは、一人の印象がずっと強い。
面白い話を教えてくれる感じ。
最近のテレビ関連に照らし合わせると「すべらない話」のような印象でしょうか。
落語は、それよりも登場人物の描き方が丁寧です。
そして役を演じる。
ナレーションの比率が低いわけです。
1つの場面が、情景として描かれるように登場人物のやりとりとして語られる。
なので、話をするのと同時に演じている部分も強いんです。
特に、上手いと言われる落語家は、その演じ方、情景描写の仕方も見事なようです。
実に「それっぽい」。
芝居と違うのは、それが座ったままで行われること。
そして、違いの示し方が曖昧なことでしょうか。
見ている側として、誰がいて、どこで何をしているのか、
といった情景がイメージできるのだけれど、それが明確には示されないんです。
見ている側の想像力をかき立てる。
落語を分かろうと思ったら、見ている側にも工夫がいるのかもしれません。
そこにはリアリティや極端なまでの誇張はなされない。
さりげなく、くどくない範囲で、でも「それらしく」。
そんな感じの作り込み方を感じます。
例えば、有名な「時そば」で登場人物が蕎麦をすするシーン。
これは「しっぽく蕎麦」と言って、ちくわだけが具材として使われた
かけ蕎麦に近いシンプルな蕎麦です。
これを食べるときの音を出すのも、落語家の芸のうち。
演劇の舞台だったら、効果音を使えばいいかもしれませんが、落語では違います。
落語家が、蕎麦を食べる音も出すわけです。
この擬音、こだわって聞けば
「しっぽく蕎麦で、その音はしないだろう、
それは、とろろ蕎麦ぐらいの音だ」
という印象のもの。
でも、「それっぽい」ほうが大事なようです。
いかにも蕎麦をすする音。
その特徴を利用するのが1つのスタンスのように見えます。
登場人物の描き方も、細かな動作も、目線の配り方も、擬音の出し方も、
多くの人が共通して持っている「それっぽい」パターンに当てはまる。
あとは、見ている本人が自分の記憶を元にイメージを作っている、と考えられます。
つまり、落語は聞く側にも努力がいるということです。
自覚しているかどうかは別にして、落語を聞くということは受動的ではないんです。
「 speak 」つまり、一方的に話をするというコミュニケーションの形でない
と書いたのは、そういう意味でもあります。
落語家と見る側とでは、共同作業をしているところがある。
そして、落語を実際に見に行って感じるのは、
落語家自身も客席とコミュニケーションを取っているということ。
柳家花緑は、客席との交流が上手い人でした。
すごく気を遣っています。
よく見ているし、よく聞いている。
客席とラポールを取りながら、自分のトランスに巻き込んでいくんです。
佳境に入るほどに、お年寄りに眠気を誘うのも当然でしょう。
落語という内容をただ話しているわけではないことを強く実感しました。
落語はスピーチ、講演や演劇とも違う相互交流のコミュニケーションのようです。
それは、ライブでしか感じられない面白さを提供してくれるものだと思います。