心理学

2018年11月11日

好きだったマンガ

高校生ぐらいから好きで読んでいたマンガに
「ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜」というのがあります。

贋作者の話で、
芸術作品を中心に、法外な値段で
本物と区別できない複製を作る主人公が
様々な依頼を受ける様子が描かれます。

毎回、かなり詳細な時代考証を含めた話が出てきて
ストーリーとしてだけでなく知的好奇心としても楽しんでいました。

基本的には、無茶苦茶なまでの主人公の能力によって
無理難題が解決されてしまう話なんですが、
勧善懲悪的なところもあって痛快でもあったんです。

一目見ただけで全てを記憶してしまったり、
ギャングに目隠しで連行されても音だけで場所が分かったり、
イタコ的に作者になりきって、完全に本物と同じものを複製したり
(作者本人でも複製は無理だと思うんですが、そこはマンガ)…。

世界中の人を相手にしながら事件や問題解決をしますから
ほとんど全ての言語を使いこなせるというのも特徴。
歴史書とか古文書も読みます。

一話分のストーリーで進む時間を考えると
全78巻の話を一人の人物が体験するには膨大な時間がかかりそうですが
マンガなので主人公はずっと同じ年代のままです。
(幼少期や若い頃のエピソードは出てくる)

まぁ、自分も複製してしまえるので、もしかしたら何人もの主人公が
別々の場所で活躍しているという解釈もあるのかもしれません。


ともあれ、僕はこの漫画がかなりお気に入りでした。

影響を受けたともいえるでしょうし、
そもそも心に響くところがあったともいえそうです。

子供の頃から絵は好きでしたし、芸術は全般に興味があるほうでした。
「美味しんぼ」を読んでも、海原雄山が書、画、料理と幅広く
芸術に才能を発揮する様子に憧れていたものです。

なんとなく「〇〇文明」みたいな考古学的な話に興味を持つことも多く
若干オカルト的なピラミッドの謎みたいのも好きでした。

そういう要素が沢山詰まっているマンガだったんです。

ですが今にして思うと、
自分が現時点でやっていることと共通する部分が含まれるのにも気づきます。

例えば、主人公の超人的な五感の感度。
見たもの、聞いたもの、味わったものは正確に区別できて
それを完全に複製できるという能力が描かれています。

もちろん、僕にそんな能力はありませんが
一般よりは五感の感度は高いほうだと思われます。
そういう訓練をしてきましたし、NLPを通じて敏感になってもいます。

また、NLPの中には「モデリング」という
「他の人のやり方から学ぶ」方法があります。
これもできるだけ本人を再現度高く真似するところがポイントです。

モデリングの趣旨の中には「誰かにできることは他の人にもできる」
という発想が含まれていますから、そこには
本物を「複製する」というマンガのコンセプトに近いものを感じます。

マンガの中では「本物だけが心を打つ」という描写もありますが、
僕自身もNLPにおけるサブモダリティの観点で、
どのように人の心を打つのかというのを考えてきたところもあります。

絵画を見るときは画家の視点に立って見るようにしていますし、
知識ではない絵画鑑賞のポイントには結構自信があります。

そういえば海外に行っても観光は好きではないのに
美術館だけは足を運ぶというのも示唆的に思えます。

そして最近は色々と語学をやっています。

当時はさほど気にしていなかった主人公の能力の1つ、
「あらゆる言語を使いこなす」についても
いつのまにか関連性が出てきたような気がしています。

マンガでは当然、記述はすべて日本語に翻訳された設定となりますが
ときどき挨拶とか呼びかけとか、カタカナで外国語が出ていたんです。
ロシアにいくと「ガスパジン・ゼロ」と呼びかけられる、とか。
(ガスパジンはロシア語におけるMr.のような単語。ゼロは主人公の名前。)

そのあたりの部分が何となく心を捉えていたのかもしれません。
そのころは調べもしませんでしたが、
今こうやって外国語表記の部分が思い出されるということは
なんらかの特別な印象を受けるところだったんだろうとは考えられます。


気に入っていたマンガとか映画とかには、自分の持ち味と関連する何かや
自分の心に深く訴えかける要因が含まれているのかもしれません。

もういちど読み返したら、また何か心に響くところとか
当時は理解できなかったものが理解できるようになっていたりとか
新たな発見があるんじゃないかと思い始めました。

さすがに全78巻は多いと感じますが
もう一度読み返したい気持ちが高まっています。

思えば、このころの僕には好きなマンガが多かったものです。

特にこの「ゼロ 〜THE MAN OF THE CREATION〜」が連載されていた
スーパージャンプはお気に入りでした。

「ミキストリ」とか
「緋が走る」とか
「企業戦士YAMAZAKI」とか
「人事課長鬼塚」とか…。

いずれも今考えると、どこが心に響いていたのか納得できるものばかり。

そのころは今のような自分になっていることは想像していませんでしたが。
面白いものですね。

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2018年11月09日

日米の食生活

アメリカ人の食事を見ていると、一食あたりの量は少なめにさえ見えます。

ホテルの朝食だとしたら、日本人観光客のほうが
平均すると2倍近くとっている印象も。

ただし、アメリカ人の炭水化物の比率は非常に高い。
パンとかワッフルとかビスケットみたいのとか、
そういうのがメインに見えますし、
さらにそこへ甘いシロップとかクリームとかがタップリ。

「フルーツが健康に良い」というビリーフでもあるのか、
果物やジュースも追加されます。

で間食にまた果物とかビスケットとか。


そうして肥満率が上がるのかと思いきや
子供は同じような食事をしていても痩せているんです。

20歳を過ぎたあたりから何かが変わり始めるんでしょうか?
身体への意識が低いのは共通して見られる特徴ですが…。

大人になるほど日常的に動く量は減っていきますから、
座り込んで動かない感じが強いほど脂肪がつきやすいのかもしれません。

それは全体的な運動量というよりも、
意識が行き届いていないことと関係しそうな印象を受けます。

だから顔とか首とバランスが取れないぐらい
胴体ばかりが大きくなりやすいのかも、なんて思ったりもします。

顔周りまでは意識が行き届いているのに対して
胴体への意識が極端に下がっているという話です。

まあ、顔の骨の凹凸が大きいから脂肪がついても目立ちにくいとか、
そもそも顔あたりの脂肪細胞の数が少ないとか、
遺伝的な要因もあるのかもしれませんが。


ただ、観察して言えるのは胴体への意識の低さ。
これはもう圧倒的に日本人と違います。

良くいえば力が抜けているとも解釈できるとはいえ
健康問題とリンクしそうにも思えます。

アメリカの医療問題はかなり取り上げられているようでしたし
オーガニックとか非遺伝子組換え食品とかの人気も高いそうです。

でも、そこではないんじゃないか?という気がしてしまいます。
身体への意識が低くて置いてけぼりになっている感じ。

そこに文化的な傾向として、自制の度合いが低いのも追加されます。
感情や考えを表現することについても制御することが少なく
なんでも素直に表すことが多いようです。

さらに土地としても広々としたところに住んでいますから
自然と意識が拡大しやすいのも特徴でしょう。
これは日本から行ってみても感じるところです。
なんとなく開放的になる。

結果的に他者との境界の意識が弱まります。

一体感が起きやすいのはアメリカのイベントを見ていても実感されますが
反面、自他の境界としての体表面に意識が向きにくくなるともいえます。

境界意識が弱いと力が抜けやすくて、
表面がボワッと柔らかくなりやすいようです。

「自分の身体がどこまでか」という設定が弱いわけでもありますから
その設定値に対してのホメオスタシスが働きにくくなって
どこまでも肉がついていってしまうとも考えられるでしょう。


日本人と比較すると真逆の感じです。

日本人は行動的においても感情や考えの表現においても
自制の度合いが非常に高い。
抑え込んでいる傾向が大きいといえます。

そして他者との境界意識が非常に強い。
パーソナルスペースを維持しようとしがちですし、
満員電車におけるスペースの取り合いなんてのは
自他の境界の強さの典型的な表れです。

脇を開けないで肘を体に近づけていることが多かったり、
肩甲骨が背骨に寄るように力が入ることも多いはずです。

身を縮めている、と。

細身の人は特に、体表面の筋肉に力が入って
外側がカチカチの雰囲気もあるぐらいです。

どうしてもピリピリと緊張した感じが出ます。


これぐらい体への意識の使い方が異なっていると、
身体症状として表れるものの意味も
心の問題として表面化するものの内容も
随分と日米で差が出るだろうと思われます。

同じ健康法が通用するとは考えにくそうですし、
アメリカで開発された心の問題へのアプローチが
日本でそのまま通用するかも定かではありません。

大雑把にいえば…。

アメリカの場合、
 『我慢や自制をしない』ことで身体の機能の標準的な範囲を超えてしまい
 体そのものが自らの機能で維持できなくなってしまう
といった身体的な問題が起きやすい。

また、『我慢や自制をしない』ことで
 コミュニケーションにおける衝突が増えたり、
 衝動的な言動で行き当たりばったりの対応をして後悔したり、
 短期的な報酬に依存してしまったり
といった心の問題が起きることも多そうです。

一方、日本の場合は『我慢や自制をし過ぎる』ことで
 限界を超えて頑張り過ぎてストレス症状が表れたり、
 自ら自分の身体の一部にダメージを与えたりしてしまう
といった身体的な問題が起きやすいのかもしれません。

コミュニケーションや人間関係においても『過剰な我慢と自制』によって
 自分の心の中で葛藤が生まれ、悩みが複雑化しやすかったり、
 常に不満や苛立ちを抱え続けていやすかったり、
 限界を超えた瞬間に自暴自棄になってしまったり、
といった心の問題に繋がりやすいようにも思えます。

一口に、「癒し」、「回復」、「ケア」などと言っても
実際に何をするかとなると日米では差が出て当然なんじゃないでしょうか。

我慢や自意識が低すぎてトラブルになるアメリカ人、
我慢や自意識が高すぎてストレスを抱える日本人。

ざっくりと一般化してしまえば、そんな傾向。

このあたりの違いが、様々な部分から見てとれます。
食事の仕方だけに注目しても見受けられる特徴といえそうです。

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2018年10月25日

英語学習の思い出

思い返してみると、僕が小学校に上がる前だった頃か
自宅には英語の音声教材がありました。

当時はまだSONYのウォークマンも発売されていない時期ですから
ラジカセのようなテープレコーダーも主流ではなかったのでしょうか。
レコードがメインだった時期だと思います。

なので、その教材もカセットテープなどではなく、
磁気テープが貼り付けられた紙のカードをリーダーに通す仕組みで
1枚のカードに1センテンスだけ英語音声が収録されていたはずです。

カードには相応の絵柄なんかもついていたかもしれません。
それをリーダーに通すと、ネイティブの録音で音声が流れる、と。

基本的には1枚のカードで一単語を説明する感じで
「Zoo. The zoo opens.」みたいな程度だった記憶があります。

確か、カードリーダーに通す作業のほうが楽しくて
それで遊んだような思い出が残っています。


それから小学校に入って、近所の幼児英語教室みたいのに
いくつか通ったのも覚えています。

「いくつか」というのは、積極的な意味での話ではなく、
地元の主婦が自宅の一部で、習い事の教室をやっている程度なので
長続きしないことが多かったからだろうと思われます。

教室がなくなったら、次のところを探して行く。
そんな感じで3か所ぐらいに通ったんじゃないでしょうか。

どれも基本的には嫌々通っていたように思います。

内容なんて理解していないし、やらされるお遊戯が不愉快だったし、
なんだかヘンテコな呼び名をつけられるのも嫌いでした。

覚えているのは、友達が先生から「じゃあ、カエルは何ていうの?」
って聞かれたときに「フロッグ(frog)」を言おうとして
「ケロッグ」って答えて面白かったぐらいです。

カエルの鳴き声の感じと、フロッグの音の感じと
耳馴染みのあった「ケロッグ・コーンフレーク」なんかがセットになって
自然と「ケロッグ」が浮かんでしまったんでしょう。

それぐらいしか記憶にありませんし、
もしかすると英単語のいくつかは覚えていて
中学一年生で英語の授業が始まったときに役立った可能性はあります。

しかし文章レベルで何かができたわけではありませんし、
英語で何かを言う、なんてこともしていた記憶はありません。

遊びの延長ぐらいなものです。


それから中学校に入って、学校教育としての英語が始まりました。

ここからが一応の本格的な英語”学習”のスタート。
勉強し始めた段階です。

いくらかの単語を覚えていたのと、アルファベットには慣れているのとで
なんとなく最初の頃の英語の授業は気楽だったのが思い出されます。

中学に入ってから塾にも通い始めました。
高校受験対策の塾です。

そんなに高度なことをやらせる塾ではありませんでしたが
入試に出るような形式の問題をひたすら解かされるタイプの勉強でした。

毎回宿題が出て、とにかく量は義務的にやったように思います。

それに加えて、近所に帰国子女の大学生が住んでいて
その人から少人数の家庭教師的に、英語だけを週一回やっていました。
友達4人ぐらいで集まって教わっていた感じです。

こちらも結局は塾でやるような文法の練習が中心だったんですが
帰国子女だけあって、発音をしっかりしてくれるのは良かったんでしょう。

振り返ってみると、いわゆるフォニックスのようなこともやっていました。
音のルールの勉強です。

そのおかげで初出の単語でも発音の予想がつくというか
ある程度、英単語を英語の音として捉えられていたんだと思います。


ですから中学校までの段階で、僕は英語の文法ルールを
学校教育をベースにした塾と家庭教師の勉強で地道に練習して、
それと並行する形で、英語の音にも触れる機会が多かったと言えそうです。

文法のトレーニングは日本の英語教育として標準的でしょうが、
そこに発音や音への慣れが追加されていたのはメリットだった気がします。

幼稚園やら小学校の頃に触れていた英語は
具体的なレッスンのレベルとしては役に立っていませんでしたし、
会話の練習になんて全くなっていなかったですが、
「英語の音に触れ続けた」という点では有効だったと思われます。

つまり僕は英語のトレーニングの初期段階で
音からのインプットの経験量が多く、
同時に文法的な練習問題を数多くやった、ということのようです。

文法の練習問題は、それそのものが基本的なルールの学習として
英語の文章のパターンを捉える訓練にもなっていましたし、
文法的な正確さへの心がけを高める土台にもなったと思います。

それから文字情報からのインプット量を増やせたのも大きいはずです。

音からのトレーニングだけでは曖昧だった部分が
文章と照らし合わせることで整理されやすくなる感じ。

まとめると、音からのレベルでも、文字からのレベルでも
シンプルな内容のものに数多く触れた、ということです。

しかも音と文字とを対応させながら。

このことが、僕の英語習得の土台として
後々に大きなメリットとなってくれたんだと今にして思えます。


実際には、その後、高校と大学で
膨大な量の英文のリーディングをすることになります。

とにかく長文だけを読解するのが高校の英語の授業の9割で、
それをベースにして大学では有機化学とか化学工学とか
一部の専門授業の教科書を英語でやらされることになりました。

研究室に配属される頃には英語で書かれた学術論文を読む必要が出てくる。

この頃にはもう英語の音に触れる機会は滅多にありませんでした。
それでもおそらく、英語の文章を読むときに
自分の頭の中で読み上げる英文が、それなりの発音だったんでしょう。
極端なカタカナ英語ではなかった。

なので音と文字の結びつきを維持したまま
インプット量を増やせていたんだろうと思われます。

きっとそのおかげで、僕が会社に入ってすぐの新入社員研修中に
全員で受けさせられた初めてのTOEICのテストでも、
特別な勉強をすることなくそれなりのスコアが取れたんだと思われます。

当然、まったく話すことはできない段階でしたし、
聴き取りのトレーニングもロクにしたことがありませんでしたが
適当に答えた選択肢が当たっていたのか740点ぐらいになりました。

TOEICのリーディングセクションは確か
文法問題的なものと、長文読解みたいなものが多かったはずで、こちらは
中学時代の地道な練習問題で身につけた文法の正確さと
高校・大学とひたすら英語の長文を読まされ続けたことでの慣れとで
それなりに点数が取れたんだろうとは思われます。

リスニングセクションに関しては、TOEIC対策の勉強もしていませんし
音声教材を聞くようなトレーニングもしてきていません。
ネイティブの英語を聞く機会もほとんどありませんでした。

大学一年のとき、英語ネイティブの先生が1コマ担当していた気はしますが…
せいぜいそのぐらい。

なので、英語を聞くことには慣れていなかったはずです。
少なくとも、文法や読解をトレーニングした量と比べると
圧倒的な差があったのは確実。

それでもなぜか音が取れていたんです。
単語が捉えられたり、フレーズ単位で捉えられたり。
捉えたフレーズを日本語に翻訳することなく意味を把握したり。

そのあたりのことが自然と起きていたのは、もしかすると
中学に入る前から英語の音へ触れ続けていたことや
中学の時に家庭教師の先生からフォニックスを教わったことで
英語の音への感度がそこそこ身についていたからかもしれません。

そして比較的正確な音の認識を保ったまま
文字情報からのインプットを大量におこなって、
そのときに自分の頭の中で、文章と音と意味の結びつけを作った。

それなりに正確な英語音声と文字情報とをセットにできたのかもしれない。
このベースとなったのも、幼少期からの英語音声のインプットだったのかも。

そんな風に考えていくと、語学の初期には
・とにかく音に触れる量を増やして、言語特有の音への感度を上げる
・簡単な文章に繰り返し触れて、単語の形や並べ方に慣れる
というのが役に立つように思えてきます。

正確なことが理解できていないとしても、
高度なことができないとしても、
実際のコミュニケーションには程遠いとしても、
とにかく耳と目からのインプットを増やして慣れる。

その過程で、発音のルールだとか文法的なルールだとかを
なんとなくのパターンとして経験的に掴んでいくようにする、と。

それから文法のルールを勉強して法則を知的に整理するような流れが
スムーズなんじゃないかと思われます。

で、ある程度のルールが定着して
すぐにそのルールが使いこなせるようになったあたりから、
内容のある文章(長文読解とかリスニング教材とか)をインプットして
考えることなく意味を捉えられるようにトレーニングしていく。

この過程で、ボキャブラリーも増やすことになる形でしょう。

僕の場合、この「内容のある文章のインプット」を読解でやりましたが
ここは逆に耳からやっても良いのかもしれません。

読むか聞くか、重視する側面を中心にやれば
相互作用的に、もう一方にも効果が出ると思われます。


少なくとも、音に触れる量をとらずに、いきなり文章から入っていくと
聴き取りを心がけ始めるタイミングで苦労する可能性がありそうです。

また、文法のルールばかりを一気にやって
実際に触れる文章の数が少ない場合にも、
パターンを掴むだけの経験量がないので
運用可能な文法ルールとして定着しにくいことも考えられます。

文法を勉強するときは、難しい単語などが含まれない簡単な文章で
練習問題を通じて、とにかくパターン学習だけの数をこなす。
そういう必要性を強く感じます。

まして動詞の活用表みたいのを暗記しても
それを運用するのは文章の中になりますから、
表やらルールやらだけを教える語学の授業は
習得までを考えると効果的かどうかは定かではないでしょう。

大人になるとルールだけでも理解できる能力はついてきますが、
理解できることと使えることは違います。

使うことを前提とするのであれば定着を図るトレーニングが欠かせません。

そのためには勉強の初期ほど、とにかくインプット量を増やす。
分からなくてもいいから触れるのも1つ。
もう1つは確実に分かる簡単な内容で数をこなす。

その意味で、初期ほどゆっくり進める必要がある気がします。

新しい言語を学ぶときには、最初の段階をゆっくりやるほうが
着実な成果を期待できるような印象を持っています。

逆に英語のように、既に勉強したことのある言語を
これから本格的に身につけていこうと考えるとしたら、
これまでに身についているものの内容によって
集中的にトレーニングする部分も異なってくるはずです。

こういった「言語習得に必要な要件」みたいなものを
ブラッシュアップできたら面白そうに感じています。

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2018年10月18日

思考は急に止まらない

最近はデスクワークとセミナーが重なって
落ち着かない状況が続いています。

特にセミナーが開始時間の関係で
早起きをすることになるのが意外と負担なようです。

それでも通勤ラッシュに揉まれるのはもっと苦痛なので
妥協策として早起きをする現状。

睡眠時間が減るのは、続くと負荷になってく感じです。


資料作りとかテキスト改訂とかのデスクワークも
重なってくると、内面的な落ち着きの無さに繋がるみたいで。

特にテキスト改訂は個人で決められなかったり、
関係者の理解の仕方を調整したり、と気を遣いますから
なんだかんだと心労が増えます。

ブログを書こうにも、デスクワークで考えごと続きのときは
なかなか切り替えが難しい。

パソコンの前で集中力が続く間は一つの作業をやりがちになるし、
集中力が落ちてくると頭を休めたくなってきて
机の前を離れることが多くなるようなんです。

結果的にブログを書くタイミングが表れない。


こういう切り替えの困難さは、意外と勉強のときには起きません。

勉強はインプットの作業が多いので、
インプットをやめた瞬間に頭が切り替わります。

練習問題についても通常、問題を解き終わって
解答をチェックした時点が終了となります。

頭の中で思考が進行し続けることは少ない。

むしろ違う種類の勉強に切り替えることで
気分転換になる場合さえもあるぐらいです。

それに比べるとアウトプットの作業は
途中で中断する状態になることもあり得ます。

特に資料作りとか、長めの文章を書くなどの場合、
数時間でまとまり切らないことも多いはずです。

そうなると中断しても、頭の中では
さっきまでの思考の作業が続きがちです。

だからこそ、ふとしたタイミングで良いアイデアが
浮かんだりもするわけですが。

書き物の作業は、その内容が途切れない場合、
書いてない時間にも進行しているということです。

なかなか複数の資料を並列では進めにくいところがあるし
中断して別の書き物にすぐ移行するのも難しい、と。


なお、記事のように、ある程度の量で一まとまりになるのは別です。

一つのテーマの記事が終わって区切りがつく種類であれば、
それなりに複数の記事を扱うことも可能です。

じゃないと、いくつも連載なんて困難でしょう。

本を書く人も、目次の段階で項目分けしているから
切れ目を作って思考を切り替えられます。

逆に切れ目なく、違う種類の思考を並行して進めると
頭の中で絶えず複数の思考が続きっぱなしの状態になって
頭が休まらない感じがしやすいはずです。

悩みが続くときも同様ですね。
答えの出ない考えがずっと続いている。

それだけで気持ちが焦りますし、寝つきにくくもなります。

僕のセミナーの後もそんな状態。
頭の中に記憶が残りがちです。

セミナーと書き物が重なるときの負荷が
なんともグルグルした感じになるのは、
切れ目のない思考が並行で進むからかもしれません。

そういう意味での頭の休息も大事そうです。

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2018年10月03日

言語の相互作用

この7月ぐらいからフランス語の勉強の仕方を変えて
ライティングをベースにアウトプットを意識し始めました。

これだけで意外と聴き取りもしやすくなった印象があります。

自分が話せるフレーズはすぐに音としてキャッチできますし
内容もストレートに頭に入ってきます。

また内容の処理に関しても意味の理解が早まった印象があります。
文章の構造や、フレーズ同士の関連性が繋がりやすいというか。
読解の状態に近づいたような感じ。

読んでいるように聞けるのは、特にニュースにおいて効果的です。
比較的複雑な文章構造をしていても捉えやすくなった気がします。

当然ですが、もう少し自然な会話に近いものも
少しは聞き取りやすくなったのを実感しています。

フランス語でのYouTubeを見たり、
以前に買った聴き取りの教材をやってみたりするときに
スムーズに理解できるケースが増えてきたようです。

こういう地道な向上は、振り返って比較したときに実感されます。
半年前と比べて、などのタイミングが分かりやすそうです。

同じように、聴き取りがスムーズになっていく経験は、
英語を集中的にやっていたときにも実感していました。

ただ、英語のときはアウトプットに力を入れ始めたのが遅く
読解や聴き取りを重点的にやっていましたから
「自然と聴き取りの力もついていく」という印象はありませんでした。

「聴き取りのトレーニングをやって、少しずつ聞けるようになってきた」
といった印象はありましたが。

今のフランス語においては、聴き取りを本格的にトレーニングせず
なんとなく耳からのインプットを続けている程度になっています。

それでもアウトプットのトレーニングをすると
聴いて理解することもスムーズになっていくというのは、
言語活動が色々と結びついて相互作用を持っているからなんでしょう。

母国語の日本語でも、自分が自然と使う単語を使ってくれたり
自分がよく使う文章構造と同じように話したり書いたりしてくれると
内容がスムーズに入ってくる感じがあるものだと思います。

逆に、同じ日本語のはずなのに何を言っているか分かりにくい場合もある。
あまり馴染みのない単語を使っていたり、
文章の組み立て方を捉えるのに時間がかかったりするときです。

ですから自分が使う言葉に近い方が(母国語でも外国語でも)
インプットして理解しやすいんだろうと考えられます。

その意味では外国語のトレーニングとして
アウトプットを強化するのは効率的だと思います。

とりわけ書くトレーニングは、話すときよりも時間をかけて
複雑な文章構造や、高度なボキャブラリーを工夫できますから
使える表現を増やすうえで、より効率的なんでしょう。

ということでフランス語で書くトレーニングは
僕にとってなかなか効果があるように実感しています。


このことがことさら気になるのは、
こういった言語学習過程の相互作用が
1種類の外国語の中だけで起きているわけではなさそうだからです。

例えば、実をいうと僕は、フランス語の聴き取りのとき
あまり集中して一生懸命に聞いていなかったんです。

これは英語のトレーニングを必死でやっていたときとは別物です。
英語のときは相当に気持ちを集中して、耳を傾けて聞いていました。

今、僕がフランス語を聞くときは、もっと受け身の感じというか
なんとなくボーッと、入ってくるものを捉えている印象があります。

日本語を聞いている状態と似ています。

良くいえば自然体なんですが、悪くいえば一生懸命じゃない。
馴染みの薄い言語に対して、ちゃんと聴こうという意識が弱いんです。

おそらく本質的には、ある程度しっかりと聞き取ろうとする努力が
トレーニング過程では求められると思います。

というのは、聴き取りには
・音を捉えて単語やフレーズに変換する作業
・単語やフレーズを繋げて文章の並びを捉える作業
・フレーズや文章の単位で意味を捉える作業
・複数の文章の意味から全体の話を理解する作業
が含まれるからです。

これらの作業は関連しあっているとは言えますが、
1つを重点的に心がけると、他への注意が落ちる傾向も見受けられます。

パソコンでいうなら、メモリが足りなくなる感じ。

音を捉える、単語を見つける、というレベルだと
かなり多くの作業に集中しないといけません。
メモリを多く消費します。

一方、文章の意味を捉えるとか、全体の意味を理解するレベルだと
意識される情報の塊が大きくなるのでメモリの消費は少ない。

母国語だとメモリの消費が少ない状態で
意味だけを自然と追いかけられるようになっています。

ですがそのためには土台として、
音を捉える作業、音から単語を見つける作業、
それをもとに文章構造を把握する作業などが求められます。

僕が英語のトレーニングをしていたときは
ディクテーションを中心に、この細かい情報処理をやらされました。
ちゃんと音を捉えて、単語を逃さずに聞き取れるように。

実際に全体的な意味を捉えるなら、必要のない単語もあります。
ただし、これは自分の知識で話の内容を補ってしまうリスクがある。

自分が補って理解しているだけなのに、聴いて分かったつもりになる
…そういう場合が結構あるように感じます。

なので僕は英語に触れ続ける過程で、何度も繰り返し
「あぁ、今まで全然、聞けていなかったし、分かっていなかった」
という実感をしていますし、裏を返すと
「前よりも少しは聞けるようになった」
という体験が何度も起きているわけです。


では、英語のときは音や単語に集中していたのに
フランス語では全体的な意味に注意が向いてしまうのは何故か?

単純にディクテーションをおろそかにしているのもありますが
英語がなまじ聞けるようになってしまっていたのが原因の1つでしょう。

「外国語を聞く」というモードが英語基準になってしまっているようです。

英語のほうでは音や単語に集中しなくて済むようになってきた分、
全体を捉えて聞く度合いが高まってきていました。

それがフランス語の方にも影響してしまっている、と。

ですから本当は音や単語に意識を向けるほうの
地道なトレーニングも必要なんだろうと思います。

ディクテーションが必要だという話。

その一方、最近、スペイン語やロシア語についても
ニュースを聞き始めたおかげで
「外国語が全然聞き取れない」体験が増えてきました。

聴き取れないスペイン語やロシア語では、
音の組み合わせを捉える練習や単語を探す心がけの度合いが高まります。

そっちの影響で「外国語を聞く」モードの中に、自然と
細かく音や単語を捉える度合いが高まってきたみたいです。

おかげでフランス語の方でも、細かい音や単語に注意が自然と向きます。


言語学習には、こんな風な相互作用が沢山あるようです。

このあたりを整理して活用できると
習得スピードを上げられそうな気がします。

興味深いところです。

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2018年09月30日

余分に一泊

札幌に来ています。
というよりも、予定外に帰れずにいます。

台風の影響です。

これまで何度も札幌出張に来ていますが
帰れなかったのは、これで二回目。

一回目は空港に向かう電車の電線をトラックが切断して
空港に向かう手段がなくなってしまったときです。

それ以外は雪の時でも、帰宅が深夜になったとしても
なんとかその日のうちに帰ることができていました。

それと比べると今回は不思議な印象です。

札幌の天候はいたって平常。
薄曇りですが、雨も風もない。

ですが関東地方に台風が近づいているため
札幌発の飛行機が欠航になるという状態です。

そして入れ替わりで関東を台風が過ぎると
今度は北海道に台風がやってきて、
札幌発の飛行機が飛べるのか心配なところ。


ともあれ、こういうのがあると
実際に日本地図の配置というか、北海道と東京の距離を
体感的に納得しやすくなる気がします。

普段、飛行機で移動しているときには
1時間半の間に移動が終了していて
はたして本当にそんな遠くまで来ているのか
実体験として納得しにくいところがあるんです。

実は北海道じゃないところに降ろされていても
そこに「新千歳空港」という建物と、そこから続く街並みがあれば
あたかも札幌に来ているような認識が起きてしまうと思われます。

別に騙されていることを疑っているわけではありませんが
体感として「遠くまで移動した」という印象は薄いんです。

電車や車と比べると、空の移動は実感しにくいといいますか。

結局のところ「札幌に来ているはずだ」という知的な認識があるから
札幌にいるということを受け入れているだけなのかもしれません。


例えばSFとか、ドラえもんの「どこでもドア」みたいな感じに
瞬間的に離れたところに行けるとします。

扉の向こうに見える景色は、明らかに今いるところとは別世界。

しかしそれが実際のその場だという保証はありません。

どこでもドアが作れる技術があれば
仮想体験をリアルに実感できてしまう装置だって作れそうなもの。

ものすごく精密なVRの装置だったら
実は移動していなくて、仮想現実として
移動先の世界を体験しているだけなのかもしれません。

ドラえもんでいえば、タイムマシンだってそうです。

扉の向こうの世界が、今まで自分がいた世界の延長線上にあるのか
そういう厳密に言えば保証は何一つないのではないでしょうか。

歩いて移動すれば、記憶の連続性として「移動してきた」実感があります。
自転車でも車でもそうでしょう。
電車だと窓の外を見ていれば、そういう体験ができます。
連続性を感じるわけです。

その点、飛行機は密閉された空間と、窓の外の景色が非日常的なのとで
どこでもドアやタイムマシンに近い、非連続的な移動の印象があります。

そこが移動距離の実感を伴いにくいところのように感じます。


確かに台風情報もニュースの情報を信じるからこそ納得できるもので
本当に天候が連続的に変化しているかの保証はありません。

それでも、台風ぐらい非日常的な天候が徐々に移り変わっていく様子は
連続的な変化の様子を実感させてくれます。

東京を過ぎ去った悪天候が、遠く離れた場所にも起こる。

地図上に描かれた現状が、普段よりも
体感的に理解できる機会でもありそうです。

台風の影響で帰ることができない状況は不便ではありますが
いつもとは違った形で世の中を認識するキッカケになりました。

あとは実用面での不都合が少ないことを願うばかりです。

cozyharada at 23:53|Permalinkclip!

2018年09月25日

【セミナー】瞑想のモデリング

ご案内: 10月21日(日)

   コミュニケーション講座 〜瞑想のモデリング〜



前回の『ストレスの扱い方』と関連して
今度の講座は【瞑想】を徹底的にやります。

といってもベテランを対象にしているという話ではありません。

・「聞いたことはあるけど、瞑想とは何かよく知らない」
・「本を読んでやってみたことはあるけど、これで良いんだろうか」
・「勧められた方法を心がけると、むしろ苦しくなってしまう」
・「習った通りにやっているけれど、ピンとこない」
・「やる意義が実感できないから、積極的にヤル気にはならない」

こんなことを感じている方にお勧めする内容です。


午前中から夕方まで、ずっと瞑想をするのかと思われるかもしれませんが
やることは沢山あります。

ただ一日中、黙って目を閉じ続けるわけではありません。

理解を深めるための話し合いや、
体験をサポートするための説明、そして
今回のメインの趣旨となる『瞑想のやり方のモデリング』など、
講座中の時間の配分は様々です。

そもそも瞑想には多くの種類がありますから、
それぞれについて、ポイントやコツなどを紹介して
それから実際にやってみて、
終わったら感想や話し合いをして…
という流れで進むと、かなりバラエティに富んだ時間になるはずです。

とりわけ、ご自分が体験したことを記録しておくのは役立ちます。
自分に合ったやり方を覚えておきやすくなるだけでなく、
体験の深まりを振り返ることができるようになりますから。


紹介する瞑想のやり方については、具体的な「〇〇瞑想」のように
特定の流派を正式に踏襲しようというものではありません。

こちらでこれまでに体験してきたことをベースに、
教わったやり方、達人をモデリングして発見した方法、
自然と発見されてきたコツなどを紹介する形です。

一応、自分が教わってきたやり方のメインを振り返ってみると
基本的な型や、趣旨とするものは、禅の系統だとは思われます。

神秘体験を目指すような瞑想は予定していません。
(結果として起きることはあっても、それを目指しはしないスタンス)

一方で、お寺で体験させてもらえる座禅と比べると
作法としての側面ではなく、体験の中身のほうを重視して
内的世界の話としてポイントを解説することになると言えます。

ベテランの方にとっては、
個人的な体験談のシェアだとか、意識の扱い方のコツの説明あたりは
参考になるところがあるかと想像しています。

多くの場合には言葉で説明されない部分をモデリングで紹介するのも
今までにはない体験の仕方に辿り着くキッカケになるかもしれません。

これまでに瞑想に慣れ親しんだ方でも
・「瞑想の流派にはコダワリがない」
・「様々な角度から体験を深めてみたい」
・「今までやってきたやり方に疑問が沸いてきている」
といった場合には、
いくらか有意義な時間を過ごしてもらえるのではないでしょうか。


『瞑想』は行為です。

その定義からすると、非常に幅広いものが瞑想に含まれます。

そして行為である以上、そこには「行う趣旨」があります。

意図や目的と呼んでも大まかには構いません。

意図や目的がある場合、つまり何かのメリットを得るために行う瞑想、
特定の体験へ到達するための手段として行う瞑想などもあります。

例えばリラックスするのが目的のものもあれば
集中力を養うトレーニングとして行うものもあります。
心の癖を修正する手法として行う瞑想もありますし、
疲労回復や心の健康度を高める効果を期待する瞑想もあります。
悟りへ到達するステップとして設定された瞑想もあります。

意図や目的のある瞑想は多いですし、今回の講座でも
1つ1つの瞑想のやり方について、意図や目的がある場合には
それを説明したうえで実践していただく予定です。

一方、「ただ座る」ことそのものを趣旨としていて
何かを目指すことを目的としないものもあります。
目的をもってやらないのが趣旨だという場合です。

それでも、少なくとも趣旨はあります。
ですから趣旨を明確にして、瞑想をするのが重要だと考えます。

講座中に行う全ての瞑想のやり方に対して
趣旨を説明するつもりです。


そして、この趣旨の点で
瞑想にはバリエーションが多くなるんです。

特定の流派の瞑想には、その目的が
ハッキリと設定されている場合があります。
そして目指す到達点に向けて、やり方が決まっていることも。

こうした場合、その目的・目標への手段として
「正しい」瞑想の仕方が設定されていることがありえます。

ベテランの方で、1つの流派で正しいやり方を追求されていると
他の趣旨をもった瞑想が合わない可能性も考えられます。

むしろ違う目的の瞑想を混ぜてしまうと逆効果になる場合も。

この点は注意してください。

今回は、様々な趣旨のものを紹介します。
バリエーションを広げ、体験の幅や角度を広げる。

この世に生きる一人の人間として、
現実的に日常を過ごしていくために役立つ瞑想も、
心というものの本質にとって有意義な瞑想も、
両方の面から紹介する内容となっています。

カッコよく言えば、現実と真実の両面から、といった感じでしょうか。

なんとなく心に響くものがあればお越しください。

何かを得ようとは期待せずに。
ただ心の赴くままに。



◆録音に関しまして
ワークショップ中の内容は、ICレコーダーや
スマートフォンなどで記録いただいても構いませんが、
あくまで個人的なご利用の範囲でお願いいたします。

※ただし、プライベートな内容の扱いに関しましては
 十分にご配慮ください。



※内容の密度の関係で定員を設けています。
もしかすると逆に、最少決行人数へ届かない場合もあるかもしれません。
いずれの際も改めてお知らせいたしますので、なにとぞ御了承ください。





【講座の詳細】

≪コミュニケーション講座 〜瞑想のモデリング〜≫

【日時】  2018年 10月21日(日)
       10:00〜16:30


       ※終了時間は30分程度まで前後する場合があります。


【場所】 滝野川会館 304集会室
    (JR京浜東北線・上中里駅 東口より徒歩7分)
    (東京メトロ南北線・西ヶ原駅より徒歩7分)
    (JR山手線・駒込駅 北口より徒歩10分)


【参加費】 ・・・15,000円

       当日、会場にてお支払いください。

    ★定員に達した場合、キャンセル待ちとして受付させていただくことになります。
     ご了承ください。







NLPや心理学、カウンセリングや心理療法などを通じて
「心」というものについて向き合い続けてくるうちに、
だんだんと「心」についての認識が変わってきました。

科学では説明されていないことが沢山ありますし
学び始めの頃には拒否していた説も
実体験として受け入れざるを得なくなってきたようです。

そこには「集合的無意識」という呼び方で代表される
個人の枠に収まりきらない心の現象も含まれます。

この世は科学が区別するやり方とは違う形で
もっと繋がって働いているように思えます。

むしろ身体1つ分で、物事を切り分けて
別の存在として捉えようとする観点のほうが
起こっている現象を説明しにくいところさえあります。

相互作用という表現よりももっと積極的な「繋がり」が
心の現象の様々な面で見てとれるように感じる。

このことを踏まえると、瞑想1つとっても
個人だけで瞑想するということはあり得ないのかもしれません。

自宅で一人座って瞑想しているようでも
全てが同時に瞑想している。

そしてその繋がりの影響は、距離と関係するようです。
近くにいるほど身体として作用を受けやすい。

だからこそ空間的に同じ場所で瞑想する効果があります。
促進するだけのことですから必須ではありませんが。

一緒にやると現実的なメリットが多い。

それが講座の形にしている理由です。

同時に瞑想の中には、社会貢献的な趣旨も含まれます。
実際には「貢献」という他の存在への関わりではなく、
喩えるなら肩コリを自分でマッサージするようなものですが。

ともあれ、主観的な捉え方は置いておくとして
個人が心の癖を修正したり、心の癖を離れた時間を送るのは
世の中の歪みにバランスを取る形となります。

こちらの側面に関しては講座に付随した部分で
その方向に招待するだけのことです。

まずは現実社会での負荷を軽減する。
そういったメリットを体験していただきたいと願っています。

苦しんでいるということは、世の中の歪みが
そこに表れているということでしょうから。

cozyharada at 23:27|Permalinkclip!

2018年09月19日

ギフト

10月に入ると一気に慌ただしくなる予定なので
今のうちに、ということでDVDを借りてみました。

人気のものをいくつかと、前述のロシア映画がメイン。

3本借りるより4本借りるほうがお得なシステムのおかげで
やはり追加の一本を検討することになります。

こういうときは、
「気になるけれど積極的に見たいわけでもない」
ぐらいのヤツを試してみるのが僕の傾向。

そして結構な確率で、こういう風にして借りてみたものが
予想外のお気に入りになってりします。


で、案の定、今回もそういうのに当たりました。

ギフテッド(Gifted)というタイトル。



リンクはAmazonなのでプライムビデオになっていますが
僕はDVDレンタルで見ました。

ストーリーとしては数学者の家系の人間関係を描いたもの。

数学者は若い頃から圧倒的な才能を発揮していないと厳しいそうですが
そんな話に漏れず、この物語でも幼少期から数学が得意で
しかも英才教育を受けている家族が登場します。

タイトルの「Gifted」は「才能ある」という意味ですが、
「天から贈り物として授けられた」ようなニュアンスがありそうです。

数学者だった女性が結婚して子供を二人もうけ、自分は引退。
二人の子供がともに数学の才能を発揮し、
それが分かる母親は英才教育をします。

弟は半ば挫折して哲学に進む一方、
姉は世界的な数学者として活躍する。

が、姉は一人娘を残して自殺してしまいます。

その夫は早くに離婚していて娘とは疎遠だったため、
姉は弟の元を訪れて娘を託すことに。

娘を普通に育てることが姉の意志だと信じて、
その弟(主人公)が子育てや人間関係に奮闘する様子が
なんとも暖かく、かつスマートに表現されていると感じました。

主人公の男性は、自分の姪を娘のように育てるわけですが、
そのコミュニケーションの仕方、
気持ちの表現の仕方が独特かつ効果的です。

数学の才能がありながら、挫折と母親への反発から
最終的にまったく数学と関係のない船の修理の仕事を選ぶ。

そんな人だからこそ思いつける
「気づきを促し、かつ他者をコントロールしようとしない
正直なコミュニケーション方法」かもしれません。

そして何より、主人公の姪(亡くなった天才数学者の娘)が
またギフテッドで、しかも魅力的なんです。

小学校一年生にして大学の数学科のレベルが扱える。
当然、同級生とは話が合わないのに、
だからといって冷めているほどではない。

むしろ時には、その年齢らしい子供っぽさも見せます。

その知性と素直さがあるから、
主人公の独特のコミュニケーションの仕方が伝わる。

その辺も掛け合いとして心暖まるものがありました。

そして「ギフテッド」と呼ばれる「天賦の才能」についても
しみじみと考えさせられる内容だと感じます。

幸せとは何か?ということも含めて。


ちなみに、主人公を演じているクリス・エヴァンスは
アベンジャーズシリーズで『キャプテンアメリカ』をやっている人。

キャプテンアメリカは真面目な正義の味方の感じですが、
その前には『ファンタスティック・フォー』で演じた
『ヒューマントーチ』(火を出せる超能力者)は
チャラチャラした役でした。

そしてこの『ギフテッド』では、少し捻くれているけれど
純粋で知的で暖かな人柄を表現しています。

今あげた3作品は、何気なくストーリー重視で見ていると
同じ人物が演じているのを忘れてしまうぐらい
全く違った印象に見えます。

「ああ、キャプテンアメリカの人か!」と少し驚くぐらい。

こういう演じ分けができる役者は
日本には少ないんじゃないでしょうか。

そこも含めて、見応えのあるものだと思います。

cozyharada at 23:23|Permalinkclip!

2018年09月16日

招き子羊

今回の名古屋出張の際、
会場近くのレストラン街へ昼食に行きました。

なかなかバリエーションが豊富なところなんですが
その中に一軒、ラム料理の店があるんです。

ラムハンバーグとかローストラムとか、そんな品ぞろえ。
ジンギスカンではありません。

系列が同じなのか、純豆腐(スンドゥブ:韓国の豆腐料理)も
同じ店舗内で販売されていて、客観的に眺めていると
ラムの人気は今一つのように見えます。

僕はラム肉も苦手ではありませんから
何度か入ったことのある店ですし、
ちゃんと美味しい食事ができます。

でも同じレストラン街の中では空いているほうの店なんです。

ランチタイムにダントツで空いている居酒屋が一軒あって
それはまぁ、一度利用してみれば、いろいろな意味で
その理由が納得できるところ。

それと比べるとラムの人気薄は、もはや
「ラムそのものを苦手な人が多いのでは?」
という理由を考えてしまうほど。

立地的にいえば、メイン通路の突き当り真正面にありますから
すごく目につきやすいところなんです。

でも、それより奥まったところにある蕎麦屋のほうが混んでいる。

観光客向けの名古屋めし食堂は確かに人気がありますが、
地元の人も大勢くる場所なので、例えば中華とかスペインバルとか
そういう店だって昼時はかなり混雑するわけです。

そういうのも加味すると、ラムが不人気の理由が思いつきにくい。

やっぱりラム肉が苦手、匂いが苦手、という可能性はありそうです。

実際、昼に食べると一日中、体にラムの匂いが残っている感じはします。


そんなラム料理の店なんですが、ときどきメニューを変えながら
なんとか店が入れ替わることなく営業を続けています。

純豆腐のために来店する女性客は多いようなので
その売上もあるのかもしれませんが。

確かに店頭の看板を見ても、あまり目を引くデザインではないですし
店名もアルファベットで書かれていて、
何が食べられるか分かりにくいところもあるようには思います。

無難に食べられそうな印象はあるけれど、他の店も色々ありそうだから
と、もっと別のレストランを探しに通り過ぎられてしまいそうです。

店側も「何か工夫を」と策を練っていると思われます。


そして最近の工夫の1つが、ラムをアピールするために
ヒツジのぬいぐるみを置き始めたこと。

ラム肉という特徴を分かりやすく示そうという作戦なんでしょう。

ですが、その店先の床に置かれている大きめのヤツが
かわいらしい姿ではあるものの、ちょっと微妙だったんです。

ラム


























ややリアルな作りをしていて、ちょうど子羊っぽいサイズ感もある。

そして何故か、うなだれています。
足の感じも元気がなさそう。

人間が感情移入して見てしまうと、悲しそうな雰囲気を感じます。

余計なことが頭に浮かんできてしまうというか…。

「ラムの店」ということを分かりやすくする目的には適っているし
通りがかりの人の注目を集めやすいところはあるとは思います。

ただ、売り上げに貢献するかというと、どうなんでしょう。

逆効果になる人もいるんじゃないかと気になります。

cozyharada at 23:41|Permalinkclip!

2018年09月13日

ロシア語の映画

ロシア語の勉強を兼ねて、ロシア映画を見てみました。

たまたまTSUTAYAで取り上げられていたヒーローものです。



内容的には、ロシア版のX-MENとか、
ファンタスティック・フォーとかいった感じ。

だいぶシンプルです。

一応「全露ナンバーワン売上」、
多額の予算をかけた「超大作」らしいです。
(ハリウッドよりはずっと低予算)

ストーリー展開はあっという間、
特にヒネリもなく、話がポンポン進みます。

1時間半ぐらいしかないのもあって
退屈するところは全くない。
…盛り上がりもイマイチかもしれませんが。


内容はさておき、僕としてはロシア文化や
ロシア語の後に触れるのが目的だったので、
その点では満足でした。

街や人の雰囲気は、アメリカと随分違って見えます。
むしろハリウッド映画に出てくるロシアのシーンに近い。

以外とアメリカ人もポイントを押さえているのかもしれません。

いや、もしかしたら、本当に知っている人は
ロシア映画に登場する街並みや人の行動パターンと
ハリウッド映画に登場するものとでは
違いを感じとる可能性もあるでしよう。

実際、ハリウッド映画に登場する日本人は
中国人や日系アメリカ人で「日本人らしさ」がないですし
日本とされる街並みもゴチャ混ぜというか
新宿や渋谷もチャイナタウンをミックスしたイメージです。

僕は日本の経験が多いから、その違いが分かる。
アメリカ人は経験が少ないから気にならない。

その意味では、僕の中のロシアについての経験不足を
実感させてくれる機会になりました。

やはり現地に行ってみるのは大事なんでしょう。
せめてロシア人と接する機会ぐらいは増やしていきたいものです。


一方、ロシア語の音に触れるという点では
映画でも役立ちそうに思いました。

ロシア語は文法が複雑なので、最初はどうしても
日本人の先生から習うことになりがちです。

そして僕の出会った日本人のロシア語教師は
のきなみ発音がいい加減。

単語を覚えるときに支障が出ます。

発音や聞き取りの効果を考えると
まったく聞き取れない時期であっても
ネイティブの言葉を経験の中に蓄積しておくのが必要そうです。

他にどんな映画があるか知りませんが、
ロシア映画もチェックしてみようと思います。

cozyharada at 23:56|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《コミュニケーション講座》
瞑想のモデリング


【日時】 
  2018年10月21日(日)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回は年末ごろの予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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