2014年01月13日
叱って行動修正…よりも
心理学の行動主義では、行動修正など教育的な観点も強調されます。
その中には「しつけ」や「叱る」といった「 punishment (罰)」に関して
動物を使った実験での研究が沢山あります。
どういう罰の与え方が行動を修正するのに効果的か?という研究。
そして、その得られた結果を元に
普段の人間社会における罰の効果を考察すると、
多くの場合、罰の与え方が望ましくないことが結論づけられます。
例えば、
・望ましくない行動をしてから罰を受けるまでの時間が長過ぎる
(すぐに罰を与えるのが望ましい)
・望ましくない行動が見つかって罰を受ける確率が低い
(全ての望ましくない行動が罰せられるのが望ましい)
・罰の強さが徐々に上がっていくため、罰に慣れてしまいやすい
(最初に強めの罰を与えるのが望ましい)
といった内容です。
もちろん、これらは全て学術的な研究を土台としているので
実社会で考察するには、他の沢山の要素にも目を向ける必要がありますが、
心理学的には罰で人の行動をコントロールするのは
現実て社会では難しいことが多いというのが一般的見解のようです。
で、こうした研究ベースの考察の中に
「罰を受けるときにだけ関心を向けてもらえる関係性の場合、
罰の中に含まれる関心の側面が報酬として機能することがある」
というものもあるんです。
つまり、
普段から無関心だと、望ましくない行動をしたときにだけ
罰という形で関心を向けてもらえるので、
その関心が報酬となって、望ましくない行動をむしろ強化してしまう
ということです。
関心を向けてもらえない関係性においては
罰を受けるために、望ましくない行動をするのが癖になることがある、と。
実社会では、このような可能性もあるため
罰を用いて「しつけ」たり、「叱ったり」するのは難しいというわけです。
この見解は、行動主義以外でも、それなりに耳にするものじゃないでしょうか。
決して真新しい意見ではないと思います。
親の注意を引くために悪さをする子供…なんていう話は良く聞く気がします。
実は、この「相手の関心を得るために、相手にとって望ましくない行動をする」
という振る舞い方には、個人の中でも似たようなものがあるようです。
本人にとって望ましくない行動の癖や感情的反応の傾向、思考パターンなど、
ある決まったタイミングでのみ表れる望ましくない振る舞い。
こうした振る舞いを引き起こしているモノを擬人化して想像してみると、
ちょうど、ある人が他人にとって望ましくない行動をしているのと対応します。
自分の中のある部分が、別の部分にとって望ましくないことをしている、と。
そしてほとんどの場合、その望ましくない振る舞いをする部分は
いわゆる「無意識」の反応として、普段から意識されていません。
「意識」の部分にとって、「無意識」の部分からの反応が望ましくない…
そういう状態になっているはずです。
「意識」の部分は、常に意識にあがっているんです。
いつも気づいてもらっている。
関心を向けてもらっているわけです。
ところが、「無意識」の部分は、文字通り無意識ですから
常日頃から関心が向いているのではありません。
「無意識」なんていう呼び方をすることで
その部分に関心を向けることを放棄する場合さえあり得ます。
(※エリクソンは「無意識」という呼び名を使って関心を向けさせようとしていたはず)
その「無意識」の部分の立場からすると
常日頃から無関心な関係性にいるといえます。
そこで、「意識」のほうにとって望ましくない反応を引き出す。
するとその瞬間、関心を向けてもらえるようになるんです。
表面的には「意識」の部分から
「嫌だ」とか「またやっちゃった」とか「不愉快だ」とか「なんでこうなるんだ!?」とか…
そういった否定的なメッセージを受け取ることになります。
まるで「怒られたり」、「罰を受けたり」しているような状態。
ですが、そのような形でも関心を向けてもらえています。
これが報酬になるわけです。
望ましくない反応をする「無意識」の部分は、
それを引き起こすことで関心という報酬を得てしまっているんです。
「意識」によって否定的な捉え方をされるとしても、
否定的であっても関心を向けてもらうことが大切なんです。
だから、望ましくない反応をしたときにだけ関心を向けるのではなく、
常日頃から関心を向けるようにすると、その反応をする必要が減っていく。
「無意識」を「意識」へと取り入れていく感じです。
セラピーの効果では、ここがかなりの比重を占めていると思います。
常に関心を向けているということです。
望ましくない反応が起きたときだけでなく。
まして他人に関心を向けてもらうのでもなく。
その中には「しつけ」や「叱る」といった「 punishment (罰)」に関して
動物を使った実験での研究が沢山あります。
どういう罰の与え方が行動を修正するのに効果的か?という研究。
そして、その得られた結果を元に
普段の人間社会における罰の効果を考察すると、
多くの場合、罰の与え方が望ましくないことが結論づけられます。
例えば、
・望ましくない行動をしてから罰を受けるまでの時間が長過ぎる
(すぐに罰を与えるのが望ましい)
・望ましくない行動が見つかって罰を受ける確率が低い
(全ての望ましくない行動が罰せられるのが望ましい)
・罰の強さが徐々に上がっていくため、罰に慣れてしまいやすい
(最初に強めの罰を与えるのが望ましい)
といった内容です。
もちろん、これらは全て学術的な研究を土台としているので
実社会で考察するには、他の沢山の要素にも目を向ける必要がありますが、
心理学的には罰で人の行動をコントロールするのは
現実て社会では難しいことが多いというのが一般的見解のようです。
で、こうした研究ベースの考察の中に
「罰を受けるときにだけ関心を向けてもらえる関係性の場合、
罰の中に含まれる関心の側面が報酬として機能することがある」
というものもあるんです。
つまり、
普段から無関心だと、望ましくない行動をしたときにだけ
罰という形で関心を向けてもらえるので、
その関心が報酬となって、望ましくない行動をむしろ強化してしまう
ということです。
関心を向けてもらえない関係性においては
罰を受けるために、望ましくない行動をするのが癖になることがある、と。
実社会では、このような可能性もあるため
罰を用いて「しつけ」たり、「叱ったり」するのは難しいというわけです。
この見解は、行動主義以外でも、それなりに耳にするものじゃないでしょうか。
決して真新しい意見ではないと思います。
親の注意を引くために悪さをする子供…なんていう話は良く聞く気がします。
実は、この「相手の関心を得るために、相手にとって望ましくない行動をする」
という振る舞い方には、個人の中でも似たようなものがあるようです。
本人にとって望ましくない行動の癖や感情的反応の傾向、思考パターンなど、
ある決まったタイミングでのみ表れる望ましくない振る舞い。
こうした振る舞いを引き起こしているモノを擬人化して想像してみると、
ちょうど、ある人が他人にとって望ましくない行動をしているのと対応します。
自分の中のある部分が、別の部分にとって望ましくないことをしている、と。
そしてほとんどの場合、その望ましくない振る舞いをする部分は
いわゆる「無意識」の反応として、普段から意識されていません。
「意識」の部分にとって、「無意識」の部分からの反応が望ましくない…
そういう状態になっているはずです。
「意識」の部分は、常に意識にあがっているんです。
いつも気づいてもらっている。
関心を向けてもらっているわけです。
ところが、「無意識」の部分は、文字通り無意識ですから
常日頃から関心が向いているのではありません。
「無意識」なんていう呼び方をすることで
その部分に関心を向けることを放棄する場合さえあり得ます。
(※エリクソンは「無意識」という呼び名を使って関心を向けさせようとしていたはず)
その「無意識」の部分の立場からすると
常日頃から無関心な関係性にいるといえます。
そこで、「意識」のほうにとって望ましくない反応を引き出す。
するとその瞬間、関心を向けてもらえるようになるんです。
表面的には「意識」の部分から
「嫌だ」とか「またやっちゃった」とか「不愉快だ」とか「なんでこうなるんだ!?」とか…
そういった否定的なメッセージを受け取ることになります。
まるで「怒られたり」、「罰を受けたり」しているような状態。
ですが、そのような形でも関心を向けてもらえています。
これが報酬になるわけです。
望ましくない反応をする「無意識」の部分は、
それを引き起こすことで関心という報酬を得てしまっているんです。
「意識」によって否定的な捉え方をされるとしても、
否定的であっても関心を向けてもらうことが大切なんです。
だから、望ましくない反応をしたときにだけ関心を向けるのではなく、
常日頃から関心を向けるようにすると、その反応をする必要が減っていく。
「無意識」を「意識」へと取り入れていく感じです。
セラピーの効果では、ここがかなりの比重を占めていると思います。
常に関心を向けているということです。
望ましくない反応が起きたときだけでなく。
まして他人に関心を向けてもらうのでもなく。