2014年12月11日
フォアグラの笑顔
何かのキッカケで、他の人の集合写真を目にすることがあります。
セミナーか何かの最後の記念撮影だったり、
セミナー中に皆がガッツポーズをしながら叫んでいる場面だったり…。
どちらかというと、「みんな揃って」の感じが多いようです。
もちろん、表層的なラベルで呼べば「笑顔」や「元気いっぱい」など
全員が「一体となって」同じ様子に分類されるのかもしれません。
しかし、ちゃんと非言語メッセージを細かく観察すれば
一人一人の中には状態の違いがハッキリと見て取れます。
言い換えれば、
全力で笑うようにしている
とか
力いっぱい叫ぶようにしている
という姿であって、
そうでない感情も同時に数多く表れているわけです。
場合によっては、大雑把な分類上は「笑顔」でいっぱいの写真のようでも
写っている誰もが大袈裟な作り笑いをしているだけで
実際の内面的な状態と示されている表情筋の動きの大きさとの間には
激しいギャップがあることも見うけられます。
口を大きく開いて、頬で口角を引き上げ、目を見開き
ガッツポーズのようなジェスチャーをしながらも、
あらゆる筋肉の位置が自然な笑顔のものではない。
逆に顔をクシャッとさせるように
目を細め、歯を噛みしめたまま口を横に開き
「イーッ」と歯を見せるタイプの作り笑顔も、何度も目にしたことがあります。
それどころか、目が笑っていないケースさえある。
そして、そういう作り笑いの多い集合写真ほど
全員が画一的に同じタイプの作り笑いをするみたいです。
別にそういう笑い方をルールとして強制したわけではないでしょうから
もっと暗黙の形として不自然に笑顔を作るプレッシャーがあったと思われます。
たとえば「最高の笑顔」のような言い回しぐらいはあったかもしれません。
人の喜びの感情に「最高」だとか「イマイチ」だとか評価をつけるのも
僕の体験からは生まれてこない発想ですが、
そうした形でのアピールがビジネス的に必要だった可能性もありますし
そうやって笑うフリをして人間関係を乗り切ってきた可能性もあるのでしょう。
そういう笑いをする人たちには事情があったと想像できるとはいえ、
その種の作り笑いを必要としない受講生が受けているセミナーで
大袈裟な作り笑いの風習を広めていくのは、
いったいどのような意図をもってのことなのかと疑問に感じます。
無自覚に講師側の癖や思い込みに受講生を巻き込んでしまっているのか
それとも、意図的に心を覆い隠すための表面的な振る舞いを教えているのか?
そのレベルの推測は難しいところです。
「笑う」のか「笑いが出てくる」のかの違いは大きいものではないでしょうか。
いくら
「作り笑いをするだけで、
楽しかったときの状態が引き出されて気分が変わる」
という現象があるといっても、
そのことと
大きな作り笑いで元気でハッピーなフリをする
のとは別物だと思います。
不一致な非言語メッセージに慣れて自分の内面へ気づくにくくなる
という可能性が非常に高い。
ただし、その方向性を望ましいこととと捉えるのだとしたら
そのスタンスに対して賛同するかどうかだけの話になってしまいます。
細かな感情の機微に目をつぶり、自分で「最高の笑顔」などを作り出し
「最高の状態」を維持しようとする…
そんなライフスタイルもきっと1つの魅力なんでしょう。
それは喩えるなら、僕にはフォアグラのように見えます。
高級食材ですし、三大珍味ですし、美食の1つ。
しかしフォアグラは、ガチョウに無理やり食べ物を詰め込み
過剰に脂肪を溜めこんで肥大した肝臓です。
いわば脂肪肝。
労力もかかっているし、餌代もかかるし、とろけるような美味しさの高級品です。
ですが、世の中にはもっと自然で繊細な食材もあります。
同じ肝ならアンコウだって美味しいものです。
何より、アンコウはその白身も、エンガワも、皮も、みんな美味しい。
それぞれの部位に違った美味しさがあります。
人の感情に複雑な機微があるのと似ていると思います。
静かな微笑みだって、はにかんだような笑いだって、
涙をたたえた目だって、感謝にひたった鼻のまわりだって、
深い想いを味わっている喉元だって
どれも皆、感動的な感情表出のはずです。
そんな繊細な感情の味わいが切り取られた写真も
素敵なものじゃないかと思うんです。
セミナーか何かの最後の記念撮影だったり、
セミナー中に皆がガッツポーズをしながら叫んでいる場面だったり…。
どちらかというと、「みんな揃って」の感じが多いようです。
もちろん、表層的なラベルで呼べば「笑顔」や「元気いっぱい」など
全員が「一体となって」同じ様子に分類されるのかもしれません。
しかし、ちゃんと非言語メッセージを細かく観察すれば
一人一人の中には状態の違いがハッキリと見て取れます。
言い換えれば、
全力で笑うようにしている
とか
力いっぱい叫ぶようにしている
という姿であって、
そうでない感情も同時に数多く表れているわけです。
場合によっては、大雑把な分類上は「笑顔」でいっぱいの写真のようでも
写っている誰もが大袈裟な作り笑いをしているだけで
実際の内面的な状態と示されている表情筋の動きの大きさとの間には
激しいギャップがあることも見うけられます。
口を大きく開いて、頬で口角を引き上げ、目を見開き
ガッツポーズのようなジェスチャーをしながらも、
あらゆる筋肉の位置が自然な笑顔のものではない。
逆に顔をクシャッとさせるように
目を細め、歯を噛みしめたまま口を横に開き
「イーッ」と歯を見せるタイプの作り笑顔も、何度も目にしたことがあります。
それどころか、目が笑っていないケースさえある。
そして、そういう作り笑いの多い集合写真ほど
全員が画一的に同じタイプの作り笑いをするみたいです。
別にそういう笑い方をルールとして強制したわけではないでしょうから
もっと暗黙の形として不自然に笑顔を作るプレッシャーがあったと思われます。
たとえば「最高の笑顔」のような言い回しぐらいはあったかもしれません。
人の喜びの感情に「最高」だとか「イマイチ」だとか評価をつけるのも
僕の体験からは生まれてこない発想ですが、
そうした形でのアピールがビジネス的に必要だった可能性もありますし
そうやって笑うフリをして人間関係を乗り切ってきた可能性もあるのでしょう。
そういう笑いをする人たちには事情があったと想像できるとはいえ、
その種の作り笑いを必要としない受講生が受けているセミナーで
大袈裟な作り笑いの風習を広めていくのは、
いったいどのような意図をもってのことなのかと疑問に感じます。
無自覚に講師側の癖や思い込みに受講生を巻き込んでしまっているのか
それとも、意図的に心を覆い隠すための表面的な振る舞いを教えているのか?
そのレベルの推測は難しいところです。
「笑う」のか「笑いが出てくる」のかの違いは大きいものではないでしょうか。
いくら
「作り笑いをするだけで、
楽しかったときの状態が引き出されて気分が変わる」
という現象があるといっても、
そのことと
大きな作り笑いで元気でハッピーなフリをする
のとは別物だと思います。
不一致な非言語メッセージに慣れて自分の内面へ気づくにくくなる
という可能性が非常に高い。
ただし、その方向性を望ましいこととと捉えるのだとしたら
そのスタンスに対して賛同するかどうかだけの話になってしまいます。
細かな感情の機微に目をつぶり、自分で「最高の笑顔」などを作り出し
「最高の状態」を維持しようとする…
そんなライフスタイルもきっと1つの魅力なんでしょう。
それは喩えるなら、僕にはフォアグラのように見えます。
高級食材ですし、三大珍味ですし、美食の1つ。
しかしフォアグラは、ガチョウに無理やり食べ物を詰め込み
過剰に脂肪を溜めこんで肥大した肝臓です。
いわば脂肪肝。
労力もかかっているし、餌代もかかるし、とろけるような美味しさの高級品です。
ですが、世の中にはもっと自然で繊細な食材もあります。
同じ肝ならアンコウだって美味しいものです。
何より、アンコウはその白身も、エンガワも、皮も、みんな美味しい。
それぞれの部位に違った美味しさがあります。
人の感情に複雑な機微があるのと似ていると思います。
静かな微笑みだって、はにかんだような笑いだって、
涙をたたえた目だって、感謝にひたった鼻のまわりだって、
深い想いを味わっている喉元だって
どれも皆、感動的な感情表出のはずです。
そんな繊細な感情の味わいが切り取られた写真も
素敵なものじゃないかと思うんです。