コミュニケーション

2017年04月24日

ストレスチェックの義務化

2015年12月から義務化されたストレスチェック。
労働者が50人以上の事業所では年に一回の検査が必要になっています。

僕自身はフリーランスですし、主に関わっている人たちも
そこまでの人数の組織ではなさそうですから、
直接的にストレスチェックを気にする立場ではないと言えそうです。

しかし、受講生としてお越し下さる方々の中には
もちろんストレスチェックを受けている人も、さらには
人事としてストレスチェックを使う側の立場の人もいる可能性があります。

ということで先日、ストレスチェックについての講座を受けてきました。


講師はアメリカでカウンセラーをやっていた人で、
日本でも心理臨床の立場として病院に入ったり
企業と契約して従業員のカウンセリングを受けたりしていたそうです。

実際に本人がどれぐらいストレスチェックと関わっていたのかは分かりませんが
人事としてストレスチェックを「やらなければならない」人たちとは
接点があるようで、実情も交えた講義を聞けました。

多くの人事担当者は、このシステムを運用する義務に対して
新たなストレスを感じているという話でした、皮肉なことに。

どうやら原則的には、従業員個人のためのシステムという想定みたいです。
自分で自分のストレスに気づき対処する、と。

相談窓口を告知したり、ストレスを自覚した人たちが
気軽に社内で相談できるような環境を整えたりするのが
人事側としてできることではないか、という説明でした。

しっかりと個人を把握している人事であれば
誰にストレスがかかっているかは、本人の非言語メッセージや
周りからの評判などから想像がつくだろうから、
人事側から個別に「働きかける」には良く知っている必要がある…。

そんな話もしていましたが、そうなったらストレスチェックは関係ない気もします。

組織としてストレスチェックをどう活かすかを良く話し合うと良いと言われても、
そこに一生懸命になるマネジメント層がいれば、そもそも
従業員全体としてのストレスレベルが過剰に高いことも少なそうです。

僕としては、せっかくのチェック内容なので
組織全体として活かす方向性はないものかとも考えてしまいますが、
情報は従業員本人のみに知らされる前提ですから
上司として何をするかとか、人員配置に活かすとか、
マネジメント側として組織を変えていくとか、
そういう方向には繋げようという趣旨ではないようです。


そのため、講座の内容も個人対応のものが中心でした。

「(現状としてかかっている)ストレスにどう対処していくか?」
を解説してもらったり、話し合ったりしました。

講師がカウンセラーだということも関係しているかもしれません。
 目の前の一人が苦しんでいる。
 その苦しさをどう楽にするか。
そういう発想があると、
「現状でかかっているストレスにどう対処するか?」
の部分に関心が向きやすいんでしょう。

そこの手伝いをするのが本人の専門分野でもあるようでしたし。

一方、僕は「ストレスがかからないようにするには、どうしたらいいか?」
のほうにも関心が出てきます。

家族療法的な視点からすると、ストレスを抱える人は
たまたまそこに症状として表れているだけで、
グループ全体に歪みができていると考えられます。

従業員のストレスチェックをやって、仮に
ストレスを抱えていた従業員全員が上手くストレスに対処できるようになって、
過剰に仕事を抱え込まなくなったり、長時間労働を断れるようになったり、
有給休暇もしっかりと取れるようになったりしたとします。

従業員全員が自分のストレスを自覚して、自分に無理をかけなくなる。
翌年のストレスチェックでは、皆がストレスを報告しなくなった、と。

カウンセリングを受けにくる人もいなくなって、
サポートする側としては大成功に思えるかもしれません。

しかし、おそらくそのとき、仕事は以前のような形では回っていません。
全員の労働時間が減っているのですから、こなせる業務の量も減るでしょう。
よほど仕事の効率化を図れていなければ業務のほうに皺寄せが来る。

結果として、部署単位・事業所単位での責任を果たそうとして
「従業員」ではない「管理職」側に負担が出ているかもしれません。

従業員のストレスを下げようとした分、業績が下がり
その責任を管理職が問われるようになる…。
そうなれば次にストレスが表面化するのは管理職のほうです。

ここで管理職のほうが自分のマネジメント能力をトレーニングしたり
仕事の成果を上げるべく学んだり工夫したりするようになれば
それもまた1つの成果と呼べるのかもしれません。

逆にただ管理職層のストレスだけが過剰になってきて
マネジメント層を中心に離職者が増えてきたりすれば、
組織全体として大きなダメージでしょう。

組織自体が破たんしてしまうか、
その前に経営者が異常事態だと気づき、経営を何とかしようとするか。

つまるところ、従業員にストレスが強く出ているということは
組織全体の運営がスムーズではない、ということかもしれません。

人員が従業員→管理職と、順にストレスを減らすようにスタンスを変えたら
最終的な歪みはトップのところに表れてくるはずです。

だったら最初から組織全体として向き合っても良さそうな気もします。


表面上はストレスチェックというシステムの話ですが
関わっているのは経営の問題とか、経済や文化のところにも及びそうです。

とてもアンケートだけやって済む話ではなさそうに感じました。
あまりにも事態が複雑過ぎる。

ジレンマの部分を強く意識させられた講座でした。

cozyharada at 23:00|Permalinkclip!

2017年04月19日

次回の講座は6月25日の予定

次回の講座は
 6/25 (日)
を予定しています。

内容はコミュニケーション技術寄りのものです。

具体的なテーマとしては
 『言語表現を向上させる』
ことを扱う予定です。


結構、リクエストというか
「どうしたら言葉を上手く使えるようになりますか?」
といった趣旨の質問をもらったり、
「もっと上手く伝えられるようになりたい」
といった願望を聞いたりすることがあります。

こういう「伝え方」や「表現の仕方」について問題意識が出る場合、
実際のところは非常に多くの要素が混ざり込んでいます。

例えば、「伝え方」を気にしているようでいて
実のところ「部下に言うことを聞かせられるような伝え方を知りたい」
などと、「他人を思い通りに動かしたい」願望がメインのこともあります。

他者に動いてもらうのは、依頼や商談、教育・指導など
多くの場面で求められるコミュニケーションの要素ですが、
技術としての重要度は必ずしも「言葉の使い方」が高いわけではありません。

相手のニーズを把握していなければ動機づけはできませんし、
相手と価値観が根本的に異なっていたら動いてもらうのは難しいでしょう。

最終的な決断は相手に委ねられますから、
全ての結果をコントロールするのは不可能かと思います。

結果を良くしたいのであれば、「自分が何を言うか」の前に
むしろ「相手は何を望んでいるのか」を理解できるようになるほうが
ずっと効果的かもしれません。

ニーズ把握のプロセスを技術として身につけておくと
相手のニーズに合わせた対応をしやすくなるので
商品やサービスの提供でも、指導やアドバイスでも
満足してもらいやすくなるはずです。


この「ニーズ把握」の重要性を分かった上で、相手に合わせて
新しい考え方や行動案、商品などを提案する。

その段階で初めて「言葉の選び方」そのものに意義が出てきます。

相手のニーズは分かった。
相手に満足してもらえそうな提案内容がある。
ポイントは分かっている。
なんとなく言いたい趣旨は決まっている…。

そこから自分の想い・アイデアを言葉として表現する。

この段階で困難を感じる人がいるようなんです。

今回のポイントは、ここです。

会話の途中で、的確なポイントが掴めたとき、
「伝えたいこと、趣旨は決まっている。
 こういう観点で、こういう方向性で、
 こんな感じのことを言えれば上手くいきそうだ。
…でも、これを何て言葉にすればいいんだ?
 表現力が足りないから上手く言えない。」
とか。

あるいは相手の気持ちを理解して、分かったことを伝え返そうとしたとき
「なるほど、そういうことですか!
 はあはあ。ええ、おっしゃることは多分、伝わっています。
 なんていうんでしょう、あの、あれですよね?
 結局、ホラ、なんか、こういう感じですよね。
 ちょっと上手く言えないんですけど、納得しています。」
のように、
なかなか適切な言葉が見つからないとか。

もしくは、
相手の悩みの元になる考え方の癖が分かって、
こういう物の見方をすれば悩みから解決されそうだと見立てがある。
でも上手いリフレーミングの言葉が出てこない、とか。

頭の中には良いアイデアやイメージ、大事なポイントが出来上がっているけれど
それが言葉として表現しきれていない段階です。

少し専門的に言うと、
「内的表象を的確な言葉に置き換える」プロセス。

ここをトレーニングします。


そういう意味では、「言葉による表現力を磨く」とも言い換えられそうです。

自分の気持ちを上手く表した言葉に置き換える能力。
ここを磨こうという趣旨です。

コミュニケーションのトレーニングをしていると、この段階で
もどかしさを感じる人がいるようなんです。

最初のステップとして「何をすればいいのか?」が分かって、
次の段階で「どのような言葉に表したらいいのか?」が課題となる。

もちろん母国語として日本語を使えれば
ある程度の表現は可能です。

相手が汲み取れるだけの言語表現になっていれば
相手との信頼関係が築かれている限り、
相手のほうから理解しようとしてもくれます。

そこそこの表現になっていれば伝わるんです。

まして伝える側に想いの強さがあれば、非言語メッセージのほうから
大切な想いの部分だけは伝わることもあります。

言葉の表現は、その意味で、決して高いとは言えません。

それでも上手く言い表せていなかっただけの理由で
今一歩のところで伝わらない場合もあるわけです。


あくまで伝わりやすくするため、伝わる確率を上げるため、
せっかくのアイデアや想いが空回りする勿体なさを減らすため、
言葉の表現の段階でもできることがあります。

日本語力として伝えたいことを的確な言葉にする趣旨で
コミュニケーションのトレーニングをやってみようという話です。


詳しい案内は一か月前ぐらいに出すと思いますが
興味があれば予定を検討してみてください。

cozyharada at 12:13|Permalinkclip!

2017年04月12日

夏になる前に

パソコンが熱で落ちるようになってきてしまいました。
今使っているメインのヤツです。

これが一番古く、8年ぐらい前のもの。
Windows Vistaなのもサポート範囲外になってきていますし
そろそろ買い替えないといけなそうです。

その1つ後に買ったヤツは台湾を本社とする某メーカーのもので、
結構良い物だったはずなんですが、シンプルに初期不良。

電源部分のマザーボードとの接触が悪く、
設計レベルでのミスのため修理や交換もままならないものでした。

ときどきこちらを使うこともあるものの、長時間は使えません。
一度電源が落ちたら、もう二度と電源を入れられない状態だからです。
電源キーが働いていないんです。

なのでスリープと再起動だけで誤魔化して使っていました。
軽量薄型だったので、持ち運び用として使うぐらいには充分
という判断でした。

その後、軽量ながら低パフォーマンスの安価なものを昨年に購入。
こちらを文字を打ったり、ネットに繋ぐぐらいなら問題ないので
今はこっちのほうが持ち運び用の「サブマシン」という位置づけです。

その意味では、電源キーが効かないけれど新し目のほうを
メインとして使っていく選択もありそうではあるんです。

とはいえ、そちらをメインにしたら、今度
何かしらの理由で止まったり電源が落ちたりしたときに
もう対処のしようがなくなってしまいます。

言い換えると、二台の主要パソコンが長期使用に耐えない状態だ
ということででしょう。

これはやっぱり新しいものを購入する必要がありそうです。

データの受け渡しをする相手がMacユーザーということもあり
Macも視野には入れてみたりもするんですが、
仕事上はWindowsのほうが無難な気がしています。

選択肢が多すぎて、なかなか選べず困っているところです。

持ち運べなくて良いので軽い必要はなく、
かといって画面の都合上、デスクトップは苦手。

15インチを越える大型のノートになるとテンキーがつくために
キーボードの位置が中心からずれるのも嫌なんです。

あまり悠長に選んでいる時間もなさそうなので
早めに判断してしまいたいところです。

丁度いいのが見つかるといいんですが。

家電量販店の店員とはスムーズなコミュニケーションが期待しにくいので
自力で頑張ってみることになる予感。

cozyharada at 23:56|Permalinkclip!

2017年04月06日

翻訳作業の難しさ

今までに何度か翻訳のお手伝いをしたことがありますが、
いずれも「英語→日本語」の訳ばかりでした。

最近、「日本語→英語」の翻訳も少しやっています。

随分と印象が違います。

決して『英作文』をやっている感じではないものの
スムーズさには大きな差があるようです。

文法も気にしなければいけませんし、
単語や言い回しが不自然にならないように、といった配慮もあります。

元の意味にできるだけ近い表現を選択しようとしたときにも
ふさわしいものを見つけるのに時間がかかります。

何より、元の日本語を読みながら、
僕自ら英語の文章を作り上げている印象があります。


一方、「英語→日本語」の場合、僕の頭の中は
受動的なモードになっています。

入ってくる英語に対応する意味が日本語で浮かんできて、
それを聞きながら書き起こすような状態です。

英語のまま捉えている意味を意識の片隅に置きつつ、
同時に直訳もしている感じ。

そして両方を組み合わせて、元のニュアンスを踏まえた
ある程度は自然な日本語に変換する作業をしているようです。

やろうと思えば直訳から意訳まで、
程度を調整できそうな印象があるんです。

だから能動的に「書く」印象はなく、
インプットされたものを流していくような体験となります。

まぁ、日本語で文章を書くとき自体も、
自分でアウトプットするというよりは、どちらかというと
浮かんでくるものを頭の中で聞いて書き取っている感じで、
『書く』というよりは『読む』に近い作業ではありますが。


それに対して「日本語→英語」の翻訳は、はるかに能動的です。
自分でライティングをしているような気分さえあります。

元の日本語のニュアンスを理解して、
それをもとに自分の中で一端、伝えるべき内容を整え
それからその頭の中の内容を英語で表現しようとする。

自分の考えを英語でアウトプットするときと似ています。

選択肢が少ないんです。

直訳も無理ではありませんが、関係代名詞などを使った修飾の仕方や
接続詞の使い方のルールなどで制約がかかるところがあって、
なかなかストレートな訳にはできません。

何よりボキャブラリーや表現方法の幅が少ないため
同じようなニュアンスを表すためのバリエーションが出ないんです。

そのため英語訳の幅が限られてしまう。

「英語→日本語」でやるような直訳〜意訳の間で
程度を調整できる範囲が狭いんだと思います。

自分の頭の中で一回理解して、自分なりにアウトプットしなおす
というステップが挟まってしまうようなんです。

この自分なりにアウトプットする感じが能動的な印象となって、
スムーズではないと感じる要因になっているんでしょう。


単純に母国語と外国語の言語能力の差だともいえますが、
日本語と英語のルールの違いにも影響を受けていそうな気もします。

英語のほうが文章構造に対して厳格なのかもしれません。
日本語は助詞を工夫すれば語順は問題ありませんし、
論理展開についても曖昧で通用してしまいます。

そのあたりも加味しながら進めるから
スムーズにならないんでしょうか。

「英語→日本語」はむしろクドくなりがちで、
そこさえ気にしなければ直訳に近い文章はすぐに作れます。

逆に「日本語→英語」は、元の日本語の曖昧さや論理の不足分を
なんとか補おうとしてしまうのかもしれません。

英語を直訳した日本語はヘンテコだけれども
それなりに意味をとらえることはできる。
日本語を直訳した英語は意味が分からなくなる場合がある。

このあたりの性質の違いも関係している気もします。


いずれにしても、僕自身の慣れが足りないところは大きそうですから
経験を積んだ後に、どんな印象が生まれてくるのかは興味があります。

アメリカやイギリス出身で「日本語→英語」の翻訳をしている人がいたら
このあたりのことを聞いてみたいとも思っています。

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2017年04月03日

動画広告の時代

最近、バタバタと気ぜわしい感じになっていた理由の1つは
動画撮影のお手伝いをしていたところにあります。

裏方の作業をやると、見えない部分でどんな大変さがあるのか
意外と見えてきたりして、なかなか興味深いものです。

この頃は、動画を使った広告などが効果を発揮しているらしく
言われてみれば確かにFacebookなんかでも目にすることがあります。

写真だけのものと比べると、内容への興味は別にして
なんとなく見てみようとしてしまうこともありますから、
それなりの広告効果があるんでしょう。


ただ個人的には、動画だからこそ
見てしまった後の評価は厳しくなっている気もするんです。

写真や文章だけの広告であれば、「まだ分からない」という印象が残る。
「これだけでは判断できないなぁ」と。

なので、興味があるものだとしたら、
実際に軽く現物を見てみたい気持ちにもなります。

一度足を運んでしまえば、そのクオリティの満足度がそれほどでないとしても
他に代わりとなるものがないのであれば高確率で購入に繋がる。
「まぁ、他にはないし、これぐらいの程度ならいいだろう」と
僕は判断して購入、申し込みに進むことが多いんです。

しかし、動画の場合、僕は判断基準がかなり変わります。
そこで「イマイチかな」と評価してしまったときは、
それ以降の検討が進みません。

仮の話ですが、僕が受けている(もしくは受けてきた)語学講座でも
事前に講師が動画で模擬クラスか何かをやっていたとしたら
僕の評価は厳しくなって、「これぐらいなら他を探そうかな」と
申し込みを見送っていたものもあったと思うんです。

ホームページや資料の段階で詳しく分からないからこそ、
日程と価格の部分で妥協して、あまり期待せずに申し込みをした
ということです。

動画の場合、体験の情報量が多くなります。
判断をするための量が多い。
現物で判断するのと近くなる。

その分、動画広告段階での評価は
現物を見たときに近づいてしまって、
現物に触れる前から最終判断がなされやすいのではないか?
と感じています。


それは裏を返すと、質の高いものほど良さが伝わりますから、
現物に触れる、購入する、申し込みをする、段階では
すでに良さを知った納得している可能性があります。

先にファンになってもらう目的にはマッチしそうです。

一方、「質が不十分」と判断されて見向きもされなくなる、
むしろ動画広告が逆効果になる場合もあるでしょう。

利用する側、購入する側としては
商品・サービスを良く知ってから検討できますから
消費者側には望ましい話かもしれません。

動画広告をする側には、
諸刃の剣でもあるんじゃないでしょうか。


その意味でいうと、僕が携わった動画は
先にファンになってもらうのに十分過ぎるクオリティ。

音質や画質としても高そうですから、
内容の良さを撮影が邪魔することもなさそうです。

これから動画広告が増えたとすると、
その効果は両極に分かれるかもしれません。

今なら気軽に始められそうに見えますが、
すぐにシビアな世界になるような気がします。

cozyharada at 23:19|Permalinkclip!

2017年03月23日

【セミナー】セルフイメージの整え方

ご案内: 4月23日(日)開催

   カウンセリング講座 〜セルフイメージの整え方〜



4月の講座のご案内です。
テーマは『セルフイメージ』。

扱いとしてはカウンセリング寄りで想定していますが
自らのセルフイメージを実際に調整する作業を通じて
体験的な側面を優先します。

自分自身で変えたいセルフイメージがある場合はもちろん、
カウンセリングやセラピー、コーチングなど
他者援助の技術的な側面としても取り組んでいただけると思います。


ただし、「新しいセルフイメージを作り出す」ようなものではありません。

新しいセルフイメージを作る作業は、大部分
目標設定と重なるところがありますし、
体験したことのない自分をイメージとしてリアルに作り上げるのは
なかなか現実的に難しい印象を受けます。

作業として困難なわけではなく、
 本人の中に経験がないためイメージを作るための材料がない
というのが実情でしょう。

例えば、世界トップクラスのお金持ちのような生活をしたいと思っても
あまりにも本人の現状と離れていると実態の想像がつきません。
 
ドバイのホテルのプールでくつろいでいる一場面ならイメージできても
他の生活の場面まで思い浮かべることはできなかったり、
どんな仕組みでお金が入ってくるのかも想像さえできなかったり。

そこまで極端に現状と離れていない目標でも、
経験したことのないゴールだと想像できない側面が多いんです。

仮に「会社を辞めて起業する」ような目標だとしたら
仕事が回っていくような流れを自分で作り出す必要があるかもしれません。

そこには「従業員としてのセルフイメージ」ではなく、
「経営者」「マーケティング」「営業」…など
様々なセルフイメージが求められる可能性があります。

もちろん体験してみるまでは分からないことだらけですから
起業以前に様々な側面をイメージできることは稀でしょう。

ある程度は知り合いの話や起業家の本などから情報を得て
自分の中でイメージを作り上げつつ、あとは実際に進めていく過程で
「経営者としてのセルフイメージ」
「マーケティング担当としてのセルフイメージ」などが
自然と出来上がっていくのだろうと考えられます。

出世して管理職になって部下ができるといったケースでも
「上司としてのセルフイメージ」は、その立場についてから
徐々に出来上がっていくのが一般的な流れでしょう。

つまり
〇前に持っていた「多分こんな感じだろう」という想像
⊆尊櫃砲修領場をやりながら徐々に追加されていく体験
の両方が組み合わさってセルフイメージが作られていく
ということです。

現状とかけ離れた目標だと、
 ,痢崑進こんな感じだろう」というイメージが不正確で
 どのように進んでいけばいいのか分からない
事態になりやすいようです。

現状の延長線上のような場合だと
,痢崑進こんな感じだろう」が比較的イメージしやすいため
実際にそのような場面に進んだとしても、手探りで
想像していたものと実情とのギャップを埋めつつ
△亮分なりの体験を追加して、自分なりのセルフイメージを作れます。


しかし、いずれにしても問題となるのは
新しいセルフイメージのほうではないんです。

今までに持っていたセルフイメージが問題となります。

上司ではなく「部下としてのセルフイメージ」、
起業家としてではなく「従業員としてのセルフイメージ」、
大金持ちではなく「一般人としてのセルフイメージ」…。

今までのセルフイメージが自分の振る舞いに影響を落とし続けます。
古い習慣が抜けず、新しいセルフイメージに移り切れないんです。

例えばダイエットの場合、痩せていた時期がある人であれば、
「痩せている自分のセルフイメージ」が残っていますから
現状は「一時的に太っている自分」として捉えやすい。

そのため「痩せている自分」に戻る方向としてダイエットができます。

一方、人生で一度も痩せていた時期を経験していないと
「痩せている自分のセルフイメージ」は新しく作る必要が出てきます。
むしろ「太っている自分」のほうがセルフイメージとして残りやすい。

結果としてダイエットで体重が減っていった場合にも、
「ダイエットに成功している自分」「体重が減った自分」にはなれても
「太っている自分」のセルフイメージが残るため
痩せていることが当たり前とまでは捉えにくいんです。

むしろ、「太っている自分」がセルフイメージとして残っているから
「体重が減った」「ダイエットが成功した」ことに達成感を味わえます。

「痩せている」範囲まで目指す必要もなくなってしまいますし、
全く馴染みのない「痩せている自分」にまでなるのには
知らず知らずのうちに怖さを感じてしまうこともあるかもしれません。

「太ってはいない」ところまでで「ダイエット成功」となるのは
こういうセルフイメージが関わっている可能性が高そうです。

つまり、新しいセルフイメージを作るかどうかの前に
 これまでのセルフイメージを手放せるか
が重要になる、ということです。

 ※ちなみに「太っている自分」というセルフイメージに嫌気がさすと、
  そのセルフイメージを破壊して新しい自分を目指す場合もあります。

  こちらのケースでは「太っている」と認識される範囲にはいたくないので
  かなり劇的に「痩せている」ところまで変わることもあり得ます。

  「体重が減った」ことへの達成感を求めるよりも
  「太っている」ことを回避しようとする気持ちに動機づけられます。

  痩せた後には「以前は太って『いた』けれど痩せるのに成功した自分」
  という新たなセルフイメージが作られ、そちらが定着しやすいようです。

  ただこの場合、そもそもそこまで強烈に現状のセルフイメージを否定して
  新しい自分になる必要があるかどうかがポイントになります。
  それだけ動機づけられる理由があるか?

  その意味で動機づけの原因となる外的要因に左右されやすく
  本人がコントロールできるものとしては扱いにくいといえます。



一度、古いセルフイメージを手放すことができると
今までの自分へのコダワリがなくなります。

そうでない自分になっても、あとは経験を通じて自然と慣れていけます。
結果として新しい自分、新しいセルフイメージが作られていく。

これはちょうど、学生から社会人になるときのようなシフトに近いでしょう。

学生というセルフイメージから社会人というセルフイメージに変わる。
一般的に、学生のセルフイメージに執拗にこだわるところはありません。
「もう学生は終わり、これからは社会人」と自然に受け止められます。

学生というセルフイメージが強くないんです。

子供のころから、小学生、小学校高学年、中学生、高校生…と
3年ぐらいの単位で新しいセルフイメージに修正する時期を通っているので、
学生から社会人というシフトも延長線上で捉えやすいのかもしれません。

しかし大人になるほど、こういう定期的な転換点は減っていきます。
長年積み重ねてきた「自分らしさ」というセルフイメージは
あまりに馴染みすぎてきて、なかなか手放しにくいようです。

そしてもし、こういう長年のセルフイメージが
自分を不自由にしているのであれば、
それを修正しておいたほうが、物事がスムーズに進みやすい。

それが土台の発想です。


用語として「セルフイメージ」という単語を使っていますが、
曖昧な使われ方をすることもあるので
そのあたりの区別から説明する予定です。

そしてセルフイメージを調べる過程を経て、
実際にセルフイメージを調整する実習へと進みます。

セルフイメージの調整はバリエーションをいくつか紹介するつもりです。
手法の好みも別れるかもしれませんから、複数の対応を知っておくと
役に立てやすいのではないかと思います。

効果としては、古いセルフイメージに縛られて
現状維持に戻ってしまうことを避けられます。
物事が無理なくスムーズに進むようになる感じでしょう。

目標達成しやすくなるともいえそうですが、より正確には
 「目標」というものを遠い行き先ではなくもっと身近なものとして捉え、
 「頑張り」という意識をあまり持たずに望ましいところへ近づいていく
といったところでしょうか。

目標とする自分像を作り上げて何が何でも達成する…
というようなものではありません。

とりわけ「変わっていく」ことへの怖さがなくなる効果は大きそうです。

これまでの自分、古いセルフイメージから離れるのには
少なからず怖さを伴うものです。

これは「どんなことになるかが分からない」という不安とは違います。

セルフイメージを修正した後でも不安は残るかもしれません。
それは学生から社会人になるときの不安、
初めて部下ができるときの不安に近いものです。

変化に伴って予測できないことが起きるかもしれない不安です。
こちらは実際のところ、徐々に変化しながら慣れていきますから
大きな問題にはなりません。

それに対して古いセルフイメージから離れるとなると
「今までの自分がなくなってしまう」という予測から怖さが生まれます。
恐れです。

この恐れが、いわゆるリバウンドや現状維持に繋がる。
無理をしている感じや、古い行動パターンを引きずってしまう理由の1つです。

セルフいエージの修正を行うと、この恐れがなくなります。
それで自然と楽な感じに進みやすくなるというわけです。

手法として知っておくと、ご自分の転機に使えるようにもなるでしょうし、
コーチング・カウンセリング的な観点として他者のサポートにも使えるでしょう。

もちろん、講座中に取り組んでいただいたテーマが
スムーズに進むようになる効果も期待されます。

コミュニケーション技術や言葉のアプローチのトレーニングではなく、
イメージワークや内面を探る実習が多くなります。

慣れていないと戸惑う作業もあるかもしれません。
ご心配なところがありましたら下記のフォームの「備考」欄にご記入ください。

それぞれの方が違った印象の体験をなさることが予想されますので
他の方と感想をシェアする時間も大きな収穫かと思います。

気軽に新鮮な体験を楽しんで頂けたら幸いです。



◆録音/録画、再生機材に関しまして
講座全体の内容は、ICレコーダーやビデオなどで
記録いただいても構いませんが、あくまで
個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。



※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。





【セミナーの詳細】

≪カウンセリング講座 〜セルフイメージの整え方〜≫

【日時】  2017年 4月23日(日)
       10:00〜16:30


       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 303集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。


    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。







「自由」という言葉は2つの意味合いで使われることがあるようです。

「〜する自由」と「〜から自由になる」。

「〜する自由」とは「好きなことをしていい」という
複数の選択肢から、どれでも選べる状態のことだといえます。

人は過去に学習したやり方でワンパターンの対応をしてしまいがちです。
そこで新たな選択肢を増やし、選べるようにしていく。
ここに自由度が生まれてくるわけです。

一方、「〜からの自由」とは「制約が取り除かれる」意味です。
これまで縛られていたものから解放される。

具体的な選択肢はまだ見えていないかもしれませんが
今までのような制約はもう無くなった、という状態です。

喩えるなら、
複数の部屋の中から好きなものを選んでいいのが「〜する自由」、
今まで閉じ込められていた部屋から出してもらえるのが「〜からの自由」
といったところでしょうか。

今回の講座で扱うセルフイメージの調整は
「〜からの自由」のほうに近いはずです。

今までのセルフイメージに束縛されていたところから自由になる。

「なりたい自分になる」ような取り組みは
 現状の自分と、目標とする自分という2つの選択肢から
 好きなほう(おそらく目標のほう)を選んでいい
という「〜する自由」のほうだといえそうです。

今回は古いセルフイメージから自由になるのがテーマです。

もしかすると「なりたい自分」になれたほうが良さそうに感じるかもしれませんが、
現状で想定できる「なりたい自分」は、今の自分で考えつく範囲の
制約のかかった目標になっていることが多いとも言えるんです。

もっと望ましいところに辿りつく可能性があっても
そちらの目標が浮かんでこない場合もある、と。

その意味では、古いセルフイメージから自由になれば
現状では想像もしていないような素晴らしいところに到着する可能性があります。

もちろん、そうではない可能性も出てはくるのですが…。

必ずしも目標達成を応援する内容ではないものの、
古いしがらみから自由になることに興味があれば
何かしらの役には立つのではないかと思います。

関心とお時間が合いましたら、どうぞお越しください。

cozyharada at 23:53|Permalinkclip!

2017年03月16日

「集団との対話」と「プレゼン」の違い

公開講座に参加して受けている英語でのプレゼンのトレーニングも
残すところ後2回となりました。

といっても何も大きな変化はありません。

慣れてきている人は多いですが、まぁ慣れてきているだけ。
課題として与えられるフレーズの使い方を組み込んでプレゼンしたりしても
結局、原稿に用意するぐらいのものです。

原稿を読めば使えたとしても、自然に組み込むのは難しいようです。
それは単純に言語力の問題で、内容を説明する作業に多少でも難があれば
課題となるフレーズの使い方にまで注意を向けるのは大変になります。

つまり作業が複雑すぎるんです。

プレゼンの課題として与えている設定がすでに工夫を求めるものなのに、
そこにさらに効果的なフレーズの課題が与えられる。

母国語でやっても効果が薄いトレーニングになってしまう気がします。

内容はごく一般的、日常的で、わざわざ一生懸命考えるレベルではないものとし、
そこにフレーズレベルの工夫を入れていくというのであれば
内容の重要度が低い分、フレーズの使い方に注意を向けて練習できるでしょう。

あるいは、毎回、プレゼンをする内容は固定しておいて、
フレーズの工夫を追加しながら、完成度を上げていくとか。

いくらでもアイデアは出てきますが、
それだけ僕がトレーニング内容に不満を感じているということかもしれません。


先日の課題は「初めて会う聴衆とラポールを築く」というテーマでした。

会社の新人への挨拶とか、授業の初回とか、そういう設定だと。
で、僕は自分の講座における冒頭部分を想定してみたんです。

これは大失敗でした。

設定が大間違い。
聴衆が実際と違いすぎます。

僕は日頃から、来ている受講生の皆さんの様子を見て
その人たちを動機づけているもの(=参加した理由)
に合わせるように冒頭を組み立て直しています。

そもそもそれほど準備をして迎えているわけではありません。

なので、仮設定として、「まぁ、こういう人が多いかな」ぐらいを想定して
「その人たちが目の前にいたら、こんな感じでいうだろう」という内容を準備しました。

しかし、実際に目の前にいたのは違う人たちです。
そういう動機はありません。

講座の他の参加者たちは席に座っていはいますが、
どういうつもりで話を聞けばいいのかの指示を受けていませんし、
僕のほうからその想定を説明する段取りもありませんでした。

さらに半数の受講生は前回を欠席していたため、
当日にプレゼンの内容を考える必要がありました。
一番最初に当てられた僕が話す間、その人たちは自分の準備で大忙し。
聞くつもりもなければ、前も向かずに書きものばかりです。

講師は講師で、自分の想定していたことと違う展開だったのか
表情に困惑を浮かべていました。

そうなってしまうと、起きている現状は
僕が準備してきた内容とは全くマッチしないものです。

さすがに講師も状況の不具合を修正しようとしていましたが、
それは僕の番が終わって、二人目に入るところから。
僕がプレゼンをしていた時間は、なんとも不毛な空回りでした。


ここのポイントは、僕が「空回り」を認識していたことなんです。

つまり僕は聴衆に合わせて、聴衆と交流するのを前提にしていた、と。
ですから「自分の主張」をしていたわけではありません。

多くのプレゼンテーションは、他者に影響を与えることが目的となります。
アイデアを提案して納得してもらう、とか
商品やサービスをアピールして魅力を感じてもらう、とか
問題を提起して考えてもらう、とか
情報を説明して分かってもらう、とか
熱意を伝えて行動を促す、とか。

自分の価値観に基づいた内容を「表現して」、
それを「受け取ってもらう」ことが目的となります。

もちろん価値観の違いから受け取ってもらえない場合はあるとしても、
主張を表現するという点においては聴衆に左右される度合いは少ないはずです。

一方、僕がやろうとした(普段やっている)ことは
僕の側の主張ではありません。
こちらから影響を与えようとする部分は少ないんです。

受講生という聴衆に合わせ、
その人たちの問題解決の意欲に沿おうとしているようです。

その意味では「プレゼンテーション」ではないのかもしれません。

実際、以前の課題で「日本語英語教育の問題点」とか
「原発に賛成か反対か」などの『主張』が課題となったときには
聴衆がどんな考えや態度であっても気にならずに話せました。

それは主張するためのプレゼンテーションだったからです。

それと比べると、僕が普段からやっている講座のオープニングは
主張のためのプレゼンテーションではなく、
一対一のような対話を、一対多でやっているだけのことなんでしょう。

ですから聴衆の中に、自分のプレゼンの内容を準備している人たちがいれば
それはちょうど、一対一の会話において
 相手が別の作業をしている間に、横から一方的に
 相手にとってどうでもいい内容を話しかけて
 ずっと無視され続けているのに最後まで話し切る
ような状態だったといえます。

それは途中で止めたくもなりますし、
邪魔しないでおこうかとも考えてしまいます。

「初対面の参加者とラポールを築く」という設定自体が
僕にとってはそもそもプレゼンテーションではないみたいです。

世間一般にとっては、人前で話すという点でプレゼンなのかもしれませんが。


ちなみに、積極的に聞く気がない人が聴衆に混ざっていることは
商品のプレゼンだったり、会社の会議、企業研修などではあり得ます。

しかしそれでも、そこにやってくるからには何かの必要性があります。

合わせるポイントを見つけていけば、空回りはしなくなるんです。

そして仮に最後まで空回りする相手がいたとしても、
「主張」という意味でもプレゼンテーションなら問題なく続けられます。
全員に届かなくても、届く人はいるかもしれませんし。

ですから先日に体験したプレゼン講座での設定は
そもそも無理があるものだったんだと思われます。

準備した内容を使わず、その場の実際の聴衆
…つまりプレゼン講座の他の受講生という立場…
に合わせて、その人たちとの対話を心がけたら
空回りしないこともできたかもしれません。

あるいは、「企業研修に義務で参加している人」のような設定にしていたら
頭の中でイメージを変換して、仮想的な練習をするぐらいはできたかも。

まぁ、それをしたとしたら、今度は課題から大きく離れてしまいますから
そっちそっちで望ましくなかったとは思いますが。


ともあれ僕自身としては、重要な区別をハッキリさせられたので
なかなか意義深い時間だったような気がします。

僕は講座中にプレゼンをしていない。
研修でも講演でも同様でした。

一方、主張をハッキリさせたプレゼンになるとスタイルが変わります。
こっちはこっちで練習のやり甲斐があります。

僕が英語力のトレーニングとしてやりたかったのはプレゼンのほう。

その辺を区別しながら練習したら、もっと効果を上げられそうです。

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2017年03月07日

学習における頻度と蓄積

2月頃から始めた英語でのプレゼンテーションのクラスも
半分が過ぎて進め方や何をするかにも慣れてきました。

英語でプレゼンをするということそのものについても
多少は慣れが出始めてきたあたりかもしれません。

そうすると感じてくるのが、体験する頻度とスムーズさの関係です。

プレゼンを練習するとなれば自ら英語で発話する量が増えます。
それに慣れるとそのスムーズさが上がっていく。

去年は英語を使う機会が週に一回の英会話ぐらいだったんです。
その前の年ぐらいまでは、週一の英会話に加えて
大学の公開講座で英語を使って何かを勉強することをしていました。
週二回ぐらい英語を使う頻度だったわけです。

すると自然に、週二回の時期と比べると
週一回の頻度だとスムーズさが落ちるような印象も受けます。

もしかするとラジオや映画などで英語に触れ続けていれば
そのあたりは変わってくるのかもしれませんが、
やはりアウトプットということになると頻度は限られてしまいます。

それに比べると今は、
週一回の英会話と週一回のプレゼンのクラスがあるので
英語に触れる頻度は多くなっています。

そのせいもあってスムーズさが上がっている気がします。


しかし反面、フランス語に触れる頻度は下がっています。

一昨年は週二回だった英語が、昨年は一回に減ったのは
その分だけフランス語の頻度を上げたからです。

であればフランス語のスムーズさが下がったのか?

ところがそうではないんです。

僕のようなレベルのフランス語の場合、
問題は語学力を運用するスムーズさにあるのではありません。

むしろ基礎となる語学力そのものを鍛える段階です。
音を捉える訓練とか、ボキャブラリーとか、文法の正確さとか。

ボキャブラリーに関しては接触頻度が落ちると忘れていくものもありますが
文法はむしろ数を重ねるごとに自然と定着していきます。

基礎の部分においては、とにかく量を積み重ねていく必要があるんでしょう。
積み上がっていくものであって、下がる度合いは少ない。

一方、基礎が固まった後に、それを実用的に運用していく段階となると
ここには慣れの要素が関係してきます。
日常の中で頻度が高ければ慣れでスムーズさが上がり、
頻度が下がると不慣れになってきてスムーズさが落ちる、と。

このあたりは日本語でも当てはまるのではないでしょうか。

現代人は紙に文字を書くことが減ってきているはずです。
そのため漢字がすぐに思い出せなかったり、
文字を書いたときに形のバランスが悪くなってしまったりするかもしれません。

書けなくなってしまっていた漢字でも読むのには苦労しませんし、
思い出せないときでも一度調べれば、すぐに「あぁ、そうだ」となります。

英語でアウトプットするときも同様です。
読むときには理解できている単語が、話すときは書くときには出てこない。

知っているし、理解もしているけれど、
運用するときにはスムーズに浮かんでくるかどうかが重要なんです。

言い換えると、思い出しやすい記憶になっているかどうか。
慣れでスムーズさが上がるのは、使っている頻度が高いために
記憶の中で思い出しやすいところになっているんでしょう。

しかし、知らない単語があるとか、
聞き取りのときに識別できない音があるとか、
そういう段階では運用以前の話になります。

運用するためのものが頭の中に存在していません。
だからまずは頭の中に入れ込む必要がある。

こっちでは頻度よりも蓄積が大切になりそうです。
頻度が高いから思い出しやすいといった運用のスムーズさではなく、
運用できる情報をどれだけ溜めこんでいけるかの段階。


となると僕の場合、フランス語はまだ蓄積重視のレベルですから
一週間当たりの頻度が重要なわけではないのかもしれません。

むしろ頻度重視の側面は英語のほうに充てて、
フランス語に関しては自宅学習で蓄積するものを上げていく。

そういう区別をしても良いような気がします。

しかし同時に発話の部分に関しては運用力を上げる必要があるので
これにはアウトプットを通じた慣れも重要になりそうです。

慣れが重要な要素については頻度重視で会話レッスンなどをする。
蓄積が重要な要素については自宅学習でトレーニングする。

そんな感じでやれたら良いのかもしれません。

ちょっと工夫してやってみようかと思います。

cozyharada at 23:17|Permalinkclip!

2017年02月27日

マジックの映画

今年の3月は個人的にバタバタしそうです。
セミナーのスケジュールがタイトになる予定。

その前の余裕のある時期ということで
TSUTAYAにてDVDをいくつか借りてきました。

貧乏性とでも言いますか、まとめて借りると得になる仕組みなので
無理にでも4本以上をレンタルしてしまいます。

今回は見てみたかったものを2本と、
あとは「チョット気になっていた」ぐらいのものを2本。


ところが、結局印象に残るかどうかは事前の期待とは関係ないようです。

もともと見てみたかった新作のほうが忘れてしまって
そもそも何をレンタルしたのかさえ思い出しにくかったりします。

チョット気になっていた程度のものは、
まぁそれなりに楽しめることもありますし、
意外なほど面白かったりすることもあります。

先日見た「グランドイリュージョン」は僕にとって、思いのほか楽しい内容でした。

マジックの種明かし的な部分と、心理誘導としてのトリック、
そしてストーリーとしての騙し合いのようなところが
心理系の話を好む人には魅力的なのではないでしょうか。

退屈するところがなく、幾重にも騙しが繰り返されていく感じは
映画全体がマジックショーのような楽しさにも共通しそうです。

同時に種明かしの部分は、マジックの種を教えてもらえるときの好奇心や
推理モノで犯人やトリックが明かされるときの感じに似ていて
引きこまれるところがあると思います。

そういう意味で色々な楽しみがあった印象。
それほど期待してはいなかったのですが。

催眠術のくだりに関してはいくらか演出が過ぎる気がしたぐらいで
全体的には楽しい映画だと感じました。


催眠とか心理系の話が好きな人は、結構な割合で
マジックにも興味を持つことがあるようです。

人の注意や関心がどのように動くか、
人がどのように思い込みを持ち、どのように物事を信じるか。

そんなところに心理的な側面があるからでしょうか。

テクニックとしてのマジックではなく、
心理誘導の側面が強調されたストーリーでしたから
そういうところで余計に楽しめたのかもしれません。

cozyharada at 23:08|Permalinkclip!

2017年02月24日

プレゼンと講演

最近、プレゼンのことを考える機会が増えています。

1つは今、英語でのプレゼンテーションの講座に出ているから。
もう1つの理由は、別のプレゼンの講座について
ちょっとした依頼を受けていることです。

自分でやってみても、人のを見てみても、
教えられている内容を考えてみても、
対比として実感するところがあります。

僕が普段、講座でやっているのはプレゼンテーションではない。

人前で話すこと全てを「プレゼンテーション」と呼ぶことはできそうですが
いわゆる一般的なプレゼンテーションの意義は、
講座や講演とは違うところにあるのかもしれません。

目的こそプレゼンター本人の趣旨によって変わるとしても
短い時間で何らかの主張をするのがプレゼンのような印象を受けます。

伝えたいこと、表現したいことがある。
それでこそのプレゼンだろう、と。


その点、講座や講演は内容が重視される傾向があります。

「教える」、「シェアする」、「知ってもらう」などのように
聞く側、受ける側が「理解する」、「分かる」ことが大きな意味を持ちます。

客観性のある情報が多く、役に立つかどうかが重視され、
話し手本人の想い・価値観は主目的ではないでしょう。

もちろん、講座や講演でも熱い想いが表れたり、
直接的に価値観が語られることもありますし、
その内容で講座や講演をやる以上、その内容を大事だと感じる度合いは
少なからず話し手本人の中で高いことが多いとは思われます。

それでも、講座や講演では内容が重視されることのほうが多いでしょう。
多くの場合、聞く側には必要性があって聞きにくるはずです。

仮にどれほど講演者のファンだったとしても、その講演内容が
聞き手にとって全く理解不能なジャンルのものだったりしたら、
講演を聞きに行く理由はかなり減ってしまうと思われます。

同じ講演者で聞き手にとって興味のある内容のときと
興味がない内容のときと2つあったとしたら
ほとんどの人は興味があるほうに参加するでしょう。
そこに内容の重要度が表れていると言えます。

内容が重視される分、時間は長めに設定されることが多く
5分や10分の講演や講座ということは滅多にありません。


一方、プレゼンテーションとなると時間が短めです。

そして「聴衆に対して影響を与える」という意図が含まれやすい。
ただ説明をするのではなく、少なくとも心を動かしてもらう。

説得や啓蒙のような意味合いがあるだろう、と。

聞いている人が理解できるだけではなく、
納得してもらい、今までとは違う考えや行動に導こうとする。

プレゼンターが大事だと思うことを拡げる意義があるように思えます。

内容が主観的な側面を持っていて、
プレゼンターの価値観や想いを強く反映しているはずです。

話し手の主観的な気持ちが強く出て、
聴衆に新しい考えや行動をもたらそうとするのがプレゼン。
話し手が客観的な情報を伝え、その内容を求める聴衆に対して
求められている情報を伝えるのが講座や講演。

そんな特徴がありそうです。

例えば、パソコンのソフトの新製品があったとして、
それに興味を持っていない人に説明をして魅力を伝え
「それは良い」、「欲しい」という気持ちを持ってもらうのはプレゼン。

同じ商品でも既に興味があって、それを使う事情がある。
ただ何ができるのか、どうやって使うのかを具体的には知らない。
だからそのソフトの使い方を教えてくれる説明を聞きに行く。
これだと講演や講座の分類でしょう。

Why を重視するのがプレゼンで、
What、How を重視するのが講座・講演ともいえるでしょうか。


実際には両方の側面が完全に分かれることは少なく、
プレゼンでも内容に興味があるほうが魅力的に感じられるでしょうし、
講座や講演でも話し手の想いに共鳴できるほうが感動が得られます。

重なり合う部分はあったとしても、
どちらの側面を重視するかによって趣旨が変わってくるという話です。

そして当然ですが、同じように人前で話すとしても
プレゼンと講座では方法が異なります。

僕個人のことでいえば、プレゼンのほうが講座よりもずっと緊張します。

プレゼンという形態をとっていたとしても
客観的な内容を説明する度合いが強いほうが話すのが気楽になります。

短時間で影響を及ぼすことを心がけるプレゼンのほうが
高い密度で多くの工夫を詰め込む必要も出てくるでしょう。

努力目標も高くなりますから、緊張しやすいんだと思います。

その点、講座では受講生のニーズに応える側面が重視されますし、
長い時間の中でいくらでも調整できる余裕もあります。

話が途切れることがあったとしても講座なら問題にならず、
プレゼンだと問題になることだってあるかもしれません。

趣旨の違いがあるわけです。

そういう意味でいうと、僕が普段やっているのは講座であって
プレゼンではないように思えます。

とりわけ最近は、伝えたいことや想いなどもなくなってきていますから
プレゼンの側面はほとんど無い気がします。

裏を返すと、英語でプレゼンをやったときに緊張したとしても
英語で講座をやればもっと気楽にできる可能性があるということ。

まぁ、日本語ならプレゼンのほうも多少は頑張れるとは思いますから
英語でも同じようなプレゼンのレベルに近づけるよう努力しておけば、
どんな形でも気軽にできるようになるでしょうけれど。

cozyharada at 23:39|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《カウンセリング講座》
〜セルフイメージの整え方〜


【日時】 2017年4月23日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    303集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


詳細はこちら>>
次回開催は6月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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