2017年09月08日

相性と価値観の区別

「合う・合わない」と「好き・嫌い」を区別できると
人間関係や出来事を受け入れやすくなるようです。

裏を返すと、「合う・合わない」と「好き・嫌い」を混同していたら
楽になれる方向性の取り組み方があるのに、異なった取り組み方をして
長いこと苦しみ続けてしまいかねない、という話です。

本当は「嫌い」なことを「合わない」と拒絶して
「好き」あるいは「嫌いではない」ぐらいになれる可能性から目を背け
改善の努力に取り組もうとしない。

あるいは「嫌い」なのを「合わない」と捉え
違いがあるのは仕方のないことだと頑張って受け入れようとして
「嫌い」の奥にある自分の価値観を抑え込んでしまう。

逆に「合わない」ことを「嫌い」だと捉えている場合には、
「”嫌い”という個人の反応は自分が成長すればなくなるはず」
「自分が変われば関係性も変わって、嫌いではなくなるはず」
と期待して、噛み合わない関係性に身を置き続ける結果
ずっと苦しい思いを味わい続けることになったり。

あるいは「合わない」だけなのに「嫌い」だと思うあまり
他者を嫌っている自分に対して「それは良くない」と判断して
自己嫌悪に陥ってしまうケースも見受けられます。


「合わない」のではなく「嫌い」なのだとしたら、
そこには自分の価値判断が表れています。

これまで経験してきたことによって
「こうすることが良い、正しい、普通だ」と考えるところがあり、
その考え方によって大切にしたい何か(価値観)がある。

相手とは、その価値判断が異なっているわけです。

よく話し合ってみたら、相手の考えの中にある価値観に共感できて
相手のことを受け入れられる可能性だってありえます。

お互いの価値観をすり合わせて共通のゴールを見出せるかもしれない。

ただの「違い」として諦めるのではなく、
自分の価値観も、相手の価値観も、どちらも大切にできるように
双方にとってベストな関わり方を見つけられる余地があります。

逆に、「嫌い」なのではなく「合わない」のだとしたら、
その性質そのものを受け入れて、素直に諦めることもできます。

「合わない」という違いについては「合う」ように無理をするよりも
「合わない」もの同士、どのような接点にしておけば
不快な思いをする必要がなくなるのか、という考え方です。

「合わない」から「嫌う」必要もありません。
相手の存在を尊敬しながらも距離を取ってもいいでしょう。
嫌悪感という感情を、心理的な距離を取る手段にする必要はありません。

「合わない」ものは「合わない」。
そのことで自分を肯定する必要も、否定する必要もない、と。


では、「合う・合わない」と「好き・嫌い」の違いは何なのか?

一言でいうと、
 学習されたものが「好き・嫌い」
 学習以前の生まれもった性質によるものが「合う・合わない」
と区別できます。

この区別が定義として正しいかどうかは定かではないですが、
『学習されたものかどうか』という基準で考えると
 「学習されたものなら再学習して変えられる。
  学習以前の生まれもったものは変えるのが大変。」
という現実的な理解が可能になります。

再学習して変えられるものであれば
変える方向で対処したら改善する余地があるわけです。

生まれもった度合いが大きくて変えにくいものだとすると
無理やり変えようと頑張るよりも、
現状を受け入れてしまった方が楽になれる可能性があります。

そういうシンプルな指針を目的とした区別です。


学習されたものは基本的に経験に基づきます。

本人が直接体験していなかったものであっても
教育という経験を通じて、何らかのイメージを仮想体験して
頭の中でシミュレーションできるだけの材料にはなります。

直接経験したものは、快・不快の状態を伴って
「〜したら、〇〇(快・不快)になる」という経験則になります。

で、「どういう種類のことに対して快を感じるのか」の分類が
価値観(=何を大切にしているか)だといえます。

例えば、人と穏やかに関わっている時の安らいだ状態を”快”とする人は
安心感や優しさなどを価値観としているということです。

そもそもどうして、その種の状態を”快”と捉えるのでしょうか?
どうしてその価値観を持つに至ったのでしょうか?

そこを振り返っていくと、何を頻繁に経験していたかに行き着きそうです。

生き物として安全に生存していられる状態、一切のリスクがない状態に
どの種類の体験が結びついているか。

言い換えると、どういう種類の状態にいるときに
生存の心配をする必要がなくなっていたか、ということです。

具体的には例えば、赤ちゃんのときに
抱きかかえてもらっている最中に安心していられたとすると、
身体の暖かさや触れ合い、揺すってもらっているリズムなどが
馴染みのある”快”の状態として経験されていくはずです。

何か生き物として不快な状態が起きて、泣いて表現する。
すると誰かが抱き上げて、揺すって、あやしてくれる。
そんな経験が多ければ、そこに基準が生まれてきやすい、と。

あるいは、不快なことがないまま目が覚めている状態のときほど
周りの人たちが集まって笑顔で見てくれている…といった経験が多ければ
人との穏やかな交流や静かな心地よさを”快”として学習しそうです。

また、不快なことがないときに体を動かして声を出して
身体的なエネルギーを活発に使っている場合ほど、
周りの人たちが関心を向けてくれたり、一緒に遊んでくれたりすれば
身体のアクティブな状態や、明るさ、楽しさなどを”快”と結びつける。

そんな風に小さいころから、
生き物として安全なときに慣れていた状態を
”快”のベースとして学習していくと考えられます。

それが価値観の土台になっていく、と。
つまり価値観も「慣れ」から生まれている。

食べ物の好み、生活習慣の好みも慣れによるところが大部分です。

辛い物が当たり前の文化で育てば、辛い物が好きになる。
味付けの濃い文化や家庭で育てば、そこに馴染んで基準が作られます。

生活環境の好みにしても同様。

人の外見の好みなんかも、自然に体験してきた情報量の影響が大きく、
身近な人に似た印象や、あるいは鏡に映った自分に似た印象、
テレビで頻繁に露出されている人の印象など、
体験の量が非常に大きく関わっているものです。

「慣れ」という単語が適切かは分かりませんが、
とにかく体験の量が、価値観を含めて
「好き・嫌い」の土台を生み出してきている、ということです。


一方、「合う・合わない」は学習と切り離れます。

エビ・カニにアレルギーのある人は、美味しいと感じても食べられません。

僕はグラノーラなどのシリアルを食べたいときがあるんですが、
牛乳をかけて食べると、決まってお腹の具合が悪くなります。
合わないんです。

生き物として個体のリズムもありますから、
歩くスピードや話すスピード、話し声のトーンなどは、
自分のリズムと相手のリズムが「合う・合わない」の話になります。

僕が女子高生のテンションと合わせるのは大変です。

犬が好きな僕ですが、リズムという観点で
小型犬よりも大型犬のほうが「合う」感じがあって心地いいです。

で、ここが少し紛らわしくて注意が必要なところ。

「合わない」のは心地よくない。

心地よくないということは「不快」として認識されます。

嫌いなものの土台にあるのも「不快」な状態です。

「不快」な状態が共通しているので混同されやすいわけです。

そうすると「合わない」から「不快」なだけなのに
「不快だということは嫌いなんだ」と判断してしまったりする。

アレルギーの人がエビを食べて苦しむ体験をする。
ここでアレルギーという理解があると「合わない」と判断できます。

でも「合わない」理由が何なのかを知識として理解できないと
「〇〇を食べると気分がよくない」という不快の体験だけから
印象を捉えることになります。

例えば僕はニンニクが多いものを食べるとお腹の具合が悪くなったり、
中華料理をたくさん食べたり、チェーン店の牛丼を食べたりすると
身体が重ダルくなったりする傾向がありますから、控えています。

味の慣れとしても「好き」の部類には入っていない自覚があります。

すると「好きではない」+「合わない」=「嫌い」のように
判断してしまいかねないんです。

確かに「食べたくない」気持ちは起こります。
でもそれは厳密には「嫌い」だからではない。
「合わない」からです。

もちろん、「合う」から「快」なだけなのに
「快だということは好きなんだ」と判断することもあります。

「快」を基準に選んで関わっていて、「快」が続くのであれば
それが「合う」だろうが「好き」だろうが問題は起きません。

ですが「合わない」から「不快」なのに
それを「嫌い」と混同してしまうと、
最初に述べたような問題が起きてきます。

食べ物ぐらいなら大きなトラブルにはならないでしょう。
しかし人間関係で「合わない」を「嫌い」だと認識してしまうと
「合わない」だけの人を不必要に嫌悪し、
拒絶や対立にまで発展したりする可能性もあります。

もしかしたら社会問題とされるものの中にも
「合わない」を「嫌い」とするためのものがあるかもしれません。

本当は「合わない」だけなら、
それを理由に「嫌う」必要はないでしょう。

「合わない」ことを無理やり合わせようと頑張る必要もない。

自然界はちゃんと棲み分けをしています。
合わない環境には生きていない。
合わない者同士は距離を取る。

人間以外の動物にも体験に基づいた「好き・嫌い」はあるようですが、
その度合いは人間よりもずっと小さいように見えます。

現実的ではない解決努力で苦労したり、
解決できるのに避けてしまったり、
取りつく島もないほど全てを拒絶してしまったり、
無理に受け入れようとして苦しんだり…、
そういうのは動物には起きなそうです。

まずは「合う・合わない」なのか「好き・嫌い」なのかを区別する。
体験によって学習されたものなのか?と振り返る。

その区別をつけるだけで楽になることが結構あるはずです。

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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