2011年11月09日

日本人らしさを身につけたい

日本語以外のことを積極的に身につけようとすると、
自分が日本語でも出来ていなかったことに気づくことができます。

例えば、英語で「 fair 」という単語の意味は「公平な、公正な」という具合い。
「 equal 」という単語の意味は「等しい、平等な」という感じ。

この日本語訳の意味自体は知っていました。
「 fair 」といえば、むしろ「フェア」というカタカナの日本語で対応して
特にしっかりと日本語訳をするまでもなく分かっているつもりでした。

「 fair 」も「 equal 」も、なんとなく使い分けられるつもりでいました。

しかし、「 fair 」や「 equal 」を、「公平」・「平等」という価値と結びつけると
その中身に対してシッカリとした理解をしていなかったと気づいたんです。

僕にとって、「公平(フェア)」と「平等」は、大きな違いを意識していませんでした。

こうやって書いてみると、「公平」と「平等」は使いどころが違うのは分かります。
「平等な審査」とは言いませんが、「公平な審査」とは言います。

「公平な」としてしか言わない場面には自覚があっても
「平等」という言葉しか相応しくない場面には意識が低かったんです。

なんとなく、どっちも「対等」というか、「差が無い」感じのイメージ。

「平等な権利」という言い方は普通な気がしますし、
「公平な権利」といっても、なんとなく違和感がなかったんです。

ただ、「公平」ということの意味を考えてみると
その反対に「不公平」とか「ズルイ」というニュアンスを思い描きますから、
「特定の人や物事にとってだけ有利ということがない」のが「公平」なんでしょう。

「平等」は、逆に、「なんらかの要因だけで、不利益をもたらされることがない」
といった感じじゃないかと思います。
仮に「女性というだけで出世できない」としたら、それは「平等ではない」と。

そして、「平等」も「公平」も、「対等」とは意味が違うはずです。


いずれも辞書で調べたわけではありませんから正確かどうかは不明です。
また、辞書の定義が正しいとも言い切れない気もします。

コミュニケーションにおいて、より重要なのは
本人がその言葉の意味をどのように理解しているかでしょうから。

その意味でいうと、僕は「平等」も「公平」も「対等」も、あまり意識しておらず
適当にしか言葉の意味を理解していなかったわけです。

それは僕が、そのあたりの概念を、あまり重視していない
ということが関係していそうです。

アメリカであれば、差別や格差が重要な問題として取り上げられる国柄ですから、
誰かが不当な不利益を被ることや、誰かが不当に有利にしていることを
「悪いこと」として捉える背景があるような気がします。

少し角度を変えて捉えると、「他者との比較を詳細に見ている」
ということにもなるかもしれません。

日本人は、他人と自分を比較して「うらやましい」と思ったり、
「卑屈」になったりしやすいイメージがありますが、
その比較の仕方は、かなりいい加減だと思います。

自分と、他者の一局面だけを比べて、気持ちを動かしている。

一方、欧米文化では、その比較の条件をしっかりと吟味して
どこに、どのように、どんな差があるのかを理解しようとする傾向がありそうです。

だからこそ、「平等」や「公平」という比較に敏感なんじゃないか、ということです。


ちなみに、僕が良く理解できていなかった事例は、こんな感じ。

そのときに話していた内容は、
 「ネット上で学校の授業を受けるのは良いか、悪いか」
といったテーマです。

で、アメリカ育ちの人が
 「色々な人が勉強できるようになるので、良い」
と答えたんです。

 「例えば、家が学校から遠くて通いきれない人も勉強できる。
 それに、体に障害があって通学が困難な人も自宅で勉強できる。」
というような説明でした。

それを聞いたとき、僕は
 「この人が説明している価値観は『公平さ』か」
と思ったんです。
で、確認をしてみました。

そしたら、「うーん…」と唸った後、「平等っていうことですか?」と。

確かに、良く考えてみると、その人が挙げた例というのは
「生まれながらの条件のために、教育が困難になることが無い」といった
「特定の要因だけで不利益を被らない」意味で、「平等」なんでしょう。

しかし、その時点まで、僕は「平等」と「公平」の違いを意識していませんでした。

それがアメリカ育ちの人にとっては、大きな違いに感じられたようなんです。


このあたりの差に欧米人のほうが敏感な理由として、
1つには上に挙げたように、そのことを意識しやすい文化背景がある
ということが考えられるはずです。

その価値そのものを重視している、と。
「平等さ」や「公平さ」が大事だという話です。

もう1つの大きな理由は、言語的な特徴の違いです。

日本語は、状況を説明することを中心とした言語、
英語(ラテン語系統)は、プロセスの説明を中心とした言語、
という違い。

ある人は、これを
「日本語は、大きな枠組みの中から意識し始め、中心に意識を向けていく」
「英語は、中心から外側の大きな枠組みに向かって意識を広げていく」
と説明していました。

だから住所の説明の順序が
「東京都中央区銀座1−1」と
「1−1Ginza、chuou−ku、Tokyo」
という具合に逆転するんだ、と。

まぁ、その意識の向け方の順番だけでは説明がつかない気もしますが、
少なくとも英語では「プロセスワード」の重要度が高いんです。

「プロセスワード」というのは、「動詞、形容詞、副詞」からなっていて
「述語と修飾語」からなる、とも言えます。

プロセスワードを、別名で「叙述語」と言います。

プロセスワードこそが、「どのように」作用しているかを説明するんです。
ここが英語で「 How 」を重視する理由でしょう。

日本は「 5W1H 」と言いながら、実際には「 How 」の比率が極端に弱いはずです。

「いつ、どこで、誰が、何を、なぜ」は意識できても、「どのように」が弱い。
「いつ、どこで、誰が、何を」は、完全に状況を説明しています。
静止画に近いんです。

一方、英語では動詞や形容詞、副詞(つまりプロセスワード)を使って
「どのような作用が働いていたか」を中心に説明する傾向があります。
こちらのほうが動画に近いんです。

じゃあ、日本語に「どのように」に対応する言葉が無いかというと、
決してそんなことはなく、あっても滅多に使われないというのが実態でしょう。

その代わりとして多用されるのが『擬態語』と『擬音語』です。
「どのように」を説明するときに、擬態語が使われることが多い印象があります。

「簡単に」ということが「サッサと」になったり、
「効率的に」ということが「テキパキと」になったり、
「秘密で」ということが「コッソリ」になったり。

英語のほうが、このあたりの「どのように」を説明する言葉が使われやすく、
動詞の単語そのものに「どのように」の違いが含まれているケースも多いようです。


もう1つの違いが、「物事を評価するときの基準」でしょう。

日本人のほうが個人的な好みに繋げて判断をしやすい。
掘り下げていくと、最終的には「好き・嫌い」のレベルになってしまう。

一方、欧米人では(特に論理的な説明を求められた場合)
社会的な意義やメリットに繋げて判断をするようです。
掘り下げていくと、最終的には「善・悪」や「正・誤」のレベルに繋がる。

例えば、家事用のお助けグッズの同じものを使ったときの感想でも
「楽ちん!」というのは、自分の気持ちに意識が向いていますし、
「便利!(多くの主婦の助けになるだろう)」というのは一般論に意識が向いています。

倫理や道徳、正義というのは、個人の好みとは無関係に
社会にとって、それが良いことかどうかを判断するときの発想のようです。

その視点は、日本人にとって馴染みの薄いもののような気がします。
少なくとも、教育上は中心になっていないと思うんです。

相手の身になって考えてみましょう、という二人称の視点は教育されても、
社会にとって良いか悪いかを考えてみましょう、という三人称の視点は
あまり日本では教育されていないと思います。

そのため、価値判断の基準は、個人の好みに拠りやすいんでしょう。

「公平」や「平等」といった価値判断は、個人というよりも
一般論として判断するための視点だと言えますから、
その意味でも、日本人は意識しにくいところじゃないかと感じます。


文化的、歴史的に意識されにくい発想であっても
他の文化の人たちにとって重要な概念であるものが沢山あると思います。

言語的にも、日本人にとって注目しにくい概念があるようですが、
それでも訓練によって意識できるようになっていくことも可能でしょう。

個人を超えた第三者的な、社会一般の視点に目を向けることも
日々を生きていくうえで求められる場面があるかもしれません。

欧米人と比べて、日本人には注目しにくい部分があるんだと実感します。

逆に言えば、欧米人にも、日本人なら当然のように注目する部分で
意識が向きにくいところがあるはずです。

この違いが、生活やコミュニケーションのスタイルに表れている気がします。

表面的にその違いを埋めようとしても、意識の向け方の違いまでは
簡単に変わるものではないと予想します。

その意識の向け方を、どっちつかずに変えてしまうと
日本人でも欧米人でもない中間的な人になってしまうんじゃないでしょうか。

どちらもシッカリと意識できるようになれて、
使い分けができるのが望ましいんでしょう。

少なくとも、違いを理解したうえで、それを理解しようとして関わっていければ
お互いに歩み寄ることは可能だと思います。

まずは、日本人ということへの理解を深め、
日本人が得意な分野を強められるようにすることが大事な気がしました。

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細は後日


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



ホームページ
バナー1


プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
Archives
最近のコメント
QRコード
QRコード