コミュニケーション

2019年03月08日

ダンスと文化

日本の学校教育にダンスが取り入れられて
それなりの時間が経っているようですが、
それに伴ってダンスをやっている子供を見る機会も増えた印象です。

テレビでもダンスが映ることが良くありますし、
音楽番組に出るアーティストと呼ばれる人たちも
ただの「歌手」ではなくなってきているのかもしれません。

アイドルがグループで踊るのは、すっかりお馴染み。
男性グループにもダンサーがいるのが珍しくないようです。

先日もセミナー会場のホールで
ダンスコンクールのようなイベントをやっていました。

親が小さな子供を連れてきて、だいぶ賑やかな雰囲気。
昔はピアノの発表会とかだったのが、
今はダンスにシフトしているんでしょうか。

最近は映画でもミュージカル的なものが流行っていますし
踊りが日本文化にも浸透してきたのかもしれません。


ただ、一口にダンス・踊りと言っても
ダンスが重視する側面は文化的な背景の影響を受けそうです。

失礼な言い方に聞こえるかもしれませんが、
日本人のダンスはどんなにカッコよくてもスピーディーでも
盆踊りの延長のように見えてしまうんです。

もちろんリズムとかテンポは違います。
そうではなく、意図というか、
何を求めてやるか?の話です。

日本人のダンスは、
決まった振り付けを皆で正確に行って
一糸乱れぬ動きを「見せる」のが目的のように感じます。

見る人が想定されているか、少なくとも
お互いに揃っているのを見て
「上手くできている」のに喜びを得たり、
協調していることで「和」を感じたりする感じ。

この「和」の雰囲気は、まさに盆踊りだと思えますし、
見る人を想定するのは「周りの目」を気にする文化と
対応しているように考えられます。

見る人を想定する感じは、吹奏楽とか、
ピアノやバイオリンのお稽古、バレエに似ています。

見る人、聞く人を喜ばせるように
高いクオリティを目指していくスタンスといいますか。

ただし喜ばせる相手は、あくまで第三者であって、
同じ場で一緒に演奏したり踊ったりする仲間は
協力関係であり、喜ばせる相手ではありません。


こうした第三者への意識は、ヨーロッパの音楽やバレエ、
一部のダンスにも含まれているものですが、
ヨーロッパのダンスは趣旨が違うように見えます。

ヨーロッパの伝統では社交ダンスに代表されるように、
一緒に踊る相手とのコミュニケーション手段として
ダンスが使われてきたところがあるんじゃないでしょうか。

踊る相手は常に「You」であって、
意識される対象は第三者ではなく、目の前のパートナー。

つまり「You and I」という二人称の関係だ、と。

海外にも「社交ダンスコンテスト」はあるのかもしれませんが、
日本の社交ダンスはやっぱり、見られることを想定して
上手く踊ったりことを目標とした
コンテスト・発表会が前提の習い事のように見えます。

それに対して、ヨーロッパだと
二人称の関係での交流が前提の踊りが中心なのか、
ミュージカルの踊りでも社交の側面が強調された印象です。


これがアメリカになると、特にアフリカ系文化の影響か、
身体の表現としてのダンスという位置づけが強まります。

子供でも音楽を聞いていると勝手に身体が動く。
そんな感じ。

感情や自己の表現としてのダンスや、
音楽やムードへの「ノリ」としてのダンス。

自分という肉体の表現としてダンスをして、それで
身体を動かしていること、のっていることが楽しい、と。

ダンスが一人称なんです。

見られる第三者は気にしないし、
二人称としての他人と交流する意図もない。

皆がそれぞれ、自分が踊るのが楽しい。

そこへ同じ踊りの場を共有する人がいると、
その人たちは仲間になります。

他人と揃えなければいけないわけではなく、
相手と交流しようというわけでもなく、
ただ一緒にトランスに入って、自分勝手に踊る。

するとそこで自然な一体感が生まれます。
その一体感がたまたま作り出す相互作用が
全体としての盛り上がりを高める。

結果的に皆で踊ることはあっても、
それはジャズの即興セッションのような
一体感の中での自然な自己表現なんだと思います。

つまり「We」の意識。

一人称単数で楽しいのが、
他者と一体感を持つと一人称複数で楽しくなる。

アメリカのミュージカルには
この雰囲気が強く見てとれる気がします。

見ていて楽しそうです。

逆にこの文化が背景にあるせいか、
日本やヨーロッパでは見せる想定で演じられるものも
アメリカ人がやると、本人が楽しそうな印象になる。

フィギュアスケートなんかでも
妙にチアリーディングっぽいというか、
「身体を躍動させるのが楽しい!」みたいな選手がいます。


同じダンス・踊りでも、ルーツというか
文化的背景の影響が表れているように思えます。

日本の踊りがダメだという話ではありませんが、
どんなにアメリカのダンスや社交ダンスを表面的に真似しても
根底にある喜びの種類や意図は
いかにも日本の伝統の延長になりやすいんでしょう。

逆に、歴史的、文化的背景をふまえ
メンタリティの部分から参考にできると
もっと違った楽しみが生まれてきそうに思います。

少なくとも子供のダンス発表会は
違った雰囲気になるんじゃないでしょうか。

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2019年03月04日

内面の課題に取り組むと…

今年に入ってからなのか、去年もそうだったのか
ハッキリ思い出すことができないんですが、
セミナー1日あたりの疲労感が大きくなっている感じがします。

例年、資格取得コースのスケジュールの関係で
1月から3月ぐらいまでは予定が込み入りやすい傾向はあります。

それで疲労が溜まりやすい…という可能性もある。

が、そんなに予定が固まっていない時期でも
どうしようもない消耗が起きるようになっています。

正確に表現すれば、消耗と回復のサイクルがありますから
セミナーの頻度が高いとしても回復しきれば問題ではないんでしょう。

その意味では、毎週末にセミナーが入って
ときどき平日にもセミナーがあって…ぐらいのタイミングは
インターバルの間に回復することはできている気はします。

週末にセミナーが入る→続く数日間で回復する
→平日にセミナーが入る→回復する→週末にセミナーが入る→
といったサイクル。

これなら対応はできています。

よほど予定が込みいってくると
回復しきる前に次のセミナーが入ってしまって
この場合はどうにもならない感じにはなります。

まぁ、そこまでの予定は滅多にありません。


そう考えると、今年やたらと消耗が大きく感じるのは
主観的な印象の変化のようにも思えてきます。

とりわけ自覚されるものとして大きく異なってきているのが
講座中から感じ始めている消耗度合い。

一日終わって疲れ切って…というのは以前もありました。

それに対して近頃は、一日のセミナーの終盤になると
講座をやっている間から消耗しきった感じがしてくる、ということ。

簡単に言えば、一日もたない印象になってきているんです。

ポジティブな解釈をするとしたら
「ちゃんと自分の身体の状態もモニターできるようになった」
とも言えそうです。

意識が受講生だけのほうではなく、
自分の身体にも配分される度合いが上がったのかもしれません。

だったら、その分だけ消耗した分のケアに注意が向いて
これまでよりも早く回復してくれても良さそうなものですが…。

回復面で、それほど劇的な差は実感していません。

以前よりも楽になったのは、セミナー翌日とか二日後とかの
身体の強張りでしょうか。

首や肩のハリは減っている気がします。

なので頭痛は起きにくくなっているかもしれません。


そういえば、昨年の11月にアメリカでセミナーに参加してから
意識の広げ方というか、意識の偏りを減らすような取り組みを
ある程度やり続けています。

そのセミナーの発展版を、1月からオンラインで受講もしています。

その中で、自分の身体への意識の仕方を調整したり、
自分が体験の中で重視するものの比率を調整したり、
こだわりを減らしたり、価値観を手放したり…などと
やっている過程で、
僕がトレーナーとして活動する際の意識の使い方を
より自然な形に近づけるように取り組みました。

違いが起きた理由として考えられるのは、ここがメインでしょうか。

内面的な取り組みを行えば、何かしらの体験の違いが生まれる。
そういうことは、よくあるものだと感じています。

あとはそれが役に立っているかどうか、ですが。


僕の場合、肩コリや首の痛みなどの肉体的な負荷は
確かに軽減されたような印象はあります。

一方で、なんというかエネルギーが枯渇する感じみたいなものは
むしろ以前よりも早くなったように思えます。

もしかしたら以前から枯渇はしていて、
ただそれをあまり自覚していなかっただけ…
という可能性も否定はできません。

無理をしなくなったともいえるかもしれませんし、
無理がきかなくなったともいえるかもしれませんし。

いずれにしても消耗することだけは確かなようなので
どうやって早く回復するかを検討する必要があるような気はします。

何か積極的に回復を早められるものが見つかればいいんですが。

こうやって様々な取り組みを重ねながら
より良いスタイルを探していくものなのかもしれません。

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2019年02月28日

フランス語でも書くトレーニング

フランス語を少しだけ気合を入れて勉強し始めて
いつの間にか半年以上になっていました。

40分のレッスンを50回弱やっている状態だと思います。

アウトプット中心のトレーニングとしてやっていますが
多少は「書く」、「話す」にも慣れてきた気がします。

週に一回40分、ただフリートークをするだけでは
大きな効果は期待できなそうに思っていましたから、
できるだけ2コマ一度にとって、80分続けたレッスンの形で
月に2,3回の練習をしてきた形です。

それ以外にも以前から通っていたフランス語スクールのほうには
定期的に行っていた状態でしたが、「上乗せ」というほどではなく
「並行」で通っていたぐらいの感じでしょうか。

インプットが中心になる以前からのスクールと
アウトプットのトレーニングと、別々にやっているわけです。


で、そのアウトプットのほうですが
基本的に毎回、400ワードぐらいのエッセイを書いています。

これまでに20個。

多少スムーズになってきたとはいえ、まだまだ時間はかかります。
内容の構成も工夫しないといけませんし、
かといって日本語で考えて翻訳するわけでもありません。

どちらかというと、シンプルに「外国語モード」の感じ。

極力フランス語の思考だけに意識を集中しておきながら
行き詰ったら英語が浮かんできて、それを辞書で調べて
フランス語に変換して書き進める流れになっています。

初めの頃と比べると、辞書を調べる回数は減ったかもしれません。

ただ、フランス語の場合、名詞に男性・女性の区別があって
しかもそれが形だけでは判別しにくいことも多く、
意味のためではなく、男性名詞か女性名詞かをチェックするのに
辞書を引かなくてはならず、そこで時間がかかりがちです。

そこを差し引いて考えると、さすがに何度も書いているうちに
段々と慣れてくるところはあるんでしょう。
実感として書きやすくなっている印象はあります。


たかだかA4一枚から一枚半ぐらいのものを20個。
日本語にすると、一回1000文字あたりぐらいでしょうから
せいぜい20000字程度です。

そうやって考えると、これまでに日本語を書いてきた量は
もう圧倒的に違います。

日本語と比べたら英語の量はずっと少ないですが、
それでもフランス語よりは遥かに多いと思います。

やはり、「書く」行為は繰り返しの練習によるところが大きいんでしょう。
スムーズに書けるかどうかには量が重要、と。

特に、論理構成をしっかりさせながら
内容を飛躍させず、読み手に意図が伝わるように…
と工夫すると、かなりトレーニング負荷は上がる印象です。

最近はスムーズに書けるようにはなってきていますから
ダラダラ長く書くだけだったら、もしかしたら楽かもしれません。

ですが、論点を絞りつつ、明確な表現で
しかも400ワード程度に収まるように書くのを心がけると、
あとから自分で校正をして内容をチェックする過程も必要になります。

自分の思考プロセスの中にチェック作業を入れる練習でもありますから
これは発話として説明するうえでも役に立つものかもしれません。


毎回のレッスンでは、書いたものをネイティブにチェックもしてもらいます。

文法的なミスも修正されますが、それ以上に
表現として伝わりきらない部分を確認する段階が役立ちます。

どうやらフランス語は、英語よりも表現がクドくなったとしても
誤解の無いように丁寧に書くほうが大事みたいです。

英語だったら形容詞や副詞の一単語で言えてしまう状況も
フランス語では5単語ぐらい使う必要があったり。

そのあたりで自然なフランス語の感じというのは
英語とは異なったところがあるようです。

まだまだ先は長い印象を受けます。


ちなみに、僕がやってもらっているレッスンは
・近況報告〜フリートークを少し
・書いたものをベースに自分の考えを説明
・修正してもらいながら、ディスカッションを追加
・最後に書いたものの修正
という流れになっています。

意外とトレーニング効果が高そうなのが
 書いたものをベースに自分の考えを話す
という段階。

これは質問に答えるのと違って、自分が一方的に話し続けますから
発話の量のトレーニングとして効果が大きそうです。

普通に会話をしてしまったら「話す・聞く」が入れ替わって
それほど自分が話す時間というのは長くなくなる傾向があります。

フリートークのデメリットは、それほど話していないこともある、
というところでしょうか。

一方、フリートークだと、自分が思いもよらないような質問をされて
無理やり自分の考えを外国語にしないといけなくなるので、
自発的に話し続ける場合よりも表現やトピックの幅は広げられます。
こっちはメリットです。

僕の場合、今はとりあえずアウトプット量を増やしたいので
自分から一方的に説明を続ける作業を練習させてもらっています。

普通にネイティブの友達がいたとしても、
こんな作業には付き合ってもらえません。
レッスンだからこそ、でしょう。

そのうえ、説明の過程で間違いがあったり、不自然なことがあったり、
思い出せない言い回しがあったりしたら教えてもらえます。

これも役立ちます。

英語も含めて、多くの外国語のスピーキングテストでは
一問一答という形式ではなく、ある程度の長さ(1分とか)を
一方的に話し続けることを求められたりします。

その意味でも、自分が話し続けて、それを修正してもらう形は
発話のトレーニングとして有効なんじゃないかと思います。


いつまでこの形を続けるかは未定ですが、
今しばらくは、この形で練習あるのみです。

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2019年02月25日

日本語を勉強し直す

このところ、ビジネス的なお手伝いをする機会が増えていて
他の人の書いた文章を見ることも多くなってきました。

そのときに感じるのが、
意外と多くの人が日本語をいい加減に使っている
ということです。

文法的にも、話の展開としても、主題の表し方としても…。

とりわけ、修飾語の使い分けは
読みやすさと大きく関係するようです。

「どのフレーズが、どの単語を修飾しているか?」というのは
文章構造としては複数の解釈が可能なものなんです。

多くは、文脈を頼りにして、
読み手が「一番自然」な解釈を選んでくれます。

例えば、
大きな効果を出している悩みの解消法
というフレーズだとしたら、
「大きな」は「効果」を修飾していると判断されるでしょう。

可能性としては
「大きな(効果を出している悩みの解消法)」
のように
「大きな」が「解消法」にかかっている、とも読めます。

ただ「大きな解消法」という表現が不自然なので
「大きな効果」と繋がるほうが選択されます。

同様に「効果を出している」も
「解消法」とセットにするほうが意味的に自然です。

「効果を出している悩み」の「解消法」とするのは
「効果を出している悩み」って何だ?と感じられるはずです。

なので「効果を出している」ー「悩みの解消法」となって、
全体としては
「大きな効果 を出している」ー「悩みの解消法」
のような塊で捉えることになります。

ところが、
大きな影響力のあるマーケッターのための集客テクニック
だとしたら、
不自然ではない解釈の仕方が複数ありえてしまいます。

「大きな影響力のある 集客テクニック」とセットにすると
「マーケッターのための集客テクニック」のうち
特に「大きな影響力のあるもの」という意味になります。

一方、「大きな影響力のあるマーケッター のためのテクニック」
という切り方にすると、
「集客テクニック」のうち、特に
「大きな影響力のあるマーケッター」を対象にしたもの
と読み取れます。

複数の解釈が可能なんです。

あえて曖昧にする技術としても使えますが、
書き手の意図とは別の意味で伝わってしまうリスクもあります。

特に広告のように「たまたま目に止まったもの」だとすると
読む側には、それほど強い動機がありません。

読みながら解釈のパターンを複数探して
書かれている意味を理解しようと努力する…というのは
読み手にとって負担をかける作業となります。

読みたい理由が固まっていない段階では
面倒臭さを感じさせてしまいかねません。

すると、 途中で読むのをやめてしまうかもしれない。

読み手が読解を頑張らなくても自然に理解できて、
誤解が起きづらく、しかも話の展開がスムーズ。

ただ話の流れを追いかけていくだけで、
1つの結論に導かれるような、
そんな文章を書くにはトレーニングが必要なようです。


残念ながら日本の国語教育では、
そちらの方向性は強調されません。

むしろ、複雑に修飾語が込み入った文章を読んで、
「自然な」解釈のパターンを身につけるように訓練する。

「皆んなと同じ」解釈ができるように練習するわけです。

これが国語の重要な役割の1つ。

もう1つは、話の展開がスムーズでない文章や
主張が明言されていない曖昧な文章を読んで、
筆者の言いたいことを汲み取るトレーニング。

「皆んなと同じように」
書き手の気持ちを察することができるようにする、と。

こうして「一般的」な読解力を身につけて、どんな人の話でも、
受け取る側の努力で理解できるようにしていくわけです。

読解力を求められる割合が高いように思われます。


だからといって全ての人が
国語を得意としていたわけではありません。

複雑な文章構造を解読するのが面倒臭い人もいるし、
意味を汲み取る段階で、自分なりに解釈してしまう人もいる。

だからこそ書く技術としての国語力が役立つはずです。

それは日本の国語教育では重視されないみたいですが。

僕は幸い、英語やフランス語のライティングを通して
誤解を減らす書き方のトレーニングをすることができました。

今も苦労します。

英語やフランス語のトレーニングのつもりだったのに
結果的に日本語の文章力が養われた印象があります。

必ずしも外国語を通してトレーニングしなくても構いませんが
日本語の文章力を向上させるには、
外国語をやるぐらいのつもりで
土台から見つめ直す必要があるのかもしれません。

かなり気合を入れないと取り組みたくもない作業でしょう。

ただし、誰もやらない分だけ、効果は大きいと思われます。

何かに行き詰まったことがあったら、
1つの打開策として国語力をターゲットにするのも
悪くないんじゃないでしょうか。

コミュニケーションを重視する人は多いのに
国語力を重視する人が少ないのは
なんだか皮肉な話のような気がします。

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2019年02月21日

イヤイヤ

先日、電車の中で「イヤイヤ」の子を見ました。

オニギリを食べて、途中でやめてジュースを欲しがる。
すると母親が「ご飯ちゃんと食べてから」と。

それでもその子はジュースを欲しがるので、
母親がダメと厳しめの態度に変わります。

そのあたりから子どもがグズり始め、
母親は「ダメ、ちゃんとご飯食べてから」
のようなメッセージを繰り返します。

そして苛立ちを抑えつつ、
「ご飯食べないと大きくなれないよ。
ずっと子どものままでいいの?」
と、説得に移りました。

ここが、その子の返事が全部「イヤ」になったタイミングです。

「大きくなれなくていいの?」
ー「イヤ」
「じゃあ、ちゃんとご飯食べて」
ー「イヤ」
「ジュースじゃ大きくなれないよ」
ー「イヤ」
「ほら、ちゃんと食べて!」
ー「イヤ」
「もう、ちゃんとしなさい」
ー「イヤ。…イヤイヤ。…イヤ。」

…と、もう母親が何も言わなくても「イヤイヤ」を繰り返す事態に。


果たして、この子の「イヤ」は何に対して
どんな気持ちの表現なんでしょうか?

「ちゃんと食べないと、大きくなれない」
「(大きくなれないと)子どものまま」
「(子どものままでは問題だけど)それでいいの?」
という論理が理解できているのかは疑問です。

時間の離れた因果関係を言語的に理解するのは
かなり高度な知的活動ですから、
それが可能かは発達段階と関わります。

何十年先をイメージして、自分だけ子どものままの姿を描き、
それが問題だと判断するのは、さらに高度な作業です。

この質問に「イヤ」と答えたのは、おそらく
その子が内容を理解したからではないでしょう。

むしろシンプルな不満の表明だと思われます。

思い通りになっていないことへの不満。
ジュースが飲めない、という特定の対象ではなさそうです。

特に大きいと考えられるのは
『母親が優しくしてくれていない』という部分への期待外れ。

ジュースが飲めないことよりも、
母親が厳しく接し始めて、
自分を拒絶する態度に出ていることを感じとって、
そのことに不満を感じているのではないでしょうか。


子どもは特に、自分の気持ちを正確に言語化できません。
聞いて理解する能力も大人とは違います。

何かを言ったときに「イヤ」と返事があったからといって、
その内容に対して「イヤだ」と意思表明しているとは限りません。

どちらかというと、
母親を味方に引き取り戻そうとするコントロール法として
イヤイヤをやっていることが多そうな印象を受けます。

大人と同じような言葉のやりとりとして理解しないほうが
スムーズにいくことが多いような気がします。

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2019年02月18日

情報の洪水

刺激に弱いという僕の傾向は、あまり自覚していなかったですが
ずっと前からあったんだと思われます。

展開的には買い物が苦手でした。
本屋も家電量販店もユニクロも。

研究職時代は本屋に行くのが息抜きだった反面、
しばらく滞在していると頭痛が起きてきていたものです。

特に繁華街の大型店舗は顕著。
人が多いのもそうですし、情報量が多いせいだった気がします。

家電量販店は色も光も音も強いので大変です。

ことさら最近は、中国人観光客向けの商品陳列が多く
中国語表記が増えるほど、色も光も賑やかになりがちです。

集中して何かを選ぼうとするときほど、
そういうノイズへ過敏になっているんだと思います。


思えば、山口県に住んで研究所勤務だったときは
毎回の長期休みのたびに朝一の飛行機で東京に戻り、
そのまま新宿の紀伊国屋で本を探す…といったパターンでしたが
決まって偏頭痛が出て、自宅に戻ると散々な状態だったものです。

東京の研究所へ転勤になった後も、
都心部に行くたびに頭痛が起きていましたし。

同僚と秋葉原に行った日は、特に酷かったのを思い出します。
なぜか秋葉原はシンドかったです。
渋谷も行くたびに具合が悪くなる街。


音や色などの刺激が多くて苦しいという点では
居酒屋も苦手です。

話し声と騒音で押し潰されそうになりつつ、
同時に多くの話の内容が頭の中に浮かんできます。

色々な話を同時に理解しているのと同時に
乾いた笑いや愚痴を通して入ってくる
感情と意図を意識に上げては受け流す。

それらを全てかき分けながら、
目の前の話し相手の質問に答える必要があります。

さらにタバコの煙が来ると、刺激が増加しますし。

拷問に耐え忍んでいるかのような環境です。


NLPの講座では「五感が大事」「五感を敏感に」などと言われますが、
もう少し事情は複雑なんでしょう。

確かにNLPのワークをスムーズにするためには
五感情報に敏感なほうがやりやすい。

日常のコミュニケーションも、多くの五感情報をもとに
相手の気持ちをキャッチできたほうが
対応できることが増えてはきます。

技術のベースとして五感があるのはそうなんだと思います。

一方で、多くの都会で生きる社会人は
五感をあえて鈍感にしているというか、
徐々に五感情報を意識へ上げなくしてきた状態に慣れて
その五感の刺激に鈍くなっていることで
過剰なストレス要因にさらされるのを防いでいる、
ともいえるのかもしれません。

まあ、日本の都会が異常にストレスフルな気もしますが。

何事も裏表なんでしょう。

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2019年01月30日

3つの理由

アカデミックライティングとか論理的な説明の仕方として
紹介されるもののとして見かけるものに、
 結論を最初に述べて、
 理由を3つ説明する
というスタイルがよくあります。

英会話学校に通っていたときにも
そういう説明の仕方をする先生はいました。
それなりにあるやり方なんでしょう。

このスタイルが論理的とされるのは、
「結論」と「理由」という説明に重要な要素が
コンパクトにまとまっているからではないかと想像します。


しかし、「論理的」かどうか、というのは
結論と理由が説明されるかだけで判断されるものではありません。

むしろ結論と理由を結ぶ「論理展開」にこそ「論理性」が表れます。

その意味では、1つの結論に対して3つの理由を述べるスタイルは
コンパクトに情報をまとめているがゆえに、逆に
論理展開が急激になって「論理の飛躍」が起きるリスクも高いはずです。

日本人は一般的に、この論理の飛躍に対して鈍感です。
おそらく聞き手、読み手の側が「空気を読む」「行間を読む」のが
重要だとされるからでしょう。

論理が飛躍している場合には、受け取る側がその飛躍を埋めようとして
なんとか理解しようとしてくれるわけです。

それに対して西洋文化は、説明責任を問われる背景があります。
伝わらないのは説明する側の責任。
受け取る側が「分かろう」と頑張らなくても1つの理解に落ち着くように
明確な説明の仕方をすることが求められます。

そしてそれこそがアカデミックライティングや論理的説明である、と。

なので論理の飛躍がない理由づけの説明が
論理的な文章として評価される傾向があります。

結論が最初にあって、その理由を後から説明すれば
それで論理的な説明になるというわけでは必ずしもないわけです。


僕が英語のライティングを教わった先生はアメリカ育ちの日本人で
学校教育が全てアメリカだった人ですが、
だからこそ論理展開に対して厳格な傾向が強かったと感じます。

ハッキリ言えば、僕の甘い論理展開の仕方は
この先生のおかげで修正されたと思われるほどです。

特に僕のケースではTOEFLのライティングに向けた講座でしたから
TOEFLの採点基準をベースにトレーニングしてもらった形です。

このTOEFLのライティングの基準には、文法やボキャブラリーに加え
・トピックとの関連性
・内容の一貫性
・アイディアの具体性
などが含まれます。

「トピックとの関連性」は議論の内容がテーマと沿っているか。
つまり違う話をしていないか、です。

題材として質問が投げかけられて、それに対して返答する形ですから
質問と違うことを書いていてもダメですよ、ということです。

例えば、「学校は制服を採用すべきである」などのテーマに
賛成か反対かを述べる形だと、あくまで議題は制服の話になるわけです。

話が逸れてしまうのは、よろしくないとされているんです。


そして2番目の「内容の一貫性」ですが、
これこそが理由を3つ説明するスタイルが評価を下げるポイントです。

理由が3つあったら、それだけで
「理由が一貫していない」とも解釈されかねません。

むしろ理由は1つに絞って、その理由の根拠として
3つぐらいのポイントを挙げていくような形のほうが
「1つの理由を一貫して説明している」として評価されやすい、と。

例えば、「学校は制服を採用すべきだ」という話に対して
3つの理由を挙げるとしたら
・お金がかかる
・個性を抑え込むことになる
・洗濯が不便だ
のようになります。

もちろん、3つのりゆうを挙げるスタイルでも
それぞれの理由について
「こうなって、こうなって、するとこうなって、だから〇〇だ」
のように論理の展開は含むはずです。

ここが話の具体性を高める部分。
理由についての具体的な根拠として、事例を挙げる箇所です。

しかし、この形だと事例の具体性が高まりにくいんです。
実際の経験談のようなレベルまでは具体的にしにくい。

なぜなら、そこまで具体的にしてしまうと
ただのエピソードとして読めてしまって、
それが理由とどのように関連しているかが不明瞭になるからです。

ストーリー展開として順序に飛躍がなかったとしても
話の具体性に飛躍が出てしまうといえます。

仮に「お金がかかる」の理由だとしたら…。

「1つ目の理由は『お金がかかる』ということです。
 例えば、私が中学生の時、同級生にこんな家庭の友達がいました。
 彼の家は…」
なんて話になると、
読み手の側が「このエピソードがどうお金と関係するんだ?」
と想像しながら読む必要が出てきます。

こうしたプロセスが、受け取り手に対しての負担でもあるわけです。

理由は1文、なのに急にエピソードが出てくる…という形だと、
理由とエピソードの関連性が不明瞭になる、と。

だからといって
「1つ目の理由は『お金がかかる』ということです。
 制服の値段は通常、〇〇円ぐらいです。
 3年間のうちに一着では済まないとしたら、その額は大きくなります。
 制服の値段が余計な支出を生むので、お金がかかります。」
という形だと、
論理展開は比較的スムーズ(順序は明確)ですが
今度はエピソードといえるほどの具体性はありません。
一般論で終わってしまっている。

採点基準にある「アイディアの具体性」が不足してしまうんです。

論理を飛躍させず、アイデアの具体性を高める。
そのためには理由を1つに絞って「一貫性」を出すほうが効果的です。


一貫性のある説明とは、理由を価値のレベルで示して
それに関する根拠を複数示す形です。

つまり、理由は1つで、その根拠を複数挙げるようにする、と。
そしてそれぞれの根拠について、具体例を複数挙げる。

そうすると「理由ー根拠ーエピソード」のように
具体性のレベルを飛躍することなく展開することが可能になります。

例えば、「学校は制服を採用すべきだ」という話に対して
理由を1つ「お金がかかる」に絞るとしたら…。

「制服を採用すべきではありません。
 なぜなら制服はお金がかかって経済的ではないからです。
 特に中学校のような成長期・思春期では、余計にお金がかかります。
 経済的でない側面としては次の2つが考えられます。

 1つは制服が追加の出費を生むということです。
 中学生に必要な服は制服だけではありません。
 家に帰れば制服から着替えて、普段着で生活する場面も多くあります。
 制服は普段着に追加する形で必要になるということです。
 例えば、私が中学生の頃、同級生にこんな家庭の友達がいました。
 彼は…(以下省略)。

 2つ目は制服そのものが高価だということです。
 一般的な制服の値段は〇〇円ぐらいです。
 これを中学校の間に買い替える場合もあります。
 総額としての出費は比較的大きなものとなります。
 例えば、私の同級生に、中学校で急に背が伸びて
 制服を2回買い替えた友人がいました。…(以下省略)」

こういう形だと「お金がかかる」という理由だけを
一貫して説明していることになります。

しかも一般論での論理展開で因果関係を保ちつつ、
「理由ー根拠ーエピソード」という具体性のレベルも
急激な飛躍を小さくしながら変えて説明できます。


このように、具体性のレベルでも飛躍を少なくし、
かつ因果関係としても飛躍を少なくするには、
主張に対する理由づけは一点に絞り込まれているほうがやりやすく、
かつ論理の一貫性も高めることができるわけです。

理由を3つも挙げるのは、議論の量が多いとき。

ちょっとしたエッセイ程度だとか
シンプルな説明だとかの場合には、
1つの理由について、一貫性のある根拠を追加しながら
具体例まで示せるほうが論理性も説得力も高まると考えられます。

というより、それが
 アカデミックライティングでトレーニングされる内容で、
 論理的な文章展開として認められている
といった話なんだと思われます。

「結論(主張)から先に述べて、後から理由を3つ追加する」
といった形で示せる論理性は、実は
さほど高いわけではないのかもしれません。

それだけで論理的な印象を与えられるテクニックとしては有効でしょうが
論理性を高めようとした場合には、もっと工夫する余地は沢山あるようです。

まあ、そもそも日本人は、
論理的な説明のトレーニングを受けないのが大半ですから
そんなに心がけなくても構わないという考え方もあるんでしょう。

論理性を追求するのであれば、理由の数を絞って
根拠に一貫性をもたせる方法もある、という話です。

cozyharada at 23:17|Permalinkclip!

2019年01月27日

日本語の発音を注意する

いくつか外国語をやっていると、微妙な発音の違いにも
段々と敏感になっていく気がします。

もちろん、それは僕が自然な発音に気をつけたいからでしょう。

世の中には複数の外国語を”話せる”人がいて
YouTubeなどで色々な言語を話す様子を公開していますが、
ほとんどの人はそれなりにネイティブに近い発音を目指して
努力をしているように見えます。

発音のクオリティに個人差があるのは
どれぐらい発音を言語習得において重視するかによるものだとして
それでも発音を完全に無視するというのは適切ではないのかもしれません。

1つには発音できたほうが聞き取りやすい、ということが関係しそうです。
音の区別がしやすいとか、音の繋がりのパターンを認識しやすいとか、
そういう要素があるんだと思われます。


特に、英語なら英語だけのように、1つの外国語をやっているだけだと
その言語の発音の特徴を捉えにくいところがあるような気がします。

人間が物事を把握するときは、常に参照する対象を必要とします。
1つの外国語だと参照できるのが母国語になりやすい。

仮に英語だとしたら、細かく英語の発音をトレーニングすれば
英語の発音のほうに基準を作ることができてきます。

しかし、おそらくそれでも、日本語の音の基準は消えません。
日本語は日本語の音として認識する基準が残る、と。

なので、「日本語よりも〇〇」のように
音の特徴を対比させながら把握するケースが多いようです。

そこで複数の言語を勉強して、それぞれの発音の違いを気にし始めると
微妙な音の違いをお互いに参照させながら、対比として捉えやすくなる。

比べるものが多くてハッキリしている方が
特徴を捉えやすいということだと考えられます。

口の中で舌がどこにあるか、とか
どのあたりで空気の流れを妨げるか、とか、
口や喉のどこで音を響かせるか、とか
どの部分で摩擦音を出したり、破裂音を出したりするか、とか
明確な違いの基準が多いほど
実際に発音するときに心がけやすいように感じます。

そのときに役立つのが、IPA(International Phonetic Alphabet)という
国際的な発音記号の表記法です。

世界中の言語の発音を、記号で分類してくれます。
何語のどの音と、何語のどの音が同じか、などが分かる、と。

もちろん、口の中でどのように作られる種類の音かによって
音素の分類もなされています。
特徴が掴みやすいんです。


とはいえ、いきなり複数の言語を勉強するのはハードルが高い。
しかし英語をやるとして、英語の発音だけを勉強しても
違いの対比がしにくいところもあります。

その大きな理由が、
 日本語の発音を知らない
ということだと思うんです。

日本語を発音の特徴を客観的に知らずに
日本語と英語を対比しようとしても
実際には正確な違いが分かっていないで、
結局は日本語の音で代用してしまったりする事態が起きがちです。

明確に日本語の音と英語の音の違いを理解できれば
何を心がけて判別すればいいかも分かりやすくなる。

英語の音を客観的に理解するためには、
参照指標として使う日本語の音も
客観的に理解できていた方が都合が良いわけです。

なので、日本語の音をIPAの発音記号で調べてみると
英語の発音と実際にどう違うかも掴みやすくなります。


例えば、
日本語のハヒフヘホは、発音記号にすると…

 ha (ハ)
 ci (ヒ)
 фu (フ)
 he (ヘ)
 ho (ホ)

となります。

これが英語だと…

 ha (e.g. house のハ)
 hi (e.g. heat のヒ)
 hu (e.g. hoop のフ)
 he (e.g. head のへ)
 ho (e.g. home のホ ※アメリカ発音)

となる。

日本語のハ行には3種類の子音が使われているんです。
そのことを知らないと、普通にカタカナのハ行で代用してしまう。

日本語の音を知って、そのうえで英語の音も知ると
それぞれの音にどういう違いがあるかが分かってくるはずです。

何を心がければいいのかも自動的にハッキリしてくる。

英語の発音を勉強するだけでなく、
日本語の発音も比較対象として勉強してしまうと
習得が速くなる可能性があると思うんです。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!

2019年01月21日

テストを受けました

先日、後期分のロシア語講座が終わりました。

慶応大学の公開講座を取っていたんですが、
こちらは一般的な公開講座や語学学校の進度と比べると
圧倒的に早く展開していきます。

かなり詰め込みなんです。

大学付属の講座ですから、前期後期に分かれた90分の授業で
各期が13回からなる、という普通の大学の授業と同じ形式。

で、レベル分けみたいのもあって、そちらも大雑把です。
初級、中級、上級ぐらい。

各レベルを1年で終える想定になっているらしいです。

90分を13回×2期ですから、一年の間のたった40時間弱で
各レベルが終了してしまうことになります。

どんな言語でも120時間で上級レベルに行くのは大変でしょう。

となると前提として自習が含まれている、と。
あくまで必要項目だけを情報提供するのが講座の役割で
習得のためのトレーニングは自分でしてください、
と言わんばかりの講座になっているわけです。

しかもロシア語は文法的にかなり複雑なので
説明を聞くことと、仕組みを覚えること、
さらにその文法の仕組みを使うのに慣れること、
これらの差は劇的です。

生徒自身が頑張らないといけないスタイルの語学講座なんです。
そこが一般的な語学講座と違います。


そういう早い進行ですと、当然、全員がついてこれるわけではありません。

日頃の復習やトレーニングの量が影響しますし、
人によっては同じレベルを何度もやり直したりするようです。

なので、次のレベルに進むかどうかを決める参考として
こちらの講座では最終日にテストがあるんです。
成績がつきます。

別に落第、ということはありませんが、
先生の側から「この理解度では次のレベルに行くのは厳しい」
という客観的なアドバイスがもらえます。

それを参考に、もう一度同じレベルを取り直すか、
次のレベルに進むか、といった選択をすることになる、と。


僕の今の段階は、中級の半分が終わったところ。
かなり内容は複雑になってきている印象です。

それでも標準のレベル分けからすると、
初級文法がまだもう少し残っているらしいのですが。

ロシア語検定でいくと3級にも受からないレベル。

あと半期やって中級が終わって、それで全部をマスターしたら
3級に受かるぐらいの想定なんだとか。

英検3級が高校入試レベルだそうですから
それと比べたらロシア語検定の3級は随分と難しいはずです。

いったい1級とはどんなレベルなのか…。
まぁ、ロシアといえば文学で有名ですから
1級ぐらいになると読解の文章なんかは
相当に文語的な表現が増えてくるんだろうと想像します。

ともあれ、僕はまだ3級にも届かない初級文法の途中(8割ぐらい?)で
あと半期かけて、学校の設定する「中級」を終える予定となっています。

で、一応のチェック段階として、恒例のテストがあった、という話です。


内容は置いておくとして、一番印象に残ったのは
 どうやら僕はテストが楽しい
ということ。

限られた時間の中で知識を総動員して問題を解く。
プレッシャーのかかったトレーニングになります。

真剣になれますし、チャレンジする面白さもある。

テスト勉強の時期は面倒臭いところはあるんですが、
1つ1つ課題をこなして進めていく感じは
決して嫌なものではありません。

…もちろん、全くできなれば嫌気がさすでしょうけれど。

学生時代はテストに対してネガティブな印象しかありませんでした。
そればっかりの感じでしたし。

ですが、大人になって改めて体験してみると
「普段よりも一生懸命になれる」
非日常的な体験の1つなんだと感じます。

好きではないですが、意外と悪くない。

テストに対してネガティブなイメージを持ってしまっているのは
多くの場合、学生時代の経験のせいでしょう。

そんな体験でもリフレーミングしてみると
その中に含まれた「喜び」の種類を発見できそうです。

cozyharada at 23:13|Permalinkclip!

2019年01月15日

単語の覚え方

とりあえず単語を知っていれば
外国語でもコミュニケーションはとれます。

文法は表現方法として言葉の並べ方、加工の仕方の『常識』。

ルールというよりは、皆そうするのが標準、ということで、
標準に近いほど、多くの相手に伝わりやすくなります。

相手も同じような言葉の並べ方をする可能性が高く、
相手の言語的な思考に合わせやすいからです。

文法的にグチャグチャだと、何を表現したいのかが伝わりにくく
相手が理解するために頑張る必要が出てきます。

それでも相手が理解しようとしてくれる限り、
文法が多少おかしくても、なんとか意味は伝わるわけです。

しかし、単語が違っていたら誤解されます。
単語を言わなければ表現できません。

ジェスチャーとかに頼るしかなくなります。


芸能人などが世界各地の集落を訪れて
言葉も知らずに無理やり友達になるようなものがありますが、
あれでコミュニケーションが成立しているのは
ジェスチャーを多用するからでしょう。

そのうえで徐々に単語を覚え、その単語で情報を伝える。

文法を必要としないレベルの意思伝達をしているわけです。

何より、集落側に企画として受け入れ態勢があって
なんとか助けてくれようとしているから、
拙い表現でも分かろうとしてもらえて、
コミュニケーションが成立しているはずです。

語学の先生も、生徒の言うことを分かろうとして聞いてくれる。

しかし実社会では、そうとは限りません。
相手側に分かろうとする必要性がなければ
理解しようと頑張ってはくれないでしょう。

だからこそジェスチャーだけでは足りなくて、
単語を多く知っているほど伝わりやすが上がります。

文法も正確なほうがスムーズでしょうが、
単語と比べると遥かに比重は低くなると思われます。

ちょっと変だけど、何を言いたいかは分かる。
文法が不正確でも、意思伝達としては成立しやすいはずです。

実際、文法が不正確なのは母国語でもあるぐらいですから。

つまり文法は、正確な「表現」をするためのツール、
複雑な考えを明確に伝わりやすくするツールであって、
日常生活レベルで必要な意思伝達をするには
単語を知っていることのほうが重要だ、と。


では、どうやって単語を覚えるか?

僕にとって一番役だったのは、
話の流れの中で単語を覚える形です。

リーディング、リスニングの教材の中で出てきた知らない単語を
単語帳に書き写して、その単語帳を覚える。

僕が英語を集中的にやったときは、並行して
4000語ぐらいの頻出単語リストも暗記しました。

こちらのリストで覚えた単語は、結局
日本語への翻訳でしか記憶していません。

使われ方を覚えておらず、
場面によって変わるニュアンスなどは分かりません。
発音も不正確なので、実際に聞いたときには捉えられない。

それでも一度リストで覚えておくと
「この単語は知っている」という感じにはなります。

それで充分なんだと思います。

頭の中に保存はされている。
ただ思い出せる状態ではない、と。

記憶の第一ステップは保存です。

それを取り出すのが難しいとき、
「覚えていない」と言ってしまうのは勿体ない。

ただ取り出せないんです。
思い出すキッカケが足りないから、
スムーズに引き出されない、というだけです。
意識から遠いとも言えます。

スムーズに引き出すには、引き出すキッカケを増やせば良い。

だから記憶術では、色々な関連づけをさせるんです。
様々なルートで単語の記憶が繋がっていると
色々なキッカケからルートを辿って、その単語まで辿り着けます。

文章の中で出てきた単語を覚えるのが役だったのは
そういう仕組みでしょう。


実際、頻出単語リストで機械的に覚えた単語も
のちのち練習問題の英文のなかに出てきたり
リスニング音源のなかで聞いたりすると、
そこで記憶に定着する傾向がありました。

実例の中で覚えたはずの単語が登場すると
思い出せるものだったとしても、
意味が捉えられるまでに時間がかかるんです。

まして、なかなか思い出せず
「えーっと、なんだっけ?ああ、〇〇だ」
のような思い出され方では、実用レベルではありません。

もちろん中には
「見覚えがあるんだけど何だっけ?…分からない」
というときもあります。

そのときは調べ直して「ああ、そうそう」となります。
このときにも記憶が促進されるようです。

次回は思い出せる確率が上がります。

そうやって思い出しやすくなった状態で、
その単語が含まれる文章を繰り返し読んだり聞いたりすると
徐々に文章全体の意味がスムーズに捉えられるようになります。

このとき、単語は文章の一部として
自動的に意味を処理されていることになります。

ここまできたら、次に同じ単語と出会ったときも
自然と意味が浮かぶ状態になっています。


単語は単体で覚えても分かる・使えるわけではなく
実際の文脈の中で覚えてこそ実用レベルになる、と。

文法がグチャグチャでも、
スムーズに単語が思い出せれて口をついてくれば、
意思伝達はもどかしくないレベルでできるわけです。

そのためには、まず第一歩として
とにかく機械的に単語を暗記するのは効率的です。

この段階はただの保存だけなので、
どんな形でも覚えることが重要です。

単語帳のどこにあった単語かとか、
どの単語の次にあったとか、
そういうレベルの覚え方でも、まずは保存することが先決。

文脈と繋げるのは後からでも構わないわけですし、
何より単語リストを使っている時点で
文脈から切り離されてしまっているのですから、
いずれ文脈との関わりを覚え直す必要はあるんです。

一度暗記した単語を、様々な例文の中で理解する。
一つの単語で複数の例文を作る。

そういう風に繰り返し、違う形で
文章と結びつけるのが効果的でしょう。

例文そのものも脈絡のない一文よりは
何かについての記述の一部として登場する一文のほうが
記憶に残りやすいはずです。

レベルにあった沢山のリーディング、リスニングをやりつつ
登場する単語を片っぱしから暗記して、
その上で何度も復習する、というのが個人的オススメです。

復習の過程で、知っている単語が文脈と結びつき
分かる・使える単語に変わっていくでしょうから。

cozyharada at 23:27|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

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次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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