2012年07月20日
心を読んだり操ったり
どうも最近は『超能力』は好かれないみたいです。
どちらかというとスピリチュアルな方向に行くか
逆に多少なりとも科学的な匂いのする方向に行くか、
そんな傾向が流行りからは見て取れる気がします。
超能力っていうのは、もしかすると中途半端なのかもしれません。
いっそのこと科学には知る由もない世界に説明を求めるか
逆に科学に説明を求めるか。
とはいえ、マスメディアでアピールされる科学っぽいヤツは
科学の雰囲気を使って、「これは科学なんだ」という”妄想”に
多くの人を導こうとするような印象も否定できませんが。
僕は自分を結構、科学よりのほうだと思っているので
科学という知恵の集大成を人類の財産だと感じるところがあって、
だからこそ、できる限り科学的に説明をしたいという願望が生まれます。
また、科学の基本的なスタンスは「上手に疑う」ことだ考えていますから
僕は「信用するためにこそ疑う」立場を大切だと思いますし、
科学で説明でいないことは「分からない」と堂々と言いたいんです。
分からないことを適当な理論で無理やり説明するよりも
「上手く説明できないから、”まだ”分かりません」
と言い切れるほうが、よっぽど誠実だと思うんです。
ちなみにオンラインの辞書で「懐疑主義」を調べたら
「 healthy skepticism 」や「 sound skepticism 」(健全な懐疑主義)
「 sympathetic skepticism 」(共感的懐疑主義)
なんていう素敵な言葉が見つかりました。
それで、そのような発想を持っていると
テレビで見かける内容には、素直に楽しめないものが沢山あるんです。
特に、人の心が分かったり操れたりするのは
マジックを見ているようで楽しいですが、
それを大袈裟に解釈して放送されると途端に、僕の心の中へ
「健全な懐疑主義」が登場してきます。
もし、本当に人の心が分かるんだとしたら
テレビ業界の人たちの複雑な心の奥底が全て見えてしまって
そのストレスは計り知れないものじゃないでしょうか。
ショービジネスの世界の裏側や実態は分かりませんが、
あれだけ巨額の金銭が動く世界には、勝手に色々な事情を想像してしまいます。
また、ストレスから引退する人、病気になる人、代替手段を求める人…
そういったニュースを見ていても、大変な世界ではないかと感じます。
もちろん、そういうイメージに僕が振り回されていて
現実は、すごく居心地の良い、ストレスとは無縁の世界という可能性もあるでしょう。
ですが、平均的な会社組織や地域のコミュニティと比べたら
いくらかは複雑でストレスフルな世界なんじゃないかという印象は受けます。
だとすると、その世界の中で”本当に人の心が分かる”としたら
一体どれだけのことを知らなければいけなくなるのでしょう?
知りたくないことが、あまりにも膨大に流れ込んでくるんじゃないかと思います。
テレビ業界も平均的な会社組織と同程度のストレス度合いだったとしても
”本当に人の心が分かる”人には、十分に苦しいことでしょう。
もし”本当に心が読める”んだとしたら、
苦し過ぎてテレビになんて出られないんじゃないか?
…そんな疑問が、可能性の1つとして僕には浮かんでくるわけです。
もしくは、”読める”部分がホンの一部に過ぎなくて
大部分は分かっていないからストレスを感じないのか。
この可能性も否定できません。
あるいは、”他人の心は読める”けれど
「自分の心を感じ取るのは非常に苦手」で
自分が体験しているはずの苦しさに気づいていないのか。
また、”他人の心が分かって”
それでもなお、全ての人を平等に心の底から愛せるかもしれません。
全てが分かり、全てを許し、全てを受け入れている。
そういう”悟り”の境地のような人物だという可能性もあるでしょう。
まぁ、最後の可能性は低いような気がしますが…。
もし僕が人の心を読めたとしたら
そのことを伝える相手は、ほんの一部だと思います。
伝えたときに相手がどんな反応をするかも読めるわけですから、
心を読まれていることを知っていても気にせずに
オープンに素直に接してくれると分かった相手にだけ
そのことを伝えるんじゃないかという気がします。
少なくとも、心を読まれていることを知っていて
そのことに抵抗があったとしても、変わらず接しようと努力してくれる人でなければ
そのことを伝えようとはしないんじゃないでしょうか。
もしかすると、そういうのが相手を信頼するということかもしれません。
もし僕が人の心を操れたら
好きなだけチヤホヤしてもらえるように大勢を操って、
好きなだけお金が使えるように誰かを操って、
何もかも思い通りになる生活をして…
…それで数カ月後に嫌になって、自暴自棄になると思います。
他人の心は操れるのに、
自暴自棄になってしまった自分の心は、どうしようもない。
そして、きっとこう思うんでしょう。
「思い通りに”自分の心”が操れたら…」
って。
正確にいえば、僕にはそのことが予測できているから
そんなことは絶対にしませんし、したいとも思わないわけなんですが。
どちらかというとスピリチュアルな方向に行くか
逆に多少なりとも科学的な匂いのする方向に行くか、
そんな傾向が流行りからは見て取れる気がします。
超能力っていうのは、もしかすると中途半端なのかもしれません。
いっそのこと科学には知る由もない世界に説明を求めるか
逆に科学に説明を求めるか。
とはいえ、マスメディアでアピールされる科学っぽいヤツは
科学の雰囲気を使って、「これは科学なんだ」という”妄想”に
多くの人を導こうとするような印象も否定できませんが。
僕は自分を結構、科学よりのほうだと思っているので
科学という知恵の集大成を人類の財産だと感じるところがあって、
だからこそ、できる限り科学的に説明をしたいという願望が生まれます。
また、科学の基本的なスタンスは「上手に疑う」ことだ考えていますから
僕は「信用するためにこそ疑う」立場を大切だと思いますし、
科学で説明でいないことは「分からない」と堂々と言いたいんです。
分からないことを適当な理論で無理やり説明するよりも
「上手く説明できないから、”まだ”分かりません」
と言い切れるほうが、よっぽど誠実だと思うんです。
ちなみにオンラインの辞書で「懐疑主義」を調べたら
「 healthy skepticism 」や「 sound skepticism 」(健全な懐疑主義)
「 sympathetic skepticism 」(共感的懐疑主義)
なんていう素敵な言葉が見つかりました。
それで、そのような発想を持っていると
テレビで見かける内容には、素直に楽しめないものが沢山あるんです。
特に、人の心が分かったり操れたりするのは
マジックを見ているようで楽しいですが、
それを大袈裟に解釈して放送されると途端に、僕の心の中へ
「健全な懐疑主義」が登場してきます。
もし、本当に人の心が分かるんだとしたら
テレビ業界の人たちの複雑な心の奥底が全て見えてしまって
そのストレスは計り知れないものじゃないでしょうか。
ショービジネスの世界の裏側や実態は分かりませんが、
あれだけ巨額の金銭が動く世界には、勝手に色々な事情を想像してしまいます。
また、ストレスから引退する人、病気になる人、代替手段を求める人…
そういったニュースを見ていても、大変な世界ではないかと感じます。
もちろん、そういうイメージに僕が振り回されていて
現実は、すごく居心地の良い、ストレスとは無縁の世界という可能性もあるでしょう。
ですが、平均的な会社組織や地域のコミュニティと比べたら
いくらかは複雑でストレスフルな世界なんじゃないかという印象は受けます。
だとすると、その世界の中で”本当に人の心が分かる”としたら
一体どれだけのことを知らなければいけなくなるのでしょう?
知りたくないことが、あまりにも膨大に流れ込んでくるんじゃないかと思います。
テレビ業界も平均的な会社組織と同程度のストレス度合いだったとしても
”本当に人の心が分かる”人には、十分に苦しいことでしょう。
もし”本当に心が読める”んだとしたら、
苦し過ぎてテレビになんて出られないんじゃないか?
…そんな疑問が、可能性の1つとして僕には浮かんでくるわけです。
もしくは、”読める”部分がホンの一部に過ぎなくて
大部分は分かっていないからストレスを感じないのか。
この可能性も否定できません。
あるいは、”他人の心は読める”けれど
「自分の心を感じ取るのは非常に苦手」で
自分が体験しているはずの苦しさに気づいていないのか。
また、”他人の心が分かって”
それでもなお、全ての人を平等に心の底から愛せるかもしれません。
全てが分かり、全てを許し、全てを受け入れている。
そういう”悟り”の境地のような人物だという可能性もあるでしょう。
まぁ、最後の可能性は低いような気がしますが…。
もし僕が人の心を読めたとしたら
そのことを伝える相手は、ほんの一部だと思います。
伝えたときに相手がどんな反応をするかも読めるわけですから、
心を読まれていることを知っていても気にせずに
オープンに素直に接してくれると分かった相手にだけ
そのことを伝えるんじゃないかという気がします。
少なくとも、心を読まれていることを知っていて
そのことに抵抗があったとしても、変わらず接しようと努力してくれる人でなければ
そのことを伝えようとはしないんじゃないでしょうか。
もしかすると、そういうのが相手を信頼するということかもしれません。
もし僕が人の心を操れたら
好きなだけチヤホヤしてもらえるように大勢を操って、
好きなだけお金が使えるように誰かを操って、
何もかも思い通りになる生活をして…
…それで数カ月後に嫌になって、自暴自棄になると思います。
他人の心は操れるのに、
自暴自棄になってしまった自分の心は、どうしようもない。
そして、きっとこう思うんでしょう。
「思い通りに”自分の心”が操れたら…」
って。
正確にいえば、僕にはそのことが予測できているから
そんなことは絶対にしませんし、したいとも思わないわけなんですが。