NLP

2017年03月16日

「集団との対話」と「プレゼン」の違い

公開講座に参加して受けている英語でのプレゼンのトレーニングも
残すところ後2回となりました。

といっても何も大きな変化はありません。

慣れてきている人は多いですが、まぁ慣れてきているだけ。
課題として与えられるフレーズの使い方を組み込んでプレゼンしたりしても
結局、原稿に用意するぐらいのものです。

原稿を読めば使えたとしても、自然に組み込むのは難しいようです。
それは単純に言語力の問題で、内容を説明する作業に多少でも難があれば
課題となるフレーズの使い方にまで注意を向けるのは大変になります。

つまり作業が複雑すぎるんです。

プレゼンの課題として与えている設定がすでに工夫を求めるものなのに、
そこにさらに効果的なフレーズの課題が与えられる。

母国語でやっても効果が薄いトレーニングになってしまう気がします。

内容はごく一般的、日常的で、わざわざ一生懸命考えるレベルではないものとし、
そこにフレーズレベルの工夫を入れていくというのであれば
内容の重要度が低い分、フレーズの使い方に注意を向けて練習できるでしょう。

あるいは、毎回、プレゼンをする内容は固定しておいて、
フレーズの工夫を追加しながら、完成度を上げていくとか。

いくらでもアイデアは出てきますが、
それだけ僕がトレーニング内容に不満を感じているということかもしれません。


先日の課題は「初めて会う聴衆とラポールを築く」というテーマでした。

会社の新人への挨拶とか、授業の初回とか、そういう設定だと。
で、僕は自分の講座における冒頭部分を想定してみたんです。

これは大失敗でした。

設定が大間違い。
聴衆が実際と違いすぎます。

僕は日頃から、来ている受講生の皆さんの様子を見て
その人たちを動機づけているもの(=参加した理由)
に合わせるように冒頭を組み立て直しています。

そもそもそれほど準備をして迎えているわけではありません。

なので、仮設定として、「まぁ、こういう人が多いかな」ぐらいを想定して
「その人たちが目の前にいたら、こんな感じでいうだろう」という内容を準備しました。

しかし、実際に目の前にいたのは違う人たちです。
そういう動機はありません。

講座の他の参加者たちは席に座っていはいますが、
どういうつもりで話を聞けばいいのかの指示を受けていませんし、
僕のほうからその想定を説明する段取りもありませんでした。

さらに半数の受講生は前回を欠席していたため、
当日にプレゼンの内容を考える必要がありました。
一番最初に当てられた僕が話す間、その人たちは自分の準備で大忙し。
聞くつもりもなければ、前も向かずに書きものばかりです。

講師は講師で、自分の想定していたことと違う展開だったのか
表情に困惑を浮かべていました。

そうなってしまうと、起きている現状は
僕が準備してきた内容とは全くマッチしないものです。

さすがに講師も状況の不具合を修正しようとしていましたが、
それは僕の番が終わって、二人目に入るところから。
僕がプレゼンをしていた時間は、なんとも不毛な空回りでした。


ここのポイントは、僕が「空回り」を認識していたことなんです。

つまり僕は聴衆に合わせて、聴衆と交流するのを前提にしていた、と。
ですから「自分の主張」をしていたわけではありません。

多くのプレゼンテーションは、他者に影響を与えることが目的となります。
アイデアを提案して納得してもらう、とか
商品やサービスをアピールして魅力を感じてもらう、とか
問題を提起して考えてもらう、とか
情報を説明して分かってもらう、とか
熱意を伝えて行動を促す、とか。

自分の価値観に基づいた内容を「表現して」、
それを「受け取ってもらう」ことが目的となります。

もちろん価値観の違いから受け取ってもらえない場合はあるとしても、
主張を表現するという点においては聴衆に左右される度合いは少ないはずです。

一方、僕がやろうとした(普段やっている)ことは
僕の側の主張ではありません。
こちらから影響を与えようとする部分は少ないんです。

受講生という聴衆に合わせ、
その人たちの問題解決の意欲に沿おうとしているようです。

その意味では「プレゼンテーション」ではないのかもしれません。

実際、以前の課題で「日本語英語教育の問題点」とか
「原発に賛成か反対か」などの『主張』が課題となったときには
聴衆がどんな考えや態度であっても気にならずに話せました。

それは主張するためのプレゼンテーションだったからです。

それと比べると、僕が普段からやっている講座のオープニングは
主張のためのプレゼンテーションではなく、
一対一のような対話を、一対多でやっているだけのことなんでしょう。

ですから聴衆の中に、自分のプレゼンの内容を準備している人たちがいれば
それはちょうど、一対一の会話において
 相手が別の作業をしている間に、横から一方的に
 相手にとってどうでもいい内容を話しかけて
 ずっと無視され続けているのに最後まで話し切る
ような状態だったといえます。

それは途中で止めたくもなりますし、
邪魔しないでおこうかとも考えてしまいます。

「初対面の参加者とラポールを築く」という設定自体が
僕にとってはそもそもプレゼンテーションではないみたいです。

世間一般にとっては、人前で話すという点でプレゼンなのかもしれませんが。


ちなみに、積極的に聞く気がない人が聴衆に混ざっていることは
商品のプレゼンだったり、会社の会議、企業研修などではあり得ます。

しかしそれでも、そこにやってくるからには何かの必要性があります。

合わせるポイントを見つけていけば、空回りはしなくなるんです。

そして仮に最後まで空回りする相手がいたとしても、
「主張」という意味でもプレゼンテーションなら問題なく続けられます。
全員に届かなくても、届く人はいるかもしれませんし。

ですから先日に体験したプレゼン講座での設定は
そもそも無理があるものだったんだと思われます。

準備した内容を使わず、その場の実際の聴衆
…つまりプレゼン講座の他の受講生という立場…
に合わせて、その人たちとの対話を心がけたら
空回りしないこともできたかもしれません。

あるいは、「企業研修に義務で参加している人」のような設定にしていたら
頭の中でイメージを変換して、仮想的な練習をするぐらいはできたかも。

まぁ、それをしたとしたら、今度は課題から大きく離れてしまいますから
そっちそっちで望ましくなかったとは思いますが。


ともあれ僕自身としては、重要な区別をハッキリさせられたので
なかなか意義深い時間だったような気がします。

僕は講座中にプレゼンをしていない。
研修でも講演でも同様でした。

一方、主張をハッキリさせたプレゼンになるとスタイルが変わります。
こっちはこっちで練習のやり甲斐があります。

僕が英語力のトレーニングとしてやりたかったのはプレゼンのほう。

その辺を区別しながら練習したら、もっと効果を上げられそうです。

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2017年03月13日

疲労の基準

仕事が立て込んでくると疲労が回復しきらない状態を感じることがあります。

そんな中、タイミングが合って睡眠時間を充分にとれると
体力が回復しているのを実感できます。

身体のハリや重みといった肉体の状態は決して良くありませんが
エネルギー的には元に戻ってくる感じです。


この感じは僕の記憶の中から、研究職時代のことを思い出させます。


研究職、とくに山口県で寮生活をしながら研究をしていたときは
慢性的に睡眠不足で多くの時間を実験に費やしていたものです。

研究所が工場の一角にあって、寮も同じく工場の敷地内にあったため
基本的な行動範囲は工場内となっていました。

朝は7時過ぎに出勤、夜は日をまたいで1時、2時ぐらいまで。
今思えば、もっと効率的にできた気もしますが、
他にすることもないので職場で色々とやっていたというところです。

とはいえ、ずっと職場にいるわけではありませんでした。
1時間の昼休みは、食事が寮に用意されるので
そのたびに寮まで自転車で戻ってきます。

そして食後は自分の部屋に戻り、30分弱の仮眠を取る。

夜も夕飯を食べに寮へ戻った後、1時間から90分ぐらい仮眠をとって
それから夜の作業をこなしていました。

夜の睡眠時間は3時間ちょっとでしたが、
正味の睡眠時間は5時間ぐらいは確保していたんだと思います。

それで毎日を乗り切り、とりたてて疲れを感じることもなく
まぁ、それなりに日々を過ごしていたようです。

もちろん眠気に襲われることもありました。
多くの人がそんな感じの様子になっていると
眠くなるのが毎日の生活のせいだとは思っていなかったんです。

暗い部屋で単調な研究発表を聞いていれば眠くもなるし、
単調なデータ入力をしていれば頭もボーっとしてくる。
そこに疑問を挟むことはありませんでした。


でも本当はいつも疲れていたようです。

若かったから、体力があったから大丈夫だった…
というのではなさそうなんです。

むしろ鈍感だっただけ。
慣れてしまっていただけ。

なぜなら、年末年始やお盆休み、ゴールデンウィークなどで
実家に戻ってくると、睡眠時間に影響が出ていたからです。

特に帰ってきて次の日、その次の日ぐらいまでは
もう泥のように眠っていました。

夜12時ぐらいに寝て、次の日の夕方ぐらいまで一度も目が覚めない。
そんなのが2日続いていたものです。

その後は徐々に睡眠時間が自然と減って、
それなりに休日の時間を過ごしていました。

そして一週間程度の休日の期間が終わると山口へと戻ります。

夕方ぐらいに寮に到着して、少しだけ研究所へ行って次の日の準備をする。
微生物実験の都合として準備の時間がかかるのも1つの理由でしたが、
自分の内面を研究モードに戻すためのウォーミングアップでもありました。

すると、です。

山口に戻ってきた最初の夜は、なかなか寝つけません。
眠くないんです。

次の日からは通常の生活サイクルに戻ります。
昼ごはんの後の仮眠も、夕飯の後の仮眠も
やはりあまり寝られません。
眠くない。

そして研究所での生活サイクルに馴染んでくる頃になると
仮眠が必須で、眠い目をこすりながら目覚める生活に変わります。


研究所で睡眠時間の短い生活をしている毎日では
「自分が眠い」ことにさえ、あまり気づいていなかったのでしょう。

疲労が溜まっていることだって自覚できていませんでした。

振り返って様子を比べてみると、
実家に戻ってきている間の状態と
山口の研究所にいる間の状態には違いがあったことに気づきます。

「いつも通りの体調」という基準値が違っていました。
「これが普通」という基準が別物だったわけです。

実家に戻ってきて休日を過ごしているときは
体力が回復している状態が普通。
研究所生活では疲れて寝不足なのが普通。

「普通」は慣れで設定される自覚です。
そこを疑わなくなる。

僕の場合、研究の仕事を続けていたときは
体力の平均値、つまり「いつも通りの体力」が低い状態で認識されて
そこに慣れてしまっていたために何も疑わなかった、
ということだったんでしょう。

低位安定の研究所生活では、そこからさらに疲れることは少なく、
物凄く睡眠時間の少ない無理をすれば反動は出ましたが
それでも反動は決して大きくなかったんです。

だから結構無理がきくと思っていました。

実際はあくまで「普通」の基準が低いところ(疲れた状態)にあったため
そこからの落ち込み幅が小さかっただけのこと。

自覚としては「そんなに疲れない」と思っていましたし、
頭がボーっとしたり、パフォーマンスが落ちたりすることも
ほとんどないと思っていました。

おそらく実態は、ベストな状態からは随分と低かったのでしょう。

でも低いところが「普通」になっていて、
そのことが分かっていなかっただけなんだと考えられます。


最近は、この「普通」の設定が変わってきていると感じます。

「普段通り」としての「普通」ではなく、
身体で感じられる今の状態がスッキリしているかどうか、
眠気やボーっとする感じ、身体の重さや不快感がないかどうか
といったところでコンディションをチェックしています。

その分、忙しくなってくると、疲れを体感として実感しやすくなっています。

疲労や睡眠不足を避けたい気持ちは以前よりも強まって
無理をしたくない思いは出てきやすいですが、
日々の集中力などは高めにキープされている気がします。

今、こういう状態、こういうコンディショニングを知っている状態で
もう一度研究職をやったら、前よりももっと効率的に
しかも高確率で研究成果を出せるのではないかとも想像します。

「普通の体調」をどうやって自覚するか。

この影響は大きいにもかかわらず
慢性的な疲労状態を「普通」としているケースは
世間でも意外と多いのかもしれません。

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2017年03月10日

コーヒーの味わい方

味覚の好みというのは、大部分が慣れによるところだと考えられます。

僕にとっての典型的な例はコーヒーです。

幼少期から、父が毎朝コーヒーを飲んでいたため
休日ともなると食卓にコーヒーが並ぶことが多かった記憶があります。

とはいえ子供ですから、やはり甘くないと飲めません。
コーヒー牛乳にして飲んでいたんです。

小学校の給食でも時々コーヒー牛乳が出ていましたし、
アイスクリームを食べるときにもコーヒー味もあったりして、
わりと小さいころからコーヒー風味には馴染みがあったようです。

コーヒー牛乳やコーヒー味アイスの、甘味と苦みが混ざった感じは
チョコレートに通じるものがあったんじゃないでしょうか。
子供でも楽しめる味だったようです。


それから中学校に入り、冬の塾の帰り道
暖かい缶コーヒーを飲むのが習慣になりました。

当時の缶コーヒーは基本的にすべて砂糖・クリーム入りでした。
まだブラックの缶コーヒーは発売されいなかったはずです。

いつも同じ自動販売機を使っていたわけではありませんから
種類の違う缶コーヒーを飲むこともありました。
それによって「コーヒーにも味の違いがある」ことを実感し、
様々な種類の違いを知ろうとするようになっていったようです。

そのあたりからコーヒー牛乳よりも、
コーヒーの味と香りが強いものを好むようになっていきます。

しかし依然として、缶コーヒーは砂糖・クリーム入りですから
「コーヒーといえば苦みと甘味のミックス」というイメージはそのまま。

我が家のコーヒーを飲む習慣も当然続いていて、
缶コーヒーからコーヒーに慣れてきた僕は
コーヒー牛乳よりもコーヒーの味が強いほうを好むようになりました。

ここで牛乳やコーヒークリームを加える習慣がなくなります。

父がコーヒーに砂糖だけを入れて飲むタイプだったため
僕も牛乳を入れずに、砂糖だけで飲むのを試してみたわけです。

この変化は意外とすんなり受け入れられました。

ミルクチョコレートとビターチョコレートの違いぐらいなものです。

チョコレートに関しては、ホワイトチョコを食べたときに
チョコレートに「あるべき」カカオの風味がないことへ衝撃を受け、
「甘味と苦みの組み合わせがチョコレートのはずなのに…」と
ホワイトチョコが好きになれなかったんです。

その対比があって余計に、チョコレートはビターなほうが
「ちゃんとチョコレートだ」と認識するようになったのでしょう。

ビターチョコレート好きだった僕としては、コーヒーにしても
砂糖だけ入れたときの「甘味と苦みの組み合わ」の感じが
おそらく受け入れやすかったんだと思われます。

それまでの慣れの部分と、父親がコーヒーに砂糖だけ入れていたことから
僕もコーヒーには砂糖だけを入れるようになっていったんです。


そして今も僕は、コーヒーに砂糖だけを入れて飲みます。
コーヒーを飲む頻度は高いですが、だいたい砂糖を入れます。

大人になって周りを見てみると実は、砂糖だけなのは少数派のようです。

ブラックの人が多く、ミルクだけの人も多く見かけます。
その次がミルクと砂糖の両方でしょうか。
砂糖だけが多分、一番の少数派のように見えます。

たぶん、ほかの人たちも慣れでそれを好むようになったと想像できます。

ブラックで飲むのは、お茶に近い捉えかたをしているんでしょうか。

お酒が好きになってくると甘くない飲み物に慣れてきて
苦みと香りを優先したブラックのほうに好みがシフトするのかもしれません。

僕もアメリカンや、それに近いぐらい薄めのコーヒーの場合は
ブラックで飲んでも楽しめます。

ですが普段はかなり濃いめにコーヒーを淹れて
砂糖を足して飲むことが大半です。

慣れの問題が大きそうです。


一方で、最近発見したのは、
僕のコーヒーの飲み方が砂糖入りに合わせて設定されていた
ということ。

コーヒーを口に入れてから、口の中な留めておく時間が長いんです。

特に舌の前側に置く傾向が強い。
味覚としてコーヒーをフルに感じようとしているようです。

それと比べると、かなりの人がコーヒーを早く飲み込みます。

試しに…と僕もやってみると
早く飲み込んでしまったほうが苦味や渋み、エグ味を感じにくく
むしろコーヒーの香りや後味を楽しめる気がしました。

これならブラックでも美味しく感じられます。

慣れによって味の好みのが生まれ、
その好みの体験を強めるような味わい方が身につき、
より好みがハッキリしてくる。
…そんな部分があるのかもしれません。

ブラックの楽しみ方も知った気がしますが
それでもやっぱり慣れ親しんだ砂糖入りを飲みそうです。

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2017年03月07日

学習における頻度と蓄積

2月頃から始めた英語でのプレゼンテーションのクラスも
半分が過ぎて進め方や何をするかにも慣れてきました。

英語でプレゼンをするということそのものについても
多少は慣れが出始めてきたあたりかもしれません。

そうすると感じてくるのが、体験する頻度とスムーズさの関係です。

プレゼンを練習するとなれば自ら英語で発話する量が増えます。
それに慣れるとそのスムーズさが上がっていく。

去年は英語を使う機会が週に一回の英会話ぐらいだったんです。
その前の年ぐらいまでは、週一の英会話に加えて
大学の公開講座で英語を使って何かを勉強することをしていました。
週二回ぐらい英語を使う頻度だったわけです。

すると自然に、週二回の時期と比べると
週一回の頻度だとスムーズさが落ちるような印象も受けます。

もしかするとラジオや映画などで英語に触れ続けていれば
そのあたりは変わってくるのかもしれませんが、
やはりアウトプットということになると頻度は限られてしまいます。

それに比べると今は、
週一回の英会話と週一回のプレゼンのクラスがあるので
英語に触れる頻度は多くなっています。

そのせいもあってスムーズさが上がっている気がします。


しかし反面、フランス語に触れる頻度は下がっています。

一昨年は週二回だった英語が、昨年は一回に減ったのは
その分だけフランス語の頻度を上げたからです。

であればフランス語のスムーズさが下がったのか?

ところがそうではないんです。

僕のようなレベルのフランス語の場合、
問題は語学力を運用するスムーズさにあるのではありません。

むしろ基礎となる語学力そのものを鍛える段階です。
音を捉える訓練とか、ボキャブラリーとか、文法の正確さとか。

ボキャブラリーに関しては接触頻度が落ちると忘れていくものもありますが
文法はむしろ数を重ねるごとに自然と定着していきます。

基礎の部分においては、とにかく量を積み重ねていく必要があるんでしょう。
積み上がっていくものであって、下がる度合いは少ない。

一方、基礎が固まった後に、それを実用的に運用していく段階となると
ここには慣れの要素が関係してきます。
日常の中で頻度が高ければ慣れでスムーズさが上がり、
頻度が下がると不慣れになってきてスムーズさが落ちる、と。

このあたりは日本語でも当てはまるのではないでしょうか。

現代人は紙に文字を書くことが減ってきているはずです。
そのため漢字がすぐに思い出せなかったり、
文字を書いたときに形のバランスが悪くなってしまったりするかもしれません。

書けなくなってしまっていた漢字でも読むのには苦労しませんし、
思い出せないときでも一度調べれば、すぐに「あぁ、そうだ」となります。

英語でアウトプットするときも同様です。
読むときには理解できている単語が、話すときは書くときには出てこない。

知っているし、理解もしているけれど、
運用するときにはスムーズに浮かんでくるかどうかが重要なんです。

言い換えると、思い出しやすい記憶になっているかどうか。
慣れでスムーズさが上がるのは、使っている頻度が高いために
記憶の中で思い出しやすいところになっているんでしょう。

しかし、知らない単語があるとか、
聞き取りのときに識別できない音があるとか、
そういう段階では運用以前の話になります。

運用するためのものが頭の中に存在していません。
だからまずは頭の中に入れ込む必要がある。

こっちでは頻度よりも蓄積が大切になりそうです。
頻度が高いから思い出しやすいといった運用のスムーズさではなく、
運用できる情報をどれだけ溜めこんでいけるかの段階。


となると僕の場合、フランス語はまだ蓄積重視のレベルですから
一週間当たりの頻度が重要なわけではないのかもしれません。

むしろ頻度重視の側面は英語のほうに充てて、
フランス語に関しては自宅学習で蓄積するものを上げていく。

そういう区別をしても良いような気がします。

しかし同時に発話の部分に関しては運用力を上げる必要があるので
これにはアウトプットを通じた慣れも重要になりそうです。

慣れが重要な要素については頻度重視で会話レッスンなどをする。
蓄積が重要な要素については自宅学習でトレーニングする。

そんな感じでやれたら良いのかもしれません。

ちょっと工夫してやってみようかと思います。

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2017年03月04日

書道の筋肉痛

僕が加盟している書道会は、年に二回の展覧会を開催します。

一回はメインとなるもので、1月の上旬に開かれるもの。
こちらは原則的に出品者全員の作品が提出され(違反がない限り)、
いろいろと賞が選定されます。

もう1つは夏ごろに開催されるもので、こちらは
提出された作品のうち審査を通ったものだけが展示されるスタイル。
賞の数は少なめで、展示されるかどうかが審査の中心のようです。

賞そのものは別にさほど重要ではないのですが、
書道の分野で「良い」と評価される基準は伝統的に受け継がれてきたもので
その審美眼を身につけることも書道として習得すべき要素でしょうから、
どういう作品が評価されるのかを理解するのが僕の目的となります。

で、年二回の展覧会はその展示スタイルの違いから
審査方法にも違いが生まれます。

メインのほうは全員が展示される兼ね合いと
審査から展示までの期間が短いことから、
作品は表装して額に入れられた形で審査を受けることになります。
そうするとすぐに会場へ輸送して並べることができる、と。

夏ごろのほうは選抜された作品だけが展示されますから
入選しなかったものは出品者のもとへ返送されることになります。
展示されないのに表装して額に入れて…というのは勿体ないですから
審査は表装する前の段階、ペラペラの紙のままで行われるんです。

ここに審査基準の違いが出てくるようです。

表装されて額に入れられると、額の中の縁取り(背景)として
色のついた紙の部分がつきます。
その色紙との対比されることで紙面全体の範囲が切り取られ
紙の白い部分が際立って見えやすくなると考えられます。

一方、表装されない段階だと紙の範囲は際立ちませんし、
文字に対して紙が背景のように認識されやすくなります。
白い部分への認識が下がるためか、文字ばかりに注意が向き
黒いところが気になりやすいのでしょう。

表装されていなければ紙面そのものもヨレヨレですから
余計に白い部分を色として認識しにくくなって
単なる背景として認識から外してしまいやすくなるのもありそうです。

そういった理由からか、一般的な傾向として
白い部分が多く見えて余白の綺麗な作品が選ばれやすいようなんです。


ということで今回は、ゆったりと白地が綺麗に見えるような字体のものを
書いてみることにしました。

11月ぐらいに1月の展覧会の作品を書き上げたのに
3月の時点でまた作品に取りかかることになりますから
「もう次の出展か…」と慌ただしさも感じています。

審査に通った作品だけが、それから表装されて額に入れられ
展覧会場へ運ばれて展示される…ここで少し時間がかかりますから、
出品期限は展覧会時期よりもかなり前倒しになるみたいです。
なので余計に間隔が短いんでしょう。

期限まで時間もそれほどありませんから
さほど力を入れずに気楽な感じでと思って取り組み始めましたが、
やってみて驚いたのは体への負担です。

ゆったりと余白の綺麗な字体ということで選んだものが
文字そのものの特徴として楷書と行書の中間ぐらいで画数が多く、
字体としても筆運びの特徴がゆったりとしているため
下半身を固定している時間が長いんです。

全体としての統一感を考えると文字数が多いほうが良さそうなので
1枚を書き上げるのにかかる時間も長くなってしまいます。

中腰で体を浮かせて書き続けるのも負担ですし、
かといって膝をついて座っているのも大変。

ここ数年で、こんなに体に負担を感じる作業は珍しいです。

内股の筋肉が張って、筋肉痛が出ました。
歩くのが遅くなってしまうぐらいの負荷を感じています。


同じような書体の作品は、7年前ぐらいにも書いているはずなんですが
そのときはこれほどの負荷を感じてはいませんでした。

確かに身体の感覚への敏感さは上がっているとは思うものの、
筋肉痛になるかどうかの話ですから、
そういう繊細なレベルの問題ではないと思われます。

7年の間に筋力が低下して負荷に耐えられなくなったのでしょうか。
加齢を考えれば十分にありそうな要素でしょう。

もう1つは書くときの姿勢の変化。

7年前はもっと姿勢を低くして、背中を丸めながら書いていた気がします。
座り込んでいるような感じ。
座りやすいところで身体を止めて、手先だけで書いていた。

今は紙面を少し高いところから見たくなっているのと
真上から見下ろせるように、上半身を高い位置でキープしようとしています。

その上半身の重さを左手と背筋、腰回りの筋肉で支えている分
身体への負担が大きくなっているとも考えられます。

少しでも上手く書きやすい姿勢を身につけてきたとも言えますが
一文字当たりの時間、一枚あたりの時間が長くなるタイプの作品だと
そういう姿勢は厳しいのかもしれません。

先生がどうやって座っていたかを思い出しつつ、
座り方を含めて検討しなおす必要がありそうです。

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2017年03月03日

お金の使い途

わりと最近になって実感したことなんですが、
僕は物欲が小さいほうみたいです。

ここ数年の範囲で、短い周期で買い替えたものといえば
スマートフォンぐらいでしょうか。

IiPhone 5 から 6S にしましたから多分、3年ちょっと使ったぐらい。
こちらはバッテリーの問題からでした。

でも、その間、カバーは一度も換えていません。

その前の携帯も、かなりの年数を使っていた気がします。
5年ぐらいずつは使ったかもしれません。

ノートパソコンは必要に迫られて買い足すことはあっても、
未だに自宅のパソコンでは7,8年前のものが動いています。

こちらは動きが遅くなりすぎてきたので、そろそろ買い換えたいところ。

出張で使っているキャリーバッグは10年以上使っていて、
キャスター部分がかなり不安定になってきています。

ガタガタするなぁと思ってみてみたら、タイヤ部分が擦り減っていました。
こちらも買い替えが必要です。

日用品、食料品などの消耗品を除くと
一番頻繁に購入するのは本だと思いますが、
こちらは「買い替える」種類のものではないでしょう。

どうも僕は「買い替え」のタイミングが遅いようなんです。


ここに「もったいない」という発想はありません。
「もったいない」という言葉を聞きながら育ってきたわけではないんです。

確かに僕の祖父は、物が壊れても自分で修復して使い続ける人でした。
決して上手い修復ではなかったですが、それを気にしなかったんでしょう。

じゃあ、その影響で物を大切に使い続けるかというと、
やはりそこまででもありません。

多少の靴底ぐらいは修理することもありますが、
最近は大抵のものが安く手に入るので
修理するまでもないようなケースだって多いように感じます。

実際、僕の「買い替え」のタイミングは「機能に支障が出てきたとき」みたいです。
なので修理で対応することはむしろ稀で、どうしてもとなれば買い替えます。

ただ「機能に支障が出た」という判断が遅いようなのと、
「新しいものが欲しい」という気持ちが少ないのとで、
かなり長い間、同じものを使い続けてしまう傾向があるみたいです。

つまり「もったいない」という判断で、買い替えを控える発想は持っていない、と。

新しい物に買い替えていくことに「悪いことをしている」ような意識もありません。
欲しい物があるんだけど我慢するというわけでもありません。

新しい物を欲しいと思う物欲のほうが小さいんでしょう。

ちなみに新しいものが欲しい気持ちが強くて、
かつ買い替えることに「悪いことをしている」意識が働く場合、
 物がドンドン増えていって、使っていないものが溜まっていく
ということが多いようです。

欲しい物があって、我慢もしないとなると
かなり頻繁に買い物をする感じになると思われます。

裏を返すと、僕はあまり買い物に行かない、ということです。


おそらく僕の物欲が小さい、買い替えのタイミングが遅い原因のメインは
 買い物の習慣を身につけてこなかった
ことではないかと考えられます。

子供の頃、お小遣い制ではなかったので
小学校の頃に自分で何かを買うことは滅多にありませんでした。

マンガはそれなりに買っていましたが、
欲しいときにその分だけ貰うような形だったのを覚えています。

もちろん毎回もらえるわけでもなかったですから
欲しい物を選びながら、欲しい気持ちをコントロールする必要はありました。

中学に入っても、塾の行き帰りでジュースを買うぐらいの小銭は持っていても
まとまった額で何かを買うことはありませんでした。

高校に入ると電車通学になったのと、部活動で帰りが遅くなるのとで
コンビニで何かを買って食べられるぐらいのお小遣いはもらい始めました。

が、自宅から近い高校だったので通学の途中に繁華街を通ることもなく
お金を使う機会は飲食だけに限られていた記憶があります。

部活はゴルフ部で、道具にはお金がかかりましたから、
学校の計らいでゴルフ場のキャディのアルバイトをさせてもらってもいました。
部活にかかるお金は、そちらで賄っていたわけです。

大学に入ってからはゴルフ練習場でアルバイトをしたりもしましたが、
やはりお金の使いどころは限られていました。

高校が男子高、大学は理系だったことも関係しているのか、
オシャレを意識することもなく、衣類にお金をかけたい欲求もなかった。
となると足を運ぶ店そのものが限られてしまいます。

しかも大学ぐらいになるとレポートや実験、研究が忙しくて
店が開いている時間に外を出歩くことも少なくなかったですし。

ですから僕は、買い物に行くという頻度そのものが低かったんです。
欲しい物を自分で探すという体験に慣れていない。

買い物をする喜びを、あまり分かっていないんだと思います。

「必要に迫られた」ときは買いに行く。
それ以外では「買い物に行きたい」という動機づけがなされません。

買い物という行為に対してポジティブな印象や良い気分の経験が伴っていれば
おそらくもっと買い物に行きたい気持ちが湧いていたことでしょう。

新しい物の価値を感じて欲しい気持ちが生まれていたかもしれません。


今の僕は大部分、「不便を回避する」という動機づけで買い物をしています。

一方、本や講座の参加費、学費など、勉強するためのほうは
「それが楽しいから」、「もっと〜できるように」という理由でお金を使っています。

物を買うときにも、その魅力に対して動機づけられるようになれば
もっと物欲が高まってくる可能性はありそうです。

本や勉強のほうには喜びを感じたことが多かった。
だから「もっと」という種類の動機づけでお金を使う。

身の回りの物については、買い物という行為に喜びを感じた経験が少ない。
だから「このままだと困ったことになるから、それを避けたい」という動機づけで
「〜にならないように」との思いからお金を使うことになる。

そんな違いがありそうです。

…ちなみに、物欲がないからといって貯金が溜まるわけでは決してありません。
むしろ勉強のほうにばかりお金を回しているだけのことなんでしょう。

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2017年02月24日

プレゼンと講演

最近、プレゼンのことを考える機会が増えています。

1つは今、英語でのプレゼンテーションの講座に出ているから。
もう1つの理由は、別のプレゼンの講座について
ちょっとした依頼を受けていることです。

自分でやってみても、人のを見てみても、
教えられている内容を考えてみても、
対比として実感するところがあります。

僕が普段、講座でやっているのはプレゼンテーションではない。

人前で話すこと全てを「プレゼンテーション」と呼ぶことはできそうですが
いわゆる一般的なプレゼンテーションの意義は、
講座や講演とは違うところにあるのかもしれません。

目的こそプレゼンター本人の趣旨によって変わるとしても
短い時間で何らかの主張をするのがプレゼンのような印象を受けます。

伝えたいこと、表現したいことがある。
それでこそのプレゼンだろう、と。


その点、講座や講演は内容が重視される傾向があります。

「教える」、「シェアする」、「知ってもらう」などのように
聞く側、受ける側が「理解する」、「分かる」ことが大きな意味を持ちます。

客観性のある情報が多く、役に立つかどうかが重視され、
話し手本人の想い・価値観は主目的ではないでしょう。

もちろん、講座や講演でも熱い想いが表れたり、
直接的に価値観が語られることもありますし、
その内容で講座や講演をやる以上、その内容を大事だと感じる度合いは
少なからず話し手本人の中で高いことが多いとは思われます。

それでも、講座や講演では内容が重視されることのほうが多いでしょう。
多くの場合、聞く側には必要性があって聞きにくるはずです。

仮にどれほど講演者のファンだったとしても、その講演内容が
聞き手にとって全く理解不能なジャンルのものだったりしたら、
講演を聞きに行く理由はかなり減ってしまうと思われます。

同じ講演者で聞き手にとって興味のある内容のときと
興味がない内容のときと2つあったとしたら
ほとんどの人は興味があるほうに参加するでしょう。
そこに内容の重要度が表れていると言えます。

内容が重視される分、時間は長めに設定されることが多く
5分や10分の講演や講座ということは滅多にありません。


一方、プレゼンテーションとなると時間が短めです。

そして「聴衆に対して影響を与える」という意図が含まれやすい。
ただ説明をするのではなく、少なくとも心を動かしてもらう。

説得や啓蒙のような意味合いがあるだろう、と。

聞いている人が理解できるだけではなく、
納得してもらい、今までとは違う考えや行動に導こうとする。

プレゼンターが大事だと思うことを拡げる意義があるように思えます。

内容が主観的な側面を持っていて、
プレゼンターの価値観や想いを強く反映しているはずです。

話し手の主観的な気持ちが強く出て、
聴衆に新しい考えや行動をもたらそうとするのがプレゼン。
話し手が客観的な情報を伝え、その内容を求める聴衆に対して
求められている情報を伝えるのが講座や講演。

そんな特徴がありそうです。

例えば、パソコンのソフトの新製品があったとして、
それに興味を持っていない人に説明をして魅力を伝え
「それは良い」、「欲しい」という気持ちを持ってもらうのはプレゼン。

同じ商品でも既に興味があって、それを使う事情がある。
ただ何ができるのか、どうやって使うのかを具体的には知らない。
だからそのソフトの使い方を教えてくれる説明を聞きに行く。
これだと講演や講座の分類でしょう。

Why を重視するのがプレゼンで、
What、How を重視するのが講座・講演ともいえるでしょうか。


実際には両方の側面が完全に分かれることは少なく、
プレゼンでも内容に興味があるほうが魅力的に感じられるでしょうし、
講座や講演でも話し手の想いに共鳴できるほうが感動が得られます。

重なり合う部分はあったとしても、
どちらの側面を重視するかによって趣旨が変わってくるという話です。

そして当然ですが、同じように人前で話すとしても
プレゼンと講座では方法が異なります。

僕個人のことでいえば、プレゼンのほうが講座よりもずっと緊張します。

プレゼンという形態をとっていたとしても
客観的な内容を説明する度合いが強いほうが話すのが気楽になります。

短時間で影響を及ぼすことを心がけるプレゼンのほうが
高い密度で多くの工夫を詰め込む必要も出てくるでしょう。

努力目標も高くなりますから、緊張しやすいんだと思います。

その点、講座では受講生のニーズに応える側面が重視されますし、
長い時間の中でいくらでも調整できる余裕もあります。

話が途切れることがあったとしても講座なら問題にならず、
プレゼンだと問題になることだってあるかもしれません。

趣旨の違いがあるわけです。

そういう意味でいうと、僕が普段やっているのは講座であって
プレゼンではないように思えます。

とりわけ最近は、伝えたいことや想いなどもなくなってきていますから
プレゼンの側面はほとんど無い気がします。

裏を返すと、英語でプレゼンをやったときに緊張したとしても
英語で講座をやればもっと気楽にできる可能性があるということ。

まぁ、日本語ならプレゼンのほうも多少は頑張れるとは思いますから
英語でも同じようなプレゼンのレベルに近づけるよう努力しておけば、
どんな形でも気軽にできるようになるでしょうけれど。

cozyharada at 23:39|Permalinkclip!

2017年02月20日

問題意識〜心の癖に気づけるか〜

人には無数の心の癖があります。

パターン化された行動や感情、考え方など
自動的に起こるものは心の癖といっていいでしょうが、
特にワンパターンで他の選択肢がない状態は
「癖が強い」、「パターンが強固」、「柔軟性がない」といえそうです。

しかしほとんどの心の癖は、それがワンパターンであったとしても
それほど大きな”問題”になりません。

全ての人が心の癖をもっていますし
その癖の間で相性の良し悪しは生まれますが、
大部分は「よくある範囲」の結果に終わります。

ここでいう結果は、そこで起こるコミュニケーションそのものとか
その後の人間関係とか、相手との関わりから生じる利益だとか、
あらゆるものを含んでいます。

とにかく自分が外的な刺激に対して反応した結果のことです。

で、この結果に対して「望ましい/望ましくない」の評価がなされます。
単純に「好き/嫌い」の話です。

「望ましい/望ましくない」の評価は、基本的に経験がベースです。
慣れの問題。

慣れ親しんだものを快適に感じて「望ましい」とすることもあれば、
慣れていないだけの理由で不安を感じて「望ましくない」とすることもある。

特別なケースでだけ味わえる報酬と似た出来事であれば
喜びの記憶が引き出されて「望ましい」と評価されますし、
ストレスになるような出来事でも頻繁に経験して慣れてしまえば
そこが「よくある範囲」になりますから、「望ましくない」とは評価されません。

ここで、「快適」だとか「不安」とか「喜び」とか「ストレス」とか、
評価の基準となっているものが感情になっているのがポイントでしょう。

自分が何かをしたときの結果として起きる出来事に対して感情が起きる。
それがポジティブな種類の感情なら「望ましい」、
ネガティブな種類の感情なら「望ましくない」という評価になる、と。

実際には、自分の中に起きている感情に対して
さらに次の感情が生まれる場合があります。

例えば、すぐに落ち込んでしまう自分に腹が立つ、とか。
落ち込みの反応に対する評価の結果、次の感情が生まれるケースです。

逆にネガティブな感情が起きているのに、
それをネガティブに評価しない場合もあります。
ストレスに慣れてしまうようなケースはこれです。

つまり、
”垈な気持ちになることに対して不快になる場合、
不快な気持ちが生まれても、そのことに慣れていて
 不快なことについての不快感は抱かない場合、
ただ不快な気持ちが起こって、すぐに忘れてしまう場合、
がある、と。


いわゆる”問題”として認識されるのは,離院璽垢任后
ポイントはパターン化されているかどうか。

,痢嵒垈なことに不快になる」は、
自分の感情のパターンに対して不快感を抱くケース
(例:つい怒って怒鳴ってしまう自分が嫌いだ)、
自分に嫌な気持ちが起きる環境や人間関係に対して不快感を抱くケース
(例:いつも虚しい気分になる職場が嫌だ)、
の両方を含みます。

自分のパターンが問題となる場合、
環境や人間関係が問題となる場合。

いずれにしても不快な感情が繰り返されていることに注目してください。

繰り返される不快感をパターンとして捉えた結果、
その状態について不快な気分が生まれ、問題意識を持つわけです。

一方、△痢嵒垈な気持ちに慣れている」場合は、
繰り返される不快感があっても、
そのパターンに不快感を持っていません。

例えば、常にイライラしている(自分の感情のパターン)とか
ウンザリする職場の人間関係がある(環境や人間関係)とか、
日頃から不快な感情が繰り返し起きているわけです。

それでも、その不快な感情のパターンを「当たり前」の範囲に設定してしまうと
そのパターンについて不快感を持つことはなくなります。

慣れてしまうわけです。
我慢しているという意識もなく、「そんなものだ」と受け入れてしまう。

望ましい状態を期待して、それが期待外れになればネガティブな感情が起きますが、
そもそも望ましい状態を期待せず、不快感が沸く状態を「当然」と認識するため
期待外れから生まれるネガティブな感情がないんです。

だから嫌なことは起きているし、嫌な気持ちは繰り返し味わっているけれど、
そのことを大きな問題だとは思わない。
耐えられてしまうケースです。

それに対しては、繰り返しのパターンが認識されていないのが特徴です。

ネガティブな感情が起きる。
けれどもすぐに忘れる。

「嫌なことがあった」という出来事としては思い出せても、
そこに自分の感情のパターンを見つけたり、
繰り返しネガティブな感情を起こさせる環境や人間関係を特定してはいません。

例としては、電車の中で足を踏まれて腹が立つようなものです。
嫌な出来事だったし、感情も動きます。
けれどすぐに忘れる。

一回限りの出来事でパターンにはなっていないわけです。

これが例えば、「いつもイライラしてしまう自分が情けない」となれば
,砲ける感情のパターンへの問題意識となりますし、
「こんなに頻繁にイライラさせられる通勤電車は間違っている、ムカつく!」
となれば、,砲ける環境・人間関係への問題意識となります。

そして「いつもイライラするけれど、そんなものだ」とか
「いつも通勤電車にはイライラさせられるけれど、日本なんてそんなものだ」
などと認識されると、△良垈感に慣れた状態となります。

はネガティブな感情が繰り返し起きるというパターン認識がなく、
そのときにネガティブな感情になってもすぐに忘れる。
だから問題意識はない。

,魯優ティブな感情が繰り返されるパターン認識から、
そのパターンに対してのネガティブな感情が生まれて問題意識を持つ。

△魯優ティブな感情が繰り返されるパターン認識はあるけれど、
そのパターンに対してはネガティブな感情が生まれず、問題意識もない。

そういう違いです。


いわゆる「問題」は、,
 ネガティブな感情が繰り返し起きるパターンに対して
 さらにネガティブな感情を抱く
ときに自覚されるようです。

逆に言うと、そのパターンが嫌だから何とかしたいと思う、と。

心の癖として見ると、
まずネガティブな感情が沸くパターンそのものが挙げられます。
この癖を修正すれば、そもそも不快な感情が起きなくなるでしょう。
(,隆蕎陲離僖拭璽鵑悗量簑螳媼院

それからネガティブな感情が起きる前に、時間的な順番として
何かしらのキッカケとなる出来事が起こっているはずです。

この出来事を未然に防ぐようなコミュニケーションができれば、
ネガティブな感情が沸く心の癖はそのまま残るけれど
そのネガティブな感情が起きる原因はなくなります。
(,隆超・人間関係への問題意識)

ちなみにこの場合、修正するのはコミュニケーションの仕方としての
心の癖だということになります。
感情レベルの癖ではなく、行動やコミュニケーション技術として
心の癖を修正するという話です。

また、ネガティブな感情が繰り返し起きるパターンについての認識も
1つの心の癖です。

△里茲Δ法崚たり前」、「こんなもの」と考えるようにすれば
ネガティブなパターンに対して更にネガティブな感情が起きることはなくなります。

あるいはネガティブなパターンが起きることを、
もっと肯定的に捉え直しても良いでしょう。
「これは学びのチャンスだ」とか、「嫌なことがあれば、他で良いことがある」とか、
様々な考え方で、ネガティブなパターンに対処している人がいます。

,杷Ъ韻気譴詭簑蠅梁仆茲箸靴董⊃瓦諒覆鮟だ気垢詈法は色々あるわけです。


いずれにしても心の癖を修正すれば問題意識がなくなります。

大部分の人は、そうやって問題意識を元に物事へ取り組みます。
そして問題意識がなくなれば、あまり気にせずに普段の生活を送る。

しかし問題意識がないことと、心の癖がないこととは違います。

環境が変われば、今までは問題になっていなかった心の癖が
急にネガティブなパターンを生み出して問題になることもある。

まぁ、その都度、問題意識を元に心の癖を修正していけば
自然とスムーズな方向に進むかもしれません。

ただし問題意識を指標にしていると、
将来に厄介なことに繋がるかもしれない心の癖を
自覚できない場合もあります。

△離優ティブなパターンに慣れているケースは、その典型です。

人は慣れてしまうんです。

慣れてしまうと、慣れていることにさえ気づかなくなる。

問題意識がなくなってきた後には、
繰り返されるパターンに対するネガティブな感情が減ります。

「このパターンが問題だ」という認識がなくなるわけです。

すると自分のパターンを自覚するキッカケが減ります。

その後は、自ら「どんなパターン、心の癖があるだろう」と振り返り、
その癖を修正する段階が来るのかもしれません。

別にそんな面倒臭いことをしなくても生きていけますし、
問題意識がないのであれば幸せな状態だとは言えるでしょう。

事前に対処するか、問題が起きてから対処するかの違いだけでしょうか。

あまり気にしなくても良いところとも言えそうですが
1つ僕が気づいているのは、
 そういうパターン・心の癖を自ら発見して修正することを事前にしておくと
 人生の展開がスムーズになる場合が多い
ということです。

知らないうちに自分を制限していた何かが取り払われて
チャンスが上手く機能しやすくなるようなイメージ。

根拠はありませんが、そういう側面もあるような気がします。

cozyharada at 23:21|Permalinkclip!

2017年02月17日

Sweet Fruit from the Bitter Tree

異文化間マネジメントとかNGOマネジメント、
国際問題をテーマにしたような人たちと関わる内容の1つに
「 Conflict Resolution 」というのがあるそうです。

日本語にすると「問題解決」とか「紛争解決」などと訳されるみたいです。

「問題解決」というと「 Problem Solving 」と同じになってしまいますから
「紛争解決」のほうが良さそうでもありますが、
必ずしも「紛争」と呼ばれるほど強烈ではないものも対象になりますし、
個人間の対立なんかもテーマになりうるようです。

上手い言葉が見つからないものの、なんとなくのイメージとしては
もめ事、ぶつかり合い、対立関係を仲裁して、
平和的な結論に導くようなものといえるかもしれません。

コミュニケーションや人の気持ちに関する内容ですから
心理学とも関係してくるようで、心理学の雑誌なんかでも扱われたり、
さまざまな理論が提案されていたりもします。


で、最近買った本が、この「 Conflict Resolution 」に関してのものなんです。

といっても理論的なものではなく、
 人間関係のトラブル、特に命の危険が迫るような状況において
 どうやって平和的解決へと導かれたか、
についてのエピソードが集まったもの。

理論をもとに解説することもできたはずですが
あえてエピソードだけを紹介して、読み手に解釈をゆだねる形になっています。

ある程度有名な人の逸話を引用していることもありますし、
著者の身近な人のエピソードをインタビューしたものも含まれています。




著者はマーク・アンドレアス。

NLPの開発において大きな役割を果たしてきた
スティーブ・アンドレアス、コニリー・アンドレアス夫妻の息子です。

前書きによると、卒論を書き終えて時間ができたときに
こういう逸話を集めてみようと考えて取り組み始めたのだとか。

まぁ、出版元のReal People Press はスティーブの会社ですから
書き上がりさえすれば形にするのは大変ではなかったのでしょう。

とはいえ、集められているエピソードは良い話が多く、
こういったストーリーを見つけてこられる感受性が養われたのも
NLPに触れながら育ってきた背景が関係しているのかもしれません。


良い話のネタ本としても役に立ちそうな気がします。

cozyharada at 23:58|Permalinkclip!

2017年02月14日

久しぶりの緊張

英語でのプレゼンの講座も3回が終わりました。

初回は欠席しているので4週目が終わったところです。
残りは6回。

内容は以前にも書きましたが決して充実したものとはいえません。
それでも場数を積むための練習ができるのはありがたいです。

講師の狙いがイマイチ掴めないですし、
貴重なチャンスなのに勿体ない時間の使い方になっているのも気になるので
講座に参加している時間には残念なときが結構あるのが正直なところ。

だからこそ、その2時間の中で自分が話す10分間は余計に貴重と感じられ、
集中して取り組むことができる印象があります。

一回当たりの実りは大きそうです。


そして、明らかに自分の中に「上手くやろう」という気持ちがあるのも分かります。

話している最中も「自分が想定通りにできているか」に注意が向いていて
聴衆の立場を考えたものにはなっていません。

まぁ、自分の想いを表現する場ではありませんから
熱く語るようなタイプのプレゼンでもないですし、
講演会や講座ではないので聞く側に配慮するものでもありません。

その意味では普段のセミナーとは全くスタンスが違います。
セミナーでは受講生にばかり関心が向いて
上手くやろうという想いも、事前の想定もほとんどない。

母国語ではないから余計に準備をすること、
母国語ではないから実践練習として挑戦したいこと、
限られた時間で練習課題が含まれていること、
決められたテーマに沿って主張を組み立てる必要があること。

…このあたりが組み合わさると、話し始める前から
「こういう内容で、こんな感じで…」という構成が頭の中に設定されます。

事前に自分の中で基準が作られてしまうわけです。
達成目標が決まる。

だから「上手くいくかどうか」が気になるというメカニズムでしょう。

その結果、緊張します。

こんなに緊張するのは久しぶりです。

緊張するには
・「上手くやろう」という気持ちがある
・上手くいっているかどうかの評価基準がある
・自分に注意が向いている
あたりが条件として必要になるようです。

人前で話すといっても目的は様々ですから、
今回のように自分のためだけの練習の場という意識は
余計に聴衆への関心を下げ、緊張の度合いを上げるのかもしれません。

緊張するほどの場面が日常で多くない僕としては
こういう時間を経験できるのもなかなか良いものだと感じています。

ちなみに質疑応答の時間は、僕の場合、一気に緊張がなくなります。

質問に応える際は、
・自分が上手くできるかではなく、相手に分かってもらえるかが重要になる
・上手い返答の評価基準はない(分かってもらえるよう工夫する)
・自分ではなく質問者のほうに注意が向いている
という状態に変わるからでしょう。

その意味では何かを教えるとなると
相手の立場に立てるようになりますから緊張しなくなると想像されます。


それにしても久しぶりにこういうトレーニングをすると、なかなか楽しいです。

難しいことに挑戦する楽しさ、
何か新しいことをやっている楽しさ、
できなかったものを出来るようにしていっている楽しさ、
緊張するほど自分のために一生懸命になっている楽しさ…。

色々な楽しさがミックスされている感じがします。

今まで自分がやってきたことを英語でもできるようにしてみようかと思い始めました。

久しく味わっていなかった楽しさがあって貴重な時間です。
まぁ、自分がプレゼンをする時間と、その直前の緊張の間だけですが。

まずは、もっと慣れる機会を増やしたいものです。

cozyharada at 23:12|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

近日公表

《コミュニケーション講座》
〜言語表現力トレーニング〜


【日時】 2017年6月25日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


概要はこちら>>
次回開催は8月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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  技術向上、
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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