NLP

2017年10月06日

I'm sorry.の意味

「 I'm sorry.」というと
日本語の「ごめんなさい」の意味で理解されるケースが多いようです。

日本の受験英語では「ごめんなさい」だけでも
十分なのかもしれません。

一方、実際の英語での会話においては
「お気の毒に」といった意味でも使われます。

自分が相手に何か悪いことをして
「申し訳ない」という気持ちになって
「 I'm sorry.」というのだけが全てではない、と。

誰かが不運や災難、残念な出来事に遭遇した。
「実は、かくかくしかじかでさ。本当にもう…。」
なんていう話を聞いたとき、
その相手の気持ちを汲んで「それは気の毒に…」という趣旨で
「 I'm sorry.」と口に出すこともあるんです。

頻度的には「ゴメン」の意味のほうが多そうですが、
「お気の毒に」の意味で使われることも結構ある印象を受けます。

海外ドラマや洋画なんかだとトラブルや事件を描くことが多いためか
自然と「お気の毒に」の意味の「 I'm sorry.」も多くなる気がします。


実際にこの「 sorry 」という形容詞の語源を調べてみると
「(ヒリヒリ)痛い、心が痛い」の意味の「 sore 」と
同じルーツだという話が見つかります。

ということで「 I'm sorry.」を「心が痛みます」と捉えると
「お気の毒に」の意味でも「申し訳ない」の意味でも
どちらも心を痛めている状態を説明していることになって
共通点が見てくるんじゃないでしょうか。

その意味でいうと「悪いことをした」と思って謝る場面で
「 I'm sorry.」と言うのは、元々
「自分のしたことで、あなたに嫌な思いをさせて私は心が痛みます。」
といった意味合いだったと考えることができそうです。

もちろん、ほとんどのネイティブなそんなことを考えて
「 I'm sorry.」と口に出しているわけではないでしょう。

挨拶に近い定型のフレーズにもなれば、幼少期に
 こういう場面では、このように言う
というパターンだけを学習して
意味を考えることもないまま使い続けているのが一般的です。

日本人だって「こんにちは」と挨拶をするとき
その意味を考えて、気持ちを込めているわけではありませんから。

「《おや、2日ぶりですね。
  見ない間にお体に変わりがないか気にしていました。
  いつもあなたが健やかでいてくれるよう祈っていたんですよ。それで》
   今日は(こんにちは)
 《ご機嫌いかがですか?》」
…なんて気持ちで「こんにちは」と言う人は滅多にいないはずです。

ただ顔を合わせたときに決まり事として「こんにちは」と言う。

同じように、相手へ申し訳ないことをしたときに
日本人だったら「ごめんなさい」と言い、
英語ネイティブだったら「 I'm sorry.」と言うだけのことだと思います。


それどころか、場面ごとの対応パターンとして学習されただけの
「ごめんなさい」、「 I'm sorry.」は、
そこに込められる気持ちにも個人差があるのが実情です。

何かをしたときに親に怒られた。
どうやら悪いことをしたらしい。
こういうときには「ごめんなさい( I'm sorry.)」って言うんだったな。
…そんなパターン化された対応として学習されます。

親によっては叱るときに怒りとともに
見捨てるようなメッセージを出す場合があります。
そうなると子供は「見捨てないで!許して!」という悲痛な叫びを込めて
「ごめんなさいー」と言うようになる。

あるいは、怒られたときに「あーあ、やっちゃった…。どうしよう…。」
という落ち込んだ状態を示しながら「ごめんなさい」を言ったときに、
親が「そんなに反省してるんなら、もういいよ、次は気をつけなさい」
といった具合いに態度を変えてくれたりすると、
落ち込みを表現するための「ごめんなさい」が定着します。

謝っても謝っても許してくれないときには、
次第に怒りの感情が混ざり込んできて
「こんなに謝っているのに、なんで許してくれないんだ!ヒドイ!」
といった攻撃性を込めながらの「ごめんなさい」を学習するようです。

問題解決志向が強い環境だったとしたら
「ごめんなさい」の意味は、「二度とないように気をつけます」という
反省のメッセージで使われるようになるかもしれません。


「ごめんなさい( I'm sorry.)」の実態が
相手から許してもらうための懇願なのか、
落ち込みや後悔の表現なのか、
自分を怒りつける相手への攻撃なのか、
改善の意思表明なのか、
いろいろなパターンが学習によって人それぞれ身につきますが、全てが
「 sorry 」の元の意味のように心を痛めているわけではありません。

許してもらいたい「ごめんなさい」においては
見捨てられるかもしれない恐れに心を痛めているとはいえます。

落ち込みや後悔も、自分の愚かさを責めたり嘆いたりする形で
自分の心を痛めているとはいえるでしょう。

相手への攻撃は、傷ついた自分を守るための反発という意味で
心を痛めたことが出発点だったとはいえそうです。

改善の意思表明は、視点が未来に向いていますから
心を痛めている度合いは、さほど感じられないかもしれません。

ここに挙げた例では、心を痛めていたとしても
『自分のために』心が苦しいことに注目してください。
『相手のために』心を痛めているわけではないんです。


「お気の毒に」の意味での「 I'm sorry.」は
相手のために自分の心を痛めているケースです。

自分とは関係のない相手。
でも相手の苦しみへの共感から生まれる心の痛みがあります。
相手に対する同情・思いやりが生まれています。

そして本質的には、「ごめんなさい」の「 I'm sorry.」でも、
自分が悪いことをしてしまった相手に対して
その相手が感じている苦しみを思いやれたとき
相手のために心を痛める状態が生じてきます。

自分が許してもらいたいわけでもなく、
自分が後悔や落ち込みを感じているわけでもなく、
傷ついた自分を守るために反発するのでもありません。

自分が悪いことをしたのは分かっている。
けれどその自分の行動以上に、相手に関心があるんです。
苦しんでいる相手を知り、その苦しみの強さを実感し、
「そんなに辛い気持ちだったなんて…」と苦しみに共感して
「お気の毒に…」「かわいそうに…」といった同情・思いやりが湧く。

そうして相手のために自分の心を痛めながら
「ごめんなさい( I'm sorry.)」が言えると、
実際のところ、関係性は大きく変わるようです。

なぜなら相手は、本人に関心があるからです。
謝ってくるほうの人への関心は低い。

謝る側が自分に関心を向け、自分のことで心を痛めていたとしても、
謝ってもらう側としては「そんなの、そっちの都合でしょ!」
といった気持ちになりかねません。

謝ってもらう側は「どれだけ嫌な思いをしたか」を分かってもらいたい。
苦しみに共感してもらいたいわけです。

謝る側が勝手に反省しているのを見るよりも、
苦しみに共感してもらいたい度合いのほうが強いのでしょう。
共感してもらうことで今の苦しみを解消したいから。

本気で相手の苦しみを思いやれたときに生まれる
「お気の毒に…」の気持ちの「ごめんなさい( I'm sorry.)」には、
そういう苦しみへの共感が含まれているんです。

後悔とか落ち込みとか許しの懇願とか反省とかよりも
相手の苦しみに対する思いやりが前面に表れる。
そのときの「ごめんなさい( I'm sorry.)」は届きます。

込み入った人間関係のトラブルを乗り越えてきた人たちの話を聞くと
関わる相手の苦しみをヒシヒシと実感できたときに初めて
本気で相手に関心を向けられた、というのが大きいようです。

元々の意味での「 I'm sorry.」に戻れるかどうか。
そのタイミングは大きな転換点になるかもしれません。

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2017年10月03日

書道疲労

今年も書道の作品制作シーズンが始まりました。

今回は例年と違って横長。

横長といっても文字を各順番は縦なんですが、
紙面を横に長く使って
縦方向の文字数よりも横方向の文字数が多くなる配置です。

内容的にもチョットだけチャレンジングなことをしてみるつもり。


しかし予想外にチャレンジングだったのは姿勢のほうでした。

部屋の広さの都合で、紙を横長に使おうとすると
中腰というか、しゃがんだ状態が増えてしまいます。

縦長に書いていたときは片膝をついて下半身を固定できたのに
横長に紙を置くと、自分が移動していく方向が90度変わります。
(紙を置く場所は同じなんです)

部屋の中に間仕切りみたいのがあって、
縦書きの時には関係してこないその間仕切りが
横長に紙を置いて移動していくと間仕切りにぶつかりそうになる。

部屋のスペース自体が縦長なので
縦方向に書いていく分には身体が移動する空間も多いのに対して、
横長に使おうとすると短い横方向に自分が移動することになって
窮屈になってしまう、というわけです。

空間のイメージはしにくいかと思いますが、
とにかく狭いところで書いている感じになるため
中腰とか、しゃがんだだけの状態とか、
姿勢にも無理がかかってしまうんです。


片手をついて体重を支えたりする場合もあるせいか
例年よりも体への負担が大きいように感じられます。

特に、しゃがみ姿勢が多いことで起こる
股関節まわりの筋肉痛が少し大変。

前かがみをキープするのは相変わらずで、
そちらで肩や背中が固まるのもあります。

が、肩と背中の強張りはジムに行って運動したり
ストレッチしたりすると比較的ほぐれやすいんです。

片手をついている負荷も、こっちのほうが残りがちながら
まあ、動かせば楽にはなります。

それと比べると、股関節の負荷は厄介。
単純に筋肉疲労があるんでしょう。

動かして楽になる種類のものではなさそうです。

むしろ、しゃがみ姿勢で筋肉痛が出るぐらいなので
それ自体がトレーニングみたいになっている気もします。


ジムに行って体を動かすようになっても
使っている筋肉は限定されているんだなぁと実感します。

普段使っていない部分がバレてしまいます。

かといって股関節周りを鍛えるほど
トレーニングを重視したいわけでもないので、
かかった負荷を上手く軽減できれば良いなぁと思っているところ。

せめて腰に負担が出ないよう、
ストレッチぐらいはしておくつもりです。

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2017年09月26日

初心に帰る

ある程度、似たような種類の意味を感じる出来事が重なると
「そういう時期か」と思いたくなるようです。

それが本当に「時期」なのか分かりませんが
1つのことについて考えさせられます。


僕の場合、ここ最近は
 初心を思い返させられる
出来事が続きました。


ここ数年セミナーの仕事で通い続けていた会場が
大規模改装のために使えないことになり、
水道橋にある別の施設へ行きました。

この水道橋の会場、
僕が受講生としてNLPをやっていたときにも使ったことがあり、
トレーナーとして活動し始めて最初の頃にもよく行ったところ。

水道橋といっても東京ドーム近辺にあるので
僕は後楽園から通っていたんです。

先日も東京メトロの後楽園駅から歩きました。
頻繁に通っていたころと同じように。

景色の変化は色々ありましたが、しみじみと
「ここが馴染みの場所だったなぁ」と実感しました。

昼食には、同じく何度も足を運んだカレー屋に。

こんなに辛かったかは記憶にありませんが
味や店の雰囲気から連想されて、多くのことを思い出しました。


また、ついこの間は、オーウェン・フィッツパトリックという
アイルランド人のNLPトレーナーが来日していた兼ね合いで
入門セミナーをやっていたため、それにも参加してみました。

NLPの入門セミナーですから内容に新しさはありませんでしたが
オーウェンのセミナーに出るのが10年ぶりぐらいだったんです。

まだ僕が会社員だったころが最初の参加じゃなかったかと思います。
NLPをやり始めて直後ぐらい。
そのときがオーウェンの初来日でもあったようです。

同じく、当時の記憶がたくさん蘇ってきました。
どんな気持ちがあったのか。
何が楽しかったのか。
何を求めていたのか。
何に心を打たれていたのか。

それを今も大事にする必要があるとは感じていませんが、
当時は「自分の道を進み始めよう」としていたのを思い出します。

それまで何も考えず学校の勉強をして、大人の言うことを聞き、
それなりに楽しみを感じられる分野の勉強を重ね、
教授に教授に勧められるままに研究職になり…と、
あまり自分で物事を決めていた実感がなかったんです。

NLPやコミュニケーションを勉強し始めたころ
ようやく自分が自主的に楽しめることを見つけた気がしていました。

その「自分の道」みたいなものに一歩を踏み出した時期。
そんな初心を思い出します。


おまけに今期、大学の公開講座でビジネス英語のコースを取ったら
そこで使う教材が、過去に使ったことのあるものでした。

僕がずっと避けてきていた英語。
あるとき必要性が出てきて集中的なトレーニングを始めました。

2010年の春頃から取り組み始め、
初夏からスピーキング対策として英会話スクールに通ったんです。
ベルリッツでした。

そこで使っていたテキストと同じものを
今、再び使うことになったんです。

とはいえ当時は第二版だったのが、第三版に変わっていましたから
新しく買い直す必要があったんですが。

それでも、そのテキストを使って
英語と向き合い始めた時期のことは思い出されます。

これまた僕にとって初心がありました。


惰性にならず気持ちを新たに真剣に向き合う。
初心を思い出すと、そんな気分になれるみたいです。

懐かしさ以上に、身の引き締まる思いがありました。

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2017年09月23日

発音矯正

先日、イギリス英語発音のトレーニングを受けてきました。
今回は幸運にもマンツーマン指導。

本来はフォローアップ講座という形で複数の予定だったようですが
参加人数が少なかったため丁寧に指導してもらえたんです。

フォローアップですから新しいことをやるわけではありません。
同じ文章を音読するだけ。

その文章にしたって以前の講座内で練習したものなので
単に復習と言ってしまえばそれだけともいえそうです。

しかしながら実態は、同じ文章で練習をしても
細かな癖を指摘してもらいながら繰り返しトレーニングすると
全く自覚できていなかった課題が見つかってきました。

時間は短めの設定であっても濃密な指導の分、
得られるものは多かったように感じます。


それにしても多くの人にとって、復習や繰り返しの練習は
面白いものとして映らないんでしょうか。

一年前ぐらいにあった同様のフォローアップ講座には
もっと人数がいましたから、今回もある程度の数を想像していました。

時期的なもので予定が合わない人も当然いたとは思います。

一方で、情報が欲しい人がいるのも実感します。
新しい知識が手に入るのが楽しい感じ。

確かにその側面も楽しいものですが、
頭で知っていることと、できることとは大きく違います。

知識レベルで知っているつもりのことでも
意外とできていないことは多いようです。

そのあたりは、繰り返しのトレーニングと
違いを指摘できる人に見てもらいながら練習するのとで
少しずつできるようにしていく部分ではないでしょうか。

とりわけ定着してしまっている癖を修正するのは大変です。

大人になってからの学習は、完全にゼロからのスタートではありません。
常に何か似たようなケースで使っていたものを流用しながら
効率的に実行してしまいやすいんです。


例えば僕の場合、いまだに残っている癖として
「n」の発音が挙げられます。

特に「pen」のような「ん」の音になると
つい日本語の「ん」の音のように鼻母音が混ざりがちです。

フランス語は逆にハッキリした鼻母音にするルールですから
舌先をあえて上顎につけないようにします。

ナ行の成分は少なく、鼻にかかった母音を出すだけなので
日本語の「ん」の音を出すときみたいに口を小さくする必要はないんです。

日本語で「あん」というと「あ」の後に顎が動いて
口が小さくなるのを感じられると思いますが、
フランス語の「ア(ン)」では顎の動きが起こらず
「ア」の後に声を鼻に響かせる感じで鼻母音になります。

英語の「ん」は厳密には「ん」ではなく、
「ぬ」のときの舌先の位置で発音されます。
「ペン」じゃなくて、「ペンヌ」のほうが近い感じ。

つまり日本語の「ん」は英語とフランス語のミックスのような感じだ、と。

でも僕は日本語が母国語で、それに慣れ過ぎているので
つい英語でもフランス語でも、日本語の「ん」で代用してしまう。

それはよほど気をつけないと修正できません。

外国語を話そうとすると、どうしても内容に注意が向きますから
発音のほうに気を配れる度合いが少なくなってしまうんでしょう。

手を抜いているつもりはないけれど
目先に今まで自分が重視してきたものがあると、
本来は気をつけるべきポイントが抜けてしまうわけです。

「に」も同様です。
日本語の「に」と英語の「ni(ヌィ)」は違う音です。

でもやはり気をつけないと日本語の舌の位置で言ってしまう。


こうした癖は一度指摘されただけだと
戻ってしまうことが多いようです。

決して自然とできているわけではなく、
目先のこと(話の内容)に注意が集まっていくうちに
別の大事な部分、とりわけ自分の癖から注意が外れてしまう、と。

そんなに細かいことを気にしなくても良いという考えもあるようですが
トレーニングに終わりはありません。

コツコツと続けていく。

その過程では、時折、チェックも必要になるのを痛感します。
反省することが沢山です。

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2017年09月20日

居心地のいい場所

端的に言うと、社会は居心地が良くないんです、
全ての人にとって。

度合いの差こそあれ、
他者と接すれば合わない部分があったり、
自分が学習してきたこととの違いから戸惑ったり、
自分の期待した通りに他者が行動しないことで不快になったり…、
何かしら不満を感じるところがあるはずです。


権威や財力がある場合には
他人に自分の思い通りの形で動いてもらいやすくなりますから、
そういう人たちには不満が少ないように見えるかもしれません。

が、心のどこかでは「思い通りに動いてくれるのは力のおかげだ」
ということを知っています。
自分に対する好意や思いやり、愛情といった
心の繋がりから生まれているものではないと気づいている。

そのため本当に打ち解けられる相手がいない孤独感を抱えがちになる。
こういうのは経営者などに多く見受けられる特徴です。


社交的で友達が多く、誰とでも仲良くなって
いつも外で楽しく遊んでいるように見える人たちもいますが、
その楽しさだって決して100%満足できるものではないようです。

何をしても許されるわけではなく、ある程度の暗黙のルールに沿って
輪の中に入れてもらうための努力は必要になります。
言いたいことを言えないケースもあるかもしれないし、逆に
言いたくないことを言わなくてはいけないケースもあるかもしれない。

共通点や親近感、同じ喜びを共有できるグループに所属することで
自分の居場所を感じようとするのでしょう。

こういった場合にありがちなのが、一人に戻ったときの寂しさです。
家に帰ってきてから無性に寂しくなったりする。
さっきまでの楽しさとの対比のように虚しさに襲われる。

人によっては繋がりを維持しようとしてSNSやメールで
交流を続けようとするかもしれません。

僕にも同じような思い出があります。

地方の工場併設の研究所で勤務していたとき、
さまざまなストレスや労働環境への不満がある中で
それに耐えながら頑張っていました。

中には同じような不満を感じる同僚がいて、
親近感と苦しさの共有で繋がりを感じられていたんだと思います。

その同僚たちと休日に少し離れた都会に遊びに行ったりすると
そのときは楽しかったんですが、決まって自室に戻ってから
猛烈な寂しさと虚しさに襲われていました。

今思うと、そもそも居場所がないように感じていたんでしょう。
職場にいても寮にいても落ち着かない。
一人の部屋だからといって、そこがホームなわけではない。

仲の良い同僚との繋がりは支えではあったけれど、
それはあくまで居場所のない孤独を埋め合わせる喜びであって
その関係を本質的な居場所だと思えていたわけではない。

「ここにいたくない」という思いから
どこか別のところへ逃げるように同僚との時間を過ごす…。
その時間が終われば、居場所のなさに引き戻される、と。

そんなプロセスが内面で起こっていたようです。

近い間柄のはずの家族の中で居場所を感じられないとか
一番長い時間を過ごすはずの職場で居場所を感じられないとかは、
相当な孤独感があって苦しいものでしょう。


こうした孤独感から離れるために居場所を求めるのは
多くの人に見受けられる行動です。

権威や財力などの力で思い通りになる環境に身を置くのも、
共通点や同じ思いを共有できる仲間の中に身を置くのも、
居場所づくりのための行動の1つといえそうです。

ですが、
 そこが本当の意味で居場所になっているかどうか
の違いは大きいようです。

本当の居場所には、なんとなくの安心感があります。
リラックスしたり、体が緩んだりします。

たくさん笑えるかは問題ではありません。
一緒にいることが心地いい感じ。

ペットと一緒にいるときに似ているかもしれません。

大きな特徴は、
 その安らいだ感じが、ある程度持続する
ことです。

そこを離れると無性に寂しくなったり虚しくなったりする…
ということが起きないんです。

むしろ、その安心感や居心地の良さを内面に保ったまま、
家庭や職場などの”いつも場所”に帰っていくことができる。

その居心地の良さを持ったまま接することができるため、
普段よりも少し楽に過ごすことができる。

そうしていくうちに、その”いつもの場所”にも
同じような居心地の良さが生まれてくれば望ましいでしょうが、
そこまで行かないとしても、居心地の良さを持って帰れるんです。

そういう居場所があると人は楽になります。

おそらく、そうした居場所の感じを可能にするのは、その場所に
「他人のために、そこへいてくれる」人がいることでしょう。

自分のために存在しようとするのが一般的です。
誰と接しても自分のための要素が含まれるのが標準です。

そうではなく、少なくともその時間は
同じ場所にいる別の誰かのためにそこにいる。

そういう人がいるところは、居心地が良いようです。

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2017年09月18日

プログラムとしての理解

最近、いろいろな形で頼まれごとが続きました。

もちろん僕に頼んでくる人は、僕のやっていることを知って
そこをベースに尋ねるようなので、
仮にも体力的な面(例えば、引越しの手伝いとか)ではなく
人の内面に関わるような話が自然と中心になります。

そこで改めて気づくのは、僕の発想の基盤にはNLPがあるということ。

つまり、人が何を学習しているのか、
どういう体験によって学習された結果、
どのような認知の仕方をするようになり、
どんな反応の癖が身についているのか、
そして、それはどれぐらい変えやすいものなのか、
どういうことによって変えていけるのか
…などを考えるようなんです。

人に起きていることの全てが学習されたプログラムだとは言えず
僕の扱う範囲の中にはプログラムとは違うものも含まれますが、
人が日常的に体験している問題の大部分は
プログラムの発想を踏まえた上のような問いで説明できそうです。


それに対して心理学的な研究成果の中には
人のやっていることを傾向として分類したものがあって、
例えば「ストレスがかかったときに、どう反応するか?」などは
その反応の仕方(どんな反応が表れるか)に注目した分類であって、
「どのタイミングで起こるか?」は分類の要件に入っていません。

つまり、
「ストレスがかかってから、何が起きて、そのあとでどうなって
 どんな時期が続く結果として、どういう反応をするようになるのか」
など、長い時間の中で起きることを、時間枠の区別なく
一様に「どんな反応が出るか」だけを基準に分類したりするわけです。

それで役に立つし、それに応じた対処も考えられるので
「どのタイミングで」というのは重要視しないんでしょう。

しかしNLPとしては、そうしたストレス反応を生み出す”しくみ”をもとに
本人の中で何が起きているかを考えようとします。

なぜなら、反応を生み出す”しくみ”の中の
どの過程で問題が起きているのかによって
対処の仕方が異なるからです。

例えば、身の危険が迫るような大きなストレスがかかったときには
身体は動物的な防衛の反応を始めることが知られています。
これは学習されたものではないので、どうにかする対象ではありません。

むしろ動物的な防衛反応が出た後に、どうやって
人間らしい社会生活に戻っていくかのほうが大事になる。
タイミングとしては「防衛反応の出た後」にアプローチをする、と。

ところが、ストレスのレベルが小さいときには話が変わります。

身の危険が迫るような災害や災難などはストレスレベルの大きなものですが、
そこまで体のレベルで危険ではないけれども
最終的に不快な気分になるケースは日常生活に多々あります。
人間関係の不満などは典型的でしょう。

多くの人間関係のトラブルは、そこまで動物的な危険ではありません。
相手の対応について、自分に不満があるだけのことです。

しかし相手の対応が望ましくないことで、
自分の内面に「不快な感情(怒りや悲しみ、傷つきなど)」が生まれます。

この不快な感情を自覚したときに、「嫌な出来事だった」と振り返ります。
そしてそのキッカケとなった出来事を「ストレス」と判断する。

こういうケースにおいてNLPでは、
不快な感情が起こらないようにプログラムを変えようとします。

つまり「嫌な出来事だった」という捉え方を変えたり、
怒りや悲しみなどの感情が出てしまう癖を修正したりするんです。

対処のタイミングは、「出来事が起こる」とき。
望ましくない反応を生み出すキッカケの出来事のタイミングを対象にします。

大きなストレス反応については、反応が起こった”後”に対処する。
小さな反応については、反応が起こる”前”の出来事にアプローチする。
そういうタイミングの違いがあるんです。

さらに心理学的な分類に基づいたストレス反応には、
長期的に体のレベルでのストレス反応が続いた後に
元気がなくなるのか、逆に頑張ろうとするのか、など
次の段階としての反応の区別もあります。

これは時期的に考えると、数秒とか数分の範囲の話ではありません。
何日後とか何か月後とかの長い範囲の話です。

大きなストレス的な出来事があった直後の動物的な身体の反応は
一秒にも満たない範囲で起きていることです。
そのあとに反応を落ち着けるように対処するのも数十秒レベルの対処です。

これだけ時間枠の範囲が異なっていると
NLPでは対処の仕方も違ってくるんです。

しかし心理学の分野によっては、
心の癖を修正するような対処を想定してはいないので
時間枠の違いを考慮する必要がないんでしょう。

NLPは心の癖を修正するのが基本ですから
注目の仕方、区別の仕方が異なるわけです。


僕の発想には、NLP的な時間枠の区別が染みついています。
その人の中で何が起きているかを考えようとします。

すると心理学の知識の解説を頼まれたりする方が
そもそもの着眼点の違いから難しかったりもするんです。

いかにNLPが土台になっているかを実感します。

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2017年09月14日

いろいろと過渡期みたいです

イギリス英語発音に興味を持ち始めて、
英会話の先生にもイギリス人を選ぶようにしてきました。

ところが、そのうちの一人が今年の春過ぎから喉を悪くして
短期の休みを繰り返し、最近は無期限の休業中。

そのため最近は、もう一人のイギリス人の先生と話してきたんですが、
この10月から教室の統廃合に絡んで退職するような見通しとのこと。

移転先の教室のほうにはイギリス人は一人もおらず、
系列の他教室にも殆どいないようなんです。

これはチョット残念なことになりました。


日本語でも話し相手のイントネーションにつられたり
言葉遣いが自然と移ってしまったりするものですから、
当然、英語でも同じようなことが起こります。

特に母国語ではなく努力して作ってきたものだけに
経験の量としても、自分らしさとしても、土台がありません。

外国語のほうが話し相手の影響を受けやすい傾向を感じます。

実際にアメリカ人と話していると、
アメリカ発音に影響を受けたと自覚する瞬間があります。

英会話として慣らしていくスタンスであれば
先生の英語は関係がないのかもしれませんが、
英語の種類を心がけたい僕としては意外と重要な気がします。

単語レベルでもイギリス発音とアメリカ発音の違いから
すごく簡単な単語なのに聞き取ってもらえないこともあるんです。

で、聞き返されて、言い直しても伝わらず、
アメリカ発音に変えて言うと通じたりする。

仮に僕がネイティブスピーカーだったら、自分の英語が伝わらなくても
「それは発音の違いのせいだ」と理由付けがしやすいと思われます。

ですがネイティブではない以上、伝わらなかったときに
イギリスとアメリカの発音の違いのほかにも、単語が間違っているとか、
単語のアクセントの位置を間違えて覚えていたとか、
さまざまな要因が思い浮かんでしまいます。

そのあたりがイギリス人相手だと、
英語を学習する過程での間違いだけに集中できるわけです。
発音の癖で聞き返されることはありませんから。


だからといってイギリス人の先生を求めて
様々な英会話学校を転々とするつもりもありませんし…。

とりあえず目下は色々な先生の中から検討するつもりです。
イギリス発音寄りのオーストラリア人が見つかれば良いんですが。

本当は相手が誰であれ、自分のスタイルとして
確固たる発音を維持できればいいのかもしれません。

実際に多くのネイティブスピーカーはそうしているようですから。

そのためには「これなら正確なはずだ」ど自信を持てるまで
プロからしっかりと指導してもらって土台を築く必要もあると思えます。

発音については別途の指導を探して、
英会話のほうは会話慣れだけの場にしたほうがいいのでしょうか。

様子を見ながら検討していくことになりそうです。

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2017年09月11日

修行の場を用意しようと思った理由

なぜ僕がわざわざ「修行」という言葉を使いながら
ワークショップを定期開催しようと思ったかというと、1つは
 本質的な取り組みだけをずっと続けていれば
 様々な面で効果が出てくる
実感があるからです。

書道の場合でいえば、ひたすら古典の臨書(真似て書く)をする。
座禅でいえば、ひたすら、きちんとした型で座る。

そこに全ての要素が含まれているから。

そういう発想です。

修行型のワークショップでは、そのように
似たような取り組みを繰り返しつつ、
さまざまな面で効果が出るようにトレーニングをします。

実際、僕がテーマを設定して講座をやっても、結局は
切り取る角度を変えて同じ原則を扱っている印象は常にあったんです。

「ここに集約される」という本質的なものがある。
だったら、それをメインにしながら、
そのときどきの参加メンバーに合わせて原則を適用して
表面上は違うけれど中核は同じになるよう取り組むのでも
同じようなものではないか、ということです。

そしてそのほうが一人一人のニーズに合わせやすいだろう、と。


もう1つの理由は、本質的なところに行き過ぎると
既存の枠組みの中では扱いきれないからです。

たとえば僕はNLPの講座も担当していたりしますが、
NLPの範囲には収まらない体験もあるようなんです。

それは他の心理学では別の言葉で説明されていたりもしますから
折衷案的に組み合わせてもいいのかもしれません。
ただ、組み合わせだと今度は矛盾が出てくる場合がある。

なので1つの原則的な仕組みに基づいて説明してしまおう、という話。

かといって、そこを詳しく掘り下げて
流れのある複数日のコースとして紹介する…
というのもチョット違う。

別に順番はどうでもいいんです。
何をやっても本質は含まれますから。

重要なのは原則が腑に落ちるために必要な実体験の量です。
抽象的な原則を事例と結びつけて理解していく。
それによって定着を図ります。


そして定着するまでの過程で、コミュニケーション技術だけでなく
内面的な課題を調えるように取り組みます。

そもそもの取り組みの方向性は「楽になる」ところ。
自然に還る方向性です。

誰もが特徴のある歩き方をしています。
そのほとんどが体の仕組みからは歪んでいる。

慣れて「いつも通り」にはなっているけれど
「自然」からは歪んでしまっている。

それによって体に痛みが出たり、不具合が出たり。

同様に人の心も、経験してきたことによって「自然」から歪みます。
そして歪み同士の相性が悪ければ人間関係のトラブルが起きたり、
本人の内面に葛藤や苦しみが現れたりします。

そこを調えるように取り組んで、楽にしていく。


ところが心の仕組みを踏まえながら本質に沿って取り組んでいくと
楽になっていくことが多い反面、一般常識とは離れていき
実存的なテーマにぶつかる場合があります。

丁寧に自分と向き合うからこそ、多くの人が気づきもしない
本質的な課題が浮き彫りになってくるときがある。

自分が当たり前だと信じていたものが崩れてきて
得も言われぬ怖さを感じたりする場合がある。

それは自然に還っていくプロセスの中で避けられないようです。

個人的には、あえて自然な方向に強制しようとは思いませんが
自分で向き合っていると勝手に自然な方向に進み始め、
自然の働きに導かれるように見せつけられてしまうものがあるようなんです。

自分に向き合い続けることで見つかってしまう
自分という存在の不確かさ。

数えきれない体験を通じ、
社会に適応するために自我を作り上げて、
ヤル気を高めて頑張って生きてきた。

その作り上げてきたものゆえの不確実さを
見つけてしまう人がいるんです。

実際には自分という認識が自分らしさを設定して
自分の範囲に制約をかけますから、
自我の不確かさに気づくのは制約から離れ
自由になっていく過程だともいえます。

元の自由な状態に戻ろうとする自然な方向性でもある、と。

しかし主観的な体験として、その過程は心地良くないんです。
培ってきたものが崩れる印象になりますから。

僕自身もそういう過程が苦しかった記憶があります。
同じような道筋の人からも似た苦しみを聞きました。

そして自然の流れだからこそ、
この過程で起きることには共通するものがあるようです。

どうせ自然な導かれるなら何も必要ないかもしれませんが
ある程度の先行き、道しるべがあると気が楽になるのも実情。

残念ながら日本で僕はその道しるべを見つけられませんでした。

だからアメリカ人の先生を見つけて、随分と助かったんです。

その意味でも日本で、そういう方向の内容を扱う場があると
それなりに役立つところがあるかもしれない。

自然に還る修正の場には、そういう側面もあります。
これが場を設けたもう一つの理由です。


以上のようなことに響くものがあったら日程を検討してみてください。

誰も来なければ一人で修行してますので。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!

2017年09月08日

相性と価値観の区別

「合う・合わない」と「好き・嫌い」を区別できると
人間関係や出来事を受け入れやすくなるようです。

裏を返すと、「合う・合わない」と「好き・嫌い」を混同していたら
楽になれる方向性の取り組み方があるのに、異なった取り組み方をして
長いこと苦しみ続けてしまいかねない、という話です。

本当は「嫌い」なことを「合わない」と拒絶して
「好き」あるいは「嫌いではない」ぐらいになれる可能性から目を背け
改善の努力に取り組もうとしない。

あるいは「嫌い」なのを「合わない」と捉え
違いがあるのは仕方のないことだと頑張って受け入れようとして
「嫌い」の奥にある自分の価値観を抑え込んでしまう。

逆に「合わない」ことを「嫌い」だと捉えている場合には、
「”嫌い”という個人の反応は自分が成長すればなくなるはず」
「自分が変われば関係性も変わって、嫌いではなくなるはず」
と期待して、噛み合わない関係性に身を置き続ける結果
ずっと苦しい思いを味わい続けることになったり。

あるいは「合わない」だけなのに「嫌い」だと思うあまり
他者を嫌っている自分に対して「それは良くない」と判断して
自己嫌悪に陥ってしまうケースも見受けられます。


「合わない」のではなく「嫌い」なのだとしたら、
そこには自分の価値判断が表れています。

これまで経験してきたことによって
「こうすることが良い、正しい、普通だ」と考えるところがあり、
その考え方によって大切にしたい何か(価値観)がある。

相手とは、その価値判断が異なっているわけです。

よく話し合ってみたら、相手の考えの中にある価値観に共感できて
相手のことを受け入れられる可能性だってありえます。

お互いの価値観をすり合わせて共通のゴールを見出せるかもしれない。

ただの「違い」として諦めるのではなく、
自分の価値観も、相手の価値観も、どちらも大切にできるように
双方にとってベストな関わり方を見つけられる余地があります。

逆に、「嫌い」なのではなく「合わない」のだとしたら、
その性質そのものを受け入れて、素直に諦めることもできます。

「合わない」という違いについては「合う」ように無理をするよりも
「合わない」もの同士、どのような接点にしておけば
不快な思いをする必要がなくなるのか、という考え方です。

「合わない」から「嫌う」必要もありません。
相手の存在を尊敬しながらも距離を取ってもいいでしょう。
嫌悪感という感情を、心理的な距離を取る手段にする必要はありません。

「合わない」ものは「合わない」。
そのことで自分を肯定する必要も、否定する必要もない、と。


では、「合う・合わない」と「好き・嫌い」の違いは何なのか?

一言でいうと、
 学習されたものが「好き・嫌い」
 学習以前の生まれもった性質によるものが「合う・合わない」
と区別できます。

この区別が定義として正しいかどうかは定かではないですが、
『学習されたものかどうか』という基準で考えると
 「学習されたものなら再学習して変えられる。
  学習以前の生まれもったものは変えるのが大変。」
という現実的な理解が可能になります。

再学習して変えられるものであれば
変える方向で対処したら改善する余地があるわけです。

生まれもった度合いが大きくて変えにくいものだとすると
無理やり変えようと頑張るよりも、
現状を受け入れてしまった方が楽になれる可能性があります。

そういうシンプルな指針を目的とした区別です。


学習されたものは基本的に経験に基づきます。

本人が直接体験していなかったものであっても
教育という経験を通じて、何らかのイメージを仮想体験して
頭の中でシミュレーションできるだけの材料にはなります。

直接経験したものは、快・不快の状態を伴って
「〜したら、〇〇(快・不快)になる」という経験則になります。

で、「どういう種類のことに対して快を感じるのか」の分類が
価値観(=何を大切にしているか)だといえます。

例えば、人と穏やかに関わっている時の安らいだ状態を”快”とする人は
安心感や優しさなどを価値観としているということです。

そもそもどうして、その種の状態を”快”と捉えるのでしょうか?
どうしてその価値観を持つに至ったのでしょうか?

そこを振り返っていくと、何を頻繁に経験していたかに行き着きそうです。

生き物として安全に生存していられる状態、一切のリスクがない状態に
どの種類の体験が結びついているか。

言い換えると、どういう種類の状態にいるときに
生存の心配をする必要がなくなっていたか、ということです。

具体的には例えば、赤ちゃんのときに
抱きかかえてもらっている最中に安心していられたとすると、
身体の暖かさや触れ合い、揺すってもらっているリズムなどが
馴染みのある”快”の状態として経験されていくはずです。

何か生き物として不快な状態が起きて、泣いて表現する。
すると誰かが抱き上げて、揺すって、あやしてくれる。
そんな経験が多ければ、そこに基準が生まれてきやすい、と。

あるいは、不快なことがないまま目が覚めている状態のときほど
周りの人たちが集まって笑顔で見てくれている…といった経験が多ければ
人との穏やかな交流や静かな心地よさを”快”として学習しそうです。

また、不快なことがないときに体を動かして声を出して
身体的なエネルギーを活発に使っている場合ほど、
周りの人たちが関心を向けてくれたり、一緒に遊んでくれたりすれば
身体のアクティブな状態や、明るさ、楽しさなどを”快”と結びつける。

そんな風に小さいころから、
生き物として安全なときに慣れていた状態を
”快”のベースとして学習していくと考えられます。

それが価値観の土台になっていく、と。
つまり価値観も「慣れ」から生まれている。

食べ物の好み、生活習慣の好みも慣れによるところが大部分です。

辛い物が当たり前の文化で育てば、辛い物が好きになる。
味付けの濃い文化や家庭で育てば、そこに馴染んで基準が作られます。

生活環境の好みにしても同様。

人の外見の好みなんかも、自然に体験してきた情報量の影響が大きく、
身近な人に似た印象や、あるいは鏡に映った自分に似た印象、
テレビで頻繁に露出されている人の印象など、
体験の量が非常に大きく関わっているものです。

「慣れ」という単語が適切かは分かりませんが、
とにかく体験の量が、価値観を含めて
「好き・嫌い」の土台を生み出してきている、ということです。


一方、「合う・合わない」は学習と切り離れます。

エビ・カニにアレルギーのある人は、美味しいと感じても食べられません。

僕はグラノーラなどのシリアルを食べたいときがあるんですが、
牛乳をかけて食べると、決まってお腹の具合が悪くなります。
合わないんです。

生き物として個体のリズムもありますから、
歩くスピードや話すスピード、話し声のトーンなどは、
自分のリズムと相手のリズムが「合う・合わない」の話になります。

僕が女子高生のテンションと合わせるのは大変です。

犬が好きな僕ですが、リズムという観点で
小型犬よりも大型犬のほうが「合う」感じがあって心地いいです。

で、ここが少し紛らわしくて注意が必要なところ。

「合わない」のは心地よくない。

心地よくないということは「不快」として認識されます。

嫌いなものの土台にあるのも「不快」な状態です。

「不快」な状態が共通しているので混同されやすいわけです。

そうすると「合わない」から「不快」なだけなのに
「不快だということは嫌いなんだ」と判断してしまったりする。

アレルギーの人がエビを食べて苦しむ体験をする。
ここでアレルギーという理解があると「合わない」と判断できます。

でも「合わない」理由が何なのかを知識として理解できないと
「〇〇を食べると気分がよくない」という不快の体験だけから
印象を捉えることになります。

例えば僕はニンニクが多いものを食べるとお腹の具合が悪くなったり、
中華料理をたくさん食べたり、チェーン店の牛丼を食べたりすると
身体が重ダルくなったりする傾向がありますから、控えています。

味の慣れとしても「好き」の部類には入っていない自覚があります。

すると「好きではない」+「合わない」=「嫌い」のように
判断してしまいかねないんです。

確かに「食べたくない」気持ちは起こります。
でもそれは厳密には「嫌い」だからではない。
「合わない」からです。

もちろん、「合う」から「快」なだけなのに
「快だということは好きなんだ」と判断することもあります。

「快」を基準に選んで関わっていて、「快」が続くのであれば
それが「合う」だろうが「好き」だろうが問題は起きません。

ですが「合わない」から「不快」なのに
それを「嫌い」と混同してしまうと、
最初に述べたような問題が起きてきます。

食べ物ぐらいなら大きなトラブルにはならないでしょう。
しかし人間関係で「合わない」を「嫌い」だと認識してしまうと
「合わない」だけの人を不必要に嫌悪し、
拒絶や対立にまで発展したりする可能性もあります。

もしかしたら社会問題とされるものの中にも
「合わない」を「嫌い」とするためのものがあるかもしれません。

本当は「合わない」だけなら、
それを理由に「嫌う」必要はないでしょう。

「合わない」ことを無理やり合わせようと頑張る必要もない。

自然界はちゃんと棲み分けをしています。
合わない環境には生きていない。
合わない者同士は距離を取る。

人間以外の動物にも体験に基づいた「好き・嫌い」はあるようですが、
その度合いは人間よりもずっと小さいように見えます。

現実的ではない解決努力で苦労したり、
解決できるのに避けてしまったり、
取りつく島もないほど全てを拒絶してしまったり、
無理に受け入れようとして苦しんだり…、
そういうのは動物には起きなそうです。

まずは「合う・合わない」なのか「好き・嫌い」なのかを区別する。
体験によって学習されたものなのか?と振り返る。

その区別をつけるだけで楽になることが結構あるはずです。

cozyharada at 23:01|Permalinkclip!

2017年09月05日

足がつるとき

移動で新幹線や飛行機に乗っていると、それだけで
降りたときや一日の終わりに「疲れた」と感じます。

が、座っているだけで、せいぜい本を読むぐらいですから
疲れる理由はそれほど見つかりません。

一説では、高速移動の最中には結構な重力がかかっていて
それに対抗するだけでも疲れるものだとか。

特に横方向の重力に関しては窓際のほうが強くなるとかで
なるべく中央の席のほうが疲れにくい、
なんて話も耳にしたことはあります。

確かに新幹線の中でパソコンの書き物をしようとすると
僕は、揺れのひどさに注意が奪われて全然集中できません。

ただ乗っている分には気にならないけれど
意外と揺れに耐えなくてはいけない度合いは高いんでしょう。


しかしそれ以上に、狭いスペースで身動きが取れないことのほうが
身体への負荷は大きいような気がします。

「疲れた」という体感で自覚されますが、実態は疲れているというよりも
「固まって痛い」という表現のほうが近いのかもしれません。

とりわけ飛行機はスペースが狭いので、身体の硬直を強く実感します。

隣の人との距離感などもあって心理的な緊張からくる体の強張りとか
他の人の匂いから離れようとするときに片側に重心をかけ続けてしまうとか
普段とは違う形で体に負荷がかかっているんだと思われます。

実際、JALの国内線で1000円高いだけの広めのシートを利用すると
同じ通路側を使っていてもパーソナルスペースが少し広がるだけのことで
随分と疲労感が小さいのを体感します。

どうも僕にとっての移動による疲労とは、
パーソナルスペースが小さいところで緊張から体を硬直させ
しかも同じような姿勢をとり続けることによる負荷
というのが大きいように思えます。


先日、久しぶりに寝ている間に「こむら返り」が起きたのも
移動が重なった日の夜のことでした。

ふくらはぎの痛みを弱めようと足首と膝を伸ばしていたら
今度はさらに足の甲までつりそうになってしまいました。

肉体疲労だけならジムで運動した後のほうが筋肉疲労はあるはずなのに
一定の緊張感を長時間続けたときのほうが足をつりやすいみたいです。

もしかすると運動によって体のレベルで疲れているときは
「痛い」とか「動けない」とか「力が入らない」とか「眠い」などと
「疲れた」とは違った自覚のされ方をするのかもしれません。

「疲れた」と感じるときは、意外と体の疲れではなく
心理的な緊張や、体を運動させられなかった硬直の蓄積などのほうが
影響が大きいような印象を受けます。

そうすると本当は「疲れた」ではなく
「ストレスがかかった」とか「強張った」とか
「負荷が溜まってきた」とか「ダルくなってきた」とか
そういう表現のほうが適切だとも思えてきます。

「疲れた」という言葉で安易に認識してしまうと
「疲れたときは無理せずに休む」のようなシンプルな発想で
本当に体が求めているケアとは違った方向で対処してしまいそうです。

実際に心身に起こっていることを正確に認識して
適切な対応をしていきたいものだと痛感します。

cozyharada at 23:51|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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  執筆・講演…

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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