2010年08月17日
詳細というコダワリ
先日、勉強会の資料を一通り見直してみて、
自分がやってきた分析、解析の成果を懐かしく感じていました。
勉強会を始めてから3年以上になりますが、
その間に自分が取り組んできた内容も思い返されます。
そして、ある時期から格段に「難しく」なっている。
「高度になった」と言えば聞こえが良いですが、
説明のベースになる情報の由来が、心理やコミュニケーションの分野で
良く使われる表現ではなくなってきているのが1つの理由でしょう。
曖昧に説明されていたものを、なるべく矛盾の内容に
現実に起きている現象に即した説明になるように工夫していくと、
便利な説明モデルを使わずに本質的な内容を開設することになるので
どうしても日本語として過度に一般化された抽象的な表現になりやすいんです。
喩えて言うと、こんな感じ…。
便利な説明の仕方で分かった感じを早く体験するには…
「牛乳には天然のカルシウムが豊富に含まれているので健康に最適です」
となるものの、僕としては表現が気になってしまう。
それを、詳細に正確な表現をすると…
「カルシウムを遊離したイオンの形で摂取する場合と比較して、
牛乳由来のカルシウムを経口摂取した場合、
牛乳中でカルシウムはカゼインタンパク質と結合して
CCPと呼ばれる複合体を作り小腸からの吸収を助けるため
より効果的にカルシウムを体内で利用しやすいと考えられる」
となります。
でも、それでは専門的な情報が含まれるし、説明の量が長くなってしまいます。
で、それをシンプルにしようとすると…
「牛乳に含まれるカルシウムは、タンパク質の一種と結び付いて
人体に吸収されやすい形になっているため効果的」
となる。
説明している僕の側からすると、
分かった感じをイメージしやすい言葉を入れていないので正確にはなっている反面、
情報が抽象的で理解するのが難しいだろう、
と考えられます。
実際、最近の勉強会では人間の心や振る舞いの性質という
非常に全般的な内容を扱っているので、
その説明は非常に抽象的なものになりやすいようです。
それは「難しい」印象になるのも当然かと。
しかし、そこにあるのは、きちんと説明できる言葉だけを使って
内容を解説しようという根本的なスタンス。
確かに、そんなに詳細に、矛盾の無いように説明しようとしなくても
良いのかもしれませんし、そのことを気にしない人もいると思います。
どんな説明の仕方でも、何かを学んで、それが役に立てばいい、
…そういう発想もあるでしょう。
ただ、僕の求めたいものは、そうではない。
それだけの話です。
「役に立つ時もあれば、役に立たないときもある」
僕に言わせれば、それは、もっと役に立つ形にできる余地がある、ということです。
少しでも上手くいく可能性を上げたい。
少しでも失敗する可能性を下げたい。
僕の扱っている範囲は、人間に関わる内容です。
それも、人類全般や社会、集団といった大きな枠組みではない。
個人の人生に関わるものです。
目の前のその人の、その一瞬。
唯一のその場面で最善を尽くせるようにしたい。
そのための技術だと考えているんです。
「上手くいかなかったら、やり方を変えれば良い」
それは非常に大切で、本質的な発想ですが、
上手くいかなかったことだって、相手には影響していると思うんです。
まして心を扱う範囲です。
傷つけてしまったから、やり方を変えるのでは遅い場合もある。
その失敗から学び、次の機会に活かすことはできても、
その人との関係性は戻りません。
それはセミナーでも同じだと考えています。
とりあえず試しにやってみて、評判や様子を見て、次回以降に工夫をしていく…
そのスタンスは開催する側にとっては構わないかもしれませんが、
試しでやってみた評判の悪かった時に受講した人はどうなるのでしょうか。
今の目の前の一度きりのコミュニケーションにおいて
最善を尽くすために技術を磨くというのが僕の重要とする部分です。
細かく、正確に、そして「安全に」といった方向が出やすいわけです。
細かいことはトレーニングとしての意味合いも高めると考えています。
初めて野球を習う人がいて、ボールの投げ方も良く分からないような場合に、
いきなり練習試合だけをさせるか、ということに似ています。
中には、ひたすら実践の中で技術を磨く方法もあります。
日本人が日本語を学ぶときには、ほぼ実践の中で見につけているでしょう。
水泳だって、とりあえず水の中に入れられて、溺れないように頑張って
ジタバタしているうちに、犬かき程度なら出来るようになるかもしれません。
一つ一つの技術の部分をトレーニングして、
個別の技術の中でも細かい体の使い方などを練習して、
その中でコツになるような意識の仕方を教えてもらう。
そんなプロセスを経て学習していったほうが効率的なことが多いと思うんです。
過去の勉強会を振り返ると、そうした細かなコダワリが強まってきた時期がありました。
それは同時に、どこかから引っ張ってきた内容ではなく、
自分自身で分析・解析して技術としての整理を試みたものです。
積み重ねてきたことを振り返ったわけですから
懐かしい気持ちになるのも当然かもしれません。
そして、自分自身で解説をしてきた内容でありながら
しばらく意識から遠ざかっていた技術内容も思い返しました。
一つ一つ丁寧に扱えば、どれも財産にできるような内容だという自負があります。
今後、ブラッシュアップした形を扱ってみたり、
複合的な技術として整理してみたり、といったことを考えています。
何よりも全体的な形として、まとめ上げたい気持ちが強い。
勉強会のテーマ設定を工夫するのも良いかもしれません。
自分がやってきた分析、解析の成果を懐かしく感じていました。
勉強会を始めてから3年以上になりますが、
その間に自分が取り組んできた内容も思い返されます。
そして、ある時期から格段に「難しく」なっている。
「高度になった」と言えば聞こえが良いですが、
説明のベースになる情報の由来が、心理やコミュニケーションの分野で
良く使われる表現ではなくなってきているのが1つの理由でしょう。
曖昧に説明されていたものを、なるべく矛盾の内容に
現実に起きている現象に即した説明になるように工夫していくと、
便利な説明モデルを使わずに本質的な内容を開設することになるので
どうしても日本語として過度に一般化された抽象的な表現になりやすいんです。
喩えて言うと、こんな感じ…。
便利な説明の仕方で分かった感じを早く体験するには…
「牛乳には天然のカルシウムが豊富に含まれているので健康に最適です」
となるものの、僕としては表現が気になってしまう。
それを、詳細に正確な表現をすると…
「カルシウムを遊離したイオンの形で摂取する場合と比較して、
牛乳由来のカルシウムを経口摂取した場合、
牛乳中でカルシウムはカゼインタンパク質と結合して
CCPと呼ばれる複合体を作り小腸からの吸収を助けるため
より効果的にカルシウムを体内で利用しやすいと考えられる」
となります。
でも、それでは専門的な情報が含まれるし、説明の量が長くなってしまいます。
で、それをシンプルにしようとすると…
「牛乳に含まれるカルシウムは、タンパク質の一種と結び付いて
人体に吸収されやすい形になっているため効果的」
となる。
説明している僕の側からすると、
分かった感じをイメージしやすい言葉を入れていないので正確にはなっている反面、
情報が抽象的で理解するのが難しいだろう、
と考えられます。
実際、最近の勉強会では人間の心や振る舞いの性質という
非常に全般的な内容を扱っているので、
その説明は非常に抽象的なものになりやすいようです。
それは「難しい」印象になるのも当然かと。
しかし、そこにあるのは、きちんと説明できる言葉だけを使って
内容を解説しようという根本的なスタンス。
確かに、そんなに詳細に、矛盾の無いように説明しようとしなくても
良いのかもしれませんし、そのことを気にしない人もいると思います。
どんな説明の仕方でも、何かを学んで、それが役に立てばいい、
…そういう発想もあるでしょう。
ただ、僕の求めたいものは、そうではない。
それだけの話です。
「役に立つ時もあれば、役に立たないときもある」
僕に言わせれば、それは、もっと役に立つ形にできる余地がある、ということです。
少しでも上手くいく可能性を上げたい。
少しでも失敗する可能性を下げたい。
僕の扱っている範囲は、人間に関わる内容です。
それも、人類全般や社会、集団といった大きな枠組みではない。
個人の人生に関わるものです。
目の前のその人の、その一瞬。
唯一のその場面で最善を尽くせるようにしたい。
そのための技術だと考えているんです。
「上手くいかなかったら、やり方を変えれば良い」
それは非常に大切で、本質的な発想ですが、
上手くいかなかったことだって、相手には影響していると思うんです。
まして心を扱う範囲です。
傷つけてしまったから、やり方を変えるのでは遅い場合もある。
その失敗から学び、次の機会に活かすことはできても、
その人との関係性は戻りません。
それはセミナーでも同じだと考えています。
とりあえず試しにやってみて、評判や様子を見て、次回以降に工夫をしていく…
そのスタンスは開催する側にとっては構わないかもしれませんが、
試しでやってみた評判の悪かった時に受講した人はどうなるのでしょうか。
今の目の前の一度きりのコミュニケーションにおいて
最善を尽くすために技術を磨くというのが僕の重要とする部分です。
細かく、正確に、そして「安全に」といった方向が出やすいわけです。
細かいことはトレーニングとしての意味合いも高めると考えています。
初めて野球を習う人がいて、ボールの投げ方も良く分からないような場合に、
いきなり練習試合だけをさせるか、ということに似ています。
中には、ひたすら実践の中で技術を磨く方法もあります。
日本人が日本語を学ぶときには、ほぼ実践の中で見につけているでしょう。
水泳だって、とりあえず水の中に入れられて、溺れないように頑張って
ジタバタしているうちに、犬かき程度なら出来るようになるかもしれません。
一つ一つの技術の部分をトレーニングして、
個別の技術の中でも細かい体の使い方などを練習して、
その中でコツになるような意識の仕方を教えてもらう。
そんなプロセスを経て学習していったほうが効率的なことが多いと思うんです。
過去の勉強会を振り返ると、そうした細かなコダワリが強まってきた時期がありました。
それは同時に、どこかから引っ張ってきた内容ではなく、
自分自身で分析・解析して技術としての整理を試みたものです。
積み重ねてきたことを振り返ったわけですから
懐かしい気持ちになるのも当然かもしれません。
そして、自分自身で解説をしてきた内容でありながら
しばらく意識から遠ざかっていた技術内容も思い返しました。
一つ一つ丁寧に扱えば、どれも財産にできるような内容だという自負があります。
今後、ブラッシュアップした形を扱ってみたり、
複合的な技術として整理してみたり、といったことを考えています。
何よりも全体的な形として、まとめ上げたい気持ちが強い。
勉強会のテーマ設定を工夫するのも良いかもしれません。