2014年10月23日

まずは自他の区別から

一般的にいえば、人は一体感から出発します。

胎内では文字通り、母と子は一体ですし
そもそも、ほとんど何も学習されていない状態の胎児には
何かを認識して区別するということが非常に少ないはずです。

そして出産後、五感を通して経験が蓄積されます。

視覚情報として入ってくるもの、聴覚情報として入ってくるものと、
身体感覚として感じられるものとを統合してパターン学習をするわけです。

映像として動いたときと、その場所の体感覚とが一致すれば
その体の部位には自分の一部としての認識が生まれます。

一方、視覚情報として入ってくるものの、そこに体感覚がなければ
それは自分の体の範囲外として認識されていきます。

動くもの、動かないもの。
遠近感や物体の形としての範囲なども
視覚情報と体感覚情報の組み合わせとして学習される。

その過程で少しずつ、自分の範囲が認識されていくといえます。

一体という認識さえないほどに区別のなかった状態から
区別をつけていくにつれて、自分とそれ以外との違いが認識されていくんです。


ここで、区別をつけるというのは原則的に生存のためだと考えれば
外的な状態を認識ことでホメオスタシスが働くと推定できます。

例えば、視覚情報として目の前に背景とは異なった部分があれば
それはそこに何かの物体があるということですから、
そのまま進めばぶつかってしまうと予想されます。

もちろんそこには過去の記憶として、実際に物体のある場所まで移動したときに
頭にぶつかって痛みが走ったことが関係しているはずです。

その痛みは、標準的なレベルから外れたことを意味していますし、
それゆえに元の標準的な状態に戻そうという働きが生物的に起こります。
そこで行動を止め、因果関係を記憶に残し、次回からは避けられるようにする、と。

つまり、ベースラインとして「完全に安全で生存に全く問題のない状況」があって
そこがホメオスタシスの基準に設定されている、ということです。

その基準からズレたときに修正するような反応が学習されていく。

ここでの基準は、最初に違いを認識して以降に作られるはずですから、
違いを認識していなかった母親の胎内の安心感こそが
「最も安全な状態」という基準になると考えられます。

想像してみても、ほぼ常に一定の温度に保たれ、外的な刺激も少なく
何もしなくても一定の栄養分と酸素が供給されていた胎内と比べれば、
外の世界は遥かに刺激が多くて危険に満ちています。

純粋に生物的な仕組みで規定されているホメオスタシスの基準値もありますが
学習されたレベルでの基準値は、おそらく胎内の安全さに近いのでしょう。

そしてその安全な状態という基準から外れたと認識された場合には、
元の安全な状態に戻すために何らかのアクションが取られます。

最初はランダムなものとして起きたアクションであっても、
それが基準となる安全な状態に戻る結果をもたらせば
上手くいく方法として学習されます。

仮にチョットした肌寒さをベースラインからのズレとして認識して
身体反応としての不快感が起こったとき、泣き声を上げる反応によって
母親が抱き上げてくれて温もりを取り戻すことができたとしたら、
「泣くことで、なんとかしてもらえる」というパターンが学習されます。

ところが、しばらく泣き続けても何もしてもらえず不快感が維持され、
あるときにもっと大声で泣きわめいた場合に抱き上げてもらったとしたら、
「大きな声で泣きわめくと、なんとかしてもらえる」などと学習するかもしれません。

僕の住まいの近所には大声で泣きわめいて要求を通す女の子がいますが、
おそらくその子は
「どんどん泣きわめく声を大きくしていけば、いつかは必ずなんとかなる」
ということを学んだのでしょう。

聞いている限りでは、母親かお婆ちゃんが、いつも根負けをしています。

例えば、泣きわめかなく以外の方法で要求を伝えられることを学び、
同時に思い通りにならないことがあることも学んでいれば、
そこまで激しく泣きわめいて要求を通そうとはしなかったかもしれません。

このように基準となっていた「完全に安全な状態」からのズレに対して
なんとか戻すようにして学習が進んでいく一方で、
すぐには戻せない状況では我慢をしなくてはならないというのも
人が自然と学んでいる内容だといえます。

いわゆる「ワガママ」かどうかを分けるのは、まさにこの
「思い通りにならないことがある場合に、我慢するかどうか」
の傾向と関係していると考えられるわけです。

当然、このような我慢を学ぶ時期には
自分と他者という認識そのものはできているはずです。

名前や人称で区別できるようになっているし、
どこまでが自分の体かも理解ができているでしょう。

しかしそのことと、「思い通りになる範囲」としての
『自他の区別』は別物です。

「この人は自分ではない他人だ」
と分かっていても
「この人は自分の望ましい状態(=基準としての安全な状態)のために
 予想した通りに動いてくれるはずだ」
という暗黙の認識は残り得ます。

日常的な言葉でいえば、「期待」です。
「自分の望む通りにしてくれる」という期待です。

「こうしてくれたらいいなぁ」という期待は、いわば「他者の行動への願望」ですが
「こうしてくれるのが普通だ」という期待は、思い込みを含んでいます。

「当然こうしてくれるはずだ」と無自覚に予測しているため、
その通りにならなかったときに大きく感情を揺さぶられます。

身体や個体としての存在のレベルでは自他の区別がついているのに、
コントロールできる範囲としての自分と
コントロールできない範囲としての他の存在との間には
ハッキリとした区別がついていない状態だといえます。

経験を通じて、自分の手は予想通りに動かせるという学習をするのと同様に、
この人は予想した通りに動いてくれると学習をしているんです、自覚せずに。

他人という存在にまで自分のコントロールが及ぶという意味では
「自分」という認識の範囲内に他者を含んでしまっている、と言っていいでしょう。


つまり、こんな順番で進んでいくんです。

生まれる前に体験していた(ほぼ)完全な一体感の状態では
「一体感」や「安全」という認識すらないほど何も区別がなされていない。

そこから学習を通して区別がなされるようになっていって
自分の体と他人の体という区別がつくようになる。

自分の体は自分の予想通りに動いてくれるが、
他人は自分の予想通りに動いてくれない(こともある)と学習する。

ここで、思い通り(予想通り)に動く範囲を当然のことと捉えるようになり、
そうならない範囲を我慢しなくてはいけない範囲と捉えるようになる。

自分と他者との境界が曖昧な状態です。

多くの人は、この自他の境界が曖昧なままで大人として生活をします。
「相手はこのように行動するのが当然だ」と暗黙の期待をもって人と関わり、
期待が外れたといって嫌な思いをするんです。

他者にまで「自分の思い通りになるのが当然」という思い込みを適用するのは
表面上、様々な形をとります。

ある人は命令の形で、ある人は依頼の形で、ある人は甘えの形で、
ある人はスネる形で、ある人は脅迫の形で…。

どんな形のコミュニケーションによって相手を思い通りに動かそうとするかは
幼少期から「何をやったときに他人が期待通りに動いてくれたか」を学習し続け、
その結果を使い続けているか、ということによります。

どんな形であれ、他者を自分の期待通りにしようとする傾向は
多かれ少なかれ、誰にでも学習されているものだと考えられます。

同時に、逆方向の学習もなされています。
他者の期待に応えよう・従おうとする反応パターンの学習です。

相手の様子に合わせて自分の中に湧きあがる欲求を我慢する。
相手の様子に合わせて、自分の行動を変える。

自分の中には生存のため、安全のために
ベースラインの望ましい状態へ戻ろうとする欲求があるにもかかわらず、
それを抑えたり、それ以上に相手の期待に沿うように行動する傾向です。

当然、学習としては、親の機嫌に合わせるとか、怒られないようにするとか
他者に合わせるほうが、より安全を維持しやすかったことが想像されます。

この他者に合わせるパターンは、いわば
「自分の行動は相手によってコントロールされる」といった
暗黙の認識に近いといえそうです。

まとめると、
「他者は自分の期待通りに動いてくれるはずだ」という暗黙の認識と
「自分の行動は他者によって変えるべきだ」という暗黙の認識と
両方が一人の中に存在している、ということです。

そしてこの両方の程度のバランスによって
・ワガママに他者をコントロールしようとする、か
・物分かりよく他人に合わせるように我慢する、か
を両極とした傾向ができると考えられます。

「自分の体の範囲を超えて、他者の行動まで自分の期待通りになる」
という思い込みは、自己の範囲が肥大してしまっているといえますし、逆に
「他者の振る舞いによって自分の行動を変えなくてはならない」
という思い込みは、自己の範囲が縮小してしまって、自分の体の範囲にまで
他者の影響を取り入れてしまっているといえます。

どちらにしても、『自他の区別』がついていないわけです。

もちろん、たまにはバランスとして丁度いい程度の人もいますが、
それはたまたま両方の反応パターンのバランスが良いだけのことであって、
部分的には「他者の行動を自分の期待通りにしようとする」パターンや
「他者の振る舞いによって自分の行動を変える」パターンも存在しています。

ですから、よほど自分の行動パターンと意図とを自覚していない限り
『自他の区別』がついている、ということは起きにくいようです。


そういう前提がありますから、コミュニケーションを学んだり、
心理療法を受けたり、自己啓発の教えを勉強したりすると、
『自他の区別』をつけるためのトレーニングや考え方が強調されるのでしょう。

「過去と他人は変えられない」などといったメッセージや
「期待を手放しましょう」などのメッセージ、あるいは
交流分析の「 I'm OK. You're OK. 」なども自他の区別を踏まえています。

また、いわゆる「アイ( I )・メッセージ」で
「私は〜だと思います/〜と願っています/〜と感じています」
と伝えるのも
「あなたは私のコントロールが及ぶ範囲ではないですから、
 あくまで私の主観として切り離した意見ですが…」
のようなニュアンスで、自他の区別をつけているといえます。

ここまでは自分のコントロールの及ぶ範囲。
ここから先は相手の範囲。
だから願いはしても、「当然だ」などと期待はしない。

ここから内側は自分でコントロールする範囲。
相手によってコントロールされる範囲ではない。
だから相手に流されるのでも、まきこまれるのでもなく、
自分の意志で行動を決める。

そういう自覚を持つのが『自他の区別』をつけるスタンスでしょう。

1つ1つの自分の行動の奥に、相手への期待が含まれていないか?
相手に合わせるがゆえに自分の欲求への我慢が含まれていないか?

そのような問いによって自分と他人の区別を明確にしたうえで
他者とのコミュニケーションをとるようにするのが、
一般的な社会生活のコツの1つのようです。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
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