コミュニケーション

2017年11月14日

おもてなしの言葉

外国人講師の接待で和食に行く機会がありました。

料亭と呼ぶほどのものかは分かりませんが
外国人向けに設定されているフシは多々見受けられました。

部屋の内装は、ただ和室というだけでなく
茶室としても使えそうな作りになっていて、
床の間には掛け軸なんかもあったりしました。

トイレの草履を含めて、全体的に日本文化を強調した感じ。
それでも和室の中央は掘りごたつのようになっていて
座椅子と合わせ、外国人の人が和室を楽しめるような
工夫を色々と重ねていたんだろうと思います。

実際、外国人のお客さんを連れてきている人が多い様子で
少し強調された日本の伝統が見せ場なのかもしれません。


当然、接客担当の人(仲居さん?)も和服です。

しかしながら今どきの若い日本人女性を教育するのは大変なんでしょう。
畳の部屋そのものに慣れていない人も多いと思われますし
家族旅行で旅館に行ったことだってない人もいる可能性さえありそうです。

若い仲居さんたちの所作が期待に追いついていないだけでなく、
仲居頭の人がやってもらいたいクオリティのサービスは
十分に得られていないようでした。

教育上のお叱りの声なんかもあったりしましたし。

それでも、10年も勤めてくると仕事の安定感は増すみたいです。
なかには自信と安定感を携えた人もいました。


また、外国人のお客さんが多いということで
英語の教育も多少はしているように見えました。

その中に一人、かなり流暢に英語を使える仲居さんがいたんです。
前述の10年勤務の人。
英語が話せることも自信の一因かもしれません。

実感したのは、サービス業における言葉というのは
 「業務として何をするか」以上にトレーニングしにくいのだろう
ということです。

ときどき妙な言い回しが聞こえてきてしまいました。

例えば
「当店の料理長はフランス料理あがりなもので…」
とか。

「あがり」は、あまりフォーマルでない気がしますが
そんなことはないんでしょうか?

僕は、あまりポジティブなニュアンスで使われない印象を持っています。
(僕の理解が届いていないかもしれませんけれど)

また英語についても流暢ではあるものの
フォーマルさが一切出ていない種類のものでした。

アメリカの接客業ならフレンドリーで済むところでしょうけれど
和風の「おもてなし」をしている様子とはミスマッチです。

声のトーンにしてもアメリカの女子高生ぐらいの雰囲気。

発音は奇麗だったんです。
だからこそ余計にネイティブからすると
相応の年代を思い起こさせてしまいそうな気がします。

きっと高校生のときにホームステイや留学をしていたとか
大学の時に交換留学で行ったとか、そんな感じじゃないかと思われます。

小学校や中学校ぐらいの時期の帰国子女の可能性もありそうです。

しかし確実性が高いのは、海外で生まれ育ったわけではないこと、
そしてある程度若い時期だけで日本に帰ってきていること、でしょう。

ネイティブ感覚があるわけではなく、また
大人の英語に接していない可能性も高そうです。

そうなると流暢だけれどもフォーマルさが一切ない子供っぽい雰囲気が
接客としてしていることと不一致感を生み出します。

ちょうど日本語でも、丁寧な言葉遣いができているのに、
その中に「フランス料理あがり」という言葉があると
異質に感じられるようなもの。

むしろ、おぼつかない日本人英語だけれど
一生懸命に話そうとしている方が好印象を与えられるかもしれません。

話の内容そのものではなく、言葉の選び方とか
声のトーンとかにも、メッセージ性が出てしまうんだろうと思われます。

自分でも気をつけたいものです。

cozyharada at 23:08|Permalinkclip!

2017年11月07日

集中的にトレーニングをしたい

例年、秋は忙しい印象があります。

その理由の1つは、きっと書道でしょう。
作品制作のために費やす時間が、普段よりも多めです。

とはいえ、今年の作品製作期間ももう少しで終わり。
納得のいく形になるかどうかは別にして
締め切りが迫っているところなんです。


それが終わったら少し時間的に余裕が生まれそうなので
そのあたりからフランス語を自分でトレーニングするのと
ロシア語の復習をキッチリするのとに力を入れたい気分。

ロシア語は文法中心で進んでいるため、
圧倒的に練習量が少ない。

単語や文法項目は覚えるだけですし、
それほど覚えるのにも時間はかからなそうな気はしていますが、
それでもまとまった時間が必要ではあります。

もう少ししたら、そこを追いつけそうだ、と。

フランス語については集中的にトレーニングをしたいところです。
一通りの文法は抑えられていると思いますから
運用力を高める目的で、とにかく練習が重要だろう、と。

スムーズにアウトプットできるようにするためのトレーニングと
地道な聴き取り力の土台作りが必要だと感じています。

教材は買い込んであるので、あとはコツコツやるだけ。
そのぐらいの時間はできるはずなので。


おそらくロシア語のほうは、本当に基礎ということで
今までの復習分を頑張って一通り覚えてしまえば
そのあとの理解も一気にスムーズになるのではないかと想像しています。

つまり効果が実感しやすいだろう、と。

その点、フランス語の方は効果の実感が微妙です。

地道なトレーニングが成果として感じられるのには
まとまった期間が必要だと思われます。

幸い、英語を勉強していたときに
振り返って「随分と分かるようになったなぁ」と
感じる経験はありましたから、
その意味で見込みをもって取り組めるとは思いますが。

それでも自分の技能の向上を感じられるかどうかで
ヤル気や楽しさが変わってくるのも実情で、
 どれだけ効果を実感するタイミングがあるか
も考慮する必要があるでしょう。

たまにではあっても、効果を感じるための場として
テストとか、実用的な会話の機会とか、
そういったものを取り入れられたら良いのかもしれません。

英語だとそういう機会も多く用意されているんですが…。
フランス語だと探すところから苦労しそうです。

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2017年11月04日

癖を直すには

ジムに通い始めて半年が過ぎました。

だいたい週二回ぐらいの頻度でしょうか。

東京を離れていたり
夜遅く帰って次の日の朝が早かったり、
というのが4日以上続くと間隔が空いてしまいますが、
そういう特殊な事情がない限り
意外とコンスタントに続いています。

効果が実感できるのが地味なヤル気を出してくれる気がします。

僕の場合、セミナーの後は体が固まりやすいんです。
特に目からくる疲れが首や肩に溜まります。

少し別の観点からいうと、意識の配分が
自分の身体の中よりもセミナールームにいる受講生のほうに
大きく偏ることになりますから、
その意味でも自分の身体を酷使するところがあるんでしょう。

普段は意識に上がっている体感覚が薄れます。

その点、ジムに行って体を動かすと
筋肉の運動や血行を通じて身体の感覚に意識が戻りやすく、
しかも固まった筋肉もほぐれていきます。

固まった肉体を緩める目的にも
偏った姿勢で酸欠になった部分の血行を回復する目的にも
意識が離れていた身体へ注意を戻す目的にも
ジムでの運動が役立っているようです。


そして体を動かす効果としてもう1つ実感できるのが
自分の身体の使い方の癖です。

普段の動作では気づくことのできないアンバランスさ、歪みが
体に負荷をかける動作をすることで自覚できるんです。

エアロバイクを漕いでいれば重心の偏りや姿勢の歪みに気づき、
重りを動かすタイプのマシントレーニングをすると
力の入り具合が左右で違っていることに気づきます。

肉体的にいうと、僕は左腕、左足に力を込めやすいようです。

ですが、普段の生活で筋力のバランスを気にすることはないですし、
歩いている間の全ての時間を、自分の歩行姿勢や動作のバランスに
注意を向けることに使っているわけでもありません。

他に目的や事情があれば、関心の度合いが下がってしまいます。


普段の生活では、その場面において優先度の高いことがあって
そっちを気にするあまり、自分が何をしているかへの関心が下がる。

言い換えると、自分が作業として求めている『結果』に注意が向いて
その最中に「どのようにやっているか」という『プロセス』へ
関心が向きにくくなってしまう、ということです。

そのプロセスの中に癖があって、場合によっては
その癖が結果にさえ影響を与えているかもしれないのに、です。

癖があることにさえ気づかないで過ごしてしまうのが
多くの人にとっての日常なんだろうと思われます。

そこで自覚を高めるためには、
強制的に自覚の度合いが上がるようなことをするのが効率的。

僕の身体の使い方に関して言えば、それがジムでの運動であったり
整体で身体を緩めてもらうことだったり、
瞑想の類であったりするようです。


もちろん、他者からのフィードバックによって
自覚の度合いが高まることもあります。

自分が知らず知らずのうちにやってしまっている癖を指摘してもらい
それを自覚できるようにすることで、
普段のプロセスの最中から心がけて修正する、と。

最近僕にとって役立ったのは英語の発音です。

日本人にありがちな話なんですが、
僕は子音をルーズに発音することがあります。

まぁ、日本語だってアナウンサーのように滑舌よく発声してはいませんし
ネイティブの英語話者にだって発音がルーズな人は大勢います。

誤解を招くほどではないけれど不正確。
そんな音を出すことがあるみたいです。

日本語の癖で「ン(n)」の音を、鼻母音の「ん」にしてしまうとか。

それから口の動きが弱めでルーズになりがちなので
ワ行(「w」[w])、ヤ行(「y」[j])、ラ行(「r」[r])が
曖昧になりやすいようです。

母音を出す前に子音の音をしっかり出す必要がある、と。

同じく有声音の「th」(the, then, thereなど)についても
「d」[d]の音に近づきやすい傾向があるみたいです。

確かに言われてみると、そうだと実感できます。

有声音のときの呼気の量が少ないのもありそうですし、
摩擦音が弱いとも説明できそうです。

とにかく指摘されると気づけるけれど
会話のほうに一生懸命になっていると気づけなかったわけです。

しかしながら、一度指摘してもらって
それを「修正しよう」という意欲が生まれると
あとは色々な場面で気づきに上がりやすくなります。

自分でも他人でも、とにかくそのことが気になるようになる。

そうやって少しずつ正確さの感度が上がって
癖を修正していくことができるのかもしれません。


他人からフィードバックをもらうにせよ、
普段と違う動作で負荷をかけるにせよ、
いつもと大きく違うインプットで強めに意識を向けない限り
自分が自然とやってしまっている癖には気づきにくいのでしょう。

地道な作業ですが、そこに妥協をしないで続けられるかが
どこまで辿り着けるのかを決めるような気もします。

せっかくやるからには、やってみたいものです。

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2017年10月29日

翻訳中の頭の中

ようやく翻訳に一区切りがつきました。

つくづく実感するのは、翻訳作業に重要なのは
英語力という曖昧なものではなく、
言語一般の運用能力なのだろうということです。

英語力と一口に言っても
読解、聴き取り、聴解、語彙、ライティング、スピーキング…
など色々と細分化ができそうです。

もちろん語彙や表現方法を知っているかどうかは
自分が話すうえでも、聞いて理解する上でも重要です。

一方、こと翻訳に関してであれば
(調べる時間がかかることを除くと)
調べて済む範囲としてさほど大きな問題ではなさそうに感じます。

その点、文章を読んで理解する力は、もっと重要そうです。
文章構造を捉えて、論理展開を踏まえ、
何を表現しようとしているかを判断する。

これには文法知識や語彙だけでなく、
頭の中で文章の内容に沿ったイメージを
組み立てる力が求められるように思えます。

実際、母国語で何も気にせずに話すときでも
頭の中には、その文章の内容に対応した
イメージが先行していると考えられます。

伝えたいことが頭の中で組み上がり、イメージのようなもの
(NLP的に言うと五感情報の組み合わせ)が作られて、
その内容に対応した言語情報が選び取られる、と。

この作業において、イメージと言語ラベルの対応が
どれぐらいスムーズに作られているか、
同じようなイメージを違う言語ラベルで正確に言い分けられるか、
…といったあたりが微妙なニュアンスの違いへの理解力を生みます。

翻訳というのは…

 まず、1つの言語で表現された文章を読んで
 一度頭の中でイメージに変換しながら理解して、
 その伝えたいニュアンスを捉える。

 それから、そのイメージを別の言語で最も的確に再現できて、
 かつ、元の文章構造と大きく違わない形に変換する。

というのが求められるのではないでしょうか。

スペイン語とフランス語の翻訳のように
文法構造が殆ど同じであれば、
単語を置き換えるだけで成立する可能性もあります。

英語でもフランス語でもドイツ語でも
ヨーロッパ語圏は、それなりに共通点が多いので
意外と訳の作業は大変ではないかもしれません。

日本語と韓国語も比較的シンプルな対応だけでできるんだとか。
(僕は知らないので聞き伝えですが)

それと比べると、英語と日本語の差は大きい。
文章構造だけでなく、理解のために作り出されるイメージそのもの、
つまり伝えようとしているイメージさえも違うんです。

日本語は静止画が多いけれど、英語は動画が多いとか、
日本語は横から見るイメージが多いけれど
英語は正面に向き合ったようなイメージが多いとか。
そういった違いもありそうです。

そこをシンプルに単語の置き換えで対応すると
英語を日本語にしたときに奇妙で理解しがたい文章になりがちです。

何が書いてあるかは分かるけれど、意味が捉えられない。
そんな感じ。

英語と日本語の翻訳が、そのように
シンプルな単語レベルの対応だけでは成立しないとすると、
翻訳では文章そのものを読解する能力が必要になると考えられます。

つまり頭の中でイメージを組み立てて、
そのイメージの持つ微妙な意味合いの違いに敏感になりながら
それとピッタリ合った言い回しに置き換えていく、と。

これをやるには、そもそも
 頭の中のイメージ(=伝えたいこと)を
 言葉で正確に表現する能力
が必要になるでしょう。

それが2つの言語のどちらにも求められる。

この能力は、単純に英語や日本語で
つっかかることなく流暢に言葉を出せることとは無関係です。

流暢に表現しているからといって
その言葉の選び方が伝えたい内容を
適切に、過不足なく表しているとはいえません。

だから母国語でも言語運用能力に差があるわけです。

アメリカではアカデミック・ライティングを中心に
ある程度、このトレーニングをするようです。

少ない文字数で濃密に、しかも論理の飛躍なしに
表現したいことが全て詰まった形の文章になるように書く。

手直しをされながら、何度も書き直してトレーニングする、と。

しかし日本の教育には、そういう要素が少ない印象があります。
僕は少なくとも受けた記憶がありません。

おそらく僕の場合、
理系の研究報告として論理性のある考察を書くトレーニングを積み、
英語の勉強としてアカデミック・ライティングをやり、
それをNLP的に五感のイメージと対応させる習慣がついたことで、
言語表現と伝えたいイメージとの対応が
かなりスムーズになってきたんだろうと思われます。

それは文学的な美しさとは全く別物で
ニュアンスの違いをやり取りする上での正確性だけの話です。

今、翻訳の依頼を受けると、
これまでの地道なトレーニングが役立っているのを実感します。

裏を返すと、高校の頃、英語の授業でやっていた読解練習は
ただの単語の一対一対応としての訳であって、
何の理解もしていなかったような気がしてきます。

辞書を引きながら1ページ分の訳が終わって、
書きあがった日本語の文章を見直しても
チンプンカンプンだったのは無理もないことでしょう。

根本的な言語能力のトレーニングも
1つの役立つ要素なのかと思います。

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2017年10月22日

海外からの”達人”

この週末、4日間にわたって
海外から講師を招いたセミナーのお手伝いをしています。

自分でやるときとは全く違った肉体疲労もありますが
刺激的な体験をさせてもらっている感じです。

先生は心理学で博士号をとった発達心理の専門家で
大学では教育学部に身を置きながら、
学生の教育だけでなく社会人向けのトレーニングにも
長きにわたって携わってきたとのこと。

自然体で大げさではないものの
実直で無駄のない、洗練されたスタイルで講座をしています。

もちろん学び方の構造そのものも教育は発達の観点から
意図的に設計されたものだと思われますが、それ以上に
受講生とのやり取りの中にも効果的なアプローチが多々見られます。

かなり多くのことを工夫しているんでしょう。


サラッと見てしまったら何がスゴイんだか分かりにくそうでも
実体としては、熟練されているからこそのシンプルさがある。

料理人でも様々なパフォーマンスを見せて
見る方でもお客さんを楽しませようとするタイプの人もいれば、
ただひたすらに全てを料理に注ぐ人もいます。

ともすると所作に美しさが感じられないほど
当たり前に、むしろ適当そうにやっている様子でも、実際は
その何気ない自然体が知恵と技術と経験の集大成になっている…
そういう達人がいます。

素人から見ると簡単そうに見えて、
それぐらいできてしまいそうな気がするのに、
出来上がったものには決定的な違いがある、と。

書道なんかもそういった分野でしょう。
過度にならず、さりげなく、絶妙なバランスを取る。
そこに伝統的な美の基準と品格が出るようです。

アメリカ人で、大学の教授でありながら
そういうタイプの人がいるというのは面白いものだと感じます。


個人的に興味があるのは、
どれぐらいの意図でセミナーを設計しているのか、です。

表面的に伝えていることと、実際に出そうとしている影響とには
もしかしたら差があるんじゃないかという気もします。

分かりやすくビジネス分野の人たちに魅力的なテーマを作り、
裏で与えている影響は、もっと人間的な側面のほうにあるような印象。

大勢の人に向けて分かりやすい構造を作りつつ、
その中に大切な種をまいておくような感じでしょうか。

こういう方向の伝え方も求められるのかもしれないと思った次第です。

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2017年10月19日

【ワークショップ】心を調える実践会(2017.11.5)

ご案内: 11月5日

   心を調える実践ワークショップ


日程のお知らせだけブログの片隅に出していましたが
 11月は、5日(日)に
修行の場としての実践ワークショップを行います。

繰り返しと発展を重ねながら継続するのがポイントになりますので
ご案内の内容は先月のものと同じです。

先月にご参加の方は、下の方にスクロールしていって
そのまま申し込みフォームをご利用ください。
(もちろん大事なコンセプト説明ですので
 読み直して頂くのもありがたいですが)

一応、継続の重要性を強調するために関連した内容を追記しておきます。


最近、勉強の仕方というのは難しいものだと、つくづく感じます。

勉強熱心な人を見かけるにつけ、その勉強のやり方の個人差が
大きな違いを生み出しているように思われるからです。

ある人は徹底的に原点から学ぼうとします。
手に入るのであれば中古でも原著を手に入れ
できるだけ大元に近い、歪みの少ない情報に触れようとする。

伝言ゲームとまでは言いませんが、
世間に広まる情報は、媒介する伝達者が増える
(≒伝言ゲームの人数が増える、ステップが増える)
ほど、伝えられる内容に含まれる変化が大きくなりがちです。

だからこそオリジナルに近いところから学び直し、
細かな違いさえも誤解とならないように正確さを心がけるようです。

これは大変な労力と時間を要します。
後から情報源を検索できるように、引用文と書籍名、ページ数などを
記録しているのも見たことがあります。

要領が良い学び方ではないようで、
本質的な特徴を掴み、一通りを整理できるようになるまでに
時間がかかりやすいところはあるみたいです。

その分、整理が進むにつれて情報量の多さと
理解の深さは増していきます。

時間はかかるけれど到達点は高いのかもしれません。


別の人は、関連することを幅広く勉強します。
その分野で評判のいい本、話題の本を手に入れ
その本を何度も読み返してノートにまとめ、情報を整理する。

主な話の展開を押さえつつ、
重要なところ、役に立つところを抽出します。
要点をまとめるわけです。

まとめの作業の時に、正確な引用をするかどうかよりも
自分にとって使える内容になっているかの方が重視され、
自分なりの勉強ノート集のようなものが増えていきます。

こういう勉強のスタイルは学校教育で効果的だといえます。

大学の後半に専門分野を学ぶようになるまでは、
幅広い分野の要点を押さえておくのが求められます。

そこでは教科書の正確な引用は重要ではありません。
むしろ同じような内容であれば「分かっている」とみなされます。

厳密な情報ではなくても、ポイントを押さえ
「これって、こういうこと」という大まかな理解を増やす、と。

このスタイルは要領がよく、短い期間で幅広い内容を捉えられます。
その反面、情報の正確さは減り、複雑で細かい区別はなくなります。


世の中としては、後のタイプの勉強法のほうが人気があるようです。

新しいことが分かるし、早くポイントも掴める。
面倒なことが少なく、分かりやすく、好奇心の範囲も広がります。

一方、本質に近づこうとしたときには
前のタイプの勉強法のほうが目的には合っているように見えます。

狭い範囲ではありますが、深く学べます。
正確な情報を細かく区別して、場合分けをしながら整理する。

膨大な情報量に繰り返されるパターンを自然と掴めるまで
時間はかかるものの、膨大な情報から抽出される共通点は
法則の重要性として揺るぎないものとなるわけです。

そして興味深いことに、
どんな分野でも本質に近づくと似てくる部分がある。

だからこそ「本質」なのかもしれませんが、
どのルートでも到達点は同じところに向かっているのかもしれません。


目的として「到達点」を重視するのだとしたら、
1つのことで深堀りするほうが効果的だと思われます。

ポイントを押さえたら新しいことに進むのは
知識の範囲を広げ、好奇心を満たす楽しい行為ですし、
それによって自分の経験則が整理されるときもあるでしょう。

言葉で納得できる喜びは大きいと思います。
その一方、自分が大事だと思うこと、好きなことが
ポイントとして抽出されてしまう可能性もあるんです。

厳しく言うと、自分が分かっていることの再確認であって
到達点として先に進んでいるわけではないかもしれない、と。

到達点のほうを重視するのであれば
目先の楽しさがなくても地味な取り組みを続ける。

その限られた骨組みの中で、知識と体験を重ねて情報を増やし、
骨組みに肉付けを続けていくスタイルです。

そして骨に肉がついてきたころ、本当の姿が見えてくる。

いろいろな骨格に共通する特徴を知りたいのであれば
いろいろな動物の骨組みだけを見たらいいでしょう。

自分が解体しなくても、他の人が残してくれた骨格標本があります。

しかし1つの骨格をもとに肉付けをして
その本体の全体が掴めるようになると、
骨とは違った生の実体が見えてきます。

そして、どんな骨格を基にした生の実体にも共通点がある。
こちらは肉付けが終わったものを理解して初めて見える特徴のようです。

ここでいう到達点とは肉付けが終わったあとの全体像のほうです。
本当はどんな姿をしているのか?
それは骨格だけではありません。

しかし一度、骨格に肉付けをしていれば
骨格だけを見ても元の姿が想像しやすくはなります。

こっちが分かってくるのを「到達点」、「本質」と呼んでいるんです。


このワークショップでやっているのも本質を目指す方向です。

広く浅く、新しい知識を次々に仕入れていくのではなく、
1つの原則を基にして、そこを骨格として
ディスカッションやワークを通じて理解と経験を増やし
情報の肉付けをしていこう、と。

厳密には毎回カスタマイズされながら異なった内容になるわけなので
同じことの繰り返しではないですが、
「1つの骨組みにまつわることを続けていく」点では
繰り返しの修行が効果的だということです。

そこで本質を掴んでいくほどに、苦悩が減り、楽になり、
同時に他人の苦しみへの共感性が高まることで思いやりが増える。
そして自由になります。

そんな感じの時間を取りましょうという話なんです。

以下は前回の内容の繰り返しになりますが
ワークショップのご案内と申し込みフォームです。


----------【以下、本文】----------

具体的に何をするかは毎回、ご参加の方に応じて
柔軟に変わっていくはずですが、
原則とする部分は常に共通しています。

とにかく『心を調える』をテーマとして実践する

人は生きてくる過程で社会に合わせることを求められ
効率的な振る舞いのパターンを学習してきます。

そして学習されたものがワンパターンになり自動化される。

このパターンが、置かれている状況で上手く働いてくれれば
何も問題を感じることはないでしょう。
スムーズに進んでいるように感じられると思います。

一方、今までのパターンが通用しなくなったとき、
とりわけ今まで上手くいっていたもの、
自分の強みだったものが空回りしだしたときには、
大きな行き詰まりが感じられるようです。

無理もありません。
今まで強みとして使えて望ましい結果も出ていたのですから
それ以外の方法を模索しようともしてきていないでしょう。
ワンパターンになっている度合いが強く、
柔軟性が小さくもあるからです。

しかも強みだと自認していたということは、
それが自分らしさの支えにもなっていたわけでもありますし、
能力面の自信の源にもなっていたはずです。

そこに空回りが出て上手くいかない環境に身を置いている…。
となると、上手くいかない不満だけでなく、
自分の強みへの自信を失っていく体験にもなります。

ショックの度合いが強いんです。

かといって変わろうと思っても、
「でも、これが自分らしさだから…」と
その強みとは真逆のことなんてやりたくも思えない。

例として良くあるのが、
 何でも自力で切り開いてきた行動力のある人が
 管理職や経営者として他人に仕事を委ねる必要性が出てきたときに
 部下へ仕事を任せられず自分で仕事を抱えてしまう
といった話です。

自力で頑張る行動力という強みが、
管理職・経営者という状況に合わなくなってきている。
その状況に適応するために変化を求められている、ともいえます。

もちろん今までのパターンを使い続けるのも1つです。
上手くいく環境に身を置くようにするのも1つでしょう。
(例:自力で頑張りすぎて人に任せられない → 一人で仕事をする)

その一方で、
 状況に適応するように自分が変化する
という向き合い方もあります。

このワークショップにおける『修行・実践』の形態としては、基本的に
 自分が変化して状況に適応できるような「しなやかさ」を育む
方向性で進んでいきます。

中には改善しようのない状況もあるかもしれません。
その場合には「変えられないことを無理に変えようとする」心の癖を
調えるように取り組むことになるでしょう。
これも「自分が変化して適応する」1つの形です。

とにかく自分が変化する。

ただし無理やりにというのではなく、
より自然体で柔軟に、です。

今まで身につけてきたものを捨てるのでもありません。
新しいやり方も身につけて、選択肢を増やして柔軟性を高めます。
ワンパターンから離れて、クリエイティブな自由度を高めます。

そういうスタンスです。


そのために技術トレーニング、心理療法的なイメージワーク、瞑想、
質疑応答やディスカッションを行います。

新しいやり方を「知る」だけで解決されるケースもありますから
その場合は質疑応答やディスカッションが機能します。

今までやったことのないやり方を身につけるには
技術トレーニングが有効です。

心の癖になってしまったワンパターンの振る舞いを変えるには
イメージワークや瞑想が効果的でしょう。

哲学的な問い、実存的な問いなども出てくるかもしれません。
そのあたりはディスカッションや瞑想で取り組むことになりそうです。

 ※実際には、質疑応答やディスカッションなど
  ワークショップ中の様々な体験が心の癖を調える刺激になります。

変化の種類は、
 ・今までのパターンとは違ったパターンを学習し直す(再学習)
 ・今までのパターンを手放す(脱学習)
の2通りだとも説明できます。

以上のことを前述のとおり、ご参加の方のニーズに合わせて
いろいろな技法を組み合わせながら進めていきます。
(もちろんご要望があれば技法そのものへの質問も解説します)


「心を調える」という趣旨でいうと、
再学習と脱学習は両方とも実践することになるはずです。

実践の効果は悩みが減って楽になること。

身体が調うと痛みがなくなったり、日々が快適に過ごせたりするように
心も調うと、それだけで楽になっていくものです。

日々のストレスが蓄積した心の”しこり”、”こわばり”を緩め、
必死にしがみついている”昔の癖”を手放したり、学び直したりする。

それはちょうどマッサージや施術を受けて身体が調うのと、
自分で姿勢や歩き方を変えたりストレッチで柔軟性を高めたりして
だんだんと昔の身体の癖を修正していくのとに対応しそうです。

そうして心が楽になっていくと、自然と持ち味も発揮されてきます。

スポーツ選手がマッサージやストレッチで体のケアをするのは
身体に疲労が溜まっていると運動のパフォーマンスが落ちるからです。

心も同じようなものです。
心に苦悩が溜まっていると、その人の持ち味が発揮しにくい。

その人が持って生まれた素養や、
もしかすると、この世に求められている姿なんかも、
スムーズに表しにくくなってしまうのかもしれません。

多くの人は「自分らしさ」や「本来の自分」、「自分の使命」などを
何か定まった1つのことのように捉えて、それを探そうとしがちです。

しかし厳密には、「これだ」と定められるものは
過去の体験の延長でしかありません。
これまでに作られた心の癖をもとに判断した「自分らしさ」なんです。

自分はそれほど限定されたものではありません。
あなたはそんなに制約されていません。
はるかに大きな可能性が、変化を受け入れるスペースがあります。

もっとも自分らしい、本来の自分の姿は
あらゆる心の歪み、心の癖から解放されたときに見えてきます。

ワンパターンから離れ、そのときどきで最善の対応ができる。
そのときに内側から自然と表れているものが「自分らしさ」です。

どうやらこれは、心の癖から完全に離れたとしても
個人個人で違った表れ方をするようなんです。
経験によって学習されたものから離れてもなお
人間にはそれぞれ違った素養が備わっているのかもしれません。

心の歪みを取り除き、自然な状態に調えるのは、
自分を自分らしく生きる実践でもあるわけです。

自分らしさの修行をして、ひたすら自分を実践するんです。

だから修行はいつまでも続きます。
自分が自分でいる限り、それは修行なんです。

そういうワークショップです。
それを一緒にやりませんかというお誘いです。

心に響くものがあり、時間の都合があうようでしたら
お気軽に足をお運びください。



◆録音に関しまして
ワークショップ中の内容は、ICレコーダーや
スマートフォンなどで記録いただいても構いませんが、
あくまで個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。



※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。





【ワークショップの詳細】

≪心を調える実践会≫

【日時】  2017年 11月5日(日)
       10:00〜16:30


       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。

    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。








修行に終わりはないそうですから、このワークショップも
継続的に開催していきたいと考えています。

コミュニケーションの技術的なこと、知識レベルのこと、
哲学的な問いについてのこと、心の苦しみについてのこと…。
心と関することであれば取り組めます。

そのときどきで、ご参加の方に応じて、内容は変わるはずです。

同じ内容を何度もやる場合もあれば、
毎回違ったことをやる場合もありえます。

人によって体験することも違うでしょう。

体系化されたプログラムではなく
そのときどきの実践を重ねていきます。

禅の大事な側面に「修行を分かち合う」ことがあるらしいです。

ワークショップという形で同じ場、同じ時間を過ごすのは
それだけでも何かの意義があるのかもしれません。

お越しをお待ちしています。

cozyharada at 23:47|Permalinkclip!

2017年10月16日

伝える工夫にはキリがない

セミナーの仕事をする以上、人前で話すことは多いものですが
実際の難しさでいうと、人前でない情報発信のほうが
本来は工夫が求められるものなのかもしれません。

人前というと緊張しがちなイメージを持たれる一方、
目の前に反応してくれる人がいるのはメリットでもあります。

伝わっていないようであれば表情や姿勢で教えてくれますし、
どういう説明をすると分かってもらいやすいのかも
その場にいる人に合わせる形で進められます。

質問が出やすい雰囲気にさえなっていれば、
説明が漏れたり、説明が早かったり、表現が複雑だったりしても
質問をしてもらえるので言い換えたり補足したりできます。

その意味で最初からキッチリと表現できていなくても
現実的な問題は起こりにくいわけです。

もちろん、目の前の聴衆とコミュニケーションをするときでも
工夫のしどころは沢山あるとはいえます。

が、どれほど工夫しても全員に届く説明は困難でもあります。

隣の部屋から騒音がしてきて集中力が途切れたり、
メモを取っている間に説明を聞き漏らしたり、
あまりにも個人的な事情に当てはまるケースのために
自分の過去を振り返って感じ入っている間に話が進んでしまったり、
…何かしらの要因で話を聴きそびれることはあるものでしょう。

だからこそセミナーでは繰り返し、言い方を変えて話したり、
別のタイミングで同じ内容に触れてみたり、
冗長になってでも説明の量を増やしたり、
事例を追加したりしながら、伝わるための確実性を上げていけます。

つまり「必要最小限の情報で確実に届ける」というのは
現実的に厳しくもあり、逆にそうしなくても大丈夫なことが多い
ともいえそうなんです。


それに比べると記録された媒体での伝達、
人前ではない場面での情報伝達、
…例えば書いた文章とか録画・録音した教材とか…は、
もっと制約が多いように感じられます。

冗長になっても進みの遅さを感じさせかねないし、
かといってシンプルにまとめ過ぎたら
情報量が少なくて理解しきれないこともある。

例が多いと分かりやすい人もいれば、
自分に関係のない例は不要に感じる人もいる。

分かるかどうかの話だけではなく、
筋が通っていると感じてもらうには
論理の飛躍がないように情報提供する必要がありますが、
それだって行間を汲み取る人にとっては余剰に思えるようです。

そのインプットの行為(読んだり、聞いたり)を
どれぐらいの積極性で取り組んでいるかも個人差があります。

積極性が十分でなければ、前向きになってもらうような
話の組み立ても必要になるかもしれません。

そうした様々な条件を踏まえながら
過不足なく纏め上げるのは簡単なことではないだろう、と。

少なくともリアルタイムに対応できる人前での説明より
工夫することが多くなると思われます。


例えば、1つの技法の手順を説明するとします。
営業とか説得とか、そういう技法。

技術ですから、
使うべき場面・状況があって、
何のためにするか?という目的があります。

目的は「こういう結果を得るため」という
技術を使った影響としての結末と結びつきます。

そしてその結末に辿り着くために手順がある。
「まず〇〇して、次に△△して…」というステップ。

同じことを話すにしても、どういう順番で話すかによって
聞く人の理解の仕方は異なってくるはずです。

場面・状況を出発点にしたら
「技法の使い方・how to」としての意味合いが強まりそうです。

「こういうときには、この技法を使います。
 まず〇〇します。次に△△します。それから…。
 すると〜な結果が得られます。
 …なメリットがあるということです。」といった具合。

ところが同じことでも、技術の目的、重要性を強調するなら
予想される結末から話した方が都合がいいかもしれません。

「この技法を使う目的は…なところにあります(メリット)。
 〜な結果を得るために使う、ということです。
 その結果のためには、こういうことが求められます。
 そのためには△△が必要なんです。
 だからこそ、まず最初に〇〇をするわけです。」といった具合。

同じ内容でも、手順のように説明することも出来れば
目的や重要性の説明として話すこともできます。

そのときにどちらを強調したいのか?
受け取り手がどういう状態のときの説明なのか?

そんなところで説明の順番さえ工夫のしどころがある、と。


そんな風に可能な工夫を挙げていったらキリがなさそうです。
妥協しなければ沢山やれそう。

双方向性の低い伝達、リアルタイムではない伝達のほうが
工夫する余地が多いのではないか、ということです。

そう考えると人前で話すのは、
むしろ楽な部類なのかもしれません。

cozyharada at 23:39|Permalinkclip!

2017年10月13日

直接教えてもらうメリット

ロシア語のクラスも3回目が終わったところです。

ようやく文章に入ってきました。
ロシア語の文法は複雑だという話ですが
まだその片鱗も見えていません。

単に、文字に馴染みがなく、
想像もつかないような単語が多いというだけ。
覚えることの多さはあっても、複雑さまでは感じられていません。

そう思うと、日本人は知らない間に英単語に触れる機会が多く
英語教育を抜きにしても英語への露出は多いのを実感します。


文法の複雑さまでは触れていない段階ですが
初出の単語を覚える過程や、基本的なルールを把握する段階として
「授業を受ける」ことの効果は強く感じられます。

不思議なもので予習として教科書を読んでいるときや
自習で参考書を読んでいるときに起こる理解の状態よりも、
授業中に教わるほうが納得度と記憶の定着度が大きいんです。

一度に扱う量が多くないこともあって、
授業に出ているだけで覚えられるところが沢山あります。

それは自習では得られない効率なんです。


1つには情報量の多さがあると考えられます。

ここでいう「情報量」というのは、
授業中に扱う単語の数とか、文法事項の量とかの話ではありません。

学習の体験中にインプットされる刺激の量の話です。

自宅や電車の中ではない特殊な学習環境や、黒板に書かれる文字、
教科書の文字、自分で書いたノートの文字などが視覚情報、
先生の話による説明、発音練習の時の声が聴覚情報、
発音するときやメモを取るときの筋肉の感じや教室の空気などは
体感覚情報としてインプットされています。

この五感レベルでのインプットが多いのが
記憶に残りやすい1つの理由だろう、と。

記憶は情報の結びつけとして記録されるようですから
関連するものと結びついているほど残りやすいと言われます。


その意味では、授業の場合に受動的に理解できるのも大きそうです。

本を読むときは、読んで理解するという作業を自分でやります。
能動的な要素が含まれるわけです。

一方、授業を聞くときは自然と情報が流れ込んでくる感じがあります。
少なくとも「読む」という能動的な行為をしなくていい。

そのため説明を聞きながら、関連する概念と結びつけたり、
法則を頭の中で整理したりする時間があります。

僕の場合、ロシア語を英語、フランス語、日本語と対応させます。
そこで比較・対照を行って、共通点と違いをもとに整理すると
既に自分が持っている記憶のネットワークに追加できるわけです。

新しいことを勉強していても、完全にゼロからではなくなります。

整理をする過程で、区別のために必要な情報がまだ説明されていなければ
その時点で先生に質問をしてハッキリさせることもできます。
(当然、「質問した」という体験も記憶を促進させるインプットになる)

このあたりの「頭の中で情報の整理をしながらインプットを受ける」
という状態が、受動的でいられる授業形式のメリットだといえそうです。


ここまでであれば、動画レッスンでも近い効果は得られそうです。
オンラインでも同じかもしれない…?

ですが、ラポールやペーシングという話になってくると
また別の要因も関わっているような気がするんです。

それは「分かっている感」の共有。
ロシア語っぽさの雰囲気とか、
ロシア語を話すときの内面の状態とか、
ロシア語の文法を分かって覚えている人の頭の中の感じとか、
そういう内的な状態もラポールを通じて影響されそうな気がします。

シンプルに言うと、
 分かっている人と同じ場を共有して、
 ラポールのある状態で教えてもらうと
 理解が進みやすい
ということ。

ここがライブで教わるメリットの1つじゃないかと思えます。

特に分かっている人から教わるほど、そのメリットは大きい。

やはり直接教わるのであれば、分かっている人のほうが良さそうだ
と実感させられるロシア語の授業です。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!

2017年10月10日

英語から日本語へ

翻訳作業で少し立て込んでいました。
ようやく一区切り。

あとはミスがないか見直すぐらいです。


翻訳をしていて実感するのは、意外と
普段は、自分の頭の中で日本語を介さずに理解しているらしい
ということ。

いざ日本語の文章にしようとすると
日本語らしい文章の構造だとか、理解しやすい順番だとかを
工夫するのに予想外に手間がかかることがあります。

また、日本語に変換しにくい単語もあったり。
「commit」なんかは「コミット」でも良いのかもしれませんが、
カタカナ語の「コミット」がどれぐらい一般的なのかとなると
いささか自信がないのも実態。

かといって辞書の意味で「commit」を訳すと
元の文章の趣旨とはズレてしまう印象もあったりします。

同様に、日常的で簡単な単語でも日本語にしずらいことがあります。

ですから英語として読んでいる段階ではスムーズなものが
日本語に変換しようとしたときに時間がかかる。

英語の文章を読んで、それをそのまま書き写すよりも
頭の中で自然な日本語を組み立てるのに長い時間が必要なようです。

逆に言えば、英語の文章を読んで理解するときは
日本語を使っていないらしいということ。


いつからそうなっていたのか分かりませんが
高校生の時にひたすら長文読解をさせられていたときは
全文を日本語訳(直訳)するのが授業の準備だった記憶があります。

研究をするようになって論文を読んでいたころは
あまり日本語訳をしっかりしていなかったような気がします。

それは理系の専門分野になってくると使われる単語が限られてきて
英語の日本語の差が、あまり大きくないこともあったからです。
知らない単語の意味を調べさえすれば、
それ以上の日本語訳は必要なかったように思います。

そのあたりから徐々に全訳しなくなっていったのかもしれません。
少なくとも英語の順番で理解する癖がついていったのでしょうし、
英語でしか知らない単語は英語のまま使っていったように思います。

その分、英語と日本語の切り分けが進んでいって
しっかりと対応させようとしたときには
全訳をしていたときのような頭の使い方に
戻らなくてはいけないんでしょう。

全訳をするトレーニング量がそれほど多くなく、
むしろ訳さずに理解する経験の量が上回っているため、
作業としてのスムーズさの点で
全訳のほうが負荷がかかるように思われます。


そう考えると翻訳の作業も繰り返していけばスムーズになって
 英語を読みながら、そのままキーボードで日本語を書き出せる
といったところまで辿り着けるのかもしれません。

通訳の場合には、また違った頭の中の作業が必要そうですから
そちらには別途のトレーニングも求められると思いますが、
いずれにしても英語と日本語の間の繋がりが強まって
変換がスムーズになってきたとすると、おそらく
頭の中で英語と日本語が同時に進行する感じが出るような予感がします。

英語を読みながら、頭の中で英語の黙読の声を聞き、
同時に日本語の翻訳の声も聞こえている…。
そんな体験が起こってくるんじゃないか、と。

僕の場合、英語をトレーニングしてくる過程で
そうした相互の結びつきは作られていません。

単語レベルでもキッチリ対応していないものもあるようです。

頭の中のイメージを単語やフレーズに対応させる段階で
英語と日本語を別々にやっている度合いが大きい印象を受けます。

例えば、「頭」と「 head 」は同じ概念として整理されていない。

翻訳を効率化するには、1つの同じ概念に対して
日本語と英語のラベルを2つ貼るような整理の仕方が求められそうです。

そして経験を重ねて、長いフレーズの単位でも
日本語と英語の2種類で対応させてしまう。

単語を組み合わせて文章を作る、というよりは
「この英文は、この日本語」といった対応パターンを増やす感じ。

相互に対応したパターンの多さが翻訳や通訳のスムーズさに繋がるとしたら
二か国語を使えることと、翻訳・通訳できることとでは
頭の中の作業には大きな違いがあるような気がしてきます。

ある種の専門技能が必要ということかもしれません。

良いか悪いかではなく、チョット考えさせられる部分です。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!

2017年10月06日

I'm sorry.の意味

「 I'm sorry.」というと
日本語の「ごめんなさい」の意味で理解されるケースが多いようです。

日本の受験英語では「ごめんなさい」だけでも
十分なのかもしれません。

一方、実際の英語での会話においては
「お気の毒に」といった意味でも使われます。

自分が相手に何か悪いことをして
「申し訳ない」という気持ちになって
「 I'm sorry.」というのだけが全てではない、と。

誰かが不運や災難、残念な出来事に遭遇した。
「実は、かくかくしかじかでさ。本当にもう…。」
なんていう話を聞いたとき、
その相手の気持ちを汲んで「それは気の毒に…」という趣旨で
「 I'm sorry.」と口に出すこともあるんです。

頻度的には「ゴメン」の意味のほうが多そうですが、
「お気の毒に」の意味で使われることも結構ある印象を受けます。

海外ドラマや洋画なんかだとトラブルや事件を描くことが多いためか
自然と「お気の毒に」の意味の「 I'm sorry.」も多くなる気がします。


実際にこの「 sorry 」という形容詞の語源を調べてみると
「(ヒリヒリ)痛い、心が痛い」の意味の「 sore 」と
同じルーツだという話が見つかります。

ということで「 I'm sorry.」を「心が痛みます」と捉えると
「お気の毒に」の意味でも「申し訳ない」の意味でも
どちらも心を痛めている状態を説明していることになって
共通点が見てくるんじゃないでしょうか。

その意味でいうと「悪いことをした」と思って謝る場面で
「 I'm sorry.」と言うのは、元々
「自分のしたことで、あなたに嫌な思いをさせて私は心が痛みます。」
といった意味合いだったと考えることができそうです。

もちろん、ほとんどのネイティブなそんなことを考えて
「 I'm sorry.」と口に出しているわけではないでしょう。

挨拶に近い定型のフレーズにもなれば、幼少期に
 こういう場面では、このように言う
というパターンだけを学習して
意味を考えることもないまま使い続けているのが一般的です。

日本人だって「こんにちは」と挨拶をするとき
その意味を考えて、気持ちを込めているわけではありませんから。

「《おや、2日ぶりですね。
  見ない間にお体に変わりがないか気にしていました。
  いつもあなたが健やかでいてくれるよう祈っていたんですよ。それで》
   今日は(こんにちは)
 《ご機嫌いかがですか?》」
…なんて気持ちで「こんにちは」と言う人は滅多にいないはずです。

ただ顔を合わせたときに決まり事として「こんにちは」と言う。

同じように、相手へ申し訳ないことをしたときに
日本人だったら「ごめんなさい」と言い、
英語ネイティブだったら「 I'm sorry.」と言うだけのことだと思います。


それどころか、場面ごとの対応パターンとして学習されただけの
「ごめんなさい」、「 I'm sorry.」は、
そこに込められる気持ちにも個人差があるのが実情です。

何かをしたときに親に怒られた。
どうやら悪いことをしたらしい。
こういうときには「ごめんなさい( I'm sorry.)」って言うんだったな。
…そんなパターン化された対応として学習されます。

親によっては叱るときに怒りとともに
見捨てるようなメッセージを出す場合があります。
そうなると子供は「見捨てないで!許して!」という悲痛な叫びを込めて
「ごめんなさいー」と言うようになる。

あるいは、怒られたときに「あーあ、やっちゃった…。どうしよう…。」
という落ち込んだ状態を示しながら「ごめんなさい」を言ったときに、
親が「そんなに反省してるんなら、もういいよ、次は気をつけなさい」
といった具合いに態度を変えてくれたりすると、
落ち込みを表現するための「ごめんなさい」が定着します。

謝っても謝っても許してくれないときには、
次第に怒りの感情が混ざり込んできて
「こんなに謝っているのに、なんで許してくれないんだ!ヒドイ!」
といった攻撃性を込めながらの「ごめんなさい」を学習するようです。

問題解決志向が強い環境だったとしたら
「ごめんなさい」の意味は、「二度とないように気をつけます」という
反省のメッセージで使われるようになるかもしれません。


「ごめんなさい( I'm sorry.)」の実態が
相手から許してもらうための懇願なのか、
落ち込みや後悔の表現なのか、
自分を怒りつける相手への攻撃なのか、
改善の意思表明なのか、
いろいろなパターンが学習によって人それぞれ身につきますが、全てが
「 sorry 」の元の意味のように心を痛めているわけではありません。

許してもらいたい「ごめんなさい」においては
見捨てられるかもしれない恐れに心を痛めているとはいえます。

落ち込みや後悔も、自分の愚かさを責めたり嘆いたりする形で
自分の心を痛めているとはいえるでしょう。

相手への攻撃は、傷ついた自分を守るための反発という意味で
心を痛めたことが出発点だったとはいえそうです。

改善の意思表明は、視点が未来に向いていますから
心を痛めている度合いは、さほど感じられないかもしれません。

ここに挙げた例では、心を痛めていたとしても
『自分のために』心が苦しいことに注目してください。
『相手のために』心を痛めているわけではないんです。


「お気の毒に」の意味での「 I'm sorry.」は
相手のために自分の心を痛めているケースです。

自分とは関係のない相手。
でも相手の苦しみへの共感から生まれる心の痛みがあります。
相手に対する同情・思いやりが生まれています。

そして本質的には、「ごめんなさい」の「 I'm sorry.」でも、
自分が悪いことをしてしまった相手に対して
その相手が感じている苦しみを思いやれたとき
相手のために心を痛める状態が生じてきます。

自分が許してもらいたいわけでもなく、
自分が後悔や落ち込みを感じているわけでもなく、
傷ついた自分を守るために反発するのでもありません。

自分が悪いことをしたのは分かっている。
けれどその自分の行動以上に、相手に関心があるんです。
苦しんでいる相手を知り、その苦しみの強さを実感し、
「そんなに辛い気持ちだったなんて…」と苦しみに共感して
「お気の毒に…」「かわいそうに…」といった同情・思いやりが湧く。

そうして相手のために自分の心を痛めながら
「ごめんなさい( I'm sorry.)」が言えると、
実際のところ、関係性は大きく変わるようです。

なぜなら相手は、本人に関心があるからです。
謝ってくるほうの人への関心は低い。

謝る側が自分に関心を向け、自分のことで心を痛めていたとしても、
謝ってもらう側としては「そんなの、そっちの都合でしょ!」
といった気持ちになりかねません。

謝ってもらう側は「どれだけ嫌な思いをしたか」を分かってもらいたい。
苦しみに共感してもらいたいわけです。

謝る側が勝手に反省しているのを見るよりも、
苦しみに共感してもらいたい度合いのほうが強いのでしょう。
共感してもらうことで今の苦しみを解消したいから。

本気で相手の苦しみを思いやれたときに生まれる
「お気の毒に…」の気持ちの「ごめんなさい( I'm sorry.)」には、
そういう苦しみへの共感が含まれているんです。

後悔とか落ち込みとか許しの懇願とか反省とかよりも
相手の苦しみに対する思いやりが前面に表れる。
そのときの「ごめんなさい( I'm sorry.)」は届きます。

込み入った人間関係のトラブルを乗り越えてきた人たちの話を聞くと
関わる相手の苦しみをヒシヒシと実感できたときに初めて
本気で相手に関心を向けられた、というのが大きいようです。

元々の意味での「 I'm sorry.」に戻れるかどうか。
そのタイミングは大きな転換点になるかもしれません。

cozyharada at 23:51|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

日程確定

《心を調える実践会》

【日時】 2017年12月23日(土)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細は後日>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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