NLP

2017年10月16日

伝える工夫にはキリがない

セミナーの仕事をする以上、人前で話すことは多いものですが
実際の難しさでいうと、人前でない情報発信のほうが
本来は工夫が求められるものなのかもしれません。

人前というと緊張しがちなイメージを持たれる一方、
目の前に反応してくれる人がいるのはメリットでもあります。

伝わっていないようであれば表情や姿勢で教えてくれますし、
どういう説明をすると分かってもらいやすいのかも
その場にいる人に合わせる形で進められます。

質問が出やすい雰囲気にさえなっていれば、
説明が漏れたり、説明が早かったり、表現が複雑だったりしても
質問をしてもらえるので言い換えたり補足したりできます。

その意味で最初からキッチリと表現できていなくても
現実的な問題は起こりにくいわけです。

もちろん、目の前の聴衆とコミュニケーションをするときでも
工夫のしどころは沢山あるとはいえます。

が、どれほど工夫しても全員に届く説明は困難でもあります。

隣の部屋から騒音がしてきて集中力が途切れたり、
メモを取っている間に説明を聞き漏らしたり、
あまりにも個人的な事情に当てはまるケースのために
自分の過去を振り返って感じ入っている間に話が進んでしまったり、
…何かしらの要因で話を聴きそびれることはあるものでしょう。

だからこそセミナーでは繰り返し、言い方を変えて話したり、
別のタイミングで同じ内容に触れてみたり、
冗長になってでも説明の量を増やしたり、
事例を追加したりしながら、伝わるための確実性を上げていけます。

つまり「必要最小限の情報で確実に届ける」というのは
現実的に厳しくもあり、逆にそうしなくても大丈夫なことが多い
ともいえそうなんです。


それに比べると記録された媒体での伝達、
人前ではない場面での情報伝達、
…例えば書いた文章とか録画・録音した教材とか…は、
もっと制約が多いように感じられます。

冗長になっても進みの遅さを感じさせかねないし、
かといってシンプルにまとめ過ぎたら
情報量が少なくて理解しきれないこともある。

例が多いと分かりやすい人もいれば、
自分に関係のない例は不要に感じる人もいる。

分かるかどうかの話だけではなく、
筋が通っていると感じてもらうには
論理の飛躍がないように情報提供する必要がありますが、
それだって行間を汲み取る人にとっては余剰に思えるようです。

そのインプットの行為(読んだり、聞いたり)を
どれぐらいの積極性で取り組んでいるかも個人差があります。

積極性が十分でなければ、前向きになってもらうような
話の組み立ても必要になるかもしれません。

そうした様々な条件を踏まえながら
過不足なく纏め上げるのは簡単なことではないだろう、と。

少なくともリアルタイムに対応できる人前での説明より
工夫することが多くなると思われます。


例えば、1つの技法の手順を説明するとします。
営業とか説得とか、そういう技法。

技術ですから、
使うべき場面・状況があって、
何のためにするか?という目的があります。

目的は「こういう結果を得るため」という
技術を使った影響としての結末と結びつきます。

そしてその結末に辿り着くために手順がある。
「まず〇〇して、次に△△して…」というステップ。

同じことを話すにしても、どういう順番で話すかによって
聞く人の理解の仕方は異なってくるはずです。

場面・状況を出発点にしたら
「技法の使い方・how to」としての意味合いが強まりそうです。

「こういうときには、この技法を使います。
 まず〇〇します。次に△△します。それから…。
 すると〜な結果が得られます。
 …なメリットがあるということです。」といった具合。

ところが同じことでも、技術の目的、重要性を強調するなら
予想される結末から話した方が都合がいいかもしれません。

「この技法を使う目的は…なところにあります(メリット)。
 〜な結果を得るために使う、ということです。
 その結果のためには、こういうことが求められます。
 そのためには△△が必要なんです。
 だからこそ、まず最初に〇〇をするわけです。」といった具合。

同じ内容でも、手順のように説明することも出来れば
目的や重要性の説明として話すこともできます。

そのときにどちらを強調したいのか?
受け取り手がどういう状態のときの説明なのか?

そんなところで説明の順番さえ工夫のしどころがある、と。


そんな風に可能な工夫を挙げていったらキリがなさそうです。
妥協しなければ沢山やれそう。

双方向性の低い伝達、リアルタイムではない伝達のほうが
工夫する余地が多いのではないか、ということです。

そう考えると人前で話すのは、
むしろ楽な部類なのかもしれません。

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2017年10月13日

直接教えてもらうメリット

ロシア語のクラスも3回目が終わったところです。

ようやく文章に入ってきました。
ロシア語の文法は複雑だという話ですが
まだその片鱗も見えていません。

単に、文字に馴染みがなく、
想像もつかないような単語が多いというだけ。
覚えることの多さはあっても、複雑さまでは感じられていません。

そう思うと、日本人は知らない間に英単語に触れる機会が多く
英語教育を抜きにしても英語への露出は多いのを実感します。


文法の複雑さまでは触れていない段階ですが
初出の単語を覚える過程や、基本的なルールを把握する段階として
「授業を受ける」ことの効果は強く感じられます。

不思議なもので予習として教科書を読んでいるときや
自習で参考書を読んでいるときに起こる理解の状態よりも、
授業中に教わるほうが納得度と記憶の定着度が大きいんです。

一度に扱う量が多くないこともあって、
授業に出ているだけで覚えられるところが沢山あります。

それは自習では得られない効率なんです。


1つには情報量の多さがあると考えられます。

ここでいう「情報量」というのは、
授業中に扱う単語の数とか、文法事項の量とかの話ではありません。

学習の体験中にインプットされる刺激の量の話です。

自宅や電車の中ではない特殊な学習環境や、黒板に書かれる文字、
教科書の文字、自分で書いたノートの文字などが視覚情報、
先生の話による説明、発音練習の時の声が聴覚情報、
発音するときやメモを取るときの筋肉の感じや教室の空気などは
体感覚情報としてインプットされています。

この五感レベルでのインプットが多いのが
記憶に残りやすい1つの理由だろう、と。

記憶は情報の結びつけとして記録されるようですから
関連するものと結びついているほど残りやすいと言われます。


その意味では、授業の場合に受動的に理解できるのも大きそうです。

本を読むときは、読んで理解するという作業を自分でやります。
能動的な要素が含まれるわけです。

一方、授業を聞くときは自然と情報が流れ込んでくる感じがあります。
少なくとも「読む」という能動的な行為をしなくていい。

そのため説明を聞きながら、関連する概念と結びつけたり、
法則を頭の中で整理したりする時間があります。

僕の場合、ロシア語を英語、フランス語、日本語と対応させます。
そこで比較・対照を行って、共通点と違いをもとに整理すると
既に自分が持っている記憶のネットワークに追加できるわけです。

新しいことを勉強していても、完全にゼロからではなくなります。

整理をする過程で、区別のために必要な情報がまだ説明されていなければ
その時点で先生に質問をしてハッキリさせることもできます。
(当然、「質問した」という体験も記憶を促進させるインプットになる)

このあたりの「頭の中で情報の整理をしながらインプットを受ける」
という状態が、受動的でいられる授業形式のメリットだといえそうです。


ここまでであれば、動画レッスンでも近い効果は得られそうです。
オンラインでも同じかもしれない…?

ですが、ラポールやペーシングという話になってくると
また別の要因も関わっているような気がするんです。

それは「分かっている感」の共有。
ロシア語っぽさの雰囲気とか、
ロシア語を話すときの内面の状態とか、
ロシア語の文法を分かって覚えている人の頭の中の感じとか、
そういう内的な状態もラポールを通じて影響されそうな気がします。

シンプルに言うと、
 分かっている人と同じ場を共有して、
 ラポールのある状態で教えてもらうと
 理解が進みやすい
ということ。

ここがライブで教わるメリットの1つじゃないかと思えます。

特に分かっている人から教わるほど、そのメリットは大きい。

やはり直接教わるのであれば、分かっている人のほうが良さそうだ
と実感させられるロシア語の授業です。

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2017年10月10日

英語から日本語へ

翻訳作業で少し立て込んでいました。
ようやく一区切り。

あとはミスがないか見直すぐらいです。


翻訳をしていて実感するのは、意外と
普段は、自分の頭の中で日本語を介さずに理解しているらしい
ということ。

いざ日本語の文章にしようとすると
日本語らしい文章の構造だとか、理解しやすい順番だとかを
工夫するのに予想外に手間がかかることがあります。

また、日本語に変換しにくい単語もあったり。
「commit」なんかは「コミット」でも良いのかもしれませんが、
カタカナ語の「コミット」がどれぐらい一般的なのかとなると
いささか自信がないのも実態。

かといって辞書の意味で「commit」を訳すと
元の文章の趣旨とはズレてしまう印象もあったりします。

同様に、日常的で簡単な単語でも日本語にしずらいことがあります。

ですから英語として読んでいる段階ではスムーズなものが
日本語に変換しようとしたときに時間がかかる。

英語の文章を読んで、それをそのまま書き写すよりも
頭の中で自然な日本語を組み立てるのに長い時間が必要なようです。

逆に言えば、英語の文章を読んで理解するときは
日本語を使っていないらしいということ。


いつからそうなっていたのか分かりませんが
高校生の時にひたすら長文読解をさせられていたときは
全文を日本語訳(直訳)するのが授業の準備だった記憶があります。

研究をするようになって論文を読んでいたころは
あまり日本語訳をしっかりしていなかったような気がします。

それは理系の専門分野になってくると使われる単語が限られてきて
英語の日本語の差が、あまり大きくないこともあったからです。
知らない単語の意味を調べさえすれば、
それ以上の日本語訳は必要なかったように思います。

そのあたりから徐々に全訳しなくなっていったのかもしれません。
少なくとも英語の順番で理解する癖がついていったのでしょうし、
英語でしか知らない単語は英語のまま使っていったように思います。

その分、英語と日本語の切り分けが進んでいって
しっかりと対応させようとしたときには
全訳をしていたときのような頭の使い方に
戻らなくてはいけないんでしょう。

全訳をするトレーニング量がそれほど多くなく、
むしろ訳さずに理解する経験の量が上回っているため、
作業としてのスムーズさの点で
全訳のほうが負荷がかかるように思われます。


そう考えると翻訳の作業も繰り返していけばスムーズになって
 英語を読みながら、そのままキーボードで日本語を書き出せる
といったところまで辿り着けるのかもしれません。

通訳の場合には、また違った頭の中の作業が必要そうですから
そちらには別途のトレーニングも求められると思いますが、
いずれにしても英語と日本語の間の繋がりが強まって
変換がスムーズになってきたとすると、おそらく
頭の中で英語と日本語が同時に進行する感じが出るような予感がします。

英語を読みながら、頭の中で英語の黙読の声を聞き、
同時に日本語の翻訳の声も聞こえている…。
そんな体験が起こってくるんじゃないか、と。

僕の場合、英語をトレーニングしてくる過程で
そうした相互の結びつきは作られていません。

単語レベルでもキッチリ対応していないものもあるようです。

頭の中のイメージを単語やフレーズに対応させる段階で
英語と日本語を別々にやっている度合いが大きい印象を受けます。

例えば、「頭」と「 head 」は同じ概念として整理されていない。

翻訳を効率化するには、1つの同じ概念に対して
日本語と英語のラベルを2つ貼るような整理の仕方が求められそうです。

そして経験を重ねて、長いフレーズの単位でも
日本語と英語の2種類で対応させてしまう。

単語を組み合わせて文章を作る、というよりは
「この英文は、この日本語」といった対応パターンを増やす感じ。

相互に対応したパターンの多さが翻訳や通訳のスムーズさに繋がるとしたら
二か国語を使えることと、翻訳・通訳できることとでは
頭の中の作業には大きな違いがあるような気がしてきます。

ある種の専門技能が必要ということかもしれません。

良いか悪いかではなく、チョット考えさせられる部分です。

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2017年10月06日

I'm sorry.の意味

「 I'm sorry.」というと
日本語の「ごめんなさい」の意味で理解されるケースが多いようです。

日本の受験英語では「ごめんなさい」だけでも
十分なのかもしれません。

一方、実際の英語での会話においては
「お気の毒に」といった意味でも使われます。

自分が相手に何か悪いことをして
「申し訳ない」という気持ちになって
「 I'm sorry.」というのだけが全てではない、と。

誰かが不運や災難、残念な出来事に遭遇した。
「実は、かくかくしかじかでさ。本当にもう…。」
なんていう話を聞いたとき、
その相手の気持ちを汲んで「それは気の毒に…」という趣旨で
「 I'm sorry.」と口に出すこともあるんです。

頻度的には「ゴメン」の意味のほうが多そうですが、
「お気の毒に」の意味で使われることも結構ある印象を受けます。

海外ドラマや洋画なんかだとトラブルや事件を描くことが多いためか
自然と「お気の毒に」の意味の「 I'm sorry.」も多くなる気がします。


実際にこの「 sorry 」という形容詞の語源を調べてみると
「(ヒリヒリ)痛い、心が痛い」の意味の「 sore 」と
同じルーツだという話が見つかります。

ということで「 I'm sorry.」を「心が痛みます」と捉えると
「お気の毒に」の意味でも「申し訳ない」の意味でも
どちらも心を痛めている状態を説明していることになって
共通点が見てくるんじゃないでしょうか。

その意味でいうと「悪いことをした」と思って謝る場面で
「 I'm sorry.」と言うのは、元々
「自分のしたことで、あなたに嫌な思いをさせて私は心が痛みます。」
といった意味合いだったと考えることができそうです。

もちろん、ほとんどのネイティブなそんなことを考えて
「 I'm sorry.」と口に出しているわけではないでしょう。

挨拶に近い定型のフレーズにもなれば、幼少期に
 こういう場面では、このように言う
というパターンだけを学習して
意味を考えることもないまま使い続けているのが一般的です。

日本人だって「こんにちは」と挨拶をするとき
その意味を考えて、気持ちを込めているわけではありませんから。

「《おや、2日ぶりですね。
  見ない間にお体に変わりがないか気にしていました。
  いつもあなたが健やかでいてくれるよう祈っていたんですよ。それで》
   今日は(こんにちは)
 《ご機嫌いかがですか?》」
…なんて気持ちで「こんにちは」と言う人は滅多にいないはずです。

ただ顔を合わせたときに決まり事として「こんにちは」と言う。

同じように、相手へ申し訳ないことをしたときに
日本人だったら「ごめんなさい」と言い、
英語ネイティブだったら「 I'm sorry.」と言うだけのことだと思います。


それどころか、場面ごとの対応パターンとして学習されただけの
「ごめんなさい」、「 I'm sorry.」は、
そこに込められる気持ちにも個人差があるのが実情です。

何かをしたときに親に怒られた。
どうやら悪いことをしたらしい。
こういうときには「ごめんなさい( I'm sorry.)」って言うんだったな。
…そんなパターン化された対応として学習されます。

親によっては叱るときに怒りとともに
見捨てるようなメッセージを出す場合があります。
そうなると子供は「見捨てないで!許して!」という悲痛な叫びを込めて
「ごめんなさいー」と言うようになる。

あるいは、怒られたときに「あーあ、やっちゃった…。どうしよう…。」
という落ち込んだ状態を示しながら「ごめんなさい」を言ったときに、
親が「そんなに反省してるんなら、もういいよ、次は気をつけなさい」
といった具合いに態度を変えてくれたりすると、
落ち込みを表現するための「ごめんなさい」が定着します。

謝っても謝っても許してくれないときには、
次第に怒りの感情が混ざり込んできて
「こんなに謝っているのに、なんで許してくれないんだ!ヒドイ!」
といった攻撃性を込めながらの「ごめんなさい」を学習するようです。

問題解決志向が強い環境だったとしたら
「ごめんなさい」の意味は、「二度とないように気をつけます」という
反省のメッセージで使われるようになるかもしれません。


「ごめんなさい( I'm sorry.)」の実態が
相手から許してもらうための懇願なのか、
落ち込みや後悔の表現なのか、
自分を怒りつける相手への攻撃なのか、
改善の意思表明なのか、
いろいろなパターンが学習によって人それぞれ身につきますが、全てが
「 sorry 」の元の意味のように心を痛めているわけではありません。

許してもらいたい「ごめんなさい」においては
見捨てられるかもしれない恐れに心を痛めているとはいえます。

落ち込みや後悔も、自分の愚かさを責めたり嘆いたりする形で
自分の心を痛めているとはいえるでしょう。

相手への攻撃は、傷ついた自分を守るための反発という意味で
心を痛めたことが出発点だったとはいえそうです。

改善の意思表明は、視点が未来に向いていますから
心を痛めている度合いは、さほど感じられないかもしれません。

ここに挙げた例では、心を痛めていたとしても
『自分のために』心が苦しいことに注目してください。
『相手のために』心を痛めているわけではないんです。


「お気の毒に」の意味での「 I'm sorry.」は
相手のために自分の心を痛めているケースです。

自分とは関係のない相手。
でも相手の苦しみへの共感から生まれる心の痛みがあります。
相手に対する同情・思いやりが生まれています。

そして本質的には、「ごめんなさい」の「 I'm sorry.」でも、
自分が悪いことをしてしまった相手に対して
その相手が感じている苦しみを思いやれたとき
相手のために心を痛める状態が生じてきます。

自分が許してもらいたいわけでもなく、
自分が後悔や落ち込みを感じているわけでもなく、
傷ついた自分を守るために反発するのでもありません。

自分が悪いことをしたのは分かっている。
けれどその自分の行動以上に、相手に関心があるんです。
苦しんでいる相手を知り、その苦しみの強さを実感し、
「そんなに辛い気持ちだったなんて…」と苦しみに共感して
「お気の毒に…」「かわいそうに…」といった同情・思いやりが湧く。

そうして相手のために自分の心を痛めながら
「ごめんなさい( I'm sorry.)」が言えると、
実際のところ、関係性は大きく変わるようです。

なぜなら相手は、本人に関心があるからです。
謝ってくるほうの人への関心は低い。

謝る側が自分に関心を向け、自分のことで心を痛めていたとしても、
謝ってもらう側としては「そんなの、そっちの都合でしょ!」
といった気持ちになりかねません。

謝ってもらう側は「どれだけ嫌な思いをしたか」を分かってもらいたい。
苦しみに共感してもらいたいわけです。

謝る側が勝手に反省しているのを見るよりも、
苦しみに共感してもらいたい度合いのほうが強いのでしょう。
共感してもらうことで今の苦しみを解消したいから。

本気で相手の苦しみを思いやれたときに生まれる
「お気の毒に…」の気持ちの「ごめんなさい( I'm sorry.)」には、
そういう苦しみへの共感が含まれているんです。

後悔とか落ち込みとか許しの懇願とか反省とかよりも
相手の苦しみに対する思いやりが前面に表れる。
そのときの「ごめんなさい( I'm sorry.)」は届きます。

込み入った人間関係のトラブルを乗り越えてきた人たちの話を聞くと
関わる相手の苦しみをヒシヒシと実感できたときに初めて
本気で相手に関心を向けられた、というのが大きいようです。

元々の意味での「 I'm sorry.」に戻れるかどうか。
そのタイミングは大きな転換点になるかもしれません。

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2017年10月03日

書道疲労

今年も書道の作品制作シーズンが始まりました。

今回は例年と違って横長。

横長といっても文字を各順番は縦なんですが、
紙面を横に長く使って
縦方向の文字数よりも横方向の文字数が多くなる配置です。

内容的にもチョットだけチャレンジングなことをしてみるつもり。


しかし予想外にチャレンジングだったのは姿勢のほうでした。

部屋の広さの都合で、紙を横長に使おうとすると
中腰というか、しゃがんだ状態が増えてしまいます。

縦長に書いていたときは片膝をついて下半身を固定できたのに
横長に紙を置くと、自分が移動していく方向が90度変わります。
(紙を置く場所は同じなんです)

部屋の中に間仕切りみたいのがあって、
縦書きの時には関係してこないその間仕切りが
横長に紙を置いて移動していくと間仕切りにぶつかりそうになる。

部屋のスペース自体が縦長なので
縦方向に書いていく分には身体が移動する空間も多いのに対して、
横長に使おうとすると短い横方向に自分が移動することになって
窮屈になってしまう、というわけです。

空間のイメージはしにくいかと思いますが、
とにかく狭いところで書いている感じになるため
中腰とか、しゃがんだだけの状態とか、
姿勢にも無理がかかってしまうんです。


片手をついて体重を支えたりする場合もあるせいか
例年よりも体への負担が大きいように感じられます。

特に、しゃがみ姿勢が多いことで起こる
股関節まわりの筋肉痛が少し大変。

前かがみをキープするのは相変わらずで、
そちらで肩や背中が固まるのもあります。

が、肩と背中の強張りはジムに行って運動したり
ストレッチしたりすると比較的ほぐれやすいんです。

片手をついている負荷も、こっちのほうが残りがちながら
まあ、動かせば楽にはなります。

それと比べると、股関節の負荷は厄介。
単純に筋肉疲労があるんでしょう。

動かして楽になる種類のものではなさそうです。

むしろ、しゃがみ姿勢で筋肉痛が出るぐらいなので
それ自体がトレーニングみたいになっている気もします。


ジムに行って体を動かすようになっても
使っている筋肉は限定されているんだなぁと実感します。

普段使っていない部分がバレてしまいます。

かといって股関節周りを鍛えるほど
トレーニングを重視したいわけでもないので、
かかった負荷を上手く軽減できれば良いなぁと思っているところ。

せめて腰に負担が出ないよう、
ストレッチぐらいはしておくつもりです。

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2017年09月26日

初心に帰る

ある程度、似たような種類の意味を感じる出来事が重なると
「そういう時期か」と思いたくなるようです。

それが本当に「時期」なのか分かりませんが
1つのことについて考えさせられます。


僕の場合、ここ最近は
 初心を思い返させられる
出来事が続きました。


ここ数年セミナーの仕事で通い続けていた会場が
大規模改装のために使えないことになり、
水道橋にある別の施設へ行きました。

この水道橋の会場、
僕が受講生としてNLPをやっていたときにも使ったことがあり、
トレーナーとして活動し始めて最初の頃にもよく行ったところ。

水道橋といっても東京ドーム近辺にあるので
僕は後楽園から通っていたんです。

先日も東京メトロの後楽園駅から歩きました。
頻繁に通っていたころと同じように。

景色の変化は色々ありましたが、しみじみと
「ここが馴染みの場所だったなぁ」と実感しました。

昼食には、同じく何度も足を運んだカレー屋に。

こんなに辛かったかは記憶にありませんが
味や店の雰囲気から連想されて、多くのことを思い出しました。


また、ついこの間は、オーウェン・フィッツパトリックという
アイルランド人のNLPトレーナーが来日していた兼ね合いで
入門セミナーをやっていたため、それにも参加してみました。

NLPの入門セミナーですから内容に新しさはありませんでしたが
オーウェンのセミナーに出るのが10年ぶりぐらいだったんです。

まだ僕が会社員だったころが最初の参加じゃなかったかと思います。
NLPをやり始めて直後ぐらい。
そのときがオーウェンの初来日でもあったようです。

同じく、当時の記憶がたくさん蘇ってきました。
どんな気持ちがあったのか。
何が楽しかったのか。
何を求めていたのか。
何に心を打たれていたのか。

それを今も大事にする必要があるとは感じていませんが、
当時は「自分の道を進み始めよう」としていたのを思い出します。

それまで何も考えず学校の勉強をして、大人の言うことを聞き、
それなりに楽しみを感じられる分野の勉強を重ね、
教授に教授に勧められるままに研究職になり…と、
あまり自分で物事を決めていた実感がなかったんです。

NLPやコミュニケーションを勉強し始めたころ
ようやく自分が自主的に楽しめることを見つけた気がしていました。

その「自分の道」みたいなものに一歩を踏み出した時期。
そんな初心を思い出します。


おまけに今期、大学の公開講座でビジネス英語のコースを取ったら
そこで使う教材が、過去に使ったことのあるものでした。

僕がずっと避けてきていた英語。
あるとき必要性が出てきて集中的なトレーニングを始めました。

2010年の春頃から取り組み始め、
初夏からスピーキング対策として英会話スクールに通ったんです。
ベルリッツでした。

そこで使っていたテキストと同じものを
今、再び使うことになったんです。

とはいえ当時は第二版だったのが、第三版に変わっていましたから
新しく買い直す必要があったんですが。

それでも、そのテキストを使って
英語と向き合い始めた時期のことは思い出されます。

これまた僕にとって初心がありました。


惰性にならず気持ちを新たに真剣に向き合う。
初心を思い出すと、そんな気分になれるみたいです。

懐かしさ以上に、身の引き締まる思いがありました。

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2017年09月23日

発音矯正

先日、イギリス英語発音のトレーニングを受けてきました。
今回は幸運にもマンツーマン指導。

本来はフォローアップ講座という形で複数の予定だったようですが
参加人数が少なかったため丁寧に指導してもらえたんです。

フォローアップですから新しいことをやるわけではありません。
同じ文章を音読するだけ。

その文章にしたって以前の講座内で練習したものなので
単に復習と言ってしまえばそれだけともいえそうです。

しかしながら実態は、同じ文章で練習をしても
細かな癖を指摘してもらいながら繰り返しトレーニングすると
全く自覚できていなかった課題が見つかってきました。

時間は短めの設定であっても濃密な指導の分、
得られるものは多かったように感じます。


それにしても多くの人にとって、復習や繰り返しの練習は
面白いものとして映らないんでしょうか。

一年前ぐらいにあった同様のフォローアップ講座には
もっと人数がいましたから、今回もある程度の数を想像していました。

時期的なもので予定が合わない人も当然いたとは思います。

一方で、情報が欲しい人がいるのも実感します。
新しい知識が手に入るのが楽しい感じ。

確かにその側面も楽しいものですが、
頭で知っていることと、できることとは大きく違います。

知識レベルで知っているつもりのことでも
意外とできていないことは多いようです。

そのあたりは、繰り返しのトレーニングと
違いを指摘できる人に見てもらいながら練習するのとで
少しずつできるようにしていく部分ではないでしょうか。

とりわけ定着してしまっている癖を修正するのは大変です。

大人になってからの学習は、完全にゼロからのスタートではありません。
常に何か似たようなケースで使っていたものを流用しながら
効率的に実行してしまいやすいんです。


例えば僕の場合、いまだに残っている癖として
「n」の発音が挙げられます。

特に「pen」のような「ん」の音になると
つい日本語の「ん」の音のように鼻母音が混ざりがちです。

フランス語は逆にハッキリした鼻母音にするルールですから
舌先をあえて上顎につけないようにします。

ナ行の成分は少なく、鼻にかかった母音を出すだけなので
日本語の「ん」の音を出すときみたいに口を小さくする必要はないんです。

日本語で「あん」というと「あ」の後に顎が動いて
口が小さくなるのを感じられると思いますが、
フランス語の「ア(ン)」では顎の動きが起こらず
「ア」の後に声を鼻に響かせる感じで鼻母音になります。

英語の「ん」は厳密には「ん」ではなく、
「ぬ」のときの舌先の位置で発音されます。
「ペン」じゃなくて、「ペンヌ」のほうが近い感じ。

つまり日本語の「ん」は英語とフランス語のミックスのような感じだ、と。

でも僕は日本語が母国語で、それに慣れ過ぎているので
つい英語でもフランス語でも、日本語の「ん」で代用してしまう。

それはよほど気をつけないと修正できません。

外国語を話そうとすると、どうしても内容に注意が向きますから
発音のほうに気を配れる度合いが少なくなってしまうんでしょう。

手を抜いているつもりはないけれど
目先に今まで自分が重視してきたものがあると、
本来は気をつけるべきポイントが抜けてしまうわけです。

「に」も同様です。
日本語の「に」と英語の「ni(ヌィ)」は違う音です。

でもやはり気をつけないと日本語の舌の位置で言ってしまう。


こうした癖は一度指摘されただけだと
戻ってしまうことが多いようです。

決して自然とできているわけではなく、
目先のこと(話の内容)に注意が集まっていくうちに
別の大事な部分、とりわけ自分の癖から注意が外れてしまう、と。

そんなに細かいことを気にしなくても良いという考えもあるようですが
トレーニングに終わりはありません。

コツコツと続けていく。

その過程では、時折、チェックも必要になるのを痛感します。
反省することが沢山です。

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2017年09月20日

居心地のいい場所

端的に言うと、社会は居心地が良くないんです、
全ての人にとって。

度合いの差こそあれ、
他者と接すれば合わない部分があったり、
自分が学習してきたこととの違いから戸惑ったり、
自分の期待した通りに他者が行動しないことで不快になったり…、
何かしら不満を感じるところがあるはずです。


権威や財力がある場合には
他人に自分の思い通りの形で動いてもらいやすくなりますから、
そういう人たちには不満が少ないように見えるかもしれません。

が、心のどこかでは「思い通りに動いてくれるのは力のおかげだ」
ということを知っています。
自分に対する好意や思いやり、愛情といった
心の繋がりから生まれているものではないと気づいている。

そのため本当に打ち解けられる相手がいない孤独感を抱えがちになる。
こういうのは経営者などに多く見受けられる特徴です。


社交的で友達が多く、誰とでも仲良くなって
いつも外で楽しく遊んでいるように見える人たちもいますが、
その楽しさだって決して100%満足できるものではないようです。

何をしても許されるわけではなく、ある程度の暗黙のルールに沿って
輪の中に入れてもらうための努力は必要になります。
言いたいことを言えないケースもあるかもしれないし、逆に
言いたくないことを言わなくてはいけないケースもあるかもしれない。

共通点や親近感、同じ喜びを共有できるグループに所属することで
自分の居場所を感じようとするのでしょう。

こういった場合にありがちなのが、一人に戻ったときの寂しさです。
家に帰ってきてから無性に寂しくなったりする。
さっきまでの楽しさとの対比のように虚しさに襲われる。

人によっては繋がりを維持しようとしてSNSやメールで
交流を続けようとするかもしれません。

僕にも同じような思い出があります。

地方の工場併設の研究所で勤務していたとき、
さまざまなストレスや労働環境への不満がある中で
それに耐えながら頑張っていました。

中には同じような不満を感じる同僚がいて、
親近感と苦しさの共有で繋がりを感じられていたんだと思います。

その同僚たちと休日に少し離れた都会に遊びに行ったりすると
そのときは楽しかったんですが、決まって自室に戻ってから
猛烈な寂しさと虚しさに襲われていました。

今思うと、そもそも居場所がないように感じていたんでしょう。
職場にいても寮にいても落ち着かない。
一人の部屋だからといって、そこがホームなわけではない。

仲の良い同僚との繋がりは支えではあったけれど、
それはあくまで居場所のない孤独を埋め合わせる喜びであって
その関係を本質的な居場所だと思えていたわけではない。

「ここにいたくない」という思いから
どこか別のところへ逃げるように同僚との時間を過ごす…。
その時間が終われば、居場所のなさに引き戻される、と。

そんなプロセスが内面で起こっていたようです。

近い間柄のはずの家族の中で居場所を感じられないとか
一番長い時間を過ごすはずの職場で居場所を感じられないとかは、
相当な孤独感があって苦しいものでしょう。


こうした孤独感から離れるために居場所を求めるのは
多くの人に見受けられる行動です。

権威や財力などの力で思い通りになる環境に身を置くのも、
共通点や同じ思いを共有できる仲間の中に身を置くのも、
居場所づくりのための行動の1つといえそうです。

ですが、
 そこが本当の意味で居場所になっているかどうか
の違いは大きいようです。

本当の居場所には、なんとなくの安心感があります。
リラックスしたり、体が緩んだりします。

たくさん笑えるかは問題ではありません。
一緒にいることが心地いい感じ。

ペットと一緒にいるときに似ているかもしれません。

大きな特徴は、
 その安らいだ感じが、ある程度持続する
ことです。

そこを離れると無性に寂しくなったり虚しくなったりする…
ということが起きないんです。

むしろ、その安心感や居心地の良さを内面に保ったまま、
家庭や職場などの”いつも場所”に帰っていくことができる。

その居心地の良さを持ったまま接することができるため、
普段よりも少し楽に過ごすことができる。

そうしていくうちに、その”いつもの場所”にも
同じような居心地の良さが生まれてくれば望ましいでしょうが、
そこまで行かないとしても、居心地の良さを持って帰れるんです。

そういう居場所があると人は楽になります。

おそらく、そうした居場所の感じを可能にするのは、その場所に
「他人のために、そこへいてくれる」人がいることでしょう。

自分のために存在しようとするのが一般的です。
誰と接しても自分のための要素が含まれるのが標準です。

そうではなく、少なくともその時間は
同じ場所にいる別の誰かのためにそこにいる。

そういう人がいるところは、居心地が良いようです。

cozyharada at 23:34|Permalinkclip!

2017年09月18日

プログラムとしての理解

最近、いろいろな形で頼まれごとが続きました。

もちろん僕に頼んでくる人は、僕のやっていることを知って
そこをベースに尋ねるようなので、
仮にも体力的な面(例えば、引越しの手伝いとか)ではなく
人の内面に関わるような話が自然と中心になります。

そこで改めて気づくのは、僕の発想の基盤にはNLPがあるということ。

つまり、人が何を学習しているのか、
どういう体験によって学習された結果、
どのような認知の仕方をするようになり、
どんな反応の癖が身についているのか、
そして、それはどれぐらい変えやすいものなのか、
どういうことによって変えていけるのか
…などを考えるようなんです。

人に起きていることの全てが学習されたプログラムだとは言えず
僕の扱う範囲の中にはプログラムとは違うものも含まれますが、
人が日常的に体験している問題の大部分は
プログラムの発想を踏まえた上のような問いで説明できそうです。


それに対して心理学的な研究成果の中には
人のやっていることを傾向として分類したものがあって、
例えば「ストレスがかかったときに、どう反応するか?」などは
その反応の仕方(どんな反応が表れるか)に注目した分類であって、
「どのタイミングで起こるか?」は分類の要件に入っていません。

つまり、
「ストレスがかかってから、何が起きて、そのあとでどうなって
 どんな時期が続く結果として、どういう反応をするようになるのか」
など、長い時間の中で起きることを、時間枠の区別なく
一様に「どんな反応が出るか」だけを基準に分類したりするわけです。

それで役に立つし、それに応じた対処も考えられるので
「どのタイミングで」というのは重要視しないんでしょう。

しかしNLPとしては、そうしたストレス反応を生み出す”しくみ”をもとに
本人の中で何が起きているかを考えようとします。

なぜなら、反応を生み出す”しくみ”の中の
どの過程で問題が起きているのかによって
対処の仕方が異なるからです。

例えば、身の危険が迫るような大きなストレスがかかったときには
身体は動物的な防衛の反応を始めることが知られています。
これは学習されたものではないので、どうにかする対象ではありません。

むしろ動物的な防衛反応が出た後に、どうやって
人間らしい社会生活に戻っていくかのほうが大事になる。
タイミングとしては「防衛反応の出た後」にアプローチをする、と。

ところが、ストレスのレベルが小さいときには話が変わります。

身の危険が迫るような災害や災難などはストレスレベルの大きなものですが、
そこまで体のレベルで危険ではないけれども
最終的に不快な気分になるケースは日常生活に多々あります。
人間関係の不満などは典型的でしょう。

多くの人間関係のトラブルは、そこまで動物的な危険ではありません。
相手の対応について、自分に不満があるだけのことです。

しかし相手の対応が望ましくないことで、
自分の内面に「不快な感情(怒りや悲しみ、傷つきなど)」が生まれます。

この不快な感情を自覚したときに、「嫌な出来事だった」と振り返ります。
そしてそのキッカケとなった出来事を「ストレス」と判断する。

こういうケースにおいてNLPでは、
不快な感情が起こらないようにプログラムを変えようとします。

つまり「嫌な出来事だった」という捉え方を変えたり、
怒りや悲しみなどの感情が出てしまう癖を修正したりするんです。

対処のタイミングは、「出来事が起こる」とき。
望ましくない反応を生み出すキッカケの出来事のタイミングを対象にします。

大きなストレス反応については、反応が起こった”後”に対処する。
小さな反応については、反応が起こる”前”の出来事にアプローチする。
そういうタイミングの違いがあるんです。

さらに心理学的な分類に基づいたストレス反応には、
長期的に体のレベルでのストレス反応が続いた後に
元気がなくなるのか、逆に頑張ろうとするのか、など
次の段階としての反応の区別もあります。

これは時期的に考えると、数秒とか数分の範囲の話ではありません。
何日後とか何か月後とかの長い範囲の話です。

大きなストレス的な出来事があった直後の動物的な身体の反応は
一秒にも満たない範囲で起きていることです。
そのあとに反応を落ち着けるように対処するのも数十秒レベルの対処です。

これだけ時間枠の範囲が異なっていると
NLPでは対処の仕方も違ってくるんです。

しかし心理学の分野によっては、
心の癖を修正するような対処を想定してはいないので
時間枠の違いを考慮する必要がないんでしょう。

NLPは心の癖を修正するのが基本ですから
注目の仕方、区別の仕方が異なるわけです。


僕の発想には、NLP的な時間枠の区別が染みついています。
その人の中で何が起きているかを考えようとします。

すると心理学の知識の解説を頼まれたりする方が
そもそもの着眼点の違いから難しかったりもするんです。

いかにNLPが土台になっているかを実感します。

cozyharada at 23:44|Permalinkclip!

2017年09月14日

いろいろと過渡期みたいです

イギリス英語発音に興味を持ち始めて、
英会話の先生にもイギリス人を選ぶようにしてきました。

ところが、そのうちの一人が今年の春過ぎから喉を悪くして
短期の休みを繰り返し、最近は無期限の休業中。

そのため最近は、もう一人のイギリス人の先生と話してきたんですが、
この10月から教室の統廃合に絡んで退職するような見通しとのこと。

移転先の教室のほうにはイギリス人は一人もおらず、
系列の他教室にも殆どいないようなんです。

これはチョット残念なことになりました。


日本語でも話し相手のイントネーションにつられたり
言葉遣いが自然と移ってしまったりするものですから、
当然、英語でも同じようなことが起こります。

特に母国語ではなく努力して作ってきたものだけに
経験の量としても、自分らしさとしても、土台がありません。

外国語のほうが話し相手の影響を受けやすい傾向を感じます。

実際にアメリカ人と話していると、
アメリカ発音に影響を受けたと自覚する瞬間があります。

英会話として慣らしていくスタンスであれば
先生の英語は関係がないのかもしれませんが、
英語の種類を心がけたい僕としては意外と重要な気がします。

単語レベルでもイギリス発音とアメリカ発音の違いから
すごく簡単な単語なのに聞き取ってもらえないこともあるんです。

で、聞き返されて、言い直しても伝わらず、
アメリカ発音に変えて言うと通じたりする。

仮に僕がネイティブスピーカーだったら、自分の英語が伝わらなくても
「それは発音の違いのせいだ」と理由付けがしやすいと思われます。

ですがネイティブではない以上、伝わらなかったときに
イギリスとアメリカの発音の違いのほかにも、単語が間違っているとか、
単語のアクセントの位置を間違えて覚えていたとか、
さまざまな要因が思い浮かんでしまいます。

そのあたりがイギリス人相手だと、
英語を学習する過程での間違いだけに集中できるわけです。
発音の癖で聞き返されることはありませんから。


だからといってイギリス人の先生を求めて
様々な英会話学校を転々とするつもりもありませんし…。

とりあえず目下は色々な先生の中から検討するつもりです。
イギリス発音寄りのオーストラリア人が見つかれば良いんですが。

本当は相手が誰であれ、自分のスタイルとして
確固たる発音を維持できればいいのかもしれません。

実際に多くのネイティブスピーカーはそうしているようですから。

そのためには「これなら正確なはずだ」ど自信を持てるまで
プロからしっかりと指導してもらって土台を築く必要もあると思えます。

発音については別途の指導を探して、
英会話のほうは会話慣れだけの場にしたほうがいいのでしょうか。

様子を見ながら検討していくことになりそうです。

cozyharada at 23:38|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《心を調える実践会》

【日時】 2017年10月15日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

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次回開催は11/5の予定


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《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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