2011年04月04日
貢献したい気持ち
「役に立つかどうか」は、僕にとって重要な視点になっています。
ですが、僕にとって重要なのは「『その人にとって』役に立つかどうか」なので
多くの人に役立つとか、誰か他の人の役に立つとかは
あまり重要視していないところがあります。
個人の中で、全体として役に立つかどうか、が重要なんです。
『全体として見たときに』というのが大切です。
「貢献する」というのは、僕にとって、さほど重要じゃないようです。
他の人にとって無駄に思えることでも、本人にとって「役に立つ」のであれば
それは大切なことだと思います。
表現が難しいんですが、
『情けは人のためならず』
の感じが近いでしょうか。
先日、外で耳に入ってきた会話でチョット気になったことがあります。
若い男性と女性の二人組でした。
職場の先輩後輩といった印象。
女性のほうはトレーニングウェアを着ていましたし、
2人の背筋の伸び方、首筋の安定感から判断しても
スポーツ関係の仕事をしていそうなことが想像できました。
おそらく、どこかのジムのインストラクターだろうと思います。
で、女性のほうが、こんなことを言っていたんです。
「災害があってから、この仕事が全然役に立てないって分かって…。
被災地に行ったって、一番無駄な気がするし。
逆に無駄にお腹すかせちゃうじゃない?
だから今度、整体の勉強しに行くの」
僕は、したいようにすれば良いと思いますが、
気になったのは、その言葉を発するときの声の印象でした。
何か悲壮感があるというか、深刻さがあるというか、
自分の無力を嘆くような雰囲気を感じました。
無力感がキッカケになって、乗り越えるための何かに取り組み始める。
これは良くあることです。
そうやって人生が切り開かれるケースは少なくないでしょう。
このプロセスには後悔が含まれます。
何もできない自分の無力さを感じ、もう二度とこんな想いはしたくない、と
新たな決意をするわけです。
このモチベーションは非常に強いものです。
人を駆り立てます。
気になるのは、その女性インストラクターらしき人が
どういう経験から、その決意に至ったのかという部分です。
まぁ、スポーツインストラクターが整体を学ぶこと自体は、
結果的に多くの場面で新しい視点を取り入れることになって
インストラクターとしての技術を向上させるでしょうから、
そのことは動機とは無関係に僕もオススメしたいことではあります。
が、その気持ちの動きが何に起因するのかが気がかりです。
もし、目の前で苦しむ誰かを見たとか、知り合いが被災したとか、
そんな直接的な心への衝撃によって無力感を感じたとしたら、
それは駆り立てられるものがあっても当然だと思います。
一方、もしテレビで被災地を見てだとか、
「何か自分にできることはないか」と義務感を覚えてだとか、
『〜しなければならない』の気持ちから無力さを感じたのだとしたら
それは少し注意が必要な気がします。
そこには「役に立たなければならない」や
「被災者の助けになることをしなければならない」、
「日本のために自分のできることをしなければならない」などの
強制に近いメッセージを受け取っている可能性があるからです。
無力感を感じる理由が、社会的なプレッシャーにあるとしたら
それは自分を苦しめることになると思います。
しかも、スポーツのインストラクターに罪悪感を伴いながら仕事をしていたら
それを利用している人たちにも何らかの影響があるかもしれません。
現実的には、ストレスを抱える人が多くいる中で
体を動かす機会を提供しているのは役立っているはずですが、
「災害に対して直接的に役立っているかどうか」
という基準で見てしまうんじゃないでしょうか。
そういう判断基準を強要されていたのだとしたら、
そのインストラクターらしき人も二次的・三次的な災害を被っている、
と言って良いんじゃないかと思います。
災害の状況に対して役立つことが「良いこと」であるという
強烈な価値の強制が広がっているように感じられます。
「世界に1つだけの花」に見受けられるように
一人ひとり違った価値があって、皆それぞれ素晴らしい
と価値の多様性を謳っておきながら、
1つの価値に強制している風潮には注意が必要かもしれません。
ちなみに僕は、
自分の好きなことをするのが
最終的には世の中にとって最も意味のあることだ
と思っていますから、好きなことを続けるつもりです。
多分、僕が「貢献」という発想を好まないのは、
その「貢献」の判断基準が量的に決められがちな印象を受けるからです。
多くの人に「貢献」できるほうが意義深いとか、
どれだけ重要な役割として「貢献」できるかどうかとか、
「貢献」の判断基準が、程度に反映される気がするからです。
言ってみれば、
多額の募金のほうが、少ししか募金しないよりも価値がある
というのに近い印象を受けるんです。
社会的な、他者視点の価値基準が含まれていそうな気するんです。
社会で人と接しながら生活をしていれば
貢献していない人はいないと思います。
社会全体で見れば、違う形で役立っているんだと思います。
(個人的に、運動は、かなり直接的に役立つ部類だと思いますが…)
一見すると無駄に思えるものが、人の心の支えになっていたりするものです。
無駄なものに価値を見つけられる仕組みが、
その人全体のバランスを整えるのに役立っているんです。
色々なことに価値を見いだせるのは豊かなことじゃないでしょうか。
ですが、僕にとって重要なのは「『その人にとって』役に立つかどうか」なので
多くの人に役立つとか、誰か他の人の役に立つとかは
あまり重要視していないところがあります。
個人の中で、全体として役に立つかどうか、が重要なんです。
『全体として見たときに』というのが大切です。
「貢献する」というのは、僕にとって、さほど重要じゃないようです。
他の人にとって無駄に思えることでも、本人にとって「役に立つ」のであれば
それは大切なことだと思います。
表現が難しいんですが、
『情けは人のためならず』
の感じが近いでしょうか。
先日、外で耳に入ってきた会話でチョット気になったことがあります。
若い男性と女性の二人組でした。
職場の先輩後輩といった印象。
女性のほうはトレーニングウェアを着ていましたし、
2人の背筋の伸び方、首筋の安定感から判断しても
スポーツ関係の仕事をしていそうなことが想像できました。
おそらく、どこかのジムのインストラクターだろうと思います。
で、女性のほうが、こんなことを言っていたんです。
「災害があってから、この仕事が全然役に立てないって分かって…。
被災地に行ったって、一番無駄な気がするし。
逆に無駄にお腹すかせちゃうじゃない?
だから今度、整体の勉強しに行くの」
僕は、したいようにすれば良いと思いますが、
気になったのは、その言葉を発するときの声の印象でした。
何か悲壮感があるというか、深刻さがあるというか、
自分の無力を嘆くような雰囲気を感じました。
無力感がキッカケになって、乗り越えるための何かに取り組み始める。
これは良くあることです。
そうやって人生が切り開かれるケースは少なくないでしょう。
このプロセスには後悔が含まれます。
何もできない自分の無力さを感じ、もう二度とこんな想いはしたくない、と
新たな決意をするわけです。
このモチベーションは非常に強いものです。
人を駆り立てます。
気になるのは、その女性インストラクターらしき人が
どういう経験から、その決意に至ったのかという部分です。
まぁ、スポーツインストラクターが整体を学ぶこと自体は、
結果的に多くの場面で新しい視点を取り入れることになって
インストラクターとしての技術を向上させるでしょうから、
そのことは動機とは無関係に僕もオススメしたいことではあります。
が、その気持ちの動きが何に起因するのかが気がかりです。
もし、目の前で苦しむ誰かを見たとか、知り合いが被災したとか、
そんな直接的な心への衝撃によって無力感を感じたとしたら、
それは駆り立てられるものがあっても当然だと思います。
一方、もしテレビで被災地を見てだとか、
「何か自分にできることはないか」と義務感を覚えてだとか、
『〜しなければならない』の気持ちから無力さを感じたのだとしたら
それは少し注意が必要な気がします。
そこには「役に立たなければならない」や
「被災者の助けになることをしなければならない」、
「日本のために自分のできることをしなければならない」などの
強制に近いメッセージを受け取っている可能性があるからです。
無力感を感じる理由が、社会的なプレッシャーにあるとしたら
それは自分を苦しめることになると思います。
しかも、スポーツのインストラクターに罪悪感を伴いながら仕事をしていたら
それを利用している人たちにも何らかの影響があるかもしれません。
現実的には、ストレスを抱える人が多くいる中で
体を動かす機会を提供しているのは役立っているはずですが、
「災害に対して直接的に役立っているかどうか」
という基準で見てしまうんじゃないでしょうか。
そういう判断基準を強要されていたのだとしたら、
そのインストラクターらしき人も二次的・三次的な災害を被っている、
と言って良いんじゃないかと思います。
災害の状況に対して役立つことが「良いこと」であるという
強烈な価値の強制が広がっているように感じられます。
「世界に1つだけの花」に見受けられるように
一人ひとり違った価値があって、皆それぞれ素晴らしい
と価値の多様性を謳っておきながら、
1つの価値に強制している風潮には注意が必要かもしれません。
ちなみに僕は、
自分の好きなことをするのが
最終的には世の中にとって最も意味のあることだ
と思っていますから、好きなことを続けるつもりです。
多分、僕が「貢献」という発想を好まないのは、
その「貢献」の判断基準が量的に決められがちな印象を受けるからです。
多くの人に「貢献」できるほうが意義深いとか、
どれだけ重要な役割として「貢献」できるかどうかとか、
「貢献」の判断基準が、程度に反映される気がするからです。
言ってみれば、
多額の募金のほうが、少ししか募金しないよりも価値がある
というのに近い印象を受けるんです。
社会的な、他者視点の価値基準が含まれていそうな気するんです。
社会で人と接しながら生活をしていれば
貢献していない人はいないと思います。
社会全体で見れば、違う形で役立っているんだと思います。
(個人的に、運動は、かなり直接的に役立つ部類だと思いますが…)
一見すると無駄に思えるものが、人の心の支えになっていたりするものです。
無駄なものに価値を見つけられる仕組みが、
その人全体のバランスを整えるのに役立っているんです。
色々なことに価値を見いだせるのは豊かなことじゃないでしょうか。