心理学

2017年09月18日

プログラムとしての理解

最近、いろいろな形で頼まれごとが続きました。

もちろん僕に頼んでくる人は、僕のやっていることを知って
そこをベースに尋ねるようなので、
仮にも体力的な面(例えば、引越しの手伝いとか)ではなく
人の内面に関わるような話が自然と中心になります。

そこで改めて気づくのは、僕の発想の基盤にはNLPがあるということ。

つまり、人が何を学習しているのか、
どういう体験によって学習された結果、
どのような認知の仕方をするようになり、
どんな反応の癖が身についているのか、
そして、それはどれぐらい変えやすいものなのか、
どういうことによって変えていけるのか
…などを考えるようなんです。

人に起きていることの全てが学習されたプログラムだとは言えず
僕の扱う範囲の中にはプログラムとは違うものも含まれますが、
人が日常的に体験している問題の大部分は
プログラムの発想を踏まえた上のような問いで説明できそうです。


それに対して心理学的な研究成果の中には
人のやっていることを傾向として分類したものがあって、
例えば「ストレスがかかったときに、どう反応するか?」などは
その反応の仕方(どんな反応が表れるか)に注目した分類であって、
「どのタイミングで起こるか?」は分類の要件に入っていません。

つまり、
「ストレスがかかってから、何が起きて、そのあとでどうなって
 どんな時期が続く結果として、どういう反応をするようになるのか」
など、長い時間の中で起きることを、時間枠の区別なく
一様に「どんな反応が出るか」だけを基準に分類したりするわけです。

それで役に立つし、それに応じた対処も考えられるので
「どのタイミングで」というのは重要視しないんでしょう。

しかしNLPとしては、そうしたストレス反応を生み出す”しくみ”をもとに
本人の中で何が起きているかを考えようとします。

なぜなら、反応を生み出す”しくみ”の中の
どの過程で問題が起きているのかによって
対処の仕方が異なるからです。

例えば、身の危険が迫るような大きなストレスがかかったときには
身体は動物的な防衛の反応を始めることが知られています。
これは学習されたものではないので、どうにかする対象ではありません。

むしろ動物的な防衛反応が出た後に、どうやって
人間らしい社会生活に戻っていくかのほうが大事になる。
タイミングとしては「防衛反応の出た後」にアプローチをする、と。

ところが、ストレスのレベルが小さいときには話が変わります。

身の危険が迫るような災害や災難などはストレスレベルの大きなものですが、
そこまで体のレベルで危険ではないけれども
最終的に不快な気分になるケースは日常生活に多々あります。
人間関係の不満などは典型的でしょう。

多くの人間関係のトラブルは、そこまで動物的な危険ではありません。
相手の対応について、自分に不満があるだけのことです。

しかし相手の対応が望ましくないことで、
自分の内面に「不快な感情(怒りや悲しみ、傷つきなど)」が生まれます。

この不快な感情を自覚したときに、「嫌な出来事だった」と振り返ります。
そしてそのキッカケとなった出来事を「ストレス」と判断する。

こういうケースにおいてNLPでは、
不快な感情が起こらないようにプログラムを変えようとします。

つまり「嫌な出来事だった」という捉え方を変えたり、
怒りや悲しみなどの感情が出てしまう癖を修正したりするんです。

対処のタイミングは、「出来事が起こる」とき。
望ましくない反応を生み出すキッカケの出来事のタイミングを対象にします。

大きなストレス反応については、反応が起こった”後”に対処する。
小さな反応については、反応が起こる”前”の出来事にアプローチする。
そういうタイミングの違いがあるんです。

さらに心理学的な分類に基づいたストレス反応には、
長期的に体のレベルでのストレス反応が続いた後に
元気がなくなるのか、逆に頑張ろうとするのか、など
次の段階としての反応の区別もあります。

これは時期的に考えると、数秒とか数分の範囲の話ではありません。
何日後とか何か月後とかの長い範囲の話です。

大きなストレス的な出来事があった直後の動物的な身体の反応は
一秒にも満たない範囲で起きていることです。
そのあとに反応を落ち着けるように対処するのも数十秒レベルの対処です。

これだけ時間枠の範囲が異なっていると
NLPでは対処の仕方も違ってくるんです。

しかし心理学の分野によっては、
心の癖を修正するような対処を想定してはいないので
時間枠の違いを考慮する必要がないんでしょう。

NLPは心の癖を修正するのが基本ですから
注目の仕方、区別の仕方が異なるわけです。


僕の発想には、NLP的な時間枠の区別が染みついています。
その人の中で何が起きているかを考えようとします。

すると心理学の知識の解説を頼まれたりする方が
そもそもの着眼点の違いから難しかったりもするんです。

いかにNLPが土台になっているかを実感します。

cozyharada at 23:44|Permalinkclip!

2017年09月08日

相性と価値観の区別

「合う・合わない」と「好き・嫌い」を区別できると
人間関係や出来事を受け入れやすくなるようです。

裏を返すと、「合う・合わない」と「好き・嫌い」を混同していたら
楽になれる方向性の取り組み方があるのに、異なった取り組み方をして
長いこと苦しみ続けてしまいかねない、という話です。

本当は「嫌い」なことを「合わない」と拒絶して
「好き」あるいは「嫌いではない」ぐらいになれる可能性から目を背け
改善の努力に取り組もうとしない。

あるいは「嫌い」なのを「合わない」と捉え
違いがあるのは仕方のないことだと頑張って受け入れようとして
「嫌い」の奥にある自分の価値観を抑え込んでしまう。

逆に「合わない」ことを「嫌い」だと捉えている場合には、
「”嫌い”という個人の反応は自分が成長すればなくなるはず」
「自分が変われば関係性も変わって、嫌いではなくなるはず」
と期待して、噛み合わない関係性に身を置き続ける結果
ずっと苦しい思いを味わい続けることになったり。

あるいは「合わない」だけなのに「嫌い」だと思うあまり
他者を嫌っている自分に対して「それは良くない」と判断して
自己嫌悪に陥ってしまうケースも見受けられます。


「合わない」のではなく「嫌い」なのだとしたら、
そこには自分の価値判断が表れています。

これまで経験してきたことによって
「こうすることが良い、正しい、普通だ」と考えるところがあり、
その考え方によって大切にしたい何か(価値観)がある。

相手とは、その価値判断が異なっているわけです。

よく話し合ってみたら、相手の考えの中にある価値観に共感できて
相手のことを受け入れられる可能性だってありえます。

お互いの価値観をすり合わせて共通のゴールを見出せるかもしれない。

ただの「違い」として諦めるのではなく、
自分の価値観も、相手の価値観も、どちらも大切にできるように
双方にとってベストな関わり方を見つけられる余地があります。

逆に、「嫌い」なのではなく「合わない」のだとしたら、
その性質そのものを受け入れて、素直に諦めることもできます。

「合わない」という違いについては「合う」ように無理をするよりも
「合わない」もの同士、どのような接点にしておけば
不快な思いをする必要がなくなるのか、という考え方です。

「合わない」から「嫌う」必要もありません。
相手の存在を尊敬しながらも距離を取ってもいいでしょう。
嫌悪感という感情を、心理的な距離を取る手段にする必要はありません。

「合わない」ものは「合わない」。
そのことで自分を肯定する必要も、否定する必要もない、と。


では、「合う・合わない」と「好き・嫌い」の違いは何なのか?

一言でいうと、
 学習されたものが「好き・嫌い」
 学習以前の生まれもった性質によるものが「合う・合わない」
と区別できます。

この区別が定義として正しいかどうかは定かではないですが、
『学習されたものかどうか』という基準で考えると
 「学習されたものなら再学習して変えられる。
  学習以前の生まれもったものは変えるのが大変。」
という現実的な理解が可能になります。

再学習して変えられるものであれば
変える方向で対処したら改善する余地があるわけです。

生まれもった度合いが大きくて変えにくいものだとすると
無理やり変えようと頑張るよりも、
現状を受け入れてしまった方が楽になれる可能性があります。

そういうシンプルな指針を目的とした区別です。


学習されたものは基本的に経験に基づきます。

本人が直接体験していなかったものであっても
教育という経験を通じて、何らかのイメージを仮想体験して
頭の中でシミュレーションできるだけの材料にはなります。

直接経験したものは、快・不快の状態を伴って
「〜したら、〇〇(快・不快)になる」という経験則になります。

で、「どういう種類のことに対して快を感じるのか」の分類が
価値観(=何を大切にしているか)だといえます。

例えば、人と穏やかに関わっている時の安らいだ状態を”快”とする人は
安心感や優しさなどを価値観としているということです。

そもそもどうして、その種の状態を”快”と捉えるのでしょうか?
どうしてその価値観を持つに至ったのでしょうか?

そこを振り返っていくと、何を頻繁に経験していたかに行き着きそうです。

生き物として安全に生存していられる状態、一切のリスクがない状態に
どの種類の体験が結びついているか。

言い換えると、どういう種類の状態にいるときに
生存の心配をする必要がなくなっていたか、ということです。

具体的には例えば、赤ちゃんのときに
抱きかかえてもらっている最中に安心していられたとすると、
身体の暖かさや触れ合い、揺すってもらっているリズムなどが
馴染みのある”快”の状態として経験されていくはずです。

何か生き物として不快な状態が起きて、泣いて表現する。
すると誰かが抱き上げて、揺すって、あやしてくれる。
そんな経験が多ければ、そこに基準が生まれてきやすい、と。

あるいは、不快なことがないまま目が覚めている状態のときほど
周りの人たちが集まって笑顔で見てくれている…といった経験が多ければ
人との穏やかな交流や静かな心地よさを”快”として学習しそうです。

また、不快なことがないときに体を動かして声を出して
身体的なエネルギーを活発に使っている場合ほど、
周りの人たちが関心を向けてくれたり、一緒に遊んでくれたりすれば
身体のアクティブな状態や、明るさ、楽しさなどを”快”と結びつける。

そんな風に小さいころから、
生き物として安全なときに慣れていた状態を
”快”のベースとして学習していくと考えられます。

それが価値観の土台になっていく、と。
つまり価値観も「慣れ」から生まれている。

食べ物の好み、生活習慣の好みも慣れによるところが大部分です。

辛い物が当たり前の文化で育てば、辛い物が好きになる。
味付けの濃い文化や家庭で育てば、そこに馴染んで基準が作られます。

生活環境の好みにしても同様。

人の外見の好みなんかも、自然に体験してきた情報量の影響が大きく、
身近な人に似た印象や、あるいは鏡に映った自分に似た印象、
テレビで頻繁に露出されている人の印象など、
体験の量が非常に大きく関わっているものです。

「慣れ」という単語が適切かは分かりませんが、
とにかく体験の量が、価値観を含めて
「好き・嫌い」の土台を生み出してきている、ということです。


一方、「合う・合わない」は学習と切り離れます。

エビ・カニにアレルギーのある人は、美味しいと感じても食べられません。

僕はグラノーラなどのシリアルを食べたいときがあるんですが、
牛乳をかけて食べると、決まってお腹の具合が悪くなります。
合わないんです。

生き物として個体のリズムもありますから、
歩くスピードや話すスピード、話し声のトーンなどは、
自分のリズムと相手のリズムが「合う・合わない」の話になります。

僕が女子高生のテンションと合わせるのは大変です。

犬が好きな僕ですが、リズムという観点で
小型犬よりも大型犬のほうが「合う」感じがあって心地いいです。

で、ここが少し紛らわしくて注意が必要なところ。

「合わない」のは心地よくない。

心地よくないということは「不快」として認識されます。

嫌いなものの土台にあるのも「不快」な状態です。

「不快」な状態が共通しているので混同されやすいわけです。

そうすると「合わない」から「不快」なだけなのに
「不快だということは嫌いなんだ」と判断してしまったりする。

アレルギーの人がエビを食べて苦しむ体験をする。
ここでアレルギーという理解があると「合わない」と判断できます。

でも「合わない」理由が何なのかを知識として理解できないと
「〇〇を食べると気分がよくない」という不快の体験だけから
印象を捉えることになります。

例えば僕はニンニクが多いものを食べるとお腹の具合が悪くなったり、
中華料理をたくさん食べたり、チェーン店の牛丼を食べたりすると
身体が重ダルくなったりする傾向がありますから、控えています。

味の慣れとしても「好き」の部類には入っていない自覚があります。

すると「好きではない」+「合わない」=「嫌い」のように
判断してしまいかねないんです。

確かに「食べたくない」気持ちは起こります。
でもそれは厳密には「嫌い」だからではない。
「合わない」からです。

もちろん、「合う」から「快」なだけなのに
「快だということは好きなんだ」と判断することもあります。

「快」を基準に選んで関わっていて、「快」が続くのであれば
それが「合う」だろうが「好き」だろうが問題は起きません。

ですが「合わない」から「不快」なのに
それを「嫌い」と混同してしまうと、
最初に述べたような問題が起きてきます。

食べ物ぐらいなら大きなトラブルにはならないでしょう。
しかし人間関係で「合わない」を「嫌い」だと認識してしまうと
「合わない」だけの人を不必要に嫌悪し、
拒絶や対立にまで発展したりする可能性もあります。

もしかしたら社会問題とされるものの中にも
「合わない」を「嫌い」とするためのものがあるかもしれません。

本当は「合わない」だけなら、
それを理由に「嫌う」必要はないでしょう。

「合わない」ことを無理やり合わせようと頑張る必要もない。

自然界はちゃんと棲み分けをしています。
合わない環境には生きていない。
合わない者同士は距離を取る。

人間以外の動物にも体験に基づいた「好き・嫌い」はあるようですが、
その度合いは人間よりもずっと小さいように見えます。

現実的ではない解決努力で苦労したり、
解決できるのに避けてしまったり、
取りつく島もないほど全てを拒絶してしまったり、
無理に受け入れようとして苦しんだり…、
そういうのは動物には起きなそうです。

まずは「合う・合わない」なのか「好き・嫌い」なのかを区別する。
体験によって学習されたものなのか?と振り返る。

その区別をつけるだけで楽になることが結構あるはずです。

cozyharada at 23:01|Permalinkclip!

2017年09月05日

足がつるとき

移動で新幹線や飛行機に乗っていると、それだけで
降りたときや一日の終わりに「疲れた」と感じます。

が、座っているだけで、せいぜい本を読むぐらいですから
疲れる理由はそれほど見つかりません。

一説では、高速移動の最中には結構な重力がかかっていて
それに対抗するだけでも疲れるものだとか。

特に横方向の重力に関しては窓際のほうが強くなるとかで
なるべく中央の席のほうが疲れにくい、
なんて話も耳にしたことはあります。

確かに新幹線の中でパソコンの書き物をしようとすると
僕は、揺れのひどさに注意が奪われて全然集中できません。

ただ乗っている分には気にならないけれど
意外と揺れに耐えなくてはいけない度合いは高いんでしょう。


しかしそれ以上に、狭いスペースで身動きが取れないことのほうが
身体への負荷は大きいような気がします。

「疲れた」という体感で自覚されますが、実態は疲れているというよりも
「固まって痛い」という表現のほうが近いのかもしれません。

とりわけ飛行機はスペースが狭いので、身体の硬直を強く実感します。

隣の人との距離感などもあって心理的な緊張からくる体の強張りとか
他の人の匂いから離れようとするときに片側に重心をかけ続けてしまうとか
普段とは違う形で体に負荷がかかっているんだと思われます。

実際、JALの国内線で1000円高いだけの広めのシートを利用すると
同じ通路側を使っていてもパーソナルスペースが少し広がるだけのことで
随分と疲労感が小さいのを体感します。

どうも僕にとっての移動による疲労とは、
パーソナルスペースが小さいところで緊張から体を硬直させ
しかも同じような姿勢をとり続けることによる負荷
というのが大きいように思えます。


先日、久しぶりに寝ている間に「こむら返り」が起きたのも
移動が重なった日の夜のことでした。

ふくらはぎの痛みを弱めようと足首と膝を伸ばしていたら
今度はさらに足の甲までつりそうになってしまいました。

肉体疲労だけならジムで運動した後のほうが筋肉疲労はあるはずなのに
一定の緊張感を長時間続けたときのほうが足をつりやすいみたいです。

もしかすると運動によって体のレベルで疲れているときは
「痛い」とか「動けない」とか「力が入らない」とか「眠い」などと
「疲れた」とは違った自覚のされ方をするのかもしれません。

「疲れた」と感じるときは、意外と体の疲れではなく
心理的な緊張や、体を運動させられなかった硬直の蓄積などのほうが
影響が大きいような印象を受けます。

そうすると本当は「疲れた」ではなく
「ストレスがかかった」とか「強張った」とか
「負荷が溜まってきた」とか「ダルくなってきた」とか
そういう表現のほうが適切だとも思えてきます。

「疲れた」という言葉で安易に認識してしまうと
「疲れたときは無理せずに休む」のようなシンプルな発想で
本当に体が求めているケアとは違った方向で対処してしまいそうです。

実際に心身に起こっていることを正確に認識して
適切な対応をしていきたいものだと痛感します。

cozyharada at 23:51|Permalinkclip!

2017年09月03日

外国語の聞き取りの訓練として

ここ数日、フランス語のディクテーションを少しずつ続けています。

スピードが速いところは音として聞き取るのも難しく、
音が取れたとしても意味が追いつかない場合もあったりします。

一方、ある程度の長さの塊で意味が確定するようなフレーズは
僕の記憶の中で、音と意味が結びついているらしく
スムーズに聞くことができます。

そのような意味をとらえられるフレーズだと
音読しようとしたときにも自然に発声することができます。
音源と同じスピードで読める。

逆に音が聞き取れないところは音読しようとしても大変だったり、
音が分からなかったり、音の繋がりを理解するのに時間がかかったり、
頭で分かっているつもりでも口が回らなかったり…、
音源と同じようには読めないことが多いんです。

さらに意味が取れない部分になってくると、
その意味の長さ分を覚えて再現することができません。
そのフレーズの長さ分を頭の中に保持できていない。


これまでの英語学習のトレーニングでもやってきましたが
発音のトレーニングとして音源の発音、イントネーション、スピードを
真似できるようになると、同じフレーズはすぐに聞こえてくる
という経験は多々あります。

言えるものは聞こえる、と。

特に僕の場合、理解のステップとして
頭の中でそのフレーズが再生される段階があるようなんです。

耳から入った音を頭の中でもう一度再生して追いかける。
これが一生懸命に理解しようとして聴いている状態。

逆に何気なく聞き流しているときは頭の中の再生がありません。
その場合、音は入っているけれど記憶には残りません。

日本語だと慣れ過ぎていて、どんなに聞き流しているつもりでも
頭の中で自動的に再生されてしまう癖ができているようですが、
外国語の場合、再生されるときと再生されないときがあるんです。

つまり、頭の中で再生できれば聞けるようになりそうだ、ということ。
だったら再生できるのは聞き取りの重要なポイントになりそうです。

で、再生するためのトレーニングとしては
音源と同じように発音できるようにするのが効果的なようなんです。

聞いて真似できるようにする。
文章を読んで発音して、音源と同じように音読できるようにする。

そうすれば音源を聞いているときにも、
頭の中で聞いたものを再生しながら追いかけられるようになる。

そんなトレーニングが有効じゃないかと思われます。


一方、意味が取れないところになると
その長さ分を覚えていられないことが多いようなんです。

途中までは記憶として保持して再生できる。
けれどもフレーズが重なって長くなってくると
その長さ分を最初から最後まで再生することはできない。

もちろん覚えて再生できる範囲であれば
その範囲の意味も捉えられています。

おそらく日本語でも、聴いて内容を理解できているときは
全く同じフレーズではなくても、同じような内容を要約して
自分の口から言える状態になっているはずです。

意味を納得はしていても自分で言えないケースもあると思いますが、
少なくとも自分で言える状態であれば意味は分かっているでしょう。

ですから意味を踏まえながら、その長さ分をフランス語で言えれば
その内容は理解できていることになると考えられます。

つまり、その文章を覚えて、音源と同じ発音で、しかも
意味をイメージしつつ再現できるようになれば
聞いた時にも内容が掴めるようになっているだろう、と。

トレーニングとしては、聞き取れなかった部分を
フランス語のまま覚えて再現できるようにする方法が良さそうです。
音読ではなく、暗唱する練習です。


これまでの経験としても、
自分でスピーキングの際にスムーズに言える文章は
聞いた時にも難なく聞き取って理解することができます。

まとめると
・意味を(五感のイメージとして)頭の中に作り上げながら
・ネイティブと同じ発音で(音読できるようにして)
・(それから)何も見ないで言えるようにする(=暗唱する)
という流れでやると、
「連続した音の聞き取り+聴解力」がついていくのではないか。

そういうことが予想されます。

実際、じっくり音を1つずつ取りながらディクテーションをして
音源の文章を書きだした後、正解と照らし合わせて、
それから音読と暗唱のトレーニングをすると、
その後でもう一度音源を聞いたときにはスムーズに聞くことができます。

文章として把握しているものと同じことを言っているように聞こえるし、
聴きながら頭の中で再生して追いかけられるし、
意味もイメージできるようになります。

言語活動は最終的にパターン認識だと考えられますから、
あとは量を繰り返して、自動的にパターンが頭の中に作られるのを待つ。

すると聞き取りの力も上がるんじゃないかと期待しているところです。

1つの教材をじっくりと丁寧に使い倒すぐらいのつもりで
コツコツ繰り返していこうと思っています。

cozyharada at 23:10|Permalinkclip!

2017年08月21日

Kinlde使ってみます

ついにKindleを購入しました。

タブレットが欲しかったわけではなく、読書用の端末としてです。
なので文字の見やすさと、まぶしくないかどうかを重視して
Kindle Paperwhiteなるものを選んだところ。

それほどもう本を読んでいないので大きな魅力は感じなかったですし、
そもそも数冊の本を並行して読むよりは一冊を読み切る習慣だったので
何冊もの本を持ち運ぶこともありませんでした。

また、本を読み返すことも非常に稀なほうなので
いつでも調べられるというのも、さほどメリットとは感じませんでした。


なので、最終的に重要だったのは洋書です。

洋書だとamazonで購入してから届くまでにも時間がかかったり、
場合によってはamazon.comにはあっても日本のamazonにはなかったり。

どうしても輸送の部分でスムーズじゃない感じがあったんです。
結果、Kindle版のほうがかなり安くなることも多いみたいですし。

特に今回、仕事で読んでおく必要のある本が手に入りにくく
「これはもうKindleしかないか」という決定に至りました。

普段、電車に乗るとスマホで何かを調べて読んでいることが多いものの
とりたてて目的のある読み物というわけではありませんから、
スマホを取り出す代わりにKindleを取り出すようになれたら
読書時間は増やせるのではないかとも期待しています。


で、Kindle到着までの間に保存しておく本を数冊検討しているところ。
さすがに一冊のためにKindleを使うのは勿体ない気がしてしまうので。

ただやっぱり、それほど欲しいものが見つかりません。

最近、書店で手に取って検討するのは語学関連のものが中心ですが、
語学書はあまりKindle版になっていないみたいなんです。

しかも語学書は似たような内容の中から自分に合ったものを選ぶ、
という選択のためのプロセスが重要だと感じていますので、
ネット書店では購入しにくいところもあります。

ということで最初のうち、僕のKindleは相当にスカスカの状態になりそう。

いつになったらライブラリーとして充実するのか
それは定かではないですが、
せっかくの購入なので有効活用できれば良いなぁと思います。

cozyharada at 23:27|Permalinkclip!

2017年08月15日

修行・実践の場

9月から修行の場を始めます。

勉強会や講座という位置づけではなく
ひたすら自分のために時間を取るもの。

「修行」というとトレーニング的なニュアンスが一般的かもしれませんが、
ここでは『実践』の意味で使っています。

ただ内面を調える。
そのための時間です。


瞑想をしたり、
体の感覚に注意を向ける時間をとったり、
個人的な心のテーマに取り組んだり。

質疑応答や、質問をもとにディスカッションする時間も取ります。
質問をもとに内面の取り組みに進んだりする可能性もあります。

心理的なワークの場合、お互いに練習をしてもらうことで
人と接するうえでの着眼点を育むことも想定されます。


いずれにしても修行・実践というスタンスですから
一回で望ましい結果を出して完結…という話ではなく、
都合のつくときに繰り返し参加してもらって
そのたびに内面を調えていくのが意図です。

本当は一緒に瞑想するだけの会でも良いんですが
『心が楽になる』『苦しみが減る』『喜びが増える』
という意味において、できることは瞑想以外にも色々あります。

色々やるほうが好みにも合わせやすいともいえますし、
逆に好みと違う側面からのほうが
感受性や”しなやかさ”を育みやすいともいえます。
(そのほうが満足していただきやすい気もしますし)


日常生活を普通に送っているだけで負荷がかかるんです。
大変なんです。

人生がすべて思い通りになることはないでしょうから
何かしらの期待外れからくる不満と遭遇します。

まして人間関係においては
思い通りにならないほうが普通でしょう。

他人は自分を満足させるために存在しているわけではありませんから。

日々を過ごしているだけでかかっている負荷を軽くする。

そのために内面に溜まった負荷を減らしていったり、
負荷がかかりにくい心持ちに整えていったり、
というプロセスが有効だろう、と。

簡単にいえば、心のメンテナンスです。

車のメンテナンスを想像するとイメージしやすいと思いますが、
メンテナンスをしないと、どこかに歪みが出てきます。

そして、その歪みによって別の場所にまた負荷がかかる。
悪循環が起きていきやすい、ということです。

身体だってそうです。
どこか一部を痛めて、かばって生活しているうちに
全体が歪んできて全身のあちらこちらに痛みが出てくる。

心でもメンテナンスをしておく意義はありそうです。

ただし車と人間は違います。
車についた傷は治りませんが、人間は治ります。

自然治癒力をどう活性化するか。

身体の面でいうと、適切な運動と休息が回復効果を高めるように
心の面でも適切な取り組みと休息の両方が回復を促すようです。

そういう意味で、いろいろな取り組みをしたり
心を休めたりする場があると良いのではないか、という趣旨です。


頻度は分かりませんが、できるときにやりますので
都合があったら来てください。

社会生活でかかる負荷から回復するための場は
少し社会と切り離れたところである必要がありそうですから。

cozyharada at 23:55|Permalinkclip!

2017年08月08日

だいぶ良くなってきました

捻挫もだいぶ良くなってきました。
施術をしてもらって大いに回復した感じです。

まだチョットあぐらをかくと痛いですが
そこまで大きく足首を伸ばさない限り、痛みは出ません。

むしろ過剰にかばってしまわないように
気をつけて動いておきたいものです。


施術を受けて驚いたのが、左右バランスの偏りの酷さでした。

ある程度は偏るだろうとは想像していましたし、
まっすぐに立てない度合いが大きくなって
歪んだ姿勢も自覚していました。

それでも実際に施術を受けてみると、
自覚しないままでも右足をかばうように動いていたらしく
左足側が相当に固まっていました。

ここまで大きな影響が出るのかと痛感した次第です。

たった3週間でこれですから、もしこのまま
こういった調整を受けないで過ごしていたら
一年もする頃には歪みも激しくなっていただろうと想像します。

自宅近所には高齢者が大勢いますが、
かなりの人が体の一部の痛みをかばうようにして
大きく歪んだ姿勢で歩いているのを見かけます。

どの部分の痛みがキッカケだったのかは定かではないですが
一部の痛みが歪みを引き起こし、かばう動作が歪みを強め
さらにあちこちに痛みを生み出している…
といった悪循環がありそうです。

プロスポーツ選手でも一度ケガをした後には
何度もケガをして苦労するケースが多いように見受けられますが、
ケガからくる体の歪みが新たなケガを生むのかもしれません。


同時に、心理的な影響も実感できました。

右足首をかばう動作が無自覚だっただけでなく
右足首に体重をかけるような動作に対して
小さな恐怖感があるのにも気づきました。

「恐れ」があったんです。
文字通り、おそるおそる動く感じ。

実際に起きる痛みの程度はもう大したことがないのに
痛みが出そうな体重のかけ方は避ける。
そういう癖がついてしまっていたようです。

このまま放置しておくと右足の動作だけ少し遠慮する感じの
微妙な動作が習慣化しそうな気がしました。

こういう小さな恐れの感覚も、きっと
繊細な運動調整を行うスポーツ選手であれば
大きな影響を及ぼす要因になるんだろうと感じます。

今までよりも関節を伸ばしきれないというか
縮こまった動作になりがちなんじゃないでしょうか。

ケガがキッカケでイップスになる、なんていう話も
捻挫をしてみて納得できるところです。


心理的に見て興味深かったのは、
全身の中から右足首だけが切り離されたような印象です。

かばっているんだから当然かもしれませんが、
気持ちのレベルでいうと仲間外れになっているような
ちょっとした寂しさもあるように感じられました。

全身の残りの部分でカバーしようとしていたわけですが
右足首だけが全身の連動から切り離される感じは、
「除け者」扱いにも近いところがあるのかもしれません。

皆からかばってもらう、特別扱いされる、腫物扱いされる…
そんな種類の体験は、優しさや遠慮から生まれるものだったとしても
孤立感・孤独感を生み出しやすいものなんでしょうか。

右足首に意識を集中したときに感じられた寂しさは
どことなく仲間外れになっているような気分に思えました。

過剰な恐れを取り除くための「恐怖症ケア」のワークや
全身から切り離された部分を全体に再統合するためのワークなど、
心理的な面からもアプローチをしておくと良さそうです。


一口にケガといっても、
外科的に治療するだけが全てではないのかもしれません。

身体のバランスや心理面の影響なども含めて
幅広くケアして初めて「回復」と呼べそうな気もしました。

cozyharada at 23:58|Permalinkclip!

2017年07月26日

無意識について考える難しさ

捻挫は思いのほかシッカリとやっていたようです。
まだ痛みがあります。

というよりも日によって強まったりもする感じ。

特に気にすることなく歩いてはいますが
痛みはずっと続いているような状態です。

ジムの運動をどうしようか迷い中。


さて、最近は今週末の札幌での講座に向けて
資料の準備で慌ただしくしていました。

無意識とのコミュニケーションがテーマで
トランスを扱いはするものの、メインは催眠ではない
という構成です。

催眠だけだったら催眠用語だけで伝統に従って進められますが、
「無意識とのコミュニケーション」というテーマとなると
催眠を利用せずに無意識レベルに働きかける部分が入ってくるので
もっと厳密に心の仕組みを理解する必要が出てきます。

ですから「そもそも意識・無意識とは何なのか?」を
理解するところから扱う必要がありそうなんです。

そのための資料がなかなか重厚な感じになってしまいました。

まぁ、2日間で扱う内容なので何とか収まりはすると予想していますが。
技術的な習得には時間がかかる分野だと思いますから
種植えが主目的のトレーニングになりそうです。


それにしても意識というのは本当にややこしい分野です。

哲学でも脳科学でも医学でも心理学でも、
同じ学問の中でも定義がバラバラだったり
違う概念について研究しながら議論が進んでいたりもします。

そこには主観的な体験としての意識を
客観的に議論する難しさがあるとは思われます。

が、それ以上に、意識についての考えを深めていくと
「そもそも自分とは何なんだ?」という不確定さが高まり、
これまで自分として当たり前にしてきたことが崩れそうな、
自分”の存在が脅かされる感じの印象が出てくる。

それがハッキリと自覚されなくても
なんとなく「この先は踏み込みたくない感じ」になったり
感情的な反発をして論理から外れしまったりして
純粋に客観的な議論が行えないこともあるように見受けられます。

意識ということが人にとって、あまりにも当たり前で
「意識」の感じが社会的に共有までされているからこそ
わざわざ理解しようとしなくなっているのでしょう。

そして馴染みのある意識のほうが当然のことだと考えるため、
意識の範囲外の「無意識」のほうを特別視して
無意識を何とかしようとしたり、理解しようとしたりする方向になる。

おそらく実態は、無意識のほうが当たり前なんです。
無意識こそがベース。
世の中のすべては無意識を土台にして進んでいる。

そこに意識という特殊な活動が加わって、
人の内面の活動を複雑なものにしている。

「意識」というものが苦悩を生み出し
人間を他とは違った特殊な存在にしているのかもしれません。

その辺を土台にすると、自然な無意識の状態に戻る時間、
つまり催眠やトランスそのものが
苦悩から離れ、心を楽にするということにも頷けます。

エリクソンが「無意識を信頼する」と言っていたもの
自然に委ねる感じを意味していたような気がします。

ちなみに、以前の僕は「無意識を信頼する!」と意気込んで
実際のところ「無意識に期待をする」ことをしていましたが…。

cozyharada at 23:00|Permalinkclip!

2017年07月20日

枕探し

枕を買おうかと検討中です。

施術を受けたり、体のメンテナンスをしたりするようになって
姿勢が良くなってきた自覚はあるんですが、反面
枕が合わない印象が強まってきました。

もともと合っていなかったのに気づけなかったのか、
以前は合っていたのに姿勢の変化に伴って合わなくなったのか…。
とにかく枕への不満が高まってきました。

寝て起きると首が痛いんです。

身体の状態が良いと感じながら寝た日でも
次の日に起きるとやはり首が痛い。
これは勿体ない、と。


今の枕は柔らかすぎる気がしているんです。

その前に使っていたのも残っていますが、
こちらは固いもののチョット高すぎるんです。

姿勢の変化に伴って高すぎるのが負担になって
低い枕に変えたところ、柔らかさが合わない気がしてきた次第。

固めで低めの枕が欲しいと思っています。

低反発は沈み込んでしまって好きじゃないので
チップか高反発か、そのあたりが良い気がしています。

近々、デパートや東急ハンズなどに足を運んで触ってみるつもりです。

マニフレックスとかエアウィーヴとかでしょうか。
ちょっと高級ですが、毎日長時間使うものですので
費用対効果は大きいんじゃないかという期待。

もしかしたら意外と好みのものが見つかる可能性もありますし。

cozyharada at 23:05|Permalinkclip!

2017年07月11日

外国語学習サイト

東京外国語大学がインターネット上に
無料の自習教材を用意してくれています。

こちらのサイトです。

ざっとラインナップだけを見ても、
日本語を入れて合計で27言語が扱われています。

かなり詳細な発音の話や、文法の解説、
それからスクリプトつきの動画による会話例など
各言語に対して内容も充実しているようです。

アラビア語のようなアルファベットではない文字も解説されています。

英語1つとっても、
アメリカ英語、イギリス英語、オーストラリア英語、カナダ英語、
ニュージーランド英語、シンガポール英語、アイルランド英語
と細かな違いを扱っています。

初学者として勉強できる内容から、
聞き取りのトレーニングとして利用できる教材、
相当にマニアックなバリエーションの違いまで、
レベルも多岐にわたっている印象です。

個人的には大いに楽しめます。

興味本位で遊んでみるだけでも面白いんじゃないでしょうか。

cozyharada at 23:27|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《心を調える実践会》

【日時】 2017年10月15日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回開催は11/5の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



 ◆ お問い合わせ 
  技術向上、
  コンサルティング、
  スーパーバイズ、
  執筆・講演…

  諸々のお問い合わせはこちらへ>>



ホームページ
バナー1


プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
Archives
最近のコメント
QRコード
QRコード