2012年07月28日
意識と意思
心理学的に『意識』という単語の意味は
「内的・外的な体験に対して気づいていること」
となります。
五感を通じた外的世界の感覚体験に対する自覚、
体の内側の身体反応や運動に関する感覚体験に対する自覚、
自己という存在に対する自覚、
自分の頭の中で思考が進んでいることへの自覚(メタレベルの自覚)
などが意識の内容とされます。
つまり、「意識」は「意図」や「意志」、「随意」とは違います。
アイデンティティの意味で使われる「自我」は含まれるかもしれませんが
全てが意識の内容とも言えないでしょう。
自覚している範囲が『意識』というのが基本的な考え方。
その意味では、『意識』は形容詞として
『意識している』という使い方がベースになるものなわけです。
当然、『無意識』というのも「 unconscious 」ですから
『意識していない』という使い方が基本のはずです。
ただ、フロイトのニュアンスに近づけると
「意識できない」
という使い方になってきて、
また、それと関連する状態として、
「意識していないときもあるけど、意識するときもあって、
意識しようとすればできる」
レベルのものとして『前意識』というのがあります。
ですから、フロイト以来
『意識』や『無意識』というのは、本人が体験する状態であって
心の機能ではないはずなんです。
「意識している状態」、「無意識の状態」…そんなニュアンス。
ところが、特に日本語では使われ方が曖昧になりやすくて
さらに『潜在意識』なんていう言葉が追加されると
その辺の用語の使い方はグチャグチャになります。
『潜在意識』といったときには、『顕在意識』という”心の部分”があって
その対義語として、「顕在意識以外の”心の部分”」の意味で使われるようです。
その言い方だと、さらにユングの集合無意識まで含まれることもあって、
「顕在意識」以外の心の部分には、個人の心の部分を超えたものも含まれて、
とにかく、物凄く大きな領域の”心の部分”といった意味が出たりもします。
おそらく、その意味合いの影響もあるからでしょう。
日本語で『無意識』というと、本来の心理学的な「 unconsciousness 」、
つまり「意識している状態ではないこと」の意味から離れて、何か
「自分の知らないところで勝手に進んでいる”心の機能”や、その”心の部分”」
といった感じが出ているようです。
催眠、自己啓発、NLP、一部の心理療法、ある種のコーチングなどでは
明らかに『意識』や『無意識』は”状態”ではなく、”心の機能”の意味になっている。
「意識でコントロールする」
「無意識に〜してしまう」
「無意識を信頼する」
といった表現は、そうした使い方の例です。
例えば、
「無意識に食べてしまう」
「無意識で怒りが沸いてくる」
と言ったとしたら、それは心理学の意味からするとズレているわけです。
食べていることは自覚していますし、
怒りが沸いてきているのも自覚していますから、
そのことを「意識はしている」はずなんです。
一方、「無意識に笑っていた」とか「無意識に頭をかいていた」なら
他人から指摘されて初めて「それを意識している状態」になりますから、
その場合の使い方はありえなくもないでしょう。
つまり、
気づいているか/気づいていないか
自覚しているか/自覚していないか
が『意識』か『無意識』かの境目であって、
自分が意図的にそうしたか/意図せずにしていたのか
随意的な動作か/不随意の動作か
自分がやろうと思ってやったか/勝手にやっていたか
は、『意識』や『無意識』とは関係ない、ということです。
実際、エリクソンは「 conscious mind 」や「 unconscious mind 」と呼んでいて
僕の催眠の先生もきちんと、「意識の心」、「無意識の心」と呼んでいました。
自分が意識している心の部分と、意識していない心の部分がある。
そんなニュアンス。
フロイトは、そうした意思決定に関わるような部分、
自分の行動をコントロールしていく”心の機能”に関しては、
「 ego 」、「 super-ego 」、「 id 」と呼びました。
(ちなみに、フロイトはドイツ語なので、これはラテン語訳を取り入れた英語です。)
日本語だと、「自我」、「超自我」、「イド」に対応します。
(「イド」は、ドイツ語のまま「エス」と呼ばれることもあります。)
(「自我」はアイデンティティの意味で使われることもあるので注意が必要ですが…。)
いずれの言い方にせよ、
・「 ego (自我)」は、自分の現実的な生活のメリットをベースに意思決定をして
自分の振る舞いをコントロールするもの
・「 super-ego (超自我)」は、社会的なルールを取り入れて
自分の振る舞いをコントロールするもの
・「イド(エス)」は、人間の根源的な欲望や衝動、本能的・短期的な欲求
という内容です。
ここで、「自我」は『意識』から『前意識』までにわたっていて、
「超自我」は『意識』から『無意識』まで全てにわたっている。
「イド(エス)」は、全て『無意識』の範囲のもの。
そういう関係性になります。
つまり、フロイトは、自分の本能的な欲求や衝動は
自覚していない(無意識の)ものであって、
それをコントロールするために、「自我」と「超自我」を使っている、
と考えたようなんです。
そして、「自我」による「イド」のコントロールは自覚できるもの
つまり意識しているか、前意識の状態のものであって、
「超自我」というルールによるコントロールには
意識しているものから、意識していないものまで色々ある、と。
自分の振る舞いをコントロールする機能は
『意識』かどうかとは無関係だという発想だったわけです。
心理学では、「意思決定」や「随意運動」が、自分の行動や振る舞いを
”自分”でコントロールしているときの用語として使われるんです。
フロイトは、それを「自我」とか「超自我」と言いましたが、
ポイントは、『意識』か『無意識』かとは無関係なところ。
ちなみに、「随意運動」は「不随意運動」の対義語として考えると
意識することもできて、意識しないこともできるといった点で
フロイト風に言うなら『前意識』の範囲のものだと考えられます。
その意味では、「自分で行動や振る舞いをコントロールする感じ」は
『意思』という日本語と一番近い気がします。
英語なら「 voluntary 」がシックリきますが、
これを日本語訳すると「意図的」となって「 intentional 」と混ざってしまいますから。
「意図」のほうが、背後に理由がありそうな意味合いで、
「意思」のほうが、なんとなく自分で決めた感じだけになりそうに思います。
そこも考慮して、『意思』が良いと考えているんです。
ですから、
「自分の”意思”でやったわけではない(随意的ではない、意図的ではない)行動」
にも、『意識的』なものと、『無意識的』なものがあることになります。
自分の”意思”でやったわけではない。
でも、その行動をしていることには気づいていた。
その意味では『意識的』ではあったといえる。
一方…
自分の”意思”でやったわけではない。
その行動をしていたことにも気づいていなかった。
その意味では『無意識的』だったといえる。
そんな区別があるはずなんです。
にもかかわらず、自己啓発や一部の催眠の流派、一部のコーチングやNLPだと
「自分の”意思”でやったわけではない行動」を全て
「『無意識』がやった」という表現にしてしまいます。
それはせめて、「『無意識の心』がやった」という比喩的・擬人的な言い方だと
自覚できているほうが、言葉遣いとしては正確になるはずです。
なぜ、ここにコダワリをもっているかというと、
用語の問題ではなくて、メカニズムとして何が起きているかが違うからです。
それによって、アプローチの仕方が変わるからです。
例えば、無意識の(自覚していない)行動であっても
意識する(自覚する)だけで、”意思”によって簡単にコントロールできる
というものも沢山あるわけです。
自分の歩き方や姿勢などは、意識せずに、無意識でやっていることでしょうが、
変えようと思えば、意識に上げることで簡単にコントロールできます。
ところが、意識しているとしても、
”意思”によってコントロールできないことが沢山あるんです。
いや、むしろ問題になるのは
「意識しているけれど、”意思”でコントロールできない」行動でしょう。
人前で緊張するのは、明らかに意識しているはずです。
ですが、自分の”意思”で緊張したわけではなく、
”意思”で緊張をやめるようにコントロールすることもできない。
だから困るんです。
”意思”でコントロールできるレベルの問題であれば
『気づき』を引き起こして、『意識』できるようにしてやるだけで
十分に問題を解決できるチャンスが生まれます。
思考法や「〜術」など、本やセミナーによって知識を学べば対処できます。
『意識』していれば、”意思”で、方法を変えられるからです。
逆に”意思”でコントロールできない問題になると
その本質は『意識』しているか、『無意識』なのかではありません。
その動作や振る舞いを変えるのには、知識を学ぶだけでは対処できません。
”意思”とは別の部分で、変えていく必要があります。
それこそがセラピーの中心部分のはずです。
こちらは『気づき』があっても、あまり関係ないんです。
気づいて、『意識』できることが増えたら、
”意思”でコントロールできるようになるのでしょうか?
マシになることはありますが、解決に必要なのは『気づき』ではありません。
”意思”とは無関係なプロセスを変える技術が求められるんです。
『気づき』が求められる変化と、そうでない変化がある、ということです。
『気づき』で解決されるような問題であれば、
『無意識』だったものを『意識』に上げることが役立ちます。
『気づき』で解決されない問題なのだとしたら、対処の仕方は別です。
理解のレベルで区別しておくことの意味は、
対処の仕方を区別できるようになるところにあると思います。
区別せずに理解していると、対処の方向性を間違えても
それに気づかない可能性があると思うんです。
それこそ『無意識』に間違いを繰り返してしまうリスクがある。
”無意識の心”を信頼したいのであれば、その前に、
信頼に値するだけの学習を『意識』できるようにするのが大切な気がします。
「内的・外的な体験に対して気づいていること」
となります。
五感を通じた外的世界の感覚体験に対する自覚、
体の内側の身体反応や運動に関する感覚体験に対する自覚、
自己という存在に対する自覚、
自分の頭の中で思考が進んでいることへの自覚(メタレベルの自覚)
などが意識の内容とされます。
つまり、「意識」は「意図」や「意志」、「随意」とは違います。
アイデンティティの意味で使われる「自我」は含まれるかもしれませんが
全てが意識の内容とも言えないでしょう。
自覚している範囲が『意識』というのが基本的な考え方。
その意味では、『意識』は形容詞として
『意識している』という使い方がベースになるものなわけです。
当然、『無意識』というのも「 unconscious 」ですから
『意識していない』という使い方が基本のはずです。
ただ、フロイトのニュアンスに近づけると
「意識できない」
という使い方になってきて、
また、それと関連する状態として、
「意識していないときもあるけど、意識するときもあって、
意識しようとすればできる」
レベルのものとして『前意識』というのがあります。
ですから、フロイト以来
『意識』や『無意識』というのは、本人が体験する状態であって
心の機能ではないはずなんです。
「意識している状態」、「無意識の状態」…そんなニュアンス。
ところが、特に日本語では使われ方が曖昧になりやすくて
さらに『潜在意識』なんていう言葉が追加されると
その辺の用語の使い方はグチャグチャになります。
『潜在意識』といったときには、『顕在意識』という”心の部分”があって
その対義語として、「顕在意識以外の”心の部分”」の意味で使われるようです。
その言い方だと、さらにユングの集合無意識まで含まれることもあって、
「顕在意識」以外の心の部分には、個人の心の部分を超えたものも含まれて、
とにかく、物凄く大きな領域の”心の部分”といった意味が出たりもします。
おそらく、その意味合いの影響もあるからでしょう。
日本語で『無意識』というと、本来の心理学的な「 unconsciousness 」、
つまり「意識している状態ではないこと」の意味から離れて、何か
「自分の知らないところで勝手に進んでいる”心の機能”や、その”心の部分”」
といった感じが出ているようです。
催眠、自己啓発、NLP、一部の心理療法、ある種のコーチングなどでは
明らかに『意識』や『無意識』は”状態”ではなく、”心の機能”の意味になっている。
「意識でコントロールする」
「無意識に〜してしまう」
「無意識を信頼する」
といった表現は、そうした使い方の例です。
例えば、
「無意識に食べてしまう」
「無意識で怒りが沸いてくる」
と言ったとしたら、それは心理学の意味からするとズレているわけです。
食べていることは自覚していますし、
怒りが沸いてきているのも自覚していますから、
そのことを「意識はしている」はずなんです。
一方、「無意識に笑っていた」とか「無意識に頭をかいていた」なら
他人から指摘されて初めて「それを意識している状態」になりますから、
その場合の使い方はありえなくもないでしょう。
つまり、
気づいているか/気づいていないか
自覚しているか/自覚していないか
が『意識』か『無意識』かの境目であって、
自分が意図的にそうしたか/意図せずにしていたのか
随意的な動作か/不随意の動作か
自分がやろうと思ってやったか/勝手にやっていたか
は、『意識』や『無意識』とは関係ない、ということです。
実際、エリクソンは「 conscious mind 」や「 unconscious mind 」と呼んでいて
僕の催眠の先生もきちんと、「意識の心」、「無意識の心」と呼んでいました。
自分が意識している心の部分と、意識していない心の部分がある。
そんなニュアンス。
フロイトは、そうした意思決定に関わるような部分、
自分の行動をコントロールしていく”心の機能”に関しては、
「 ego 」、「 super-ego 」、「 id 」と呼びました。
(ちなみに、フロイトはドイツ語なので、これはラテン語訳を取り入れた英語です。)
日本語だと、「自我」、「超自我」、「イド」に対応します。
(「イド」は、ドイツ語のまま「エス」と呼ばれることもあります。)
(「自我」はアイデンティティの意味で使われることもあるので注意が必要ですが…。)
いずれの言い方にせよ、
・「 ego (自我)」は、自分の現実的な生活のメリットをベースに意思決定をして
自分の振る舞いをコントロールするもの
・「 super-ego (超自我)」は、社会的なルールを取り入れて
自分の振る舞いをコントロールするもの
・「イド(エス)」は、人間の根源的な欲望や衝動、本能的・短期的な欲求
という内容です。
ここで、「自我」は『意識』から『前意識』までにわたっていて、
「超自我」は『意識』から『無意識』まで全てにわたっている。
「イド(エス)」は、全て『無意識』の範囲のもの。
そういう関係性になります。
つまり、フロイトは、自分の本能的な欲求や衝動は
自覚していない(無意識の)ものであって、
それをコントロールするために、「自我」と「超自我」を使っている、
と考えたようなんです。
そして、「自我」による「イド」のコントロールは自覚できるもの
つまり意識しているか、前意識の状態のものであって、
「超自我」というルールによるコントロールには
意識しているものから、意識していないものまで色々ある、と。
自分の振る舞いをコントロールする機能は
『意識』かどうかとは無関係だという発想だったわけです。
心理学では、「意思決定」や「随意運動」が、自分の行動や振る舞いを
”自分”でコントロールしているときの用語として使われるんです。
フロイトは、それを「自我」とか「超自我」と言いましたが、
ポイントは、『意識』か『無意識』かとは無関係なところ。
ちなみに、「随意運動」は「不随意運動」の対義語として考えると
意識することもできて、意識しないこともできるといった点で
フロイト風に言うなら『前意識』の範囲のものだと考えられます。
その意味では、「自分で行動や振る舞いをコントロールする感じ」は
『意思』という日本語と一番近い気がします。
英語なら「 voluntary 」がシックリきますが、
これを日本語訳すると「意図的」となって「 intentional 」と混ざってしまいますから。
「意図」のほうが、背後に理由がありそうな意味合いで、
「意思」のほうが、なんとなく自分で決めた感じだけになりそうに思います。
そこも考慮して、『意思』が良いと考えているんです。
ですから、
「自分の”意思”でやったわけではない(随意的ではない、意図的ではない)行動」
にも、『意識的』なものと、『無意識的』なものがあることになります。
自分の”意思”でやったわけではない。
でも、その行動をしていることには気づいていた。
その意味では『意識的』ではあったといえる。
一方…
自分の”意思”でやったわけではない。
その行動をしていたことにも気づいていなかった。
その意味では『無意識的』だったといえる。
そんな区別があるはずなんです。
にもかかわらず、自己啓発や一部の催眠の流派、一部のコーチングやNLPだと
「自分の”意思”でやったわけではない行動」を全て
「『無意識』がやった」という表現にしてしまいます。
それはせめて、「『無意識の心』がやった」という比喩的・擬人的な言い方だと
自覚できているほうが、言葉遣いとしては正確になるはずです。
なぜ、ここにコダワリをもっているかというと、
用語の問題ではなくて、メカニズムとして何が起きているかが違うからです。
それによって、アプローチの仕方が変わるからです。
例えば、無意識の(自覚していない)行動であっても
意識する(自覚する)だけで、”意思”によって簡単にコントロールできる
というものも沢山あるわけです。
自分の歩き方や姿勢などは、意識せずに、無意識でやっていることでしょうが、
変えようと思えば、意識に上げることで簡単にコントロールできます。
ところが、意識しているとしても、
”意思”によってコントロールできないことが沢山あるんです。
いや、むしろ問題になるのは
「意識しているけれど、”意思”でコントロールできない」行動でしょう。
人前で緊張するのは、明らかに意識しているはずです。
ですが、自分の”意思”で緊張したわけではなく、
”意思”で緊張をやめるようにコントロールすることもできない。
だから困るんです。
”意思”でコントロールできるレベルの問題であれば
『気づき』を引き起こして、『意識』できるようにしてやるだけで
十分に問題を解決できるチャンスが生まれます。
思考法や「〜術」など、本やセミナーによって知識を学べば対処できます。
『意識』していれば、”意思”で、方法を変えられるからです。
逆に”意思”でコントロールできない問題になると
その本質は『意識』しているか、『無意識』なのかではありません。
その動作や振る舞いを変えるのには、知識を学ぶだけでは対処できません。
”意思”とは別の部分で、変えていく必要があります。
それこそがセラピーの中心部分のはずです。
こちらは『気づき』があっても、あまり関係ないんです。
気づいて、『意識』できることが増えたら、
”意思”でコントロールできるようになるのでしょうか?
マシになることはありますが、解決に必要なのは『気づき』ではありません。
”意思”とは無関係なプロセスを変える技術が求められるんです。
『気づき』が求められる変化と、そうでない変化がある、ということです。
『気づき』で解決されるような問題であれば、
『無意識』だったものを『意識』に上げることが役立ちます。
『気づき』で解決されない問題なのだとしたら、対処の仕方は別です。
理解のレベルで区別しておくことの意味は、
対処の仕方を区別できるようになるところにあると思います。
区別せずに理解していると、対処の方向性を間違えても
それに気づかない可能性があると思うんです。
それこそ『無意識』に間違いを繰り返してしまうリスクがある。
”無意識の心”を信頼したいのであれば、その前に、
信頼に値するだけの学習を『意識』できるようにするのが大切な気がします。