2014年08月12日
謙虚さが足りない
最近、自分に謙虚さが足りないことを感じます。
以前はもっと謙虚だったかというと、それも少し違う気がしますが
とにかく前とは違った姿勢になっているようです。
批判的な傾向は前からありましたし、
何かの情報に対して「そうじゃないだろう」と反論することは
むしろ以前のほうが多かったような気もします。
その意味では、謙虚だから何でも受け入れるということではないようです。
有名な人の話でも、違うと思えば批判が次々に湧いてきたものです。
本人には伝えずとも、それを誰かに話すこともありました。
だから権威や立場、経歴などへの謙虚さも、ずっと低いままだったと思います。
それも「謙虚さが足りなくなった」実感とは関係なさそうです。
セミナーやカウンセリングの仕事をしていると
当然、自分よりもずっと人生経験の豊富な方とも関わります。
必要以上の謙虚さはプロとしての立場に影響しそうに思えますから
専門性という観点で堂々と関わるようにするところはある気がします。
「本人」とか「人生」とかいったことについても
必ずしも自分自身がエキスパートではない、という視点でしょうか。
喩えるなら、
僕はここ10年ぐらい、東京メトロを頻繁に使っているものの
僕の東京メトロに対する知識は、地下鉄マニアの10歳児に及ばない
といった感じでしょう。
特に、本人にとって無意識になっている部分への理解は
第三者のほうがずっと詳しくなることもできます。
その辺に専門性があります。
その専門性をもって関わることで、
人間関係の謙虚さが減っているところもあるかもしれません。
とはいえ、これは一人ひとりへの敬意とは無関係です。
謙虚ではないでしょうが、尊敬はもっているつもりです。
むしろ、敬意が様々な存在に対して平等になってきた分、
何かを教わるという姿勢において謙虚さが減ったような気もします。
以前のほうが、専門性の高さに対する尊敬の念とか
達人の技術に対する尊敬とかが大きかったと感じます。
裏を返せば、「このトレーナーは何を言っているんだ?」
と感じてしまうと、尊敬しなくなっていた…
ということでもあるわけですが、正直に言うと。
今はそれがもっと平等な敬意になってきているようです。
専門性や技術があるからという理由で尊敬していない。
もっと別の観点から敬意を向けています。
その分、何かを学びたいという欲求が減っているというか、
その専門性に対する強烈な魅力が減ってしまっているような印象です。
以前は、高い専門性や技術を、どこか輝かしいものとして見ていた。
まさにサブモダリティとして輝きのある形で思い浮かべていたんです。
でも、今はそれがない。
均一な感じ。
言い換えると、以前はもっと探し求めていた、ということなのかもしれません。
批判的だったり、ガッカリすることもありましたが、
その強さは裏を返すと、期待の大きさでもあったわけです。
どこかにもっと素晴らしいものがあるんじゃないか?
どこかにもっと学ぶべきものがあるんじゃないか?
そんな風に追い求めていました。
だから専門性や技術の高さを垣間見ると、その輝きに目を奪われて
そこから何かを学びとりたいという強烈な欲求が生まれていたんでしょう。
その強烈さが最近は減ってしまったみたいです。
興味はあるし、自分の知らなかったことを教わるのは面白い。
そこは変わりません。
ただ、輝きという意味で減ってしまっている感じ。
それはつまり、追い求めるべき何かへの欲求がなくなったというか
「きっとどこかに素晴らしいものがあるはずだ」という期待が減ったというか…。
その「探し求めていた何か」に対する謙虚さ、
「知る」、「学ぶ」ということそのものへの謙虚さが減ったのかもしれません。
どうやって取り戻すのか、そもそも取り戻したいのか
ちょっと気になるところです。
以前はもっと謙虚だったかというと、それも少し違う気がしますが
とにかく前とは違った姿勢になっているようです。
批判的な傾向は前からありましたし、
何かの情報に対して「そうじゃないだろう」と反論することは
むしろ以前のほうが多かったような気もします。
その意味では、謙虚だから何でも受け入れるということではないようです。
有名な人の話でも、違うと思えば批判が次々に湧いてきたものです。
本人には伝えずとも、それを誰かに話すこともありました。
だから権威や立場、経歴などへの謙虚さも、ずっと低いままだったと思います。
それも「謙虚さが足りなくなった」実感とは関係なさそうです。
セミナーやカウンセリングの仕事をしていると
当然、自分よりもずっと人生経験の豊富な方とも関わります。
必要以上の謙虚さはプロとしての立場に影響しそうに思えますから
専門性という観点で堂々と関わるようにするところはある気がします。
「本人」とか「人生」とかいったことについても
必ずしも自分自身がエキスパートではない、という視点でしょうか。
喩えるなら、
僕はここ10年ぐらい、東京メトロを頻繁に使っているものの
僕の東京メトロに対する知識は、地下鉄マニアの10歳児に及ばない
といった感じでしょう。
特に、本人にとって無意識になっている部分への理解は
第三者のほうがずっと詳しくなることもできます。
その辺に専門性があります。
その専門性をもって関わることで、
人間関係の謙虚さが減っているところもあるかもしれません。
とはいえ、これは一人ひとりへの敬意とは無関係です。
謙虚ではないでしょうが、尊敬はもっているつもりです。
むしろ、敬意が様々な存在に対して平等になってきた分、
何かを教わるという姿勢において謙虚さが減ったような気もします。
以前のほうが、専門性の高さに対する尊敬の念とか
達人の技術に対する尊敬とかが大きかったと感じます。
裏を返せば、「このトレーナーは何を言っているんだ?」
と感じてしまうと、尊敬しなくなっていた…
ということでもあるわけですが、正直に言うと。
今はそれがもっと平等な敬意になってきているようです。
専門性や技術があるからという理由で尊敬していない。
もっと別の観点から敬意を向けています。
その分、何かを学びたいという欲求が減っているというか、
その専門性に対する強烈な魅力が減ってしまっているような印象です。
以前は、高い専門性や技術を、どこか輝かしいものとして見ていた。
まさにサブモダリティとして輝きのある形で思い浮かべていたんです。
でも、今はそれがない。
均一な感じ。
言い換えると、以前はもっと探し求めていた、ということなのかもしれません。
批判的だったり、ガッカリすることもありましたが、
その強さは裏を返すと、期待の大きさでもあったわけです。
どこかにもっと素晴らしいものがあるんじゃないか?
どこかにもっと学ぶべきものがあるんじゃないか?
そんな風に追い求めていました。
だから専門性や技術の高さを垣間見ると、その輝きに目を奪われて
そこから何かを学びとりたいという強烈な欲求が生まれていたんでしょう。
その強烈さが最近は減ってしまったみたいです。
興味はあるし、自分の知らなかったことを教わるのは面白い。
そこは変わりません。
ただ、輝きという意味で減ってしまっている感じ。
それはつまり、追い求めるべき何かへの欲求がなくなったというか
「きっとどこかに素晴らしいものがあるはずだ」という期待が減ったというか…。
その「探し求めていた何か」に対する謙虚さ、
「知る」、「学ぶ」ということそのものへの謙虚さが減ったのかもしれません。
どうやって取り戻すのか、そもそも取り戻したいのか
ちょっと気になるところです。