2013年02月11日
ミラーリングの話
心理学の分野では、心理療法に限らず、
『ミラーリング』の効果を検証している研究者が結構います。
「どういう状況になると、ミラーリングが起こるか?」という
ミラーリングを人間の自然な反応として捉えた視点からの研究もあります。
信頼関係が築けてくると、無自覚なままでミラーリングをするようになる、
とか、そんな感じの話。
逆に「ミラーリングを意図的に行うと、どういう効果が期待できるか?」という
ミラーリングが引き起こす結果についての研究もあります。
ミラーリングを行った相手に対しては好意を抱きやすいとか、
信頼関係が生まれやすいとか、説得が上手くいきやすいとか。
被験者の主観的な評価を調べたものから、
家電量販店の販売成績への影響を調べたものまで、多岐にわたります。
まぁ、そうやって同じ効果を示すために、実験の条件を少し変えたり、
どれぐらいまで実社会で応用可能なのかを調べたりするのも、
1つの論文として発表されるところが心理学の特徴のようで、
そのプロセスでは何一つ新しいことを示していない印象も僕は感じてしまうんですが。
ちなみに、その分野の実験における『ミラーリング』の定義は非常に曖昧で
「同じような動作を2秒以内でする」などの指標で判断されることが多いようです。
どこからどこまでがミラーリングで、どれがニュートラルで、
どれが相手の全く違うことをしているのか…という基準が明確にできないんでしょう。
3秒たってから同じ動作をしたらどうなのか?
10秒だったら?
逆に0.5秒だったら、気づかれてしまうのか?
相手と全く同じ動作をする必要があるのか?
なんとなく似たような形になっていれば良いのか?
動作の大きさは、小さくても良いのか?
そんな定義ができないわけです。
なかには、そういうミラーリングそのものの定義にこだわろうとして
やたらと小さな指の動作1つで検証している人もいるようですが、
すると今度は、「そんな小さな動き1つが与える影響は、どの程度なのか?」
という新たな疑問が出てきてしまいます。
一方、「 Interactional Synchrony 」と呼ばれる、いわゆる『同調』の研究もあって
こちらはミラーリングよりも厳密なものとして区別しているようです。
全く同じタイミングで、全く同じような動作を行う。
それを『同調』と捉える、と。
こっちには、時差が無いんです。
反面、実験として条件をコントロールすることができません。
「同調させたときと、同調させなかったときでは、どう違うか?」
なんていっても、意図的に同調させることができないからです。
ですから、どうしても
「どういう状況だと同調が起きやすいか」という実験か、
「同調が起きているときには、どんな気分になるか」という調査か、
そのぐらいになってしまうのでしょう。
そのように調査方法に限界を感じてしまう分野ではありますが、
ミラーリングや同調といった振る舞いも、研究対象として認められている
ということそのものは、多少ホッとするところではあります。
そんな感じの分野のようですが、
中には僕の興味を引いてくれる研究もありました。
「ミラーリングをされたとき」と、
「ミラーリングをされなかったとき」とでは、
ストレスのレベルがどのぐらい違うか?
ということを調べるために、
唾液中のコルチゾールの量を測定した実験です。
急性のストレスがかかるとコルチゾールが分泌されることは知られていますから
その量を測ることで、コミュニケーションにおけるストレスレベルを調べよう、と。
結果は、
ミラーリングをされなかったグループでは
コルチゾールのレベルが上がっていて
ストレスを受けていたことが窺える
といったものでした。
ミラーリングの一切ない会話は、ストレスになる。
そんなことを調べたというわけです。
当然、ここでも「ミラーリング」の定義は曖昧ですし、
実験の状況に関しても微妙なところはあります。
ただ僕としては、
主観的な体験を別の現象のレベルで説明しようとした
という試み自体に好意を感じました。
「どうやって測定するか」ということを工夫するのも
何かを調べる上では重要な要素だと思いますから。
『ミラーリング』の効果を検証している研究者が結構います。
「どういう状況になると、ミラーリングが起こるか?」という
ミラーリングを人間の自然な反応として捉えた視点からの研究もあります。
信頼関係が築けてくると、無自覚なままでミラーリングをするようになる、
とか、そんな感じの話。
逆に「ミラーリングを意図的に行うと、どういう効果が期待できるか?」という
ミラーリングが引き起こす結果についての研究もあります。
ミラーリングを行った相手に対しては好意を抱きやすいとか、
信頼関係が生まれやすいとか、説得が上手くいきやすいとか。
被験者の主観的な評価を調べたものから、
家電量販店の販売成績への影響を調べたものまで、多岐にわたります。
まぁ、そうやって同じ効果を示すために、実験の条件を少し変えたり、
どれぐらいまで実社会で応用可能なのかを調べたりするのも、
1つの論文として発表されるところが心理学の特徴のようで、
そのプロセスでは何一つ新しいことを示していない印象も僕は感じてしまうんですが。
ちなみに、その分野の実験における『ミラーリング』の定義は非常に曖昧で
「同じような動作を2秒以内でする」などの指標で判断されることが多いようです。
どこからどこまでがミラーリングで、どれがニュートラルで、
どれが相手の全く違うことをしているのか…という基準が明確にできないんでしょう。
3秒たってから同じ動作をしたらどうなのか?
10秒だったら?
逆に0.5秒だったら、気づかれてしまうのか?
相手と全く同じ動作をする必要があるのか?
なんとなく似たような形になっていれば良いのか?
動作の大きさは、小さくても良いのか?
そんな定義ができないわけです。
なかには、そういうミラーリングそのものの定義にこだわろうとして
やたらと小さな指の動作1つで検証している人もいるようですが、
すると今度は、「そんな小さな動き1つが与える影響は、どの程度なのか?」
という新たな疑問が出てきてしまいます。
一方、「 Interactional Synchrony 」と呼ばれる、いわゆる『同調』の研究もあって
こちらはミラーリングよりも厳密なものとして区別しているようです。
全く同じタイミングで、全く同じような動作を行う。
それを『同調』と捉える、と。
こっちには、時差が無いんです。
反面、実験として条件をコントロールすることができません。
「同調させたときと、同調させなかったときでは、どう違うか?」
なんていっても、意図的に同調させることができないからです。
ですから、どうしても
「どういう状況だと同調が起きやすいか」という実験か、
「同調が起きているときには、どんな気分になるか」という調査か、
そのぐらいになってしまうのでしょう。
そのように調査方法に限界を感じてしまう分野ではありますが、
ミラーリングや同調といった振る舞いも、研究対象として認められている
ということそのものは、多少ホッとするところではあります。
そんな感じの分野のようですが、
中には僕の興味を引いてくれる研究もありました。
「ミラーリングをされたとき」と、
「ミラーリングをされなかったとき」とでは、
ストレスのレベルがどのぐらい違うか?
ということを調べるために、
唾液中のコルチゾールの量を測定した実験です。
急性のストレスがかかるとコルチゾールが分泌されることは知られていますから
その量を測ることで、コミュニケーションにおけるストレスレベルを調べよう、と。
結果は、
ミラーリングをされなかったグループでは
コルチゾールのレベルが上がっていて
ストレスを受けていたことが窺える
といったものでした。
ミラーリングの一切ない会話は、ストレスになる。
そんなことを調べたというわけです。
当然、ここでも「ミラーリング」の定義は曖昧ですし、
実験の状況に関しても微妙なところはあります。
ただ僕としては、
主観的な体験を別の現象のレベルで説明しようとした
という試み自体に好意を感じました。
「どうやって測定するか」ということを工夫するのも
何かを調べる上では重要な要素だと思いますから。