NLP

2017年04月21日

選ぶ作業

いざ身体のために運動を、と考え始めると
施設選びにも迷ってしまうものですね。

当初は最寄りで24時間営業のところが良いかと思っていましたが
他も調べてみると、プールがあるのが魅力的に見えてきます。

全身運動という観点で水泳は良さそうな気がするんです。

水に入っているだけでリラックスできるところもありそうですし。


一方、プールを利用するのは少しだけハードルが高い。
子供の頃の記憶から、所要時間が長くなる印象があるんです。

しかも「せっかく来たから、ついでに他の運動も」なんて考えたら
全体としての時間は、まとめてそれなりのものになるんじゃないか、と。

休日にタップリと時間を取って、運動のための日を作る…
そんな必要性を感じてしまいます。

それはそれで有意義な休日の過ごし方としてイメージできます。

デメリットは頻度が落ちるところでしょう。
まとめてしっかり、と思うと気軽に立ち寄る感じにはならなそうです。


その点、マシントレーニングぐらいを24時間営業のところでと想定すると、
立ち寄るのも気軽になりますし、時間も気にせずに
かつ夜遅くにでも行けそうなのは助かります。

僕の趣旨は、身体のメンテナンス目的にありますから
セミナーの後に有酸素運動をしてリフレッシュしたい気もするんです。

するとやはり24時間営業は嬉しい。
土日に夜遅くまでやっているのもありがたいです。

一回当たりの時間を短くして高頻度にしたい気持ちも加味すると
やはりプールがあっても営業時間が限られているのは残念。

こうして考えてみると、どうも24時間営業のほうに軍配が上がりそうです。


ちなみに、これを書く前の段階では迷っていましたが、
書いているうちに気持ちが整理されて結論に近づけた気がします。

書きながら考えを整理するのも1つの効果的な方法のようです。

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2017年04月15日

花粉症が改善した理由

花粉のシーズンもピークを過ぎてきたのでしょうか、
マスク姿の人を見かける頻度が減っている気がします。

他にも、インフルエンザのピークが過ぎたり
気候が暖かくなってきたことでマスクをつけるのが暑かったり、
いろいろな要因があるかもしれませんが。

とはいえ、僕自身の実感としては
4月を過ぎると花粉症の症状は減ってくるようです。

実態として症状が強めに感じられるのは3月ぐらいかもしれません。


しかしながら、僕の花粉症のレベルは随分と下がっています。
年々下がっているかは定かではありませんが、
10年前とは比べ物になりません。

病院に行けば「酷いレベル」と言われるほどでしたし、
医者の処方薬をいろいろと試し、時には市販薬も併用したり、
目薬も欠かせない感じでシーズンを乗り切っていたものです。

1月末ぐらいから準備を始め、6月はじめぐらいまで
なんとなく症状を引きずるような感じでした。

ヒノキのアレルギーもあったらしく、梅雨入り前までは
かゆみと鼻水・鼻づまりに苦しんでいました。

そういえば、山口に住んでいたころは楽だった記憶があります。
西のほうは杉が少ないらしいので、その影響でしょう。

ゴールデンウィークに東京に戻るとき、
飛行機に乗った瞬間から花粉症の症状が出始め
東京から運ばれてきた花粉を強く実感したのを覚えています。

寝て起きれば目ヤニで瞼がくっついてしまっているとか、
鼻の奥や喉の奥が痒くて困っていたとか、
鼻をかんでも鼻水が出てこないぐらいに鼻が詰まっているとか、
そういうのが当たり前だったんです。

それが今は、ほとんど気にならないレベルです。


最近は毎年、2月の中頃から薬を飲み始め、
5月に入るぐらいまでは一応、薬を飲むようにはしていますが、
どうしても服用が必要なわけでもありません。

飲み忘れても大して困ることはなく、
鼻をかむ頻度が増えるのと、軽く鼻が詰まった感じがするのと
気にすると目が痒いような気分があるぐらいなもの。

薬を飲むとそれがピタッと止まります。
鼻の通りが快適になって呼吸がしやすいので
少しでも呼吸をスムーズにする目的で薬を飲む感じです。

実際には1日2回の薬を、1日1回で大丈夫なぐらい。
ピークの時期だけ念のため1日2回にしてはいますが。

薬を飲んでも鼻をズルズルさせていた頃と比べると
もうすっかり良くなっている印象です。

最近は薬を飲まなくても、ホコリで鼻がムズムズするのと同程度で、
もしかすると花粉よりもハウスダストのほうが
身体は嫌がっているようにさえ感じられます。


ただ、何をして改善したかというと、定かではないんです。

NLPや催眠をやり始めてからも症状は残っていました。
症状をコントロールできることを知って程度は減っていたものの、
それでもある程度は残っていた記憶があります。

1つ大きそうなのは、意識の範囲が広がったことでしょうか。

以前、僕の意識は常に、目と鼻のあたりにありました。
目は一生懸命に見ようとするため(視覚情報を重視するため)、
鼻は厳密にいうと口から鼻の奥にかけてなので
味覚・嗅覚を重視するためだったと思われます。

僕にとって意識の中心は常に、頭の中…
目から鼻にかけての範囲で、顔の奥に入ったあたりにありました。

常にその場所から全身を見ているような感じ。
まるで目と鼻の奥のところにコクピットがあって
そこから巨大ロボを運転しているようなイメージです。

それが身体の使い方が上達してきたあたりから
意識の及ぶ範囲が広がっていったんです。

身体のケアをするようになって、
身体への意識が敏感になったのも関係していると思います。

それ以上に、意識の範囲を拡大できるようになったのが効いていそうです。

目に意識を集中すれば、目のあたりの感覚刺激が強く自覚されます。
結果、そこの痒みや不快感が強く意識され、さらに意識が集まるようになる。

意識が集まると血流も集まりやすくなって、余計に感覚刺激が強まる。
痒みを意識するほど、どんどん痒くなっていくという悪循環です。

だいたい花粉症の症状が強く表れる部位は、
その人が意識を集めているところになっているものです。

視覚をよく使う人は目を痒がる。
皮膚感覚の強い人は、花粉のアレルギーも肌の痒みになるようです。

その意味では、僕は意識の範囲を拡大できたことによって
目や鼻の反応だけに集中してしまう悪循環から抜けられたのかもしれません。

即効性のある手法で花粉症が治ったというわけではなさそうですが、
時間をかけて取り組んできたことが、思わぬ好影響を及ぼしたみたいです。

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2017年04月09日

身体の具合が

1か月前ぐらいに、近所に新しいスポーツジムができました。

それまでの最寄りは徒歩20分ぐらいだったのが、
新しいほうは徒歩10分ぐらいのところ。
しかも24時間営業です。

健康のために通ってみようかなぁ、などと考えているところです。


なんて考えていたら、先日、出張先で軽く転びました。

キャリーバッグと手持ちのビジネスバッグとを両手それぞれに持ち、
地下道に降りていこうと階段を歩いているときです。

左足の爪先が上がり切らず、着地を失敗してしまったんです。

数段分だけ滑り落ちた感じなだけで、どこも痛めませんでしたし
持ち物や衣類にも影響はありませんでしたが、
自覚しているよりも足が動いていなかったのは困りものです。

下半身のトレーニングの必要性を実感しました。

過去の経験から走るのは好きじゃないので、
エアロバイクぐらいはやりたいなぁという想いで
近々見学に足を運んでみるつもりです。


そんな折、ちょうど受講生から「初動負荷トレーニング」の話が出てきて
少し気になったので調べてみました。

都内でも何箇所かあって、行けそうな場所にあるようです。

筋力を鍛えたいわけではないので、もしかすると
こっちのほうが向いているのかも…などと気になっています。

色々な兼ね合いがありそうですが、
いずれにしても何か始めようと考え中です。

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2017年04月06日

翻訳作業の難しさ

今までに何度か翻訳のお手伝いをしたことがありますが、
いずれも「英語→日本語」の訳ばかりでした。

最近、「日本語→英語」の翻訳も少しやっています。

随分と印象が違います。

決して『英作文』をやっている感じではないものの
スムーズさには大きな差があるようです。

文法も気にしなければいけませんし、
単語や言い回しが不自然にならないように、といった配慮もあります。

元の意味にできるだけ近い表現を選択しようとしたときにも
ふさわしいものを見つけるのに時間がかかります。

何より、元の日本語を読みながら、
僕自ら英語の文章を作り上げている印象があります。


一方、「英語→日本語」の場合、僕の頭の中は
受動的なモードになっています。

入ってくる英語に対応する意味が日本語で浮かんできて、
それを聞きながら書き起こすような状態です。

英語のまま捉えている意味を意識の片隅に置きつつ、
同時に直訳もしている感じ。

そして両方を組み合わせて、元のニュアンスを踏まえた
ある程度は自然な日本語に変換する作業をしているようです。

やろうと思えば直訳から意訳まで、
程度を調整できそうな印象があるんです。

だから能動的に「書く」印象はなく、
インプットされたものを流していくような体験となります。

まぁ、日本語で文章を書くとき自体も、
自分でアウトプットするというよりは、どちらかというと
浮かんでくるものを頭の中で聞いて書き取っている感じで、
『書く』というよりは『読む』に近い作業ではありますが。


それに対して「日本語→英語」の翻訳は、はるかに能動的です。
自分でライティングをしているような気分さえあります。

元の日本語のニュアンスを理解して、
それをもとに自分の中で一端、伝えるべき内容を整え
それからその頭の中の内容を英語で表現しようとする。

自分の考えを英語でアウトプットするときと似ています。

選択肢が少ないんです。

直訳も無理ではありませんが、関係代名詞などを使った修飾の仕方や
接続詞の使い方のルールなどで制約がかかるところがあって、
なかなかストレートな訳にはできません。

何よりボキャブラリーや表現方法の幅が少ないため
同じようなニュアンスを表すためのバリエーションが出ないんです。

そのため英語訳の幅が限られてしまう。

「英語→日本語」でやるような直訳〜意訳の間で
程度を調整できる範囲が狭いんだと思います。

自分の頭の中で一回理解して、自分なりにアウトプットしなおす
というステップが挟まってしまうようなんです。

この自分なりにアウトプットする感じが能動的な印象となって、
スムーズではないと感じる要因になっているんでしょう。


単純に母国語と外国語の言語能力の差だともいえますが、
日本語と英語のルールの違いにも影響を受けていそうな気もします。

英語のほうが文章構造に対して厳格なのかもしれません。
日本語は助詞を工夫すれば語順は問題ありませんし、
論理展開についても曖昧で通用してしまいます。

そのあたりも加味しながら進めるから
スムーズにならないんでしょうか。

「英語→日本語」はむしろクドくなりがちで、
そこさえ気にしなければ直訳に近い文章はすぐに作れます。

逆に「日本語→英語」は、元の日本語の曖昧さや論理の不足分を
なんとか補おうとしてしまうのかもしれません。

英語を直訳した日本語はヘンテコだけれども
それなりに意味をとらえることはできる。
日本語を直訳した英語は意味が分からなくなる場合がある。

このあたりの性質の違いも関係している気もします。


いずれにしても、僕自身の慣れが足りないところは大きそうですから
経験を積んだ後に、どんな印象が生まれてくるのかは興味があります。

アメリカやイギリス出身で「日本語→英語」の翻訳をしている人がいたら
このあたりのことを聞いてみたいとも思っています。

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2017年03月30日

外国語で話話すために

10週間のプレゼンテーションのコースが全日程終了しました。
(僕は途中参加なので9回分ですが)

学んだ技術はそれほどでもないかもしれませんし、
全く知らないものもありませんでした。

確かにこういう風に話すときもあるし、
「実際、こうやって話しているアメリカ人プレゼンターもいるな」
と感じるようなものばかり。

それほど斬新な印象や、驚きのある学びはなかったんです。

プレゼンテーションに重きを置くというよりは、
英語のスピーキングの講座といった印象のほうが近いかもしれません。

英会話であれば質問に対して答えておけば進みますし、
ディスカッションぐらいで自分の意見を言うときも
それほど構成を考える必要もなく議論に参加することはできてしまいます。

その点、人前で与えられた時間を話しきる、となると
ある程度の構成とか、プレゼンテーションらしさみたいなものが期待される。

講座のメインは、プレゼンテーションらしい英語の使い方
といったところだったような気がします。

日本語でプレゼンテーションをする場合にも
多くのプレゼンを見たことがあれば、
「プレゼンってこんな感じでやるものだ」
という印象がありますから、
それに基づいた話し方を組み立てることができるわけです。

一方、英語でのプレゼンに慣れていない場合、
そういう印象そのものがありません。
だから組み立てようがなくて、どうしていいか分からない。

そういう英語学習者のために設定されている講座内容ではないか、と。

実際に参加者の中には、すごく人前で話すのが上手くなったわけではなくても
プレゼンテーションらしい原稿を準備できるようになった人がいました。

なので「プレゼンテーションらしい英語のフレーズが使えるようになる」
というあたりが講座の主な効果だったのでしょう。。


で、僕はそれなりに英語のプレゼンを見るのが好きなので
なんとなくの印象として、プレゼンらしさみたいな典型的なイメージを持っています。

それを元にプレゼンを組み立てようと思えばできそうな気がする。

ですから講座で習った内容やテキストで扱った部分も
自分なりに取りこめそうなものには感じられたんです。

しかし、こういう言葉の技術というのは、
「知っている」、「自分でもたまに使っている」と思える段階と、
「日頃から意図的に使い分けている」段階とでは、
かなりの差があるものです。

習ったときに、その内容と合った実体験が記憶の中から沢山見つかる…
それだけだと「あぁ、ときどきやっているなぁ」という印象になります。

この段階は、自分の経験の中から共通点を探し出して
教わった内容に当てはまるパターンを見つけたところなんです。

例えば、短い単語で3つ並べる、なんていう話し方のテクニックがあったとして、
「あー、あー、聞いたことある。自分でもやったことがある。あれね。」
というのは、指摘されたから見つけられたパターンだといえます。

こういう形があるんだ、とパターンを知ったときに
そのパターンに当てはまる経験が見つかってくる。

パターン認識のための型が、頭の中に作られた段階です。

今までは経験があっても型としてパターン認識はされていなかった。
そこに型がインプットされたことで、当てはまる経験を認識できるようになった。

こういう方法は、全く知らないものを新しく知るときの学習とは違います。
記憶にはあっても認識されていなかったものを
パターンとして認識できるようになるタイプの学習なんです。

例えば、日本語の方言を認識できるようになるのは、このケースです。

今まで聞いたこともあったけれど、特に気にせずに聞き流していた。
あるとき、これは名古屋弁の特徴だと知ったり、
大阪弁だとこうで、京都弁だとこう…みたいな特徴を教わったりする。

するとそれ以降は、その特徴的なフレーズが耳に入った瞬間に
「あ、名古屋弁だ」とか、「あぁ、この人の関西弁は大阪のか」などと
すぐに認識できるようになります。

特徴のパターンを知ったから、
実体験の中からのパターン認識がスムーズになるんです。

僕がプレゼンの講座中に習ったフレーズや言い回しの形は
たしかに知っていたし、使ったこともありそうなものばかりでした。
それほどスゴイ知識やテクニックではない。

けれど型として知ることで、それ以降は意図的に使いやすくなる。
「ここであのパターンを使ってみようかな」という発想が出てくる。
意識しながら使える選択肢が増えるわけです。

その部分の学びは色々とあったと感じています。


まぁ、一番の目的だった場数をこなすことに関しては
期待したほどの数にはならなかったような気はしますが。

やはり発話のスムーズさという観点からすると、僕のレベルの英語力では、
ある程度を事前に想定しておいて、その場で話を組み立て直す
というのは、いささか難度が高い感じがしました。

考えておいたことが抜けてしまいやすいんです。

それは多分、単純に発話した量が少ないから。

原稿を用意して原稿を読む、という必要はないにせよ、
原稿を用意するか、大体の流れを決めて、一度練習してみる
というのは重要そうです。

それだけで一回は発話したことのある内容になりますから
フレーズとして出てきやすくもなるでしょう。

日本語でのプレゼンテーションなら、普段から日本語を沢山使っていますから
発話慣れしていないために言葉が出てこない、ということは少ない。

けれど母国語でない言語でプレゼンテーションをするとなると
10分間の話をするとなったら、少なくともそれ以上の時間の練習がないと
土台となる発話経験が足りない気がしました。

おおよその流れを決めるだけでなく、流れに沿って練習をしておく。
それによってスムーズさが上がるんだろうと思われます。

独り言でもいいので、英語で話を組み立ててから話し続ける
というトレーニング量が必要だと実感しました。

その意味では、講座に出た甲斐はあったと思います。

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2017年03月27日

「忙しい」の中身

なんでしょうか、忙しい時期ほど色々と立て込んでくる感じがします。

落ち着きがないわけではないんですが、
頭の中で複数のことが同時進行していて
ボーっとする時間が少ない状態。

1つの作業が始まれば、それについては集中して取り組みますし、
やっている途中で他のことを考えることもありません。

しかし一人に戻ったときに、多くのことが意識にあがってきます。

頭の中のスピードだけが速いような印象です。
「気ぜわしい」というのは、こんな感じなんでしょうか。

こういう状態だと、大したことのない作業でも
新しいことを追加するのに乗り気でなくなるようです。

ただの振り込み一件でさえ、どうも動こうとしない。
やってしまえば数分で済むような単純作業であるにもかかわらず。


どうやら内面を探ってみると、むしろ簡単過ぎるからこそ
ギリギリまで優先順位が下げられているような気がします。

おそらく一般的な発想では、何かを『やる』という意味において、
「行動に起こす」、「作業を始める」というアクションの部分と、
「考える」、「何かを気にしている」、「どうしようかな、という気分になる」
などの頭の中で進行する作業の部分とでは、違った捉え方をすると思います。

「『やる』というのは行動に起こすこと」という発想が多そうです。
つまり意図的に体を動かして作業に取り組んでみて、
体の外で何かの変化が起こることを『やる』というのではないか、と。

もしかすると『考える』についても
積極的に集中して1つのことについて考えを巡らせ
1つの結論を出すとか、何かのアイデアをまとめるとか、
そうしたアウトプットの段階を含まないと
「〜について考える」という作業として認識されない場合もあるかもしれません。

なんとなく意識の片隅で気になっていたり、
ああでもない、こうでもないと思ったりしている段階では
「考える」という作業に取り組んでいないと捉えているのではないか、と。

確かに「意図的に何かをする」ということが「自分」の作業だと考えると
『行動に起こす』、『集中して考える』、『そのことが気になっている』の間には
大きな違いがあるように見えるでしょう。

しかしNLPの発想では、いずれもプログラムは進行しているわけです。
そのことは起きている。

『気になる』と『集中して考える』は、
 そのテーマとは関係のない作業をしている間に
 そのテーマに関したプログラムのいくつかが時々動く(=気になる)
のか、
 決まった時間に、そのテーマに関したプログラムが同時に動き
 無関係なプログラムの進行が抑えられる(=集中して考える)
のか、
という違いだといえます。

『行動に起こす』のと『気になっている』のとの差も、さほど大きくありません。

ある作業について『気になっている』状態は
その作業に取り組もうとするプログラムが動いた瞬間です。

それに引き続き、その取り組む内容に沿って体を動かすプログラムが動けば
実際に『行動を起こす』ことになります。

取り組もうとする(作業内容が決められる)
→体を動かす(決めた作業内容通りに体を動かす)
という二段階なんです。

その作業内容が決まって、取り組もうという気になるところまでは同じです。
もう1ステップのプログラムが作動するかどうかの違い。

頭の中では別の作業についても「取り組もうとする」プログラムは動いていますから、
 最終的には「体を動かす」プログラムが、
 どの作業についての「取り組もうとする」プログラムに連動するか
によって、実際に何の行動を起こすかが決まります。

気になっているけれど、やらない…という状態は、実態として
 いくつもの作業について「取り組もうとする」プログラムが動いたとき、
 別の作業のほうに「体を動かす」プログラムが作動した
ということに過ぎないんです。

プログラムとしては色々なことが起きているし、
それによって多くのことも進行しています。

集中して『考える』時間を取っていないときにも、
パソコンのウイルス対策ソフトが背後で動いているのと同様に
考える作業のプログラムそのものは働いているわけです。

気になっているけれどやらない、というときも
何をやるかまでの作業内容までは頭の中で進んでいます。

頭の中の作業はプログラムとして同時進行できますが、
体は1つしかありませんから、行動として体を動かすときは
1つの作業だけになってしまいます。

そこで何を『やる』かという、行動レベルとしての優先順位が表れてくる。


たぶん、僕の「忙しい」は、「寝る時間がない」という意味ではなく、
沢山のテーマについてプログラムが同時進行していることで
多くのことが「気になっている」の状態で停滞しているからでしょう。

パソコンでいうなら、CPUやハードディスク上のデータなど
1つの作業を進めるのに必要なものは揃っているのに、
沢山の作業が同時進行してしまう結果、メモリが足らなくなる感じでしょうか。
体がメモリに相当するようなイメージです。

思えば研究職の頃は、確かに睡眠時間は少なかったですが
やるべき作業は決まっていたので、同時進行するプログラムは少なく、
メモリ不足的な意味での気ぜわしい「忙しさ」はなかった気がします。

1つ1つの作業は単純でも、種類が多くなってしまうのが
僕の気分を落ち着きのないものにしているようです。

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2017年03月20日

甘く見ていました

札幌のホテルでまんまと風邪を引きました。


文化的なものかと思いますが、札幌のホテルは全館空調が強く
低い温度で部屋の個別エアコンを入れても、かなり暖かくなります。

というよりも僕には暑い。

無理やり部屋の空気の温度を上げますから
自動的に湿度は大きく下がります。

この暑くて湿度のない状態が苦しくて、宿泊するホテルによっては
僕は部屋のエアコンを寒くてもつけないでいることがあります。

先日泊まったホテルはまさにそのタイプ。
非常に全館空調が強い。

ということで部屋のエアコンは切ったままで眠りにつきました。


そうしたら寝相が悪かったのか、目が覚めたときには
掛け布団をかけていない状態になっていました。
あるいは暑くて、寝たまま取ってしまったのかもしれません。

だいたいホテルの掛け布団は薄いので
ちょっとしたことで剥がれてしまいやすい気もします。
かといってピッチリと覆われた掛け布団に締めつけられて寝るのも苦しい。

その日は掛け布団を緩め過ぎてしまっていたようにも思えます。

いずれにせよ、途中で目が覚めた段階では掛け布団なし。
目が覚めたのは寒くてだったのでしょうか。
夜の北海道の冷え込みは全館空調を上回ったみたいでした。

最初に気づいたのは右側の喉の腫れです。
扁桃腺が腫れているときの感じでした。

これはやってしまった、というところ。


そこからウガイをしたり、シャワーで湿度を上げたり
多少は暖かくしながら残りの睡眠時間を取ったり、
アレルギー対策として持ち歩いていた小青龍湯を飲んだり、
いろいろとケアをしてみました。

何が良かったのか分かりませんが、多少は改善されて
とりあえずその日のセミナーは無事に終われました。

それでもやはり帰りの飛行機の乾燥など、
その後の環境も悪く、風邪が残ってしまっているようです。

スケジュール的な詰め込みに、書道の作品制作など
体力的にも無理がかかっていたのでしょう。

そこで布団をかけずに眠ってしまった事態が重なった。

原因は1つではないと思われますが、
ホテルの環境も、気候の寒さも、自分の体調も、日々の気温の変動も
どれもが原因として挙げられそうです。

一方、完全回復する方法としては休息しか思いつきません。

もうチョットの間、立て込んだスケジュールが続くので
上手く維持しながら乗り切っていくことになりそうです。

ホテルでの過ごし方については、少し工夫をしてみようと思います。

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2017年03月16日

「集団との対話」と「プレゼン」の違い

公開講座に参加して受けている英語でのプレゼンのトレーニングも
残すところ後2回となりました。

といっても何も大きな変化はありません。

慣れてきている人は多いですが、まぁ慣れてきているだけ。
課題として与えられるフレーズの使い方を組み込んでプレゼンしたりしても
結局、原稿に用意するぐらいのものです。

原稿を読めば使えたとしても、自然に組み込むのは難しいようです。
それは単純に言語力の問題で、内容を説明する作業に多少でも難があれば
課題となるフレーズの使い方にまで注意を向けるのは大変になります。

つまり作業が複雑すぎるんです。

プレゼンの課題として与えている設定がすでに工夫を求めるものなのに、
そこにさらに効果的なフレーズの課題が与えられる。

母国語でやっても効果が薄いトレーニングになってしまう気がします。

内容はごく一般的、日常的で、わざわざ一生懸命考えるレベルではないものとし、
そこにフレーズレベルの工夫を入れていくというのであれば
内容の重要度が低い分、フレーズの使い方に注意を向けて練習できるでしょう。

あるいは、毎回、プレゼンをする内容は固定しておいて、
フレーズの工夫を追加しながら、完成度を上げていくとか。

いくらでもアイデアは出てきますが、
それだけ僕がトレーニング内容に不満を感じているということかもしれません。


先日の課題は「初めて会う聴衆とラポールを築く」というテーマでした。

会社の新人への挨拶とか、授業の初回とか、そういう設定だと。
で、僕は自分の講座における冒頭部分を想定してみたんです。

これは大失敗でした。

設定が大間違い。
聴衆が実際と違いすぎます。

僕は日頃から、来ている受講生の皆さんの様子を見て
その人たちを動機づけているもの(=参加した理由)
に合わせるように冒頭を組み立て直しています。

そもそもそれほど準備をして迎えているわけではありません。

なので、仮設定として、「まぁ、こういう人が多いかな」ぐらいを想定して
「その人たちが目の前にいたら、こんな感じでいうだろう」という内容を準備しました。

しかし、実際に目の前にいたのは違う人たちです。
そういう動機はありません。

講座の他の参加者たちは席に座っていはいますが、
どういうつもりで話を聞けばいいのかの指示を受けていませんし、
僕のほうからその想定を説明する段取りもありませんでした。

さらに半数の受講生は前回を欠席していたため、
当日にプレゼンの内容を考える必要がありました。
一番最初に当てられた僕が話す間、その人たちは自分の準備で大忙し。
聞くつもりもなければ、前も向かずに書きものばかりです。

講師は講師で、自分の想定していたことと違う展開だったのか
表情に困惑を浮かべていました。

そうなってしまうと、起きている現状は
僕が準備してきた内容とは全くマッチしないものです。

さすがに講師も状況の不具合を修正しようとしていましたが、
それは僕の番が終わって、二人目に入るところから。
僕がプレゼンをしていた時間は、なんとも不毛な空回りでした。


ここのポイントは、僕が「空回り」を認識していたことなんです。

つまり僕は聴衆に合わせて、聴衆と交流するのを前提にしていた、と。
ですから「自分の主張」をしていたわけではありません。

多くのプレゼンテーションは、他者に影響を与えることが目的となります。
アイデアを提案して納得してもらう、とか
商品やサービスをアピールして魅力を感じてもらう、とか
問題を提起して考えてもらう、とか
情報を説明して分かってもらう、とか
熱意を伝えて行動を促す、とか。

自分の価値観に基づいた内容を「表現して」、
それを「受け取ってもらう」ことが目的となります。

もちろん価値観の違いから受け取ってもらえない場合はあるとしても、
主張を表現するという点においては聴衆に左右される度合いは少ないはずです。

一方、僕がやろうとした(普段やっている)ことは
僕の側の主張ではありません。
こちらから影響を与えようとする部分は少ないんです。

受講生という聴衆に合わせ、
その人たちの問題解決の意欲に沿おうとしているようです。

その意味では「プレゼンテーション」ではないのかもしれません。

実際、以前の課題で「日本語英語教育の問題点」とか
「原発に賛成か反対か」などの『主張』が課題となったときには
聴衆がどんな考えや態度であっても気にならずに話せました。

それは主張するためのプレゼンテーションだったからです。

それと比べると、僕が普段からやっている講座のオープニングは
主張のためのプレゼンテーションではなく、
一対一のような対話を、一対多でやっているだけのことなんでしょう。

ですから聴衆の中に、自分のプレゼンの内容を準備している人たちがいれば
それはちょうど、一対一の会話において
 相手が別の作業をしている間に、横から一方的に
 相手にとってどうでもいい内容を話しかけて
 ずっと無視され続けているのに最後まで話し切る
ような状態だったといえます。

それは途中で止めたくもなりますし、
邪魔しないでおこうかとも考えてしまいます。

「初対面の参加者とラポールを築く」という設定自体が
僕にとってはそもそもプレゼンテーションではないみたいです。

世間一般にとっては、人前で話すという点でプレゼンなのかもしれませんが。


ちなみに、積極的に聞く気がない人が聴衆に混ざっていることは
商品のプレゼンだったり、会社の会議、企業研修などではあり得ます。

しかしそれでも、そこにやってくるからには何かの必要性があります。

合わせるポイントを見つけていけば、空回りはしなくなるんです。

そして仮に最後まで空回りする相手がいたとしても、
「主張」という意味でもプレゼンテーションなら問題なく続けられます。
全員に届かなくても、届く人はいるかもしれませんし。

ですから先日に体験したプレゼン講座での設定は
そもそも無理があるものだったんだと思われます。

準備した内容を使わず、その場の実際の聴衆
…つまりプレゼン講座の他の受講生という立場…
に合わせて、その人たちとの対話を心がけたら
空回りしないこともできたかもしれません。

あるいは、「企業研修に義務で参加している人」のような設定にしていたら
頭の中でイメージを変換して、仮想的な練習をするぐらいはできたかも。

まぁ、それをしたとしたら、今度は課題から大きく離れてしまいますから
そっちそっちで望ましくなかったとは思いますが。


ともあれ僕自身としては、重要な区別をハッキリさせられたので
なかなか意義深い時間だったような気がします。

僕は講座中にプレゼンをしていない。
研修でも講演でも同様でした。

一方、主張をハッキリさせたプレゼンになるとスタイルが変わります。
こっちはこっちで練習のやり甲斐があります。

僕が英語力のトレーニングとしてやりたかったのはプレゼンのほう。

その辺を区別しながら練習したら、もっと効果を上げられそうです。

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2017年03月13日

疲労の基準

仕事が立て込んでくると疲労が回復しきらない状態を感じることがあります。

そんな中、タイミングが合って睡眠時間を充分にとれると
体力が回復しているのを実感できます。

身体のハリや重みといった肉体の状態は決して良くありませんが
エネルギー的には元に戻ってくる感じです。


この感じは僕の記憶の中から、研究職時代のことを思い出させます。


研究職、とくに山口県で寮生活をしながら研究をしていたときは
慢性的に睡眠不足で多くの時間を実験に費やしていたものです。

研究所が工場の一角にあって、寮も同じく工場の敷地内にあったため
基本的な行動範囲は工場内となっていました。

朝は7時過ぎに出勤、夜は日をまたいで1時、2時ぐらいまで。
今思えば、もっと効率的にできた気もしますが、
他にすることもないので職場で色々とやっていたというところです。

とはいえ、ずっと職場にいるわけではありませんでした。
1時間の昼休みは、食事が寮に用意されるので
そのたびに寮まで自転車で戻ってきます。

そして食後は自分の部屋に戻り、30分弱の仮眠を取る。

夜も夕飯を食べに寮へ戻った後、1時間から90分ぐらい仮眠をとって
それから夜の作業をこなしていました。

夜の睡眠時間は3時間ちょっとでしたが、
正味の睡眠時間は5時間ぐらいは確保していたんだと思います。

それで毎日を乗り切り、とりたてて疲れを感じることもなく
まぁ、それなりに日々を過ごしていたようです。

もちろん眠気に襲われることもありました。
多くの人がそんな感じの様子になっていると
眠くなるのが毎日の生活のせいだとは思っていなかったんです。

暗い部屋で単調な研究発表を聞いていれば眠くもなるし、
単調なデータ入力をしていれば頭もボーっとしてくる。
そこに疑問を挟むことはありませんでした。


でも本当はいつも疲れていたようです。

若かったから、体力があったから大丈夫だった…
というのではなさそうなんです。

むしろ鈍感だっただけ。
慣れてしまっていただけ。

なぜなら、年末年始やお盆休み、ゴールデンウィークなどで
実家に戻ってくると、睡眠時間に影響が出ていたからです。

特に帰ってきて次の日、その次の日ぐらいまでは
もう泥のように眠っていました。

夜12時ぐらいに寝て、次の日の夕方ぐらいまで一度も目が覚めない。
そんなのが2日続いていたものです。

その後は徐々に睡眠時間が自然と減って、
それなりに休日の時間を過ごしていました。

そして一週間程度の休日の期間が終わると山口へと戻ります。

夕方ぐらいに寮に到着して、少しだけ研究所へ行って次の日の準備をする。
微生物実験の都合として準備の時間がかかるのも1つの理由でしたが、
自分の内面を研究モードに戻すためのウォーミングアップでもありました。

すると、です。

山口に戻ってきた最初の夜は、なかなか寝つけません。
眠くないんです。

次の日からは通常の生活サイクルに戻ります。
昼ごはんの後の仮眠も、夕飯の後の仮眠も
やはりあまり寝られません。
眠くない。

そして研究所での生活サイクルに馴染んでくる頃になると
仮眠が必須で、眠い目をこすりながら目覚める生活に変わります。


研究所で睡眠時間の短い生活をしている毎日では
「自分が眠い」ことにさえ、あまり気づいていなかったのでしょう。

疲労が溜まっていることだって自覚できていませんでした。

振り返って様子を比べてみると、
実家に戻ってきている間の状態と
山口の研究所にいる間の状態には違いがあったことに気づきます。

「いつも通りの体調」という基準値が違っていました。
「これが普通」という基準が別物だったわけです。

実家に戻ってきて休日を過ごしているときは
体力が回復している状態が普通。
研究所生活では疲れて寝不足なのが普通。

「普通」は慣れで設定される自覚です。
そこを疑わなくなる。

僕の場合、研究の仕事を続けていたときは
体力の平均値、つまり「いつも通りの体力」が低い状態で認識されて
そこに慣れてしまっていたために何も疑わなかった、
ということだったんでしょう。

低位安定の研究所生活では、そこからさらに疲れることは少なく、
物凄く睡眠時間の少ない無理をすれば反動は出ましたが
それでも反動は決して大きくなかったんです。

だから結構無理がきくと思っていました。

実際はあくまで「普通」の基準が低いところ(疲れた状態)にあったため
そこからの落ち込み幅が小さかっただけのこと。

自覚としては「そんなに疲れない」と思っていましたし、
頭がボーっとしたり、パフォーマンスが落ちたりすることも
ほとんどないと思っていました。

おそらく実態は、ベストな状態からは随分と低かったのでしょう。

でも低いところが「普通」になっていて、
そのことが分かっていなかっただけなんだと考えられます。


最近は、この「普通」の設定が変わってきていると感じます。

「普段通り」としての「普通」ではなく、
身体で感じられる今の状態がスッキリしているかどうか、
眠気やボーっとする感じ、身体の重さや不快感がないかどうか
といったところでコンディションをチェックしています。

その分、忙しくなってくると、疲れを体感として実感しやすくなっています。

疲労や睡眠不足を避けたい気持ちは以前よりも強まって
無理をしたくない思いは出てきやすいですが、
日々の集中力などは高めにキープされている気がします。

今、こういう状態、こういうコンディショニングを知っている状態で
もう一度研究職をやったら、前よりももっと効率的に
しかも高確率で研究成果を出せるのではないかとも想像します。

「普通の体調」をどうやって自覚するか。

この影響は大きいにもかかわらず
慢性的な疲労状態を「普通」としているケースは
世間でも意外と多いのかもしれません。

cozyharada at 23:11|Permalinkclip!

2017年03月10日

コーヒーの味わい方

味覚の好みというのは、大部分が慣れによるところだと考えられます。

僕にとっての典型的な例はコーヒーです。

幼少期から、父が毎朝コーヒーを飲んでいたため
休日ともなると食卓にコーヒーが並ぶことが多かった記憶があります。

とはいえ子供ですから、やはり甘くないと飲めません。
コーヒー牛乳にして飲んでいたんです。

小学校の給食でも時々コーヒー牛乳が出ていましたし、
アイスクリームを食べるときにもコーヒー味もあったりして、
わりと小さいころからコーヒー風味には馴染みがあったようです。

コーヒー牛乳やコーヒー味アイスの、甘味と苦みが混ざった感じは
チョコレートに通じるものがあったんじゃないでしょうか。
子供でも楽しめる味だったようです。


それから中学校に入り、冬の塾の帰り道
暖かい缶コーヒーを飲むのが習慣になりました。

当時の缶コーヒーは基本的にすべて砂糖・クリーム入りでした。
まだブラックの缶コーヒーは発売されいなかったはずです。

いつも同じ自動販売機を使っていたわけではありませんから
種類の違う缶コーヒーを飲むこともありました。
それによって「コーヒーにも味の違いがある」ことを実感し、
様々な種類の違いを知ろうとするようになっていったようです。

そのあたりからコーヒー牛乳よりも、
コーヒーの味と香りが強いものを好むようになっていきます。

しかし依然として、缶コーヒーは砂糖・クリーム入りですから
「コーヒーといえば苦みと甘味のミックス」というイメージはそのまま。

我が家のコーヒーを飲む習慣も当然続いていて、
缶コーヒーからコーヒーに慣れてきた僕は
コーヒー牛乳よりもコーヒーの味が強いほうを好むようになりました。

ここで牛乳やコーヒークリームを加える習慣がなくなります。

父がコーヒーに砂糖だけを入れて飲むタイプだったため
僕も牛乳を入れずに、砂糖だけで飲むのを試してみたわけです。

この変化は意外とすんなり受け入れられました。

ミルクチョコレートとビターチョコレートの違いぐらいなものです。

チョコレートに関しては、ホワイトチョコを食べたときに
チョコレートに「あるべき」カカオの風味がないことへ衝撃を受け、
「甘味と苦みの組み合わせがチョコレートのはずなのに…」と
ホワイトチョコが好きになれなかったんです。

その対比があって余計に、チョコレートはビターなほうが
「ちゃんとチョコレートだ」と認識するようになったのでしょう。

ビターチョコレート好きだった僕としては、コーヒーにしても
砂糖だけ入れたときの「甘味と苦みの組み合わ」の感じが
おそらく受け入れやすかったんだと思われます。

それまでの慣れの部分と、父親がコーヒーに砂糖だけ入れていたことから
僕もコーヒーには砂糖だけを入れるようになっていったんです。


そして今も僕は、コーヒーに砂糖だけを入れて飲みます。
コーヒーを飲む頻度は高いですが、だいたい砂糖を入れます。

大人になって周りを見てみると実は、砂糖だけなのは少数派のようです。

ブラックの人が多く、ミルクだけの人も多く見かけます。
その次がミルクと砂糖の両方でしょうか。
砂糖だけが多分、一番の少数派のように見えます。

たぶん、ほかの人たちも慣れでそれを好むようになったと想像できます。

ブラックで飲むのは、お茶に近い捉えかたをしているんでしょうか。

お酒が好きになってくると甘くない飲み物に慣れてきて
苦みと香りを優先したブラックのほうに好みがシフトするのかもしれません。

僕もアメリカンや、それに近いぐらい薄めのコーヒーの場合は
ブラックで飲んでも楽しめます。

ですが普段はかなり濃いめにコーヒーを淹れて
砂糖を足して飲むことが大半です。

慣れの問題が大きそうです。


一方で、最近発見したのは、
僕のコーヒーの飲み方が砂糖入りに合わせて設定されていた
ということ。

コーヒーを口に入れてから、口の中な留めておく時間が長いんです。

特に舌の前側に置く傾向が強い。
味覚としてコーヒーをフルに感じようとしているようです。

それと比べると、かなりの人がコーヒーを早く飲み込みます。

試しに…と僕もやってみると
早く飲み込んでしまったほうが苦味や渋み、エグ味を感じにくく
むしろコーヒーの香りや後味を楽しめる気がしました。

これならブラックでも美味しく感じられます。

慣れによって味の好みのが生まれ、
その好みの体験を強めるような味わい方が身につき、
より好みがハッキリしてくる。
…そんな部分があるのかもしれません。

ブラックの楽しみ方も知った気がしますが
それでもやっぱり慣れ親しんだ砂糖入りを飲みそうです。

cozyharada at 23:11|Permalinkclip!
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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