心理学

2017年04月24日

ストレスチェックの義務化

2015年12月から義務化されたストレスチェック。
労働者が50人以上の事業所では年に一回の検査が必要になっています。

僕自身はフリーランスですし、主に関わっている人たちも
そこまでの人数の組織ではなさそうですから、
直接的にストレスチェックを気にする立場ではないと言えそうです。

しかし、受講生としてお越し下さる方々の中には
もちろんストレスチェックを受けている人も、さらには
人事としてストレスチェックを使う側の立場の人もいる可能性があります。

ということで先日、ストレスチェックについての講座を受けてきました。


講師はアメリカでカウンセラーをやっていた人で、
日本でも心理臨床の立場として病院に入ったり
企業と契約して従業員のカウンセリングを受けたりしていたそうです。

実際に本人がどれぐらいストレスチェックと関わっていたのかは分かりませんが
人事としてストレスチェックを「やらなければならない」人たちとは
接点があるようで、実情も交えた講義を聞けました。

多くの人事担当者は、このシステムを運用する義務に対して
新たなストレスを感じているという話でした、皮肉なことに。

どうやら原則的には、従業員個人のためのシステムという想定みたいです。
自分で自分のストレスに気づき対処する、と。

相談窓口を告知したり、ストレスを自覚した人たちが
気軽に社内で相談できるような環境を整えたりするのが
人事側としてできることではないか、という説明でした。

しっかりと個人を把握している人事であれば
誰にストレスがかかっているかは、本人の非言語メッセージや
周りからの評判などから想像がつくだろうから、
人事側から個別に「働きかける」には良く知っている必要がある…。

そんな話もしていましたが、そうなったらストレスチェックは関係ない気もします。

組織としてストレスチェックをどう活かすかを良く話し合うと良いと言われても、
そこに一生懸命になるマネジメント層がいれば、そもそも
従業員全体としてのストレスレベルが過剰に高いことも少なそうです。

僕としては、せっかくのチェック内容なので
組織全体として活かす方向性はないものかとも考えてしまいますが、
情報は従業員本人のみに知らされる前提ですから
上司として何をするかとか、人員配置に活かすとか、
マネジメント側として組織を変えていくとか、
そういう方向には繋げようという趣旨ではないようです。


そのため、講座の内容も個人対応のものが中心でした。

「(現状としてかかっている)ストレスにどう対処していくか?」
を解説してもらったり、話し合ったりしました。

講師がカウンセラーだということも関係しているかもしれません。
 目の前の一人が苦しんでいる。
 その苦しさをどう楽にするか。
そういう発想があると、
「現状でかかっているストレスにどう対処するか?」
の部分に関心が向きやすいんでしょう。

そこの手伝いをするのが本人の専門分野でもあるようでしたし。

一方、僕は「ストレスがかからないようにするには、どうしたらいいか?」
のほうにも関心が出てきます。

家族療法的な視点からすると、ストレスを抱える人は
たまたまそこに症状として表れているだけで、
グループ全体に歪みができていると考えられます。

従業員のストレスチェックをやって、仮に
ストレスを抱えていた従業員全員が上手くストレスに対処できるようになって、
過剰に仕事を抱え込まなくなったり、長時間労働を断れるようになったり、
有給休暇もしっかりと取れるようになったりしたとします。

従業員全員が自分のストレスを自覚して、自分に無理をかけなくなる。
翌年のストレスチェックでは、皆がストレスを報告しなくなった、と。

カウンセリングを受けにくる人もいなくなって、
サポートする側としては大成功に思えるかもしれません。

しかし、おそらくそのとき、仕事は以前のような形では回っていません。
全員の労働時間が減っているのですから、こなせる業務の量も減るでしょう。
よほど仕事の効率化を図れていなければ業務のほうに皺寄せが来る。

結果として、部署単位・事業所単位での責任を果たそうとして
「従業員」ではない「管理職」側に負担が出ているかもしれません。

従業員のストレスを下げようとした分、業績が下がり
その責任を管理職が問われるようになる…。
そうなれば次にストレスが表面化するのは管理職のほうです。

ここで管理職のほうが自分のマネジメント能力をトレーニングしたり
仕事の成果を上げるべく学んだり工夫したりするようになれば
それもまた1つの成果と呼べるのかもしれません。

逆にただ管理職層のストレスだけが過剰になってきて
マネジメント層を中心に離職者が増えてきたりすれば、
組織全体として大きなダメージでしょう。

組織自体が破たんしてしまうか、
その前に経営者が異常事態だと気づき、経営を何とかしようとするか。

つまるところ、従業員にストレスが強く出ているということは
組織全体の運営がスムーズではない、ということかもしれません。

人員が従業員→管理職と、順にストレスを減らすようにスタンスを変えたら
最終的な歪みはトップのところに表れてくるはずです。

だったら最初から組織全体として向き合っても良さそうな気もします。


表面上はストレスチェックというシステムの話ですが
関わっているのは経営の問題とか、経済や文化のところにも及びそうです。

とてもアンケートだけやって済む話ではなさそうに感じました。
あまりにも事態が複雑過ぎる。

ジレンマの部分を強く意識させられた講座でした。

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2017年04月21日

選ぶ作業

いざ身体のために運動を、と考え始めると
施設選びにも迷ってしまうものですね。

当初は最寄りで24時間営業のところが良いかと思っていましたが
他も調べてみると、プールがあるのが魅力的に見えてきます。

全身運動という観点で水泳は良さそうな気がするんです。

水に入っているだけでリラックスできるところもありそうですし。


一方、プールを利用するのは少しだけハードルが高い。
子供の頃の記憶から、所要時間が長くなる印象があるんです。

しかも「せっかく来たから、ついでに他の運動も」なんて考えたら
全体としての時間は、まとめてそれなりのものになるんじゃないか、と。

休日にタップリと時間を取って、運動のための日を作る…
そんな必要性を感じてしまいます。

それはそれで有意義な休日の過ごし方としてイメージできます。

デメリットは頻度が落ちるところでしょう。
まとめてしっかり、と思うと気軽に立ち寄る感じにはならなそうです。


その点、マシントレーニングぐらいを24時間営業のところでと想定すると、
立ち寄るのも気軽になりますし、時間も気にせずに
かつ夜遅くにでも行けそうなのは助かります。

僕の趣旨は、身体のメンテナンス目的にありますから
セミナーの後に有酸素運動をしてリフレッシュしたい気もするんです。

するとやはり24時間営業は嬉しい。
土日に夜遅くまでやっているのもありがたいです。

一回当たりの時間を短くして高頻度にしたい気持ちも加味すると
やはりプールがあっても営業時間が限られているのは残念。

こうして考えてみると、どうも24時間営業のほうに軍配が上がりそうです。


ちなみに、これを書く前の段階では迷っていましたが、
書いているうちに気持ちが整理されて結論に近づけた気がします。

書きながら考えを整理するのも1つの効果的な方法のようです。

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2017年04月03日

動画広告の時代

最近、バタバタと気ぜわしい感じになっていた理由の1つは
動画撮影のお手伝いをしていたところにあります。

裏方の作業をやると、見えない部分でどんな大変さがあるのか
意外と見えてきたりして、なかなか興味深いものです。

この頃は、動画を使った広告などが効果を発揮しているらしく
言われてみれば確かにFacebookなんかでも目にすることがあります。

写真だけのものと比べると、内容への興味は別にして
なんとなく見てみようとしてしまうこともありますから、
それなりの広告効果があるんでしょう。


ただ個人的には、動画だからこそ
見てしまった後の評価は厳しくなっている気もするんです。

写真や文章だけの広告であれば、「まだ分からない」という印象が残る。
「これだけでは判断できないなぁ」と。

なので、興味があるものだとしたら、
実際に軽く現物を見てみたい気持ちにもなります。

一度足を運んでしまえば、そのクオリティの満足度がそれほどでないとしても
他に代わりとなるものがないのであれば高確率で購入に繋がる。
「まぁ、他にはないし、これぐらいの程度ならいいだろう」と
僕は判断して購入、申し込みに進むことが多いんです。

しかし、動画の場合、僕は判断基準がかなり変わります。
そこで「イマイチかな」と評価してしまったときは、
それ以降の検討が進みません。

仮の話ですが、僕が受けている(もしくは受けてきた)語学講座でも
事前に講師が動画で模擬クラスか何かをやっていたとしたら
僕の評価は厳しくなって、「これぐらいなら他を探そうかな」と
申し込みを見送っていたものもあったと思うんです。

ホームページや資料の段階で詳しく分からないからこそ、
日程と価格の部分で妥協して、あまり期待せずに申し込みをした
ということです。

動画の場合、体験の情報量が多くなります。
判断をするための量が多い。
現物で判断するのと近くなる。

その分、動画広告段階での評価は
現物を見たときに近づいてしまって、
現物に触れる前から最終判断がなされやすいのではないか?
と感じています。


それは裏を返すと、質の高いものほど良さが伝わりますから、
現物に触れる、購入する、申し込みをする、段階では
すでに良さを知った納得している可能性があります。

先にファンになってもらう目的にはマッチしそうです。

一方、「質が不十分」と判断されて見向きもされなくなる、
むしろ動画広告が逆効果になる場合もあるでしょう。

利用する側、購入する側としては
商品・サービスを良く知ってから検討できますから
消費者側には望ましい話かもしれません。

動画広告をする側には、
諸刃の剣でもあるんじゃないでしょうか。


その意味でいうと、僕が携わった動画は
先にファンになってもらうのに十分過ぎるクオリティ。

音質や画質としても高そうですから、
内容の良さを撮影が邪魔することもなさそうです。

これから動画広告が増えたとすると、
その効果は両極に分かれるかもしれません。

今なら気軽に始められそうに見えますが、
すぐにシビアな世界になるような気がします。

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2017年03月30日

外国語で話話すために

10週間のプレゼンテーションのコースが全日程終了しました。
(僕は途中参加なので9回分ですが)

学んだ技術はそれほどでもないかもしれませんし、
全く知らないものもありませんでした。

確かにこういう風に話すときもあるし、
「実際、こうやって話しているアメリカ人プレゼンターもいるな」
と感じるようなものばかり。

それほど斬新な印象や、驚きのある学びはなかったんです。

プレゼンテーションに重きを置くというよりは、
英語のスピーキングの講座といった印象のほうが近いかもしれません。

英会話であれば質問に対して答えておけば進みますし、
ディスカッションぐらいで自分の意見を言うときも
それほど構成を考える必要もなく議論に参加することはできてしまいます。

その点、人前で与えられた時間を話しきる、となると
ある程度の構成とか、プレゼンテーションらしさみたいなものが期待される。

講座のメインは、プレゼンテーションらしい英語の使い方
といったところだったような気がします。

日本語でプレゼンテーションをする場合にも
多くのプレゼンを見たことがあれば、
「プレゼンってこんな感じでやるものだ」
という印象がありますから、
それに基づいた話し方を組み立てることができるわけです。

一方、英語でのプレゼンに慣れていない場合、
そういう印象そのものがありません。
だから組み立てようがなくて、どうしていいか分からない。

そういう英語学習者のために設定されている講座内容ではないか、と。

実際に参加者の中には、すごく人前で話すのが上手くなったわけではなくても
プレゼンテーションらしい原稿を準備できるようになった人がいました。

なので「プレゼンテーションらしい英語のフレーズが使えるようになる」
というあたりが講座の主な効果だったのでしょう。。


で、僕はそれなりに英語のプレゼンを見るのが好きなので
なんとなくの印象として、プレゼンらしさみたいな典型的なイメージを持っています。

それを元にプレゼンを組み立てようと思えばできそうな気がする。

ですから講座で習った内容やテキストで扱った部分も
自分なりに取りこめそうなものには感じられたんです。

しかし、こういう言葉の技術というのは、
「知っている」、「自分でもたまに使っている」と思える段階と、
「日頃から意図的に使い分けている」段階とでは、
かなりの差があるものです。

習ったときに、その内容と合った実体験が記憶の中から沢山見つかる…
それだけだと「あぁ、ときどきやっているなぁ」という印象になります。

この段階は、自分の経験の中から共通点を探し出して
教わった内容に当てはまるパターンを見つけたところなんです。

例えば、短い単語で3つ並べる、なんていう話し方のテクニックがあったとして、
「あー、あー、聞いたことある。自分でもやったことがある。あれね。」
というのは、指摘されたから見つけられたパターンだといえます。

こういう形があるんだ、とパターンを知ったときに
そのパターンに当てはまる経験が見つかってくる。

パターン認識のための型が、頭の中に作られた段階です。

今までは経験があっても型としてパターン認識はされていなかった。
そこに型がインプットされたことで、当てはまる経験を認識できるようになった。

こういう方法は、全く知らないものを新しく知るときの学習とは違います。
記憶にはあっても認識されていなかったものを
パターンとして認識できるようになるタイプの学習なんです。

例えば、日本語の方言を認識できるようになるのは、このケースです。

今まで聞いたこともあったけれど、特に気にせずに聞き流していた。
あるとき、これは名古屋弁の特徴だと知ったり、
大阪弁だとこうで、京都弁だとこう…みたいな特徴を教わったりする。

するとそれ以降は、その特徴的なフレーズが耳に入った瞬間に
「あ、名古屋弁だ」とか、「あぁ、この人の関西弁は大阪のか」などと
すぐに認識できるようになります。

特徴のパターンを知ったから、
実体験の中からのパターン認識がスムーズになるんです。

僕がプレゼンの講座中に習ったフレーズや言い回しの形は
たしかに知っていたし、使ったこともありそうなものばかりでした。
それほどスゴイ知識やテクニックではない。

けれど型として知ることで、それ以降は意図的に使いやすくなる。
「ここであのパターンを使ってみようかな」という発想が出てくる。
意識しながら使える選択肢が増えるわけです。

その部分の学びは色々とあったと感じています。


まぁ、一番の目的だった場数をこなすことに関しては
期待したほどの数にはならなかったような気はしますが。

やはり発話のスムーズさという観点からすると、僕のレベルの英語力では、
ある程度を事前に想定しておいて、その場で話を組み立て直す
というのは、いささか難度が高い感じがしました。

考えておいたことが抜けてしまいやすいんです。

それは多分、単純に発話した量が少ないから。

原稿を用意して原稿を読む、という必要はないにせよ、
原稿を用意するか、大体の流れを決めて、一度練習してみる
というのは重要そうです。

それだけで一回は発話したことのある内容になりますから
フレーズとして出てきやすくもなるでしょう。

日本語でのプレゼンテーションなら、普段から日本語を沢山使っていますから
発話慣れしていないために言葉が出てこない、ということは少ない。

けれど母国語でない言語でプレゼンテーションをするとなると
10分間の話をするとなったら、少なくともそれ以上の時間の練習がないと
土台となる発話経験が足りない気がしました。

おおよその流れを決めるだけでなく、流れに沿って練習をしておく。
それによってスムーズさが上がるんだろうと思われます。

独り言でもいいので、英語で話を組み立ててから話し続ける
というトレーニング量が必要だと実感しました。

その意味では、講座に出た甲斐はあったと思います。

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2017年03月13日

疲労の基準

仕事が立て込んでくると疲労が回復しきらない状態を感じることがあります。

そんな中、タイミングが合って睡眠時間を充分にとれると
体力が回復しているのを実感できます。

身体のハリや重みといった肉体の状態は決して良くありませんが
エネルギー的には元に戻ってくる感じです。


この感じは僕の記憶の中から、研究職時代のことを思い出させます。


研究職、とくに山口県で寮生活をしながら研究をしていたときは
慢性的に睡眠不足で多くの時間を実験に費やしていたものです。

研究所が工場の一角にあって、寮も同じく工場の敷地内にあったため
基本的な行動範囲は工場内となっていました。

朝は7時過ぎに出勤、夜は日をまたいで1時、2時ぐらいまで。
今思えば、もっと効率的にできた気もしますが、
他にすることもないので職場で色々とやっていたというところです。

とはいえ、ずっと職場にいるわけではありませんでした。
1時間の昼休みは、食事が寮に用意されるので
そのたびに寮まで自転車で戻ってきます。

そして食後は自分の部屋に戻り、30分弱の仮眠を取る。

夜も夕飯を食べに寮へ戻った後、1時間から90分ぐらい仮眠をとって
それから夜の作業をこなしていました。

夜の睡眠時間は3時間ちょっとでしたが、
正味の睡眠時間は5時間ぐらいは確保していたんだと思います。

それで毎日を乗り切り、とりたてて疲れを感じることもなく
まぁ、それなりに日々を過ごしていたようです。

もちろん眠気に襲われることもありました。
多くの人がそんな感じの様子になっていると
眠くなるのが毎日の生活のせいだとは思っていなかったんです。

暗い部屋で単調な研究発表を聞いていれば眠くもなるし、
単調なデータ入力をしていれば頭もボーっとしてくる。
そこに疑問を挟むことはありませんでした。


でも本当はいつも疲れていたようです。

若かったから、体力があったから大丈夫だった…
というのではなさそうなんです。

むしろ鈍感だっただけ。
慣れてしまっていただけ。

なぜなら、年末年始やお盆休み、ゴールデンウィークなどで
実家に戻ってくると、睡眠時間に影響が出ていたからです。

特に帰ってきて次の日、その次の日ぐらいまでは
もう泥のように眠っていました。

夜12時ぐらいに寝て、次の日の夕方ぐらいまで一度も目が覚めない。
そんなのが2日続いていたものです。

その後は徐々に睡眠時間が自然と減って、
それなりに休日の時間を過ごしていました。

そして一週間程度の休日の期間が終わると山口へと戻ります。

夕方ぐらいに寮に到着して、少しだけ研究所へ行って次の日の準備をする。
微生物実験の都合として準備の時間がかかるのも1つの理由でしたが、
自分の内面を研究モードに戻すためのウォーミングアップでもありました。

すると、です。

山口に戻ってきた最初の夜は、なかなか寝つけません。
眠くないんです。

次の日からは通常の生活サイクルに戻ります。
昼ごはんの後の仮眠も、夕飯の後の仮眠も
やはりあまり寝られません。
眠くない。

そして研究所での生活サイクルに馴染んでくる頃になると
仮眠が必須で、眠い目をこすりながら目覚める生活に変わります。


研究所で睡眠時間の短い生活をしている毎日では
「自分が眠い」ことにさえ、あまり気づいていなかったのでしょう。

疲労が溜まっていることだって自覚できていませんでした。

振り返って様子を比べてみると、
実家に戻ってきている間の状態と
山口の研究所にいる間の状態には違いがあったことに気づきます。

「いつも通りの体調」という基準値が違っていました。
「これが普通」という基準が別物だったわけです。

実家に戻ってきて休日を過ごしているときは
体力が回復している状態が普通。
研究所生活では疲れて寝不足なのが普通。

「普通」は慣れで設定される自覚です。
そこを疑わなくなる。

僕の場合、研究の仕事を続けていたときは
体力の平均値、つまり「いつも通りの体力」が低い状態で認識されて
そこに慣れてしまっていたために何も疑わなかった、
ということだったんでしょう。

低位安定の研究所生活では、そこからさらに疲れることは少なく、
物凄く睡眠時間の少ない無理をすれば反動は出ましたが
それでも反動は決して大きくなかったんです。

だから結構無理がきくと思っていました。

実際はあくまで「普通」の基準が低いところ(疲れた状態)にあったため
そこからの落ち込み幅が小さかっただけのこと。

自覚としては「そんなに疲れない」と思っていましたし、
頭がボーっとしたり、パフォーマンスが落ちたりすることも
ほとんどないと思っていました。

おそらく実態は、ベストな状態からは随分と低かったのでしょう。

でも低いところが「普通」になっていて、
そのことが分かっていなかっただけなんだと考えられます。


最近は、この「普通」の設定が変わってきていると感じます。

「普段通り」としての「普通」ではなく、
身体で感じられる今の状態がスッキリしているかどうか、
眠気やボーっとする感じ、身体の重さや不快感がないかどうか
といったところでコンディションをチェックしています。

その分、忙しくなってくると、疲れを体感として実感しやすくなっています。

疲労や睡眠不足を避けたい気持ちは以前よりも強まって
無理をしたくない思いは出てきやすいですが、
日々の集中力などは高めにキープされている気がします。

今、こういう状態、こういうコンディショニングを知っている状態で
もう一度研究職をやったら、前よりももっと効率的に
しかも高確率で研究成果を出せるのではないかとも想像します。

「普通の体調」をどうやって自覚するか。

この影響は大きいにもかかわらず
慢性的な疲労状態を「普通」としているケースは
世間でも意外と多いのかもしれません。

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2017年03月10日

コーヒーの味わい方

味覚の好みというのは、大部分が慣れによるところだと考えられます。

僕にとっての典型的な例はコーヒーです。

幼少期から、父が毎朝コーヒーを飲んでいたため
休日ともなると食卓にコーヒーが並ぶことが多かった記憶があります。

とはいえ子供ですから、やはり甘くないと飲めません。
コーヒー牛乳にして飲んでいたんです。

小学校の給食でも時々コーヒー牛乳が出ていましたし、
アイスクリームを食べるときにもコーヒー味もあったりして、
わりと小さいころからコーヒー風味には馴染みがあったようです。

コーヒー牛乳やコーヒー味アイスの、甘味と苦みが混ざった感じは
チョコレートに通じるものがあったんじゃないでしょうか。
子供でも楽しめる味だったようです。


それから中学校に入り、冬の塾の帰り道
暖かい缶コーヒーを飲むのが習慣になりました。

当時の缶コーヒーは基本的にすべて砂糖・クリーム入りでした。
まだブラックの缶コーヒーは発売されいなかったはずです。

いつも同じ自動販売機を使っていたわけではありませんから
種類の違う缶コーヒーを飲むこともありました。
それによって「コーヒーにも味の違いがある」ことを実感し、
様々な種類の違いを知ろうとするようになっていったようです。

そのあたりからコーヒー牛乳よりも、
コーヒーの味と香りが強いものを好むようになっていきます。

しかし依然として、缶コーヒーは砂糖・クリーム入りですから
「コーヒーといえば苦みと甘味のミックス」というイメージはそのまま。

我が家のコーヒーを飲む習慣も当然続いていて、
缶コーヒーからコーヒーに慣れてきた僕は
コーヒー牛乳よりもコーヒーの味が強いほうを好むようになりました。

ここで牛乳やコーヒークリームを加える習慣がなくなります。

父がコーヒーに砂糖だけを入れて飲むタイプだったため
僕も牛乳を入れずに、砂糖だけで飲むのを試してみたわけです。

この変化は意外とすんなり受け入れられました。

ミルクチョコレートとビターチョコレートの違いぐらいなものです。

チョコレートに関しては、ホワイトチョコを食べたときに
チョコレートに「あるべき」カカオの風味がないことへ衝撃を受け、
「甘味と苦みの組み合わせがチョコレートのはずなのに…」と
ホワイトチョコが好きになれなかったんです。

その対比があって余計に、チョコレートはビターなほうが
「ちゃんとチョコレートだ」と認識するようになったのでしょう。

ビターチョコレート好きだった僕としては、コーヒーにしても
砂糖だけ入れたときの「甘味と苦みの組み合わ」の感じが
おそらく受け入れやすかったんだと思われます。

それまでの慣れの部分と、父親がコーヒーに砂糖だけ入れていたことから
僕もコーヒーには砂糖だけを入れるようになっていったんです。


そして今も僕は、コーヒーに砂糖だけを入れて飲みます。
コーヒーを飲む頻度は高いですが、だいたい砂糖を入れます。

大人になって周りを見てみると実は、砂糖だけなのは少数派のようです。

ブラックの人が多く、ミルクだけの人も多く見かけます。
その次がミルクと砂糖の両方でしょうか。
砂糖だけが多分、一番の少数派のように見えます。

たぶん、ほかの人たちも慣れでそれを好むようになったと想像できます。

ブラックで飲むのは、お茶に近い捉えかたをしているんでしょうか。

お酒が好きになってくると甘くない飲み物に慣れてきて
苦みと香りを優先したブラックのほうに好みがシフトするのかもしれません。

僕もアメリカンや、それに近いぐらい薄めのコーヒーの場合は
ブラックで飲んでも楽しめます。

ですが普段はかなり濃いめにコーヒーを淹れて
砂糖を足して飲むことが大半です。

慣れの問題が大きそうです。


一方で、最近発見したのは、
僕のコーヒーの飲み方が砂糖入りに合わせて設定されていた
ということ。

コーヒーを口に入れてから、口の中な留めておく時間が長いんです。

特に舌の前側に置く傾向が強い。
味覚としてコーヒーをフルに感じようとしているようです。

それと比べると、かなりの人がコーヒーを早く飲み込みます。

試しに…と僕もやってみると
早く飲み込んでしまったほうが苦味や渋み、エグ味を感じにくく
むしろコーヒーの香りや後味を楽しめる気がしました。

これならブラックでも美味しく感じられます。

慣れによって味の好みのが生まれ、
その好みの体験を強めるような味わい方が身につき、
より好みがハッキリしてくる。
…そんな部分があるのかもしれません。

ブラックの楽しみ方も知った気がしますが
それでもやっぱり慣れ親しんだ砂糖入りを飲みそうです。

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2017年01月24日

飛行機の中で

先日、札幌に出張に行ったとき、帰りがけから雪が強まって
東京行きの飛行機が大幅に遅れる事態に巻き込まれました。

ちょうど一か月前に行ったときも記録的な大雪のタイミングで
多くの便が欠航になった日でしたから
二回続けてということになります。


前回はもう、大雪が続いている影響で
そもそも飛行機が新千歳空港にやってこれない
という状況も起こっていました。

そのため大部分が欠航。
新千歳空港に停まっている飛行機が飛ぶのも遅れが続いていました。

空港内は人でごった返し、
搭乗口で長時間待たなければいけない状況だったんです。

実際、僕が飛行機に乗り込んだのは確か夜11時半ぐらい。
羽田に着いたのは1時を回っていたと思います。

それでも待つ場所が空港内の搭乗口だったというのは
意外と逃げ場が多く、待つことそのもののストレスは小さかった気がします。
(もちろん欠航にならないかどうかは心配でしたが)


一方、今回は雪が強まったタイミングが遅く
事前から心配していたわけではありませんでした。

飛行機に登場するところまでは、ほぼ予定通り。
数十分の遅れはありましたが、まぁそれぐらいは良くある話です。

そして飛行機が滑走路に向かって移動。
時間がかかったのはここからでした。

滑走路付近で離陸待ちをしている間に雪がドンドン強くなり、
前の飛行機の順番待ちが長引きました。

すると、機体や羽にかける融雪剤の効果時間を越えたとかで
もう一度、発着所まで戻ることに。

そのあたりから時間がかかり始め、
滑走路の除雪が追いつかないだとか、燃料補給がどうとか、
色々な理由で飛行機の中で缶詰状態のまま4時間。

こうなると乗客の苛立ちが増してきます。

狭い空間にいることのストレスや、
何もすることができない不満、
一向に進展が見られない状況、
もしかしたら欠航になって飛行機から降ろされるかもしれない可能性、
羽田での乗り継ぎに間に合わないとクレームをいう人、
耐えきれずグズり出す子供…、
徐々に苛立ちが増幅されていったようでした。


同じぐらいの時間を待合室で過ごしていた前回は
ここまでの苛立ちは出ていなかった気がします。

前回は空港到着前から大雪で
遅延に対して心の準備ができていたのが1つでしょう。

そして飛行機の中は制限が多い。
自由にできない感じ、束縛された感じもまた
不満を高めたと思われます。

心の準備というのも、いわば
自ら諦めることで自分のコントロール感を高める行為
と捉えることもできそうです。

いかに人が、コントロールを奪われることに対して
大きな不満を抱くかを実感する出来事でした。

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2017年01月18日

足の指のそりかえり

大した話ではないんですが、
もうすっかり足の指が地面に着くようになりました。

以前は立っていてもイスに座っていても、
地面につけた足の指が少し浮いていたんです。

足の指の付け根あたりに重心をかけて
足の裏全体が接地しないようにしていた感じ。


書いていて思い出しましたが、そういえば
小さい頃、親から「偏平足だ」と言われ
それでは良くないという思い込みを持っていた記憶があります。

足の指の付け根あたりと踵だけを地面につける感じにすると
足に緊張感が生まれてアーチが強くなります。
足裏全体がベタっと地面に着くような偏平足ではなくなるだろう、と。

小さいながらにそんな工夫をしていたのかもしれません。


それからもう1つ。

幼稚園とか、もっと小さい頃、どういう理由か分かりませんが
僕は足を泥まみれ、砂まみれにして家に帰ってきていた記憶があります。

砂場で遊んだのか、公園を裸足で駆け回っていたのか…
ともかく家に帰ってきたときに足が汚れていた日がありました。

そうすると母は、家の中が汚れるといって嫌がり
玄関先の水道で足を洗うか、雑巾で拭くか、風呂場に直行するか、
とにかく足を綺麗にする必要がありました。

決して嫌々やっていたわけではなく、何も疑わず
むしろ母を喜ばせようというぐらいの童心から
無邪気に足を洗っていたのを覚えています。

で、冬になると流石に外の水で足を洗うのは嫌。
お湯で足を洗うために、風呂場に直行するときも多かった気がします。

雑巾が毎日用意されているわけではなかったですから
汚れた足で廊下を通って風呂場に行くときが多々あったんです。

このとき、廊下を汚さない精一杯の努力として
足の接地面を減らすようにして歩いていたのを思い出します。
(結局あとから雑巾がけをしていたんですけれど)

踵しかつかないように爪先を上げるとか、
爪先立ちで背伸びをするようにしながら、かつ足の指先も上げるとか。

まさに足の指の付け根部分だけで地面に接していた状態です。


偏平足対策や汚れた足を地面につかない対策が
どれだけ癖になっていたのかは分かりませんが、
少なくとも僕の以前の足は、そのときの状態と似ていました。

別に怒られてやっていたことではないんです。
むしろ善意からやっていたつもりでした。

「幼少期のトラウマ体験が身体に残っていた」なんていう
大それた話ではないかもしれません。

しかし僕の中にあった他者(とくに幼少期は親がメイン)への気遣いは
迷惑をかけないようにする形で色々と身体を緊張させていたように感じます。

自分が力を入れて踏ん張ることで他人に負担をかけない。
そういう発想がベースにあった気がします。

足の指の緊張感は、その一部だったのでしょうけれど
1つの象徴的な部分でしょう。


心身の色々な取り組みを通じて
徐々にそういった緊張感が取れてきたようです。

足の指で地面を掴む感じ、
足全体で地面を押している感触、
足に体重がかかっている印象…、
いずれも以前はなかった体験です。

なんとなく、以前は地球にさえ遠慮をしていたような気もします。
自分の重さを地球に預けることさえ控えて
足を地面につけないように、重心位置を上げるようにしていたような。

そんな子供心の無邪気で無知な心身の癖が
大人になっても沢山残ってるものなのかもしれません。

別に問題でなければ気にしなくてもいいとはいえ、
必要のないことをしている側面もある。

僕はそういうのを整えていく方向性みたいです。

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2017年01月05日

今年は…

2016年の末に、数年間レッスンを受け続けてきた英会話の先生が
退職することになりました。

まぁ、何かを習うというよりは、スピーキングのトレーニングとして
とにかく発話に慣れるのが事実上の目的だったと思います。

自分が考えとして持っている頭の中の情報の繋がりを
英語という言語と結びつけていく作業が中心でした。

ボキャブラリーや表現の範囲を含めて、
自分に親しみのある分野のほうがスムーズに話せる。
これは外国語でも母国語でも同じようです。

ですから外国語学習において、話し慣れた分野を作っておくのが
会話をスムーズにしてくれる効果的な手段だと考えられます。

その意味で、その先生のレッスンは会話のトピックが幅広く、
しかも僕の興味に合った範囲で話を弾ませることができたので
とても有意義な時間だったんです。

科学的な観点でも、芸術的な観点でも、哲学的なところまで
かなり深く考えをアウトプットさせてもらえました。

年齢のこともあり、余生を考えて辞めることにしたそうです。


とはいえ、僕が英会話をやめるわけではありません。
英語を使う時間は欲しい。

マンツーマンの英会話スクールなので他にも先生はいます。

同じような会話ができる先生は滅多にいないでしょうから
今後レッスンを受ける先生を選ぶ基準は別のところになると思います。

テスト対策なんかも興味はありますが、テストを受けるタイミングが合いません。
(だいたいのテストは週末に行われているのでセミナーと重なってしまう)

文法を復習したり、スピーキングの際の正確さを意識したりも良さそうですが、
この辺の基準を満たす英会話講師となると、そちらも限られるはずです。

今のところ、無難な範囲としてイギリス発音に慣れる目的で
イギリス人の先生を選ぼうかと考えています。

今までの先生はアメリカ人で、ペーシングをしながら話していると
ついアメリカ発音とイギリス発音が混ぜこぜになってしまうことがありました。

だいぶイギリス発音に慣れてきたところなので
定着させるにはイギリス人講師だけを選ぶのも良いような気がしています。

英語のトレーニングは続けていくことになると思いますが
特定の目標があるわけではないですし、
一生懸命にボキャブラリーを増やそうというつもりもありません。

その時その場で興味があることと、活用できる環境とを加味して
流れに任せるような形になるんでしょう。


思い返してみると、いつの頃からかこうやって
ハッキリした目標を立てなくなってきたようです。

英会話に行けば1月頃だと、たいてい「新年の誓い」について質問されます。
年の初めに一年の目標を立てるのは、欧米文化の1つみたいです。

そういうときに改めて意識させられます。
あまり方向性を設定していないんだ、と。

予定として設定しているものはあります。
もちろん予定が変更になることもありますから
あくまで「やるつもりのこと」です。

「やりたいこと」という意味での目標と
実情はそれほど変わらないような気もします。

予定が変更になるのと、目標を達成できないのも
中身としては似たようなものでしょう。

捉え方が違うだけかもしれません。

長期的な目標に関しても、「こうなりたい」と方向性を設定するよりは
「なんか、こっちのほうに進んでいきそうだな」と予想している感じです。

例えば英語についてなら、イギリス発音への興味が続いていますし
トレーニングをする環境が限られていることから、
「海外のコーチにスカイプレッスンを受けてみようかな」
という気持ちが湧き始めていることを自覚しています。

これが大きくなっていきそうな予想をしているので、
今年はどこかで、そんなスカイプレッスンを始めるかもしれません。

ただ、そのスカイプレッスンは「やりたいこと」というほど強くもないし
頑張ってチャレンジするような「新年の誓い」や「目標」でもないんです。

ヤル気が大きくなったら、そのときにやる。
現状は、そのヤル気が大きくなりそうな予感を持っているけれど、
今は始めるタイミングでもなさそうに感じている。
だからやっていない。

そんな風に、流れに身をゆだねるような雰囲気が高まっているみたいです。


なので、長くレッスンをとってきた英会話の先生が退職したのは残念でしたが
方向性の変化という意味で受けるショックはありませんでした。

単純に寂しいだけ。
深い話をする相手がいなくなって寂しいだけ。

友人に会えなくなるのは寂しいけれど、そういうものでしょう。
避けられないものについては事前に覚悟をしています。

何が起きるか分からないことについては
気楽に流れへ委ねるスタイルになっていました。

かといって何もヤル気がないわけではないんです。
目の前に楽しみなことがやってくればヤル気は高まります。
方向性を決めて、そっちに向かって頑張ることが減ったという話です。

目標に向けてガムシャラに頑張るのも懐かしいですが、
先に何が起こるのかを楽しみにしておくのも悪くないと感じています。

ということで、ここに今年の目標を書くことはできませんが、少なくとも
年末に一年を振り返って感想を書くことにはなるでしょう。

それが多分、一番確実性の高い予想だと思います。

cozyharada at 23:00|Permalinkclip!

2016年12月06日

都会のヤモリ

先日の出張帰り、最寄駅から雨の中を歩いていたところ
地面にヤモリがいました。

指がプックリしていて、なかなか可愛らしかったです。

セミナーで人の内面にばかり注意を向けて
色々な匂いが入り混じった新幹線でグッタリした後だったので、
人間以外の動物がなんとも穏やかに見えたものです。

都会のアスファルトの上を歩くのは、一般的なヤモリの生態からすれば
あまり望ましい環境とはいえないのかもしれません。

それでも不平不満とは無関係に、ただ偶然めぐりあったその環境で
ただ生きているヤモリの姿には、世間一般の人間とは違った魅力を感じます。

目標や夢を抱いたり、問題を解決したり、自己成長したり…と
置かれた状況を打破しようとするスタンスが多い世の中だからこそ、
その場所で生きるだけのヤモリに、多少の憧れも抱いてしまうのかもしれません。

ヤモリ

cozyharada at 23:11|Permalinkclip!
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【日時】 2017年4月23日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
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    JR上中里駅より7分
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    南北線西ヶ原駅より7分


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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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