心理学

2018年12月27日

フェルメール見てきました

先日、フェルメール展を見に行ってきました。

すごい混雑ぶり。
ピークを外した平日の午後のつもりでしたが甘かったです。

入場時間帯が分けられていても
各時間帯の初めは行列になるとのことで、
少しズラしたタイミングで入場したんですが…。

作品の点数も決して多くなく、
開催の美術館そのものも上野の中では小さいもの。

その割には、一般的な相場を大きく超える価格設定で
フェルメールを8点も集めたら、それだけで
相当な金額を所蔵元の美術館に支払っているのがうかがえます。

通常は数百円支払うことになっている音声ガイドも
無料で全員に配布していて(音声ガイド込みの入場料ともいえますが)、
しかもその音声に石原さとみを起用しているあたりも
なんとかして入場者を集め、元を取ろうという様子が感じられました。


僕は美術館では音声ガイドは使いません。
絵を見に行っているのであって、
絵画の歴史を知りに行っているわけではありませんから。

NLPの観点で、強調されたサブモダリティを見つけ
画家の視点と視線の方向、焦点距離と視野の広さを捉えて、
それで画家が見ていたのと同じ見方を模倣します。

すると絵の中に描こうとしていたものが感じ取れてきます。

一般にはフェルメールの光の描き方が解説されたりしますけれど、
そういう見方をするとフェルメールの絵には
本来は制止した紙の上の絵には表れないはずの
『時空』を描こうとしていた雰囲気が感じられます。

そういう見方をするためには、絵を見る角度と距離が大事になります。
混雑した美術館では、なかなか厳しいものです。


おそらく今回のフェルメール展は、
かなり特殊な展示の仕方になっているのでしょう。

通常よりも作品数が全体的に少なく、
それでも物足りなく見せないためには
美術館のスペースは狭いほうが良い、と。

それでいて経費の元を取るには入場者数は稼がないといけません。
身動きが取れない状況は避けながらも数を入れる。
それには回転は速い方がいいはずです。

日本人は勉強好きが多いのか、美術館で見かける大部分の人は
絵を見るよりも、文字情報に関心が向くようです。

なので音声ガイドで解説を聞きますし、
絵の横に貼られた作品解説を読みます。

この時間が結構かかるんです。
大体、絵の横に貼られた解説の字は小さいですから。

回転をよくするためには、その字を全員に読まれては困る。
だからでしょう。
このフェルメール展には、絵の横に解説が貼られていません。

代わりに展示作品全ての解説が書かれたパンフレットが
無料で全員に配られていました。

とはいえ、決して詳しい解説ではなく
通常は絵の横に貼られている程度の簡易なもの。

絵の横に文字情報を置いてしまうと、
一人ひとりが読むための時間で全体の回転が落ちる。
それを防ぐための工夫だろうと思われます。

音声ガイドは聞いていないので内容は定かではありませんが
ほとんどの人はガイドの解説が終わった瞬間に
次の絵に移動すると想像できます。

全員に音声ガイドを配るのも、全員の動きを均一化して
一定のペースで大勢が回転するのを狙ったものではないでしょうか。


ですが僕は、フェルメールの絵を見に行ったので
そういう全体の流れとは無縁です。

美術館に入るなり、入り口付近の解説文章に
それを読むための人だかりができていましたが、
当然それは無視して通り過ぎます。

しかし一点目、二点目あたりの作品近くから、もう大渋滞。

絵が見えるとか見えないとかのレベルではありませんでした。
通勤ラッシュかと思うほど。

その人ごみから滲み出てくるイライラと不満…、
にもかかわらず、たとえ絵が見えくても音声ガイドは聞く人たち。

その集団に巻き込まれると身体にストレスが起きてくるので
とにかく人ごみを避けるために、奥へと進んでいきました。

最悪の想定として、もう全てが混雑しているのだとしたら
何も見ないで帰ってくるぐらいのつもりで。
それぐらいの混雑ぶりだったんです。

そして出口近くまで一気に進むと、人の数が激減しました。

不思議なことに、そのゾーンにフェルメールが集まっていたのに。

つまり、美術館のルートの最後のあたりに
目玉のフェルメールが集結している構成だったんです。

ですが大部分の人は、入り口付近の絵のところに長く滞在して
丁寧に音声ガイドを全部聞いて渋滞を作り出し、
目玉ではないフェルメール以外の作品近くでラッシュを体験する。

そして先に進むにつれて、人ごみと立ちっぱなしと
見えもしない絵に対する不満と、解説に対しての飽きが出てくるのか…、
徐々に移動スピードを上げていったようです。

絵もチラッと見るだけ。
音声ガイドも全部は聞かずに先へ進む。
だんだんと疲れてきて長く居座るのも嫌になってくる。

そうして最後の目玉、フェルメールの作品が集まった区画に着くころには
もう絵を見る気力も、解説を聞く意欲も失われ始めている、と。

おまけに今回、一番有名だろうと思われる
『牛乳を注ぐ女』のすぐ先には、出口の案内表示と
出口に繋がる光が見えているんです。

薄暗く、狭く、人がひしめき合ったところを通ってきて、
ようやく有名な作品が出口近くにあって、
出口の先には明るい外の世界が予感される状態になっています。

それは早く出たくもなるでしょう。
最後の絵はサラッと見て、もう美術館を出てしまいたい。
解放されたい。
そんな心境の人が多かったのではないでしょうか。

ですからフェルメールの作品が集まった最後の部屋は
意外と人が少なく、流れも良く、強制的に一列に並ばされるムードもなく
割りと普通の美術館と同程度には絵を見ることができました。

なんとも皮肉な話です。

大行列の入場者は「有名なフェルメールだから」と来場したはずなのに
入り口近くの絵でもない文字情報の理解に力を注ぎ、
前半のフェルメールではない絵のところに時間をかけ、
ようやくお目当てのフェルメールに着くころには
絵を見る気力なんてなくなってサッサと出て行ってしまう。

まぁ、そのおかげで、僕はフェルメールの絵のところに直行して
比較的人が少ないゾーンだけに滞在しながら
ちゃんとフェルメールの視点にペーシングしつつ絵を堪能できました。

フェルメール以外は何一つ見てもいませんが、それもいいでしょう。


それにしても本当にすごい人数でした。

美術館は海外が良いなあと痛感します。

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2018年12月17日

オシャレのために

外来語を使うとオシャレになる、という日本文化は
これだけ外国人観光客が増えている昨今でも根強いようです。

例えば、スターバックスの商品名なんて
不思議なカタカナ語の羅列になっていたり。
英語とフランス語が混ざって使われていることもありました。

まぁ、そもそもアメリカのスターバックスでも、
サイズ表記はShort, Tall, Grande, Venti, Trentaとなっていて、
Grande以降の大きいサイズはイタリア語になっています。

(Grandeは「大きい」、Ventiは「20」、Trentaは「30」。
 Ventiサイズは、20オンスなので約570mlという意味のようです。)

外国語がカッコイイと思うのは、
日本に限ったことではないのかもしれません。


ですが、外国語がカッコイイとしても、それは自国の人にとっての話。
日本人にとっての英語、アメリカ人にとってのイタリア語は
外国語だからカッコよく映るんでしょう。

外国語が使われているけれど、その表記を目にする対象は
主に現地の人であって、外国人ではないわけです。

一方、最近は外国人観光客や海外からの移住者が増えていることもあって
街中に外国語表記の看板や注意書きが増えてきています。

新大久保駅構内のアナウンスは、十か国語以上で流れていますし、
モノレールのアナウンスや電光掲示板は、
日本語、中国語、韓国語、英語の4か国語で表されています。

最近は、小田急線の車掌が英語アナウンスを自力でやっていて、
これなんかは、かなり勉強した形跡が認められるものです。

新幹線は以前から上品なオーストラリア英語のアナウンスがありましたが
この頃は車掌や乗務員が肉声のカタカナ英語で、
わざわざ毎回決まったアナウンスを読み上げています。

ホテルには当然のように英語表記の注意書きが多いですし、
飲食店などでもトイレに英語の注意書きが増えてきた気がします。

こういうのは日本人のためのオシャレな外国語ではなく、
外国人のために書かれた内容のはず。

だったら、ちゃんと、その言語が分かる人に依頼するとか
少なくともネイティブにチェックしてもらうとか、
それぐらいの工夫はしても良さそうなものです。

ところが実態は…。
結構、「なんじゃこりゃ」みたいのも多いようです。


先日、打ち合わせで
地下鉄の四ツ谷駅出口の近くにあるカフェを利用しました。

店の名前は東京メトロなので、「Marche de Metro」。

Marcheはフランス語で市場、マーケットのことです。
その店はカフェだけではなく、フードコートになっていて
多くの種類の飲食店が集まっていますから、Marcheにしたんでしょう。

フランス語にしたのは、オシャレの要素ということで
これもよくある範囲だと思います。

「Metro」の部分は、フランス語だと「Metro」という綴りですが、
まあ、東京メトロは英語表記が「Tokyo Metro」らしいので
固有名詞の一部としての「Metro」を使っていると考えれば
「Marche de Metro」ではなく「Marche de Metro」なのは問題なさそうです。
(フランス語話者が見たら気になると思いますけど)

で、その店はフードコート形式なので
座席は利用者が自由に選んで座る仕組みになっています。

かといってセルフサービスではないので、
食べ終わった食器はテーブルの上に残していくルール。

なので、食べ終わってもう帰ったのか、
一時的に席を離れているだけでまだ途中なのか、
を示す必要があるようです。

その意思表示をするためのカードがありました。
それがこちら。

Marche de metro



















上から、英語、日本語、フランス語で書かれています。

内容に全く統一感がありません。
が、英語だけ分かる人、日本語だけ分かる人にとっては
問題なく意味を汲み取れる表記にはなっていると思われます。

英語のほうは
「この面を上にしてあったら、私どもでテーブルを片づけます」
といった感じの意味。

お客さんが読んで、
「ああ、この店は食器をそのまま置いていって構わないけれど
 このカードを使って食事が終わったことを示す必要があるんだな」
というルールは伝わるでしょう。

文章の主体は、店側になっています。
店側からお客さん側にアナウンスをしている形。


一方、日本語は「食器を下げてください」と
お客さん側の状態を代弁するメッセージになっています。

日本人であれば、これを読めば
「自分が食事を終えたときに、このカードを使って
 終わったという状態を伝えてあげる必要があるらしい」
と汲み取れます。

自分の状態に合ったほうの面を選んでテーブルに置いておく。
そういうルールが伝わる表記でしょう。


ところが一番下のフランス語は…。

「Debarassez pas la table, s'il vous plait. J'ai finis mon repas.」
とあります。

まずフランス語表記としてエラーがあります。
フランス語だと
「Debarassez pas la table, s'il vous plait. J'ai fini mon repas.」
のはずです。

アクセント記号が足りないのと、
「fini」が「finis」になってしまっているのが間違い。

アクセント記号については、このカードを作った人のパソコンで
記号つきのアルファベットを出せなかった可能性がありますから
まぁ、目をつぶることはできるでしょう。

「fini」と「finis」は、どちらも不定形が「finir」ですが
文法上、かなり使われ方が異なります。

「fini」は過去分詞、「finis」は一人称現在形。
「J'ai fini」で「私は終わりました」という過去形になります。
「Je finis」だと「私は終えます」という現在形。

ここは混ぜてはいけないところ。

それでもまだ、タイピングミスとかの可能性はあります。

ですが、文章全体の意味を考えると、これは明らかに問題です。

一文目
「Debarassez pas la table, s'il vous plait.」
は、
「テーブルを片付けないでください」
という意味です。

ここまでだと、誰から誰に対してのメッセージなのかも分かりません。

店側からお客さんへのメッセージだとすると
「テーブルはそのままにしていってください」
とお願いしている、ルール説明だと受け取れます。

英語と日本語の意味から考えると、この解釈になりそうです。

にもかかわらず次の文、
「J'ai fini mon repas.」
は、
「私は食事を終えました。」
という意味です。

主語は私という単数形ですから、店側ではありません。
食事を終えるのもお客さん側の立場。

となると、この2文は
お客さん側の状態を代弁する形式だといえそうです。

日本語表記のスタンスと同じ、英語表記とは逆だ、と。

そうすると2つを組み合わせたときの意味、
「テーブルを片付けないでください。私は食事を終えました。」
は、
なんだか意味がよく分かりません。

「テーブルを片づけてください。私は食事を終えました。」
だったら、
お客さん側の状態を代弁する意思表示のカードなんだと伝わりそうです。

逆に
「食べ終わってもテーブルはそのままにしておいてください。
 私たちで片づけます。」
というメッセージなら、店側からお客さんへのルール説明として伝わります。

そのどちらでもないわけです。

元のメッセージをできるだけ残すとしたら、
「テーブルを片づけてください。私は食事を終えました。」
のほうになるでしょう。

おそらく「片づけてください」を
「片づけないでください」と書き間違えたと想像できます。

本来は
「Debarassez la table, s'il vous plait. J'ai fini mon repas.」
にしたかったんだと思います。

否定文と肯定文の間違えは、意味が真逆になりますから
かなり大きなミスではないかと…。

誰にもチェックを依頼していないんでしょうね。


そう考えると、
一見したらお客さんのための注意事項のようなカードも
その実態にはオシャレ目的の内容が含まれている、
ということなのかもしれません。

本当に注意書きとして店のルールを伝える目的なのだとしたら
オシャレ要素のために情報を混乱させるのは避けた方が無難かもしれません。

そもそも最後のフランス語の文章がいらない。

日本に来ているフランス語話者でも英語を分かる人は多いでしょうから
英語とフランス語の2つを見たときに、
わざわざ余計な混乱をさせるだけになってしまいます。

英語だけだったら、最初からそちらしか読もうとしないはずなので
むしろ逆効果とも言えそうな気がします。

日本人の立場に置き換えてみると、
ハリウッド映画に出てくる”日本人街”に
ちょっとおかしな日本語が書かれているのを見たときのような感じ。

あるいは変な意味の日本語のタトゥーを見たときとか。

突っ込みたくなるとか、気恥ずかしくなって目を背けてしまうとか。

そんな気持ちにさせている可能性があります。

オシャレのための外国語と、
情報伝達のための外国語とは、
目的が異なります。

情報伝達を目的とするなら、それなりのチェックをするほうが
目的に沿っていると言えるんじゃないでしょうか。

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2018年12月11日

『ヤル気を削がない』コミュニケーション

他人をヤル気にさせたい人って、多いようです。

上司が部下をヤル気にさせるとか、
親が子供をやる気にさせるとか。

簡単にヤル気が上がる「ヤル気スイッチ」のようなものを
期待することも少なくないように見受けられます。

ヤル気の上げ方や、モチベーションの理論など
心理学やマネジメントの分野でも注目される分野のようですし。


僕が思うのは、
 いずれも前提がズレているんじゃないか
ということです。

「どうすればヤル気(モチベーション)が上がるか?」
と問うのは、
そもそも「人はヤル気がない状態が通常」という前提を含みます。

ヤル気が上がらないと、やらない。

あるいは少なくとも
「ヤル気が上がらないと、自分が期待した通りには
 他人が行動してくれない」
という発想を含むはずです。

むしろ逆なんじゃないでしょうか。


つまり、人は放っておけばヤル気は出す。
人は何かをする性質を基本的に持っている、と。

誰かに関わって、その人のヤル気に影響を与えるのは
むしろ『ヤル気を下げる』側のコミュニケーションかもしれません。


ある作業に対して「ヤル気がない」ように見えるのは
そのこと以外のことにヤル気が向いているから。

もしくは全てのことにヤル気がない状態だから。
…こちらは心身が疲れていますから休息が必要なタイミング。

休みが必要ではないのに、特定のことにヤル気が出ていないとすると
それ以外のことに気持ちが向いている、と考えられます。
優先順位が低いんです。

本人の中で優先順位を上げる理由が把握できていない可能性があります。
だとすると理由が伝わっていないわけです。
伝え方の問題が考えられます。


あるいは優先順位の高さが分かっていても
期待するような行動にならないこともある。

スピードが遅いとか、質が足りないとか、自主性がないとか。

このレベルの話だと、本人がやり方を熟知していない懸念があります。
上手くない。
やり方がよく分かっていない。

求められることのレベルを把握していないか
そのレベルが必要な理由が分かっていないか
そのレベルのパフォーマンスを出す技量が足りないか。

だとすると、これはヤル気の問題ではないんです。
やっているんですから。

やり方、パフォーマンスが期待に沿わないだけ。

この場合は、話し合いが求められます。
本人の中に困っているところがあるはずです。

もし困っていないとすると、困らせることが上手くいっていません。

求められる基準があって、そこに達していない。
そして「求められることがあるなら、やらなければいけない」
とは本人も理解はしている。

だとしたら少なからず本人が困っているでしょう。
勉強のヤル気がでない子供なんかは、このケースが多いかもしれません。

何が分かっていて、何が分かっていないのか?
何が分からないのかも分かっていないのか?
何が上手くできないのか?
喜びが分かっていないのか?

そのあたりのことを話し合って共有できれば、
かなり具体的な指導が可能になります。

この段階だと教育・指導が求められるわけです。

ヤル気がないから、やらないんじゃない。
できないから、やらない。

だから、できるようになるサポートが先決です。


そして、上手にできるようになると、一般的には
そこに上達する喜びや、自主的に工夫する喜びが生まれます。

できるようになると、それなりに楽しさが出てくるわけです。

そうすると今度は、
ヤル気を削ぐコミュニケーションが課題になりがちです。

せっかく頑張ったのに頭ごなしに否定されるとか、
自主性を発揮したのに非難されるとか、
頑張っている部分を認めてもらえないとか、
数少ないミスだけを怒られるとか、
その作業以外の部分として、人間関係にストレスが強いとか。

こうなってくると不満が増えます。
以前のようなパフォーマンスが出なくなったり、
それ以上の努力をしようとしなくなったり。

結果は出しているのに、態度が悪くて、職場の雰囲気を壊す…
なんていうときは、ヤル気を削いでいる可能性がありそうです。

こうした範囲は、関わり方の工夫で対処する必要があります。


ポイントは、
 どのレベルで「行動」に繋がっていないのかを判断する
ということでしょう。

「ヤル気」とは、行動の原動力です。

「ヤル気がない」と評価するときには、
その人の行動を元にしているはずです。

本当にヤル気が全く無いとしたら、そこに行きません。
学校にも、会社にも行かない。

来ているということは、ある程度の必要性は理解しているということ。
その先に繋がっていないのが現状だと考えられます。

まずは「分かってもらう」ように伝えられるか。
それから、「できる」ように指導できるか。
その後が、「ヤル気を出して頑張ってくれる」ように
関わり方を工夫できるか。

そんなステップを考慮してもいいんじゃないでしょうか。

いずれかをやっていないとすると、それは
 最低限のヤル気を先に繋げていくプロセスを妨げている
可能性がありそうです。

そういう意味で「ヤル気を削いでいる」とも考えられると思うんです。

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2018年12月08日

久しぶりの東北新幹線

札幌にやってきました。
なんとか到着できました。

今までも交通のトラブルは何度もありましたが
それでも大半は帰りの飛行機関係だったんです。

東京から札幌へ向かう分には、何度か遅れたことがあるのと、
一度だけ大幅に飛行機が遅れて空港からタクシーで
札幌市内に移動したことがあるぐらいなものです。

帰りのほうは、終電に間に合わないのは何度もあっても
まぁ大きな問題にはなりません。

当日に帰れなくなって余分に一泊することになったのも2回だけです。

JRの電線にトラックがぶつかったために停電になり
札幌市内から空港まで移動ができなかった、というのが1回。
台風で飛行機が欠航になって札幌待機になったのが1回。

月曜日の仕事があったときも、大きな問題にはなりませんでした。


ですが今回、初めて札幌行きの飛行機が欠航になりました。
空港近辺の雪が強く、除雪が間に合わないという理由でした。

実際には、離陸の様子を見ながら運航遅れを繰り返し
多くの便が札幌にまで来れたようです。

ただ僕が予約していた便は正式に欠航。
前後の便は飛んだのに不思議な話です。

キャンセル待ちやら、不確定な飛行には賭けられないということで
陸路で札幌までやってきました。

とはいえ、札幌までの直行はないですから
東京駅から函館まで新幹線。
あとは主催の方のご厚意で、車で送っていただきました。

空港に到着してから欠航が確定し、東京駅に引き返し
札幌のホテルに着いたのは、羽田空港に着いてから12時間後でした。


長時間の移動は疲労も大きいかと心配していたんですが、
意外と大丈夫そうです。

新幹線は函館まで行くのが2時間に一本しかないのと
冬の金曜夕方の東北新幹線は大混雑らしく、
直行での座席が空いていませんでした。

東北新幹線には自由席がないみたいで
立ち乗りの特急券が用意されているだけ。

直前に辛うじて、途中駅からのグランクラスが1席空いたとのことで
半分ぐらいは座って移動することができました。

ちなみにグランクラスは東海道新幹線にはない座席で
グリーン車よりも広々としてサービスの良いクラスです。

サンドイッチみたいな軽食と、お代わりできる飲み物もついています。
ちょっと豪華な気分で過ごせました。

しかしリクライニングだと今一つ寝られません。

一方、函館に着いてからの車移動は、
いろいろとお気遣いいただいたおかげで多少は寝ることできました。

寝られるかどうかは座席よりも、僕の場合、移動速度が大事みたいです。
電車でもスピードの速い乗り物ほど寝られない傾向があります。

在来線より新幹線、新幹線より飛行機が寝にくい。

加速度でかかる重力は影響はないようです。
なぜか乗り物が速く動いていることを体が感じ取って
意識を活発にしてしまうみたいで。


ということで車の移動は、とても快適に過ごさせていただけました。

高速バスは試したことが少ないですが、苦手かもしれません。

同じ距離を移動するなら、バスよりもタクシーが快適に感じるのは
おそらくプライバシーの問題なんでしょう。

車はその意味で、気持ちが休まるところが大きいんだろうと思います。

移動疲れが心配でしたが、予想よりもずっと大丈夫でした。

「移動が多くて大変ですね」なんて言われることも多いものの
そもそもセミナー自体の疲労感とは比べ物にならないようです。

まとめて振り返ってみると、一人を感じられる度合いが
僕の疲労感と関わっているんだろうと思われます。

国際線のエコノミークラスが疲れるのも、座席うんぬんより
満員電車が疲れるのと似ているんでしょう。

自分が相当に一人の時間を大事にしているんだと実感します。

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2018年12月05日

リラックスしても寝つかない

なんだか最近、自律神経のバランスがおかしいようです。

布団の中で一睡もできない日もあれば
予定よりも3時間寝過ごしてしまうこともありました。

まあ、寝過ごしたとは言っても
ギリギリ予定には間に合いましたし、
寝られなかった日もパフォーマンスはもんだなかったり。

大きなトラブルには繋がっていないので
まあ、さほど心配はしていません。

NLP的にいうと、ほとんどの寝付きの悪さは
頭に偏った意識が速く活動し過ぎて
軽い興奮状態にあるのと関係するようです。

そういうときは、その頭の回転をゆっくりにしたり
意識の中心をズラしたりするのが効果的です。

一方、最近の僕の状態はそうではありません。
ただ眠くなかったり、寝ても起きてしまったり。
逆に寝たら起きなかったりも。

寝られないときは、意識を広げても寝つけません。

瞑想のときにも寝ないようになってきていますし、
催眠でも記憶が残り続けやすくなってきていますから、
どんな意識状態でも眠りにくくなっているのかもしれません。

物事には一長一短がありますね。


とはいえ、基本的に眠りが浅く、ろくに寝られない状態が続くと
どこかでやらかしてしまうのではないか?とは心配です。

普段以上に目覚ましを追加したりしているところ。

気候の不安定さもあるのかもしれませんが…。

無事に年末まで乗り切りたいところです。

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2018年11月25日

自転車

そういえば、11月の頭に渡米していたとき
久しぶりに自転車に乗ったんです。

よく言う話ですが、運動のやり方は忘れないというのが実感されました。

バランスを取るのも、ハンドル操作も全く問題ありませんでした。
ペダルをこぐのだけは、エアロバイクでやっていますが。


ただ、自転車を借りたのがホテルのもので
無料貸し出しのヤツだったせいか質がよろしくなかったんです。

そんなに滅茶苦茶ボロボロなわけではありません。
どこでもレンタル自転車なんて、そんなに高品質ではないでしょう。

比較として最近増え始めているレンタルサイクルのシステムを見ると
そちらのほうが設備がしっかりしているようではあります。

レンタルサイクルのほうはお金を払うわけですから
維持のためのコストもかけられるはずなので
クオリティが高めになるのは当然かもしれません。

日本にも時々レンタルサイクルのスタンドがありますが
コロラドは特に観光地だったせいか
かなりそちらのレンタルサイクルは量が充実していました。

料金もそこそこする上に、使い勝手はよろしくなくて
とりわけ僕の場合、クレジットカードが対応していないらしく
なぜか支払いができなかったんです。

なのでホテルで無料の自転車を借りられるのは助かりました。


ところが、借りてみると驚いたことに
ブレーキレバーがついていないんです。

置かれている全ての自転車に。

しかしそれを堂々と貸しているということは
法的には問題がない形になっているはず。

ということで駐車場内で試しに乗ってみました。

が、やはり止まりません。
危うく転びかけました。

念のため足を地面について停車できるようにとサドルを下げ、
もう一度挑戦してみることに。

もしかしたら自然にブレーキがかかったりするかも…、と思いきや
どうやらペダルを逆回転させると後輪にロックがかかる仕組みらしい。

いくらか”遊び”がありますから、
ペダルとタイヤが直結なわけではありません。

漕がずに、逆回転もしなければ、フリーの状態になって
慣性で走り続けることもできるようでした。
(だから最初に転びそうになったんですが)

とはいえ、ブレーキをかけるためにペダルを逆回転させるのは
初めての体験です。

厄介なのは、タイヤにロックがかかるということ。

ハンドルについているブレーキであれば
圧の強さを変えることでブレーキの利き具合を調整できます。

ところが、その自転車では「ブレーキ=後輪がロック」なんです。

車でいうと、サイドブレーキみたいなものでしょう。

サイドブレーキだけで車を運転するのは
なかなか怖いものだと想像してもらえるんじゃないかと思います。

結局、こまめにブレーキと解除を繰り返し
徐々にスピードを緩めるという方法に辿り着きました。
慣れるまでには結構な時間がかかりました。

直感的にもハンドルにブレーキが着いていないのは心細くもありましたし。

なんだか体力的なことより、緊張が強くて精神的に疲れた気がします。


もしかしてアメリカの自転車は、このタイプのブレーキが主流なのか?
と走りながら、すれ違う自転車を見てみましたが、結局
ハンドルにブレーキレバーが無い自転車は見かけませんでした。

アメリカでもマイナーなスタイルなんでしょう。

日本でこんな自転車に乗っていたら、多分
警察官に止められると思います。

とはいえ、そんな不思議な仕組みの自転車でも
同じ自転車として乗りこなすことができるというのは
人間の学習能力の汎用性を感じさせてくれました。

原理が同じであれば、一か所ぐらい違っているところがあっても
そこは意識的に取り組むことで対応できるみたいです。

複数個所を心がけないといけなかったとすると
もっと大変だったんじゃないかと想像しています。

なかなか新鮮な体験でした。

まぁ、安全性から言えば
推進力を生み出すペダルの部分と
制止させるためのブレーキの部分は、
別の個所で分割して対応させた方がスムーズでしょう。

手と足で分業する一般的な自転車は
足だけで2つの作業をする種類よりも
理にかなっているんじゃないでしょうか。

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2018年11月16日

もう一度ご案内:札幌セミナー【怒りの取り扱いマニュアル】

もう一か月を切っていますが、
補足としてお知らせをしておきます。

12月8日、9日の土日で
「怒りの取り扱い」をテーマとした講座を札幌で行います。

詳しくはこちらをご覧ください。


内容としては、「怒り」というものの性質を
しっかりと理解し直すところから始める予定です。

これは他人の怒りと関わるうえでも注意すべきポイントになります。

怒りが出ているということは、いったい
心の中で何が起きているからなのか?

それを知っておくだけでも、
 何に気をつけて怒っている人と関わればいいか
の方針が見つかります。

また、多くの人は怒りと、その他の類似した感情も
あまり明確に区別していません。

怒りと不満、憤り、苛立ち、敵意などは、どのように違うのか?

性質に違いがあるのですから、対処の仕方にも違いが生まれます。
そのあたりも扱っていく予定です。


さらに、怒りの対処と関連して重要なテーマとして
「ゆるし」も2日目に取り扱います。

実のところ、「ゆるす」ということを実感的に
また知的に、適切な理解をしている人は極めて少ないようです。

例えば、ドラマとか映画とかで登場人物が
「ゆるさないぞ!」なんて言う場面がありますが、
これは「ゆるす」ということについての一般的な理解を
象徴的に示していると思われます。

つまり「ゆるさない」が1つの行為なんです。
「ゆるさない」=「ただでは済まさない、仕返しする」
「ゆるさない」=「償わせる」
といった内容が想定されている、と。

こうした具体的な内容と結びついた「ゆるさない」という動詞に
反対語として「ゆるす」が設定されがちなようです。

つまり「ゆるさない」という動詞が肯定形の表現で存在して
「仕返しする」、「償わせる」と同義になっている。
そして、「ゆるさない」の否定形として「”ゆるさない”をしない」ことが
「ゆるす」となる、と。

ですから「仕返しをしたい気持ちを抑える」とか
「償いを求める気持ちを抑える」といったことが
「ゆるす」という行為として理解されがちなんです。

言い換えると、
 表面上に見てとれる具体的な行為として
 相手に対して何かを働きかけるのを制止する
ということです。

裏を返せば、行動としては表現していなくても
心の内側には怒りの状態が残っていることが多い、ともいえます。

むしろ「大目に見る」に近い感じ。


これは「手放す」とか「あきらめる」にも言えることですが。
「手放します」という宣言とか、「あきらめよう」といった考えは、
まだ「手放し」や「あきらめ」には辿り着いていない段階に起こります。

「手放せた」「あきらめた」という過去形になったとき
ようやく「手放し」「あきらめ」が起こったと言えますが、
本当にそうなると、そのことは一切気にならなくなるので
今度は「手放し」とか「あきらめ」といったフレーズは使われなくなります。

自分にとって『どうでもいいもの』についてだとしたら
わざわざ意識に上がることさえなくなるはずです。

本当に『どうでもいい』『どっちでもいい』と実感できた状態が
「手放し」「あきらめ」、さらには「ゆるし」だといえます。

ですから「手放し」も「あきらめ」も「ゆるし」も
辿り着いた段階の状態を説明する単語であって、
行為として「手放す」「あきらめる」「ゆるす」ことを行うのは
実際には、まずあり得ません。

むしろ何らかの経験を通って、最終的に
「手放し」「あきらめ」「ゆるし」の境地に辿り着く、
という性質ものです。

ですから「手放し」「あきらめ」「ゆるし」のために作業としてできるのは
 その境地に辿り着くためのルートとして、必要な体験を進める
ということになります。

日常生活では偶然の要素を伴いながら、
たまたま起こる体験を重ねるうちに
仕方なく、その境地に辿り着いてしまうことがあります。

それだと、かなり偶然に頼ることになる。

なので「ゆるしの技法」では、イメージワークを使って
「ゆるし」の境地に辿り着くまでの”過程”を体験する作業をするわけです。

これは日常的にやられる作業ではなく、
心理療法的なアプローチの中でもかなり特別な方法でしょう。

そのあたりを体験していただく予定で講座を計画しています。


札幌にまで来るのは大変だという方もいらっしゃることでしょうが
ご興味とご都合が合いましたら、ご一考ください。

https://hsmana.com/sapporokenshu-kai2

cozyharada at 23:06|Permalinkclip!

2018年11月11日

好きだったマンガ

高校生ぐらいから好きで読んでいたマンガに
「ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜」というのがあります。

贋作者の話で、
芸術作品を中心に、法外な値段で
本物と区別できない複製を作る主人公が
様々な依頼を受ける様子が描かれます。

毎回、かなり詳細な時代考証を含めた話が出てきて
ストーリーとしてだけでなく知的好奇心としても楽しんでいました。

基本的には、無茶苦茶なまでの主人公の能力によって
無理難題が解決されてしまう話なんですが、
勧善懲悪的なところもあって痛快でもあったんです。

一目見ただけで全てを記憶してしまったり、
ギャングに目隠しで連行されても音だけで場所が分かったり、
イタコ的に作者になりきって、完全に本物と同じものを複製したり
(作者本人でも複製は無理だと思うんですが、そこはマンガ)…。

世界中の人を相手にしながら事件や問題解決をしますから
ほとんど全ての言語を使いこなせるというのも特徴。
歴史書とか古文書も読みます。

一話分のストーリーで進む時間を考えると
全78巻の話を一人の人物が体験するには膨大な時間がかかりそうですが
マンガなので主人公はずっと同じ年代のままです。
(幼少期や若い頃のエピソードは出てくる)

まぁ、自分も複製してしまえるので、もしかしたら何人もの主人公が
別々の場所で活躍しているという解釈もあるのかもしれません。


ともあれ、僕はこの漫画がかなりお気に入りでした。

影響を受けたともいえるでしょうし、
そもそも心に響くところがあったともいえそうです。

子供の頃から絵は好きでしたし、芸術は全般に興味があるほうでした。
「美味しんぼ」を読んでも、海原雄山が書、画、料理と幅広く
芸術に才能を発揮する様子に憧れていたものです。

なんとなく「〇〇文明」みたいな考古学的な話に興味を持つことも多く
若干オカルト的なピラミッドの謎みたいのも好きでした。

そういう要素が沢山詰まっているマンガだったんです。

ですが今にして思うと、
自分が現時点でやっていることと共通する部分が含まれるのにも気づきます。

例えば、主人公の超人的な五感の感度。
見たもの、聞いたもの、味わったものは正確に区別できて
それを完全に複製できるという能力が描かれています。

もちろん、僕にそんな能力はありませんが
一般よりは五感の感度は高いほうだと思われます。
そういう訓練をしてきましたし、NLPを通じて敏感になってもいます。

また、NLPの中には「モデリング」という
「他の人のやり方から学ぶ」方法があります。
これもできるだけ本人を再現度高く真似するところがポイントです。

モデリングの趣旨の中には「誰かにできることは他の人にもできる」
という発想が含まれていますから、そこには
本物を「複製する」というマンガのコンセプトに近いものを感じます。

マンガの中では「本物だけが心を打つ」という描写もありますが、
僕自身もNLPにおけるサブモダリティの観点で、
どのように人の心を打つのかというのを考えてきたところもあります。

絵画を見るときは画家の視点に立って見るようにしていますし、
知識ではない絵画鑑賞のポイントには結構自信があります。

そういえば海外に行っても観光は好きではないのに
美術館だけは足を運ぶというのも示唆的に思えます。

そして最近は色々と語学をやっています。

当時はさほど気にしていなかった主人公の能力の1つ、
「あらゆる言語を使いこなす」についても
いつのまにか関連性が出てきたような気がしています。

マンガでは当然、記述はすべて日本語に翻訳された設定となりますが
ときどき挨拶とか呼びかけとか、カタカナで外国語が出ていたんです。
ロシアにいくと「ガスパジン・ゼロ」と呼びかけられる、とか。
(ガスパジンはロシア語におけるMr.のような単語。ゼロは主人公の名前。)

そのあたりの部分が何となく心を捉えていたのかもしれません。
そのころは調べもしませんでしたが、
今こうやって外国語表記の部分が思い出されるということは
なんらかの特別な印象を受けるところだったんだろうとは考えられます。


気に入っていたマンガとか映画とかには、自分の持ち味と関連する何かや
自分の心に深く訴えかける要因が含まれているのかもしれません。

もういちど読み返したら、また何か心に響くところとか
当時は理解できなかったものが理解できるようになっていたりとか
新たな発見があるんじゃないかと思い始めました。

さすがに全78巻は多いと感じますが
もう一度読み返したい気持ちが高まっています。

思えば、このころの僕には好きなマンガが多かったものです。

特にこの「ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜」が連載されていた
スーパージャンプはお気に入りでした。

「ミキストリ」とか
「緋が走る」とか
「企業戦士YAMAZAKI」とか
「人事課長鬼塚」とか…。

いずれも今考えると、どこが心に響いていたのか納得できるものばかり。

そのころは今のような自分になっていることは想像していませんでしたが。
面白いものですね。

cozyharada at 23:38|Permalinkclip!

2018年11月09日

日米の食生活

アメリカ人の食事を見ていると、一食あたりの量は少なめにさえ見えます。

ホテルの朝食だとしたら、日本人観光客のほうが
平均すると2倍近くとっている印象も。

ただし、アメリカ人の炭水化物の比率は非常に高い。
パンとかワッフルとかビスケットみたいのとか、
そういうのがメインに見えますし、
さらにそこへ甘いシロップとかクリームとかがタップリ。

「フルーツが健康に良い」というビリーフでもあるのか、
果物やジュースも追加されます。

で間食にまた果物とかビスケットとか。


そうして肥満率が上がるのかと思いきや
子供は同じような食事をしていても痩せているんです。

20歳を過ぎたあたりから何かが変わり始めるんでしょうか?
身体への意識が低いのは共通して見られる特徴ですが…。

大人になるほど日常的に動く量は減っていきますから、
座り込んで動かない感じが強いほど脂肪がつきやすいのかもしれません。

それは全体的な運動量というよりも、
意識が行き届いていないことと関係しそうな印象を受けます。

だから顔とか首とバランスが取れないぐらい
胴体ばかりが大きくなりやすいのかも、なんて思ったりもします。

顔周りまでは意識が行き届いているのに対して
胴体への意識が極端に下がっているという話です。

まあ、顔の骨の凹凸が大きいから脂肪がついても目立ちにくいとか、
そもそも顔あたりの脂肪細胞の数が少ないとか、
遺伝的な要因もあるのかもしれませんが。


ただ、観察して言えるのは胴体への意識の低さ。
これはもう圧倒的に日本人と違います。

良くいえば力が抜けているとも解釈できるとはいえ
健康問題とリンクしそうにも思えます。

アメリカの医療問題はかなり取り上げられているようでしたし
オーガニックとか非遺伝子組換え食品とかの人気も高いそうです。

でも、そこではないんじゃないか?という気がしてしまいます。
身体への意識が低くて置いてけぼりになっている感じ。

そこに文化的な傾向として、自制の度合いが低いのも追加されます。
感情や考えを表現することについても制御することが少なく
なんでも素直に表すことが多いようです。

さらに土地としても広々としたところに住んでいますから
自然と意識が拡大しやすいのも特徴でしょう。
これは日本から行ってみても感じるところです。
なんとなく開放的になる。

結果的に他者との境界の意識が弱まります。

一体感が起きやすいのはアメリカのイベントを見ていても実感されますが
反面、自他の境界としての体表面に意識が向きにくくなるともいえます。

境界意識が弱いと力が抜けやすくて、
表面がボワッと柔らかくなりやすいようです。

「自分の身体がどこまでか」という設定が弱いわけでもありますから
その設定値に対してのホメオスタシスが働きにくくなって
どこまでも肉がついていってしまうとも考えられるでしょう。


日本人と比較すると真逆の感じです。

日本人は行動的においても感情や考えの表現においても
自制の度合いが非常に高い。
抑え込んでいる傾向が大きいといえます。

そして他者との境界意識が非常に強い。
パーソナルスペースを維持しようとしがちですし、
満員電車におけるスペースの取り合いなんてのは
自他の境界の強さの典型的な表れです。

脇を開けないで肘を体に近づけていることが多かったり、
肩甲骨が背骨に寄るように力が入ることも多いはずです。

身を縮めている、と。

細身の人は特に、体表面の筋肉に力が入って
外側がカチカチの雰囲気もあるぐらいです。

どうしてもピリピリと緊張した感じが出ます。


これぐらい体への意識の使い方が異なっていると、
身体症状として表れるものの意味も
心の問題として表面化するものの内容も
随分と日米で差が出るだろうと思われます。

同じ健康法が通用するとは考えにくそうですし、
アメリカで開発された心の問題へのアプローチが
日本でそのまま通用するかも定かではありません。

大雑把にいえば…。

アメリカの場合、
 『我慢や自制をしない』ことで身体の機能の標準的な範囲を超えてしまい
 体そのものが自らの機能で維持できなくなってしまう
といった身体的な問題が起きやすい。

また、『我慢や自制をしない』ことで
 コミュニケーションにおける衝突が増えたり、
 衝動的な言動で行き当たりばったりの対応をして後悔したり、
 短期的な報酬に依存してしまったり
といった心の問題が起きることも多そうです。

一方、日本の場合は『我慢や自制をし過ぎる』ことで
 限界を超えて頑張り過ぎてストレス症状が表れたり、
 自ら自分の身体の一部にダメージを与えたりしてしまう
といった身体的な問題が起きやすいのかもしれません。

コミュニケーションや人間関係においても『過剰な我慢と自制』によって
 自分の心の中で葛藤が生まれ、悩みが複雑化しやすかったり、
 常に不満や苛立ちを抱え続けていやすかったり、
 限界を超えた瞬間に自暴自棄になってしまったり、
といった心の問題に繋がりやすいようにも思えます。

一口に、「癒し」、「回復」、「ケア」などと言っても
実際に何をするかとなると日米では差が出て当然なんじゃないでしょうか。

我慢や自意識が低すぎてトラブルになるアメリカ人、
我慢や自意識が高すぎてストレスを抱える日本人。

ざっくりと一般化してしまえば、そんな傾向。

このあたりの違いが、様々な部分から見てとれます。
食事の仕方だけに注目しても見受けられる特徴といえそうです。

cozyharada at 23:40|Permalinkclip!

2018年10月25日

英語学習の思い出

思い返してみると、僕が小学校に上がる前だった頃か
自宅には英語の音声教材がありました。

当時はまだSONYのウォークマンも発売されていない時期ですから
ラジカセのようなテープレコーダーも主流ではなかったのでしょうか。
レコードがメインだった時期だと思います。

なので、その教材もカセットテープなどではなく、
磁気テープが貼り付けられた紙のカードをリーダーに通す仕組みで
1枚のカードに1センテンスだけ英語音声が収録されていたはずです。

カードには相応の絵柄なんかもついていたかもしれません。
それをリーダーに通すと、ネイティブの録音で音声が流れる、と。

基本的には1枚のカードで一単語を説明する感じで
「Zoo. The zoo opens.」みたいな程度だった記憶があります。

確か、カードリーダーに通す作業のほうが楽しくて
それで遊んだような思い出が残っています。


それから小学校に入って、近所の幼児英語教室みたいのに
いくつか通ったのも覚えています。

「いくつか」というのは、積極的な意味での話ではなく、
地元の主婦が自宅の一部で、習い事の教室をやっている程度なので
長続きしないことが多かったからだろうと思われます。

教室がなくなったら、次のところを探して行く。
そんな感じで3か所ぐらいに通ったんじゃないでしょうか。

どれも基本的には嫌々通っていたように思います。

内容なんて理解していないし、やらされるお遊戯が不愉快だったし、
なんだかヘンテコな呼び名をつけられるのも嫌いでした。

覚えているのは、友達が先生から「じゃあ、カエルは何ていうの?」
って聞かれたときに「フロッグ(frog)」を言おうとして
「ケロッグ」って答えて面白かったぐらいです。

カエルの鳴き声の感じと、フロッグの音の感じと
耳馴染みのあった「ケロッグ・コーンフレーク」なんかがセットになって
自然と「ケロッグ」が浮かんでしまったんでしょう。

それぐらいしか記憶にありませんし、
もしかすると英単語のいくつかは覚えていて
中学一年生で英語の授業が始まったときに役立った可能性はあります。

しかし文章レベルで何かができたわけではありませんし、
英語で何かを言う、なんてこともしていた記憶はありません。

遊びの延長ぐらいなものです。


それから中学校に入って、学校教育としての英語が始まりました。

ここからが一応の本格的な英語”学習”のスタート。
勉強し始めた段階です。

いくらかの単語を覚えていたのと、アルファベットには慣れているのとで
なんとなく最初の頃の英語の授業は気楽だったのが思い出されます。

中学に入ってから塾にも通い始めました。
高校受験対策の塾です。

そんなに高度なことをやらせる塾ではありませんでしたが
入試に出るような形式の問題をひたすら解かされるタイプの勉強でした。

毎回宿題が出て、とにかく量は義務的にやったように思います。

それに加えて、近所に帰国子女の大学生が住んでいて
その人から少人数の家庭教師的に、英語だけを週一回やっていました。
友達4人ぐらいで集まって教わっていた感じです。

こちらも結局は塾でやるような文法の練習が中心だったんですが
帰国子女だけあって、発音をしっかりしてくれるのは良かったんでしょう。

振り返ってみると、いわゆるフォニックスのようなこともやっていました。
音のルールの勉強です。

そのおかげで初出の単語でも発音の予想がつくというか
ある程度、英単語を英語の音として捉えられていたんだと思います。


ですから中学校までの段階で、僕は英語の文法ルールを
学校教育をベースにした塾と家庭教師の勉強で地道に練習して、
それと並行する形で、英語の音にも触れる機会が多かったと言えそうです。

文法のトレーニングは日本の英語教育として標準的でしょうが、
そこに発音や音への慣れが追加されていたのはメリットだった気がします。

幼稚園やら小学校の頃に触れていた英語は
具体的なレッスンのレベルとしては役に立っていませんでしたし、
会話の練習になんて全くなっていなかったですが、
「英語の音に触れ続けた」という点では有効だったと思われます。

つまり僕は英語のトレーニングの初期段階で
音からのインプットの経験量が多く、
同時に文法的な練習問題を数多くやった、ということのようです。

文法の練習問題は、それそのものが基本的なルールの学習として
英語の文章のパターンを捉える訓練にもなっていましたし、
文法的な正確さへの心がけを高める土台にもなったと思います。

それから文字情報からのインプット量を増やせたのも大きいはずです。

音からのトレーニングだけでは曖昧だった部分が
文章と照らし合わせることで整理されやすくなる感じ。

まとめると、音からのレベルでも、文字からのレベルでも
シンプルな内容のものに数多く触れた、ということです。

しかも音と文字とを対応させながら。

このことが、僕の英語習得の土台として
後々に大きなメリットとなってくれたんだと今にして思えます。


実際には、その後、高校と大学で
膨大な量の英文のリーディングをすることになります。

とにかく長文だけを読解するのが高校の英語の授業の9割で、
それをベースにして大学では有機化学とか化学工学とか
一部の専門授業の教科書を英語でやらされることになりました。

研究室に配属される頃には英語で書かれた学術論文を読む必要が出てくる。

この頃にはもう英語の音に触れる機会は滅多にありませんでした。
それでもおそらく、英語の文章を読むときに
自分の頭の中で読み上げる英文が、それなりの発音だったんでしょう。
極端なカタカナ英語ではなかった。

なので音と文字の結びつきを維持したまま
インプット量を増やせていたんだろうと思われます。

きっとそのおかげで、僕が会社に入ってすぐの新入社員研修中に
全員で受けさせられた初めてのTOEICのテストでも、
特別な勉強をすることなくそれなりのスコアが取れたんだと思われます。

当然、まったく話すことはできない段階でしたし、
聴き取りのトレーニングもロクにしたことがありませんでしたが
適当に答えた選択肢が当たっていたのか740点ぐらいになりました。

TOEICのリーディングセクションは確か
文法問題的なものと、長文読解みたいなものが多かったはずで、こちらは
中学時代の地道な練習問題で身につけた文法の正確さと
高校・大学とひたすら英語の長文を読まされ続けたことでの慣れとで
それなりに点数が取れたんだろうとは思われます。

リスニングセクションに関しては、TOEIC対策の勉強もしていませんし
音声教材を聞くようなトレーニングもしてきていません。
ネイティブの英語を聞く機会もほとんどありませんでした。

大学一年のとき、英語ネイティブの先生が1コマ担当していた気はしますが…
せいぜいそのぐらい。

なので、英語を聞くことには慣れていなかったはずです。
少なくとも、文法や読解をトレーニングした量と比べると
圧倒的な差があったのは確実。

それでもなぜか音が取れていたんです。
単語が捉えられたり、フレーズ単位で捉えられたり。
捉えたフレーズを日本語に翻訳することなく意味を把握したり。

そのあたりのことが自然と起きていたのは、もしかすると
中学に入る前から英語の音へ触れ続けていたことや
中学の時に家庭教師の先生からフォニックスを教わったことで
英語の音への感度がそこそこ身についていたからかもしれません。

そして比較的正確な音の認識を保ったまま
文字情報からのインプットを大量におこなって、
そのときに自分の頭の中で、文章と音と意味の結びつけを作った。

それなりに正確な英語音声と文字情報とをセットにできたのかもしれない。
このベースとなったのも、幼少期からの英語音声のインプットだったのかも。

そんな風に考えていくと、語学の初期には
・とにかく音に触れる量を増やして、言語特有の音への感度を上げる
・簡単な文章に繰り返し触れて、単語の形や並べ方に慣れる
というのが役に立つように思えてきます。

正確なことが理解できていないとしても、
高度なことができないとしても、
実際のコミュニケーションには程遠いとしても、
とにかく耳と目からのインプットを増やして慣れる。

その過程で、発音のルールだとか文法的なルールだとかを
なんとなくのパターンとして経験的に掴んでいくようにする、と。

それから文法のルールを勉強して法則を知的に整理するような流れが
スムーズなんじゃないかと思われます。

で、ある程度のルールが定着して
すぐにそのルールが使いこなせるようになったあたりから、
内容のある文章(長文読解とかリスニング教材とか)をインプットして
考えることなく意味を捉えられるようにトレーニングしていく。

この過程で、ボキャブラリーも増やすことになる形でしょう。

僕の場合、この「内容のある文章のインプット」を読解でやりましたが
ここは逆に耳からやっても良いのかもしれません。

読むか聞くか、重視する側面を中心にやれば
相互作用的に、もう一方にも効果が出ると思われます。


少なくとも、音に触れる量をとらずに、いきなり文章から入っていくと
聴き取りを心がけ始めるタイミングで苦労する可能性がありそうです。

また、文法のルールばかりを一気にやって
実際に触れる文章の数が少ない場合にも、
パターンを掴むだけの経験量がないので
運用可能な文法ルールとして定着しにくいことも考えられます。

文法を勉強するときは、難しい単語などが含まれない簡単な文章で
練習問題を通じて、とにかくパターン学習だけの数をこなす。
そういう必要性を強く感じます。

まして動詞の活用表みたいのを暗記しても
それを運用するのは文章の中になりますから、
表やらルールやらだけを教える語学の授業は
習得までを考えると効果的かどうかは定かではないでしょう。

大人になるとルールだけでも理解できる能力はついてきますが、
理解できることと使えることは違います。

使うことを前提とするのであれば定着を図るトレーニングが欠かせません。

そのためには勉強の初期ほど、とにかくインプット量を増やす。
分からなくてもいいから触れるのも1つ。
もう1つは確実に分かる簡単な内容で数をこなす。

その意味で、初期ほどゆっくり進める必要がある気がします。

新しい言語を学ぶときには、最初の段階をゆっくりやるほうが
着実な成果を期待できるような印象を持っています。

逆に英語のように、既に勉強したことのある言語を
これから本格的に身につけていこうと考えるとしたら、
これまでに身についているものの内容によって
集中的にトレーニングする部分も異なってくるはずです。

こういった「言語習得に必要な要件」みたいなものを
ブラッシュアップできたら面白そうに感じています。

cozyharada at 23:00|Permalinkclip!
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 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
育むコミュニケーション


【日時】 
  2018年12月23日(日)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

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次回は1月〜2月の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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