NLP

2019年03月14日

NLP的マインドフルネス

リクエストがあったので
マインドフルネスを講座で扱うことになりました。

詳細は>
  五感を研ぎ澄まし心に寄り添うベース
  NLP的マインドフルネス


僕自身が実践しているのは禅だと思っていますが
世間的にはマインドフルネスのほうが人気があるんでしょう。

とはいえ、もっとも一般的に紹介されているマインドフルネスを
そのまま紹介する形だとしたら、情報はかなり容易に手に入ります。

やり方においても、
もしコツを身につけないといけないようなものだとしたら
これほど広まってはいないような気がします。

何より、誰にでも実行できて、客観的に説明可能な基準があってこそ
「マインドフルネスをやっている」という状態を定義することができて、
それゆえに「マインドフルネスの効果」を検証することができます。

統計的エビデンスをとろうと思ったら
客観的に説明できないような内容や
誰にでもすぐできるものではない技術が必要なものは不適切なんです。

「やったら、こういう効果が得られました」とデータをとったとしても
「それは上手い人がやったからであって、個人差の問題なのでは?
 だとすると方法そのものの効果ではないのではないか?」
といった反論が可能になってしまいます。

「この方法は有効である」ということに統計的なデータをとるためには
方法が一般的に容易で、誰にでもすぐ実行できるものである必要があります。

誰が教えても同じようにできる。
高度なことが要求されない。
作業としての基準が明確である。

そういう種類の方法だと、
 ランダムに様々な人を連れてきて
 特に熟練した指導者ではない人が方法を説明して
 それで同じように決まった作業をしてもらう
ことが可能になります。

それで効果を統計的に検証する。

すると
 どんな人でも
 教え方や教える人の熟練度によらず
 基準に沿ったやり方をしさえすれば、
 こういう効果を得られる
というデータを取れるわけです。

マインドフルネスが瞑想そのものでの効果を検証されていたり
それをベースにした心理療法の効果が知られていたりするのは、
マインドフルネスという方法を形式化したところにポイントがあります。

そういう意味では、マインドフルネス自体が
瞑想の1つの狙いを形式化した、つまりモデリングしたものだ
とも言えるのではないでしょうか。


NLPは心理療法の達人のやり方を形式化したところが出発点です。

達人と全く同じようにできるには数えきれない高度なコツがあるとしても、
ある程度の効果を誰にでも得られるように形式化すれば
短時間でかなりの成果を得やすくなるといえます。

長時間のトレーニングを通じて自ら技術を磨かなくても、
すでに主なコツがポイントとして整理されているから
それを実行に移すだけで十分な効果が得られる、と。

そういうスタンスが、そもそもNLPにはあるんです。

本当に心理療法を本格的に身につけようとしたら
ハッキリ言ってしまえば、NLPの資格取得コースだけでは不十分でしょう。

NLPにはエッセンスは含まれていますが
そこで得られるのはダイジェスト版です。

しかし、いきなり心理療法だけを地道に学んで技術を磨くより
NLPを一通りやってしまうと、習得が効率的になります。

とりわけ、心に関して幅広く性質を理解して
応用範囲の広い基礎技術を身につけることができるので、
1つに特化した心理療法だけを学ぶよりも柔軟性は得られやすいと思います。

たとえるなら、お寿司の専門学校みたいなものでしょうか。

古くからの寿司の修行は、弟子入りして、洗い物から始まって
何年もかけて少しずつ技術を学ばせてもらえるスタイルだったそうです。

しかも弟子は自ら親方の技を盗まないといけなかった。
コツは教えてもらえない世界。

それが専門学校では、半年程度の間に一通りの作業を練習して
とりあえず形として、お寿司が作れるようには教えてもらえます。
やり方のポイントを整理して教えてくれる。

だから身につくのが早い。

じゃあ、専門学校だけで超一流になれるか?というと…。
それには超一流の店で修行したほうがいいのかもしれません。

到達点の高さを目指すなら特化した修行をしながら
達人の下で自ら学び取っていく必要があるんでしょう。

一方で、ポイントを掴んで、ある程度の結果を早く出すとしたら
すでに誰かがコツを体系化してくれたものをやるほうが都合がいい。

そんな区別があるように思えます。


NLPはそもそもポイントを絞って体系化したものです。

そのポイントを身につけて、すぐに実践可能な技術として
実用的に活かしていく…というのも一つのスタンス。

そのポイントを元に人の心をひたすら調べていけば
それまで見えていなかった世界が見えるようになってきます。
そうしてどこまでも追求することもできます。

その意味では、あくまで入り口であって
そこを起点に自ら先を調べるかどうかは人それぞれ。

体系化して、誰にでもすぐ役に立つように整理したものは
入り口として興味を持ってもらう上で
とても効果的なんでしょう。

誰もがプロのミュージシャンを目指すわけではないとしても
音楽の楽しさを知ってもらうチャンスは広く提供する。

そんな立ち位置は、どの分野でも重要なんだと感じます。

NLPもマインドフルネスも、そんな入り口のようです。

いわば、最初からマインドフルネスはNLP的なんでしょう。
ポイントを絞った、誰にでもできる入り口として。

それを踏まえて、どういう講座内容にするか。
それはまた今度の話にします。

cozyharada at 23:43|Permalinkclip!

2019年03月08日

ダンスと文化

日本の学校教育にダンスが取り入れられて
それなりの時間が経っているようですが、
それに伴ってダンスをやっている子供を見る機会も増えた印象です。

テレビでもダンスが映ることが良くありますし、
音楽番組に出るアーティストと呼ばれる人たちも
ただの「歌手」ではなくなってきているのかもしれません。

アイドルがグループで踊るのは、すっかりお馴染み。
男性グループにもダンサーがいるのが珍しくないようです。

先日もセミナー会場のホールで
ダンスコンクールのようなイベントをやっていました。

親が小さな子供を連れてきて、だいぶ賑やかな雰囲気。
昔はピアノの発表会とかだったのが、
今はダンスにシフトしているんでしょうか。

最近は映画でもミュージカル的なものが流行っていますし
踊りが日本文化にも浸透してきたのかもしれません。


ただ、一口にダンス・踊りと言っても
ダンスが重視する側面は文化的な背景の影響を受けそうです。

失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、
日本人のダンスはどんなにカッコよくてもスピーディーでも
盆踊りの延長のように見えてしまうんです。

もちろんリズムとかテンポは違います。
そうではなく、意図というか、
何を求めてやるか?の話です。

日本人のダンスは、
決まった振り付けを皆で正確に行って
一糸乱れぬ動きを「見せる」のが目的のように感じます。

見る人が想定されているか、少なくとも
お互いに揃っているのを見て
「上手くできている」のに喜びを得たり、
協調していることで「和」を感じたりする感じ。

この「和」の雰囲気は、まさに盆踊りだと思えますし、
見る人を想定するのは「周りの目」を気にする文化と
対応しているように考えられます。

見る人を想定する感じは、吹奏楽とか、
ピアノやバイオリンのお稽古、バレエに似ています。

見る人、聞く人を喜ばせるように
高いクオリティを目指していくスタンスといいますか。

ただし喜ばせる相手は、あくまで第三者であって、
同じ場で一緒に演奏したり踊ったりする仲間は
協力関係であり、喜ばせる相手ではありません。


こうした第三者への意識は、ヨーロッパの音楽やバレエ、
一部のダンスにも含まれているものですが、
ヨーロッパのダンスは趣旨が違うように見えます。

ヨーロッパの伝統では社交ダンスに代表されるように、
一緒に踊る相手とのコミュニケーション手段として
ダンスが使われてきたところがあるんじゃないでしょうか。

踊る相手は常に「You」であって、
意識される対象は第三者ではなく、目の前のパートナー。

つまり「You and I」という二人称の関係だ、と。

海外にも「社交ダンスコンテスト」はあるのかもしれませんが、
日本の社交ダンスはやっぱり、見られることを想定して
上手く踊ったりことを目標とした
コンテスト・発表会が前提の習い事のように見えます。

それに対して、ヨーロッパだと
二人称の関係での交流が前提の踊りが中心なのか、
ミュージカルの踊りでも社交の側面が強調された印象です。


これがアメリカになると、特にアフリカ系文化の影響か、
身体の表現としてのダンスという位置づけが強まります。

子供でも音楽を聞いていると勝手に身体が動く。
そんな感じ。

感情や自己の表現としてのダンスや、
音楽やムードへの「ノリ」としてのダンス。

自分という肉体の表現としてダンスをして、それで
身体を動かしていること、のっていることが楽しい、と。

ダンスが一人称なんです。

見られる第三者は気にしないし、
二人称としての他人と交流する意図もない。

皆がそれぞれ、自分が踊るのが楽しい。

そこへ同じ踊りの場を共有する人がいると、
その人たちは仲間になります。

他人と揃えなければいけないわけではなく、
相手と交流しようというわけでもなく、
ただ一緒にトランスに入って、自分勝手に踊る。

するとそこで自然な一体感が生まれます。
その一体感がたまたま作り出す相互作用が
全体としての盛り上がりを高める。

結果的に皆で踊ることはあっても、
それはジャズの即興セッションのような
一体感の中での自然な自己表現なんだと思います。

つまり「We」の意識。

一人称単数で楽しいのが、
他者と一体感を持つと一人称複数で楽しくなる。

アメリカのミュージカルには
この雰囲気が強く見てとれる気がします。

見ていて楽しそうです。

逆にこの文化が背景にあるせいか、
日本やヨーロッパでは見せる想定で演じられるものも
アメリカ人がやると、本人が楽しそうな印象になる。

フィギュアスケートなんかでも
妙にチアリーディングっぽいというか、
「身体を躍動させるのが楽しい!」みたいな選手がいます。


同じダンス・踊りでも、ルーツというか
文化的背景の影響が表れているように思えます。

日本の踊りがダメだという話ではありませんが、
どんなにアメリカのダンスや社交ダンスを表面的に真似しても
根底にある喜びの種類や意図は
いかにも日本の伝統の延長になりやすいんでしょう。

逆に、歴史的、文化的背景をふまえ
メンタリティの部分から参考にできると
もっと違った楽しみが生まれてきそうに思います。

少なくとも子供のダンス発表会は
違った雰囲気になるんじゃないでしょうか。

cozyharada at 15:57|Permalinkclip!

2019年03月05日

花粉症が楽になる

花粉が飛び始めているようです。

僕は以前、相当に重度な花粉症でしたが
最近は程度も収まって、大騒ぎするほどではなくなりました。

薬も飲んで症状を抑えることもしていますが。

僕の場合、皮膚科に行って抗アレルギー薬を処方してもらって
それを決まった量だけ飲むと、かなり症状は楽になります。

これが意外と僕の体質と合っているのかもしれません。

ピークの時期は一日2回。
花粉の始まりや終わりの頃は、一日1回ぐらいで大丈夫です。

眠くならないタイプですが、
市販のものよりも効きが良いように感じます。

値段も薬価そのものは市販品より安く、
病院での診察料と合わせて計算したときに
市販の花粉症の薬と同額ぐらいになる値段。

効果を考えると、むしろお得な感じもします。
皮膚科で順番待ちをするのは面倒臭いですが。


もともと何かに集中していたり、セミナーをやっていたりする間は
痒みや鼻水も楽になる傾向はあったんです。

その意味では、症状を意識しなくなるだけで
症状の程度そのものまで減る、と言えると思われます。

多くの人は、過去の記憶を引っ張り出して
実際の症状よりも強い体験を意識に上げているようです。

これが催眠で「痛みや味などの体験を変えられる」ことの原理でしょう。

人は今その瞬間に感覚器官を通して体験している内容に
過去の体験の記憶を補って「現在」を主観的に体験します。

例えば、レモンを思い出すだけで口に酸っぱい感じが戻ってくるように
記憶を頼りに感覚体験が引き出されるわけです。

「レモンは酸っぱいものだ」という想定で、
過去の酸っぱかったときの体感を思い出しながら
その瞬間にレモンをかじると、
実際のレモンの酸味以上に「酸っぱい」体験をすることになります。

ほとんどの人は、そうやって記憶で味を補って体験します。

レモンそのものの味をちゃんと感じてみると
意外とそんなに酸っぱくないものです。

催眠術ではレモンの味を桃に変えるような方法がありますが
このやり方で完全に桃の味を体験できる人と、
桃ではないけれどレモンを普通に食べられるようになる人とがいます。

桃の味ではないけれどレモンを食べられるようになる、という場合、
一番重要な要素は「レモンの酸味を思い出さずに食べられる」こと。

まずそれだけで酸っぱさを感じにくくなります。

NLPにもアレルギーへ対処する方法はいくつかありますが
そこでも一番期待される効果は、この「感じにくくなる」部分でしょう。

より正確には、それまでアレルギー症状の記憶を使って
症状を増幅しながら体験していたものが、
その瞬間に実際の量として体験されるものだけに減る、という現象です。

催眠でレモンを普通に食べられるようになる人は、
さらに催眠状態を利用して過去の記憶へのアクセスが強まります。

結果として桃の味を思い出しながら、
桃の味の記憶を追加しつつレモンを食べられるわけです。

レモンの酸味を思い出さず、
桃の味を思い出しながら、
実際のレモンの味を体験する。

そうすると、実際のレモンの味に
桃の甘味を追加したような体験になります。

つまり、ハチミツ漬けのレモンとか
オレンジやグレープフルーツのような、
甘い柑橘系の味が体験される、と。

これだと普通にレモンを美味しそうにかじれるようになります。

花粉症に対して、それを上書きするような快適な記憶を追加できれば
主観的な症状はもっと楽になっていくかもしれません。

最後に、催眠でレモンが桃の味に感じられるパターン。
これは少数派で、いわゆる「被暗示性が高い」ケースで起こりますが、
実際のその瞬間のレモンの味覚情報を遮断して
記憶の中の桃の味だけを体験している現象です。

こういうことも不可能ではありません。
実際、多くの人は風邪をひいて食べ物の味が分からないとか、
熱があるときに外がやたらと寒く感じられるとか、
主観的な体験が激変することも経験しているものです。

本を集中して読んでいたら周りの音が聞こえなくなるとか
臭いトイレも数分で慣れてしまうとか
眩しいほど明るい屋外でも徐々に目が慣れるとか、
そういうのも主観的体験の内容が調整される事例でしょう。

意識に上がる体験内容が一部分だけに限定されるケースとか
そもそも感覚器官の段階で、強い反応を抑え込むとか…
仕組みは様々でも、主観的な体験が変わることは少なくありません。

ですから、そういう風に今その瞬間の感覚体験を抑えて
かつ記憶のほうにだけ意識を集中する、ということができれば
その記憶の内容だけを体験することは可能なんです。

言ってみれば、夢の中で桃を食べているような状態です。
現実から意識を離して夢の中に入り込み、
夢の中で桃を食べているのを体験する、と。

そうなれば、催眠術によって
レモンを食べても桃の味を感じることができるようになるわけです。


僕の花粉症は、記憶で症状を増幅しなくなっただけで
だいぶ改善されたように思います。

その点では年々楽になっていっているかもしれません。
薬の消費量も少なくなっていますし。

一方、不思議なことに、薬を飲んでいても
寝起きの瞬間だけは症状が強烈になることがあります。

いわゆる「モーニング・アタック」と呼ばれる状態です。

通説では
ヽ萋阿鯆篁澆靴討い詭襪隆屬法部屋の空気中から
 花粉などの濃いアレルゲンが沈下してきて、
 寝ている間にそれを吸い込んでしまうから
起床や布団をたたむとき、その空気の動きで
 床や布団からアレルゲンが空中に舞い上がるから
5床の際に、副交感神経優位から交感神経優位に切り替わるとき
 バランスが乱れ感覚刺激へ過敏になるから
などが挙げられているようです。

が、 岾萋阿靴討い覆い箸のアレルゲンが舞い上がる」だとしたら
一人暮らしの人は、帰宅時にも同じような現象が起きるはずです。
僕は帰宅時に強烈なアレルギー症状は感じません。

△亡悗靴討蓮∨佑両豺隋¬椶覚めた瞬間が症状のピークで
布団の中に入ったままでも「モーニング・アタック」状態です。
空気中にアレルゲンを巻き上げる前から始まっているので、これは違う。

自律神経の切り替わりは関係しそうですが、
「バランスが乱れて刺激に過敏になる」
というのは何も説明になっていない気もします。

僕の場合、このモーニング・アタックは数分で終わるので
ひょっとすると、僕は症状を意識に上げなくしているのかもしれません。

裏を返すと、寝ている間に体験しているのが実際の症状のレベルで
寝起き直後はそのアレルギー症状が全て意識に上がる。
だから痒みや鼻水が酷い。

それから意識が覚めてくると、日常の様々なところに意識が再配分されて
症状の感覚体験への感度が落ちてくる。
もしくは催眠術的に、積極的な抑制さえ起きているかもしれません。

モーニング・アタックとはいえ、僕の症状はさほどキツくないですから
年々症状が楽になっている印象も加味すると、
いつの間にか症状を抑え込んでいるという可能性も否定できなそうです。

いずれにしても花粉症は
意識の仕方だけで随分と程度が変わるんでしょう。

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2019年03月04日

内面の課題に取り組むと…

今年に入ってからなのか、去年もそうだったのか
ハッキリ思い出すことができないんですが、
セミナー1日あたりの疲労感が大きくなっている感じがします。

例年、資格取得コースのスケジュールの関係で
1月から3月ぐらいまでは予定が込み入りやすい傾向はあります。

それで疲労が溜まりやすい…という可能性もある。

が、そんなに予定が固まっていない時期でも
どうしようもない消耗が起きるようになっています。

正確に表現すれば、消耗と回復のサイクルがありますから
セミナーの頻度が高いとしても回復しきれば問題ではないんでしょう。

その意味では、毎週末にセミナーが入って
ときどき平日にもセミナーがあって…ぐらいのタイミングは
インターバルの間に回復することはできている気はします。

週末にセミナーが入る→続く数日間で回復する
→平日にセミナーが入る→回復する→週末にセミナーが入る→
といったサイクル。

これなら対応はできています。

よほど予定が込みいってくると
回復しきる前に次のセミナーが入ってしまって
この場合はどうにもならない感じにはなります。

まぁ、そこまでの予定は滅多にありません。


そう考えると、今年やたらと消耗が大きく感じるのは
主観的な印象の変化のようにも思えてきます。

とりわけ自覚されるものとして大きく異なってきているのが
講座中から感じ始めている消耗度合い。

一日終わって疲れ切って…というのは以前もありました。

それに対して近頃は、一日のセミナーの終盤になると
講座をやっている間から消耗しきった感じがしてくる、ということ。

簡単に言えば、一日もたない印象になってきているんです。

ポジティブな解釈をするとしたら
「ちゃんと自分の身体の状態もモニターできるようになった」
とも言えそうです。

意識が受講生だけのほうではなく、
自分の身体にも配分される度合いが上がったのかもしれません。

だったら、その分だけ消耗した分のケアに注意が向いて
これまでよりも早く回復してくれても良さそうなものですが…。

回復面で、それほど劇的な差は実感していません。

以前よりも楽になったのは、セミナー翌日とか二日後とかの
身体の強張りでしょうか。

首や肩のハリは減っている気がします。

なので頭痛は起きにくくなっているかもしれません。


そういえば、昨年の11月にアメリカでセミナーに参加してから
意識の広げ方というか、意識の偏りを減らすような取り組みを
ある程度やり続けています。

そのセミナーの発展版を、1月からオンラインで受講もしています。

その中で、自分の身体への意識の仕方を調整したり、
自分が体験の中で重視するものの比率を調整したり、
こだわりを減らしたり、価値観を手放したり…などと
やっている過程で、
僕がトレーナーとして活動する際の意識の使い方を
より自然な形に近づけるように取り組みました。

違いが起きた理由として考えられるのは、ここがメインでしょうか。

内面的な取り組みを行えば、何かしらの体験の違いが生まれる。
そういうことは、よくあるものだと感じています。

あとはそれが役に立っているかどうか、ですが。


僕の場合、肩コリや首の痛みなどの肉体的な負荷は
確かに軽減されたような印象はあります。

一方で、なんというかエネルギーが枯渇する感じみたいなものは
むしろ以前よりも早くなったように思えます。

もしかしたら以前から枯渇はしていて、
ただそれをあまり自覚していなかっただけ…
という可能性も否定はできません。

無理をしなくなったともいえるかもしれませんし、
無理がきかなくなったともいえるかもしれませんし。

いずれにしても消耗することだけは確かなようなので
どうやって早く回復するかを検討する必要があるような気はします。

何か積極的に回復を早められるものが見つかればいいんですが。

こうやって様々な取り組みを重ねながら
より良いスタイルを探していくものなのかもしれません。

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2019年02月28日

フランス語でも書くトレーニング

フランス語を少しだけ気合を入れて勉強し始めて
いつの間にか半年以上になっていました。

40分のレッスンを50回弱やっている状態だと思います。

アウトプット中心のトレーニングとしてやっていますが
多少は「書く」、「話す」にも慣れてきた気がします。

週に一回40分、ただフリートークをするだけでは
大きな効果は期待できなそうに思っていましたから、
できるだけ2コマ一度にとって、80分続けたレッスンの形で
月に2,3回の練習をしてきた形です。

それ以外にも以前から通っていたフランス語スクールのほうには
定期的に行っていた状態でしたが、「上乗せ」というほどではなく
「並行」で通っていたぐらいの感じでしょうか。

インプットが中心になる以前からのスクールと
アウトプットのトレーニングと、別々にやっているわけです。


で、そのアウトプットのほうですが
基本的に毎回、400ワードぐらいのエッセイを書いています。

これまでに20個。

多少スムーズになってきたとはいえ、まだまだ時間はかかります。
内容の構成も工夫しないといけませんし、
かといって日本語で考えて翻訳するわけでもありません。

どちらかというと、シンプルに「外国語モード」の感じ。

極力フランス語の思考だけに意識を集中しておきながら
行き詰ったら英語が浮かんできて、それを辞書で調べて
フランス語に変換して書き進める流れになっています。

初めの頃と比べると、辞書を調べる回数は減ったかもしれません。

ただ、フランス語の場合、名詞に男性・女性の区別があって
しかもそれが形だけでは判別しにくいことも多く、
意味のためではなく、男性名詞か女性名詞かをチェックするのに
辞書を引かなくてはならず、そこで時間がかかりがちです。

そこを差し引いて考えると、さすがに何度も書いているうちに
段々と慣れてくるところはあるんでしょう。
実感として書きやすくなっている印象はあります。


たかだかA4一枚から一枚半ぐらいのものを20個。
日本語にすると、一回1000文字あたりぐらいでしょうから
せいぜい20000字程度です。

そうやって考えると、これまでに日本語を書いてきた量は
もう圧倒的に違います。

日本語と比べたら英語の量はずっと少ないですが、
それでもフランス語よりは遥かに多いと思います。

やはり、「書く」行為は繰り返しの練習によるところが大きいんでしょう。
スムーズに書けるかどうかには量が重要、と。

特に、論理構成をしっかりさせながら
内容を飛躍させず、読み手に意図が伝わるように…
と工夫すると、かなりトレーニング負荷は上がる印象です。

最近はスムーズに書けるようにはなってきていますから
ダラダラ長く書くだけだったら、もしかしたら楽かもしれません。

ですが、論点を絞りつつ、明確な表現で
しかも400ワード程度に収まるように書くのを心がけると、
あとから自分で校正をして内容をチェックする過程も必要になります。

自分の思考プロセスの中にチェック作業を入れる練習でもありますから
これは発話として説明するうえでも役に立つものかもしれません。


毎回のレッスンでは、書いたものをネイティブにチェックもしてもらいます。

文法的なミスも修正されますが、それ以上に
表現として伝わりきらない部分を確認する段階が役立ちます。

どうやらフランス語は、英語よりも表現がクドくなったとしても
誤解の無いように丁寧に書くほうが大事みたいです。

英語だったら形容詞や副詞の一単語で言えてしまう状況も
フランス語では5単語ぐらい使う必要があったり。

そのあたりで自然なフランス語の感じというのは
英語とは異なったところがあるようです。

まだまだ先は長い印象を受けます。


ちなみに、僕がやってもらっているレッスンは
・近況報告〜フリートークを少し
・書いたものをベースに自分の考えを説明
・修正してもらいながら、ディスカッションを追加
・最後に書いたものの修正
という流れになっています。

意外とトレーニング効果が高そうなのが
 書いたものをベースに自分の考えを話す
という段階。

これは質問に答えるのと違って、自分が一方的に話し続けますから
発話の量のトレーニングとして効果が大きそうです。

普通に会話をしてしまったら「話す・聞く」が入れ替わって
それほど自分が話す時間というのは長くなくなる傾向があります。

フリートークのデメリットは、それほど話していないこともある、
というところでしょうか。

一方、フリートークだと、自分が思いもよらないような質問をされて
無理やり自分の考えを外国語にしないといけなくなるので、
自発的に話し続ける場合よりも表現やトピックの幅は広げられます。
こっちはメリットです。

僕の場合、今はとりあえずアウトプット量を増やしたいので
自分から一方的に説明を続ける作業を練習させてもらっています。

普通にネイティブの友達がいたとしても、
こんな作業には付き合ってもらえません。
レッスンだからこそ、でしょう。

そのうえ、説明の過程で間違いがあったり、不自然なことがあったり、
思い出せない言い回しがあったりしたら教えてもらえます。

これも役立ちます。

英語も含めて、多くの外国語のスピーキングテストでは
一問一答という形式ではなく、ある程度の長さ(1分とか)を
一方的に話し続けることを求められたりします。

その意味でも、自分が話し続けて、それを修正してもらう形は
発話のトレーニングとして有効なんじゃないかと思います。


いつまでこの形を続けるかは未定ですが、
今しばらくは、この形で練習あるのみです。

cozyharada at 08:00|Permalinkclip!

2019年02月25日

日本語を勉強し直す

このところ、ビジネス的なお手伝いをする機会が増えていて
他の人の書いた文章を見ることも多くなってきました。

そのときに感じるのが、
意外と多くの人が日本語をいい加減に使っている
ということです。

文法的にも、話の展開としても、主題の表し方としても…。

とりわけ、修飾語の使い分けは
読みやすさと大きく関係するようです。

「どのフレーズが、どの単語を修飾しているか?」というのは
文章構造としては複数の解釈が可能なものなんです。

多くは、文脈を頼りにして、
読み手が「一番自然」な解釈を選んでくれます。

例えば、
大きな効果を出している悩みの解消法
というフレーズだとしたら、
「大きな」は「効果」を修飾していると判断されるでしょう。

可能性としては
「大きな(効果を出している悩みの解消法)」
のように
「大きな」が「解消法」にかかっている、とも読めます。

ただ「大きな解消法」という表現が不自然なので
「大きな効果」と繋がるほうが選択されます。

同様に「効果を出している」も
「解消法」とセットにするほうが意味的に自然です。

「効果を出している悩み」の「解消法」とするのは
「効果を出している悩み」って何だ?と感じられるはずです。

なので「効果を出している」ー「悩みの解消法」となって、
全体としては
「大きな効果 を出している」ー「悩みの解消法」
のような塊で捉えることになります。

ところが、
大きな影響力のあるマーケッターのための集客テクニック
だとしたら、
不自然ではない解釈の仕方が複数ありえてしまいます。

「大きな影響力のある 集客テクニック」とセットにすると
「マーケッターのための集客テクニック」のうち
特に「大きな影響力のあるもの」という意味になります。

一方、「大きな影響力のあるマーケッター のためのテクニック」
という切り方にすると、
「集客テクニック」のうち、特に
「大きな影響力のあるマーケッター」を対象にしたもの
と読み取れます。

複数の解釈が可能なんです。

あえて曖昧にする技術としても使えますが、
書き手の意図とは別の意味で伝わってしまうリスクもあります。

特に広告のように「たまたま目に止まったもの」だとすると
読む側には、それほど強い動機がありません。

読みながら解釈のパターンを複数探して
書かれている意味を理解しようと努力する…というのは
読み手にとって負担をかける作業となります。

読みたい理由が固まっていない段階では
面倒臭さを感じさせてしまいかねません。

すると、 途中で読むのをやめてしまうかもしれない。

読み手が読解を頑張らなくても自然に理解できて、
誤解が起きづらく、しかも話の展開がスムーズ。

ただ話の流れを追いかけていくだけで、
1つの結論に導かれるような、
そんな文章を書くにはトレーニングが必要なようです。


残念ながら日本の国語教育では、
そちらの方向性は強調されません。

むしろ、複雑に修飾語が込み入った文章を読んで、
「自然な」解釈のパターンを身につけるように訓練する。

「皆んなと同じ」解釈ができるように練習するわけです。

これが国語の重要な役割の1つ。

もう1つは、話の展開がスムーズでない文章や
主張が明言されていない曖昧な文章を読んで、
筆者の言いたいことを汲み取るトレーニング。

「皆んなと同じように」
書き手の気持ちを察することができるようにする、と。

こうして「一般的」な読解力を身につけて、どんな人の話でも、
受け取る側の努力で理解できるようにしていくわけです。

読解力を求められる割合が高いように思われます。


だからといって全ての人が
国語を得意としていたわけではありません。

複雑な文章構造を解読するのが面倒臭い人もいるし、
意味を汲み取る段階で、自分なりに解釈してしまう人もいる。

だからこそ書く技術としての国語力が役立つはずです。

それは日本の国語教育では重視されないみたいですが。

僕は幸い、英語やフランス語のライティングを通して
誤解を減らす書き方のトレーニングをすることができました。

今も苦労します。

英語やフランス語のトレーニングのつもりだったのに
結果的に日本語の文章力が養われた印象があります。

必ずしも外国語を通してトレーニングしなくても構いませんが
日本語の文章力を向上させるには、
外国語をやるぐらいのつもりで
土台から見つめ直す必要があるのかもしれません。

かなり気合を入れないと取り組みたくもない作業でしょう。

ただし、誰もやらない分だけ、効果は大きいと思われます。

何かに行き詰まったことがあったら、
1つの打開策として国語力をターゲットにするのも
悪くないんじゃないでしょうか。

コミュニケーションを重視する人は多いのに
国語力を重視する人が少ないのは
なんだか皮肉な話のような気がします。

cozyharada at 18:50|Permalinkclip!

2019年02月21日

イヤイヤ

先日、電車の中で「イヤイヤ」の子を見ました。

オニギリを食べて、途中でやめてジュースを欲しがる。
すると母親が「ご飯ちゃんと食べてから」と。

それでもその子はジュースを欲しがるので、
母親がダメと厳しめの態度に変わります。

そのあたりから子どもがグズり始め、
母親は「ダメ、ちゃんとご飯食べてから」
のようなメッセージを繰り返します。

そして苛立ちを抑えつつ、
「ご飯食べないと大きくなれないよ。
ずっと子どものままでいいの?」
と、説得に移りました。

ここが、その子の返事が全部「イヤ」になったタイミングです。

「大きくなれなくていいの?」
ー「イヤ」
「じゃあ、ちゃんとご飯食べて」
ー「イヤ」
「ジュースじゃ大きくなれないよ」
ー「イヤ」
「ほら、ちゃんと食べて!」
ー「イヤ」
「もう、ちゃんとしなさい」
ー「イヤ。…イヤイヤ。…イヤ。」

…と、もう母親が何も言わなくても「イヤイヤ」を繰り返す事態に。


果たして、この子の「イヤ」は何に対して
どんな気持ちの表現なんでしょうか?

「ちゃんと食べないと、大きくなれない」
「(大きくなれないと)子どものまま」
「(子どものままでは問題だけど)それでいいの?」
という論理が理解できているのかは疑問です。

時間の離れた因果関係を言語的に理解するのは
かなり高度な知的活動ですから、
それが可能かは発達段階と関わります。

何十年先をイメージして、自分だけ子どものままの姿を描き、
それが問題だと判断するのは、さらに高度な作業です。

この質問に「イヤ」と答えたのは、おそらく
その子が内容を理解したからではないでしょう。

むしろシンプルな不満の表明だと思われます。

思い通りになっていないことへの不満。
ジュースが飲めない、という特定の対象ではなさそうです。

特に大きいと考えられるのは
『母親が優しくしてくれていない』という部分への期待外れ。

ジュースが飲めないことよりも、
母親が厳しく接し始めて、
自分を拒絶する態度に出ていることを感じとって、
そのことに不満を感じているのではないでしょうか。


子どもは特に、自分の気持ちを正確に言語化できません。
聞いて理解する能力も大人とは違います。

何かを言ったときに「イヤ」と返事があったからといって、
その内容に対して「イヤだ」と意思表明しているとは限りません。

どちらかというと、
母親を味方に引き取り戻そうとするコントロール法として
イヤイヤをやっていることが多そうな印象を受けます。

大人と同じような言葉のやりとりとして理解しないほうが
スムーズにいくことが多いような気がします。

cozyharada at 23:17|Permalinkclip!

2019年02月18日

情報の洪水

刺激に弱いという僕の傾向は、あまり自覚していなかったですが
ずっと前からあったんだと思われます。

展開的には買い物が苦手でした。
本屋も家電量販店もユニクロも。

研究職時代は本屋に行くのが息抜きだった反面、
しばらく滞在していると頭痛が起きてきていたものです。

特に繁華街の大型店舗は顕著。
人が多いのもそうですし、情報量が多いせいだった気がします。

家電量販店は色も光も音も強いので大変です。

ことさら最近は、中国人観光客向けの商品陳列が多く
中国語表記が増えるほど、色も光も賑やかになりがちです。

集中して何かを選ぼうとするときほど、
そういうノイズへ過敏になっているんだと思います。


思えば、山口県に住んで研究所勤務だったときは
毎回の長期休みのたびに朝一の飛行機で東京に戻り、
そのまま新宿の紀伊国屋で本を探す…といったパターンでしたが
決まって偏頭痛が出て、自宅に戻ると散々な状態だったものです。

東京の研究所へ転勤になった後も、
都心部に行くたびに頭痛が起きていましたし。

同僚と秋葉原に行った日は、特に酷かったのを思い出します。
なぜか秋葉原はシンドかったです。
渋谷も行くたびに具合が悪くなる街。


音や色などの刺激が多くて苦しいという点では
居酒屋も苦手です。

話し声と騒音で押し潰されそうになりつつ、
同時に多くの話の内容が頭の中に浮かんできます。

色々な話を同時に理解しているのと同時に
乾いた笑いや愚痴を通して入ってくる
感情と意図を意識に上げては受け流す。

それらを全てかき分けながら、
目の前の話し相手の質問に答える必要があります。

さらにタバコの煙が来ると、刺激が増加しますし。

拷問に耐え忍んでいるかのような環境です。


NLPの講座では「五感が大事」「五感を敏感に」などと言われますが、
もう少し事情は複雑なんでしょう。

確かにNLPのワークをスムーズにするためには
五感情報に敏感なほうがやりやすい。

日常のコミュニケーションも、多くの五感情報をもとに
相手の気持ちをキャッチできたほうが
対応できることが増えてはきます。

技術のベースとして五感があるのはそうなんだと思います。

一方で、多くの都会で生きる社会人は
五感をあえて鈍感にしているというか、
徐々に五感情報を意識へ上げなくしてきた状態に慣れて
その五感の刺激に鈍くなっていることで
過剰なストレス要因にさらされるのを防いでいる、
ともいえるのかもしれません。

まあ、日本の都会が異常にストレスフルな気もしますが。

何事も裏表なんでしょう。

cozyharada at 23:37|Permalinkclip!

2019年02月14日

【セミナー】NLPブラッシュアップ研修会

日本コミュニケーショントレーナー協会主催で
定期的に『NLPブラッシュアップ研修会』というのをやっています。

日程や内容については、こちら>>

東京の次の日程は3月30日(土)と3月31日(日)。
それぞれ違った内容ですので個別のお申し込みとなります。


基本的にNLPの内容です。
コミュニケーションにも応用は効きますが、
NLPの手法そのものを丁寧に見つめなおす形としています。

逆にいうと、「NLPって何?」のような関心には残念ながら沿えません。
むしろNLPをやったことのある方を対象としています。

なので用語の解説などは省略します。

一方、NLPにはプラクティショナーコースだけでは
時間やカリキュラムの関係で扱いきれていない部分が沢山あります。

「もっとここを丁寧にやったら身につきやすい」という部分を中心に
通常の資格取得コースでは紹介されない内容を取り扱うのが特徴です。

NLPの復習をしつつ、かつ丁寧に、より本質的な部分を深める。
一通りをザッと体験した後だからこそ、
それぞれの手法の位置づけや意味、狙いが見えやすくなるはずです。

「これって、こういうことだったんだ!」
というような再発見をしてもらいつつ、
NLPの観点から『心』を見つめる時間としてもらえたら…
と願っています。


プラクティショナーコースの中で行うのが困難なら
その次の段階で扱ってもよさそうなものですが、
次の段階にあたるマスタープラクティショナーコースには
それはそれで多くのカリキュラムが予定されていて時間が限られます。

マスタープラクティショナーコースは応用手法とプレゼンが中心。
実用的な手法や、効果の大きい方法が集まっているといえます。

となるとNLPの基本の部分をキッチリまとめて扱う機会は
資格取得コースの中には含まれなくなってしまう…
そんな事情もあるんです。

「一通りやったけど、バラバラとした点になっている」のような
印象になりがちなNLPを、1つのまとまりとして
繋いでいくような内容を考えています。

その意味でも、どこでNLPをやったかという背景は問いません。

大げさなセミナーというより、NLPを身近なものにしていく目的ですから
告知目的で集合写真をとったりするようなものではありませんし、
むしろ、いかにご自身のために活用していただけるかを意図しています。

少しでも有意義な時間を過ごしていただけたら幸いです。


お申込みはこのブログからはできませんので
リンク先のホームページからお願いします。

仕組み上のお問い合わせの場合にも、協会の事務局のほうへご連絡ください。

3月より先の日程は、東京以外も含め
7月以降の年後半に集まっています。

気になった方は日程をチェックしてみてください。

cozyharada at 23:51|Permalinkclip!

2019年02月11日

NLPには理論がない

「NLPはモデルであって、理論ではない」
ということがNLP分野では言われることがあります。

最近の講座で一般的に強調されているのかは分かりませんが…。


で、ここでいう「理論」は、もちろん「theory」の翻訳です。

ところが、日常的な日本語の意味での「理論」と
学術的な意味での「theory (理論)」とはニュアンスが異なります。


そもそも一般的に使われる日本語では
「理論」の意味がかなり曖昧になっていることが多いようなんです。

よくある混同の1つは、「論理」と一緒にしてしまっていること。
これは「理論的」と「論理的」の混同で頻繁に表れます。

例えば、「理論的な人」という言い方は、本来
「論理的な人」といったほうが適切です。

「感覚派」の対義語として「理論派」なんて言われることもありますが
これも「論理派」のほうが正確でしょう。

意味としては、「論理的」とは「話に筋が通っていること」を指します。
論理展開が明確で、様々な要因の因果関係が矛盾なく説明される様子のこと。


それに対して「理論」というのはシンプルに言うと
「現象を法則として示したものの集まり」です。

例えば、有名な「弦理論」という物理の理論であれば、
物質の構成要素の最小単位を粒子ではなく、弦(”ひも”のようなもの)として
自然界の全ての力を説明しようとするもののこと、といるでしょう。

そこには、「弦理論」が前提とする原理から数学の論理で導かれる法則が
複数含まれることになります。

「法則」というのは短い記述で表現されるパターンです。
「〜だと、…になる」といったもの。

数学で表すと、これが等式になるわけです。
等式(イコールで結ばれた式)だと、ある変数の値が増減すれば
他の変数がどのように変化するかが計算として導けます。
中学校の数学でいうところの関数のようなものです。

「弦理論」からは離れますが、分かりやすそうな法則の例として
『熱力学の第一法則』を挙げると、
  閉鎖系の内部エネルギー U の変化 ΔU は、
  系外から流入した熱 ΔQ と、系外から行われた仕事ΔW の和に等しい
のように言語的に書き表されます。
これが数式だと
  ΔU=ΔQ+ΔW
となります。

「理論」には、より具体的に現象を説明した「法則」が含まれる、と。


上記の説明は自然科学分野ですが、社会科学になってくると
物事の法則は数式で厳密に表すのが困難になってきます。

法則を証明するためのデータを集めて、それを統計的に解析して
法則が成り立っていそうかどうかをチェックする、という形が主流。

法則そのものは言語的に表されることが多いようです。

証明されていないとは思いますが、有名な「マーフィーの法則」なんてのも
日常生活でよく起こる現象をパターンとして言葉で説明したという意味で
一応は「法則」のカテゴリーに入れられています。

同様に、例えば心理学でも様々な法則があります。

ダニエル・カーネマンが提唱した「ピーク・エンドの法則」は
 体験が快/不快だったかの評価は、ピーク時と終了時の快/不快の度合いで決まる
という内容のものです。

これはデータをとって示されたもの。
客観的に示されると「法則」と呼ばれることになります。


一方、心理学分野でも「理論」という呼ばれ方をするものがあります。
例えば「愛着理論」とか。

愛着行動と呼ばれる「人への親密さの表現」についての考え方で、基本的には
「子供が正常な社会的・精神的発達をするためには
 ケアテイカー(世話をする人)と親密な関係を確立する必要がある」
といった内容です。

これは展開させれば、
 幼少期に親密な関係の体験がないと社会的・精神的に問題をきたす
という話へと進んでいきます。

その内容について、様々な情報を引き合いに出しながら論理展開して
筋の通った説にしようとしたわけです(もちろん、反論も生みます)。

これは幼少期の愛着と、発達や社会行動との関係を説明した
1つの捉え方であって、数多い解釈の仕方の1つだといえます。

この理論を採用するかどうかは人それぞれ。
愛着という観点から現象を説明するという流派なんです。

で、心理学分野では、こうした理論は正しさを示すことができません。

理論の妥当性を高めるためにデータをとるのが最大限の努力。
実験や調査を行って、愛着理論を裏付けるデータを収集する、と。

ここで登場するのが「仮説(hypothesis)」です。
「この理論が正しければ、こういうときには、こういう結果になるはずだ」
という発想で設定される予測される結論が「仮説」です。

仮説はデータをとって検証可能なように設定されるんです。

理論そのものは検証できないけれど、
「理論が正しければ、こういうことになるはずだ」という予測はできます。

そして実際にデータをとってみて、予測通りの結果になったら
それは、その理論の妥当性を支える1つの根拠になるわけです。


前述の「ピーク・エンドの法則」というのも
 「体験が快/不快だったかの評価は、体験のピーク時と終了時の
  快/不快の度合いで決まる」としたら
 こういう場面では、こういう結果になるだろう…
という予測で実験が設計されています。

例えば…。
 1つのグループには大音量の騒音を体験してもらう。
 二番目のグループには、同じ大音量の騒音の後に、
 それよりも程度の低い騒音を体験してもらう。
 すると騒音の不快さの評価は二番目のグループのほうが低くなった。
…という感じ。

この実験の場合、
 「体験が快/不快だったかの評価は、体験のピーク時と終了時の
  快/不快の度合いで決まる」
という想定の下で、だとしたら
 体験終了時の不快さが小さいグループのほうが
 主観的な不快さの評価は小さくなるはずだ
という予測をたて、
そこから
 「大きな騒音だけを体験したグループより、
  大きな騒音の後に小さな騒音を体験したグループのほうが
  不快さの評価は小さい」
という『仮説』が立てられているわけです。

この仮説1つで
 「体験が快/不快だったかの評価は、体験のピーク時と終了時の
  快/不快の度合いで決まる」
という一般論が全て断言できるわけではありませんが、
この法則を裏づける説明材料にはなっています。

その意味では「ピーク・エンドの法則」の内容を「理論(theory)」として
実験的に立証可能な「仮説(hypothesis)」を立てた、ということができます。

「法則」と呼ばれていますが、
 理論をもとに仮説をたてて、データで仮説を検証し、
 その理論の妥当性を裏づける
という構造には共通点があります。

なので心理学分野では、「○○理論」も「△△の法則」も、どちらも
仮説によって妥当性を検証する対象としての「理論」の一種、といえます。

違いは「○○理論」と呼ばれるもののほうが
複数の「法則」を含んでいる、というところでしょう。

「△△の法則」のほうが具体的な1つの行動パターンについての説明で、
「○○理論」になると、もっと幅広い行動を説明するものになる、と。


ポイントは、
「○○理論」も「△△の法則」も、それ自体では正しさを示すことができず、
妥当性を高める根拠として「仮説」の検証をする手段を採用している
ということです。

ここが圧倒的に誤解されやすいところなんです。

日常的な言葉の使い方では、証明されていない法則やパターンのことを
「それってあくまで仮説でしょう?」
みたいに言われてしまうことがあります。

そうではないんです。
理論は基本的にすべて証明できていないんです。

物理の理論もそう。
相対性理論だって数学的に矛盾なく論じられていて
相対性理論に基づいた仮説の多くが実証されていて、
相対性理論に基づいた応用が役立っている現状があっても、
それでも理論である以上は厳密に正しいかどうかは定かではありません。

かなり妥当で、もっともらしい理論ということで広く採用されているだけ。

むしろ「仮説」と呼ばれるものこそ、実験的に立証可能なんです。
(仮説段階では検証が終わってはいませんが)


つまり、理論とは
 正しいか定かではない法則(の集まり)
だということです。

なので、「理論的」という言葉の用法としては、例えば
「理論的にはそういえるけれど、実際はそうではない」
のように
「理論に沿っていえば」という意味になります。

「矛盾がなくて筋が通った説明の仕方」は「論理的」なんです。
理論的なのではなく。


だからこそ「NLPには理論がない」といった説明は、
別にNLPが論理的ではないという話ではありません。

NLPで論理的に説明することは可能です。
それをやらない人が多いだけで。

論理的な(理屈っぽい)説明を放棄しているわけではないんです。

「理論がない」というのは、
 「こうなったら、こうなる」
 「こういうことを経験したら、将来こんな風になる」
 「こういう行動をするのは、こういう原因である」
のような
『法則』を含んでいない
という話なんです。

NLPの中には、人間の行動や心の動きをパターンとして説明した法則がない
…それが「NLPには理論がない」という意味でしょう。

だからそこから生まれる仮説もなく、仮説を検証することもない。


これはおそらく、他の心理学の理論に対する反発でしょう。

例えば、前述の愛着理論もそうですが、発達心理学には理論が多いようです。

精神分析であれば、
 無意識に抑圧されたものが症状を生み出すため、
 抑圧されたものを意識化すれば症状が解消される
という理論があります。

心理療法にもそれぞれが独自の理論を想定していて、
その理論をベースにした解決のアプローチが作られます。

ロジャースの来談者中心療法だって
 自己概念と経験の不一致が不適応や病理を生み出す
という理論があります。

NLPには、そういう理論はありませんよ、と。

どういうものでも上手くいくパターンを探して
それをモデルとして試してみましょう。
上手くいかなかったら違うモデルを試しましょう。
…そんな発想なんです。

人間を理論に当てはめて理解するのをやめて
1つの考え方で全ての人に対処するのではなく、
その人に起きていることを実際に調べて
上手くいかないパターンを変える。

人の心について「これが正しい」という発想を捨てる。
「法則に当てはめて、目の前の人を見ない」なんていうことはしない。

そういうスタンスが
「NLPには理論がない」
ということなんだと考えられます。

目の前の人の心を論理的に説明できるようにする「説明モデル」は
NLPの中にちゃんと含まれています。

cozyharada at 23:38|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
 〜人を育てる指導力〜

【日時】 
  2019年6月16日(日)
   10:00〜16:30


【場所】 
  北とぴあ 601会議室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細はこちら>>


《瞑想講座》

【日時】 
  2019年6月22日(土)

  午後の部 13:30〜16:30
  夜間の部 18:00〜21:00

【場所】 
  北とぴあ 第2和室

   JR王子駅より2分
   南北線王子駅直結

詳細は後日


《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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