2015年01月11日
心残り
人に気持ちを向けるという行為は簡単なものではないようです。
誰かとコミュニケーションを取っているときに
その人に対して気持ちを向けるのは
それなりにやってきたつもりでいます。
トレーナーとして活動を始めて3年目ぐらいに
目の前の人に全力で気持ちを向けることを行動レベルでするようになりました。
心のことだとかコミュニケーションだとかの勉強を始めて、
やがてトレーナーとして仕事をするようになり、
多くの技術を身につけ、それなりに問題へ対処できるようになってきた
…そんな自信で勘違いをしていた時期があったものです。
あるセミナーに参加してカウンセリングのスーパーバイズを受けていたとき
クライアントの重要な非言語メッセージを見逃していた指摘を受けました。
人の気持ちを大切にできるようになりたくて始めたはずの勉強が、
技術やテクニック、心構えを身につけるほうに集中してしまって
「どうしたら問題が解決できるか」「どうしたら目標を達成できるか」
ばかりを考えるようになってしまっていたようです。
目の前の人になんて全然関心を向けていなかった。
クライアントはただの題材になり下がっていました。
いくらセミナー中の実習だとはいえ、クライアントの問題を理解することや
技術を上手に使うことばかりに一生懸命になっていて
そこで目の前の人が発している気持ちを捉えようとはしていなかったんです。
それに気づいたときは悔しくて涙が出たものでした。
そういう自己嫌悪に近いほどの衝撃を伴った反省をすれば
それ以降は一生懸命に、人へ関心を向けるようになるものなんでしょう。
観察力があるとか無いとか、そういう話の前に
そもそも人に関心を向けていなければ何かが観察できるはずもありません。
見られないんじゃない。
見ていない。
聞けないんじゃない。
聞こうとしていない。
目に見える行動や能力以前の違いとして
関心を向けられるかどうかがあります。
僕は少なくともコミュニケーションを取っている最中には
目の前の人に関心を向けることをしてきたつもりです。
それが目の前の人を大切にする行為だと思うからです。
ですが、コミュニケーションの最中に相手へ気持ちを向けるのはできても
直接的には何もしていないときに気持ちを向けるのは簡単ではありません。
その人のことは意識の範囲からドンドンと遠ざかってしまいます。
一生懸命に接したつもりだったとしても
接していないときに一生懸命に気持ちを向けていたかというと、そうではない。
そしてそれを後悔するんでしょう。
「ああ、もっと一生懸命に気持ちを向けておけば良かった」と。
自分は一生懸命にやったか?と過去を振り返って自問するとき
「もっとできたんじゃないか」という気持ちになる。
行動としては充分にやったと思えるのと同時に
自分の中には不十分な感じが残るような気がします。
それはいわば、
自分の奥底にある大切な想いの大きさに比べて
実際に向けてきた関心の程度が届いていない
と判断されるということでしょう。
できるだけやったか?とか
全力でやったか?とか
最善を尽くしたか?とか
そういう話ではないんです。
自分の奥底に自覚しきれていない
「他の人を大切に想う気持ち」
が大きく存在していて、
それが意識の前面に上がったときに比較対象として自覚される。
そして自分が行動のレベルと関心の向け方のレベルで実際にやったことと照らし
「大切に想う気持ち」に見合うだけのことをやったか?
と省みる。
そのときに、想いの大きさをようやく自覚して
不十分だった感じを体験するのだろうと思われます。
感謝と同時に感じられる「もっとできたんじゃないか」という心残り。
それを実感できていたら、もっと丁寧に生きようとするのかもしれません。
誰かとコミュニケーションを取っているときに
その人に対して気持ちを向けるのは
それなりにやってきたつもりでいます。
トレーナーとして活動を始めて3年目ぐらいに
目の前の人に全力で気持ちを向けることを行動レベルでするようになりました。
心のことだとかコミュニケーションだとかの勉強を始めて、
やがてトレーナーとして仕事をするようになり、
多くの技術を身につけ、それなりに問題へ対処できるようになってきた
…そんな自信で勘違いをしていた時期があったものです。
あるセミナーに参加してカウンセリングのスーパーバイズを受けていたとき
クライアントの重要な非言語メッセージを見逃していた指摘を受けました。
人の気持ちを大切にできるようになりたくて始めたはずの勉強が、
技術やテクニック、心構えを身につけるほうに集中してしまって
「どうしたら問題が解決できるか」「どうしたら目標を達成できるか」
ばかりを考えるようになってしまっていたようです。
目の前の人になんて全然関心を向けていなかった。
クライアントはただの題材になり下がっていました。
いくらセミナー中の実習だとはいえ、クライアントの問題を理解することや
技術を上手に使うことばかりに一生懸命になっていて
そこで目の前の人が発している気持ちを捉えようとはしていなかったんです。
それに気づいたときは悔しくて涙が出たものでした。
そういう自己嫌悪に近いほどの衝撃を伴った反省をすれば
それ以降は一生懸命に、人へ関心を向けるようになるものなんでしょう。
観察力があるとか無いとか、そういう話の前に
そもそも人に関心を向けていなければ何かが観察できるはずもありません。
見られないんじゃない。
見ていない。
聞けないんじゃない。
聞こうとしていない。
目に見える行動や能力以前の違いとして
関心を向けられるかどうかがあります。
僕は少なくともコミュニケーションを取っている最中には
目の前の人に関心を向けることをしてきたつもりです。
それが目の前の人を大切にする行為だと思うからです。
ですが、コミュニケーションの最中に相手へ気持ちを向けるのはできても
直接的には何もしていないときに気持ちを向けるのは簡単ではありません。
その人のことは意識の範囲からドンドンと遠ざかってしまいます。
一生懸命に接したつもりだったとしても
接していないときに一生懸命に気持ちを向けていたかというと、そうではない。
そしてそれを後悔するんでしょう。
「ああ、もっと一生懸命に気持ちを向けておけば良かった」と。
自分は一生懸命にやったか?と過去を振り返って自問するとき
「もっとできたんじゃないか」という気持ちになる。
行動としては充分にやったと思えるのと同時に
自分の中には不十分な感じが残るような気がします。
それはいわば、
自分の奥底にある大切な想いの大きさに比べて
実際に向けてきた関心の程度が届いていない
と判断されるということでしょう。
できるだけやったか?とか
全力でやったか?とか
最善を尽くしたか?とか
そういう話ではないんです。
自分の奥底に自覚しきれていない
「他の人を大切に想う気持ち」
が大きく存在していて、
それが意識の前面に上がったときに比較対象として自覚される。
そして自分が行動のレベルと関心の向け方のレベルで実際にやったことと照らし
「大切に想う気持ち」に見合うだけのことをやったか?
と省みる。
そのときに、想いの大きさをようやく自覚して
不十分だった感じを体験するのだろうと思われます。
感謝と同時に感じられる「もっとできたんじゃないか」という心残り。
それを実感できていたら、もっと丁寧に生きようとするのかもしれません。