NLP

2017年09月23日

発音矯正

先日、イギリス英語発音のトレーニングを受けてきました。
今回は幸運にもマンツーマン指導。

本来はフォローアップ講座という形で複数の予定だったようですが
参加人数が少なかったため丁寧に指導してもらえたんです。

フォローアップですから新しいことをやるわけではありません。
同じ文章を音読するだけ。

その文章にしたって以前の講座内で練習したものなので
単に復習と言ってしまえばそれだけともいえそうです。

しかしながら実態は、同じ文章で練習をしても
細かな癖を指摘してもらいながら繰り返しトレーニングすると
全く自覚できていなかった課題が見つかってきました。

時間は短めの設定であっても濃密な指導の分、
得られるものは多かったように感じます。


それにしても多くの人にとって、復習や繰り返しの練習は
面白いものとして映らないんでしょうか。

一年前ぐらいにあった同様のフォローアップ講座には
もっと人数がいましたから、今回もある程度の数を想像していました。

時期的なもので予定が合わない人も当然いたとは思います。

一方で、情報が欲しい人がいるのも実感します。
新しい知識が手に入るのが楽しい感じ。

確かにその側面も楽しいものですが、
頭で知っていることと、できることとは大きく違います。

知識レベルで知っているつもりのことでも
意外とできていないことは多いようです。

そのあたりは、繰り返しのトレーニングと
違いを指摘できる人に見てもらいながら練習するのとで
少しずつできるようにしていく部分ではないでしょうか。

とりわけ定着してしまっている癖を修正するのは大変です。

大人になってからの学習は、完全にゼロからのスタートではありません。
常に何か似たようなケースで使っていたものを流用しながら
効率的に実行してしまいやすいんです。


例えば僕の場合、いまだに残っている癖として
「n」の発音が挙げられます。

特に「pen」のような「ん」の音になると
つい日本語の「ん」の音のように鼻母音が混ざりがちです。

フランス語は逆にハッキリした鼻母音にするルールですから
舌先をあえて上顎につけないようにします。

ナ行の成分は少なく、鼻にかかった母音を出すだけなので
日本語の「ん」の音を出すときみたいに口を小さくする必要はないんです。

日本語で「あん」というと「あ」の後に顎が動いて
口が小さくなるのを感じられると思いますが、
フランス語の「ア(ン)」では顎の動きが起こらず
「ア」の後に声を鼻に響かせる感じで鼻母音になります。

英語の「ん」は厳密には「ん」ではなく、
「ぬ」のときの舌先の位置で発音されます。
「ペン」じゃなくて、「ペンヌ」のほうが近い感じ。

つまり日本語の「ん」は英語とフランス語のミックスのような感じだ、と。

でも僕は日本語が母国語で、それに慣れ過ぎているので
つい英語でもフランス語でも、日本語の「ん」で代用してしまう。

それはよほど気をつけないと修正できません。

外国語を話そうとすると、どうしても内容に注意が向きますから
発音のほうに気を配れる度合いが少なくなってしまうんでしょう。

手を抜いているつもりはないけれど
目先に今まで自分が重視してきたものがあると、
本来は気をつけるべきポイントが抜けてしまうわけです。

「に」も同様です。
日本語の「に」と英語の「ni(ヌィ)」は違う音です。

でもやはり気をつけないと日本語の舌の位置で言ってしまう。


こうした癖は一度指摘されただけだと
戻ってしまうことが多いようです。

決して自然とできているわけではなく、
目先のこと(話の内容)に注意が集まっていくうちに
別の大事な部分、とりわけ自分の癖から注意が外れてしまう、と。

そんなに細かいことを気にしなくても良いという考えもあるようですが
トレーニングに終わりはありません。

コツコツと続けていく。

その過程では、時折、チェックも必要になるのを痛感します。
反省することが沢山です。

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2017年09月20日

居心地のいい場所

端的に言うと、社会は居心地が良くないんです、
全ての人にとって。

度合いの差こそあれ、
他者と接すれば合わない部分があったり、
自分が学習してきたこととの違いから戸惑ったり、
自分の期待した通りに他者が行動しないことで不快になったり…、
何かしら不満を感じるところがあるはずです。


権威や財力がある場合には
他人に自分の思い通りの形で動いてもらいやすくなりますから、
そういう人たちには不満が少ないように見えるかもしれません。

が、心のどこかでは「思い通りに動いてくれるのは力のおかげだ」
ということを知っています。
自分に対する好意や思いやり、愛情といった
心の繋がりから生まれているものではないと気づいている。

そのため本当に打ち解けられる相手がいない孤独感を抱えがちになる。
こういうのは経営者などに多く見受けられる特徴です。


社交的で友達が多く、誰とでも仲良くなって
いつも外で楽しく遊んでいるように見える人たちもいますが、
その楽しさだって決して100%満足できるものではないようです。

何をしても許されるわけではなく、ある程度の暗黙のルールに沿って
輪の中に入れてもらうための努力は必要になります。
言いたいことを言えないケースもあるかもしれないし、逆に
言いたくないことを言わなくてはいけないケースもあるかもしれない。

共通点や親近感、同じ喜びを共有できるグループに所属することで
自分の居場所を感じようとするのでしょう。

こういった場合にありがちなのが、一人に戻ったときの寂しさです。
家に帰ってきてから無性に寂しくなったりする。
さっきまでの楽しさとの対比のように虚しさに襲われる。

人によっては繋がりを維持しようとしてSNSやメールで
交流を続けようとするかもしれません。

僕にも同じような思い出があります。

地方の工場併設の研究所で勤務していたとき、
さまざまなストレスや労働環境への不満がある中で
それに耐えながら頑張っていました。

中には同じような不満を感じる同僚がいて、
親近感と苦しさの共有で繋がりを感じられていたんだと思います。

その同僚たちと休日に少し離れた都会に遊びに行ったりすると
そのときは楽しかったんですが、決まって自室に戻ってから
猛烈な寂しさと虚しさに襲われていました。

今思うと、そもそも居場所がないように感じていたんでしょう。
職場にいても寮にいても落ち着かない。
一人の部屋だからといって、そこがホームなわけではない。

仲の良い同僚との繋がりは支えではあったけれど、
それはあくまで居場所のない孤独を埋め合わせる喜びであって
その関係を本質的な居場所だと思えていたわけではない。

「ここにいたくない」という思いから
どこか別のところへ逃げるように同僚との時間を過ごす…。
その時間が終われば、居場所のなさに引き戻される、と。

そんなプロセスが内面で起こっていたようです。

近い間柄のはずの家族の中で居場所を感じられないとか
一番長い時間を過ごすはずの職場で居場所を感じられないとかは、
相当な孤独感があって苦しいものでしょう。


こうした孤独感から離れるために居場所を求めるのは
多くの人に見受けられる行動です。

権威や財力などの力で思い通りになる環境に身を置くのも、
共通点や同じ思いを共有できる仲間の中に身を置くのも、
居場所づくりのための行動の1つといえそうです。

ですが、
 そこが本当の意味で居場所になっているかどうか
の違いは大きいようです。

本当の居場所には、なんとなくの安心感があります。
リラックスしたり、体が緩んだりします。

たくさん笑えるかは問題ではありません。
一緒にいることが心地いい感じ。

ペットと一緒にいるときに似ているかもしれません。

大きな特徴は、
 その安らいだ感じが、ある程度持続する
ことです。

そこを離れると無性に寂しくなったり虚しくなったりする…
ということが起きないんです。

むしろ、その安心感や居心地の良さを内面に保ったまま、
家庭や職場などの”いつも場所”に帰っていくことができる。

その居心地の良さを持ったまま接することができるため、
普段よりも少し楽に過ごすことができる。

そうしていくうちに、その”いつもの場所”にも
同じような居心地の良さが生まれてくれば望ましいでしょうが、
そこまで行かないとしても、居心地の良さを持って帰れるんです。

そういう居場所があると人は楽になります。

おそらく、そうした居場所の感じを可能にするのは、その場所に
「他人のために、そこへいてくれる」人がいることでしょう。

自分のために存在しようとするのが一般的です。
誰と接しても自分のための要素が含まれるのが標準です。

そうではなく、少なくともその時間は
同じ場所にいる別の誰かのためにそこにいる。

そういう人がいるところは、居心地が良いようです。

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2017年09月18日

プログラムとしての理解

最近、いろいろな形で頼まれごとが続きました。

もちろん僕に頼んでくる人は、僕のやっていることを知って
そこをベースに尋ねるようなので、
仮にも体力的な面(例えば、引越しの手伝いとか)ではなく
人の内面に関わるような話が自然と中心になります。

そこで改めて気づくのは、僕の発想の基盤にはNLPがあるということ。

つまり、人が何を学習しているのか、
どういう体験によって学習された結果、
どのような認知の仕方をするようになり、
どんな反応の癖が身についているのか、
そして、それはどれぐらい変えやすいものなのか、
どういうことによって変えていけるのか
…などを考えるようなんです。

人に起きていることの全てが学習されたプログラムだとは言えず
僕の扱う範囲の中にはプログラムとは違うものも含まれますが、
人が日常的に体験している問題の大部分は
プログラムの発想を踏まえた上のような問いで説明できそうです。


それに対して心理学的な研究成果の中には
人のやっていることを傾向として分類したものがあって、
例えば「ストレスがかかったときに、どう反応するか?」などは
その反応の仕方(どんな反応が表れるか)に注目した分類であって、
「どのタイミングで起こるか?」は分類の要件に入っていません。

つまり、
「ストレスがかかってから、何が起きて、そのあとでどうなって
 どんな時期が続く結果として、どういう反応をするようになるのか」
など、長い時間の中で起きることを、時間枠の区別なく
一様に「どんな反応が出るか」だけを基準に分類したりするわけです。

それで役に立つし、それに応じた対処も考えられるので
「どのタイミングで」というのは重要視しないんでしょう。

しかしNLPとしては、そうしたストレス反応を生み出す”しくみ”をもとに
本人の中で何が起きているかを考えようとします。

なぜなら、反応を生み出す”しくみ”の中の
どの過程で問題が起きているのかによって
対処の仕方が異なるからです。

例えば、身の危険が迫るような大きなストレスがかかったときには
身体は動物的な防衛の反応を始めることが知られています。
これは学習されたものではないので、どうにかする対象ではありません。

むしろ動物的な防衛反応が出た後に、どうやって
人間らしい社会生活に戻っていくかのほうが大事になる。
タイミングとしては「防衛反応の出た後」にアプローチをする、と。

ところが、ストレスのレベルが小さいときには話が変わります。

身の危険が迫るような災害や災難などはストレスレベルの大きなものですが、
そこまで体のレベルで危険ではないけれども
最終的に不快な気分になるケースは日常生活に多々あります。
人間関係の不満などは典型的でしょう。

多くの人間関係のトラブルは、そこまで動物的な危険ではありません。
相手の対応について、自分に不満があるだけのことです。

しかし相手の対応が望ましくないことで、
自分の内面に「不快な感情(怒りや悲しみ、傷つきなど)」が生まれます。

この不快な感情を自覚したときに、「嫌な出来事だった」と振り返ります。
そしてそのキッカケとなった出来事を「ストレス」と判断する。

こういうケースにおいてNLPでは、
不快な感情が起こらないようにプログラムを変えようとします。

つまり「嫌な出来事だった」という捉え方を変えたり、
怒りや悲しみなどの感情が出てしまう癖を修正したりするんです。

対処のタイミングは、「出来事が起こる」とき。
望ましくない反応を生み出すキッカケの出来事のタイミングを対象にします。

大きなストレス反応については、反応が起こった”後”に対処する。
小さな反応については、反応が起こる”前”の出来事にアプローチする。
そういうタイミングの違いがあるんです。

さらに心理学的な分類に基づいたストレス反応には、
長期的に体のレベルでのストレス反応が続いた後に
元気がなくなるのか、逆に頑張ろうとするのか、など
次の段階としての反応の区別もあります。

これは時期的に考えると、数秒とか数分の範囲の話ではありません。
何日後とか何か月後とかの長い範囲の話です。

大きなストレス的な出来事があった直後の動物的な身体の反応は
一秒にも満たない範囲で起きていることです。
そのあとに反応を落ち着けるように対処するのも数十秒レベルの対処です。

これだけ時間枠の範囲が異なっていると
NLPでは対処の仕方も違ってくるんです。

しかし心理学の分野によっては、
心の癖を修正するような対処を想定してはいないので
時間枠の違いを考慮する必要がないんでしょう。

NLPは心の癖を修正するのが基本ですから
注目の仕方、区別の仕方が異なるわけです。


僕の発想には、NLP的な時間枠の区別が染みついています。
その人の中で何が起きているかを考えようとします。

すると心理学の知識の解説を頼まれたりする方が
そもそもの着眼点の違いから難しかったりもするんです。

いかにNLPが土台になっているかを実感します。

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2017年09月14日

いろいろと過渡期みたいです

イギリス英語発音に興味を持ち始めて、
英会話の先生にもイギリス人を選ぶようにしてきました。

ところが、そのうちの一人が今年の春過ぎから喉を悪くして
短期の休みを繰り返し、最近は無期限の休業中。

そのため最近は、もう一人のイギリス人の先生と話してきたんですが、
この10月から教室の統廃合に絡んで退職するような見通しとのこと。

移転先の教室のほうにはイギリス人は一人もおらず、
系列の他教室にも殆どいないようなんです。

これはチョット残念なことになりました。


日本語でも話し相手のイントネーションにつられたり
言葉遣いが自然と移ってしまったりするものですから、
当然、英語でも同じようなことが起こります。

特に母国語ではなく努力して作ってきたものだけに
経験の量としても、自分らしさとしても、土台がありません。

外国語のほうが話し相手の影響を受けやすい傾向を感じます。

実際にアメリカ人と話していると、
アメリカ発音に影響を受けたと自覚する瞬間があります。

英会話として慣らしていくスタンスであれば
先生の英語は関係がないのかもしれませんが、
英語の種類を心がけたい僕としては意外と重要な気がします。

単語レベルでもイギリス発音とアメリカ発音の違いから
すごく簡単な単語なのに聞き取ってもらえないこともあるんです。

で、聞き返されて、言い直しても伝わらず、
アメリカ発音に変えて言うと通じたりする。

仮に僕がネイティブスピーカーだったら、自分の英語が伝わらなくても
「それは発音の違いのせいだ」と理由付けがしやすいと思われます。

ですがネイティブではない以上、伝わらなかったときに
イギリスとアメリカの発音の違いのほかにも、単語が間違っているとか、
単語のアクセントの位置を間違えて覚えていたとか、
さまざまな要因が思い浮かんでしまいます。

そのあたりがイギリス人相手だと、
英語を学習する過程での間違いだけに集中できるわけです。
発音の癖で聞き返されることはありませんから。


だからといってイギリス人の先生を求めて
様々な英会話学校を転々とするつもりもありませんし…。

とりあえず目下は色々な先生の中から検討するつもりです。
イギリス発音寄りのオーストラリア人が見つかれば良いんですが。

本当は相手が誰であれ、自分のスタイルとして
確固たる発音を維持できればいいのかもしれません。

実際に多くのネイティブスピーカーはそうしているようですから。

そのためには「これなら正確なはずだ」ど自信を持てるまで
プロからしっかりと指導してもらって土台を築く必要もあると思えます。

発音については別途の指導を探して、
英会話のほうは会話慣れだけの場にしたほうがいいのでしょうか。

様子を見ながら検討していくことになりそうです。

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2017年09月11日

修行の場を用意しようと思った理由

なぜ僕がわざわざ「修行」という言葉を使いながら
ワークショップを定期開催しようと思ったかというと、1つは
 本質的な取り組みだけをずっと続けていれば
 様々な面で効果が出てくる
実感があるからです。

書道の場合でいえば、ひたすら古典の臨書(真似て書く)をする。
座禅でいえば、ひたすら、きちんとした型で座る。

そこに全ての要素が含まれているから。

そういう発想です。

修行型のワークショップでは、そのように
似たような取り組みを繰り返しつつ、
さまざまな面で効果が出るようにトレーニングをします。

実際、僕がテーマを設定して講座をやっても、結局は
切り取る角度を変えて同じ原則を扱っている印象は常にあったんです。

「ここに集約される」という本質的なものがある。
だったら、それをメインにしながら、
そのときどきの参加メンバーに合わせて原則を適用して
表面上は違うけれど中核は同じになるよう取り組むのでも
同じようなものではないか、ということです。

そしてそのほうが一人一人のニーズに合わせやすいだろう、と。


もう1つの理由は、本質的なところに行き過ぎると
既存の枠組みの中では扱いきれないからです。

たとえば僕はNLPの講座も担当していたりしますが、
NLPの範囲には収まらない体験もあるようなんです。

それは他の心理学では別の言葉で説明されていたりもしますから
折衷案的に組み合わせてもいいのかもしれません。
ただ、組み合わせだと今度は矛盾が出てくる場合がある。

なので1つの原則的な仕組みに基づいて説明してしまおう、という話。

かといって、そこを詳しく掘り下げて
流れのある複数日のコースとして紹介する…
というのもチョット違う。

別に順番はどうでもいいんです。
何をやっても本質は含まれますから。

重要なのは原則が腑に落ちるために必要な実体験の量です。
抽象的な原則を事例と結びつけて理解していく。
それによって定着を図ります。


そして定着するまでの過程で、コミュニケーション技術だけでなく
内面的な課題を調えるように取り組みます。

そもそもの取り組みの方向性は「楽になる」ところ。
自然に還る方向性です。

誰もが特徴のある歩き方をしています。
そのほとんどが体の仕組みからは歪んでいる。

慣れて「いつも通り」にはなっているけれど
「自然」からは歪んでしまっている。

それによって体に痛みが出たり、不具合が出たり。

同様に人の心も、経験してきたことによって「自然」から歪みます。
そして歪み同士の相性が悪ければ人間関係のトラブルが起きたり、
本人の内面に葛藤や苦しみが現れたりします。

そこを調えるように取り組んで、楽にしていく。


ところが心の仕組みを踏まえながら本質に沿って取り組んでいくと
楽になっていくことが多い反面、一般常識とは離れていき
実存的なテーマにぶつかる場合があります。

丁寧に自分と向き合うからこそ、多くの人が気づきもしない
本質的な課題が浮き彫りになってくるときがある。

自分が当たり前だと信じていたものが崩れてきて
得も言われぬ怖さを感じたりする場合がある。

それは自然に還っていくプロセスの中で避けられないようです。

個人的には、あえて自然な方向に強制しようとは思いませんが
自分で向き合っていると勝手に自然な方向に進み始め、
自然の働きに導かれるように見せつけられてしまうものがあるようなんです。

自分に向き合い続けることで見つかってしまう
自分という存在の不確かさ。

数えきれない体験を通じ、
社会に適応するために自我を作り上げて、
ヤル気を高めて頑張って生きてきた。

その作り上げてきたものゆえの不確実さを
見つけてしまう人がいるんです。

実際には自分という認識が自分らしさを設定して
自分の範囲に制約をかけますから、
自我の不確かさに気づくのは制約から離れ
自由になっていく過程だともいえます。

元の自由な状態に戻ろうとする自然な方向性でもある、と。

しかし主観的な体験として、その過程は心地良くないんです。
培ってきたものが崩れる印象になりますから。

僕自身もそういう過程が苦しかった記憶があります。
同じような道筋の人からも似た苦しみを聞きました。

そして自然の流れだからこそ、
この過程で起きることには共通するものがあるようです。

どうせ自然な導かれるなら何も必要ないかもしれませんが
ある程度の先行き、道しるべがあると気が楽になるのも実情。

残念ながら日本で僕はその道しるべを見つけられませんでした。

だからアメリカ人の先生を見つけて、随分と助かったんです。

その意味でも日本で、そういう方向の内容を扱う場があると
それなりに役立つところがあるかもしれない。

自然に還る修正の場には、そういう側面もあります。
これが場を設けたもう一つの理由です。


以上のようなことに響くものがあったら日程を検討してみてください。

誰も来なければ一人で修行してますので。

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2017年09月08日

相性と価値観の区別

「合う・合わない」と「好き・嫌い」を区別できると
人間関係や出来事を受け入れやすくなるようです。

裏を返すと、「合う・合わない」と「好き・嫌い」を混同していたら
楽になれる方向性の取り組み方があるのに、異なった取り組み方をして
長いこと苦しみ続けてしまいかねない、という話です。

本当は「嫌い」なことを「合わない」と拒絶して
「好き」あるいは「嫌いではない」ぐらいになれる可能性から目を背け
改善の努力に取り組もうとしない。

あるいは「嫌い」なのを「合わない」と捉え
違いがあるのは仕方のないことだと頑張って受け入れようとして
「嫌い」の奥にある自分の価値観を抑え込んでしまう。

逆に「合わない」ことを「嫌い」だと捉えている場合には、
「”嫌い”という個人の反応は自分が成長すればなくなるはず」
「自分が変われば関係性も変わって、嫌いではなくなるはず」
と期待して、噛み合わない関係性に身を置き続ける結果
ずっと苦しい思いを味わい続けることになったり。

あるいは「合わない」だけなのに「嫌い」だと思うあまり
他者を嫌っている自分に対して「それは良くない」と判断して
自己嫌悪に陥ってしまうケースも見受けられます。


「合わない」のではなく「嫌い」なのだとしたら、
そこには自分の価値判断が表れています。

これまで経験してきたことによって
「こうすることが良い、正しい、普通だ」と考えるところがあり、
その考え方によって大切にしたい何か(価値観)がある。

相手とは、その価値判断が異なっているわけです。

よく話し合ってみたら、相手の考えの中にある価値観に共感できて
相手のことを受け入れられる可能性だってありえます。

お互いの価値観をすり合わせて共通のゴールを見出せるかもしれない。

ただの「違い」として諦めるのではなく、
自分の価値観も、相手の価値観も、どちらも大切にできるように
双方にとってベストな関わり方を見つけられる余地があります。

逆に、「嫌い」なのではなく「合わない」のだとしたら、
その性質そのものを受け入れて、素直に諦めることもできます。

「合わない」という違いについては「合う」ように無理をするよりも
「合わない」もの同士、どのような接点にしておけば
不快な思いをする必要がなくなるのか、という考え方です。

「合わない」から「嫌う」必要もありません。
相手の存在を尊敬しながらも距離を取ってもいいでしょう。
嫌悪感という感情を、心理的な距離を取る手段にする必要はありません。

「合わない」ものは「合わない」。
そのことで自分を肯定する必要も、否定する必要もない、と。


では、「合う・合わない」と「好き・嫌い」の違いは何なのか?

一言でいうと、
 学習されたものが「好き・嫌い」
 学習以前の生まれもった性質によるものが「合う・合わない」
と区別できます。

この区別が定義として正しいかどうかは定かではないですが、
『学習されたものかどうか』という基準で考えると
 「学習されたものなら再学習して変えられる。
  学習以前の生まれもったものは変えるのが大変。」
という現実的な理解が可能になります。

再学習して変えられるものであれば
変える方向で対処したら改善する余地があるわけです。

生まれもった度合いが大きくて変えにくいものだとすると
無理やり変えようと頑張るよりも、
現状を受け入れてしまった方が楽になれる可能性があります。

そういうシンプルな指針を目的とした区別です。


学習されたものは基本的に経験に基づきます。

本人が直接体験していなかったものであっても
教育という経験を通じて、何らかのイメージを仮想体験して
頭の中でシミュレーションできるだけの材料にはなります。

直接経験したものは、快・不快の状態を伴って
「〜したら、〇〇(快・不快)になる」という経験則になります。

で、「どういう種類のことに対して快を感じるのか」の分類が
価値観(=何を大切にしているか)だといえます。

例えば、人と穏やかに関わっている時の安らいだ状態を”快”とする人は
安心感や優しさなどを価値観としているということです。

そもそもどうして、その種の状態を”快”と捉えるのでしょうか?
どうしてその価値観を持つに至ったのでしょうか?

そこを振り返っていくと、何を頻繁に経験していたかに行き着きそうです。

生き物として安全に生存していられる状態、一切のリスクがない状態に
どの種類の体験が結びついているか。

言い換えると、どういう種類の状態にいるときに
生存の心配をする必要がなくなっていたか、ということです。

具体的には例えば、赤ちゃんのときに
抱きかかえてもらっている最中に安心していられたとすると、
身体の暖かさや触れ合い、揺すってもらっているリズムなどが
馴染みのある”快”の状態として経験されていくはずです。

何か生き物として不快な状態が起きて、泣いて表現する。
すると誰かが抱き上げて、揺すって、あやしてくれる。
そんな経験が多ければ、そこに基準が生まれてきやすい、と。

あるいは、不快なことがないまま目が覚めている状態のときほど
周りの人たちが集まって笑顔で見てくれている…といった経験が多ければ
人との穏やかな交流や静かな心地よさを”快”として学習しそうです。

また、不快なことがないときに体を動かして声を出して
身体的なエネルギーを活発に使っている場合ほど、
周りの人たちが関心を向けてくれたり、一緒に遊んでくれたりすれば
身体のアクティブな状態や、明るさ、楽しさなどを”快”と結びつける。

そんな風に小さいころから、
生き物として安全なときに慣れていた状態を
”快”のベースとして学習していくと考えられます。

それが価値観の土台になっていく、と。
つまり価値観も「慣れ」から生まれている。

食べ物の好み、生活習慣の好みも慣れによるところが大部分です。

辛い物が当たり前の文化で育てば、辛い物が好きになる。
味付けの濃い文化や家庭で育てば、そこに馴染んで基準が作られます。

生活環境の好みにしても同様。

人の外見の好みなんかも、自然に体験してきた情報量の影響が大きく、
身近な人に似た印象や、あるいは鏡に映った自分に似た印象、
テレビで頻繁に露出されている人の印象など、
体験の量が非常に大きく関わっているものです。

「慣れ」という単語が適切かは分かりませんが、
とにかく体験の量が、価値観を含めて
「好き・嫌い」の土台を生み出してきている、ということです。


一方、「合う・合わない」は学習と切り離れます。

エビ・カニにアレルギーのある人は、美味しいと感じても食べられません。

僕はグラノーラなどのシリアルを食べたいときがあるんですが、
牛乳をかけて食べると、決まってお腹の具合が悪くなります。
合わないんです。

生き物として個体のリズムもありますから、
歩くスピードや話すスピード、話し声のトーンなどは、
自分のリズムと相手のリズムが「合う・合わない」の話になります。

僕が女子高生のテンションと合わせるのは大変です。

犬が好きな僕ですが、リズムという観点で
小型犬よりも大型犬のほうが「合う」感じがあって心地いいです。

で、ここが少し紛らわしくて注意が必要なところ。

「合わない」のは心地よくない。

心地よくないということは「不快」として認識されます。

嫌いなものの土台にあるのも「不快」な状態です。

「不快」な状態が共通しているので混同されやすいわけです。

そうすると「合わない」から「不快」なだけなのに
「不快だということは嫌いなんだ」と判断してしまったりする。

アレルギーの人がエビを食べて苦しむ体験をする。
ここでアレルギーという理解があると「合わない」と判断できます。

でも「合わない」理由が何なのかを知識として理解できないと
「〇〇を食べると気分がよくない」という不快の体験だけから
印象を捉えることになります。

例えば僕はニンニクが多いものを食べるとお腹の具合が悪くなったり、
中華料理をたくさん食べたり、チェーン店の牛丼を食べたりすると
身体が重ダルくなったりする傾向がありますから、控えています。

味の慣れとしても「好き」の部類には入っていない自覚があります。

すると「好きではない」+「合わない」=「嫌い」のように
判断してしまいかねないんです。

確かに「食べたくない」気持ちは起こります。
でもそれは厳密には「嫌い」だからではない。
「合わない」からです。

もちろん、「合う」から「快」なだけなのに
「快だということは好きなんだ」と判断することもあります。

「快」を基準に選んで関わっていて、「快」が続くのであれば
それが「合う」だろうが「好き」だろうが問題は起きません。

ですが「合わない」から「不快」なのに
それを「嫌い」と混同してしまうと、
最初に述べたような問題が起きてきます。

食べ物ぐらいなら大きなトラブルにはならないでしょう。
しかし人間関係で「合わない」を「嫌い」だと認識してしまうと
「合わない」だけの人を不必要に嫌悪し、
拒絶や対立にまで発展したりする可能性もあります。

もしかしたら社会問題とされるものの中にも
「合わない」を「嫌い」とするためのものがあるかもしれません。

本当は「合わない」だけなら、
それを理由に「嫌う」必要はないでしょう。

「合わない」ことを無理やり合わせようと頑張る必要もない。

自然界はちゃんと棲み分けをしています。
合わない環境には生きていない。
合わない者同士は距離を取る。

人間以外の動物にも体験に基づいた「好き・嫌い」はあるようですが、
その度合いは人間よりもずっと小さいように見えます。

現実的ではない解決努力で苦労したり、
解決できるのに避けてしまったり、
取りつく島もないほど全てを拒絶してしまったり、
無理に受け入れようとして苦しんだり…、
そういうのは動物には起きなそうです。

まずは「合う・合わない」なのか「好き・嫌い」なのかを区別する。
体験によって学習されたものなのか?と振り返る。

その区別をつけるだけで楽になることが結構あるはずです。

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2017年09月05日

足がつるとき

移動で新幹線や飛行機に乗っていると、それだけで
降りたときや一日の終わりに「疲れた」と感じます。

が、座っているだけで、せいぜい本を読むぐらいですから
疲れる理由はそれほど見つかりません。

一説では、高速移動の最中には結構な重力がかかっていて
それに対抗するだけでも疲れるものだとか。

特に横方向の重力に関しては窓際のほうが強くなるとかで
なるべく中央の席のほうが疲れにくい、
なんて話も耳にしたことはあります。

確かに新幹線の中でパソコンの書き物をしようとすると
僕は、揺れのひどさに注意が奪われて全然集中できません。

ただ乗っている分には気にならないけれど
意外と揺れに耐えなくてはいけない度合いは高いんでしょう。


しかしそれ以上に、狭いスペースで身動きが取れないことのほうが
身体への負荷は大きいような気がします。

「疲れた」という体感で自覚されますが、実態は疲れているというよりも
「固まって痛い」という表現のほうが近いのかもしれません。

とりわけ飛行機はスペースが狭いので、身体の硬直を強く実感します。

隣の人との距離感などもあって心理的な緊張からくる体の強張りとか
他の人の匂いから離れようとするときに片側に重心をかけ続けてしまうとか
普段とは違う形で体に負荷がかかっているんだと思われます。

実際、JALの国内線で1000円高いだけの広めのシートを利用すると
同じ通路側を使っていてもパーソナルスペースが少し広がるだけのことで
随分と疲労感が小さいのを体感します。

どうも僕にとっての移動による疲労とは、
パーソナルスペースが小さいところで緊張から体を硬直させ
しかも同じような姿勢をとり続けることによる負荷
というのが大きいように思えます。


先日、久しぶりに寝ている間に「こむら返り」が起きたのも
移動が重なった日の夜のことでした。

ふくらはぎの痛みを弱めようと足首と膝を伸ばしていたら
今度はさらに足の甲までつりそうになってしまいました。

肉体疲労だけならジムで運動した後のほうが筋肉疲労はあるはずなのに
一定の緊張感を長時間続けたときのほうが足をつりやすいみたいです。

もしかすると運動によって体のレベルで疲れているときは
「痛い」とか「動けない」とか「力が入らない」とか「眠い」などと
「疲れた」とは違った自覚のされ方をするのかもしれません。

「疲れた」と感じるときは、意外と体の疲れではなく
心理的な緊張や、体を運動させられなかった硬直の蓄積などのほうが
影響が大きいような印象を受けます。

そうすると本当は「疲れた」ではなく
「ストレスがかかった」とか「強張った」とか
「負荷が溜まってきた」とか「ダルくなってきた」とか
そういう表現のほうが適切だとも思えてきます。

「疲れた」という言葉で安易に認識してしまうと
「疲れたときは無理せずに休む」のようなシンプルな発想で
本当に体が求めているケアとは違った方向で対処してしまいそうです。

実際に心身に起こっていることを正確に認識して
適切な対応をしていきたいものだと痛感します。

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2017年09月03日

外国語の聞き取りの訓練として

ここ数日、フランス語のディクテーションを少しずつ続けています。

スピードが速いところは音として聞き取るのも難しく、
音が取れたとしても意味が追いつかない場合もあったりします。

一方、ある程度の長さの塊で意味が確定するようなフレーズは
僕の記憶の中で、音と意味が結びついているらしく
スムーズに聞くことができます。

そのような意味をとらえられるフレーズだと
音読しようとしたときにも自然に発声することができます。
音源と同じスピードで読める。

逆に音が聞き取れないところは音読しようとしても大変だったり、
音が分からなかったり、音の繋がりを理解するのに時間がかかったり、
頭で分かっているつもりでも口が回らなかったり…、
音源と同じようには読めないことが多いんです。

さらに意味が取れない部分になってくると、
その意味の長さ分を覚えて再現することができません。
そのフレーズの長さ分を頭の中に保持できていない。


これまでの英語学習のトレーニングでもやってきましたが
発音のトレーニングとして音源の発音、イントネーション、スピードを
真似できるようになると、同じフレーズはすぐに聞こえてくる
という経験は多々あります。

言えるものは聞こえる、と。

特に僕の場合、理解のステップとして
頭の中でそのフレーズが再生される段階があるようなんです。

耳から入った音を頭の中でもう一度再生して追いかける。
これが一生懸命に理解しようとして聴いている状態。

逆に何気なく聞き流しているときは頭の中の再生がありません。
その場合、音は入っているけれど記憶には残りません。

日本語だと慣れ過ぎていて、どんなに聞き流しているつもりでも
頭の中で自動的に再生されてしまう癖ができているようですが、
外国語の場合、再生されるときと再生されないときがあるんです。

つまり、頭の中で再生できれば聞けるようになりそうだ、ということ。
だったら再生できるのは聞き取りの重要なポイントになりそうです。

で、再生するためのトレーニングとしては
音源と同じように発音できるようにするのが効果的なようなんです。

聞いて真似できるようにする。
文章を読んで発音して、音源と同じように音読できるようにする。

そうすれば音源を聞いているときにも、
頭の中で聞いたものを再生しながら追いかけられるようになる。

そんなトレーニングが有効じゃないかと思われます。


一方、意味が取れないところになると
その長さ分を覚えていられないことが多いようなんです。

途中までは記憶として保持して再生できる。
けれどもフレーズが重なって長くなってくると
その長さ分を最初から最後まで再生することはできない。

もちろん覚えて再生できる範囲であれば
その範囲の意味も捉えられています。

おそらく日本語でも、聴いて内容を理解できているときは
全く同じフレーズではなくても、同じような内容を要約して
自分の口から言える状態になっているはずです。

意味を納得はしていても自分で言えないケースもあると思いますが、
少なくとも自分で言える状態であれば意味は分かっているでしょう。

ですから意味を踏まえながら、その長さ分をフランス語で言えれば
その内容は理解できていることになると考えられます。

つまり、その文章を覚えて、音源と同じ発音で、しかも
意味をイメージしつつ再現できるようになれば
聞いた時にも内容が掴めるようになっているだろう、と。

トレーニングとしては、聞き取れなかった部分を
フランス語のまま覚えて再現できるようにする方法が良さそうです。
音読ではなく、暗唱する練習です。


これまでの経験としても、
自分でスピーキングの際にスムーズに言える文章は
聞いた時にも難なく聞き取って理解することができます。

まとめると
・意味を(五感のイメージとして)頭の中に作り上げながら
・ネイティブと同じ発音で(音読できるようにして)
・(それから)何も見ないで言えるようにする(=暗唱する)
という流れでやると、
「連続した音の聞き取り+聴解力」がついていくのではないか。

そういうことが予想されます。

実際、じっくり音を1つずつ取りながらディクテーションをして
音源の文章を書きだした後、正解と照らし合わせて、
それから音読と暗唱のトレーニングをすると、
その後でもう一度音源を聞いたときにはスムーズに聞くことができます。

文章として把握しているものと同じことを言っているように聞こえるし、
聴きながら頭の中で再生して追いかけられるし、
意味もイメージできるようになります。

言語活動は最終的にパターン認識だと考えられますから、
あとは量を繰り返して、自動的にパターンが頭の中に作られるのを待つ。

すると聞き取りの力も上がるんじゃないかと期待しているところです。

1つの教材をじっくりと丁寧に使い倒すぐらいのつもりで
コツコツ繰り返していこうと思っています。

cozyharada at 23:10|Permalinkclip!

2017年08月31日

マイケル・ヤプコの本

この本を読みました。



初のKindle読書だったので「本を読んだ」という言葉に
まだ若干の違和感がありますが。

Kindleで読むことに関してはスムーズでしたし、
ときどき知らない英単語が出てきても
その場で単語を選択すれば辞書が表れるのも便利でした。

思いのほか好印象です。


本の内容についても好印象です。
すごく大事なことが書いてあります。

おそらくこれを心がけるだけで、(特に人間関係については)
悩み全般が解決してしまう人も大勢いると思います。

それぐらい本質的な内容です。

ポイントは「ちゃんと区別をつける」ということ。

・どこからどこまでが自分にコントロールできる範囲なのか?
・どこまでが自分の責任として反省するのか?
・どれぐらいリスクを踏まえ、行動するか・止めるかを決めるのか?
・どれぐらい自分の感情に従って行動するのか?
・自分に起きたことのうち、どれぐらいが自分の問題か、環境要因か?
・どれぐらいの期待は現実的だといえるのか?
・どこまでが「自分を大事にする」で、どこから「自分勝手」なのか?
・解決努力をすべきなのか、現実を受け入れるべきなのか?
・思ったことをどれぐらい言えばいいのか?…など

そのあたりを
 ・区別がついていない人が言いそうなこと
 ・区別がついているかどうかを自省してもらうための質問
 ・区別をつけるときのポイント
などを解説しながら書かれています。

タイトルは「Discriminating Therapist」ですから
心理療法家向けの内容として書かれているスタイルですが、
実際には自分の人間関係やコミュニケーション、悩みを見直すのに
役に立つ内容なのではないかと感じました。


セラピーやカウンセリングを想定している側からすると
もう少し具体的な事例があったら嬉しかったです。

僕もやりがちな傾向なので感情移入してしまいやすいんですが、
本質的なところを考えていくうちにシンプルになっていって
具体的で現実的なニーズから離れてしまうのかもしれません。

おそらく著者の中では、
「人の問題の大部分は、認識が歪んでいて
 ちゃんと区別しないで判断をしていることで起きる。
 そこを区別できたら、ほぼ解決。」
といったようなシンプルで本質的な原則があるんでしょう。

長い経験の中で辿り着いたところなんだろうと思います。

それを本にまとめるにあたって、少し分類して項目に分けた。
そんなところじゃないかと想像しています。

元々、本人の中で厳密に分類しているわけではなく
「妥当な区別がついているか?」
という本質的なポイントになっているからこそ、
分類している解説に重なる部分や似た印象のものが入ってくるのでは…?
というのが僕の推測です。

日本で出版される本は、完全に専門家向けでないかぎり
著者の頭の中で整理されている通りに本が構成されるとは限らず、
むしろ専門家ではない人たちが興味を引かれやすい構成が好まれるようです。

その点、アメリカの本は結構、自由に著者が書いている印象というか、
読者を想定していないような書き方に見えるものもあります。

この本も日本人向けのマーケットで想定されていたら
ありがちな悩みのパターンごとに章立てがなされて、
それぞれに「区別のポイント」が補足される構成が好まれそうな気がします。

まぁ、そうなっていたらセラピスト向けの本ではなくなって
一般向けの心理読み物になってしまいますから
著者の趣旨とは違ってきてしまうんでしょうけれど。


…こういう感想が僕の中に湧いてきたということは
本の内容として心理療法の専門家向けというよりも、むしろ
多くの人が知っておいた方がいい本質的なものだと感じたからでしょう。

なぜなら世の中の教えの多くは一方向に偏っているからです。
それを信じて頑張り始めると、逆方向に偏って、また厄介なことになる。

簡単にいえば、バランスが求められる、と。
この本では、そのバランスを取るためのポイントと基準を解説している。
そういう風にも解釈できます。

例えば、僕自身もそうでしたが
 遠慮がちで自分の要望を表現せずに我慢する
という傾向の人がいます。

で、我慢してばかりだと不満が溜まってきて、苦しくなって勉強を始め、
「自分を押し殺すのではなく、自分を大切にしましょう」
なんてことを教わる。

すると今度は「我慢しない」方向に振れ過ぎてしまって
他人と上手く噛み合わなくなってきたりします。

一方向的な教えだと極端なほうに偏ってしまうケースがあるわけです。

だからこそ、ちょうどいいバランスを判断できるように
「ちゃんと区別しましょう」というところに落ち着く。

いたって当たり前の話ですが、見過ごされがちな気がします。

何より、こういう妥当すぎる話はウケが悪い。
当たり前に感じられてしまって新鮮さがなく、
結局自分で気をつけなければならないから面倒くさい。

一方向に偏っているほうが簡単で分かりやすく見えるし、
常識と反対な側面を強調すると斬新さも出てきます。
世間にウケます。

しかし実際問題として、教わったことに忠実なほど
偏った行動をして空回りしてしまう人も少なくないように見えます。

結局、白か黒かでハッキリさせるのではなく
程度のバランスを調整するのが大事になるんでしょう。

そういう意味で、すごく大事なことが書かれている本だと思います。
「ちゃんと区別して判断しましょう」というテーマですから。


ただ残念ながら、日本語訳は出版されていません。

あいにく洋書のKindle版だけしか入手しずらかったので
ハードルは少し高いかもしれません。

この2017年11月11日〜14日の期間で、
著者が来日してワークショップを開催する模様です。
『エリクソン催眠〜臨床ヒプノと戦略的セラピーの統合的トレーニング〜』
http://acca-japan.com/yapko/


前半部分は催眠療法の内容みたいですが、
後半はこの本の内容がテーマになるような紹介がされています。

ご都合が合えば、こちらに参加してみるのも良さそうです。



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【ご案内】

『心を調える実践ワークショップ』
9月10日(日)or 9月24日(日)

 いろいろと修行します。

 詳細はこちら>>

cozyharada at 23:49|Permalinkclip!

2017年08月28日

Kindle 使い始めました

先日、意を決して購入したKindle。
試してみた印象としては「使えそう」という感じでしょうか。

もちろん紙の本でしかできないこともあって
その部分は多少、残念な気持ちはあるんですが、
メリットも大きいので全体としてはポジティブな感想です。


最大のメリットは『持ち運びやすさ』かと思います。

1つのKindle端末に大量の本を入れられるから
複数の本を一度に持ち運べる…、それも大きな特長でしょう。

ですがKindle Paperwhiteそのものがコンパクトなんです。

大きさとしては新書サイズぐらいの感じ。
ビジネス書や洋書のペーパーバックと比べると小さいです。

何より厚みが薄い。
カバーをつけても1cmに満たないと思います。

これはカバンの中に入れるのに便利。
普通に紙の本を一冊カバンに入れるよりも場所を取りません。

先日、出張の際に持っていって、新幹線の中で使ってみましたが
薄いので気軽に持ち運べるのを実感しました。

僕のカバンの中にはセミナーのテキストやパソコンが入るので
それなりに中がいっぱいになってしまうんです。
紙の本を一冊追加しようとするとチョットきつい。

それがKindleとなると全く気になりませんでした。

冬場だったりしたら上着のポケットに入れることもできそうです。


同じ大きさの紙の本(新書)と比べると重さはあります。
手に持つと、大きさから想像するよりもズシリとします。

ペーパーバックよりは重く、ハードカバーよりは軽い。
そんなところでしょうか。

移動のお供に、というのなら文庫本や新書に軍配が上がりそうですが
勉強の趣旨がある厚手の本だったりしたら、むしろKindleのほうが
大きさ、厚み、重さとしても利便性が上がるかもしれません。

電車の中で立ちながら片手で持って読む…というのには
少し重いかなぁという気はしてしまいます。

まぁ、それでもiPad mini より軽いぐらいなので、
電車の中でタブレット端末を使っている人たちがいることを思えば
片手で扱えない重さではないんでしょう。

長時間だと疲れてきてしまいそうですが。

一方、片手で持つことを考えた場合、操作性は紙の本以上のようです。
ページめくりが楽なんです。

片手で吊革につかまっていたとしても、
そのままKindleを持った側の手だけで本を読み進められそうです。

文字の読みやすさは紙と大差を感じません。
ここはスマートフォンよりもずっと読みやすい感じがします。

Kindle版の本を読むだけであれば、Kindle端末でなくても大丈夫ですが
画面の質として文字が楽に見えるのはKindleかもしれません。

ここは予想以上に読みやすかったです。
「文字を読む」ということに関しては一切不満がありません。

なんでもこの目に負担のかからない文字を生み出すための画面として
電子ペーパー(E ink)というのを使っているらしく、
その性質上、ページの表示切替に若干の時間がかかるのは残念なところ。

最後の単語の切れ目でページの切り替わりに時間がかかると
次のページの最初で少し内容が途切れてしまう感じを受けます。

それでもまぁ、さほど大きな支障ではありません。

ということで、手に持って読むことを想定した場合、
ハードカバーよりは軽く、文字も見やすく、ページめくりも楽…
なので、現実的に読書をする上での負荷は小さいと言えそうです。


紙の本にあってKindleで体験しにくいのが
全体の把握の部分でしょうか。

残りの分量のイメージや、
目次を含めた書籍全体の構成は把握しにくい感じを受けます。

これは僕が本を読むときのスタイルに依存するんでしょう。
前から積み重ねるように読み進め、先を楽しみにするスタイルなら
あまり関係がないようにも思われます。

全体の中の現在位置は%表示されますから
ページ数での把握はできなくても残りの量は掴めます。

紙の本のほうが、残りページの厚みで直観的に掴みやすくはあります。
とはいえ、そこを基準に「紙の本のほうが良い」とは言えない程度。

読みながら頭の中で構成していけば問題はなさそうに感じています。


一通り感想を整理してみると、デメリットと感じたのは
・多少の重さを感じること
・全体における位置や構成が把握しにくいこと
・ページ送りの際の表示がスムーズでないこと
ぐらいなものかと思います。

ただし、重さについてはハードカバーよりは軽いので
場合によってはメリットになることもあるはずです。

メリットは持ち運びやすさでしょうか。
もちろん本を購入しやすいのもメリット。
あとは紙媒体に負けていないという印象です。

総じて「不可」が少ないのは重要だと思いました。
抵抗なく使える理由の1つになると感じます。

慣れ親しんだものから新しいものに移るときは
どうしても古いものを基準に考えやすくなります。

今までにあったメリットが失われることに抵抗が出やすい。

その意味で、「嫌だと感じない」ことは大事なはずです。
それだけ受け入れやすいということでしょうから。

今まで体験したことのなかった「紙媒体にはないメリット」については
今後使い続けていくうちに実感されてくるのかもしれません。

そうなったとき、印象がどう変わるのか。
その辺にも興味があります。

cozyharada at 23:06|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《心を調える実践会》

【日時】 2017年9月10日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


【日時】 2017年9月24日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 北とぴあ
    801会議室

    JR王子駅より2分
    南北線王子駅直結

詳細はこちら>>
次回開催は10/15の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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