NLP

2017年11月20日

どっちつかずを絞り込む

ここ数か月、なにやら色々と立て込んでいたこともあって
英会話スクールに行けていませんでした。

実際にはスクールそのものの事情も重なり、
僕が通っていた校舎が閉鎖、他校に吸収合併されることとなって
少し面倒臭いところがあったのも1つの要因です。

幸い、英語そのものは週一回のビジネス英語クラスを別途とっていたり
アメリカ人講師のワークショップの手伝いをしたり、
何かしらの形で触れることはできていました。

で、海外講師の件も一段落しましたし、
ビジネス英語のクラスも全日程が終了しましたから、
できるだけ英語を使う機会をキープする目的でも
今まで通っていた英会話スクールを再開することにしたんです。

とはいえ、今までの先生は別校舎に移動してしまって、
そちらは少し通うのが面倒なところにあるため
以前と同じイギリス人の先生を選ぶのは難しそうな状況です。


僕がそのスクールを利用していた目的の一つは
イギリス人の英語に接する機会を増やしたかったところにもあります。

イギリス人講師が二人いたんです。

しかし、一人は病気で無期休職(ほぼ退職のような形だとか)。
もう一人は前述のとおり、校舎併合に伴ってレッスンを取りにくい。

どうやらイギリス人講師を探してレッスンを受けるのは
現状だと大変な感じなようです。

イギリス英語の発音をトレーニングする観点と
イギリス人の発音の聴き取りに慣れる観点で役に立っていたんですが
しばらくは自分で心がけながら練習することになる気がします。

コミュニケーションのトレーニングを積んできたせいもあって
語学においても会話の相手の影響を受けやすい傾向を自覚しています。

アメリカ人と接すると、アメリカ発音に引っ張られることも多いんです。

だからこそトレーニングの機会として
イギリス人と話す時間が欲しかったんですが…。

発音を重視したトレーニング機会を探してみることにします。


一方、英語に触れる機会を増やす目的では
英会話スクールに通うのを再開しようと思っていますから、
そうなってくると先生選びをやり直すことになります。

レッスンスタイルや予約の取りやすさ、相性など
様々な条件を加味して決めることになると思われます。

とりあえず今のところの計画は、
オーストラリア人を中心に何人か試してみる、というもの。

オーストラリアの発音は
出身地によってかなり差があるようで、
僕には馴染みのないものです。

イギリス発音に近い人もいますし、
アメリカ英語寄りの人もいます。
オーストラリア独特のもあるみたいです。

イギリス発音に近い先生が見つかれば
こちらとしても大きく巻き込まれなくて済みそうですし、
同時にオーストラリア発音の聴き取りも練習できそうです。

おそらくアメリカ人相手に話すよりも、
イギリス発音を強めに出して大丈夫なんじゃないかと予想しています。

アメリカ人相手だと、発音の種類の違いから
単語を理解してもらえないことも経験したことがありますから。

その点、イギリス英語寄りのオーストラリア人だったら
よりスムーズに取り組めそうにも思われます。


もしかしたら、相手の発音の癖が移らないように心がけるのも
自分の発話のトレーニングとしては役立つのかもしれません。

自分の発音に対する自覚の度合いが上がるでしょうから、
注意深く発話を扱えるようになる可能性も期待できます。

実際、僕が日本語を話すときにも
大阪や名古屋に行ったときのほうが
自分の発音を気にする度合いが高い傾向もありますし。

相手との違いを意識することで、自分の基準をハッキリさせる。
これは発音に限らず、自分の特徴を捉える上で有効な手段でしょう。

ペーシングを土台に、相手の流れに乗るようにして
英語をトレーニングしてきましたが、もしかすると
そろそろ自分の基準を確立しても良い時期なのかもしれません。

骨格をシャープに形作るようなイメージでしょうか。

そんな目的意識を想定したら
数か月ぶりの英会話スクールの再開も
少し楽しみになってきました。

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2017年11月17日

久しぶりに催眠

催眠のトレーニングの機会が久しぶりにありました。

僕自身はそれほど催眠を積極的につかう機会はありませんが、
過去には集中的に学んだこともある分野です。

催眠の効果への理解が深まるにつれ
催眠でなければならないところが減ってきた分
使う頻度が下がったようにも思われますが、
一方でその効果を上手く活用すると
より効果的にできるものも多いようには思います。

今回のトレーニングで、そういう補助的な活躍の仕方も
工夫しても良いのかもしれないと感じました。


しかし、それ以上に僕が今回発見した大きなポイントは
自分が思いの外、英語で催眠ができそうだ 、ということ。

外国からの参加者がいた関係で、
僕も英語で催眠セッションをする機会があったんです。

催眠の型式だと普段よりゆっくり話せること、
考え過ぎずに自然な流れで口から言葉を出すこと、
内容の論理性が重要ではないこと、
ボキャブラリーとしても馴染みのある分野だということ、
…そのあたりの影響でスムーズな感じを体験できたんでしょう。


全体構成としても、与えられた課題としても
クライアントの個性への合わせ方としても
日本語でやるのと大きな違いがなかったのではないかと思われます。

裏を返すと、日本語で催眠をやるときも
言葉そのものよりも重要な要素が多い
という話でもあるのかもしれませんが。

あとはペーシングによる同調でしょうね。

相手が英語話者だからこそスムーズにできた、と。

そこは自分の力ではなさそうなので、
一人だけでやるのとは事情が違いそうです。

とはいえ、ネイティブ相手だったら
それなりにやれそうな気もしたのはチョットした発見でした。


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2017年11月10日

スピーキングのトレーニング

外国語をやっていて、おそらく一番もどかしいのは
言いたいことが言葉にできない瞬間ではないでしょうか?

文章を読んでいて構造がややこしいのは
頑張って時間をかけて解読すれば、まだ対処できそうです。
何より、自分一人で読んでいるわけですから時間がタップリあります。

単語を知らなければ、それはもう調べるしかないですし、
逆にいえば知らないだけなので、気持ちを引きずらず、潔く次に進めます。

外国語である以上、聴き取りは常に大変なものだと思いますが、
こちらは聞けなかったときに意外と諦めがついてしまいがちです。
「あぁ、無理だ。分からない。」と。

聴くのは『必要性』があるから聴き取ろうとするのであって
「聞きたい」という自発的な『欲求』があるわけではありません。

その点、言いたいことが上手く言葉に言い表せない状況は
「言いたい」考えが頭に浮かんではいて、
「伝えたい」気持ちが起こっているときです。

話すときには「言いたい」欲求がある、と。

会話の流れの中だと尚更でしょう。
付け加えたい考えが浮かんだり、質問に答えようとしたり。
まず、言いたいことが浮かんでくる。

にもかかわらず、それを的確な言葉に変換できない。
…そういう”もどかしさ”です。


実体としては母国語でも同じようなことは起きていて、
ややこしい文章は理解が大変なものですし、
意味の分からない単語は調べるしかないですし、
滑舌によっては母国語でも聞き取れないこともあります。

母国語の会話でも、聴くのは多くの場合、必要性からであって
話すほうには、浮かんだ考えを口に出したい欲求が伴います。

そして母国語でも考えを的確に言葉に変換できなくて
「うーん、なんていったら良いか…。えーっと…。」
なんていうことはあるものです。

これもやはり、もどかしくはあると思われます。
とりわけ会話のテンポが速いときや、
質問されて「答えないといけない」プレッシャーを感じるときは
上手く言えない”もどかしさ”は大きくなるでしょう。

ただ外国語の場合、さらに
言いたい内容が母国語(別の話せる言語)で浮かんでしまって
「日本語だったらこう言うのに…。英語だと何て言うんだ?」
という感じの考えも同時に浮かんできます。

ただでさえ考えを言葉に変換できないのは”もどかしい”のに
母国語の場合との比較が加わってしまって
「言えるはずのことが言えない」という意味で
”もどかしさ”や悔しさが大きくなってしまうと考えられます。

これは学習の過程で避けられないところなのかもしれません。


ここで1つのやり方は、
浮かんだ考えを母国語の言葉そのものとして
対応する外国語に変換(翻訳)しようとせず、
むしろ
 一端その内容を、同じような意味で簡単な日本語に置き換えて
 それを簡単で自分の分かる外国語に変換する
というものです。

これだと知らない単語があっても何とか対応できますし、
最低限、自分の伝えたいことを言葉にすることができます。

例えば絵を見ていて「奥行きが上手く表現されている」と言いたいとき
「奥行き」に当たる単語が思いつかなかったとします。

そうしたら「近い」「遠い」といった単語を使って
「このものが遠くにあるように見える。リアルだ。」
などと言うようにする。

そういうやり方です。

これは現実的な対応力をつける上で重要な訓練だといえます。

全ての単語を覚えられるわけはありませんから
こういう表現方法を身につけられたら
少ないボキャブラリーでスムーズな会話ができるようになるでしょう。

別の言語を身につけようとした場合にも
ボキャブラリーは最低限のままで流暢に話せる可能性があります。


しかし、これだと自分の言いたい考えを
いつまでも的確に言葉にすることができません。

母国語に追いつかない、という”もどかしさ”が消えないわけです。

だったら、言いたいことが言えなかった瞬間に
その内容を、なんとかしてでも外国語に置き換えて
それを覚えて練習してしまえば効率的でしょう。

「奥行き」にあたる単語が分からなかったとき、
それをその場で調べるなり、教えてもらうなりして、
「奥行きが上手く表現されている」という日本語の内容を
もっとも的確に置き換えた表現を言えるようにしてしまう。

そういう作業を繰り返していくと、
自分が普段使っている母国語をそのまま外国語にできます。

個人の使う母国語には偏りがありますから
自分の母国語のパターンを外国語に置き換えようにするのは
かなり手っ取り早く、しかも”もどかしさ”を早く解消できる方法でしょう。

この作業を会話のレッスンの最中にできたら良いんですが、
なかなかそのトレーニングをさせてくれる講師はいません。

浮かんでしまった母国語の内容をそのまま言葉にして伝えても
それを外国語に変換できるバイリンガル講師でなくてはいけませんから。

しかも、母国語モードで考えるのではなく
極力、外国語で会話している状態を維持しつつ、
どうしても対応させられなくて”もどかしい”ときだけ
その言葉を母国語で言って、変換してもらう。

そしてその場で何度か言い直して使えるように記憶させる。

そういう臨機応変な対応が不可欠でしょう。

会話の流れをキープしたまま、語学トレーニングのモードと
自由に行ったり来たりできる柔軟性も必要だと思われますし。

何より、そういうトレーニング法を理解してくれたり
協力してくれたりする先生が少ないはずです。


なので比較的よく行われるのが
 自己紹介や自分にまつわる話を一度、母国語で書いたり、
 あるいは話したものを書き起こしたりして、
 その内容を外国語に訳してもらって、それを練習する
という方法です。

これだと自分の言いたいことをそのまま外国語に置き換えられます。

慣れてきたら、会話のトピックごとに自分の意見をまとめてみて
それを外国語に置き換えて覚えることを続けたらいいんでしょう。

様々な会話の内容について、自分が母国語で言いがちなことを
そのまま外国語で覚えられるようになります。

この作業のメリットは、会話のようにリアルタイムではないところ。

一人でやるなら、ライティングを中心にやっても良いのかもしれません。

まず日本語で書いてみて、それを英語にする、とか。

第二外国語をやるのであれば
英語で書いたものをフランス語やロシア語に置き換える、
といった感じでしょうか。


複数の言語を習得しようという場合にも良さそうな気がします。

ありがちな会話のトピックごとに母国語で自分の意見を書き、
それを常にストックしておいて、
全ての言語でその文章を言えるようにするトレーニングを行う。

自分の考えを、自分の言葉で表現するパターンを把握しておいて
それを言語化していくという内容です。

この勉強法(スピーキングのトレーニング法)、
勉強会のような形でやってみても良いかもしれません。

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2017年11月04日

癖を直すには

ジムに通い始めて半年が過ぎました。

だいたい週二回ぐらいの頻度でしょうか。

東京を離れていたり
夜遅く帰って次の日の朝が早かったり、
というのが4日以上続くと間隔が空いてしまいますが、
そういう特殊な事情がない限り
意外とコンスタントに続いています。

効果が実感できるのが地味なヤル気を出してくれる気がします。

僕の場合、セミナーの後は体が固まりやすいんです。
特に目からくる疲れが首や肩に溜まります。

少し別の観点からいうと、意識の配分が
自分の身体の中よりもセミナールームにいる受講生のほうに
大きく偏ることになりますから、
その意味でも自分の身体を酷使するところがあるんでしょう。

普段は意識に上がっている体感覚が薄れます。

その点、ジムに行って体を動かすと
筋肉の運動や血行を通じて身体の感覚に意識が戻りやすく、
しかも固まった筋肉もほぐれていきます。

固まった肉体を緩める目的にも
偏った姿勢で酸欠になった部分の血行を回復する目的にも
意識が離れていた身体へ注意を戻す目的にも
ジムでの運動が役立っているようです。


そして体を動かす効果としてもう1つ実感できるのが
自分の身体の使い方の癖です。

普段の動作では気づくことのできないアンバランスさ、歪みが
体に負荷をかける動作をすることで自覚できるんです。

エアロバイクを漕いでいれば重心の偏りや姿勢の歪みに気づき、
重りを動かすタイプのマシントレーニングをすると
力の入り具合が左右で違っていることに気づきます。

肉体的にいうと、僕は左腕、左足に力を込めやすいようです。

ですが、普段の生活で筋力のバランスを気にすることはないですし、
歩いている間の全ての時間を、自分の歩行姿勢や動作のバランスに
注意を向けることに使っているわけでもありません。

他に目的や事情があれば、関心の度合いが下がってしまいます。


普段の生活では、その場面において優先度の高いことがあって
そっちを気にするあまり、自分が何をしているかへの関心が下がる。

言い換えると、自分が作業として求めている『結果』に注意が向いて
その最中に「どのようにやっているか」という『プロセス』へ
関心が向きにくくなってしまう、ということです。

そのプロセスの中に癖があって、場合によっては
その癖が結果にさえ影響を与えているかもしれないのに、です。

癖があることにさえ気づかないで過ごしてしまうのが
多くの人にとっての日常なんだろうと思われます。

そこで自覚を高めるためには、
強制的に自覚の度合いが上がるようなことをするのが効率的。

僕の身体の使い方に関して言えば、それがジムでの運動であったり
整体で身体を緩めてもらうことだったり、
瞑想の類であったりするようです。


もちろん、他者からのフィードバックによって
自覚の度合いが高まることもあります。

自分が知らず知らずのうちにやってしまっている癖を指摘してもらい
それを自覚できるようにすることで、
普段のプロセスの最中から心がけて修正する、と。

最近僕にとって役立ったのは英語の発音です。

日本人にありがちな話なんですが、
僕は子音をルーズに発音することがあります。

まぁ、日本語だってアナウンサーのように滑舌よく発声してはいませんし
ネイティブの英語話者にだって発音がルーズな人は大勢います。

誤解を招くほどではないけれど不正確。
そんな音を出すことがあるみたいです。

日本語の癖で「ン(n)」の音を、鼻母音の「ん」にしてしまうとか。

それから口の動きが弱めでルーズになりがちなので
ワ行(「w」[w])、ヤ行(「y」[j])、ラ行(「r」[r])が
曖昧になりやすいようです。

母音を出す前に子音の音をしっかり出す必要がある、と。

同じく有声音の「th」(the, then, thereなど)についても
「d」[d]の音に近づきやすい傾向があるみたいです。

確かに言われてみると、そうだと実感できます。

有声音のときの呼気の量が少ないのもありそうですし、
摩擦音が弱いとも説明できそうです。

とにかく指摘されると気づけるけれど
会話のほうに一生懸命になっていると気づけなかったわけです。

しかしながら、一度指摘してもらって
それを「修正しよう」という意欲が生まれると
あとは色々な場面で気づきに上がりやすくなります。

自分でも他人でも、とにかくそのことが気になるようになる。

そうやって少しずつ正確さの感度が上がって
癖を修正していくことができるのかもしれません。


他人からフィードバックをもらうにせよ、
普段と違う動作で負荷をかけるにせよ、
いつもと大きく違うインプットで強めに意識を向けない限り
自分が自然とやってしまっている癖には気づきにくいのでしょう。

地道な作業ですが、そこに妥協をしないで続けられるかが
どこまで辿り着けるのかを決めるような気もします。

せっかくやるからには、やってみたいものです。

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2017年11月01日

大きな感情が表れるとき

ロシア語の講座には全部で8人の生徒がいます。

大学の公開講座になっていますから、
OBには若干の割引があったり、そもそも結びつきの強さがあったり、
参加している方の中には結構な割合で卒業生がいそうです。

その中に一人、20代ぐらいの女性で
勉強の得意そうな雰囲気の人がいます。

実際、毎回の講座にはしっかりと予習をして臨んでいるようで
単語帳を見ながら暗記もしているし、
質問も積極的にして確実に身につけようとしている印象を受けます。


おそらく非常に負けず嫌いの傾向が強く
塾でも学校でも優等生で通してきたんでしょう。

質問をするときの言葉遣いや声のトーンからも
若干の敵対心というかケンカ腰というか
自分の正しさを示そうとするような雰囲気が感じ取れます。

で先日、その人が練習問題を当てられて答えるときに、
ちょっとした間違いをしたんです。

予習として解いてあったものを読みながらでしたから
それなりの自信とともに言っていたと思います。

確かに少しだけ複雑な部分ではありました。
英語にはない文法項目でしたし。

「あなたたちの辞書」という言い回しの訳なだけなんですが、
英語だと「your dictionary」か「your dictionaries」か
いずれかしかありません。

それがヨーロッパ言語になると、
フランス語でもスペイン語でもロシア語でも
2人称(あなた)にあたるところが
「君」と「あなた」のように親しみ度合いで2種類あるんです。

そして「君たち」のように2人称複数形になったものが
「あなた」という敬意のある2人称単数と同じ形になります。

もちろん「あなたたち」という2人称複数も同じ形です。

ですから「君」という親しい関係の2人称単数にあたる単語が1つ。
それとは別に、
 峽たち」(親しい2人称複数)
◆屬△覆拭廖雰桧佞里△襭何余涼運堯
「あなたたち」(敬意のある2人称複数)
の3つに対応する単語が1つある、ということです。

この問題では「あなたたちの」ですから
後半の3つのほうの話です。

さらにロシア語でもフランス語でも、
「誰々の〜」という所有形容詞は
あとに続く名詞が単数か複数かによっても形が変わります。

ですから「君の1本のペン」と「君の複数のペン」では
「君の」の形が変わるんです。

当然、もう一方の「君たち、あなた、あなたたち」に対応するほうでも
後に続く名詞が単数か複数かによって形の違いがある。

そういう意味で、「あなたたちの辞書」という日本語は
ロシア語に変換するときには少し複雑なわけです。

2人称単数のほうなのか、2人称複数(敬意のあるほう)なのか。
後に続く名詞は単数なのか、複数なのか。
この両者を同時に扱う必要がある。

そこでその負けず嫌いの人は、
2人称複数のほうにするのを見落としてしまっていたようなんです。

ですから実際には「君の複数の辞書」として訳してしまった。


かなり準備もしているし復習もしているし、
自信があって負けず嫌いの優等生といった感じですから
間違いが気に入らないわけです。
間違っていることを認めたくもない。

それで「いや、でも…」なんて食い下がりかけたんですが、
このロシア語の先生が一風変わったコミュニケーションの持ち主で
相手の気持ちを汲み取るとかは一切しないし、
オドオドしながらも自分のペースを崩さないような
いかにも大学教授といった人なんです。

そのため彼女の質問を途中で遮り、
上記の違いを独特のペースで説明し始めました。
かなり分かりにくい説明だったと思います。

途中、何度か答えを言い直させようとして問いかけるんですが
解説そのもののやり方がグチャグチャなうえに
間違えを指摘されたことで平常心を大きく失っている彼女は
まともに理解することもできなくなっていました。

ほとんど泣きそうな状態。
内側にもどかしい怒りも溜まっているので
ほとんど小さい子供の「癇癪」に近い状態だったと思います。

優秀さと正解を自分の存在の拠り所として育ってきたら
無理のない状況だったことでしょう。

はたから見ていれば
「たかがロシア語入門の練習問題の1つを
 半分だけ間違えただけなのに、そこまで…」
と感じた人もいたかもしれませんが
(その感情すら見ていない人もいたでしょうが)
本人にとっては重要な部分なんだろうと考えられます。


それで思い出したのは、
 僕は個人として、もうここ何年も
 そこまで強い感情を体験していない
ということでした。

先日、スカイプが動かなくて先方を待たせてしまったときと
寝坊をして遅刻してしまったときには焦りが出ました。

でも逆に言うと、大きな感情が起こっていないようです。

確かに以前はあったんですが。
他人から気づかされることは多いものですね。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!

2017年10月29日

翻訳中の頭の中

ようやく翻訳に一区切りがつきました。

つくづく実感するのは、翻訳作業に重要なのは
英語力という曖昧なものではなく、
言語一般の運用能力なのだろうということです。

英語力と一口に言っても
読解、聴き取り、聴解、語彙、ライティング、スピーキング…
など色々と細分化ができそうです。

もちろん語彙や表現方法を知っているかどうかは
自分が話すうえでも、聞いて理解する上でも重要です。

一方、こと翻訳に関してであれば
(調べる時間がかかることを除くと)
調べて済む範囲としてさほど大きな問題ではなさそうに感じます。

その点、文章を読んで理解する力は、もっと重要そうです。
文章構造を捉えて、論理展開を踏まえ、
何を表現しようとしているかを判断する。

これには文法知識や語彙だけでなく、
頭の中で文章の内容に沿ったイメージを
組み立てる力が求められるように思えます。

実際、母国語で何も気にせずに話すときでも
頭の中には、その文章の内容に対応した
イメージが先行していると考えられます。

伝えたいことが頭の中で組み上がり、イメージのようなもの
(NLP的に言うと五感情報の組み合わせ)が作られて、
その内容に対応した言語情報が選び取られる、と。

この作業において、イメージと言語ラベルの対応が
どれぐらいスムーズに作られているか、
同じようなイメージを違う言語ラベルで正確に言い分けられるか、
…といったあたりが微妙なニュアンスの違いへの理解力を生みます。

翻訳というのは…

 まず、1つの言語で表現された文章を読んで
 一度頭の中でイメージに変換しながら理解して、
 その伝えたいニュアンスを捉える。

 それから、そのイメージを別の言語で最も的確に再現できて、
 かつ、元の文章構造と大きく違わない形に変換する。

というのが求められるのではないでしょうか。

スペイン語とフランス語の翻訳のように
文法構造が殆ど同じであれば、
単語を置き換えるだけで成立する可能性もあります。

英語でもフランス語でもドイツ語でも
ヨーロッパ語圏は、それなりに共通点が多いので
意外と訳の作業は大変ではないかもしれません。

日本語と韓国語も比較的シンプルな対応だけでできるんだとか。
(僕は知らないので聞き伝えですが)

それと比べると、英語と日本語の差は大きい。
文章構造だけでなく、理解のために作り出されるイメージそのもの、
つまり伝えようとしているイメージさえも違うんです。

日本語は静止画が多いけれど、英語は動画が多いとか、
日本語は横から見るイメージが多いけれど
英語は正面に向き合ったようなイメージが多いとか。
そういった違いもありそうです。

そこをシンプルに単語の置き換えで対応すると
英語を日本語にしたときに奇妙で理解しがたい文章になりがちです。

何が書いてあるかは分かるけれど、意味が捉えられない。
そんな感じ。

英語と日本語の翻訳が、そのように
シンプルな単語レベルの対応だけでは成立しないとすると、
翻訳では文章そのものを読解する能力が必要になると考えられます。

つまり頭の中でイメージを組み立てて、
そのイメージの持つ微妙な意味合いの違いに敏感になりながら
それとピッタリ合った言い回しに置き換えていく、と。

これをやるには、そもそも
 頭の中のイメージ(=伝えたいこと)を
 言葉で正確に表現する能力
が必要になるでしょう。

それが2つの言語のどちらにも求められる。

この能力は、単純に英語や日本語で
つっかかることなく流暢に言葉を出せることとは無関係です。

流暢に表現しているからといって
その言葉の選び方が伝えたい内容を
適切に、過不足なく表しているとはいえません。

だから母国語でも言語運用能力に差があるわけです。

アメリカではアカデミック・ライティングを中心に
ある程度、このトレーニングをするようです。

少ない文字数で濃密に、しかも論理の飛躍なしに
表現したいことが全て詰まった形の文章になるように書く。

手直しをされながら、何度も書き直してトレーニングする、と。

しかし日本の教育には、そういう要素が少ない印象があります。
僕は少なくとも受けた記憶がありません。

おそらく僕の場合、
理系の研究報告として論理性のある考察を書くトレーニングを積み、
英語の勉強としてアカデミック・ライティングをやり、
それをNLP的に五感のイメージと対応させる習慣がついたことで、
言語表現と伝えたいイメージとの対応が
かなりスムーズになってきたんだろうと思われます。

それは文学的な美しさとは全く別物で
ニュアンスの違いをやり取りする上での正確性だけの話です。

今、翻訳の依頼を受けると、
これまでの地道なトレーニングが役立っているのを実感します。

裏を返すと、高校の頃、英語の授業でやっていた読解練習は
ただの単語の一対一対応としての訳であって、
何の理解もしていなかったような気がしてきます。

辞書を引きながら1ページ分の訳が終わって、
書きあがった日本語の文章を見直しても
チンプンカンプンだったのは無理もないことでしょう。

根本的な言語能力のトレーニングも
1つの役立つ要素なのかと思います。

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2017年10月26日

トラブル続き

なんだか最近、トラブルが続きます。

よく分からないけれど上手くいかない結果に巻き込まれて
色々と手を打つ必要が出てきたり。

なぜかパソコン絡みで急なトラブルが起きて
大事なオンラインミーティングができなくなり、
スケジュールを改めてもらったり。

肉体的にも精神的にも負荷のかかる仕事が重なったり。

自分の不注意で先方に迷惑をかけてしまったり。

幸い破滅的な結果には結びついていませんが
振り返ってみるとトラブルが多い印象です。


不思議なもので、いろいろとスケジュールが重なって
気ぜわしくなっているときほどトラブルが多い気がします。

もちろん、忙しさから自分の落ち着きがなくなって
自分の不注意からしてしまうミスも含まれますから、
そちらのほうは、ありがちな話ともいえるかもしれません…
反省とは別のレベルとして。

しかし自分が起点になっていないトラブルに巻き込まれる。
普段だったらスムーズに進むところがそうならない。
これが重なるのは何とも奇妙な感じです。

秋の終わりに2週連続で台風が日本列島を直撃する…
なんていうのと同じぐらい、偶然かもしれないけれど
「滅多にない厄介なケース」として感じられます。

それによって自分の日々の行動に支障が出ないよう
しっかりと心身を調えるのが可能な範囲の最善でしょうか。


そういう意味でいうと、最近ふと目に留まったフレーズ
 『心の目を閉じる』
というのは意味がありそうです。

忙しさの理由の1つになっている資料の翻訳ですが、
その中でパッと目に留まった言い回しでした。

資料の本筋の内容とは無関係で、
ただの説明の一部に使われていた
資料を作成したご本人特有の言い回しなんだと思います。
(内容的に著作権に引っかかるとかいうものではないはず)

ただそれが今の僕の状態に役立ちそうだった。
それで印象に残ったんでしょう。

忙しい時ほど、目を閉じても
頭の中、心の中が動き続けるような感じがするものです。
眠れないときなんて、余計にそんな状態でしょう。

むしろ目を閉じることで一層、
頭の中の作業が意識に上がりやすくなって
さらに気ぜわしさを高めてしまうこともあるかもしれません。

そんなとき、心の中の目を閉じるような”つもり”になるだけで
スーッと落ち着いていく部分があるのにも気づけます。

そういうリセットの仕方も大事な時期という印象です。


まぁ、それ以上に慌ただしさに一区切りがついたあたりで
大きめのリフレッシュをする必要はありそうですが。

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2017年10月16日

伝える工夫にはキリがない

セミナーの仕事をする以上、人前で話すことは多いものですが
実際の難しさでいうと、人前でない情報発信のほうが
本来は工夫が求められるものなのかもしれません。

人前というと緊張しがちなイメージを持たれる一方、
目の前に反応してくれる人がいるのはメリットでもあります。

伝わっていないようであれば表情や姿勢で教えてくれますし、
どういう説明をすると分かってもらいやすいのかも
その場にいる人に合わせる形で進められます。

質問が出やすい雰囲気にさえなっていれば、
説明が漏れたり、説明が早かったり、表現が複雑だったりしても
質問をしてもらえるので言い換えたり補足したりできます。

その意味で最初からキッチリと表現できていなくても
現実的な問題は起こりにくいわけです。

もちろん、目の前の聴衆とコミュニケーションをするときでも
工夫のしどころは沢山あるとはいえます。

が、どれほど工夫しても全員に届く説明は困難でもあります。

隣の部屋から騒音がしてきて集中力が途切れたり、
メモを取っている間に説明を聞き漏らしたり、
あまりにも個人的な事情に当てはまるケースのために
自分の過去を振り返って感じ入っている間に話が進んでしまったり、
…何かしらの要因で話を聴きそびれることはあるものでしょう。

だからこそセミナーでは繰り返し、言い方を変えて話したり、
別のタイミングで同じ内容に触れてみたり、
冗長になってでも説明の量を増やしたり、
事例を追加したりしながら、伝わるための確実性を上げていけます。

つまり「必要最小限の情報で確実に届ける」というのは
現実的に厳しくもあり、逆にそうしなくても大丈夫なことが多い
ともいえそうなんです。


それに比べると記録された媒体での伝達、
人前ではない場面での情報伝達、
…例えば書いた文章とか録画・録音した教材とか…は、
もっと制約が多いように感じられます。

冗長になっても進みの遅さを感じさせかねないし、
かといってシンプルにまとめ過ぎたら
情報量が少なくて理解しきれないこともある。

例が多いと分かりやすい人もいれば、
自分に関係のない例は不要に感じる人もいる。

分かるかどうかの話だけではなく、
筋が通っていると感じてもらうには
論理の飛躍がないように情報提供する必要がありますが、
それだって行間を汲み取る人にとっては余剰に思えるようです。

そのインプットの行為(読んだり、聞いたり)を
どれぐらいの積極性で取り組んでいるかも個人差があります。

積極性が十分でなければ、前向きになってもらうような
話の組み立ても必要になるかもしれません。

そうした様々な条件を踏まえながら
過不足なく纏め上げるのは簡単なことではないだろう、と。

少なくともリアルタイムに対応できる人前での説明より
工夫することが多くなると思われます。


例えば、1つの技法の手順を説明するとします。
営業とか説得とか、そういう技法。

技術ですから、
使うべき場面・状況があって、
何のためにするか?という目的があります。

目的は「こういう結果を得るため」という
技術を使った影響としての結末と結びつきます。

そしてその結末に辿り着くために手順がある。
「まず〇〇して、次に△△して…」というステップ。

同じことを話すにしても、どういう順番で話すかによって
聞く人の理解の仕方は異なってくるはずです。

場面・状況を出発点にしたら
「技法の使い方・how to」としての意味合いが強まりそうです。

「こういうときには、この技法を使います。
 まず〇〇します。次に△△します。それから…。
 すると〜な結果が得られます。
 …なメリットがあるということです。」といった具合。

ところが同じことでも、技術の目的、重要性を強調するなら
予想される結末から話した方が都合がいいかもしれません。

「この技法を使う目的は…なところにあります(メリット)。
 〜な結果を得るために使う、ということです。
 その結果のためには、こういうことが求められます。
 そのためには△△が必要なんです。
 だからこそ、まず最初に〇〇をするわけです。」といった具合。

同じ内容でも、手順のように説明することも出来れば
目的や重要性の説明として話すこともできます。

そのときにどちらを強調したいのか?
受け取り手がどういう状態のときの説明なのか?

そんなところで説明の順番さえ工夫のしどころがある、と。


そんな風に可能な工夫を挙げていったらキリがなさそうです。
妥協しなければ沢山やれそう。

双方向性の低い伝達、リアルタイムではない伝達のほうが
工夫する余地が多いのではないか、ということです。

そう考えると人前で話すのは、
むしろ楽な部類なのかもしれません。

cozyharada at 23:39|Permalinkclip!

2017年10月13日

直接教えてもらうメリット

ロシア語のクラスも3回目が終わったところです。

ようやく文章に入ってきました。
ロシア語の文法は複雑だという話ですが
まだその片鱗も見えていません。

単に、文字に馴染みがなく、
想像もつかないような単語が多いというだけ。
覚えることの多さはあっても、複雑さまでは感じられていません。

そう思うと、日本人は知らない間に英単語に触れる機会が多く
英語教育を抜きにしても英語への露出は多いのを実感します。


文法の複雑さまでは触れていない段階ですが
初出の単語を覚える過程や、基本的なルールを把握する段階として
「授業を受ける」ことの効果は強く感じられます。

不思議なもので予習として教科書を読んでいるときや
自習で参考書を読んでいるときに起こる理解の状態よりも、
授業中に教わるほうが納得度と記憶の定着度が大きいんです。

一度に扱う量が多くないこともあって、
授業に出ているだけで覚えられるところが沢山あります。

それは自習では得られない効率なんです。


1つには情報量の多さがあると考えられます。

ここでいう「情報量」というのは、
授業中に扱う単語の数とか、文法事項の量とかの話ではありません。

学習の体験中にインプットされる刺激の量の話です。

自宅や電車の中ではない特殊な学習環境や、黒板に書かれる文字、
教科書の文字、自分で書いたノートの文字などが視覚情報、
先生の話による説明、発音練習の時の声が聴覚情報、
発音するときやメモを取るときの筋肉の感じや教室の空気などは
体感覚情報としてインプットされています。

この五感レベルでのインプットが多いのが
記憶に残りやすい1つの理由だろう、と。

記憶は情報の結びつけとして記録されるようですから
関連するものと結びついているほど残りやすいと言われます。


その意味では、授業の場合に受動的に理解できるのも大きそうです。

本を読むときは、読んで理解するという作業を自分でやります。
能動的な要素が含まれるわけです。

一方、授業を聞くときは自然と情報が流れ込んでくる感じがあります。
少なくとも「読む」という能動的な行為をしなくていい。

そのため説明を聞きながら、関連する概念と結びつけたり、
法則を頭の中で整理したりする時間があります。

僕の場合、ロシア語を英語、フランス語、日本語と対応させます。
そこで比較・対照を行って、共通点と違いをもとに整理すると
既に自分が持っている記憶のネットワークに追加できるわけです。

新しいことを勉強していても、完全にゼロからではなくなります。

整理をする過程で、区別のために必要な情報がまだ説明されていなければ
その時点で先生に質問をしてハッキリさせることもできます。
(当然、「質問した」という体験も記憶を促進させるインプットになる)

このあたりの「頭の中で情報の整理をしながらインプットを受ける」
という状態が、受動的でいられる授業形式のメリットだといえそうです。


ここまでであれば、動画レッスンでも近い効果は得られそうです。
オンラインでも同じかもしれない…?

ですが、ラポールやペーシングという話になってくると
また別の要因も関わっているような気がするんです。

それは「分かっている感」の共有。
ロシア語っぽさの雰囲気とか、
ロシア語を話すときの内面の状態とか、
ロシア語の文法を分かって覚えている人の頭の中の感じとか、
そういう内的な状態もラポールを通じて影響されそうな気がします。

シンプルに言うと、
 分かっている人と同じ場を共有して、
 ラポールのある状態で教えてもらうと
 理解が進みやすい
ということ。

ここがライブで教わるメリットの1つじゃないかと思えます。

特に分かっている人から教わるほど、そのメリットは大きい。

やはり直接教わるのであれば、分かっている人のほうが良さそうだ
と実感させられるロシア語の授業です。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!

2017年10月10日

英語から日本語へ

翻訳作業で少し立て込んでいました。
ようやく一区切り。

あとはミスがないか見直すぐらいです。


翻訳をしていて実感するのは、意外と
普段は、自分の頭の中で日本語を介さずに理解しているらしい
ということ。

いざ日本語の文章にしようとすると
日本語らしい文章の構造だとか、理解しやすい順番だとかを
工夫するのに予想外に手間がかかることがあります。

また、日本語に変換しにくい単語もあったり。
「commit」なんかは「コミット」でも良いのかもしれませんが、
カタカナ語の「コミット」がどれぐらい一般的なのかとなると
いささか自信がないのも実態。

かといって辞書の意味で「commit」を訳すと
元の文章の趣旨とはズレてしまう印象もあったりします。

同様に、日常的で簡単な単語でも日本語にしずらいことがあります。

ですから英語として読んでいる段階ではスムーズなものが
日本語に変換しようとしたときに時間がかかる。

英語の文章を読んで、それをそのまま書き写すよりも
頭の中で自然な日本語を組み立てるのに長い時間が必要なようです。

逆に言えば、英語の文章を読んで理解するときは
日本語を使っていないらしいということ。


いつからそうなっていたのか分かりませんが
高校生の時にひたすら長文読解をさせられていたときは
全文を日本語訳(直訳)するのが授業の準備だった記憶があります。

研究をするようになって論文を読んでいたころは
あまり日本語訳をしっかりしていなかったような気がします。

それは理系の専門分野になってくると使われる単語が限られてきて
英語の日本語の差が、あまり大きくないこともあったからです。
知らない単語の意味を調べさえすれば、
それ以上の日本語訳は必要なかったように思います。

そのあたりから徐々に全訳しなくなっていったのかもしれません。
少なくとも英語の順番で理解する癖がついていったのでしょうし、
英語でしか知らない単語は英語のまま使っていったように思います。

その分、英語と日本語の切り分けが進んでいって
しっかりと対応させようとしたときには
全訳をしていたときのような頭の使い方に
戻らなくてはいけないんでしょう。

全訳をするトレーニング量がそれほど多くなく、
むしろ訳さずに理解する経験の量が上回っているため、
作業としてのスムーズさの点で
全訳のほうが負荷がかかるように思われます。


そう考えると翻訳の作業も繰り返していけばスムーズになって
 英語を読みながら、そのままキーボードで日本語を書き出せる
といったところまで辿り着けるのかもしれません。

通訳の場合には、また違った頭の中の作業が必要そうですから
そちらには別途のトレーニングも求められると思いますが、
いずれにしても英語と日本語の間の繋がりが強まって
変換がスムーズになってきたとすると、おそらく
頭の中で英語と日本語が同時に進行する感じが出るような予感がします。

英語を読みながら、頭の中で英語の黙読の声を聞き、
同時に日本語の翻訳の声も聞こえている…。
そんな体験が起こってくるんじゃないか、と。

僕の場合、英語をトレーニングしてくる過程で
そうした相互の結びつきは作られていません。

単語レベルでもキッチリ対応していないものもあるようです。

頭の中のイメージを単語やフレーズに対応させる段階で
英語と日本語を別々にやっている度合いが大きい印象を受けます。

例えば、「頭」と「 head 」は同じ概念として整理されていない。

翻訳を効率化するには、1つの同じ概念に対して
日本語と英語のラベルを2つ貼るような整理の仕方が求められそうです。

そして経験を重ねて、長いフレーズの単位でも
日本語と英語の2種類で対応させてしまう。

単語を組み合わせて文章を作る、というよりは
「この英文は、この日本語」といった対応パターンを増やす感じ。

相互に対応したパターンの多さが翻訳や通訳のスムーズさに繋がるとしたら
二か国語を使えることと、翻訳・通訳できることとでは
頭の中の作業には大きな違いがあるような気がしてきます。

ある種の専門技能が必要ということかもしれません。

良いか悪いかではなく、チョット考えさせられる部分です。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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