NLP

2019年04月16日

世界が違って見える

久しぶりに病院に行ってきました。
いわゆる総合病院のような大きな病院は、
もしかすると10年ぶりぐらいかもしれません。

手の震えが続くので、ちょっとした検査です。

待ち時間の長さが凄まじく、賞味3時間ぐらいかかってしまいましたが
おそらくあの病院では普通の状況なんでしょう。

それなりにサラリーマン風の人もいるとはいえ
もちろん大部分は高齢者でした。

コンスタントに通っている高齢者が大半を占めていて
だからいつも混んでいる、ということかもしれません。


なんというか、病院の雰囲気は独特ですね。

来ている人たちは基本的に具合が悪いわけですから
表情も歩き方も座っている姿勢からも、そんな状態がうかがえます。

そういう人たちに囲まれて待っているだけで
なんだか僕まで具合が悪くなってきそうな感じ。

また建物自体が古いせいか、廊下も狭く、天井も低いので
余計に息が詰まるような感じが見受けられます。

ここで働くのは自分には無理だろうなぁという印象を持ち始めました。


そもそも僕が病院を訪れた理由は、一か月前ぐらいから起こっている
手の震えの症状が気になったからです。
念のため検査をしておこう、と。

昨年の12月に札幌出張中、凍った雪道で真後ろに転んで
頭を打ったというのもありましたし、
まぁ何があるか分からない、ということで。

他にも手汗が流れるぐらいに出たり、
セミナーの最中の水分補給量が増えていたり、
翌日の脱水状態が酷くなっていたり、
いくつか気になることが重なっています。

自律神経のバランスがおかしいのかもしれませんが、
医療レベルのリスクがないことは確認しておけると
何かと気がかりがなくなりますので。

とはいえ、この手の震えの症状も脱水状態も
基本的にはセミナーが重なったときに起こり始めて
自宅で過ごす日が3,4日続くと落ち着き始めます。

なので3時間も待ち時間に拘束される病院に行けるほど
時間的な余裕のあるタイミングとなると、自動的に
セミナーから離れた状況となってきてしまうわけです。

果たして検査に行ったところで、その症状は診てもらえるのか?
主に口頭での説明と、自覚症状レベルの問診ぐらいになってしまうのでは?

そんな懸念がありました。

こっちから積極的に色々な検査を「念のため」やってもらうよう
依頼することになるかもしれないと想定はしていたんです。


しかし、そんな心配は無用でした。

大勢の人に囲まれて待っている間、
具合の悪い人たちを眺めている間に、
いつの間にか手が震え始めていました。

なので診察の順番がやっていて医師に診てもらったときにも
色々な検査の最中、目視できる程度の震えは確認できたようです。

あとは手足の発汗も。

脳の障害や運動神経の問題を疑うようなものはなかったみたいですが
念のためMRIを取ることにして、その日は血液検査もすることになりました。

医師の話だとホルモン系を疑っていそうな様子。

久しぶりの採血は、思ったよりも痛くありませんでした。

数年前の僕は、注射針が刺さる痛みさえも
勝手に記憶で増幅して作り上げていたようです。

改めて新鮮な体験でもありましたし、
今の僕は病院内では普通に起きていることから
随分と違った状態になっているような印象も持ちました。

なんだか異世界にやってきたかのよう。
不思議な気分を味わいました。

次に行くのはMRI。
これも10年ぶりぐらいでしょうか。

以前は時間の長さが耐えられない不快な体験でしたが
瞑想にも慣れてきた今、感じるものは違ってくるかもしれません。

心配以上に、どういう体験をするのかへの関心のほうが高いぐらいです。

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2019年04月13日

今だから役に立つ本

僕が高校のときに第二外国語でやっていたフランス語を再開したのは
たしか4年ぐらい前だったんじゃないかと思います。

高校3年間の授業では大して進むこともなく
文法的も一通りカバーするより前に終わってしまった記憶があります。

大学1年のときにも第二外国語でフランス語をやりましたが
これも半期はイチからの復習で、1年かけても結局は
高校三年間プラスアルファぐらいだったはずです。

接続法とか重要な文法項目は勉強しないまま終わってしまいました。


それからかなり長い中断を挟んで、4年前ぐらいに再開したわけです。

当然、色々と忘れていることもありましたが、
まあまあ覚えているところもあって、久しぶりのフランス語であっても
再開当初から苦痛ではない程度に勉強を進められました。

まずは無難に、大学の公開講座で授業形式のものを受けるところから。

それから日本人の先生からマンツーマンのレッスンもやりました。
こちらは聴き取りのトレーニングと文法の練習問題が中心。

公開講座の授業にも文法は含まれますが、
そこで使っていたのはヨーロッパの教科書で
あまりまとまった文法の説明はありませんでした。

読解用の本文や練習問題の中に新しい文法知識が時々混ざってくる感じ。

ヨーロッパ言語は似ているところが大きいので、おそらく
そういう風に少しずつ慣らしていく感じでも自然と身につくんでしょう。

ですが日本語とフランス語は大きく違います。
文法はまとめて整理して練習した方が理解もスムーズな上に
法則を掴むのにも都合が良いように感じました。

ですから日本人の先生から文法を教わったのは役立ったと思います。


で、一通りの文法をカバーして、フランス語の文章にも音にも慣れてきた頃、
フランス人の先生から教わる段階に進みました。

こちらもヨーロッパの教科書を使っての授業が中心ですが
発話の機会が多いのと、勉強というよりも練習の度合いが強く、
フランス語の知識を運用するトレーニングを始めた印象でした。

高校のときにゆっくりと基礎をやって、
ブランクを取り戻す公開講座の授業の中でフランス語の文章に慣れ
同時にボキャブラリーを少しずつ増やして、
並行して日本人の先生から習って文法を一通り押さえる。

そうやってインプットした知識と法則を
いよいよ運用していく段階に移った、という感じでしょう。

そして去年の夏ぐらいからアウトプットの本格的なトレーニングを始めました。

自分で話のネタをフランス語でA41枚ぐらいに書いてまとめ、
その内容について実際に話して説明する。
で、書いたものを最後に添削してもらう。

このトレーニングをするようになって、少しずつ運用力が上がってきた気がします。

アウトプットのための情報ネットワークが
頭の中にできてきているような実感もありますし。


本当のことを言うと、もっとボキャブラリーを増やした方が良いはずなんです。

聴き取りをしていても分からない単語が出てきて聞けないことが多いですし、
読解の形でも知らない単語に遭遇することが多々あります。

英語と共通するボキャブラリーが多いのと、
高校のときに基礎の単語を覚えたのとで、
あまり積極的に語彙力を増やそうとしてきていないんです。

一方、英語を勉強したときは、もっと集中して単語を覚えました。
それで聴き取りも読解も、一気に楽になった実感があります。

アウトプットにしても知らない単語は言えませんから。

単語や定型表現を覚えてしまうのが本当は重要なはず。
…でも、単語を覚える作業は心理的なハードルが高いんです。

必要性が高くないから動機づけされません。

無理やり必要性を出すためには、
仏検とかを受けてしまえばいいのかもしれません。

そうすればテスト勉強として単語を覚えることになりますから。

ただ最近は、暗記の労力をロシア語のほうに注ぎがちなので
今一つフランス語の単語にまで気持ちが向いていない状態です。


そんな現状で、3年ぐらい前に買った本を再び手に取ってみました。

こちらの本。


英語とフランス語を対比させながら整理してくれています。

僕がフランス語でアウトプットするとき、
既に慣れている部分についてはフランス語のまま考えますが、
フランス語が思いつかないときは英語が先に浮かぶんです。

「英語でこういう風にいうとき、フランス語だと何に当たるんだろう?」と。

ですから英語でよく使われる構文を
フランス語に対応させてくれるこの本は非常に有効です。

いや、実際には有効なはずだと思って買ったんです。

ところが3年前の時点では、記憶にあまり残りませんでした。
当時は僕の頭の中に、フランス語でアウトプットするモードが
まだ作られ始めてもいなかったんでしょう。

本から読んでインプットしたつもりの情報も
頭の中の情報ネットワークと対応しないので記憶の網に引っかからない。
それで素通りしてしまうような感じだった気がします。

珍しくポストイットを貼ったり、書き込んだりして整理したのに、です。
3年前の時点では覚えられませんでした。

それが最近、久しぶりに手を取って読んでみたら
思いのほかスムーズに頭に入りそうな印象があったんです。

当時はポストイットを貼ってメモしていた部分の中にも、
今なら既に自分が使えるものとして「わざわざチェックしない」
種類のものが混ざってもいます。

3年前より、表現の幅としても、運用力としても
身についてきた部分があるんでしょう。

なんだか今からマメに目を通すと、それだけで使えるものにしていけそうです。
ようやく本のメリットを活かせるようになったんだろうと感じます。

今一度、地道なインプットをしたら吸収効率が良さそうです。

機械的に単語を覚える作業とか、
聴き取りの練習とか、読解問題を解くとか、
勉強モードに戻るべきタイミングなのかもしれません。

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2019年04月07日

NLP:アレルギー改善のワーク

NLPにはアレルギーを改善する手法があります。

「治る」という言葉は法的に使えないはずですが
アレルギー症状が消えたという報告は多々あるようです。

詳しいやり方は省くとして、大雑把に言うとイメージワークです。

場合によっては、思い込み(ビリーフ)を変えることで
”アレルギー反応をやめる”スタンスのものもあります。

アレルギーの症状を出すことで得ているメリット(二次利得)や
アレルギー症状の肯定的意図を調べて自覚し、
他のやり方で意図を満たせるようにして症状を緩和するものもあります。


ここには大きく2つの意味合いが含まれます。

1つは人間特有の「記憶に頼った体験の仕方」。
もう1つは「思い込みの効果」です。


1つ目の「記憶に頼った体験」というのは、
 人間が実際の体験を
 感覚刺激を基にした今の瞬間の体験だけではなく、
 過去の記憶を利用して補いながら作り上げている
ことに関係します。

例えばレモンを食べることを想像すると
ほとんどの人は自動的に記憶がよみがえって
「酸っぱい」感覚を思い出すと思います。

この「酸っぱい」感覚の強さは、現実の酸味とは関係なく
酸味を味わったときの身体反応をパターン化して作ったものです。

ですからレモンを思い出したときの「酸っぱい」感じは
実際のところ、舌の上の反応としては感じないはずです。

多くは、頬っぺたとか、口の中の筋肉の反応として感じるでしょう。

で、この「酸っぱい」ときの体感覚の反応が
「酸っぱい」体験の印象として強く刻まれているわけです。

そしてレモンを食べるときにも、
「これからレモンを食べる」という予測に従って
「酸っぱい」ときの体感覚の反応が追加されます。

記憶の中の「酸っぱい」体験が、実際のレモンの酸味の刺激に追加され
合わさったものが「レモンを食べて酸っぱい」体験として自覚されます。

人間の多くの体験は、こうやって記憶で補われているんです。

ですからアレルギー症状に関しても、
アレルゲンを意識しただけで痒みが出てきたりします。
スギ花粉症の人であれば、テレビ画面上で
黄色いスギ花粉が飛び散っている映像を見ただけでも
くしゃみが出ることもあるわけです。

また症状そのものが、さらに症状の様子を記憶から引っ張り出します。
痒みや鼻詰まりなどを意識した瞬間に
「アレルギー反応」の体験についての記憶が再現され始めます。

そのため
  症状を意識する
 →症状の記憶が蘇る
 →実際の症状に、症状の記憶が追加されて体験される
 →症状が強まって意識される
ということが起きます。

さらにはアレルギー反応は、症状へ注意を向けたときに
その部分の体験が強く意識に上がるため、
痒みなどの感覚体験が強く感じられてしまう、という側面もあります。

注意を向けると、その部分の血行も良くなりやすいですから
それによって症状そのものが強まってしまう場合までありえます。

ですから、「症状に意識を向ける」ということが
症状の体験を強めてしまう原因になる、という話です。

これについては、アトピーなどの人が
「かいてはいけない」と注意されるのと対応するところです。

まとめると、「記憶に頼った体験」によって
,修僚峇屬梁慮海法∀∩曚気譴覯甬遒梁慮海竜憶を追加して
 増幅しながら体験をする
体験された症状を認識したときに、注意を向けること自体により
 症状全般に関わる過去の不快な体験の記憶が戻ってきて、
 さらに症状が強まって体験される(意識するほど症状が強まる悪循環)
という2つの段階で、
症状を強めて体験しているといえます。

ミルトン・エリクソンはこのあたりのことを捉えて
「体験を3倍に増幅して体験している」
と表現しています。


アレルギーの症状を軽減するワークを行うと(どんな手法でも)、
まずはこの「記憶に頼った体験で症状を増幅する」部分が抑えられ
症状が軽くなることが考えられます。

少なくとも実際のアレルギー反応の体験の量だけになる、と。

注意を向けすぎて症状が悪化する悪循環も抑えられますから
これだけでかなり楽になるでしょう。

僕の花粉症は、この観点で、だいぶ楽になりました。
ちゃんと今の症状だけをリアルに感じられるようになったということです。


一方で、僕の中には
「思い込みを変えるとアレルギー症状がなくなる」とか
「アレルギー症状の必要性をなくせば症状を終えられる」といった考えには
疑問をもつところもあったんです。

猿だって犬だってアレルギー反応を示すじゃないか。
人間のような思考を持たないはずの動物だってアレルギーになるのに
どうして思い込みやビリーフが原因ということになるんだろうか?と。

これに関しては、NLP的な説明があるようです。
(あくまでコニリーが言っていたので、
 NLPコンプリヘンシブか、個人的な見解かもしれませんが)

NLPにおけるアレルギー軽減のワークの開発の趣旨からすると
これはある意味、プラセボなんだそうです。

「人はプラセボで病気が治ることがある。
 ガンを含めた様々な病気がプラセボで良くなるデータがある。

 だったら、プラセボを起こせるような心の状態を
 NLPのワークを通じて作り出せばいいじゃないか。」

そういう発想だとか。

実際に詳細なモデリングをしたわけではないでしょうが、
プラセボで治る人の心の中に起きた変化を
人工的に起こすことができるように工夫したわけです。

プラセボ効果を人為的に作り出すことができれば
アレルギーの症状も変えられるだろう、と。

それがアレルギー軽減のワークが持つ、もう1つの側面
『思い込みの効果』です。


「良くなる」という方向に積極的な思い込みを持つことで
アレルギー反応そのものが身体に起こらなくさせられる。

こちらは積極的に身体に起こる反応そのものを減らす方向性です。

1つ目のほうは
「記憶によって症状を増幅させるのをやめる」
という方向性でした。

アレルギー症状は動物だから出る。
それでも人間が意識的に体験するときに、
その症状を増幅して強めるのを止めることはできる。

そうすれば実際に起こっている身体の反応を
ただそのまま体験するだけの程度まで軽減できる。

…そういう話でした。

もう1つのほうは
「思い込みの効果を利用して、身体の反応を起こらなくさせる」
という積極的な方向性です。

こちらは上手くいけば身体の反応そのものを変えられる可能性があります。

ただ、プラセボ効果を意図的に引き起こしているということは
思い込みを強く持てるかどうかがカギになるかもしれません。

僕のように疑いが強い傾向の人には向かないかも…。


そしてこの2つ目のスタンス(思い込みの効果)は、
思考という機能を持つ人間だけに効果があるものだといえます。

サルや犬のアレルギーをこのやり方では対処できない気がしますが、
人間だからこそ工夫できる部分ではある、と。

人間だけが思考を使って、記憶を頼りにしたり、
注意を症状に向けたりして症状を増幅して苦しむ。

その一方で、人間だけが思考を工夫することで
動物的な身体の反応さえも変えることができる。

なかなか興味深いところだと感じます。

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2019年04月03日

アナウンスの英語

僕の通っているジムは常に放送がかかっています。

メインは洋楽で、ときおりアナウンスが入る流れ。

アナウンスは基本的に注意事項です。
鍵の扱いとか、防犯カメラとか、非常時の避難とかについて。

アナウンスは同じ内容が繰り返されます。
日本語のアナウンスの後、同じ内容を英語で、
という流れになっています。

録音したアナウンサーは、いかにもFMラジオのDJのような雰囲気で
日本語も英語も同じ人が吹き込んだようです。
その切り替えの感じがFMっぽいんです。


ただ、残念なことに、その人の英語の発音が酷い。
雰囲気はアメリカンですが、母音が雑なんです。
間違っていることもあります。

単語のアクセントの位置が違っていると違和感が大きく、
母音が違うと、そもそも聞きとれません。

どうやら「Club」と言っているらしい発音も
クラブの母音がハッキリした「ア」で伸ばされているので
認識できるまでに時間がかかりました。

特に最後の「b」の子音が弱いのもあって
「クラー…」までしか聞こえなかったんです。

僕の認識では、最後の子音が聞こえないため
前半部分に当てはまる単語が自動的に認識されます。

結果的に「Class」かと想像していました。
が、内容として変なので、おそらく「Club」だろう、と。

発音は大事だなぁと思います。

時には、あきらかに間違った発音をしているものまである始末。
「Occur」を「オカー」ではなく
「オキュア」って言っています。

このレベルは間違って覚えたままになっている、ということです。

音読の切れ目も、内容を分かっていない形になっていたり。

ちょうど先日、一部のアナウンスが変更になって
再録音されたようなんですが、それでも
「オキュア」とか、アクセントの位置とか、切れ目とか
おかしなところは維持されたままでした。

そもそも英語をどれくらい話せるのか疑問なほどなので、
ジムの経営者がこのアナウンサーを起用した経緯が気になります。

外国人向けのアナウンスだというのに、
それが何言っているか分からなかったら本末転倒な気もしますし。


個人的に厄介なのは、繰り返し耳に入るということ。

頭に残ってしまっています。
なんだか影響されてしまいそうな感じなんです。

明らかな間違いとして不快感を味わっていれば、
それを受け入れてしまうリスクは低いかと思いますが、
些細なエラーだと気づかずに入ってきそうで心配です。

聞きたくもないし、かといって無防備だと影響されそうだし、
なんとも手のかかる話です。

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2019年03月31日

原因不明

セミナーの後、手が震えることが最近増えてきました。
数日は続く感じです。

しばらく休むと収まってきますが
定期的にセミナーが入っていると落ち着くときが減ります。
収まっては再発、という具合。

決してブルブルと震えるわけでもなく
振動の大きさも僅かなものなので目立つほどではありません。

緊張して手が震えるのよりも小さいぐらいです。
「プルプル」ぐらい。
チワワが震えるのよりもずっと小さいものです。

主観的には内側から震えているような印象があって
表面の筋肉が震えるようなタイプとは違うんです。

お盆や水の一杯入ったコップ持って移動するときに
震えて中身がこぼれそうになる感じが近いでしょうか。

でも、もっと内側が振動しているのを感じます。

激しい運動をした後、力が入らずに震える…というのとも違う。
表面の筋肉の緊張がないのに奥の方が震えるみたいなんです。

範囲は指先から広がってくるようで、
最大だと上腕ぐらいまで震えの感覚が広がります。

範囲が広がるときは足も膝上ぐらいまで。
同時に腹筋あたりにも同じような反応が起こります。

腹筋の場合に限っては、表面付近の筋肉が痙攣することも。
これは、まぶたが痙攣するのと似た感じですから
種類は違うのかもしれません。


決して困るほどではないですし、
しばらくすると収まるので大きな心配ごとではないんですが
それでも多少は気がかりです。

とはいえ、念のため病院で検査でもしようかと思っても
時間的に余裕ができて病院に行けるタイミングになると
そのころには震えが止まってしまっています。

診察の際には口頭で説明するぐらいしかできません。

こちらから積極的に依頼して検査でもやらせるしかなさそうです。

期間としては、かれこれ一か月以上。
震えだしては収まって…のサイクルが常態化してきました。


栄養面も少し気にしてみたんですが、今のところ改善手段が見つかりません。

運動しても減らないというか、この震えに関してのみでいえば
むしろ運動をした後のほうが大きくなるような気もします。

その意味では筋肉に起きている何かなのかもしれません。

まあ、ただ震えているだけですから、それだけのことなんですが。

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2019年03月27日

見過ごしていました

なんだかようやく慌ただしい時期を越えた印象です。

時間的にも体調的にも得体のしれないシンドさがありました。
実際の予定そのものでいえば、そこまでではなかった気もするんですが。

年末ぐらいから何かと「いっぱい」な感じがありました。

語学に関しては1月の途中で週二回のロシア語は終了していましたし
スケジュール的には余裕を作ろうとはしていたつもりなんです。

予定的に空きがあるときにフランス語に行ったり英語に行ったり。

コンスタントに入っていた語学の予定はスペイン語ぐらいです。
それも忙しければ休んでしまうことも多々ありました。

書道教室も欠席が多かったと記憶しています。


スペイン語に関しては、先生が変わったせいで
入門的な内容に戻ってしまって、それもまた
無理していかなくても良さそうに思えてしまった理由でしょう。

それでも外国語をやっているときは多少、気楽でいられるんです。

スペイン語の勉強自体が簡単なレベルを
僕があまり真剣に取り組んでいない、という話ではありません。

おそらく日本語から離れられるのが気分転換になるんだと思います。

スペイン語の授業は英語で行われるコースです。
今期はなぜか生徒が少なく、日本人は僕一人なので
基本的に英語での説明となっていました。
(ときどき茶目っ気で講師が日本語を使うぐらい)

スペイン語の勉強として考えたら
もっとスペイン語が多い方がいいはずだとはいえ、
日本語から離れられる時間としては悪くない感じです。

フランス語と英語のレッスンに関しては
慣れのための地道な機会という側面に加え、
日本語から離れられる度合いは非常に大きいところ。

アウトプットのトレーニングとして利用しているほうのスクールでは
先生はフランス人なのに、他の生徒には英語を教えていたりもしますから、
分からない単語があったら「〇〇ってフランス語で何ていうの?」と
英単語を挙げて教えてもらうこともできます。

頭の中でも日本語を介さないでいられる状態。

僕の場合、NLPでいうペーシングをするのに慣れ過ぎているので
会話の相手の影響を自分が大きく受ける傾向があります。
自然と相手のペースに乗ってしまうわけです。

余計にネイティブと英語で話していれば英語モードになるし、
フランス人と話していればフランス語モードになるし…、と。

先生の方も、僕と話していると自然体になることが多いように見えます。

英語のときには、先生の地元のアクセントが混ざり始めたり、
座るときの姿勢が「お行儀のいい英会話学校の先生」モードから
英語圏の人特有のオープンな座り方になっていったり。

英語も教えているそのフランス語の先生は
スクール内でフランス語の分かる人が他にいない時間帯だと
フランス語でちょっとした愚痴を言ってきたりもします。

多少ビックリするような本音も出てくることがあって心配していたら
「誰もフランス語分からないから大丈夫」とのこと。

ラポールというのは技術的に考えたときにも
相手の心を開いてもらう上で効果的なんだろうと再確認するところです。

当然、僕の側にもラポールの影響は出てきますから、
日本語モードで気をつけている部分が抑えられて
しかも西洋人特有のオープンさの影響を受けられるので、
いっそう気分転換の度合いが大きくなるんだろうと思われます。

とりわけ、ここ最近の詰め込まれ感の中では
トレーニングとしての意味合いよりも、気分転換の意味合いのほうが
英語・フランス語をやる理由として大きかったかもしれません。


ちなみに、フランス語でアウトプットのトレーニングに力を入れだして以来、
聴き取りや教科書中心で進めていたほうのスクールには
通う頻度が落ちてしまっていました。

通い始めの頃は一週間に2レッスン取っていたんですが、
それが週一回もままならない感じに減ってしまっていました。

他のスケジュールの都合もありましたし、
予約を取ろうとしても空きがある時間帯と
自分の都合が合わないという事情もありました。

それで先日発覚したのが、どうやら
レッスン料に期限があるらしいということ。

週二回平均で予約すると半年で使いきれるような量のレッスン形式で
期間内に多くやるからこそ多少の値引きが入っているもののようです。

最初の1年はコンスタントに通って使い切りましたが
この半年は随分とスローペースになってしまって
半分もいかなかった状況だったんです。

先生のほうも期間を把握できていなかったとのことで、
通常だったら「もっとペース上げないと使いきれないよ」と
アナウンスをしてくれるところ、それもありませんでした。

なのでお互いに期限があることをすっかり忘れて
ちょっとずつしかレッスンを取っていなかったわけです。

スクール側もアナウンスできなかったから、と配慮してくれて
これからペースを上げれば使い切らせてくれそうな話にはなりました。

ちょうど予定的にも少しずつ余裕が出てくるところですので
頑張って消化していこうかと思います。


…まぁ、本当にそういう配慮をスクール側として決定しているかは
定かではないので、僕個人としては安心はしていないんですが。

今回、期限のことに気づいてくれたのはベルギー人の先生で
一応は共同経営者の一人ということで決定権もあるはずだとはいえ、
校長を兼ねている先生はフランス人のほうのようです。

彼が何を言うかは分かりません。
かなり日本文化から判断すると「ちゃらんぽらん」な雰囲気。
それがフランス人の標準に近いようです。

フランス人判断が加わると、もしかしたら決定が覆って
レッスン料を払い直しになるかもしれません。

そうなったらペースを落としたプランにするつもりです。

こういった期限切れみたいな話を見逃すぐらいですから
自分でも思った以上に負荷がかかっていたんでしょう。

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2019年03月22日

自然な催眠

自分がセミナーをやるときには、ある程度の割合で
ちょっとしたエピソードを話します。

半分ぐらいの意図は、講座で説明している内容を分かりやすくする
補足説明としての具体例になっていますが、
もう半分の狙いは、セラピー的な意味でのメタファーです。

その場にいる全員に関連する内容ではなくても
誰かのために、あえてそのエピソードを話す、と。

エピソードの内容としては、同じ題材を
別の機会でも話すこともありますが、
それでも話のボリューム配分や順番を少し工夫して
強調される主旨が変わるように工夫しているつもりです。

そうやって、その場の誰かにとって
悩みや問題への種まきになるようなメタファーを
講座の中に混ぜ込むようにすることが多いんです。


僕がこういうのを心がけるようになったのは
ずっと前にビル・オハンロンのセミナーを受けに行ったとき、
彼が受講生の質問に対して、それをやっていたのを見てからです。

質問に答えている間に、関連するエピソードを全体に説明し始め、
どうやらそれが質問者の問題に対してのメタファーになっている、と。

質問した受講生は決して個人的な悩み相談をしたわけではないですが、
質問をする以上、その前提として何か解決したい部分がある。

上手くいっていないこと、困っていること、
もっと上手くできるようにしたいことがあるはずです。

そしてそこには、さらに解決したいだけの理由があり、
一方で解決を妨げる盲点や、恐れのようなものも伴います。

その盲点や恐れに対して、オハンロンはメタファーで
アプローチをしていたようだったんです。

客観的に見ていると、かなり質問とは離れた内容でしたから
いつの間にか話が逸れているようにも思えそうなところでした。

一方で、質問者の意図を踏まえると、それはセラピーだったようなんです。

オハンロンは、そういうことを頻繁にやっていました。


このビル・オハンロンというセラピストは、
催眠療法家ミルトン・エリクソンの庭師から弟子入りして
長期間にわたる指導を受けていた人です。

オハンロンのエリクソン催眠についての解説本は分かりやすく
とてもスッキリとまとまっている印象です。

最終的には自分なりのやり方を確立して
催眠からは離れたSolution-Oriented Approachに辿り着きますが、
メタファーを使った介入はエリクソンから学んだことなのかもしれません。

エリクソンも同じようなエピソードを何人にも話していたらしく、
同時に、その伝聞を語る人によって、微妙に内容が異なっていたりします。

もしかすると、相手に合わせたメタファーとして
強調するポイントやディテールを変えながら話したのかもしれません。


先日、エリクソンの娘さんの話を聞く機会があったんですが、
どうやらオハンロンがやっていた質問への答え方、つまり
 ちょっと関係なさそうなエピソードで答えつつメタファーで介入する
というのは、エリクソンがよくやっていた答え方でもあり、
それは彼女の解釈では一種の催眠なんだそうです。

もっとも気づかれにくい、自然なアプローチの催眠。
一切の形式を排除しながら、自然にトランスを引き起こし
かつメタファーで無意識的にアプローチをする、と。

そういう解説を聞いてきました。

僕がオハンロンを参考にしてやっていたことは
どうやら催眠の一種ともいえるようです。

個人的には催眠をあまり使わなくなったなぁと思っていたんですが
僕が習ってきた催眠のエッセンスは、やはり自然と生きていたみたいです。

おそらく僕に催眠を教えてくれた先生が
こっそり分からないように種を蒔いておいてくれたんでしょう。

催眠というのは、そうやって知らず知らずのうちに
直接的に場を共有したときに、非言語レベルで伝授されるような
そんな性質があるのかもしれません。

知的なレベル・意識的な理解のレベルでは間接的ですが、
体験学習レベル・無意識的な伝播のレベルでは直接的ともいえる。

そんな学習が起こっていたんだろうと思い返すと
なんだか先生のことが偲ばれます。

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2019年03月17日

NLP的マインドフルネス

そもそもNLP的な側面が強い…、つまり
 汎用的に役立つようにポイントを形式化している
という性質がありそうなマインドフルネス。

だからこそ多くの人に役立つものとして広がったのでしょうし、
リラックスするとか集中力がつくとか生産性が上がるとか
様々な”効能”が調べられてきたんだと思います。

それはNLPがビジネスに役立つとか、人間関係に役立つとか、
コーチングやカウンセリングの幅を広げるのに役立つとか、
そういう現実的な側面の効果を謳っているのと対応しそうです。

一方で、実用面で実社会に役立つかどうかを抜きにして、単純に
そのものを深めていくという取り組み方もあります。

好奇心や興味、面白さなどが、その動機となる場合もあれば
自分の内面を見つめることそのものが動機になる場合なども。

これは「自分の悩みや苦しみを減らしたい」というのとは
少し違っているように感じられます。

必ずしも悩んでいるわけではないけれど、
なんとなく自分への優しさ・生き物への優しさとして
思いやりが向くような感じです。

喩えると、犬を飼っている人が寝ている犬を眺めているとき
そこで別に何の効果も期待していない、というようなものです。

ただ見ていたいから。
それだけ。

NLPを続けていくと、そのような気持ちから
人の内面を見ようとする側面が出てくるようです。

もちろん、この際の着眼点にはNLPのポイントが使われますが、
この段階で重要なのは、NLPそのものではなく
NLPを通して見ようとしている対象のほう。

つまり心そのものです。

ただ心を見つめる動機が生まれてくるんです。

NLPという形式化された技法や、考え方、心を理解するモデルが
入り口になって、そこから
NLPを通して見えてくる世界へと誘ってくれる。

そんなことが起こる人がいます。


おそらく同じようなことがマインドフルネスの実践者にも起こります。

入り口はマインドフルネスのもたらす効能や、
マインドフルネスという手法そのものへの興味だとしても、
ずっと実践していると、マインドフルネス瞑想を通して見える世界
つまり心そのもののほうへと視野が導かれていく、と。

実際、マインドフルネスという単語を英語圏に広めた
ティク・ナット・ハンは、
「マインドフルネスはトロイの木馬だ」
と言っていたそうです。

あくまで僕も伝聞でしかないのですが、
ティク・ナット・ハンの本の翻訳をしている人から聞きました。

マインドフルネスを入り口として、その実用的効能を目指して取り組むと
続けているうちに、その奥の方に進む人が出てくる。

そういうことを狙っていたのかもしれません。


もちろん、NLPをやって実生活に役立てるだけで十分な人も大勢いますし、
NLPのコースを体験して、知識を得るだけで満足する人も
コース受講中に自分の悩みが解決して満足する人もいます。

NLPを常日頃から心がけつつ生活を送らないとしても
少なくともNLPをやったことが役立つ人は沢山いるわけです。

また、NLPを常に心がけていない状態でも
体験的に学んだことは自然と日常に変化をもたらします。
知らないうちにNLP的な捉え方で人の心、自分の心と接して
NLPをやる以前とは違った生活が可能になっている人もいるでしょう。

当然、実用的な観点で一生懸命にNLPの手法を利用し続け
その恩恵を受けている人だっているはずです。

たとえ一時的にであっても、集中して何かに取り組めば
その経験は後々まで影響を及ぼしてくれる、ということです。

マインドフルネスにおいても同様だろうと思います。

1,2回体験してみただけでどうなるかは分かりませんが
重ねた経験の分だけ違いが出てくるのでしょう。

体験して実感できた成果だけで十分なのか、
やった分の影響がもたらしてくれた恩恵を感じながら
実践からは離れて自分の普段通りの日常に戻っていくのか、
それとも、その方法で得られる効果を求め続けて実践者となるのか。

さらには、実践を続けるうちに関心の方向がシフトしていくことになるのか。

何が起こるかは、人それぞれ。
どれが良いわけでも、正しいわけでもないんだろうと思います。

ですが、いずれにしても触れてみないことには何も起こりません。

その意味では、世間にマインドフルネスが流行したことは
多くの人に機会をもたらした点で有意義だったんでしょう。


実際、世の中にはマインドフルネス関係の本も
マインドフルネスを紹介する瞑想会も
マインドフルネスをベースにして応用した方法も、さらには
マインドフルネスと何かを組み合わせたという手法も…、
色々と見受けられます。

その中で、あえて「NLP的マインドフルネス」ということを考えると
何を工夫することになるのか?

1つの観点は、マインドフルネスが
 専門的で指導方法が複雑多岐にわたっていた仏教分野の瞑想を
 シンプルなポイントに絞って形式化したもの
という点で、
NLPでいうモデリングのような性質を持っているところになりそうです。

形式化してポイントを整理し、シンプルにする…
そうやってエッセンスを抽出するのがモデリングですが、
「何をエッセンスとして、どのポイントを選びとるのか?」には
必ずしも1つの正しいやり方があるわけではないはずです。

マインドフルネスを概念として捉えるときには
その基本的な発想は共通認識として整理しやすいでしょう。

ですが、そのマインドフルネスの基本的な発想を
「具体的にどのようなやり方で、どうやって実行するのか?」
という手法としてのポイントは、工夫のしようがあると考えられます。

実際、マインドフルネスの系統の瞑想にも
いくつかやり方のバリエーションがありますし。

つまり、Wikipediaにあるような説明
「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、
 評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」
がマインドフルネスの概念だとしたら、
「どういうことに気をつけて、何を心がければ
 ”マインドフルネス”になれるのか?」
が『マインドフルネス瞑想』の手法にあたる、と。

そして『マインドフルネス瞑想』の手法にはバリエーションがあって
それは、これまでに誰かがポイントを絞って作ってきた方法であり、
まだ他のポイントを心がける方法があるかもしれない。

ですから「NLP的マインドフルネス」というタイトルを
「NLP的に工夫したマインドフルネス瞑想」と捉えれば、
マインドフルネスになるためのポイントをNLP的な観点から整理し直して
具体的な方法に作り上げることができると思われます。

とはいえ、NLPの大部分は瞑想ではないので
方法として取り組む内容は瞑想そのものからは離れてきそうですが。


まとめると、”マインドフルネス”は、あくまで状態。
感情のようなステート(内的状態)の話ではなく、意識の状態の一形態。

なので「NLP的マインドフルネス」としては、
マインドフルネスという意識状態になることを目的として、
NLPの観点からポイントを整理し直し、
そのためのトレーニング方法や実践方法を取り扱う。

そういうのが妥当じゃないでしょうか。

よく知られている「マインドフルネス瞑想」の効果とは違う形で
もっとマインドフルネスになれるようなポイントを
NLPの用語や手法を応用しながら紹介する予定です。

逆に言えば、マインドフルネス瞑想そのものをやりたい人は
他のところを探していただく方が良さそうです。

cozyharada at 23:49|Permalinkclip!

2019年03月14日

NLP的マインドフルネス

リクエストがあったので
マインドフルネスを講座で扱うことになりました。

詳細は>
  五感を研ぎ澄まし心に寄り添うベース
  NLP的マインドフルネス


僕自身が実践しているのは禅だと思っていますが
世間的にはマインドフルネスのほうが人気があるんでしょう。

とはいえ、もっとも一般的に紹介されているマインドフルネスを
そのまま紹介する形だとしたら、情報はかなり容易に手に入ります。

やり方においても、
もしコツを身につけないといけないようなものだとしたら
これほど広まってはいないような気がします。

何より、誰にでも実行できて、客観的に説明可能な基準があってこそ
「マインドフルネスをやっている」という状態を定義することができて、
それゆえに「マインドフルネスの効果」を検証することができます。

統計的エビデンスをとろうと思ったら
客観的に説明できないような内容や
誰にでもすぐできるものではない技術が必要なものは不適切なんです。

「やったら、こういう効果が得られました」とデータをとったとしても
「それは上手い人がやったからであって、個人差の問題なのでは?
 だとすると方法そのものの効果ではないのではないか?」
といった反論が可能になってしまいます。

「この方法は有効である」ということに統計的なデータをとるためには
方法が一般的に容易で、誰にでもすぐ実行できるものである必要があります。

誰が教えても同じようにできる。
高度なことが要求されない。
作業としての基準が明確である。

そういう種類の方法だと、
 ランダムに様々な人を連れてきて
 特に熟練した指導者ではない人が方法を説明して
 それで同じように決まった作業をしてもらう
ことが可能になります。

それで効果を統計的に検証する。

すると
 どんな人でも
 教え方や教える人の熟練度によらず
 基準に沿ったやり方をしさえすれば、
 こういう効果を得られる
というデータを取れるわけです。

マインドフルネスが瞑想そのものでの効果を検証されていたり
それをベースにした心理療法の効果が知られていたりするのは、
マインドフルネスという方法を形式化したところにポイントがあります。

そういう意味では、マインドフルネス自体が
瞑想の1つの狙いを形式化した、つまりモデリングしたものだ
とも言えるのではないでしょうか。


NLPは心理療法の達人のやり方を形式化したところが出発点です。

達人と全く同じようにできるには数えきれない高度なコツがあるとしても、
ある程度の効果を誰にでも得られるように形式化すれば
短時間でかなりの成果を得やすくなるといえます。

長時間のトレーニングを通じて自ら技術を磨かなくても、
すでに主なコツがポイントとして整理されているから
それを実行に移すだけで十分な効果が得られる、と。

そういうスタンスが、そもそもNLPにはあるんです。

本当に心理療法を本格的に身につけようとしたら
ハッキリ言ってしまえば、NLPの資格取得コースだけでは不十分でしょう。

NLPにはエッセンスは含まれていますが
そこで得られるのはダイジェスト版です。

しかし、いきなり心理療法だけを地道に学んで技術を磨くより
NLPを一通りやってしまうと、習得が効率的になります。

とりわけ、心に関して幅広く性質を理解して
応用範囲の広い基礎技術を身につけることができるので、
1つに特化した心理療法だけを学ぶよりも柔軟性は得られやすいと思います。

たとえるなら、お寿司の専門学校みたいなものでしょうか。

古くからの寿司の修行は、弟子入りして、洗い物から始まって
何年もかけて少しずつ技術を学ばせてもらえるスタイルだったそうです。

しかも弟子は自ら親方の技を盗まないといけなかった。
コツは教えてもらえない世界。

それが専門学校では、半年程度の間に一通りの作業を練習して
とりあえず形として、お寿司が作れるようには教えてもらえます。
やり方のポイントを整理して教えてくれる。

だから身につくのが早い。

じゃあ、専門学校だけで超一流になれるか?というと…。
それには超一流の店で修行したほうがいいのかもしれません。

到達点の高さを目指すなら特化した修行をしながら
達人の下で自ら学び取っていく必要があるんでしょう。

一方で、ポイントを掴んで、ある程度の結果を早く出すとしたら
すでに誰かがコツを体系化してくれたものをやるほうが都合がいい。

そんな区別があるように思えます。


NLPはそもそもポイントを絞って体系化したものです。

そのポイントを身につけて、すぐに実践可能な技術として
実用的に活かしていく…というのも一つのスタンス。

そのポイントを元に人の心をひたすら調べていけば
それまで見えていなかった世界が見えるようになってきます。
そうしてどこまでも追求することもできます。

その意味では、あくまで入り口であって
そこを起点に自ら先を調べるかどうかは人それぞれ。

体系化して、誰にでもすぐ役に立つように整理したものは
入り口として興味を持ってもらう上で
とても効果的なんでしょう。

誰もがプロのミュージシャンを目指すわけではないとしても
音楽の楽しさを知ってもらうチャンスは広く提供する。

そんな立ち位置は、どの分野でも重要なんだと感じます。

NLPもマインドフルネスも、そんな入り口のようです。

いわば、最初からマインドフルネスはNLP的なんでしょう。
ポイントを絞った、誰にでもできる入り口として。

それを踏まえて、どういう講座内容にするか。
それはまた今度の話にします。

cozyharada at 23:43|Permalinkclip!

2019年03月08日

ダンスと文化

日本の学校教育にダンスが取り入れられて
それなりの時間が経っているようですが、
それに伴ってダンスをやっている子供を見る機会も増えた印象です。

テレビでもダンスが映ることが良くありますし、
音楽番組に出るアーティストと呼ばれる人たちも
ただの「歌手」ではなくなってきているのかもしれません。

アイドルがグループで踊るのは、すっかりお馴染み。
男性グループにもダンサーがいるのが珍しくないようです。

先日もセミナー会場のホールで
ダンスコンクールのようなイベントをやっていました。

親が小さな子供を連れてきて、だいぶ賑やかな雰囲気。
昔はピアノの発表会とかだったのが、
今はダンスにシフトしているんでしょうか。

最近は映画でもミュージカル的なものが流行っていますし
踊りが日本文化にも浸透してきたのかもしれません。


ただ、一口にダンス・踊りと言っても
ダンスが重視する側面は文化的な背景の影響を受けそうです。

失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、
日本人のダンスはどんなにカッコよくてもスピーディーでも
盆踊りの延長のように見えてしまうんです。

もちろんリズムとかテンポは違います。
そうではなく、意図というか、
何を求めてやるか?の話です。

日本人のダンスは、
決まった振り付けを皆で正確に行って
一糸乱れぬ動きを「見せる」のが目的のように感じます。

見る人が想定されているか、少なくとも
お互いに揃っているのを見て
「上手くできている」のに喜びを得たり、
協調していることで「和」を感じたりする感じ。

この「和」の雰囲気は、まさに盆踊りだと思えますし、
見る人を想定するのは「周りの目」を気にする文化と
対応しているように考えられます。

見る人を想定する感じは、吹奏楽とか、
ピアノやバイオリンのお稽古、バレエに似ています。

見る人、聞く人を喜ばせるように
高いクオリティを目指していくスタンスといいますか。

ただし喜ばせる相手は、あくまで第三者であって、
同じ場で一緒に演奏したり踊ったりする仲間は
協力関係であり、喜ばせる相手ではありません。


こうした第三者への意識は、ヨーロッパの音楽やバレエ、
一部のダンスにも含まれているものですが、
ヨーロッパのダンスは趣旨が違うように見えます。

ヨーロッパの伝統では社交ダンスに代表されるように、
一緒に踊る相手とのコミュニケーション手段として
ダンスが使われてきたところがあるんじゃないでしょうか。

踊る相手は常に「You」であって、
意識される対象は第三者ではなく、目の前のパートナー。

つまり「You and I」という二人称の関係だ、と。

海外にも「社交ダンスコンテスト」はあるのかもしれませんが、
日本の社交ダンスはやっぱり、見られることを想定して
上手く踊ったりことを目標とした
コンテスト・発表会が前提の習い事のように見えます。

それに対して、ヨーロッパだと
二人称の関係での交流が前提の踊りが中心なのか、
ミュージカルの踊りでも社交の側面が強調された印象です。


これがアメリカになると、特にアフリカ系文化の影響か、
身体の表現としてのダンスという位置づけが強まります。

子供でも音楽を聞いていると勝手に身体が動く。
そんな感じ。

感情や自己の表現としてのダンスや、
音楽やムードへの「ノリ」としてのダンス。

自分という肉体の表現としてダンスをして、それで
身体を動かしていること、のっていることが楽しい、と。

ダンスが一人称なんです。

見られる第三者は気にしないし、
二人称としての他人と交流する意図もない。

皆がそれぞれ、自分が踊るのが楽しい。

そこへ同じ踊りの場を共有する人がいると、
その人たちは仲間になります。

他人と揃えなければいけないわけではなく、
相手と交流しようというわけでもなく、
ただ一緒にトランスに入って、自分勝手に踊る。

するとそこで自然な一体感が生まれます。
その一体感がたまたま作り出す相互作用が
全体としての盛り上がりを高める。

結果的に皆で踊ることはあっても、
それはジャズの即興セッションのような
一体感の中での自然な自己表現なんだと思います。

つまり「We」の意識。

一人称単数で楽しいのが、
他者と一体感を持つと一人称複数で楽しくなる。

アメリカのミュージカルには
この雰囲気が強く見てとれる気がします。

見ていて楽しそうです。

逆にこの文化が背景にあるせいか、
日本やヨーロッパでは見せる想定で演じられるものも
アメリカ人がやると、本人が楽しそうな印象になる。

フィギュアスケートなんかでも
妙にチアリーディングっぽいというか、
「身体を躍動させるのが楽しい!」みたいな選手がいます。


同じダンス・踊りでも、ルーツというか
文化的背景の影響が表れているように思えます。

日本の踊りがダメだという話ではありませんが、
どんなにアメリカのダンスや社交ダンスを表面的に真似しても
根底にある喜びの種類や意図は
いかにも日本の伝統の延長になりやすいんでしょう。

逆に、歴史的、文化的背景をふまえ
メンタリティの部分から参考にできると
もっと違った楽しみが生まれてきそうに思います。

少なくとも子供のダンス発表会は
違った雰囲気になるんじゃないでしょうか。

cozyharada at 15:57|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

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次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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