心理学

2018年06月22日

感情表出のパターン

心理学の用語で「Display Rules」というのがあります。
感情の表し方について文化的に共有されているルールのことです。

日本の心理学では「表示規則」とかと訳されるようですが、
直観的にイメージしやすい訳ではなさそうに感じます。

「感情表出ルール」ぐらいに捉えると良いんじゃないでしょうか。


心理学の分野でも、感情表出のパターンが
文化によって異なるということを認めているわけです。

とはいえ、大雑把に「西洋と東洋では違う」といった感じですが。

もしかすると個別の詳細な研究として、同じ西洋文化圏や
東洋文化圏の中でも違いを見ている研究もあるかもしれません。

それでも心理学の中心はアメリカといえるでしょうから
アメリカ人から見た観点に寄ってしまうのは仕方がないんでしょう。

日本人からすると、日本と韓国と中国は全く別物に思えたとしても
西洋の人からすると区別がつかないことが多いらしいです。

フランス人もそう言っていました。
日本に来る前は区別がつかなかった、と。
見慣れてきたら見た目で判別できるようになったとのことです。

さらにアジアには東南アジア、南アジアなど多くの国が含まれます。
そちらにもやはり違いはあるでしょう。

もちろん「西洋」という範囲でも、違いはあるはずです。

アメリカとイギリスを同じ範疇に入れるのは僕には違和感がありますし、
ヨーロッパの中でも地中海系の暖かい地域と
東欧寄りの寒い地域でも、コミュニケーションのパターンには
大きな違いが見てとれるように思います。

アメリカの大学が中心となって論文を発表している状況では
東洋、西洋の内側にある細かな違いまでは
それほど重視されなくなってしまうのかもしれません。

ざっくり言ってしまえば、
 アメリカ人からすると、高頻度で出会う東アジア系の人たちは
 感情の表し方が、アメリカのものとは違って見える
という話です。


具体的には、その違いを一言で表すなら
「アジア人は感情を抑えてコントロールする傾向がある」
といった感じです。

アメリカ人のほうが抑え込まずに、ストレートに表現する、と。

表現するといえば聞こえが良いですが、
コントロールせずに「そのまま出てしまう」
とも言い換えられそうです。

僕は日本以外のアジア文化を詳しく知らないので、
街中で見かける中国人観光客や日本在住のアジア人しか
判断材料となるものがありません。

その範囲からすると、中国人は日本人よりもずっと
感情が大きく表れたコミュニケーションをしているように見えます。
声のトーンにも、表情にも、しぐさにも、大きく感情が反映されます。

が、心理学の知見として言われている「Display Rules」は
文化的に決まっている感情表現のルールのことなので、
ポイントは「どんな状況で、どのように表すべきか」になります。

なので「感情が出たときに大きく表れるかどうか」よりも
「いつ、どこで、感情を出してもいいのか」
「どういう場面では感情を出さないようにコントロールするのか」
が重視されると考えられます。

その意味で観察すると、確かに街中の移動中や買い物の最中に
家族や友人と感情を大きく表しながら過ごしている中国人も、
コンビニの店員をやっているときは無表情に近くは見えます。

僕の目からすると声のトーンや動作、些細な表情の変化に
面倒臭そうな気持ちや、楽しくない感情が見てとれますが、
それらの表し方は決してストレートではありません。

一応、職業人として我慢してコントロールしようとはしています。

あくまで日本人よりも非言語メッセージに感情が出やすいだけで
出ないように心がけている様子そのものはあるといえます。

まぁ、心理学で感情を捉えるときには、
微妙な非言語メッセージの「変化量」ではなく、
大きく変わった典型的な特徴をもとにしていますから、
日本人店員よりもヤル気がなさそうに見える中国人店員も
心理学の範疇ではあまり区別しないのかもしれません。

とにかく感情を「大きく」出さないように心掛けること、
そのコントロールがなされるかどうかが重要な違いだ、ということです。

日本人が感情をコントロールする場面と
他のアジア各国の人たちがコントロールする場面では、
おそらく文化的に違いがあるんでしょう。

そのため日本文化しか知らない僕からすると
「(日本では)こういう場面では感情をコントロールするのが標準」
と判断する状況でも、他のアジア人は
感情をコントロールしているように見えないんだと思われます。

裏を返すと、僕が気づいていない状況で
感情をコントロールしている場面がある可能性もある、と。

「いつ、どこで、どのぐらいコントロールすべき」とされているかは
各文化によって決まった『ルール』だと言えるでしょうが、
アジア圏にはそれぞれのルールで「コントロールすべき状況」が
かなり多く見てとれる、という話なんでしょう。

その点、西洋文化のほうが、東洋文化にありがちな
「皆と同じように感情を抑えるべき場面」というルールが少ない。

ゼロではないはずですが、西洋には少ない。
東洋よりも少ない。

そんな結論なんだろうと思います。


感情表出のルールがハッキリしない場面は
日本文化の中でもあると考えられます。

例えば、家族の中。
あるいは恋愛関係。
赤の他人でも揉め事が起こったとき。

こういうときは感情が強く生まれがちです。

感情を駆り立てられる出来事があったとき、
それをどうやって扱うかが人それぞれ違います。

大声で怒りを出す人もいれば、
泣いて場を収めようとする人も、
すねながら相手を攻撃する人も、
グッと我慢して耐える人も、
八つ当たりして不満を撒き散らす人もいます。

言い換えると、ハッキリしたルールがないわけです。

逆に、例えばデパートの店員だったりすると(日本では)
理不尽なクレームを言われたとしても
冷静で丁寧な対応をする必要があります。

内心ではハラワタが煮えくり返っていたり、
クレーマーに対して軽蔑心が生まれていたり、
恐怖心に激しく取り乱していたりしたとしても、
表面上は冷静を繕って、丁寧な対応をすることが求められる。

こういう場面はルールがハッキリしているといえます。

電車の中で隣の人のイヤホンの音が気になっても、
ガムをかむ音が気になっても、匂いが嫌だったとしても、
あまり思いっきり不満を表現することはないでしょう。

我慢するほうが基本で、精一杯の抵抗として
不満を少し態度に表すぐらいなものだと思われます。

公共の場でもやはり、感情を抑えるルールがあるわけです。

感情表出についてのルールも、
暗黙のルールとして共有されている以上は
自覚されやすい、気づきやすいものです。

一方、ルールがない場面のほうでは
ルールが存在していないことには気づきにくい。

自分の文化ではルールがない状況に遭遇したとき、
ルールを意識しようとする発想そのものが出てきにくいんです。

だから知らないルールがあったとしても見つけることが難しい。

外国からの観光客が日本のルールに気づけないとしても
それはある程度、当然のことだと言えるのかもしれません。
本人たちの文化ではルールが存在しない状況だったとしたら
ルールを探そうとさえできないわけですから。

同じことは僕にも起きている可能性があります。

外国で知らないうちにやってはいけないことをしているかも…。

知らないルールを教えてもらえれば手っ取り早いですが、
そうでないとしたら
「今、何かルールは存在していないだろうか?
 あるとしたら、どんなルールだろうか?」
と気をつけるぐらいしかできないような気がします。

他者を尊重するのだとしたら、その人の文化のルールを
知らないうちに踏みにじらないように心掛けたいものだと感じています。

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2018年06月20日

心身両面でリフレッシュする

混雑したジムを避けるために2時半ごろに行ってみました。

到着した時点では他の利用者は一人だけ。

しばらくしてその人も帰宅して、それでも30分ぐらいでしょうか、
すぐにまた別の人がやってきました。

僕のジムの使用目的は、主に
固まった部分を動かすためのマシントレーニングと
全身の血行を高めるための有酸素運動です。

トレーニングマシンは各1台ずつしかないですが、
他の人が一人、二人であれば、それなりに気楽に使えます。

ですが、有酸素運動としてやっているエアロバイクは
二台しかありません。
トレッドミルは5台ぐらいあるのに。

なので同じ時間帯に来ている人がもう一人エアロバイクをやると
自動的に隣同士にならないといけないんです。

それなりの敷地内ですぐ隣で過ごす。
それもチョット変な感じ。

そしてそれ以上に、隣の人の運動のリズムや
呼吸音、心拍数、発熱などを横から感じながら過ごすのは
自分が運動するにあたって違和感を生みます。

自分の身体とは違うものがノイズに感じられるというか、
ホテルで隣の部屋からイビキが聞こえてくるのに似ています。

あるいは出先のトイレで隣同士になる感じ。

気が張ってしまうような、気になってしまうような、
とにかくリラックスできない状態になります。


また、街中で歩いている人たちを見てもらえれば分かると思いますが、
赤の他人でも近くを歩いている人同士は
歩行のリズムが一致してくることが多いんです。

むしろ隣の人と別のリズムで歩く方が難しいぐらいでしょう。
よほど頑張って崩そうとしない限り、足並みは近づいてきます。

ある程度、動物の性質として、あるいは物体の性質として
近くのものの振動に同期してくるところがあるのかもしれません。

同様に、ジムでエアロバイクを隣同士でこいでいれば
ペダルを回すスピードも似通ってくるようです。

そういう状況だと、僕はマシンのスピード計を頼りに
自分のペースを維持しようと心がけます。

すると隣の人が僕と同じようなスピードになってきます。
漕ぎ始めよりもスピードが上がっているのが見て取れるんです。
デジタルのスピードメーターで。

その人がどれぐらい自覚して普段より早く漕いでいるのか分かりませんが
随分と息を切らしているところを見ると、
「今日はいつもより頑張った」みたいな印象で
トレーニングを終えるのではないかと想像します。

で、僕の側からすると、自分のペースを保っているとはいえ
隣の人が僕と同じリズムになってきているのが妙に気持ち悪いんです。

赤の他人なのに、という認識があるからでしょうか。
仲がいいわけでもないのに、同じリズムで隣同士で運動している。
そのことが奇妙な不一致感を作り出すようです。

あるいは、運動のリズムは同じでも、呼吸音や発熱などは
僕のものとは違うのが届いてきますから、運動のリズムが合っている分、
そちらの違和感が際立つということもあるかもしれません。


そういうわけで、エアロバイクを隣同士でやるのは
僕にとって好ましくないみたいなんです。

先日はせっかく深夜に行ったのに、
3時ごろにやってきた人がエアロバイク目的の人だったようで、
しばらく隣同士で過ごさなくてはならくなりました。

途中までやっていたので我慢して予定時間分やりましたが
やはり一人でやっているときとは終わった後の状態が違いました。

リフレッシュされる感じがずっと小さかったんです。

もしその人が定期的に同じ時間にエアロバイク目的で来るなら
僕が時間を調整する必要がありそうです。


実際、帰宅した後も、今一つスッキリした感じがなかったので
心の面からリセットしたくなってきました。

そういうときは瞑想や、イメージワークをするようにしています。

とりわけ瞑想をして内側に意識を戻していくと
先ほどまで気になってしまっていた隣の人のことが
頻繁に頭に浮かんでくるのが分かりました。

物凄く意識の前面で気にかけていたわけではなくても
心の一部として引っかかり続けていたようです。

自覚としては忘れているつもりでも、心の中に少し引っかかっていて
心の一部を特定の記憶が占拠し続けることがあるんでしょう。

こういうのはむしろ運動では取り除けないみたいです。
まして僕の場合、運動中に引っかかってしまった内容ですから。

静かに瞑想をして過ごし、その感じが自然と消えるまで待ちました。
しばらくすると意識に上がってこなくなります。

おそらくそうなったら余計なイメージとして
心の中を占拠することはなくなるんじゃないかと感じられます。

誰か他人に意識を向けて、その人に関しての記憶やイメージが
ずっと心の中に残り続けているような状態は、
十分にリラックスして「元に戻った」とは言えないのでしょう。

心身の両面からリセットするような心がけをしていきたいと思います。


…ジムの混雑を避けられない場合には、それが欠かせない気がします。

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2018年06月14日

社会のプレッシャーが違う

少しでも日本を離れてみると気づくのが
 日本人は我慢をする傾向がある
ということです。

文化的に共有されていることだろうと考えられますが、
社会に適応するために求められる重要な要素なんでしょう。

裏を返すと、アメリカ人なんかは我慢の程度が小さく見えます。

我慢が小さいから体がリラックスしている。
筋肉に力を込めて堪えることをしていないようなんです。

日本人から見たらルーズだとも言えるかもしれません。


サービス業の人のコミュニケーションにおいても
気さくで自然体に近いことをするように見えますし、
顧客の側もサービスの質に対して大きな期待をしていないようです。

日本のサービスや商品は基本的に、常に完璧に近いことが求められ
少しでも不具合や不快なことがあれば問題として対処されます。

アメリカではサービス業の人に対しても寛容なようで、
鼻歌交じりで働いている人がいても誰も文句を言っていませんでした。

公共の場所でゴミが散らかっていても許容範囲があるみたいですし、
客の荷物を足で扱っても当然のように過ぎていきます。

商品のパッケージも薄っぺらくて破れそうだったり、
逆にビニールのものは固くて千切れなかったり。

いかに日本の製品やサービスが、細かいところまで配慮して
快適に使いやすく、そして礼儀正しくしているかがうかがえます。

どんな形であれ日本で働いていたら、最終的に
商品やサービスが完璧に近いものとして求められるわけなので
仕事の質としても量としてもハードなものとなって、
組織内の人間関係も高い要求水準を満たすようにピリピリしがちでしょう。

働く側、商品・サービスの提供者の立場としては
過度に求められることに応えるのに必死で
常に無理を強いられた状態になっている。


私人に戻ったときにも、公共の場では
ルールやマナーを守ることが重視されます。

人に迷惑をかけないためのルールやマナーがあり、
守っていない人は目の敵にされたり、白い目で見られたりします。

他人から疎外されることを気にしなければ
そんなルールやマナーに過敏になることなく過ごせるのでしょうが、
多くの人は小さいころから集団の中に溶け込むことを教育されていて
コミュニティから拒絶されることに恐れを感じます。

その意味で周囲のプレッシャーに対しては従う傾向が強いはずです。

もちろんアメリカを中心とした西洋の心理学の研究においても、
集団の暗黙のルールに従おうとする傾向は知られています。

が、ルールそのものの要求の強さや、ルールの量の多さ、
ルールに従わないことへの罰則的なプレッシャーの強さなど、
集団の圧力は日本のほうが高そうに思えます。

つまり、仕事をするうえでも過剰な期待に応えなければならず、
私人として公共の場に身を置くときにも
社会のルールや暗黙の常識やマナーなどに従わないといけない、と。

同時に、それが裏を返すと
私人としてサービス利用者・顧客側になって
サービスや商品の質に対して高い要求をすることになり、
また公の一部としてルールに目を光らせる側になって
非常識な人を罰するように他人の行動に対して厳しくもなる。

そこには「自分ばかり他人の要求に応えて、
正しいことをしているのは不公平だ」といった
不満の感情もあるのかもしれません。


アメリカ人と話したところ、アメリカでもやはり
「アメリカ人になる」必要はあると言っていました。
そういうプレッシャーはある、と。

内向的な人は、明るく社交的な振る舞いをするのは苦痛だといいます。

しかし日本人として、他者の期待に応え、ルールを守り
集団から疎外されないように頑張って社会生活を成立させるのと同様に、
アメリカ人は、明るい社交性で社会を成立させています。

日本ほど高くない商品・サービスへの期待は
質が高くなくても文句を言わない態度に表れますし、
自分が仕事をするうえでも
過度な完璧さを求められない気楽さに繋がります。

お互いに「まぁ、これぐらいで」といって許容している範囲がある。

公共の場においても、他人に迷惑をかけないためのルールはさほど多くなく
人それぞれが自分の快適なやり方でいられるように干渉しない。

当然、好みの違いで受け入れがたい事態が起こる関係性もあるでしょう。

だからこそ明るく社交的なコミュニケーションをしておくことで
先に親しい間柄という前提を作り、敵意が起こりにくくしているといえます。

個人の自由を尊重しながら、かつ衝突しないための工夫が
「仲良くなってしまう」ということだろうと考えられます。
親しいからこそ許容できることが増える、と。

そういう意味で、フレンドリーな関わり方をするのは
アメリカ社会を成立させるうえで文化的に重要な要素であって、
それは文化から自動的に要求されている
 身につけなければいけないアメリカ人らしさ
の1つだと捉えられます。

日本とは違ったやり方ですが、
社会から求められて身につけなければいけないことは
アメリカにだってあるわけです。

ただ、そのプレッシャーの強さが違う。
そのプレッシャーに耐えている度合いも違うはずです。

フレンドリーにさえしておけば、あとは自由に気楽に過ごせるアメリカと
常に高い要求と周囲の圧力を気にしながら
自分も他人に対して厳しい目を光らせる日本とでは、
日々の生活の中で力を抜いていられる度合いは別物でしょう。

これは日本国内で海外から来た人と接していても感じます。
日本に住むために日本文化に合わせてはいても、
身に着けてきた土台のリラックス感は残っているようです。

同じアメリカでも、そのリラックスの度合いには地域差もあると思います。

ニューヨークのほうが日本に近いプレッシャーがあるかもしれません。
カリフォルニアとかハワイとかは、もっとリラックスしていそうです。

あれだけ気を抜いていて、人の目も気にせず、体に力を入れないで
自分の要求に従っていたら、アメリカの食文化の中では
肥満が多くなったって当然だと感じました。

日本はその点、社会としてのプレッシャーが強く
それに我慢しながら生きていないといけない。

ストレスが体に表れる度合いが大きくても当然なのかもしれません。

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2018年05月31日

帰ってきました

この間の火曜日、日本に到着しました。

メインの目的は瞑想の修行で、そちらは丸一週間だったんですが
そのあとでサンディエゴまで足を延ばしてきたので
比較的長めの滞在となりました。


瞑想をしてきた場所は大きな湖まで歩いて30分ぐらいのところで、
山奥ではないですが、山の中にあるとは言えそうな場所です。

標高は1900mほど。
スキーでは有名な場所なんだとか。

気温は当然、標高が高い分だけ下がりますが
今年は思ったほど寒くはありませんでした。
建物の中にいる分には不自由はありません。

周りを針葉樹林に囲まれています。
木の高さに歴史と山奥の雰囲気を感じます。

基本的には杉と松が入り混ざっているようでした。

杉は日本の印象と大差ないものの、松は種類が違うのか
ビックリするほど真っすぐに高く育っています。

遠目だと杉と松の区別がつかないぐらいの生え方。
枝が下向きなのが杉で、枝が上向きだと松…そんな区別でしょうか。
もちろん葉っぱの形も違いますが。

当然かもしれませんが、松が大きくなれば
松ぼっくりも大きくなるようです。

Tahoe2

























比較のためにペットボトルと並べてみました。
ペットボトルより大きな松ぼっくりが大量に落っこちていました。

アメリカ大陸の自然の雄大さを感じるところです。


到着初日はチェックインとガイダンスぐらいだったんですが、
今年は早めに現地入りしたので、チェックインまでの間
近所を歩いてみることにしました。

といっても林の間の道を歩くだけのことです。

RNO


























日差しは暖かめではあっても気温は20度ないぐらいでしたから
気楽に散歩をしてしまったんですが、これが少し失敗。

よもやあんなに紫外線が強かったとは。

1時間半ほど歩いただけにもかかわらず、
3日目の朝ぐらいからオデコの皮膚が剥け始めました。

明らかに日焼けによる皮のはがれ方です。

こんな露骨な日焼けは子供の頃以来じゃないかと思います。

オデコの皮膚が入れ替わる頃には頭頂部の皮も剥けてきて
数日間は頭から皮がポロポロと剥がれ落ちる状態になっていました。

その状態だとチョットした日差しも頭にヒリヒリとした刺激になり
宿舎からホールまでの徒歩移動の間、頭を抱えないといけないほど。

まぁ、瞑想の期間中は口を聞いてはいけないルールなので
誰からもそのことを指摘されはしませんでしたが。

日本とは違うんですね。

同じぐらいの太陽の明るさでも、
空気の質が違うと紫外線の届く量が異なってくるようです。

乾燥していると大気中に紫外線を散乱させる水分が少ないので
おそらく、そのために紫外線が地面まで届きやすくなるんでしょう。

また空気がキレイなのも紫外線の散逸を減らすはずです。

標高が高いのも太陽に近づく分、日差しを強くしているかもしれません。

澄んで乾いた清々しい空気だからこそ、
紫外線も強くなるということでしょうか。

それでもアメリカ人は日光浴が好きなので
テラスのようなところでサングラスをかけながら
日に当たっている姿をよく見かけました。

メラニンの少ない人たちですが、
火傷みたいにはならないのか気になります。

「日光浴は体にいい」というシンプルなビリーフがあるみたいです。

「朝のフルーツは体にいい」とか
「フレッシュジュースを飲んでおけば野菜の代わりになる」とか
健康に関しての考え方は随分と単純化されている印象は受けます。

ともかく、環境も考え方も含めて
色々な違いを感じられるのも面白いものです。

ヨーロッパとも違うようですし。

自分の常識を見直すにも、普段と違う環境に行ってみるのは良さそうです。

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2018年05月16日

不在のお知らせ

5/17から5/29までアメリカに行ってきます。

帰国は29の夕方です。
その間、連絡がつきにくくなるかと思いますが、
御用のある方は、なにとぞご了承ください。

とくに18日-25の間は通信ができない状態になります。

メールやお問い合わせをいただいても
お返事までお時間を要するかと思います。

25以降は時折メール確認も可能になる見込みです。

通常あまり急なお問い合わせを受けることはありませんが
念のためご連絡まで。

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2018年05月15日

一年ぶりの渡米

去年参加した坐禅(瞑想?)の集まりに
今年も行ってきます。

何かが得られるわけではないでしょうし
何かをまなぶわけでもありません。

ただのプラクティス。
修証一等ということで。


昨年は初めての参加でしたし
アメリカ自体が10年以上ぶりだったので
なんとなく特別な感じもありましたが、
今回は淡々としています。

これがレギュラーのイベントになるかは分かりませんが
なんとなく昔を思い出します。

毎年、夏に箱根のワークショップに参加して
温泉で宿泊しながら、ひたすら個人ワークをやるもの。

年に一度ぐらい、しっかりと自分に向き合うというのも
味わい深いものだなぁと感じます。


ちなみに今年のアメリカ西海岸は涼しいみたいで
20度台前半みたいです。

去年は5月でも30度以上ありましたから
寒さ対策が必要そうです。

ちなみに山の上は、夜に0度ぐらいまで下がるとか。

そこまで含めて非日常の時間になるのかもしれません。

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2018年05月06日

ゴールデンウィーク

ゴールデンウィークの間、僕も仕事が少なくて
世間と同じタイミングで休暇をとっていました。

今年も5月後半にアメリカへ行ってくる予定なので
その準備を色々としていました。

何かを買いに出かけたりすると
街中には大勢の人が溢れていて、
賑やかな人の雰囲気に圧倒されるようでした。

普段、週末にセミナーが入って
平日に休むことが多い僕としては
久しぶりの体験に感じられました。

周りのテンションが高くて、
個人的には気が休まらない時間。

少し買い物をするだけで、ドッと疲れた感じでした。

街中の人たちは疲れないんでしょうか?
せっかくの連休なのに普段よりも疲労が溜まりそうでしたが。

それよりも気分をポジティブな方向に上げておくのが
日頃のストレスから離れる意味で大事なのかもしれません。

日常とのギャップの大きさに
考えさせられることが大きい期間になりました。

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2018年04月30日

アウトプットの方向性

だいぶ僕の中で考えが定まってきた感じがします。
どういう形で心やコミュニケーションに取り組んでいくのか、について。


世の中には、紹介が上手い人たちがいます。
身近ですぐに使えて、ちょっと工夫できる技術を
本や大人数向けのセミナーで発信して、
学んだ人たちが自分で工夫して役立ててもらうスタンス。

具体的に何を言うか、何を質問するかといった
コミュニケーションの技法のみではなく、
悩みが楽になる考え方とか、目標達成しやすい考え方とか、
自分の心の中についての情報も扱われます。

「どうすればできるか?」と悩むほど高度な話ではないので、
その方法を知った人たちは使えそうな場面で使ってみて
効果を自ら試していくような形になると思われます。

もちろん学んだ人の中には「へぇー」と思って知識を増やしたものの
実際に使うことはない、という人もいることでしょう。

それでも知的欲求は満たせていますし、
そういう風に「知る」だけが目的の情報提供も沢山あります。
経済や歴史、宗教、芸術や科学の本を読んでも「教養」が目的で
それを実践するわけではない、というのも自然な話です。

コミュニケーション技法や心の分野においても
教養としてインプットされることもあるだろう、と。

そして場合によっては、「もっと深く知りたい」と興味を広げ、
より専門的な本を読んだり、高度な内容のセミナーに行ったり、
技術としてトレーニングを受け始めたりすることもあります。

このケースだと、実践や研究の入り口になっているといえそうです。

喩えるなら山についての本やテレビ番組のような感じでしょうか。
山の魅力や、山の現実、山登りの方法や準備・注意事項などを伝える。
それを一般教養として「登山とはこういうものだ」と知りたい人もいれば
ここがキッカケとなって山登りに出かけ始める人もいる、と。


また別の発信のパターンとしては「啓蒙」の形が見受けられます。

これは山の喩えでいうと、山の魅力を伝えることにも通じますが、
プラスアルファのメリットとして魅力を伝えるだけではなく、
むしろ山登りをしないことのデメリットとして必要性さえ説く感じです。

教養や入門としての情報発信は、必ずしも
その道に引き込もうとはしていません。
あくまで「こういうのがありますよ。こういうものですよ。」と
紹介をしているだけのことです。

少し興味を持った人たちが探して、その情報を見つけたときに、
引き続き「あぁ、これは面白そうだ」と興味をかきたてられるか、
それとも「へぇ、そういうことだったのか」と納得されて終わるか、
あるいは「なんだ、こんなものか」と興味を失わせることになるのか、
その結果については求めていない傾向があります。

それに対して「啓蒙」の場合には、
その先の道に進んでもらうことが目的となります。

当然、目的が果たせず、興味を持ってもらえないこともありますし
どれぐらい強引に引き込もうとするかには程度差がありますが、
それでも意図しているのは「この道に進んでもらう」ことです。

啓蒙でのポイントは「必要性」を感じてもらうことだといえます。
だからこそ「問題提起」がなされることが多い。
「こういう問題があるんですよ、知っていましたか?」と。

そして問題解決の必要性として動機づけをする。

心の話になると、例えば
「世の中にはこんな人たちがいる。その生き方でいいんですか?」
「歴史ではこうなっている。このようにあなたも生きるべきだ」
と駆り立てたり、
「今のままでいいんですか?こうすれば変われます」
「本当は辛いのに目を背けていませんか?こっちに幸せがあります」
と問題を指摘したり。

コミュニケーション技術の場合、
「普段こうしていませんか?これだと将来マズイことになります」
「普段どうやってますか?こういうやり方もあるんです。
あなたが本当にやりたいのは、こっちじゃないんですか?」
などと、一般的なやり方の問題点を指摘したり、
理想的なやり方を見せてショックを与えたりします。

それで啓蒙された人は
「今のままではダメかもしれない。
これからはもっと、こうやらなくては。」
と必要性から動機づけられる。

あるいは
「自分もそっち側で生きていきたい。
世の中のために何かをしたい。」
と自分の存在意義から動機づけられる。

こうした形は心理やコミュニケーション技術の分野に限らず
ビジネスや教育、仕事術、スピリチュアル分野などでも見受けられます。


それから技術トレーニングに重きを置くスタンスもあるようです。

トレーニングですから、趣旨は「上達、習得」です。

しかし「上達、習得」によって何を求めているか?においては
トレーニングの種類によって違いが見てとれます。

大きく分けると
「現状の問題解決」のため

「自分の成長」のため
とがありそうです。

前者の「現状の問題解決」は、
日々の中で困ったことがあって
それを何とかするための方法を身につけたいのが動機です。

直接的に現在関わっていなくても、
将来の方向性を踏まえながら身につけようとする場合もあります。

コミュニケーション以外て身近な例を挙げると、
パソコン作業で困っているからOfficeの勉強をするとか、
デザインに興味があるから(もしかしたら将来やるかもしれないし)
Webデザインやフォトショップを勉強しておくとか。

技術を使う目的意識がハッキリしているか、日常的かは別にして
使うことが想定されているのが特徴です。

一方、後者の「自分の成長」を目的としている場合、
「できるようになる」「技が増える」喜びが重視されます。

そして自信を高める。

その技術、手法そのものが必要かどうかよりも
「できなかったことができるようになる」実感が重要と。

そして「自分にも何かできる」
「自分も人の役に立てる」
「自分だって誰かに影響を与えられる」
という自信がつき、堂々と生きられるようになっていく。

こちらは色々な資格を集めるのと近いかもしれません。


そしてこの技術トレーニングの方向に
啓蒙の趣旨が加わる場合もあります。

「こういう技術が必要でしょう?
それを身につけましょう。
こうやればできるようになります。
…そして、
この技術で世の中に貢献してください。」
と。

貢献によって本人の幸福度も上がるし、
社会や身の周りの人に好影響が出る。

だからこの技術を身につけてください、というスタンスです。

啓蒙の要素が含まれますから、
正義や善意、正しさを伝えるところもあると言えます。

その意味で、発信する側に信念があって
リーダーシップやカリスマ性を発揮することも
求められるケースでしょう。


で、僕のスタンスは、どうやら
啓蒙をあまり含めない傾向があるようです。

技術トレーニングが中心で、とりわけ
その技術を使うことも想定している。

なので使う場面が限定される特殊なセラピー技法とかは
その技術が役立つ状況を想定しながら
紹介・トレーニングしているつもりです。

ですが、より望ましいのは
技術トレーニングが必要なときにトレーニングする形。

技術トレーニングよりも、心の癖を扱ったほうが
スムーズにいくこともあるんです。

知識提供だけで大丈夫な人だっています。

そういう点では、特定の技術を扱うセミナーなどよりも
目下の課題に向き合うワークショップのような形式で、
時には心の癖を扱い、時には技術の練習をする…
といった柔軟なスタイルが良さそうに感じます。

そうするとそれぞれの参加者が
自分の課題に向き合うことになる。
そして課題をクリアするための取り組みをする。

それによって日常が望ましい方向に変わり、
以前は問題だったことに困らなくなる。

そんな感じの流れが良さそうかなぁと。

そしてしばらくすると、また別の課題に遭遇して
その困りごとを解決するために自分の取り組みをして…
解決しては、新たな課題に向き合って。

そんな繰り返しをするたびに、その人の周りの関係性から
歪みが解消されて、全体としてのトラブルも減っていくはずです。

結局のところ、自分に降りかかってくる課題と
正面から向き合って、それをコツコツ解決していくというのが
自然でかつ、世の中へ役立つことなのではないか。

そんな発想に向かっていっている感じがしています。
僕の活動の方向性も、そっちに行くのかもしれません。

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2018年04月20日

一年を振り返ると

ジムに通い始めて1年ぐらいになりました。

だいぶ慣れてきた感じがあるのと、
体力がついてきた実感もあります。

運動の影響は意外と大きいものですね。
姿勢も維持しやすくなってきた気がします。


そして最近、ジムのほうとしてもオープンから一年少し経って
内装や機材にリニューアルを加え始めたようです。

大型のテレビモニターが3台追加されましたし、
マシンも入れ替えが行われていました。

トレッドミルが2台撤去され、その代わりに新しいマシンが3台追加。

新しいマシンでは細かい重さ調整がしにくいみたいですが
その代わり、1台で可能な運動の種類が多いようです。

腿の外旋・内旋ができるマシンとか、
ケーブルで重りを引っ張れるマシンとか。

ケーブルのヤツは、自分で角度を工夫すると
今までのマシンでは動かせなかった筋肉でも運動ができます。

日常生活では動かしていない部位を動かすと
軽い負荷でも体が軽くなるのが実感できます。

背中のハリを取るには良さそうです。


反面、近頃は膝周りが痛くなりやすい傾向が出てきました。
胡坐がしにくい感じ。

力を入れるだけでなく、緩める方向でも
体を動かす必要があるんでしょうか。

ストレッチとかも取り入れないといけないのかなぁと考え中です。

身体のケアも丁寧にしていきたいものです。

cozyharada at 23:11|Permalinkclip!

2018年04月15日

歴史と思想

なんとなく勉強したい気持ちが高まっていて
本屋に行ってみました。

心理系で新しく興味を引かれるものは、もう何年もありませんし
語学は勉強というよりもトレーニングなので趣旨が違います。

そこで手を取ったのがこちら。



NHKでやっている「100分で名著」という番組のテキストにあたるもの。

この番組、名著を短くまとめて解説してくれるだけではありません。

古典的名著を簡潔に解説してくれるものは
本でもテレビ番組でも、数多く見受けられます。

実際、僕も概要を掴むためだけの目的であれば
そういう簡単な解説本を読むこともあります。

しかしそれはあくまで導入としての目的のみ。
そこで興味を引かれれば原典に近づこうとします。

そして原典に触れたとき、情報量が多くなる長い本を読むにあたって
概要を抑えてあることが情報整理に役立ちます。

先に地図を見てから現地を歩くような感じでしょうか。

場合によっては概要を知っていると楽しみが失われることもあるので
常に有効なやり方ではないと思いますが、
情報収集と理解のための読書であれば役立つと感じています。

ただし、ここで注意が求められるのが、概要を書く人の視点。
簡潔にまとめたものは元の趣旨を正確に反映しているとは限りません。

概要をまとめる人の重視するところが色濃く表れるわけです。
まとめる人の理解の仕方が如実に影響してしまう、と。

そういう意味で解説本を選ぶのは難しい気がします。

その点「100分で名著」は、ただの要約ではないんです。
その本について理解が深い人が、個人的に重視するところを
堂々と強調して解説してくれます。

ですから必ずしも概要にはなっていないわけです。
むしろ映画のコメンテーターのような感じ。
その人が気に入ったところを教えてくれる。

この番組では個人的な見解が多いのが前提になっている
といった印象を受けます。

その前提での「法華経」の解説のテキストです。
番組で見たときよりも詳しくまとまっていますから
個人的にはテレビよりもずっと好印象でした。

そしてその解説の偏りは、法華経の教えの本質ということよりも
法華経が編纂される歴史的背景とか、編纂における思想とか
そういう社会的・歴史的な観点が中心なんです。

仏教の教えよりも時代背景が強調されている。

ここが興味深かったです。


僕は学生時代、社会科が好きではなかったんです。
ただの暗記科目のように捉えていましたし。

しかしそこには当時の時代背景と
そこに至るまでの過去の積み重ね、
当時を生きた人たちの心の動きが表れているようです。

そこまで踏まえて歴史を見ていくと面白いものですね。

だからこそ、どんな思想でも教えでも、
時代背景や社会情勢、生活スタイルや文化など
その考え方を提唱するに至ったバックグラウンドを踏まえてこそ
趣旨や意味が浮き彫りになってくるように思います。

後世になって内容そのものだけ取り上げると
ポイントがずれてしまうことだってあるのかもしれません。

そして逆に、今の時代背景だったら
どういう内容として提唱されていただろうか?
と考えてみるのも重要な気がします。

cozyharada at 23:44|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

終了しました

《コミュニケーション講座》
〜幅を広げるリフレーミング〜


【日時】 
  2018年4月22日(日)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回は2018年9月9日(日)


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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