心理学

2017年06月10日

朗唱トレーニング

スピーチの暗唱をするトレーニングの講座に行ってきました。

丸一日かけて、有名なスピーチの一部分を覚え、
言えるようにする内容です。

事前準備なしでも一日かけて少しずつ繰り返しながら覚えていけば
ある程度まとまりのある内容の範囲は覚えられるもののようです。

決して文面さえ覚えればいいというわけではなく
発音やイントネーション、リズムも含め
スピーチとして形になるようにするのが趣旨。

すると発音やリズム、抑揚など
英語のスピーキングに重要な要素を鍛えられるはずだ、と。

また、ある程度の長さのあるフレーズ単位や文章として覚えることで
スピーキングでもライティングでも、アウトプットの際に
自然と思い浮かぶストックとして蓄積していくこともできる。

そういうのが暗唱(朗唱)トレーニングの効果みたいです。

また、ネイティブがスピーチをしているときの発音を真似しますから
音の省略や弱化など、ネイティブが話すときの癖ごとインプットできて
「この単語の並びは、こういう音に聞こえる」というパターンが
自然と頭の中に残っていくことにもなります。

自分でも発音できるレベルで捉えた音の組み合わせなら
聞いた時にも認識がしやすくなって、
ネイティブの話も聞き取りやすくなると考えられます。

少なくとも、一度暗唱できるようにしたスピーチそのものなら
聞いたときに何を言っているかは文章として理解できるでしょう。

もちろん、そのスピーチ原稿を読むときには
暗唱しているときの声が頭に浮かぶのが一般的ですから、
一生懸命に単語を1つずつ追いかけなくても黙読できるはずです。

そうやって考えると、「話す、書く、聴く、読む」の4技能すべてに
効果がありそうなトレーニングだと考えられます。

真似できるように丁寧に取り組んでいる限り、
やったことが無駄になることはないんじゃないでしょうか。

あとはトレーニングの効率の問題。

やっただけ効果があるという意味では素晴らしいでしょうが、
他のトレーニングと比べたときに
かけた時間に対する効果の比率としてベストかは分かりません。

ただ、ネイティブの中でも英語力には差があるわけですから、
名演説と呼ばれるものを真似できるようにするのは
ほぼ上限なく英語をトレーニングできる素材だとは言えそうです。

やってみた印象としては、
おそらくかなり地味な効果が蓄積されるタイプのもので、
長く続けたあと、それもかなりの英語力がついてきた頃に
暗唱トレーニングした意味がジワジワと出始めるんじゃないか、
と感じています。


講座としては、その暗唱を使いながら
人前でスピーチをするトレーニングも一緒にやってしまおう
というコンセプトになっているようでした。

そうすると人前での度胸もつくし、
色々と自信を高めたり、仲間意識が生まれたり、と
大勢で取り組むメリットが出てくるんでしょう。

ただ個人的には、暗唱を人前でやっても
スピーチそのもののトレーニングにはなりにくそうに感じました。

一般的なスピーチやプレゼンと比べると
あまりにも頭の中で行われる作業が違うんです。

スピーチやプレゼンは自分で考えた内容を話します。
覚えたものを言うにせよ、その場で考えながら話すにせよ、
自分の中から自分の言葉として出てくる印象がある。

一方、暗唱の場合、自分の中を通っている感じがしないんです。

もちろん、素晴らしく感動的な内容の部分は
暗唱しながらでも感情レベルで動かされるものはあります。

ただしそれは、どちらかというと聞きながら感動するのに近い。
歌を聞いて感動する感じです。

もっと正確に言うと、口に出しながら感動するわけですから
心に響く歌を歌っているときに、
歌いながら感極まってくるような状態に近いはずです。

カラオケで歌詞を見ながら歌うのが朗読、
歌詞を覚えて歌うのが暗唱。
そういう関係じゃないでしょうか。

まさに僕が体験してみたときの印象は
歌っているときに近かったんです。

内容が理解できないわけじゃないし、
その内容に心が動かされないわけでもない。
でも自分が話すときとはプロセスが違い過ぎます。

プレゼンのように人前で話すトレーニングをするなら、
暗唱するよりも自分の言葉でやったほうが
効果がありそうに感じました。


繰り返しになりますが、暗唱そのものは
英語力を鍛えるトレーニングとして非常に有効だと思います。

全部を完全に再現できるところまでやらないにしても
文章単位で覚えて言えるようにするだけで
ボキャブラリーや表現の幅を広げていけそうです。

その目的では僕もやってみようかと思っています。

まぁ、フレーズのストックを増やしたり、
英語のリズムを覚えたりする目的であれば
洋楽を覚えても同じだろうとは思われますが。

違いは歌の場合、文法よりも意味が優先されるため
書き言葉や会話とは違った表現になってしまうケースがあったり、
スラングだらけで基礎的な表現を身につけにくかったり、
どの歌を利用するかの差が大きそうだ、ということろでしょうか。

逆に歌になっているとメロディーのおかげで
内容を覚えやすかったり、リズムが掴みやすかったりするのは
メリットになるほうでしょう。


ちなみに歌を覚えて歌うときと近いように感じたのは
講座中にステージの上で発表する場面で、でした。

小学校のときに通っていたピアノ教室の発表会や
中学校の時の全校での合唱コンクールのとき、
ステージの上で覚えたものを披露する場面がありました。

ピアノであれば曲を忘れてしまう状態、
合唱コンクールであれば歌詞を忘れてしまう状態。
いわゆる「飛ぶ」というヤツです。

ああいう感じと良く似ていました。

だからこそ、覚えたものを再現しているだけで
自分の中から出てきていない印象をハッキリ自覚したんです。

実際、かなり短い文章3つぐらいの担当だったのに
僕は見事に「飛んで」しまいました。

覚えたものをキッチリとやらなければいけない…
と考えていた分、緊張も感じていました。
緊張に関しては他の人の影響もあったでしょうが。

普段のセミナーでは緊張しません。
やらなければいけない正しい内容があるわけではないので
上手くやろうという発想が無いのが大きそうです。

また、その場その場で話すことが変わりますから
「飛んで」しまうといった失敗の種類もありません。

ですから、物凄く久しぶりに”失敗”を体験したわけです。

なかなか楽しいものですね。
新鮮な体験ができました。

僕が普段のセミナーでやっているのは対話であって
プレゼンではないと感じていますが、
プレゼンだったら緊張はしても「飛ぶ」ことはありません。

「これじゃないといけない」という正しい内容がないからです。

予定と違うことになっても、その場に応じて
自分の言葉で内容を組み立てる機会が多々あります。

「飛ぶ」経験をしたのは、そこでやっていたのが
対話でもプレゼンでもなく、
『パフォーマンス』だったからでしょう。

暗唱は、歌や楽器演奏、演劇のような
パフォーマンスの部類だと感じられた、という話です。

そう考えると、歌手とかミュージシャンとか舞台役者とか
よくも覚えたものをやり続けられるなぁ、と感心します。

僕はパフォーマンス好きではないようなので、
パフォーマンスとして人前で暗唱したいわけではないみたいです。

あくまで英語力を鍛えるトレーニングとして
取り組んでみようかとは思っているところですが。

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2017年06月07日

体力の変化

振り返ってみると、セミナーのスケジュール的に
最も忙しかったのは8年前ぐらいだった気がします。

週に4日、終日のワークショップが入っていて
東京、名古屋、大阪を行ったり来たり。
平日にも出張があったものです。

そのうえで、週に一度ぐらい3時間程度のセミナーもありました。
10時から18時までやった後、19時から22時までとか
あるいは夕方からだけの日とか。

会社員の時は週5日が当然でしたし、
実験の都合で週末に出勤することも当然。
朝も夜も関係なく実験のスケジュールを組んでいたものです。

にもかかわらず疲労度でいえばセミナーのほうが負担は大きい。
8年前ぐらいは腰痛ベルトを巻きながらセミナーをしていました。


それでも、そのスケジュールで何とかこなせていたんです。

今と比べるとパフォーマンスは低かったかもしれませんが…。

乗り切っていた1つの理由として、
ときどき休憩をしていた部分はあると思います。

休憩時間はちゃんと休憩していました。
昼休みもあえて食事に出ていかず、休養を優先したことも。

実習の時間に気を抜いていたこともあったはずです。

今は休憩時間も質問に答えたりしますし、
実習中も意識を配り続けていますから
休憩という自覚はなくなっています。

そしておそらく、以前のほうが鈍感だったというのはありそうです。
自覚できていなかったから騙し騙し続けられた、と。

最近は身体のケアをするようになったことと
意識に上がる範囲が広がってきたこととで
身体への負担に気づきやすくなっていると感じられます。

仮に8年まえのスケジュールのままだったとしたら
どこかで無理が来ていた可能性も否定できなそうです。


そしてもう1つ。
あまり気にしていなかったことですが、
単純に加齢に伴う体力低下があるんじゃないかと思えてきました。

8年まえのほうが体力があった、と。
筋力にしても持久力にしても、心肺機能にしても代謝の効率にしても
年齢を重ねるうちに衰えてきていたような気がします。

いつの頃からか駅の階段を駆け上がった後の息切れが
気になるようになってきていました。

当然、疲労回復のスピードも違ったことでしょう。

普段から全く運動をしないままに過ごしてきていましたから
知らず知らずのうちに体力が全般に衰えていっていたようです。

これを実感したのは最近のこと。
ジムに通うようになって1月ほどですが、
セミナー後の疲労感や回復速度に違いが出てきている印象なんです。

セミナーから帰ってきてから運動をするのも効果を感じますが、
それとは別に、セミナー終了直後での疲労度合いに違いがある。

少し身体への負担が減っているような感じというか、
多少の体力が残っている感じというか。

体力がついてきたことで楽に感じられているようにも思えるんです。

裏を返すと、以前のほうが体力があった可能性がある
ということにもなります。
それが年を重ねるにつれて落ちていっていた。

8年前に今よりもハードなスケジュールをこなせていた理由の1つに
 そもそも体力があったから
という部分もあるような気がしてきたわけです。

セミナーの仕事は肉体労働の側面があるように感じます。
プロ野球のピッチャーみたいなイメージです。
「中4日の休養でローテーション」といったような。

実働の日数だけでいえば少なくても
完全休養日がないと成立しない点では
体を休めたりケアしたりするのも重要な要素かもしれません。

そこにもう1つ、体力強化の要素が加わると
今までよりもスムーズに進められそうに思えてきました。

シーズンオフにキャンプをするまではしなくても
体力をつけておくことで乗り切れるものがありそうです。

やっと運動の重要性を実感できてきたみたいです。

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2017年05月23日

帰国しました

無事に日本に戻ってきました。
なかなか刺激的な体験でした。

山の中の湖のほとりで、主に瞑想をしながら静かに過ごす
というだけの時間だったんですが、
自分の意識を見つめなおす絶好の機会だった気がします。

日頃は外部からの刺激に注意が移ってしまいがちですから
外的な刺激の少ない環境だけでも有意義なものです。


色々と得たものがあった中で、日常的にも役に立ちそうだったのは
身体への意識の広がりでしょうか。

背中側への意識と足元の意識は今も広がったままです。

身体の左右バランスの歪みにも、意識の偏りが関係していたようなので
そちらを整えるにも役に立ったような印象があります。

最初は瞑想で静かに座り続けていると肩や腰のコリが酷かったんですが
慣れてきた辺りからは、むしろ心身のバランスを調整するのに
うまく機能してくれるようになったみたいです。

日に日に体は楽になっていきました。
…まぁ、戻ってくるときの飛行機で固まってしまったんですけれど。


日本に戻ってきて一番の驚きは匂いです。

湿度はアメリカとの違いとして予想はついていましたが
匂いがこんなにも違和感を生むとは思ってもいませんでした。

いろいろ臭い。

いかに空気の奇麗なところにいたのかを思い知らされます。

また機会があれば過ごしてみたい環境です。

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2017年05月03日

連休の人ごみ

世間はゴールデンウィークなんだというのは
町中に出ていくと実感されます。

人が多い。

とはいえ、人の多さは通勤ラッシュ時も同じです。

同じ数の人がいても賑やかさが異なります。
話す人の数が多い。

立ち止まって話をする人もいますし、
歩いている人も動きがランダムです。

朝や夕方の通勤時は皆、駅に向かって
あるいは駅から離れる方向に、最短距離で進もうとする感じです。
一方、休日モードになると、あちこちに動きの方向が変わります。

歩くスピードも遅いようです。

イライラした様子や、ピリピリした雰囲気の人は減るみたいで
全体にゆったりと気軽な印象を受けます。

まぁ、だからといって休日の賑やかな雰囲気のほうが
その場にいて過ごしやすいという話ではありません。

平日のように、一人ひとりが自分の殻に閉じこもって
ピリピリした気配を出しながらも他者とは関わらないのか。

それとも休日のように、それぞれの集団が好き勝手に
自分の楽しさや目的を優先して、他者は気にかけないのか。

バラバラな気持ちが1つの空間に集まっているという意味では
どちらもホッとできる場ではなさそうです。

連休に私服で出歩いているということは
平日は仕事や学校に通っている人が多いのでしょう。

休日には普段の我慢を発散させているかのようにも見えます。

反動が大きく、両極に振れている感じなんでしょうか。

僕の生活スタイルとは違った人生の景色が展開しているようで
なかなか興味深い時期だと感じています。

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2017年04月27日

物の価値を判断するところ

パソコンを新しくしました。
メインのやつをです。

おそらくメモリが足りなくて
常にCPUが100%で動いていたため、
冷却が追い付かなくなっていました。

さすがにVISTAを使い続けるのも安全ではないでしょうから
まあ、ちょうどいいタイミングだったのではないかと思います。

持ち運びを想定はしていなかったので
キーボードとコストパフォーマンスを重視して、
初めて受注生産のやつを選んでみました。

先の問題点を踏まえてメモリを多めにしてみたおかげか、
パフォーマンスはいい感じです。

滞りもなく、ファンも動かないぐらい余裕があるようです。
これまではWebページを複数開くと広告の自動更新で
かなりの負担になっていた様子でしたが、今はそんなこともありません。

これぐらいスムーズだと写真加工のアプリケーションとかを入れて
書道作品の写真ぐらいはチョット調整してみたくもなります。

キー入力もさほど違和感ないですし、
あとは初期不良とか想定外のトラブルが起こらないことを期待しています。


しかしながら、きっとこういう日用的なものは
すぐに新鮮さを失って、当たり前に感じられてくるんでしょう。

今のところは比較としてスムーズさを感じているパフォーマンスも
これに慣れてきたころには「普通」の基準に移ってしまって、
むしろ別のPCを「遅い」と感じるようになるかもしれません。

性能や能力というのは、そんな風に
比較で認識されやすいもののようです。

一方、そうしたツールや装置を使って「体験する」内容のほうは
その都度、その内容そのものを味わえます。

例えば、このパソコンで検索してでてきた情報をインプットするとき、
「新しいものを知る楽しさ」や「好奇心が満たされる驚き」などを
毎回違った形で感じることができます。

インプットするものが変われば、毎回別の体験になるわけです。

僕の部屋にはシンプルなブルーレイディスクプレイヤーがありますが
これも何の映画やドラマを見るかによって、毎度の楽しみが得られます。

一方、そのブルーレイプレイヤーの性能に関しては
それほど気になりもしません。

確かに安価な分、作りは安っぽいですし、
センサーの範囲が狭く、リモコンの反応もよくありません。

ディスクを入れてから再生されるまでの時間も早くはない気もします。

しかし目的とする内容、つまり映画やドラマを見られる限り
僕の求めるものは得られているんだと思われます。

仮にもっと高性能であったとしても、
特別気にしないような気がします。

パソコンの性能気になっていたのは、僕にとっては
あくまで不具合が出ていたからに過ぎません。

突然パソコンの電源が落ちてしまったりすると
書いていたものが消えてしまいますし、
メモリ不足で反応が悪くなると
頭に浮かんだものを書き出す段階で待たないといけなくなります。

余計なものが挟まってくるわけです。

ここでは「パソコンで書く」という体験に、ある種の喜びが含まれます。
頭が整理されていく感じや、必要な資料や文書ができ上っていく感じ。

その喜びが損なわれるのが嫌だから
妨げられない程度の性能が必要になった、といえます。

つまり僕にとって性能の高さのほうでは、どれだけ高くても
いつか慣れてしまって分からなくなる(満足感がない)のに対し、
性能の低さのほうは不具合が起きたときに不満を感じる形で意識される
という話です。

基準を下回ると不満だけれど、
基準に達したら、それ以上高くても満足感には影響を与えない。
僕は性能に対して、そういうタイプの価値判断をしているようです。
(結構な人がそうではないかと思いますが)


一方、書くことに伴った喜びは、書く内容が毎回異なっている以上
当然、毎回別物として体験されますから、
慣れてしまって薄まっていくものではありません。

その都度、別の体験として新鮮さを伴いながら
「その瞬間に体験している」喜びに意識を向けるタイプの満足感なんです。

DVDで映画を見るのも、インターネットで新しい情報を得るのも、
本で勉強するのも、ご飯を食べて美味しいと思うのも…、
多くの「内容」レベルの満足感がこちらのタイプでしょう。

その内容を妨げないようにするのが「性能」になりやすい気がします。

書籍であれば重さとか字の見やすさとかでしょうか。
電子書籍に求められる性能も、まさに
本を読む体験を妨げないものが中心じゃないかと思います。

料理の場合は、包丁の切れ味とかコンロの火力とかでしょうか。
ものすごく高性能だと、硬いものを切ってみたくなったり
素早くチャーハンを作ってみたくなったりするかもしれませんが、
実際にその性能が求められる機会は少ないものでしょう。

ちょうど高性能のパソコンを買ったけど、
そこまで負荷のかかる動画編集みたいな作業はしないようなものです。


そして「性能によって可能になる体験内容」とは別のところで
付加的な体験によっても満足を感じることがあります。

主に「美」と関連した体験です。

美しいとか、カッコイイとか、カワイイとか。
見た目でも音でも体験されるものですが、
これらもコダワリのある部分については毎瞬のように意識されます。

例えばパソコンでいえばデザインとか、素材とか、色とか
キーボードのバックライトとか、細かい作りの丁寧さとか。

包丁でも、形とか金属の光沢とか、仕上げの繊細さとかは
「美」と関連した体験で満足感を追加してくれます。

洋服とか鞄とか、身に着けるものの多くは
性能よりも美のほうが重視されているかもしれません。

車の場合、加速感とか、エンジン音とか、ボディのデザインとか。
逆にトランクの広さは「基準に満たないと不満な性能」のほうでしょう。

車のエンジン性能は、加速感に対して美的な印象を受けなければ
「坂道で遅いと困る」ような最低基準のある性能として認識されそうです。

性能として認識された場合、最低基準にさえ達していればいいので
そんなに高いものを求めることはなくなりがちです。

が、美的な観点から認識された場合、上に限度はありません。
そうすると、いわゆる『高級品』の方向性になると思われます。

よく言われる「付加価値」というのは、美と関連したことが多く
五感レベルで毎瞬の「体験」として味わえるものと考えられます。

比較でしか認識できない「性能」は慣れてしまって
基準を下回った時に不満として自覚されるだけですが、
美に近い体験として認識されるほうは
その感じに注意を向けるたびに毎回、満足感をもたらしてくれる。

道具や機械を、求める体験内容を得るための手段としてしか捉えないと
必要最低限の性能だけを気にしておけばよくなるんでしょう。
この種の性能はすぐに慣れてしまって満足感が薄れやすいですから。

一方、同じ道具や機械でも、そこに美に近い付加的な体験を求めれば
長い間、その美を保っている限り、繰り返し満足感が得られます。
(当然、それだけ値段も上がっていくわけですが)

僕はあまり、この「美」の側面を重視してきませんでしたが
そちらの満足感を意識したら、物へのコダワリも上がる気がします。

良いものを大切に手入れしながら長く使う…なんていう発想も
少しは理解できそうです。

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2017年04月24日

ストレスチェックの義務化

2015年12月から義務化されたストレスチェック。
労働者が50人以上の事業所では年に一回の検査が必要になっています。

僕自身はフリーランスですし、主に関わっている人たちも
そこまでの人数の組織ではなさそうですから、
直接的にストレスチェックを気にする立場ではないと言えそうです。

しかし、受講生としてお越し下さる方々の中には
もちろんストレスチェックを受けている人も、さらには
人事としてストレスチェックを使う側の立場の人もいる可能性があります。

ということで先日、ストレスチェックについての講座を受けてきました。


講師はアメリカでカウンセラーをやっていた人で、
日本でも心理臨床の立場として病院に入ったり
企業と契約して従業員のカウンセリングを受けたりしていたそうです。

実際に本人がどれぐらいストレスチェックと関わっていたのかは分かりませんが
人事としてストレスチェックを「やらなければならない」人たちとは
接点があるようで、実情も交えた講義を聞けました。

多くの人事担当者は、このシステムを運用する義務に対して
新たなストレスを感じているという話でした、皮肉なことに。

どうやら原則的には、従業員個人のためのシステムという想定みたいです。
自分で自分のストレスに気づき対処する、と。

相談窓口を告知したり、ストレスを自覚した人たちが
気軽に社内で相談できるような環境を整えたりするのが
人事側としてできることではないか、という説明でした。

しっかりと個人を把握している人事であれば
誰にストレスがかかっているかは、本人の非言語メッセージや
周りからの評判などから想像がつくだろうから、
人事側から個別に「働きかける」には良く知っている必要がある…。

そんな話もしていましたが、そうなったらストレスチェックは関係ない気もします。

組織としてストレスチェックをどう活かすかを良く話し合うと良いと言われても、
そこに一生懸命になるマネジメント層がいれば、そもそも
従業員全体としてのストレスレベルが過剰に高いことも少なそうです。

僕としては、せっかくのチェック内容なので
組織全体として活かす方向性はないものかとも考えてしまいますが、
情報は従業員本人のみに知らされる前提ですから
上司として何をするかとか、人員配置に活かすとか、
マネジメント側として組織を変えていくとか、
そういう方向には繋げようという趣旨ではないようです。


そのため、講座の内容も個人対応のものが中心でした。

「(現状としてかかっている)ストレスにどう対処していくか?」
を解説してもらったり、話し合ったりしました。

講師がカウンセラーだということも関係しているかもしれません。
 目の前の一人が苦しんでいる。
 その苦しさをどう楽にするか。
そういう発想があると、
「現状でかかっているストレスにどう対処するか?」
の部分に関心が向きやすいんでしょう。

そこの手伝いをするのが本人の専門分野でもあるようでしたし。

一方、僕は「ストレスがかからないようにするには、どうしたらいいか?」
のほうにも関心が出てきます。

家族療法的な視点からすると、ストレスを抱える人は
たまたまそこに症状として表れているだけで、
グループ全体に歪みができていると考えられます。

従業員のストレスチェックをやって、仮に
ストレスを抱えていた従業員全員が上手くストレスに対処できるようになって、
過剰に仕事を抱え込まなくなったり、長時間労働を断れるようになったり、
有給休暇もしっかりと取れるようになったりしたとします。

従業員全員が自分のストレスを自覚して、自分に無理をかけなくなる。
翌年のストレスチェックでは、皆がストレスを報告しなくなった、と。

カウンセリングを受けにくる人もいなくなって、
サポートする側としては大成功に思えるかもしれません。

しかし、おそらくそのとき、仕事は以前のような形では回っていません。
全員の労働時間が減っているのですから、こなせる業務の量も減るでしょう。
よほど仕事の効率化を図れていなければ業務のほうに皺寄せが来る。

結果として、部署単位・事業所単位での責任を果たそうとして
「従業員」ではない「管理職」側に負担が出ているかもしれません。

従業員のストレスを下げようとした分、業績が下がり
その責任を管理職が問われるようになる…。
そうなれば次にストレスが表面化するのは管理職のほうです。

ここで管理職のほうが自分のマネジメント能力をトレーニングしたり
仕事の成果を上げるべく学んだり工夫したりするようになれば
それもまた1つの成果と呼べるのかもしれません。

逆にただ管理職層のストレスだけが過剰になってきて
マネジメント層を中心に離職者が増えてきたりすれば、
組織全体として大きなダメージでしょう。

組織自体が破たんしてしまうか、
その前に経営者が異常事態だと気づき、経営を何とかしようとするか。

つまるところ、従業員にストレスが強く出ているということは
組織全体の運営がスムーズではない、ということかもしれません。

人員が従業員→管理職と、順にストレスを減らすようにスタンスを変えたら
最終的な歪みはトップのところに表れてくるはずです。

だったら最初から組織全体として向き合っても良さそうな気もします。


表面上はストレスチェックというシステムの話ですが
関わっているのは経営の問題とか、経済や文化のところにも及びそうです。

とてもアンケートだけやって済む話ではなさそうに感じました。
あまりにも事態が複雑過ぎる。

ジレンマの部分を強く意識させられた講座でした。

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2017年04月21日

選ぶ作業

いざ身体のために運動を、と考え始めると
施設選びにも迷ってしまうものですね。

当初は最寄りで24時間営業のところが良いかと思っていましたが
他も調べてみると、プールがあるのが魅力的に見えてきます。

全身運動という観点で水泳は良さそうな気がするんです。

水に入っているだけでリラックスできるところもありそうですし。


一方、プールを利用するのは少しだけハードルが高い。
子供の頃の記憶から、所要時間が長くなる印象があるんです。

しかも「せっかく来たから、ついでに他の運動も」なんて考えたら
全体としての時間は、まとめてそれなりのものになるんじゃないか、と。

休日にタップリと時間を取って、運動のための日を作る…
そんな必要性を感じてしまいます。

それはそれで有意義な休日の過ごし方としてイメージできます。

デメリットは頻度が落ちるところでしょう。
まとめてしっかり、と思うと気軽に立ち寄る感じにはならなそうです。


その点、マシントレーニングぐらいを24時間営業のところでと想定すると、
立ち寄るのも気軽になりますし、時間も気にせずに
かつ夜遅くにでも行けそうなのは助かります。

僕の趣旨は、身体のメンテナンス目的にありますから
セミナーの後に有酸素運動をしてリフレッシュしたい気もするんです。

するとやはり24時間営業は嬉しい。
土日に夜遅くまでやっているのもありがたいです。

一回当たりの時間を短くして高頻度にしたい気持ちも加味すると
やはりプールがあっても営業時間が限られているのは残念。

こうして考えてみると、どうも24時間営業のほうに軍配が上がりそうです。


ちなみに、これを書く前の段階では迷っていましたが、
書いているうちに気持ちが整理されて結論に近づけた気がします。

書きながら考えを整理するのも1つの効果的な方法のようです。

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2017年04月03日

動画広告の時代

最近、バタバタと気ぜわしい感じになっていた理由の1つは
動画撮影のお手伝いをしていたところにあります。

裏方の作業をやると、見えない部分でどんな大変さがあるのか
意外と見えてきたりして、なかなか興味深いものです。

この頃は、動画を使った広告などが効果を発揮しているらしく
言われてみれば確かにFacebookなんかでも目にすることがあります。

写真だけのものと比べると、内容への興味は別にして
なんとなく見てみようとしてしまうこともありますから、
それなりの広告効果があるんでしょう。


ただ個人的には、動画だからこそ
見てしまった後の評価は厳しくなっている気もするんです。

写真や文章だけの広告であれば、「まだ分からない」という印象が残る。
「これだけでは判断できないなぁ」と。

なので、興味があるものだとしたら、
実際に軽く現物を見てみたい気持ちにもなります。

一度足を運んでしまえば、そのクオリティの満足度がそれほどでないとしても
他に代わりとなるものがないのであれば高確率で購入に繋がる。
「まぁ、他にはないし、これぐらいの程度ならいいだろう」と
僕は判断して購入、申し込みに進むことが多いんです。

しかし、動画の場合、僕は判断基準がかなり変わります。
そこで「イマイチかな」と評価してしまったときは、
それ以降の検討が進みません。

仮の話ですが、僕が受けている(もしくは受けてきた)語学講座でも
事前に講師が動画で模擬クラスか何かをやっていたとしたら
僕の評価は厳しくなって、「これぐらいなら他を探そうかな」と
申し込みを見送っていたものもあったと思うんです。

ホームページや資料の段階で詳しく分からないからこそ、
日程と価格の部分で妥協して、あまり期待せずに申し込みをした
ということです。

動画の場合、体験の情報量が多くなります。
判断をするための量が多い。
現物で判断するのと近くなる。

その分、動画広告段階での評価は
現物を見たときに近づいてしまって、
現物に触れる前から最終判断がなされやすいのではないか?
と感じています。


それは裏を返すと、質の高いものほど良さが伝わりますから、
現物に触れる、購入する、申し込みをする、段階では
すでに良さを知った納得している可能性があります。

先にファンになってもらう目的にはマッチしそうです。

一方、「質が不十分」と判断されて見向きもされなくなる、
むしろ動画広告が逆効果になる場合もあるでしょう。

利用する側、購入する側としては
商品・サービスを良く知ってから検討できますから
消費者側には望ましい話かもしれません。

動画広告をする側には、
諸刃の剣でもあるんじゃないでしょうか。


その意味でいうと、僕が携わった動画は
先にファンになってもらうのに十分過ぎるクオリティ。

音質や画質としても高そうですから、
内容の良さを撮影が邪魔することもなさそうです。

これから動画広告が増えたとすると、
その効果は両極に分かれるかもしれません。

今なら気軽に始められそうに見えますが、
すぐにシビアな世界になるような気がします。

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2017年03月30日

外国語で話話すために

10週間のプレゼンテーションのコースが全日程終了しました。
(僕は途中参加なので9回分ですが)

学んだ技術はそれほどでもないかもしれませんし、
全く知らないものもありませんでした。

確かにこういう風に話すときもあるし、
「実際、こうやって話しているアメリカ人プレゼンターもいるな」
と感じるようなものばかり。

それほど斬新な印象や、驚きのある学びはなかったんです。

プレゼンテーションに重きを置くというよりは、
英語のスピーキングの講座といった印象のほうが近いかもしれません。

英会話であれば質問に対して答えておけば進みますし、
ディスカッションぐらいで自分の意見を言うときも
それほど構成を考える必要もなく議論に参加することはできてしまいます。

その点、人前で与えられた時間を話しきる、となると
ある程度の構成とか、プレゼンテーションらしさみたいなものが期待される。

講座のメインは、プレゼンテーションらしい英語の使い方
といったところだったような気がします。

日本語でプレゼンテーションをする場合にも
多くのプレゼンを見たことがあれば、
「プレゼンってこんな感じでやるものだ」
という印象がありますから、
それに基づいた話し方を組み立てることができるわけです。

一方、英語でのプレゼンに慣れていない場合、
そういう印象そのものがありません。
だから組み立てようがなくて、どうしていいか分からない。

そういう英語学習者のために設定されている講座内容ではないか、と。

実際に参加者の中には、すごく人前で話すのが上手くなったわけではなくても
プレゼンテーションらしい原稿を準備できるようになった人がいました。

なので「プレゼンテーションらしい英語のフレーズが使えるようになる」
というあたりが講座の主な効果だったのでしょう。。


で、僕はそれなりに英語のプレゼンを見るのが好きなので
なんとなくの印象として、プレゼンらしさみたいな典型的なイメージを持っています。

それを元にプレゼンを組み立てようと思えばできそうな気がする。

ですから講座で習った内容やテキストで扱った部分も
自分なりに取りこめそうなものには感じられたんです。

しかし、こういう言葉の技術というのは、
「知っている」、「自分でもたまに使っている」と思える段階と、
「日頃から意図的に使い分けている」段階とでは、
かなりの差があるものです。

習ったときに、その内容と合った実体験が記憶の中から沢山見つかる…
それだけだと「あぁ、ときどきやっているなぁ」という印象になります。

この段階は、自分の経験の中から共通点を探し出して
教わった内容に当てはまるパターンを見つけたところなんです。

例えば、短い単語で3つ並べる、なんていう話し方のテクニックがあったとして、
「あー、あー、聞いたことある。自分でもやったことがある。あれね。」
というのは、指摘されたから見つけられたパターンだといえます。

こういう形があるんだ、とパターンを知ったときに
そのパターンに当てはまる経験が見つかってくる。

パターン認識のための型が、頭の中に作られた段階です。

今までは経験があっても型としてパターン認識はされていなかった。
そこに型がインプットされたことで、当てはまる経験を認識できるようになった。

こういう方法は、全く知らないものを新しく知るときの学習とは違います。
記憶にはあっても認識されていなかったものを
パターンとして認識できるようになるタイプの学習なんです。

例えば、日本語の方言を認識できるようになるのは、このケースです。

今まで聞いたこともあったけれど、特に気にせずに聞き流していた。
あるとき、これは名古屋弁の特徴だと知ったり、
大阪弁だとこうで、京都弁だとこう…みたいな特徴を教わったりする。

するとそれ以降は、その特徴的なフレーズが耳に入った瞬間に
「あ、名古屋弁だ」とか、「あぁ、この人の関西弁は大阪のか」などと
すぐに認識できるようになります。

特徴のパターンを知ったから、
実体験の中からのパターン認識がスムーズになるんです。

僕がプレゼンの講座中に習ったフレーズや言い回しの形は
たしかに知っていたし、使ったこともありそうなものばかりでした。
それほどスゴイ知識やテクニックではない。

けれど型として知ることで、それ以降は意図的に使いやすくなる。
「ここであのパターンを使ってみようかな」という発想が出てくる。
意識しながら使える選択肢が増えるわけです。

その部分の学びは色々とあったと感じています。


まぁ、一番の目的だった場数をこなすことに関しては
期待したほどの数にはならなかったような気はしますが。

やはり発話のスムーズさという観点からすると、僕のレベルの英語力では、
ある程度を事前に想定しておいて、その場で話を組み立て直す
というのは、いささか難度が高い感じがしました。

考えておいたことが抜けてしまいやすいんです。

それは多分、単純に発話した量が少ないから。

原稿を用意して原稿を読む、という必要はないにせよ、
原稿を用意するか、大体の流れを決めて、一度練習してみる
というのは重要そうです。

それだけで一回は発話したことのある内容になりますから
フレーズとして出てきやすくもなるでしょう。

日本語でのプレゼンテーションなら、普段から日本語を沢山使っていますから
発話慣れしていないために言葉が出てこない、ということは少ない。

けれど母国語でない言語でプレゼンテーションをするとなると
10分間の話をするとなったら、少なくともそれ以上の時間の練習がないと
土台となる発話経験が足りない気がしました。

おおよその流れを決めるだけでなく、流れに沿って練習をしておく。
それによってスムーズさが上がるんだろうと思われます。

独り言でもいいので、英語で話を組み立ててから話し続ける
というトレーニング量が必要だと実感しました。

その意味では、講座に出た甲斐はあったと思います。

cozyharada at 23:04|Permalinkclip!

2017年03月13日

疲労の基準

仕事が立て込んでくると疲労が回復しきらない状態を感じることがあります。

そんな中、タイミングが合って睡眠時間を充分にとれると
体力が回復しているのを実感できます。

身体のハリや重みといった肉体の状態は決して良くありませんが
エネルギー的には元に戻ってくる感じです。


この感じは僕の記憶の中から、研究職時代のことを思い出させます。


研究職、とくに山口県で寮生活をしながら研究をしていたときは
慢性的に睡眠不足で多くの時間を実験に費やしていたものです。

研究所が工場の一角にあって、寮も同じく工場の敷地内にあったため
基本的な行動範囲は工場内となっていました。

朝は7時過ぎに出勤、夜は日をまたいで1時、2時ぐらいまで。
今思えば、もっと効率的にできた気もしますが、
他にすることもないので職場で色々とやっていたというところです。

とはいえ、ずっと職場にいるわけではありませんでした。
1時間の昼休みは、食事が寮に用意されるので
そのたびに寮まで自転車で戻ってきます。

そして食後は自分の部屋に戻り、30分弱の仮眠を取る。

夜も夕飯を食べに寮へ戻った後、1時間から90分ぐらい仮眠をとって
それから夜の作業をこなしていました。

夜の睡眠時間は3時間ちょっとでしたが、
正味の睡眠時間は5時間ぐらいは確保していたんだと思います。

それで毎日を乗り切り、とりたてて疲れを感じることもなく
まぁ、それなりに日々を過ごしていたようです。

もちろん眠気に襲われることもありました。
多くの人がそんな感じの様子になっていると
眠くなるのが毎日の生活のせいだとは思っていなかったんです。

暗い部屋で単調な研究発表を聞いていれば眠くもなるし、
単調なデータ入力をしていれば頭もボーっとしてくる。
そこに疑問を挟むことはありませんでした。


でも本当はいつも疲れていたようです。

若かったから、体力があったから大丈夫だった…
というのではなさそうなんです。

むしろ鈍感だっただけ。
慣れてしまっていただけ。

なぜなら、年末年始やお盆休み、ゴールデンウィークなどで
実家に戻ってくると、睡眠時間に影響が出ていたからです。

特に帰ってきて次の日、その次の日ぐらいまでは
もう泥のように眠っていました。

夜12時ぐらいに寝て、次の日の夕方ぐらいまで一度も目が覚めない。
そんなのが2日続いていたものです。

その後は徐々に睡眠時間が自然と減って、
それなりに休日の時間を過ごしていました。

そして一週間程度の休日の期間が終わると山口へと戻ります。

夕方ぐらいに寮に到着して、少しだけ研究所へ行って次の日の準備をする。
微生物実験の都合として準備の時間がかかるのも1つの理由でしたが、
自分の内面を研究モードに戻すためのウォーミングアップでもありました。

すると、です。

山口に戻ってきた最初の夜は、なかなか寝つけません。
眠くないんです。

次の日からは通常の生活サイクルに戻ります。
昼ごはんの後の仮眠も、夕飯の後の仮眠も
やはりあまり寝られません。
眠くない。

そして研究所での生活サイクルに馴染んでくる頃になると
仮眠が必須で、眠い目をこすりながら目覚める生活に変わります。


研究所で睡眠時間の短い生活をしている毎日では
「自分が眠い」ことにさえ、あまり気づいていなかったのでしょう。

疲労が溜まっていることだって自覚できていませんでした。

振り返って様子を比べてみると、
実家に戻ってきている間の状態と
山口の研究所にいる間の状態には違いがあったことに気づきます。

「いつも通りの体調」という基準値が違っていました。
「これが普通」という基準が別物だったわけです。

実家に戻ってきて休日を過ごしているときは
体力が回復している状態が普通。
研究所生活では疲れて寝不足なのが普通。

「普通」は慣れで設定される自覚です。
そこを疑わなくなる。

僕の場合、研究の仕事を続けていたときは
体力の平均値、つまり「いつも通りの体力」が低い状態で認識されて
そこに慣れてしまっていたために何も疑わなかった、
ということだったんでしょう。

低位安定の研究所生活では、そこからさらに疲れることは少なく、
物凄く睡眠時間の少ない無理をすれば反動は出ましたが
それでも反動は決して大きくなかったんです。

だから結構無理がきくと思っていました。

実際はあくまで「普通」の基準が低いところ(疲れた状態)にあったため
そこからの落ち込み幅が小さかっただけのこと。

自覚としては「そんなに疲れない」と思っていましたし、
頭がボーっとしたり、パフォーマンスが落ちたりすることも
ほとんどないと思っていました。

おそらく実態は、ベストな状態からは随分と低かったのでしょう。

でも低いところが「普通」になっていて、
そのことが分かっていなかっただけなんだと考えられます。


最近は、この「普通」の設定が変わってきていると感じます。

「普段通り」としての「普通」ではなく、
身体で感じられる今の状態がスッキリしているかどうか、
眠気やボーっとする感じ、身体の重さや不快感がないかどうか
といったところでコンディションをチェックしています。

その分、忙しくなってくると、疲れを体感として実感しやすくなっています。

疲労や睡眠不足を避けたい気持ちは以前よりも強まって
無理をしたくない思いは出てきやすいですが、
日々の集中力などは高めにキープされている気がします。

今、こういう状態、こういうコンディショニングを知っている状態で
もう一度研究職をやったら、前よりももっと効率的に
しかも高確率で研究成果を出せるのではないかとも想像します。

「普通の体調」をどうやって自覚するか。

この影響は大きいにもかかわらず
慢性的な疲労状態を「普通」としているケースは
世間でも意外と多いのかもしれません。

cozyharada at 23:11|Permalinkclip!
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 ◆ セミナー情報 

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《コミュニケーション講座》
〜言語表現力トレーニング〜


【日時】 2017年6月25日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


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次回開催は8月の予定


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《新カウンセリング講座》
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【テーマ】 変化の流れを考える

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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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