2010年08月31日
信じること
ラポールは、よく「信頼関係」と説明されます。
「親密な」という前置きがつくこともあります。
「感情的な親密さ」という説明もあります。
しかしながら、僕は「信頼」と「親密さ」では
随分と大きな違いがあると思うんです。
「親密さ」というのは、親密さゆえに相手に対して率直になることがあります。
自分の気持ちをぶつけるときもある。
親密だからこそ、ケンカになるときもあるでしょう。
そして、親密さがあるからこそ発したメッセージが
相手にとっては不快なものとして受け取られることもあるはずです。
もし、取り返しのつかないコミュニケーションをしたことに対して
後悔した記憶があったとしたら、それは
相手に対して親密さを感じていたからじゃないかと考えられます。
親密さを感じていないような相手であれば、後悔さえしないでしょうから。
親密さを感じているから関係を崩すこともあるという話です。
一方、「信頼」は意味が違うと思います。
「信頼」や「信用」の言葉の意味は、人によって違うでしょうから
ハッキリと表現することは難しいんですが、
相手を「信じる」という意味を含むことにおいて
単なる「親密さ」とは全く別の部分があると思うんです。
相手を「信じる」のは、相手を「親密」に感じるよりも
はるかに大変な作業でしょう。
「信じている」つもりで、実際には
「期待している」だけだったり、
「心配している」だけだったり、
「疑うのをやめている」だけだったり、
色々な可能性が考えられます。
少なくとも「信じていたのに…」というガッカリがあったとしたら
それは「信じていた」とは言えないと思います。
「こうあって欲しい」と期待をしていて
それが満たされなくて残念だった。
また、不安だらけで心配なものだから、頑張って「信じよう」とする。
「きっと大丈夫、信じているから」と必死で言い聞かせる。
本当に「信じて」いたら、心配は出てこないでしょう。
根拠はないけど安心感さえあるかもしれません。
あるいは、よく分かっていないのに「信じている」つもりになる。
「どうせ大丈夫さ、こういうときは」と分かったつもり。
思い込みで対応をする。
目の前のことや相手を良く見ていない場合です。
分かっていないかどうかと自分を疑うことがない、
その意味では、自分を「信じている」のかもしれませんが。
本当に、相手のことを「信じる」のは大変だと思います。
その感じを知っている人も少ないかもしれません。
安定感があるような気がします。
自分の人生を「信じる」ことができているほど
まさに「自信」があるのだとしたら、
「自信」が安定感のように見受けられるのも納得できるかもしれません。
ただ、本当に「信じる」ということは難しいとしても、
「信じ」始めている人は、積極的に「信じよう」とするんじゃないでしょうか。
本当は個人的に、その人に対して「こうして欲しい」と期待しているところもある。
けど、それを押しつけることはなく、
その人が好きにしようとすることを受け入れようとする。
自分の期待とは違う選択に対しても、不満を出さずに、応援しようとする。
本当は、その人のことを心配する気持ちが無いわけではない。
でも、それを出さないようにする。
「それで大丈夫なんだろうか?」という疑問が沸いてしまう部分があっても
「大丈夫」という気持ちのほうを優先する。
「信じたい」気持ちの強さが、話を聞くという行為に繋がる。
相手を分かろうとするから、話を聞く。
「大丈夫」の気持ちを高めるために。
その逆は、こういうことです。
心配な相手を
自分が期待している安心できる形にさせるために
分かったつもりで対応しようとする
それよりも、僕はこっちのほうが「信じる」ことに積極的だと思います。
相手は大丈夫だと思っているけれども心配してしまう自分が少しあるから
自分が予想・期待していた方向とは違う結果が、相手にとって素晴らしいと思えるよう
相手を分かることができていない自分を納得させるために、ただ話を聞く
自分の期待と自分の気持ちのために、相手を変えようとするか。
相手のために、自分の気持ちを変えようとするか。
誰か一人でも、自分のことを本当に「信じて」くれる人がいたら、
それは幸せなことでしょう。
自分のことを「信じよう」と頑張ってくれる人が身の回りにいるだけでも
とても幸せなことだと思います。
僕は、人に関して信じていたいことがあるんです。
なので、それを邪魔するような考え方や心構え、NLPや心理学の理論などがあれば、
堂々とそれを疑います。
間違いだと言ってやりたくなるんです。
「親密な」という前置きがつくこともあります。
「感情的な親密さ」という説明もあります。
しかしながら、僕は「信頼」と「親密さ」では
随分と大きな違いがあると思うんです。
「親密さ」というのは、親密さゆえに相手に対して率直になることがあります。
自分の気持ちをぶつけるときもある。
親密だからこそ、ケンカになるときもあるでしょう。
そして、親密さがあるからこそ発したメッセージが
相手にとっては不快なものとして受け取られることもあるはずです。
もし、取り返しのつかないコミュニケーションをしたことに対して
後悔した記憶があったとしたら、それは
相手に対して親密さを感じていたからじゃないかと考えられます。
親密さを感じていないような相手であれば、後悔さえしないでしょうから。
親密さを感じているから関係を崩すこともあるという話です。
一方、「信頼」は意味が違うと思います。
「信頼」や「信用」の言葉の意味は、人によって違うでしょうから
ハッキリと表現することは難しいんですが、
相手を「信じる」という意味を含むことにおいて
単なる「親密さ」とは全く別の部分があると思うんです。
相手を「信じる」のは、相手を「親密」に感じるよりも
はるかに大変な作業でしょう。
「信じている」つもりで、実際には
「期待している」だけだったり、
「心配している」だけだったり、
「疑うのをやめている」だけだったり、
色々な可能性が考えられます。
少なくとも「信じていたのに…」というガッカリがあったとしたら
それは「信じていた」とは言えないと思います。
「こうあって欲しい」と期待をしていて
それが満たされなくて残念だった。
また、不安だらけで心配なものだから、頑張って「信じよう」とする。
「きっと大丈夫、信じているから」と必死で言い聞かせる。
本当に「信じて」いたら、心配は出てこないでしょう。
根拠はないけど安心感さえあるかもしれません。
あるいは、よく分かっていないのに「信じている」つもりになる。
「どうせ大丈夫さ、こういうときは」と分かったつもり。
思い込みで対応をする。
目の前のことや相手を良く見ていない場合です。
分かっていないかどうかと自分を疑うことがない、
その意味では、自分を「信じている」のかもしれませんが。
本当に、相手のことを「信じる」のは大変だと思います。
その感じを知っている人も少ないかもしれません。
安定感があるような気がします。
自分の人生を「信じる」ことができているほど
まさに「自信」があるのだとしたら、
「自信」が安定感のように見受けられるのも納得できるかもしれません。
ただ、本当に「信じる」ということは難しいとしても、
「信じ」始めている人は、積極的に「信じよう」とするんじゃないでしょうか。
本当は個人的に、その人に対して「こうして欲しい」と期待しているところもある。
けど、それを押しつけることはなく、
その人が好きにしようとすることを受け入れようとする。
自分の期待とは違う選択に対しても、不満を出さずに、応援しようとする。
本当は、その人のことを心配する気持ちが無いわけではない。
でも、それを出さないようにする。
「それで大丈夫なんだろうか?」という疑問が沸いてしまう部分があっても
「大丈夫」という気持ちのほうを優先する。
「信じたい」気持ちの強さが、話を聞くという行為に繋がる。
相手を分かろうとするから、話を聞く。
「大丈夫」の気持ちを高めるために。
その逆は、こういうことです。
心配な相手を
自分が期待している安心できる形にさせるために
分かったつもりで対応しようとする
それよりも、僕はこっちのほうが「信じる」ことに積極的だと思います。
相手は大丈夫だと思っているけれども心配してしまう自分が少しあるから
自分が予想・期待していた方向とは違う結果が、相手にとって素晴らしいと思えるよう
相手を分かることができていない自分を納得させるために、ただ話を聞く
自分の期待と自分の気持ちのために、相手を変えようとするか。
相手のために、自分の気持ちを変えようとするか。
誰か一人でも、自分のことを本当に「信じて」くれる人がいたら、
それは幸せなことでしょう。
自分のことを「信じよう」と頑張ってくれる人が身の回りにいるだけでも
とても幸せなことだと思います。
僕は、人に関して信じていたいことがあるんです。
なので、それを邪魔するような考え方や心構え、NLPや心理学の理論などがあれば、
堂々とそれを疑います。
間違いだと言ってやりたくなるんです。