2014年12月16日
おかしな中学英語
この本は勉強になりました。
日本の大学で英作文の添削をしていた経験を元に
日本人の英語の癖を指摘してくれています。
そしてもちろん、文法的にもネイティブの自然な感覚としても
模範的な表現に修正してくれていますからポイントが分かりやすいんですが、
それ以上に興味深いのは、日本の中学校の英語教育との対比の部分。
大学生が頻繁にやってしまう英語の間違いは、実のところ
中学校で習う英語に忠実な「正解」だったらしく、
中学英語を覚えてしっかりと使っているほど
ありえない英語を書いてしまうことになる…といった指摘は驚きでした。
もう中学校の頃に何を習っていたかなんて記憶には残っていませんが
英語教育のスタートラインで叩きこまれた土台は、意識から外れていった後にも
意外なほど大きな影響を与えるものとして染みついているのでしょう。
中学校の英語の教科書といえば、
「 This is a pen. 」とか「 Is this a pen? -- No. It is a desk. 」のような
使われることのない会話内容に焦点が当たりがちなので、
それ以外の不自然な部分が逆に見過ごされてしまうのかもしれません。
「分かりやすく気になる部分を作っておくと、細かい違和感が見過ごされやすくなる」
なんてことは、マジックにおいてトリックをバレにくくするための原則ですが、
それと同じような現象が図らずも起きてしまっているように思えます。
文法的にも、論理構造としても、文章の表現方法としても
英語では使われないようなものが教科書には溢れかえっているんだとか。
そこには指導方針の制約によって無理が生じている部分もあるようですし、
教科書がどれだけいい加減な方法によって作られているか
というのも本の中で指摘されています。
文法として「この項目は何年生までは教えてはいけない」と制約されるため
それまでの学年の教科書では使ってはいけない表現がある。
そこで無理やりに、おかしな表現に変換した文章を教科書に載せる。
…そういうパターンが中学校の英語の教科書にはあるそうです。
著者の言い分としては、
だったら最初からそんな無理な内容を含まない文章を書けばいい
ということのようですが、
実際には何かの英文の一部を取ってきて、
その中に使ってはいけない文法が含まれた文章があったら
それを習った範囲の表現に書き換えて載せられているんだとか。
結果として、文法的にも内容的にも変なものになってしまって
それを一生懸命に覚えた中学生ほど、将来に英語を使おうとしたとき
自分の伝えたいことと全く別の意味になってしまう文章を作ることになる。
もう最初からそんなおかしな文章は削除してしまうほうが良い
と著者は述べていますし、何よりも文章の内容も幼稚過ぎると言います。
数学や理科で習うレベルを考えれば、もっと高度なことでも大丈夫なはず、と。
文法の項目に指導基準があるのなら、その範囲でも
工夫して自然な英語の文章を作れるのかもしれません。
日本の英語教育が語学のトレーニング方法として問題視されることは多いですが、
その前の段階として、教科書に載っていることがそもそも
英語として間違った表現になってしまっている、という指摘は新鮮で
考えさせられるところが多い本でした。
英語学習といえば、「どうやって身につけるか」という方向に関心が向きやすく
「すでに身につけてしまったものが正しかったか」を考えることは少ないと感じます。
仮に、中学・高校で勉強したことが英語の習得と関係がなかったとしても
それはあくまでゼロから身につけようという場合の話でしょう。
中学・高校で気づかないままに染みつかせてしまった間違いがあるとしたら
それはマイナスからのスタートとさえ言えるのかもしれません。
そんなネガティブな影響が含まれている可能性があるのなら
中学・高校レベルの英語を丁寧に振り返って、勘違いを訂正しておく
というスタンスも、大人の英語トレーニングには大事なように思えました。
日本の大学で英作文の添削をしていた経験を元に
日本人の英語の癖を指摘してくれています。
そしてもちろん、文法的にもネイティブの自然な感覚としても
模範的な表現に修正してくれていますからポイントが分かりやすいんですが、
それ以上に興味深いのは、日本の中学校の英語教育との対比の部分。
大学生が頻繁にやってしまう英語の間違いは、実のところ
中学校で習う英語に忠実な「正解」だったらしく、
中学英語を覚えてしっかりと使っているほど
ありえない英語を書いてしまうことになる…といった指摘は驚きでした。
もう中学校の頃に何を習っていたかなんて記憶には残っていませんが
英語教育のスタートラインで叩きこまれた土台は、意識から外れていった後にも
意外なほど大きな影響を与えるものとして染みついているのでしょう。
中学校の英語の教科書といえば、
「 This is a pen. 」とか「 Is this a pen? -- No. It is a desk. 」のような
使われることのない会話内容に焦点が当たりがちなので、
それ以外の不自然な部分が逆に見過ごされてしまうのかもしれません。
「分かりやすく気になる部分を作っておくと、細かい違和感が見過ごされやすくなる」
なんてことは、マジックにおいてトリックをバレにくくするための原則ですが、
それと同じような現象が図らずも起きてしまっているように思えます。
文法的にも、論理構造としても、文章の表現方法としても
英語では使われないようなものが教科書には溢れかえっているんだとか。
そこには指導方針の制約によって無理が生じている部分もあるようですし、
教科書がどれだけいい加減な方法によって作られているか
というのも本の中で指摘されています。
文法として「この項目は何年生までは教えてはいけない」と制約されるため
それまでの学年の教科書では使ってはいけない表現がある。
そこで無理やりに、おかしな表現に変換した文章を教科書に載せる。
…そういうパターンが中学校の英語の教科書にはあるそうです。
著者の言い分としては、
だったら最初からそんな無理な内容を含まない文章を書けばいい
ということのようですが、
実際には何かの英文の一部を取ってきて、
その中に使ってはいけない文法が含まれた文章があったら
それを習った範囲の表現に書き換えて載せられているんだとか。
結果として、文法的にも内容的にも変なものになってしまって
それを一生懸命に覚えた中学生ほど、将来に英語を使おうとしたとき
自分の伝えたいことと全く別の意味になってしまう文章を作ることになる。
もう最初からそんなおかしな文章は削除してしまうほうが良い
と著者は述べていますし、何よりも文章の内容も幼稚過ぎると言います。
数学や理科で習うレベルを考えれば、もっと高度なことでも大丈夫なはず、と。
文法の項目に指導基準があるのなら、その範囲でも
工夫して自然な英語の文章を作れるのかもしれません。
日本の英語教育が語学のトレーニング方法として問題視されることは多いですが、
その前の段階として、教科書に載っていることがそもそも
英語として間違った表現になってしまっている、という指摘は新鮮で
考えさせられるところが多い本でした。
英語学習といえば、「どうやって身につけるか」という方向に関心が向きやすく
「すでに身につけてしまったものが正しかったか」を考えることは少ないと感じます。
仮に、中学・高校で勉強したことが英語の習得と関係がなかったとしても
それはあくまでゼロから身につけようという場合の話でしょう。
中学・高校で気づかないままに染みつかせてしまった間違いがあるとしたら
それはマイナスからのスタートとさえ言えるのかもしれません。
そんなネガティブな影響が含まれている可能性があるのなら
中学・高校レベルの英語を丁寧に振り返って、勘違いを訂正しておく
というスタンスも、大人の英語トレーニングには大事なように思えました。