2012年10月13日
”原因”を詳しく見てみる
『原因』という言葉の曖昧さには、注意が必要な気がします。
英語の場合には「 cause 」ですが、ここには更に
「 A → B 」のように、「AがBを引き起こす」の意味でも使われる。
つまり、何かを引き起こす”元”を『原因』という、と。
それで、「原因―結果」で、”因果”になる。
ですが、この中には必ずしも、『仕組み(メカニズム)』が含まれていません。
ただ順番があるだけ。
特に心理学の場合には、その傾向が強まります。
「 A → B 」が、「AならばB」の意味になるときが多いように見受けられます。
「 B → A 」ではない。
それは確実にするようには注意しているようですが、
そこすらも注意していない場合もあります。
AとBの間に関連性があるなら、それはただの『相関』なんです。
順番が分からない。
どっちが先か分からない。
全く別の要因によって引き起こされているかもしれません。
「 C → B 」、「 C → A 」となっていて、Cという条件があるから
AとBは同時に起こる。
そういう可能性もあります。
それが『相関』。
なので、『相関』なのか『因果』なのか
…そこに注意するのは、一応、学校教育で習う範囲となります。
とはいえ、『相関』と『因果』を区別できたとしても
『因果』の中身を見ようとしなければ、それは単なる『傾向』に過ぎないと思うんです。
例えば、車を運転するときに「アクセルを踏めば、スピードが上がる」のは当然で
「アクセルを踏む→スピードが上がる」には、順番があります。
これは『因果』と呼ばれます。
「スピードが上がる」の『原因』が、「アクセルを踏む」になる、と。
確かにそうでしょう。
ですが、これはあくまで、目に見える”動作”レベルでしか説明をしていません。
アクセルを踏むと、車の中で何が起きるのか。
どうやってエンジンの回転数が上がって、それがどういう風に動力になるのか。
そういう説明が『仕組み(メカニズム)』だと言えます。
心理学の本などを読んでいると、この辺が曖昧なんです。
「生物学的原因」とか「生理学的原因」とか「社会文化的原因」とか。
色々な『原因』が複数重なり合っている、なんて説明するんです。
「脳の中で何が起きているか」というのは、原因じゃなくて『仕組み』だと思うんです。
「こういう遺伝子を持っていると、このタンパク質の機能が弱まって、
その機能低下がこんな生理状態を生み出して、こういう症状が出ます」
というのは『仕組み』を説明していますし、かつ「遺伝子が『原因』だ」と説明しています。
心理学の人は、そのように説明に際して中身に注目する発想が少ないのかもしれません。
それはおそらく専門外なんでしょう。
だから、「一人ひとりの中で実際に何が起きているか」という発想が生まれにくい気がします。
ストレスも原因の1つ、
文化も原因の1つ、
遺伝子も原因の1つ、
家庭環境も原因の1つ、
トラウマ的体験も原因の1つ…
色々な原因が重なって、こういう状態になっているんだ!
そんな説明が多いのは、『原因』と『仕組み』を曖昧にしているからじゃないかと感じます。
全てがどうやって絡み合って、実際にその状態を生み出す中身はどうなっているのか?と、
車のアクセルを踏んでからスピードが上がるまでのストーリーを全てするように
『仕組み』を説明する努力は、心理学の主流じゃないようなんです。
僕には残念なことですが、仕方ないんでしょう。
勉強の仕方の方向性が違いますから。
心理学の人は、皆、そういう勉強の仕方をしてきている流れが既にありますし。
ただ、僕の勉強の仕方が化学や分子生物学をベースにしてるだけなんでしょう。
そのトレーニングをした上で、さらに心理学の歴史によって積み上げられた知識も
併せて勉強していかないといけないとしたら、それは大学生には大変過ぎます。
現実的に、実用的に考えたとき、仕方のない部分は色々とあるものですね。
英語の場合には「 cause 」ですが、ここには更に
「 A → B 」のように、「AがBを引き起こす」の意味でも使われる。
つまり、何かを引き起こす”元”を『原因』という、と。
それで、「原因―結果」で、”因果”になる。
ですが、この中には必ずしも、『仕組み(メカニズム)』が含まれていません。
ただ順番があるだけ。
特に心理学の場合には、その傾向が強まります。
「 A → B 」が、「AならばB」の意味になるときが多いように見受けられます。
「 B → A 」ではない。
それは確実にするようには注意しているようですが、
そこすらも注意していない場合もあります。
AとBの間に関連性があるなら、それはただの『相関』なんです。
順番が分からない。
どっちが先か分からない。
全く別の要因によって引き起こされているかもしれません。
「 C → B 」、「 C → A 」となっていて、Cという条件があるから
AとBは同時に起こる。
そういう可能性もあります。
それが『相関』。
なので、『相関』なのか『因果』なのか
…そこに注意するのは、一応、学校教育で習う範囲となります。
とはいえ、『相関』と『因果』を区別できたとしても
『因果』の中身を見ようとしなければ、それは単なる『傾向』に過ぎないと思うんです。
例えば、車を運転するときに「アクセルを踏めば、スピードが上がる」のは当然で
「アクセルを踏む→スピードが上がる」には、順番があります。
これは『因果』と呼ばれます。
「スピードが上がる」の『原因』が、「アクセルを踏む」になる、と。
確かにそうでしょう。
ですが、これはあくまで、目に見える”動作”レベルでしか説明をしていません。
アクセルを踏むと、車の中で何が起きるのか。
どうやってエンジンの回転数が上がって、それがどういう風に動力になるのか。
そういう説明が『仕組み(メカニズム)』だと言えます。
心理学の本などを読んでいると、この辺が曖昧なんです。
「生物学的原因」とか「生理学的原因」とか「社会文化的原因」とか。
色々な『原因』が複数重なり合っている、なんて説明するんです。
「脳の中で何が起きているか」というのは、原因じゃなくて『仕組み』だと思うんです。
「こういう遺伝子を持っていると、このタンパク質の機能が弱まって、
その機能低下がこんな生理状態を生み出して、こういう症状が出ます」
というのは『仕組み』を説明していますし、かつ「遺伝子が『原因』だ」と説明しています。
心理学の人は、そのように説明に際して中身に注目する発想が少ないのかもしれません。
それはおそらく専門外なんでしょう。
だから、「一人ひとりの中で実際に何が起きているか」という発想が生まれにくい気がします。
ストレスも原因の1つ、
文化も原因の1つ、
遺伝子も原因の1つ、
家庭環境も原因の1つ、
トラウマ的体験も原因の1つ…
色々な原因が重なって、こういう状態になっているんだ!
そんな説明が多いのは、『原因』と『仕組み』を曖昧にしているからじゃないかと感じます。
全てがどうやって絡み合って、実際にその状態を生み出す中身はどうなっているのか?と、
車のアクセルを踏んでからスピードが上がるまでのストーリーを全てするように
『仕組み』を説明する努力は、心理学の主流じゃないようなんです。
僕には残念なことですが、仕方ないんでしょう。
勉強の仕方の方向性が違いますから。
心理学の人は、皆、そういう勉強の仕方をしてきている流れが既にありますし。
ただ、僕の勉強の仕方が化学や分子生物学をベースにしてるだけなんでしょう。
そのトレーニングをした上で、さらに心理学の歴史によって積み上げられた知識も
併せて勉強していかないといけないとしたら、それは大学生には大変過ぎます。
現実的に、実用的に考えたとき、仕方のない部分は色々とあるものですね。