2015年01月27日
外国語の発音
言葉の上達には上限がないような気がします。
日本人とはいえ、日本語の使い方には大きな個人差があります。
そして大人になってからでも、文章の書き方やボキャブラリー
会話中の言葉の選び方など、様々な面で向上させられます。
逆に、大人になっても勘違いしたままの言葉の使い方があったり、
うろ覚えでチョット恥ずかしい思いをしたり、
本を読んでいて聞いたこともない単語を目にしたりすることもあります。
そういった体験を通じて、少しずつ修正を繰り返して
言葉の使い方が磨かれていくということなのかもしれません。
母国語でさえそうなのですから
外国語を学ぶときには、事態は一層複雑になると思われます。
なかでも厄介なのは、発音と、細かな日常表現のバリエーションでしょう。
特に、日常会話で見受けられる
ネイティブにとって当たり前の使い分けでありながら
わずかな単語の違いでニュアンスが大きく変わる表現
は、
外国語学習において最後まで残る課題ではないかと感じます。
こういうときには、こういう言い回しを使う
…といった決まり文句のようなフレーズは
ストックとして持っているかどうかの話ですから、
もう単純に覚えて増やしていくしかないようです。
これと比べると、文法なんてのは易しい部類でしょう。
一度概要を掴んでしまえば随分と楽になるはずです。
また文法の間違いは、文章においてさえネイティブでも起きるところですし、
会話中の文章であれば、文法的に正しい構造をしていないことはザラです。
英語のセミナーの内容を翻訳したりすると、書き起こした英文では
文章が完結していなかったり、動詞が2回出ていたり…なんて良くありました。
英語ネイティブの人が三人称・単数・現在形の動詞に「s」をつけ忘れる
ということは、ほぼ無いように見受けられますが、
比較級のところで「 easier 」の代わりに
「 more easy 」なんて言ってしまうケースは意外と見ます。
そういう意味で、文法の間違いはそれなりに起きることがあり、
あくまで言い間違いのようなレベルだと考えれば
さほどネイティブでも問題視されていないのではないかと考えられます。
ところが、日常表現として使われる細かなバリエーションは
ちょっとした単語の違いによって、全く別の意味になってしまうことがあります。
例えば
「 Do you have the time? 」
といえば、
日本語でいう「時間がわかりますか?」
のように「今、何時か」を聞く表現です。
これが
「 Do you have time? 」
となると、
「時間がありますか?」
のように、予定を聞く表現になります。
ただ「 time 」の前に「 the 」をつけるかどうかの違いで
意味が大きく変わってしまうわけです。
街中で通りすがりの人に
「時間、わかりますか?」
と尋ねるのか
「時間ありますか?」
と尋ねるのかでは
全く状況が異なるのは容易に想像できるところでしょう。
街中で突然「時間ありますか?」と聞かれたら
何かのお誘いだと捉える人が多いのではないでしょうか。
こうした違いは、ネイティブなら決まり文句として染み込んでいますから
間違えようのないところだと思われますが、
英語学習者にとっては、丸暗記をしなければいけない部分です。
覚えて、使って、自然になるまで染み込ませる。
そうしたプロセスが、様々な表現について求められそうです。
もちろん日本語にだって、このように
微妙な表現の違いで大きく意味が変わるものはあるでしょう。
そして日本人なら皆、その違いを自然に習得しているはずです。
同様に、外国人が日本語を習得するときにも、やはり
わずかな表現の違いを覚えるという困難がある。
そんな表現の間違いを外国人がしているのを
日本人が耳にしたとします。
例えば、蕎麦屋にやってきた外国人が
「私は、ざるそばでいいです」と言った、と。
「 で いいです」ということは日本語のニュアンスからすると
妥協の感じが含まれますから、店員への注文においては
(他にロクなものがないから、ざるそばでいいや)
という意味合いが伝わってしまうかもしれません。
しかし、おそらく多くの場合、
「あぁ、外国人だから言い間違えたんだな。
ざるそば が いいです
と言いたかったんだろう。」
と捉えて、失礼だとは感じないのではないでしょうか。
これには、日本人が外国人を特別視しやすい傾向が関係しそうです。
最近でこそ多国籍な場所が増えてきていますが
それでも日本人からすると外国人は目立つと思われます。
外見からでも「外国人だろう」と判断しますし、
日本語を話していたとしても、発音から「外国人だ」と判断することもある。
この「外国人だ」という判断の速さと
「外国人の日本語だから間違っていても当然だ」という認識が
微妙な表現の違いから生まれるニュアンスを
「言い間違い」として寛容に解釈しなおさせてくれると思えます。
しかし、英語圏の国、たとえばアメリカともなれば
見た目だけで外国人かアメリカ人かを判断するのは困難なはずです。
アジア系でもアメリカで生まれ育ったために
完全な英語ネイティブという人は大勢います。
ですから見た目で「外国人だろう」という判断は少なそうに想像できます。
場合によっては、発音によって
「英語ネイティブではない。外国出身か?」
と捉えることもあるかもしれません。
そうなれば、表現を微妙に間違えて、場面に相応しくない意味になってしまっても
「あぁ、英語が母国語じゃないから間違えたんだろう」
と、好意的に解釈しなおしてくれる可能性があります。
ところが、です。
これでもし、英語の発音が完璧だったらどうでしょうか?
とても自然な発音で、英語ネイティブからしても
普通に英語を第一言語として話す人だと思われるぐらい。
見た目からの外国人かどうかの判断が少ないとしたら、
発音で英語ネイティブの雰囲気を発してしまうと
「英語が母国語でないから間違えたのでは?」と
受けとり方を工夫してくれる可能性は少なくなりそうです。
そして言葉通りのニュアンスで受け取り
「なんてことを言うんだ!」と不快にさせてしまいかねません。
ここにジレンマを感じます。
発音が悪過ぎれば、コミュニケーションに支障が出る。
何を言っているかを分かってもらえない可能性が高まります。
リスニングにしても、自分がネイティブと同じように発音できるほうが
単語の音声に対する頭の中のイメージ(フレーム)が正確なため、
はるかにネイティブの英語を聞きやすくなると考えられます。
スピーキングとしても、リスニングとしても、
発音のトレーニングをするのは英語学習にとって効果的といえます。
一方で、発音が完璧な英語になってしまうと
アメリカ人から外国人扱いをしてもらえなくなるかもしれない。
結果として、言い間違いや、記憶違いで使ってしまった一言が
自分の意図とは違ったニュアンスで相手に伝わり
相手を不快にさせてしまうこともあるかもしれません。
もちろん、徹底的に上達を目指すのであれば、
発音もネイティブに近づけるようにトレーニングをして、
ネイティブが日常的に使う表現を、細かな違いに気をつけながら
少しでも多く習得できるように勉強を続ける
というのが求められるのでしょう。
そのハードルは、なかなか高そうに感じられます。
その点では、
明らかに日本人だと分かるぐらいのアクセントを残しながら
英語として分かってもらえる程度に発音を矯正して、
意志疎通には困らないぐらいの英語力を身につける
ぐらいのほうが
外国語習得として目指すレベルには都合が良いような気もします。
日本にいる外国人タレントでいえば
デーブ・スペクターのような日本語でしょうか。
LiLico のレベルまでの日本語は、外国語習得として
非常に高いハードルを越えたものに思えます。
海外で活躍するスポーツ選手のような英語の感じで、
英語力ではなくむしろ専門性の高さで受け入れてもらう…
そんな方向性もあるのかもしれません。
どこを目的とするかということなのでしょうけれど。
日本人とはいえ、日本語の使い方には大きな個人差があります。
そして大人になってからでも、文章の書き方やボキャブラリー
会話中の言葉の選び方など、様々な面で向上させられます。
逆に、大人になっても勘違いしたままの言葉の使い方があったり、
うろ覚えでチョット恥ずかしい思いをしたり、
本を読んでいて聞いたこともない単語を目にしたりすることもあります。
そういった体験を通じて、少しずつ修正を繰り返して
言葉の使い方が磨かれていくということなのかもしれません。
母国語でさえそうなのですから
外国語を学ぶときには、事態は一層複雑になると思われます。
なかでも厄介なのは、発音と、細かな日常表現のバリエーションでしょう。
特に、日常会話で見受けられる
ネイティブにとって当たり前の使い分けでありながら
わずかな単語の違いでニュアンスが大きく変わる表現
は、
外国語学習において最後まで残る課題ではないかと感じます。
こういうときには、こういう言い回しを使う
…といった決まり文句のようなフレーズは
ストックとして持っているかどうかの話ですから、
もう単純に覚えて増やしていくしかないようです。
これと比べると、文法なんてのは易しい部類でしょう。
一度概要を掴んでしまえば随分と楽になるはずです。
また文法の間違いは、文章においてさえネイティブでも起きるところですし、
会話中の文章であれば、文法的に正しい構造をしていないことはザラです。
英語のセミナーの内容を翻訳したりすると、書き起こした英文では
文章が完結していなかったり、動詞が2回出ていたり…なんて良くありました。
英語ネイティブの人が三人称・単数・現在形の動詞に「s」をつけ忘れる
ということは、ほぼ無いように見受けられますが、
比較級のところで「 easier 」の代わりに
「 more easy 」なんて言ってしまうケースは意外と見ます。
そういう意味で、文法の間違いはそれなりに起きることがあり、
あくまで言い間違いのようなレベルだと考えれば
さほどネイティブでも問題視されていないのではないかと考えられます。
ところが、日常表現として使われる細かなバリエーションは
ちょっとした単語の違いによって、全く別の意味になってしまうことがあります。
例えば
「 Do you have the time? 」
といえば、
日本語でいう「時間がわかりますか?」
のように「今、何時か」を聞く表現です。
これが
「 Do you have time? 」
となると、
「時間がありますか?」
のように、予定を聞く表現になります。
ただ「 time 」の前に「 the 」をつけるかどうかの違いで
意味が大きく変わってしまうわけです。
街中で通りすがりの人に
「時間、わかりますか?」
と尋ねるのか
「時間ありますか?」
と尋ねるのかでは
全く状況が異なるのは容易に想像できるところでしょう。
街中で突然「時間ありますか?」と聞かれたら
何かのお誘いだと捉える人が多いのではないでしょうか。
こうした違いは、ネイティブなら決まり文句として染み込んでいますから
間違えようのないところだと思われますが、
英語学習者にとっては、丸暗記をしなければいけない部分です。
覚えて、使って、自然になるまで染み込ませる。
そうしたプロセスが、様々な表現について求められそうです。
もちろん日本語にだって、このように
微妙な表現の違いで大きく意味が変わるものはあるでしょう。
そして日本人なら皆、その違いを自然に習得しているはずです。
同様に、外国人が日本語を習得するときにも、やはり
わずかな表現の違いを覚えるという困難がある。
そんな表現の間違いを外国人がしているのを
日本人が耳にしたとします。
例えば、蕎麦屋にやってきた外国人が
「私は、ざるそばでいいです」と言った、と。
「 で いいです」ということは日本語のニュアンスからすると
妥協の感じが含まれますから、店員への注文においては
(他にロクなものがないから、ざるそばでいいや)
という意味合いが伝わってしまうかもしれません。
しかし、おそらく多くの場合、
「あぁ、外国人だから言い間違えたんだな。
ざるそば が いいです
と言いたかったんだろう。」
と捉えて、失礼だとは感じないのではないでしょうか。
これには、日本人が外国人を特別視しやすい傾向が関係しそうです。
最近でこそ多国籍な場所が増えてきていますが
それでも日本人からすると外国人は目立つと思われます。
外見からでも「外国人だろう」と判断しますし、
日本語を話していたとしても、発音から「外国人だ」と判断することもある。
この「外国人だ」という判断の速さと
「外国人の日本語だから間違っていても当然だ」という認識が
微妙な表現の違いから生まれるニュアンスを
「言い間違い」として寛容に解釈しなおさせてくれると思えます。
しかし、英語圏の国、たとえばアメリカともなれば
見た目だけで外国人かアメリカ人かを判断するのは困難なはずです。
アジア系でもアメリカで生まれ育ったために
完全な英語ネイティブという人は大勢います。
ですから見た目で「外国人だろう」という判断は少なそうに想像できます。
場合によっては、発音によって
「英語ネイティブではない。外国出身か?」
と捉えることもあるかもしれません。
そうなれば、表現を微妙に間違えて、場面に相応しくない意味になってしまっても
「あぁ、英語が母国語じゃないから間違えたんだろう」
と、好意的に解釈しなおしてくれる可能性があります。
ところが、です。
これでもし、英語の発音が完璧だったらどうでしょうか?
とても自然な発音で、英語ネイティブからしても
普通に英語を第一言語として話す人だと思われるぐらい。
見た目からの外国人かどうかの判断が少ないとしたら、
発音で英語ネイティブの雰囲気を発してしまうと
「英語が母国語でないから間違えたのでは?」と
受けとり方を工夫してくれる可能性は少なくなりそうです。
そして言葉通りのニュアンスで受け取り
「なんてことを言うんだ!」と不快にさせてしまいかねません。
ここにジレンマを感じます。
発音が悪過ぎれば、コミュニケーションに支障が出る。
何を言っているかを分かってもらえない可能性が高まります。
リスニングにしても、自分がネイティブと同じように発音できるほうが
単語の音声に対する頭の中のイメージ(フレーム)が正確なため、
はるかにネイティブの英語を聞きやすくなると考えられます。
スピーキングとしても、リスニングとしても、
発音のトレーニングをするのは英語学習にとって効果的といえます。
一方で、発音が完璧な英語になってしまうと
アメリカ人から外国人扱いをしてもらえなくなるかもしれない。
結果として、言い間違いや、記憶違いで使ってしまった一言が
自分の意図とは違ったニュアンスで相手に伝わり
相手を不快にさせてしまうこともあるかもしれません。
もちろん、徹底的に上達を目指すのであれば、
発音もネイティブに近づけるようにトレーニングをして、
ネイティブが日常的に使う表現を、細かな違いに気をつけながら
少しでも多く習得できるように勉強を続ける
というのが求められるのでしょう。
そのハードルは、なかなか高そうに感じられます。
その点では、
明らかに日本人だと分かるぐらいのアクセントを残しながら
英語として分かってもらえる程度に発音を矯正して、
意志疎通には困らないぐらいの英語力を身につける
ぐらいのほうが
外国語習得として目指すレベルには都合が良いような気もします。
日本にいる外国人タレントでいえば
デーブ・スペクターのような日本語でしょうか。
LiLico のレベルまでの日本語は、外国語習得として
非常に高いハードルを越えたものに思えます。
海外で活躍するスポーツ選手のような英語の感じで、
英語力ではなくむしろ専門性の高さで受け入れてもらう…
そんな方向性もあるのかもしれません。
どこを目的とするかということなのでしょうけれど。