NLP

2018年08月11日

原因と責任と可能性のはなし

先日、フェイスブックのコメントで
我ながら上手くまとまった内容があったので
切り出して加筆しながら転載しておこうと思います。


苦しみには自分の歪み、自分の心の癖が関わっています。
その意味で、全ての苦しみには自分の責任がある。

ここで「責任」とか「原因」という言葉を使うと
0か100かで考えられることがあるようなんですが、
責任や原因は、1つのことに100%集まるわけではありません。

「自分に責任がある」「本人に原因がある」というのは、
他に主要な責任の所在があったり、他人が大きな原因だったりしても
一部は少なくとも自分の範囲が含まれている、という意味です。

特に、出来事として「厄介なことが起きる」場合については
そのことが起きることの責任や原因は
限りなくゼロに近いこともありえます。

(ゼロと言わないのは、自分について向き合っていくと、最終的には
 自分と世の中との区別がなくなって、あらゆることに対して
 他人事として切り離して判断することができなくなるからです)

厄介な出来事が起こることには自分の責任や原因がほぼゼロだとしても
それをどれぐらい、どのように苦しむのかには
自分の心の癖が関与する度合いが大きくなってきます。

明らかにゼロよりも大きくなる。

例えば、悲惨なニュースを見ていて犯罪者に対して怒る人もいれば
犯罪に走るまでに至ったその人の境遇を悲しむ人も、あるいは
自分とは関係ないということでそれほど心を痛めない人もいますから、
どれぐらいの大きさで、どんな苦しみを体験するかには
かなりの個人差があるわけです。

そして体験の仕方に個人差があるということは、
そこに本人ならではの要因、つまり本人の責任の範囲が
少なからず含まれている、といえます。


また、自分にとって厄介な出来事が起きているときは
必ずと言っていいほど、どちらか一方だけに責任があることはなく
何か1つだけのことが原因になっていることはありません。

ニュートラルに、客観的に、網羅的に状況を捉えて
何にどれぐらいの責任と原因があるかを列挙するのが
悩まないためのコツの1つでしょう。

全部を自分のせいにして苦しむ必要はありません。
客観的に見たら、自分が原因、自分の責任という部分は
実際にはそれほど大きくない場合もあります。
困るべき人が別にいるケースです。

また、全部を他人のせいにしてしまっては
苦しみを減らせる可能性から逃げてしまうことになります。
これは苦しんでいる自分を楽にしてあげるチャンスから目を背ける点で
自分が自分を苦しめていることとも捉えられます。

何かに取り組むのは、それ自体がエネルギーを要求しますから
苦しみが大きすぎて何一つ元気がないときには
まず気持ちを楽にすることが最優先にはなりますが、
自分が取り組める課題を見つけられれば気力が高まる効果もあり得ます。


「原因」という言葉は、それが「根本原因」だと言っているのではない。
「責任」という言葉は、「その人のせいだ」と言っているのでもない。

あくまで
 沢山の要因が絡み合って物事は起こっていることを認め、
 その中で様々な原因と責任の所在を適切に分配して判断する
ということです。

複数の要因の中から「主要な原因」を特定することはできるかもしれません。
だからといって、主要な原因に対処するだけが解決方法でもありません。

様々な要因が絡んでいるのであれば、原因として小さなことでも
そこを変えることで全体が変わっていく可能性はありえます。

主要な原因が他人や、何か他の環境要因にあったとしても
自分が関わっている部分があるのだとしたら、
原因となっていることの小さな1つを自分に見つけられるかもしれない。

そしてそれが見つかれば、その「自分が原因」の部分は、
自分の責任の範囲として、自分がコントロールできる範囲として
主体的に取り組んでみることが可能になります。

このとき、自分の態度が変わるんです。
能動的、主体的になる。

そして実際に、自分が原因となっている部分に取り組めば
「自分のできる範囲の全てに対して、自分の責任を果たした」
と自然に思えるようになります。

最善を尽くしたと感じられてくるんです。

結果として望ましい方向には変わらなかったとしても
「できることは全部やった」と確信して言えるようになる。

残念な気持ちや悲しい感じは出てくるかもしれません。
しかし苦しみの種類が、以前とは別物になっています。
ずっと受け入れやすい形になっています。

これが自分の責任の範囲を明確にする効果です。


ある出来事に対して苦しむとしても、
その責任の全てが自分にあるわけではない。
もしかしたら相手に99%の責任があるかもしれません。

ただし、残りの1%の自分の責任が自分の側にあるのだとしたら、
その残りの1%に取り組む自由は、自分に100%あります。

とりわけ苦しみについては
自分の歪み、自分の心の癖が関わる度合いも大きいものです。

そこには結構な割合で、自分が取り組める範囲があるんです。

自分の問題の度合いが1%しかなくて、
客観的には99%相手のせいだとしても、
その問題で苦しむことには自分の範囲がもう少し大きく関わります。

苦しまないための取り組みには自分が取り組める余地が結構あるんです。
かなりの可能性が残されているんです。
その可能性に対して自分が100%扱うことができるんです。

苦しいのは自分のせいではなくても、
苦しまないのは自分の範囲で取り組む「ことができる」。

『全ては本人の受け取り方の問題』と言って、
不幸が本人のせいだとか、本人が不幸を引き寄せているとか、
そのように考える人もいるようですが、そうではないと思います。

どんな不幸に苛まれても、
その中で自分の責任の範囲については
自分で何とかできる「余地」が残されている。

そこに希望があるんです。

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2018年08月07日

色紙に書くなら

僕の通っている書道教室では
ときどき先生による作品制作のキャンペーンがあります。

表札とか看板とか、掛け軸とか額装作品とか、社名データとか
そういった書作品を先生が書いてくれるんです。
通常価格よりも低い値段で。

キャンペーンが行われる時期は、想像ですが
何かしら教室経営に関しての必要性もあるんでしょうけれど、
それはさておき、割引価格は依頼するモチベーションにはなります。

いろいろな事情を考えたり想像したりして、
僕も多くの生徒と同様に、色紙作品をお願いしました。


色紙に書いてもらえるのは最大4文字ぐらい。
正方形の通常サイズの色紙ですから、4文字にすると
1文字当たりの大きさはかなり小さくなります。

普段の半紙のお手本よりも小さいぐらい。

自分の好きな字を書いてもらえて、飾れる体裁にはなるとはいえ
普段から見慣れているサイズだと少し物足りない気がしました。

書いてもらう4文字にしても、一般的な四字熟語か
教訓を含んだ仏教用語にするのが標準のようだったので、
そうすると書作品としての意味よりも
文字の意味情報のほうが強調されてしまいそうに思ったんです。

だから4文字はやめておこう、と。

じゃあ2文字なら大きくなるかというと
正方形の真ん中に2文字を配置すると、これも結局
1文字のサイズは4文字のときと同じぐらいになってしまいます。

左右の余白が大きくなるだけか
少し横幅の大きい字にしてスケールを大きくするか、でしょう。

中には、知り合いや自分の子供が生まれるタイミングに合わせて
子供の名前の色紙を書いてもらった人もいるようです。

その場合、「命名 〇〇 平成△△年…」みたいに
全体の体裁は整ったものになります。

これはこれで良い思い出になりそうです。


僕は個人的に、せっかく書いてもらうとしたら
普段のお手本では見られないようなものを見たかったので、
色紙の中に1文字だけという体裁を選びました。

文字が大きくなりますし、正方形の色紙の中に
どういう風に配置するのかなども見応えがありそうでしたから。

となると、あとは何の文字を書いてもらうか。

一文字となると、その文字そのものの字形や画数などが
できあがりに大きく影響します。

つまり格好がつきやすい字もあれば、そうでないものもあるということ。

一般に画数が多い方がバランスを取りやすい気がします。

また、普段から先生のお手本を見ていると
ある程度のパターンを想像できそうなものもあります。

「この字で頼んだら、こんな感じの出来上がりになりそうだな…」
といったイメージが浮かぶものもあるんです。

もちろん、それ以上にしてくれるとは思いますが
せっかくなら予想もつかないものが見てみたい。

それから、これまでに先生が、一文字の作品(一字書)として
発表したことのある字だと、これは頼むのに遠慮が出ます。

色紙のサイズで大きな作品と同じスケールは出ませんし、
どうしても過去の作品と比べたくなってしまいます。

そうなってくると、
 どんな風に書いてくれるか想像もつかず、
 過去に一字書作品として製作されたことがないもの
が良さそうに思えてきます。

そして画数が多い方が格好がつきやすいということは
裏を返せば、画数が少ないほうが難しさが上がるということ。


なので最終的に、僕は「一」を選びました。

漢数字の1。

横棒一本、一画の文字です。

ただの線ですが、そこに書道の技術を込めてもらうと
先生だからこそできる作品になるんじゃないかと思ったんです。

まして一本の横線を、正方形の色紙の中に書いて
それで全体のバランスもとるとなると、
これは僕には想像ができません。

そして先生自身、線質そのものの美しさにこだわっていると
日頃から話していますので、きっと
書道の道具と技術からしか生まれない
黒い線そのものの芸術が見られそうな気がします。


ということで先日、先生にお願いをしてみました。

もしかすると失礼なお願いかもしれないので
おそるおそる確認を取りながら。

無理難題という位置づけにしてしまったら
先生の立場からすると自分を落としてしまうことになるでしょうし、
かといって何枚も書き直さないといけないような
時間を要する作業をお願いしてしまったら迷惑かもしれません。

あるいは先生の実力を試すような
「挑戦的な依頼をしてきた」と捉えられても
それは本意ではありません。

単純に、
 自分にはできない高いレベルのことを見せてもらいたい
という話。

僕の側からすると、せっかく依頼をするわけだから
「できるだけ見応えのあるものを」という思いですが、
先生の側からしたら
「この値段じゃあ割が合わない」と感じる可能性も想像できました。

なので頼むときも若干、お伺いを立てる感じになります。

実際にお願いしたときは、あまり前向きな雰囲気ではなく、
先日の教室でも「ずっと悩んでいる」と言っていたので
あまり簡単な作業ではなかったんだと思います。

難しいわけではないとの話でしたが、
方向性を決めるのに迷う、とのこと。

どんなものが出来上がってくるのか、楽しみです。

cozyharada at 23:25|Permalinkclip!

2018年08月04日

無意識の深さと遠さ

無意識に「深さ」があるという発想が誤解を招きやすいと思います。

ある意味、フロイトやユングのやらかしちゃったところというか。
まあ、鵜呑みにした後続もでしょうけれど。

特に「氷山」をモデルにするような形だと、
「深い無意識」は表面に上がってこないイメージになります。

結果として、「深い無意識」(=「潜在意識」)は
「意識」の本人には計り知れないものとなって
「潜在意識に支配されている」とか
「潜在意識が90%以上」とか
「潜在意識に暗示を入れる」とか
「潜在意識を活用する」とか、
どこか他人事の対象になってしまうようです。


無意識のアクセスしやすさは、ただの距離。
深さはなく、遠いか近いかだけ。

言い換えると、
 親しみのある範囲ほど意識に近く、
 慣れていない(親しみのない)範囲ほど
 アクセスしにくい「遠い」ところの無意識になる
ということ。

深さで無意識のアクセスしにくさをイメージすると、
深いところはいつまでたっても意識できないかのように考えがちです。

氷山の水面下、深いところは水面に上がってこなそうですし、
水面に上がれるのは浅いところが浮上する程度の感じでしょう。

しかも表面に出た意識を「顕在意識」などと読びながら
「顕在意識」の内容が万人に共通しているかのように想定すると、
対応する「潜在意識」のほうにも万人に共通した性質があるかのように
仮定したくなるのかもしれません。

これはある程度、仕方のないことだと思われます。

人は基本的に、他人の内面を想像できるようになる過程で
自分の経験を参照しながら
「これが仮に自分だったとしたら、こういう風に思うはずだ。
 だったらこの立場の人は、こんな風に感じるのだろう。」
といった視点の切り替えをしていくといえます。

こういうのは小学校の道徳の授業でやるような訓練です。
「自分だったら、どう思う?」みたいな作業。

その想像の積み重ねによって、他人の行動を見たときに
「一般的にこういう風に考えたり、感じたりするものだ」
という知見が作られていって、
自動的に他人の気持ちを汲み取ることに慣れてくるわけです。

ですが同時に、「自分だったら」をベースにしている以上
「その立場にいる自分」を想像しているに過ぎなくて、
「その立場にいる相手」の気持ちを想像しているわけではありません。

相手の気持ちを想像するには、相手の「立場」をもとに考えるのではなく、
相手の表情や非言語メッセージから感情を読みとって
相手の「感情」をもとに想像する必要があります。

これはまた別の訓練を求められます。

しかしいずれにしても、自分の体験をベースにして察するので
「他人にも自分と同じ心の動きがある」と想定したくなるのが
自然な発想だといえます。

だから人間には共通した心の動きがあるという前提で
人は心理学を研究し始めたのでしょうし、
動物にだって人間と同じような心があると想定したくなるんです。

犬が走り回っていたら「楽しそう」だと想像しますが
果たして犬が体験しているものが、人間と同じ「楽しさ」かどうか
それは定かではないはずです。

動物だったら人間と同じような仕組みがある可能性もあるでしょうが、
それがアンドロイドだったりしたら、もっとハッキリすると思います。

明らかにアンドロイドだと知っていて、
プログラムされた通りに動いているだけだと知っていて、
そのアンドロイドが他のアンドロイドが壊れるのを見て
涙を流し、泣き声を上げ、人間と同じような表情や姿勢をしたら
きっとそこに「悲しんでいる」という解釈をするのではないでしょうか。

本当にアンドロイドの反応がプログラムなのか、
もしかしたら本当に心があるのか、
その判断ができなくなりそうなのは、結局
 人が他者の内面を、自分の体験をもとに想像するのが根本にあるから
だといえるでしょう。

そういう仕組みがある以上、
人に共通する「顕在意識」や「潜在意識」がある
と考えたくなるのも分からなくはありません。

そして共通すると想定するからこそ生まれてくる
氷山のような「無意識の深さ」のモデルについても。


でも実際に内面を探る作業を重ねていくと
そうじゃないことが沢山見えてきます。

「深い無意識」だと思っていたものも、
やり方を工夫すれば意識に上げることができます。

つまり、普段の意識状態ではアクセスされない情報だっただけで
意識の仕方を変えるだけで、意識に上げることは可能なんです。
その意味ではもう、「無意識」ではなくなります。

そして一度でも意識に上げたものは、
「深い」無意識ではなくなります。
すぐにアクセスできるものになる。

意識に近いところにやってくるんです。

より正確には、「意識」の範囲が広がるということです。

無意識と呼ばれているのは、意識に上げる方法に馴染みがないだけのこと。
アクセスするルートがないんです。

そしてそのルートの道のりが遠いほどアクセスしにくい。
近ければ、うろうろしている間に偶然たどり着けることもありますが、
遠くにあればチョットうろうろしたぐらいでは到着しません。

この距離とルートがあるからこそ、
意識と無意識のモデルは「氷山」よりも
平面的な「ジグソーパズル」のようなイメージのほうが
近いんじゃないかと感じます。

ピースが繋がって絵柄が分かっているところが「意識」。

その範囲に隣接するピースだったら、端っこの形と絵柄をもとに
次に当てはまるものを見つけやすいはずです。

これが近くてアクセスしやすい「無意識」の範囲。
そして一度ピースがくっつけば、繋がった面積が大きくなりますから
「意識」の範囲が広がったことになります。

一方、完全にピースが連続していなくても、
ちょっと離れた場所に小さな塊を作ることはできます。

ピースの形同士を繋げて、少ない数のピースのまとまりができる。
特にそれが主要な絵柄と関係するように見えれば
全体に対しての配置も想像できるようになります。

この場合、少し離れた”島”のような形で
「意識」が広がっているといえそうです。

そして隣り合うピース同士を繋げていくと
面積として広げなくても、細い道のように遠くまで
「意識」の行き先を進めていくことができます。

これが「無意識」を探るルートのようなもので、
その先に何か、全体の絵柄を決めるうえで重要な部分が
ピースの模様として見えてくることがあります。

こうなると「無意識」の意味に気づけたり、
過去の重要な記憶が戻ってくることになったりして、
遠い無意識にアクセスできたことになります。

つまり遠くにある情報にアクセスするには、
主要な意識の範囲である絵柄の分かった塊から
少しずつ隣のピースを繋げていって
遠くまでルートを伸ばしていく必要がある、ということです。

実際に無意識の範囲にアクセスる手法は、
こういう連想の広げ方をします。

沢山のピースからなるジグソーパズルにおいて
すでに絵柄の分かった塊の範囲がある。

そのメインとなる面積の大きな塊を「意識」として、
そこから近い場所のピースはアクセスしやすく、
遠い場所のピースにアクセスるには
隣接するピースをコツコツ繋げて
遠くまでルートを伸ばす必要がある。

そういうイメージが理解しやすいと思います。


なので実態としても、ある人にとっての意識に近い情報が、
その人にとってアクセスしやすくても、
同じ情報が、別の人にとってはアクセスしにくいことがあるんです。

つまり、ある人にとっては完全に無自覚な「潜在意識」の記憶や行動も、
別の人にとっては常日頃から自覚している「顕在意識」ということがある、と。

例えば…。

寂しいときに心の隙間を満たすために甘い物を食べる、という人は
自覚しながら甘い物を食べます。

寂しいときほど、それに気づいて、甘い物を食べたい気持ちが大きくなる。
だから、食べたいときに食べる。
逆に寂しくない日は、別に食べなくていい。

そもそも「なぜか食べてしまう」のではなく、
食べたいから食べているだけなんです。

一方、同じ理由なのに自覚できていないで、
「なぜか甘い物をやめられない」という人もいます。

すごく寂しい日も、あまり寂しくない日も
「なぜか」甘い物を食べる。
で、「また食べちゃった」と後悔する。

この人にとって、甘い物を食べるのは
『潜在意識に勝てない』というヤツなんでしょう。

ところが、「なぜか甘い物を食べてしまう」ほうの人が、
物事をコンスタントに予定通りこなしたりする。

そして「甘い物を食べたいときにだけ食べる」ほうの人が、
物事を先送りにすることもあり得ます。

前者は「やろうと思ったからやる」だけのことで、
そこに「つい先送りにする」という発想さえありません。

後者は「やらなきゃ」と思っても、なぜか「つい先送りにしてしまう」。
すぐやるか、後でやるかの決定プロセスが無自覚なんです。
だから『潜在意識に勝てない』。
「つい先送りにする」ことの『深層心理』が分からない、と。

ある人にとっては当たり前で、日ごろから意識的なわけです。
理由は明白で、そこに『深層心理』もありません。

でも同じことが別の人には
なぜか分からない『潜在意識』のことになっていて、
そういうときにだけ『深層心理』が登場する。

こうしたことも、単純に距離の近さ・遠さだけで考えればスムーズでしょう。

そもそも「意識」の範囲に個人差がある。
ジグソーパズルの中で見えている絵柄の部分が違うんです。

そこから近い範囲もあれば、遠い範囲もある。

そういう考え方のほうが上手く説明できますし、
個人差についても理解もしやすいでしょう。


無意識は「深さ」ではなく、
平面的な場所の「遠さ」で考える。

それがオススメです。

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2018年08月01日

英語のアナウンス

近頃は日本にいても至るところが国際的になってきているというか
外国人を想定した対応が増えてきているようです。

駅や電車の中など、公共交通機関であれば
観光客が利用することも当然あり得ますから
そのあたりの配慮をするのは1つなんでしょう。

羽田空港からのモノレールだと、車内アナウンスが
日本語、英語、中国語、韓国語と4か国語になっています。

JRも新型の車両だと、車内の液晶モニターには
4か国語で表示が出ていた記憶もありますし。

モノレールの終着駅になっている浜松町は
駅構内の駅員からのアナウンスも英語バージョンがあります。
アナウンサーやネイティブに言わせたものではなく、
英語が話せる日本人駅員が録音した音声っぽいです。

小田急線では、たまに車掌が自ら英語でアナウンスすることもある。
箱根方面が外国人観光客に人気なんでしょうか?
国内線飛行機の機内アナウンスより、しっかりした英語でした。

国外でも、ロシアの駅ではキリル文字表記とアルファベット表記と
両方がなされているらしいです。
英語に寄せるのは無難なやり方なのだろうと思われます。

交通機関以外では、飲食店も外国人対応が増えるのは自然でしょう。
英語メニューを置いておくことで観光客に対応しやすいですから。

最近は大型ドラッグストアや家電量販店も
中国人観光客に合わせたものが増えてきているように見えます。

専用の免税カウンターがあったり、中国語の案内や
中国語が通じるレジも用意されています。

この場合、英語よりも中国語が重視されるのは
利用客の大部分が中国人観光客だからなんでしょう。

コンビニ店員が外国人アルバイトになっているのは
都市部では良く見受けられる光景になってきましたが、
大阪・心斎橋のコンビニでは、当たり前のように
中国人観光客に中国人店員が中国語で接客をしていて
自分が異国に来ているような気分にさえなることがあります。

これからオリンピックに向けて、外国語対応の範囲は
まだ増えていくのかもしれません。


公共交通機関や飲食店、観光地や土産物を買いそうな場所で
英語や中国語の案内が増えるのは、そういう意味で納得がいきます。

親切とも言えますし、具体的なメリットも大きいんでしょう。

一方で、目的がよく分からない外国語アナウンスも耳にします。
僕が通っているジムです。

会員制のジムですから、自然と利用者は地元の人となります。
電車で来る人がいたとしても、少なくとも日本に住んでいる人が対象。

実際、ジムの受付は日本人だけですし、
契約の資料も日本語しかありませんでした。

施設内の案内も基本的に全て日本語です。
マシンの説明文も日本語ですし、注意事項も日本語で掲示されます。

確かに利用者の中には外国出身の人もいます。
中国、中東、南アジアがメインでしょうか。
近くに住んでいる人たちだと思われます。

ヨーロッパ系の人はスペイン人を一人見かけるぐらいです。

ですから基本的に英語圏ではないはずです。
英語表記をするメリットはあまりないでしょうし、
この人たちも日本在住ですから日本語でコミュニケーションをして
それでジムに入会していると想像できます。

にもかかわらず。

ジムの中で流れる注意事項のアナウンスが
日本語と英語の両方なんです。

内容は注意事項ですが、ラジオのDJみたいな雰囲気。

音楽を流している途中で、ときおり流されるアナウンスで
利用上の注意や避難時の注意などを録音したものです。

録音ですから、当然プロの人が吹き込んだものでしょう。
だから妙にFMラジオみたいな印象が出ているんだと感じます。

で、この注意事項に日本語バージョンと英語バージョンがあるんです。

日本語のアナウンスが終わったら、そのまま引き続き
英語バージョンでアナウンスが流れる。
そして再び音楽に戻っていく。

英語を必要としている人がいるようには思えないんですが…。


仮に目的が、安全のため、入念に英語でも注意喚起することだとしたら
吹き込みのアナウンスはネイティブにやってもらえばいいはずです。

ところが実態は、日本人アナウンサーの声。
日本語アナウンスを読んだ人が、そのまま引き続き英語も読んでいます。

当然、用意された原稿を読んでいるだけでしょう。
だから英語がネイティブでなくても、内容チェックだけされていれば
問題がないとは言えるのかもしれません。

ただ、発音がなんとも気になるんです。

雰囲気は英語っぽいんです。
だから余計にFMラジオのDJっぽいんでしょうけれど。

しかしちゃんと聞くと、母音の発音がいい加減だったり、
ところどころ日本語的な子音が混ざっていたり。

リズムと抑揚はアメリカンな感じになっていますから
FMラジオぐらいの雰囲気にはなっているものの、
英語としては引っかかるところがあるんです。

中には完全に発音を間違えている単語さえあります。

「携帯電話は指定の場所でお使いください」といった内容で
「Please use your cell phone in designated area」
みたいなフレーズが流れるんですが、
この「designated(指定された)」の発音が違う。

片仮名で書くと「デジグネイテッド」みたいな感じのところ、
その人は「デザイネイテッド」って言っているです。

まぁ、確かに途中まで「design(デザイン)」と同じですから
分からないではないですけど。

本当に目的が英語圏の人に伝えることであれば
内容チェックだけでなく、発音チェックだってするでしょう。

その必要を省くなら、英語ネイティブに読んでもらえばいい。

しかし、英語がカッコよく読める日本人アナウンサーがいれば
正確でなかったとしても、それで済んでしまったわけです。

どうも「英語が入っているとカッコイイ」というフシが
感じられてしまいます。

そして僕は毎回、「デザイネイテッド」のところで引っかかります。
何度聞いても、そこが気になる。

そもそも何の目的で英語を入れているんだろう、と。

国際化の対応としての英語が増える一方で
「英語ってカッコイイ」みたいな発想も
まだ残っているのかもしれません。

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2018年07月28日

体感を区別する

疲労というのも一言で片づけずに
ちゃんと中身を気にしてみると区別がついてくるようです。

少なくとも僕の場合、
・持久的な意味での筋肉疲労の蓄積
・運動を長時間続けたことでのエネルギー源の枯渇
・注意を配り続けたことによる精神的ストレスの蓄積
・注意を配る際に使う筋肉の過労的強張り
・特定のことをし続けるために動かなくなる部位の固まり
・集中的な作業に伴うエネルギー消費に対して
エネルギー生産が追いつかず全身が酸欠気味になること
・自律神経系のバランスに伴う代謝変化によって起きる脱水症状
…などがありそうです。

セミナーの場合だと、それぞれ
・歩き続けた後のような足の痛み
・全身の動きが鈍く、力が出ない感じ
・反動として気が抜け、内にこもりたくなる状態
・目の周りの筋肉、顎周りの筋肉の重苦しさ
・首と背中の硬直
・呼吸が荒くなり、息切れする感じ
・喉の渇き、肌の乾燥
に対応しそうです。

もちろん、相互に関連し合うものもあるでしょう。
背中の強張ると、呼吸筋の動きも悪くなりますから
息切れしやすくなると思われます。

とはいえ、それぞれに対して効果的なことを考えると
回復のために何をすればいいかが選びやすそうです。

食事なのか、水分補給なのか、サプリメントなのか、
有酸素運動なのか、筋肉を動かすために負荷をかける運動なのか、
リラックスするための休息なのか、瞑想なのか、睡眠なのか。

ちゃんと疲労感の種類を感じ分けてから
対応を決められたら良さそうな気がしています。

まあ、選ぶこともままならない日もありますから、
そういうときは諦めることになりそうですが。

同様に考えれば、空腹感なども
きちんと感じ分けることで
自然な食事管理ができるのかもしれません。

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2018年07月25日

休日の過ごし方

セミナーの仕事をしていると、
それ以外の日に何をしているのかを質問される時があります。

受講生からは休憩時間だったり、懇親会だったりのときに、
語学で知り合う人からは雑談の最中に、とか。

基本的には何もしていません。


もちろんセミナーがなくても、
それ以外の仕事がある場合もあります。

打ち合わせや相談など。

そういうのもない休日は、僕の場合
文字通りの休日です。

何もしません。

というか何もできない。

どうも、これがなかなか理解してもらえないんです。

どこかに出かけるなんてこともありませんし、
本を読むこともDVDを見ることもありません。

語学をやれるのは大体、セミナー以外の仕事の後。

本当に休日となると、何もしないんです。

やはり「休日」というと、「自由に何かをできる日」
といったイメージがあるんでしょうか。
「休みだから出かける」、「休みだから遊ぶ」とか。

一方、僕にとっての休日は「休めるための日」です。

一日中寝ているわけでもありません。
ボーッとしているわけでもありません。

それなら「寝る」ことをしていますし、
「ボーッとする」をしていますから。

身体の具合で寝ることもできないのがほとんどなのて
ひたすらジーッと時間の過ぎるのを待っているだけ。

以前に飼っていた犬が風邪を引くと
寝るでもなく、ただ一日中ジーッとしていたものですが、
その感じに似ていると思います。

ただ回復を待ち続ける日。
そんな休日です。


セミナー1日と休日1日をセットにして、
やっとバランスがとれる感じ。

休日は回復待ち以外に、何の自由度もないと考えると
丸二日の拘束時間だとも言えそうです。

休まなければ次のセミナーができませんから
休むのも仕事のうちなのかもしれません。

cozyharada at 23:32|Permalinkclip!

2018年07月22日

湿度への対応

日本人は一般的に湿度に対しての感度が低い印象を受けます。

もともと夏は高温多湿になりますし、
梅雨や秋の長雨の時期も湿度が高いですから
慣れてしまっているのかもしれません。

その点、日本在住のアメリカ人などは
湿度に慣れていないらしく、湿度の高さを不快に感じるそうです。

実際、湿度が高いと熱がこもった状態になって
頭がボーッとして疲れた感じになります。

いわゆる夏バテというのも、ある程度の割合は
この湿度の高さによるものじゃないかと僕には思えます。
慢性的に熱っぽくなってボーッとした感じ。

寒さを嫌がって冷房を好まない人もいますが、
湿度は気にしないようで、湿度の高さのために
パフォーマンスが落ちたり、元気が出なかったりする場合も
結構あるように見受けられます。

アメリカ人は湿度の高さを嫌うだけでなく、
太っている人が多いとか、普段から薄着の人が多いとか、
気温が低い方がシャキッとした気分になりやすいとか、
そういった理由で、アメリカのセミナー会場は、空調の設定を
16度ぐらいにするのが標準だと聞いたこともあります。

その温度設定だと湿度が下がり、頭がボーッとなりにくい。

もちろん寒がる人もいますが、そういう人は上着を着ればいい。
エコではないものの、セミナーを受ける人のパフォーマンスを
優先した設定だとはいえるのかもしれません。

湿度が高いと気化熱で体温が奪われにくいので
ジワジワと汗が出続けることがよくあります。

発汗は体温を下げるためのものでしょうから
汗をかいても体温が下がらず、ずっと熱がこもり続ければ
汗を出し続けるようなことがあると聞きます。

これが日本の夏における熱中症の原因の1つだとか。

アメリカだと湿度が嫌いなだけでなく、もしかしたら
そういう汗のかき方も嫌がるのかもしれません。

飲み物のサイズも大きいですし。

全般的に水不足になりやすいアメリカ国土を考えると
電気より水を大切にする方が重要な可能性もありそうです。

広い国土を使えば風力発電も効果的らしいので
日本人とはその辺の発想も違うのでしょうか。


僕自身は個人的にアメリカ人の対応のほうに近いです。
湿度の影響を体感するため、寒く感じたとしても
湿度が低いほうを優先します。

それは実際に起きている体験として
湿度の高さ自体も感知しているのと
そのときのパフォーマンスも意識に上げているからです。

一方、日本の湿度に慣れている人ほど
実際の体感よりも知識や常識を優先するのかもしれません。

近所のお爺さんは、近頃毎日、
玄関先の道に水を撒いています。
いわゆる打ち水です。

気化熱で気温が下がって涼しくなるという考えに基づく
昔ながらの生活の知恵ですが、
最近の気候で果たしてどれだけ効果があるのでしょう?

舗装されたアスファルトは黒い色が太陽光を吸収し、かつ石の冷めにくさの性質も加わって、
昔の土の道よりも多くの熱を溜め込みます。

水を撒いた瞬間、アスファルトに触れた水が蒸発し
まるで焼けたフライパンに水を落としたように
空気中に湯気が立ちのぼる。

一気にムワッとした熱気が充満するんです。

地面の温度は文字通り「焼け石に水」で下がらないでしょう。

気化熱で下がる気温がどれだけかは分かりませんが、
それ以上に一気に上がる湿度のほうが顕著です。

サウナで石に水をかけるようなもの。

体感温度は明らかに上がります。

実際、僕はその家の玄関先、水を撒いた道を通るとき
サウナのような熱気を感じます。

でもそのお爺さんは、昔の人知恵を信じてやっていて
実際の効果を体感で評価していないんでしょう。

湿度が上がる影響も感じないんだと思われます。

それだけ慣れと思い込みの影響は大きい。

空調メーカーのダイキンは湿度にこだわっているようですが、
全体的にもっと湿度を気にしてもいいんじゃないかと思います。

せめて安易に「暑い」「寒い」の一言で片づけないように
感じた温度と湿度を言葉にするとか。

cozyharada at 23:48|Permalinkclip!

2018年07月19日

カウンセリングの本質

以前に書いたことの続きです。
(『カウンセリングの本質 戮麓螳磴い脳辰靴討靴泙い泙靴拭)

カウンセリング技術を向上させたり
人の気持ちが分かるようになったりするために
最も本質的なのは
 自分の問題をコツコツと解決していくこと
だという話。

その1つのポイントが、自分の問題を解決する作業によって
『問題に気づく感度が上がる』ところにある、と。

自分の問題から目を背けない癖をつけることで
細かな心の動きにも気づきやすくなります。

他人の問題についても、
それを「大したことない」などと評価することが減りますし、
どんな問題でも解決できる可能性を体験的に信じやすくなります。

解決可能な部分に注目できるようになるため
厄介なことがあったときにも適切に困ることができるようになって、
悩むべきことと、悩む必要のないことも区別がしやすくなります。

ザックリというと、そんな話でした。


もう1つのポイントは
『観察力や共感力が上がる』
ことです。

コミュニケーション一般において「観察力」というと、
相手の個性や感情を見てとる能力のことを示すようです。

この能力には、
1、特徴(=標準との違い)に気づき、
2、その特徴を分類して、
3、それを言語的に説明する
というステップが含まれるはずです。

言い換えると、
1段階目だけでは
「あれ、なんか変…」という違和感だけが上がることになり、
2段階目までだと
「なんかモヤモヤする感じ」とか「シッカリしている」とか
「なんだか気分がよくなさそう」とか
曖昧な表現に留まることになります。

それが3段階目の言語的な説明までできるようになると
違和感を「モヤモヤする感じ」と捉えた後、
その「モヤモヤ」が「内容を理解できていない戸惑い」なのか
「内容は分かったけれど、理屈として納得しきれない困惑」なのか
「理屈には納得しても受け入れたくない気持ちがある葛藤」なのか
などを区別して言語化できるわけです。

「シッカリしている」にしても、
「大人っぽい自制心がある」のか
「何事にも動じない安定感がある」のか
「堂々としていて自信がある」のか
「どんなことでも卒なくこなせるスキルの高さがある」のか
…違いを言葉で説明できる必要があります。

気分や感情についても、
「いい気分」か「悪い気分」かを分けられるだけでは
読み取れている情報量が多いとは言えません。

「悪い気分」にしても、怒りの系統と悲しみの系統がありますし、
悲しみの系統の感情にも、寂しさ、孤独感、孤立感、喪失感、絶望感など
本人の事情と結びついた繊細な感情の違いがあります。

それらは全て、感じ分けられるものなんです。
言語的に概念が区別されているわけですから。


観察力の中でも違いに気づく1段階目だけであれば
他人を細かく見ているだけでも磨かれていきます。

しかし2段階目の分類の作業には、
その特徴が「どういうときに表れるものなのか?」と
傾向を知っている必要があります。

傾向を知るには土台となる情報量が必要です。
多くのものから共通する特徴を見出すために、です。

もちろん他人の話を聞きながら、
そのときの出来事と感情の結びつきを知ることもできます。
しかし、それには相手から相当詳しく話を聞かないといけません。

個性と見た目の関係についてデータを積み重ねるにしても
相手の個性が分かる程度までの関わりは必要になります。

質的に深いコミュニケーションを量的にも重ねる必要がある、と。

その点、自分の問題について向き合っていく分には
自然と質的に深いレベルまで事情を整理することになります。

どういうときに、どういう身体の感じや表情、姿勢になるのか。
どういう能力を発揮しているときに、どんな様子になるのか。
そうしたことを詳しく知ることができます。

量にしても、自分の問題に向き合い続ける限り
いくらでも経験を積み重ねることができます。

自分の心の癖やネガティブな感情のパターンなどを見ていくと
毎日1つ扱ったとして、数年やっても尽きることはありません。

自分の問題を扱えば、
1、違いに気づき
2、その特徴を分類する
ために必要な経験を、量的にも質的にも確保できるわけです。


さらに3段階目の言語化の部分。

これに関しては自分の問題を扱う以外では
トレーニングをするのが困難だと思います。

他人の状態を観察して、適切に言語化するトレーニングだとしたら
かなり込み入ったところまで話を聞いたうえで、
さらに相手の心情を代弁するような作業をするわけです。

そして相手に確認してみて、相手がシックリくるかどうかをチェック。
相手がシックリくるまで適切な表現が見つかっていないわけですから、
トレーニング初期の段階では、適切な表現を見つけられないまま
会話の時間が終わってしまうこともありがちです。

適切に状態を捉えて、言語化する能力が身についてからであれば
相手の心情を代弁するのもトレーニングが可能ですが、
それ以前の段階だとトレーニング効果を得られるところまで
なかなか辿り着けないことも多いんです。

その点、自分の心情を適切に言語化する練習であれば
上手く言葉にできたときには自分で「ああ、そうか!」と
納得感を味わうことができます。

違和感に気づき、
それを分類して、なんとなくの特徴を掴み、
適切な言い回しで表現しようとする。

この流れで適切な言葉を見つけられたら、
自分に対しての理解が深まるのと同時に、
「この体感覚は、この感情」
「この姿勢は、こういう気分のとき」
「この感じは、心の中で両面感情があるとき」
などと区別がつけられるようになっていくわけです。


この経験量と、分類した状態を適切な言葉と結びつける訓練によって
繊細な心の状態を適切な言葉にする能力が上がっていきます。

自分の体験と、自分自身の心情を言語化するトレーニングの結果、
他人を観察したときにも、その能力を応用できるようになる。

「あ、この人の表情は、あの自分がモヤモヤするときのヤツだ。
 このモヤモヤは心情としては…
 ”頭で理解していても気持ちで納得できない葛藤”のものか。」
といった形で。

まとめると…
 自分の問題に向き合うことで、
 「内面の状態」と「そのときの外的に観察可能な特徴」との対応を
 データベースとして蓄積していき、
 その「内面の状態」を言語的に説明可能になれる、
ということです。

これが相手の変化の意味を説明できるようになる土台、
つまり観察力の中身そのものになります。


ですから他人の気持ちを理解できるようになりたければ、
まず自分の気持ちを細かく感じ分けて、言語化できるようになる。

それが着実で、しかも効果的なトレーニングだといえます。

『自分の問題をコツコツと解決していく』ことが重要な理由。
『観察力や共感力が上がる』から、というのは
こういう仕組みに基づいています。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!

2018年07月16日

時間と記憶

いつの頃からか記憶が曖昧になっているようです。

特に出来事に関しての記憶が弱く、
自宅に戻ってその日のことを思い出そうとしても
なんだか随分と昔というか、夢のような感じがするんです。

なので語学をやっていて、近況報告をするのが厄介です。

大体、語学をやっていると冒頭に挨拶をして、
メインのレッスンに入る前に「最近どうだった?」
みたいな話になるものなんですが、
そんなことを聞かれても「え?最近?何があったっけ?」と
思い出すのも一苦労な状態になります。

仕事のことは込み入っていて話すには適切ではなさそうですし、
日常的に話題になるようなイベントも少ないのかもしれません。


かといって全てを忘れているかというとそうではなく、
むしろタイミングが合えば、かなり鮮明に思い出せることもあります。

記憶と場面の結びつきが強くなりすぎているのかもしれません。

裏を返すと、場面が変わると思い出せなくなっている、ということ。

思い出すキッカケになるものがあれば記憶が戻ってくるけれど、
気軽な質問をされたぐらいでは思い出されないみたいです。

その代わり、誰かと会えば
その人と一緒に過ごしたときのことが色々と思い出されます。

思い出される記憶は鮮明でも、
思い出すキッカケが自分主体になっていないのかもしれません。

NLPの用語で説明するなら、外的なアンカーがあって初めて
記憶が引き出されるということになります。

アンカーを発火させるトリガーがない限り、
特に何かが頭の中に戻ってくることもない、と。


その意味では、記憶が断続的だとも考えられます。
あまり「自分」という体験に統合されていない。

例えばセミナーの場で起こったことは、
セミナーの場面に戻ったり、セミナーの話題になったときにだけ
自然と思い出されやすく、そうでないときは意識に上がりにくい。

自宅に戻ってきてしまうと、セミナーを思い出すキッカケが少ないので
セミナーで体験した記憶の内容が思い出されにくく、
自宅にいるときには自宅と結びついた体験だけが蘇りやすいようです。

セミナーのことはセミナー。
自宅のことは自宅。
そんな風に分かれているのか、どうも関連性が薄く感じられて
それが「なんだか昔の感じに思える」という状態と関係しそうです。


記憶の仕組みとしては自然なことだと言えそうですが
反面、積極的な反芻をしていないとも考えられます。

良くいえば、今の体験に集中しているということ。
悪くいえば、印象に残る体験が少ないということ。

嫌な体験を思い出して苦しむことはありませんが、
淡々とした日々で幸せを感じていないのかもしれません。

何事も両面があるものですね。

cozyharada at 23:57|Permalinkclip!

2018年07月13日

意識を向けると緩まる

なんだか近頃、瞑想の効果を強く実感しています。

落ち着くとか心が休まるとかではなく、
身体が緩む効果が大きいようです。

首や肩のコリ、腰のハリなど、筋肉の強張りが
瞑想の間に自然と緩んでいくのを感じます。

実際には瞑想を終えたときに楽になっているのが分かるんですが。


もちろん瞑想のやり方も関係しているとは思います。

そういう意味だと上達したのかもしれません。

ただ意識を向け、その部分を受け入れる。
それだけでフワッと力が抜けるみたいです。

緊張して肩の力が入っているときに
「力を抜いて」と言われても対応が難しかった記憶がありますが、
そっと肩に手を置いてもらうと、自然と気持ちが落ち着いて
肩が下がっていったのも覚えています。

そんな感じに似ているんじゃないでしょうか。


イメージでいうと、身体の各部位がアラームのように何かを訴え
その担当者のところに行って「了解」と伝えるだけで
その部位が任務を終えて安心し、休息状態に戻るような。

どうしても日常生活だと目や耳からの情報処理に追われて
筋肉からのフィードバックを意識しにくいのかもしれません。

赤ちゃんはあんなに身体が緩んでいて自然体なのに
小学生ぐらいから姿勢が歪みはじめ、
高齢になると歪みに硬直が加わってくるように見えます。

アラームとしての筋肉の緊張に気づかないままだと
身体の歪みが大きくなるだけでなく、
その柔軟性まで減らしていってしまうのでしょう。

瞑想を丁寧にやると、身体の緊張を緩められるみたいです。


瞑想をするモチベーションが高い人は多くない気がしますが、
その効果が実感できれば、自然とやろうとするものにも思えます。

少なくとも僕は、体調管理の手段として瞑想が欠かせなくなりました。

cozyharada at 23:37|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
丁寧なストレスの取り扱い方


【日時】 
  2018年9月9日(日)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回は2018年10月頃の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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