2010年08月19日
動詞の感覚
英語と日本語には色々な違いがあると思いますが、
日本人が英語を学ぶ上でハードルが高くなりそうなポイントとして
言語的な性質の違いが挙げられそうです。
特に、難しくする要因の1つが翻訳という作業。
理想を言えば、日本語を一切交えずに英語を英語のまま理解できれば良いのでしょうが、
その作業は、良く言われるほどに簡単なことではないと思います。
なぜなら、相互に概念として共有する意味があって、
それが本人の中で繋がっていなければ、
言語はコミュニケーション手段としての意味を持つことができても
それを使って何かを学び取り、経験を広げるということはできないからです。
つまり、英語で知った情報は英語に関する記憶の中にだけ整理されていて
日本語を通じて経験してきた情報とは無関係に整理されることになります。
英語での経験と日本語での経験が相互に活かせない。
極端な言い方をすれば、別の人間が一人の中に存在している感じ。
英語で経験したことは日本語で話せないことになってしまう状態です。
それでは外国語を見につける利点が減ってしまうでしょうし、
現実的に、そのような事態はまず起こらないと考えられます。
バイリンガルの帰国子女が日本語を話すときと外国語を話すときで
全く性格が変わるケースは良く見受けられますが、
それでも2つの人格があるわけではなく、記憶としては繋がっています。
日本語を話しているときには、英語を話していた時の記憶が無くなってしまう…
なんていうことは起きないでしょう。
これは、概念として意味を理解できているものは
複数の言語を使っていても対応させることができることを示していると言えます。
日本語で「犬」と呼ぶものと、英語で「 dog 」と呼ぶものが
同じ概念であることが記憶の中で繋がっている。
英語を話すときに、いちいち日本語訳にしないとしても
理解した情報は英語でも日本語でも説明できるはずです。
それは日本語訳の作業を意識的にしていないだけの話で
「理解する」という作業そのものがしている内容は
英語でも日本語でも共通していると考えられます。
そういう意味で、2種類の言語を使うときには
ある程度、共有できる概念を知っている必要があるということです。
「犬」と「 dog 」は同じ概念だ、と。
その概念のベースになる実体験の内容に違いがあることは、
ここでは問題ではありません。
一般的な日本人にとっての「川」は、渓流の細い水の流れのイメージが典型的で、
アメリカ人にとっての「 river 」は、対岸が見えないような川幅の広い
海と区別できないようなイメージが典型的でしょう。
それは経験の違いが生み出した差であって、
もし日本人がアメリカで生活をして「 river 」を沢山見てきたとしたら
その人にとっての「川」の典型的なイメージに、大きな川の映像が追加されるだけで、
「川」と「 river 」を別の概念として理解することはないはずです。
経験が広がれば、概念の意味する範囲が広がるだけのことで、
「川」と「 river 」は、同じ概念と理解しても問題はないと思います。
なので、翻訳という作業が可能になります。
ところが、そのような一対一の対応ができない概念もあります。
「兄」と「 brother 」はイコールではない。
「兄」を英語で言うときには「 big brother 」として一単語では表せないわけです。
英和辞典を使うと、1つの単語に対して、色々な日本語の説明が出てきますし、
和英辞典を使えば、逆のことが起きます。
正確に同じ意味に対応しない概念が、他の言語には存在しているんです。
しかし、辞書というものは、その性質上、
意味の対応として近いものを示すことになっています。
いちいち日本語訳にしないで理解できるようになったとしても、
理解のための概念ネットワークが日本語用に作られている人にとっては、
英語の理解のためにも、そのネットワークが応用されてしまいやすいようです。
新しい単語を覚えるときに、どうしても日本語での理解の仕方が影響してしまう。
ここが大きなハードルになるように感じられます。
日本人が英語で言いたいことを考えた場合、
表現したい内容に対応する単語を記憶から探すことになります。
ところが、この「言いたいこと」の思い浮かび方が、すでに
日本語の影響を強く受けているんです。
自分の言い表わしたいことに対応する言葉を探そうとしても、
その感じに対応する正確な英単語がなかったりする。
また、辞書では同じ意味として出てくる単語だからと使ってみたら
ニュアンスの違いがあってネイティブには違和感があったりする。
日本語の単語と英語の単語を正確に対応させるのが難しいんです。
特に、英語は動詞が意味するニュアンスが詳細で、
動詞の使い分けだけで意味の違いを作ることが良くあるようです。
たとえば、日本語で「混ぜる」に対応する単語として
mix, blend, stir, scrumble, whisk, whip など
動作の状態や、動作によって起こる結果の違いによって
動詞が使い分けられます。
他にも日本では、「推測する」「推定する」「予測する」「仮説を立てる」
の間には大きな違いを意識することは少ないと思います。
仮に、「株価の動き〜」に対して付け加えることを考えても、
どれを当てはめても大きな意味の違いは出ないでしょう。
「株価の動き」は未来のことですから「予測する」が正確なのかもしれませんが、
「株価の動きを推測する」といえば、未来のこととして暗黙の了解で理解できます。
厳密な使い分けが必要ないのが、日本語の特徴ではないでしょうか。
ところが、英語では「 predict 」と「 guess 」に明確な違いがあるそうです。
「 predict 」には推測の根拠となる情報があって、
「 guess 」には、それがなく、普通の「〜じゃないかな?」という感じ。
「心配する」の意味も、「 be concerned about 」と「 be worried about 」とあって、
「 concerned 」のほうが根拠があって可能性の高い心配で、
「 worried 」のほうが漠然とした不安に近い心配なんだとか。
英語は、1つの単語が持つ意味が詳細に設定されているようです。
それに対して、日本語は1つの動詞が意味する範囲が広くて、
しかも同じような単語が複数あります。
なので、意味を正確に表現しようとすると、
他の単語で情報を加えていくことになります。
先ほどの「混ぜる」であれば、「ゆっくりと混ぜる」とか「素早く混ぜる」とか。
しかし、英語であれば、コーヒーの砂糖をゆっくり混ぜるときは「 stir 」です。
「コーヒーに砂糖を入れて」の後に
「ゆっくり」という言葉をつけて意味を丁寧に表現しておけば、
そのあとの単語は「混ぜる」でも「かき混ぜる」でも「撹拌する」でも
間違いじゃないんです。
でも英語は「 stir 」が普通。
英語は、そもそもが詳細な意味の違いを持った単語を使い分けて、意味の違いを表現し、
日本語は、単語に詳細な情報を付け加えていくことで、意味の違いを表現する。
こんな差があるように思います。
しかも、英語の単語は動詞を中心に作られています。
英語を始めとするラテン語系の言語には
単語の中にラテン語由来のものと、ゲルマン語由来のものが含まれますが、
この段階から動詞を派生させる形で単語が作られているようです。
おそらく、こうした動詞に対する細かな意味の違いの設定の仕方が
ラテン語系の特徴なんじゃないでしょうか。
少ない単語でニュアンスの違いを表現する前提がありそうな気がします。
その中心が動作を表現する動詞。
一方、日本語は状態を説明する言葉に細かい部分がありそうです。
修飾語、それも心情に関わるような表現が豊富じゃないかと感じます。
動作のバリエーションで説明するよりも、
状況を補足説明するように単語を付け加えて言い表わしていく。
さらに日本語の場合は、微妙な言い回しの差、たとえば助詞の使い方などで
メッセージを発信する人の伝えたい意図なども表現できます。
日本語と英語では、細かく表現しようとしている場所が違う、という話です。
これが日本人英語学習者にとってハードルの高いポイントの1つだと感じます。
英語を理解するときには、単純に辞書を使って
日本語の意味を利用して内容を把握するのでは理解度が不足しやすいでしょう。
それは英単語そのものの中に、微妙なニュアンスの違いが含まれるからです。
単純な日本語訳として出てくる単語の意味をつかって理解しようとすると
日本人からしたら情報が不足していて、何を言いたい文章なのか分からないことがある。
英語の単語が持つ細かな概念に敏感になると
英文を理解するのも、英会話を理解するのも、やりやすくなると推測しています。
逆に、英文を書いたり、英語を話す場合にも、
正確な単語の使い分けができるようになっていくと、
少ない単語数で必要な情報が伝えられるようになると思います。
どうしても日本人が英語の文章を作ろうとすると
メッセージの内容を状態として説明しようとして
修飾語を付け加えたくなる気がします。
日本語の感覚として、修飾語をつけて工夫して言い表わした意味が
実は英語だと一単語で言えてしまったりする。
この辺のボキャブラリーの違いに対応できると、伝わりやすくもなるんでしょう。
何より、動詞の感覚が難しい。
日本語は主語を使わないことで、説明内容を状態・状況として
少し客観的な言い回しで説明することが多いものです。
動作の主体が表現されないので、動作の躍動感が小さく、
状況を眺めて描写するような静止画の感じがある。
それが、英語の場合は、もっと動作の主体が明確です。
他動詞なんていうのは、その性質として
他者に影響を及ぼしているイメージが伴います。
このアクティブな動作の感じと、動作が影響していく様子とが
動画のような感じで捉えられるようになると
英語らしいシンプルな表現ができるんでしょう。
日本人の慣れていない部分だと思います。
動作と主体、影響を及ぼす感じ。
この辺の動詞中心のイメージをトレーニングする効果的な方法があると
日本人の英語学習も楽になるかもしれません。
日本人が英語を学ぶ上でハードルが高くなりそうなポイントとして
言語的な性質の違いが挙げられそうです。
特に、難しくする要因の1つが翻訳という作業。
理想を言えば、日本語を一切交えずに英語を英語のまま理解できれば良いのでしょうが、
その作業は、良く言われるほどに簡単なことではないと思います。
なぜなら、相互に概念として共有する意味があって、
それが本人の中で繋がっていなければ、
言語はコミュニケーション手段としての意味を持つことができても
それを使って何かを学び取り、経験を広げるということはできないからです。
つまり、英語で知った情報は英語に関する記憶の中にだけ整理されていて
日本語を通じて経験してきた情報とは無関係に整理されることになります。
英語での経験と日本語での経験が相互に活かせない。
極端な言い方をすれば、別の人間が一人の中に存在している感じ。
英語で経験したことは日本語で話せないことになってしまう状態です。
それでは外国語を見につける利点が減ってしまうでしょうし、
現実的に、そのような事態はまず起こらないと考えられます。
バイリンガルの帰国子女が日本語を話すときと外国語を話すときで
全く性格が変わるケースは良く見受けられますが、
それでも2つの人格があるわけではなく、記憶としては繋がっています。
日本語を話しているときには、英語を話していた時の記憶が無くなってしまう…
なんていうことは起きないでしょう。
これは、概念として意味を理解できているものは
複数の言語を使っていても対応させることができることを示していると言えます。
日本語で「犬」と呼ぶものと、英語で「 dog 」と呼ぶものが
同じ概念であることが記憶の中で繋がっている。
英語を話すときに、いちいち日本語訳にしないとしても
理解した情報は英語でも日本語でも説明できるはずです。
それは日本語訳の作業を意識的にしていないだけの話で
「理解する」という作業そのものがしている内容は
英語でも日本語でも共通していると考えられます。
そういう意味で、2種類の言語を使うときには
ある程度、共有できる概念を知っている必要があるということです。
「犬」と「 dog 」は同じ概念だ、と。
その概念のベースになる実体験の内容に違いがあることは、
ここでは問題ではありません。
一般的な日本人にとっての「川」は、渓流の細い水の流れのイメージが典型的で、
アメリカ人にとっての「 river 」は、対岸が見えないような川幅の広い
海と区別できないようなイメージが典型的でしょう。
それは経験の違いが生み出した差であって、
もし日本人がアメリカで生活をして「 river 」を沢山見てきたとしたら
その人にとっての「川」の典型的なイメージに、大きな川の映像が追加されるだけで、
「川」と「 river 」を別の概念として理解することはないはずです。
経験が広がれば、概念の意味する範囲が広がるだけのことで、
「川」と「 river 」は、同じ概念と理解しても問題はないと思います。
なので、翻訳という作業が可能になります。
ところが、そのような一対一の対応ができない概念もあります。
「兄」と「 brother 」はイコールではない。
「兄」を英語で言うときには「 big brother 」として一単語では表せないわけです。
英和辞典を使うと、1つの単語に対して、色々な日本語の説明が出てきますし、
和英辞典を使えば、逆のことが起きます。
正確に同じ意味に対応しない概念が、他の言語には存在しているんです。
しかし、辞書というものは、その性質上、
意味の対応として近いものを示すことになっています。
いちいち日本語訳にしないで理解できるようになったとしても、
理解のための概念ネットワークが日本語用に作られている人にとっては、
英語の理解のためにも、そのネットワークが応用されてしまいやすいようです。
新しい単語を覚えるときに、どうしても日本語での理解の仕方が影響してしまう。
ここが大きなハードルになるように感じられます。
日本人が英語で言いたいことを考えた場合、
表現したい内容に対応する単語を記憶から探すことになります。
ところが、この「言いたいこと」の思い浮かび方が、すでに
日本語の影響を強く受けているんです。
自分の言い表わしたいことに対応する言葉を探そうとしても、
その感じに対応する正確な英単語がなかったりする。
また、辞書では同じ意味として出てくる単語だからと使ってみたら
ニュアンスの違いがあってネイティブには違和感があったりする。
日本語の単語と英語の単語を正確に対応させるのが難しいんです。
特に、英語は動詞が意味するニュアンスが詳細で、
動詞の使い分けだけで意味の違いを作ることが良くあるようです。
たとえば、日本語で「混ぜる」に対応する単語として
mix, blend, stir, scrumble, whisk, whip など
動作の状態や、動作によって起こる結果の違いによって
動詞が使い分けられます。
他にも日本では、「推測する」「推定する」「予測する」「仮説を立てる」
の間には大きな違いを意識することは少ないと思います。
仮に、「株価の動き〜」に対して付け加えることを考えても、
どれを当てはめても大きな意味の違いは出ないでしょう。
「株価の動き」は未来のことですから「予測する」が正確なのかもしれませんが、
「株価の動きを推測する」といえば、未来のこととして暗黙の了解で理解できます。
厳密な使い分けが必要ないのが、日本語の特徴ではないでしょうか。
ところが、英語では「 predict 」と「 guess 」に明確な違いがあるそうです。
「 predict 」には推測の根拠となる情報があって、
「 guess 」には、それがなく、普通の「〜じゃないかな?」という感じ。
「心配する」の意味も、「 be concerned about 」と「 be worried about 」とあって、
「 concerned 」のほうが根拠があって可能性の高い心配で、
「 worried 」のほうが漠然とした不安に近い心配なんだとか。
英語は、1つの単語が持つ意味が詳細に設定されているようです。
それに対して、日本語は1つの動詞が意味する範囲が広くて、
しかも同じような単語が複数あります。
なので、意味を正確に表現しようとすると、
他の単語で情報を加えていくことになります。
先ほどの「混ぜる」であれば、「ゆっくりと混ぜる」とか「素早く混ぜる」とか。
しかし、英語であれば、コーヒーの砂糖をゆっくり混ぜるときは「 stir 」です。
「コーヒーに砂糖を入れて」の後に
「ゆっくり」という言葉をつけて意味を丁寧に表現しておけば、
そのあとの単語は「混ぜる」でも「かき混ぜる」でも「撹拌する」でも
間違いじゃないんです。
でも英語は「 stir 」が普通。
英語は、そもそもが詳細な意味の違いを持った単語を使い分けて、意味の違いを表現し、
日本語は、単語に詳細な情報を付け加えていくことで、意味の違いを表現する。
こんな差があるように思います。
しかも、英語の単語は動詞を中心に作られています。
英語を始めとするラテン語系の言語には
単語の中にラテン語由来のものと、ゲルマン語由来のものが含まれますが、
この段階から動詞を派生させる形で単語が作られているようです。
おそらく、こうした動詞に対する細かな意味の違いの設定の仕方が
ラテン語系の特徴なんじゃないでしょうか。
少ない単語でニュアンスの違いを表現する前提がありそうな気がします。
その中心が動作を表現する動詞。
一方、日本語は状態を説明する言葉に細かい部分がありそうです。
修飾語、それも心情に関わるような表現が豊富じゃないかと感じます。
動作のバリエーションで説明するよりも、
状況を補足説明するように単語を付け加えて言い表わしていく。
さらに日本語の場合は、微妙な言い回しの差、たとえば助詞の使い方などで
メッセージを発信する人の伝えたい意図なども表現できます。
日本語と英語では、細かく表現しようとしている場所が違う、という話です。
これが日本人英語学習者にとってハードルの高いポイントの1つだと感じます。
英語を理解するときには、単純に辞書を使って
日本語の意味を利用して内容を把握するのでは理解度が不足しやすいでしょう。
それは英単語そのものの中に、微妙なニュアンスの違いが含まれるからです。
単純な日本語訳として出てくる単語の意味をつかって理解しようとすると
日本人からしたら情報が不足していて、何を言いたい文章なのか分からないことがある。
英語の単語が持つ細かな概念に敏感になると
英文を理解するのも、英会話を理解するのも、やりやすくなると推測しています。
逆に、英文を書いたり、英語を話す場合にも、
正確な単語の使い分けができるようになっていくと、
少ない単語数で必要な情報が伝えられるようになると思います。
どうしても日本人が英語の文章を作ろうとすると
メッセージの内容を状態として説明しようとして
修飾語を付け加えたくなる気がします。
日本語の感覚として、修飾語をつけて工夫して言い表わした意味が
実は英語だと一単語で言えてしまったりする。
この辺のボキャブラリーの違いに対応できると、伝わりやすくもなるんでしょう。
何より、動詞の感覚が難しい。
日本語は主語を使わないことで、説明内容を状態・状況として
少し客観的な言い回しで説明することが多いものです。
動作の主体が表現されないので、動作の躍動感が小さく、
状況を眺めて描写するような静止画の感じがある。
それが、英語の場合は、もっと動作の主体が明確です。
他動詞なんていうのは、その性質として
他者に影響を及ぼしているイメージが伴います。
このアクティブな動作の感じと、動作が影響していく様子とが
動画のような感じで捉えられるようになると
英語らしいシンプルな表現ができるんでしょう。
日本人の慣れていない部分だと思います。
動作と主体、影響を及ぼす感じ。
この辺の動詞中心のイメージをトレーニングする効果的な方法があると
日本人の英語学習も楽になるかもしれません。