心理学

2017年11月14日

おもてなしの言葉

外国人講師の接待で和食に行く機会がありました。

料亭と呼ぶほどのものかは分かりませんが
外国人向けに設定されているフシは多々見受けられました。

部屋の内装は、ただ和室というだけでなく
茶室としても使えそうな作りになっていて、
床の間には掛け軸なんかもあったりしました。

トイレの草履を含めて、全体的に日本文化を強調した感じ。
それでも和室の中央は掘りごたつのようになっていて
座椅子と合わせ、外国人の人が和室を楽しめるような
工夫を色々と重ねていたんだろうと思います。

実際、外国人のお客さんを連れてきている人が多い様子で
少し強調された日本の伝統が見せ場なのかもしれません。


当然、接客担当の人(仲居さん?)も和服です。

しかしながら今どきの若い日本人女性を教育するのは大変なんでしょう。
畳の部屋そのものに慣れていない人も多いと思われますし
家族旅行で旅館に行ったことだってない人もいる可能性さえありそうです。

若い仲居さんたちの所作が期待に追いついていないだけでなく、
仲居頭の人がやってもらいたいクオリティのサービスは
十分に得られていないようでした。

教育上のお叱りの声なんかもあったりしましたし。

それでも、10年も勤めてくると仕事の安定感は増すみたいです。
なかには自信と安定感を携えた人もいました。


また、外国人のお客さんが多いということで
英語の教育も多少はしているように見えました。

その中に一人、かなり流暢に英語を使える仲居さんがいたんです。
前述の10年勤務の人。
英語が話せることも自信の一因かもしれません。

実感したのは、サービス業における言葉というのは
 「業務として何をするか」以上にトレーニングしにくいのだろう
ということです。

ときどき妙な言い回しが聞こえてきてしまいました。

例えば
「当店の料理長はフランス料理あがりなもので…」
とか。

「あがり」は、あまりフォーマルでない気がしますが
そんなことはないんでしょうか?

僕は、あまりポジティブなニュアンスで使われない印象を持っています。
(僕の理解が届いていないかもしれませんけれど)

また英語についても流暢ではあるものの
フォーマルさが一切出ていない種類のものでした。

アメリカの接客業ならフレンドリーで済むところでしょうけれど
和風の「おもてなし」をしている様子とはミスマッチです。

声のトーンにしてもアメリカの女子高生ぐらいの雰囲気。

発音は奇麗だったんです。
だからこそ余計にネイティブからすると
相応の年代を思い起こさせてしまいそうな気がします。

きっと高校生のときにホームステイや留学をしていたとか
大学の時に交換留学で行ったとか、そんな感じじゃないかと思われます。

小学校や中学校ぐらいの時期の帰国子女の可能性もありそうです。

しかし確実性が高いのは、海外で生まれ育ったわけではないこと、
そしてある程度若い時期だけで日本に帰ってきていること、でしょう。

ネイティブ感覚があるわけではなく、また
大人の英語に接していない可能性も高そうです。

そうなると流暢だけれどもフォーマルさが一切ない子供っぽい雰囲気が
接客としてしていることと不一致感を生み出します。

ちょうど日本語でも、丁寧な言葉遣いができているのに、
その中に「フランス料理あがり」という言葉があると
異質に感じられるようなもの。

むしろ、おぼつかない日本人英語だけれど
一生懸命に話そうとしている方が好印象を与えられるかもしれません。

話の内容そのものではなく、言葉の選び方とか
声のトーンとかにも、メッセージ性が出てしまうんだろうと思われます。

自分でも気をつけたいものです。

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2017年11月10日

スピーキングのトレーニング

外国語をやっていて、おそらく一番もどかしいのは
言いたいことが言葉にできない瞬間ではないでしょうか?

文章を読んでいて構造がややこしいのは
頑張って時間をかけて解読すれば、まだ対処できそうです。
何より、自分一人で読んでいるわけですから時間がタップリあります。

単語を知らなければ、それはもう調べるしかないですし、
逆にいえば知らないだけなので、気持ちを引きずらず、潔く次に進めます。

外国語である以上、聴き取りは常に大変なものだと思いますが、
こちらは聞けなかったときに意外と諦めがついてしまいがちです。
「あぁ、無理だ。分からない。」と。

聴くのは『必要性』があるから聴き取ろうとするのであって
「聞きたい」という自発的な『欲求』があるわけではありません。

その点、言いたいことが上手く言葉に言い表せない状況は
「言いたい」考えが頭に浮かんではいて、
「伝えたい」気持ちが起こっているときです。

話すときには「言いたい」欲求がある、と。

会話の流れの中だと尚更でしょう。
付け加えたい考えが浮かんだり、質問に答えようとしたり。
まず、言いたいことが浮かんでくる。

にもかかわらず、それを的確な言葉に変換できない。
…そういう”もどかしさ”です。


実体としては母国語でも同じようなことは起きていて、
ややこしい文章は理解が大変なものですし、
意味の分からない単語は調べるしかないですし、
滑舌によっては母国語でも聞き取れないこともあります。

母国語の会話でも、聴くのは多くの場合、必要性からであって
話すほうには、浮かんだ考えを口に出したい欲求が伴います。

そして母国語でも考えを的確に言葉に変換できなくて
「うーん、なんていったら良いか…。えーっと…。」
なんていうことはあるものです。

これもやはり、もどかしくはあると思われます。
とりわけ会話のテンポが速いときや、
質問されて「答えないといけない」プレッシャーを感じるときは
上手く言えない”もどかしさ”は大きくなるでしょう。

ただ外国語の場合、さらに
言いたい内容が母国語(別の話せる言語)で浮かんでしまって
「日本語だったらこう言うのに…。英語だと何て言うんだ?」
という感じの考えも同時に浮かんできます。

ただでさえ考えを言葉に変換できないのは”もどかしい”のに
母国語の場合との比較が加わってしまって
「言えるはずのことが言えない」という意味で
”もどかしさ”や悔しさが大きくなってしまうと考えられます。

これは学習の過程で避けられないところなのかもしれません。


ここで1つのやり方は、
浮かんだ考えを母国語の言葉そのものとして
対応する外国語に変換(翻訳)しようとせず、
むしろ
 一端その内容を、同じような意味で簡単な日本語に置き換えて
 それを簡単で自分の分かる外国語に変換する
というものです。

これだと知らない単語があっても何とか対応できますし、
最低限、自分の伝えたいことを言葉にすることができます。

例えば絵を見ていて「奥行きが上手く表現されている」と言いたいとき
「奥行き」に当たる単語が思いつかなかったとします。

そうしたら「近い」「遠い」といった単語を使って
「このものが遠くにあるように見える。リアルだ。」
などと言うようにする。

そういうやり方です。

これは現実的な対応力をつける上で重要な訓練だといえます。

全ての単語を覚えられるわけはありませんから
こういう表現方法を身につけられたら
少ないボキャブラリーでスムーズな会話ができるようになるでしょう。

別の言語を身につけようとした場合にも
ボキャブラリーは最低限のままで流暢に話せる可能性があります。


しかし、これだと自分の言いたい考えを
いつまでも的確に言葉にすることができません。

母国語に追いつかない、という”もどかしさ”が消えないわけです。

だったら、言いたいことが言えなかった瞬間に
その内容を、なんとかしてでも外国語に置き換えて
それを覚えて練習してしまえば効率的でしょう。

「奥行き」にあたる単語が分からなかったとき、
それをその場で調べるなり、教えてもらうなりして、
「奥行きが上手く表現されている」という日本語の内容を
もっとも的確に置き換えた表現を言えるようにしてしまう。

そういう作業を繰り返していくと、
自分が普段使っている母国語をそのまま外国語にできます。

個人の使う母国語には偏りがありますから
自分の母国語のパターンを外国語に置き換えようにするのは
かなり手っ取り早く、しかも”もどかしさ”を早く解消できる方法でしょう。

この作業を会話のレッスンの最中にできたら良いんですが、
なかなかそのトレーニングをさせてくれる講師はいません。

浮かんでしまった母国語の内容をそのまま言葉にして伝えても
それを外国語に変換できるバイリンガル講師でなくてはいけませんから。

しかも、母国語モードで考えるのではなく
極力、外国語で会話している状態を維持しつつ、
どうしても対応させられなくて”もどかしい”ときだけ
その言葉を母国語で言って、変換してもらう。

そしてその場で何度か言い直して使えるように記憶させる。

そういう臨機応変な対応が不可欠でしょう。

会話の流れをキープしたまま、語学トレーニングのモードと
自由に行ったり来たりできる柔軟性も必要だと思われますし。

何より、そういうトレーニング法を理解してくれたり
協力してくれたりする先生が少ないはずです。


なので比較的よく行われるのが
 自己紹介や自分にまつわる話を一度、母国語で書いたり、
 あるいは話したものを書き起こしたりして、
 その内容を外国語に訳してもらって、それを練習する
という方法です。

これだと自分の言いたいことをそのまま外国語に置き換えられます。

慣れてきたら、会話のトピックごとに自分の意見をまとめてみて
それを外国語に置き換えて覚えることを続けたらいいんでしょう。

様々な会話の内容について、自分が母国語で言いがちなことを
そのまま外国語で覚えられるようになります。

この作業のメリットは、会話のようにリアルタイムではないところ。

一人でやるなら、ライティングを中心にやっても良いのかもしれません。

まず日本語で書いてみて、それを英語にする、とか。

第二外国語をやるのであれば
英語で書いたものをフランス語やロシア語に置き換える、
といった感じでしょうか。


複数の言語を習得しようという場合にも良さそうな気がします。

ありがちな会話のトピックごとに母国語で自分の意見を書き、
それを常にストックしておいて、
全ての言語でその文章を言えるようにするトレーニングを行う。

自分の考えを、自分の言葉で表現するパターンを把握しておいて
それを言語化していくという内容です。

この勉強法(スピーキングのトレーニング法)、
勉強会のような形でやってみても良いかもしれません。

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2017年11月07日

集中的にトレーニングをしたい

例年、秋は忙しい印象があります。

その理由の1つは、きっと書道でしょう。
作品制作のために費やす時間が、普段よりも多めです。

とはいえ、今年の作品製作期間ももう少しで終わり。
納得のいく形になるかどうかは別にして
締め切りが迫っているところなんです。


それが終わったら少し時間的に余裕が生まれそうなので
そのあたりからフランス語を自分でトレーニングするのと
ロシア語の復習をキッチリするのとに力を入れたい気分。

ロシア語は文法中心で進んでいるため、
圧倒的に練習量が少ない。

単語や文法項目は覚えるだけですし、
それほど覚えるのにも時間はかからなそうな気はしていますが、
それでもまとまった時間が必要ではあります。

もう少ししたら、そこを追いつけそうだ、と。

フランス語については集中的にトレーニングをしたいところです。
一通りの文法は抑えられていると思いますから
運用力を高める目的で、とにかく練習が重要だろう、と。

スムーズにアウトプットできるようにするためのトレーニングと
地道な聴き取り力の土台作りが必要だと感じています。

教材は買い込んであるので、あとはコツコツやるだけ。
そのぐらいの時間はできるはずなので。


おそらくロシア語のほうは、本当に基礎ということで
今までの復習分を頑張って一通り覚えてしまえば
そのあとの理解も一気にスムーズになるのではないかと想像しています。

つまり効果が実感しやすいだろう、と。

その点、フランス語の方は効果の実感が微妙です。

地道なトレーニングが成果として感じられるのには
まとまった期間が必要だと思われます。

幸い、英語を勉強していたときに
振り返って「随分と分かるようになったなぁ」と
感じる経験はありましたから、
その意味で見込みをもって取り組めるとは思いますが。

それでも自分の技能の向上を感じられるかどうかで
ヤル気や楽しさが変わってくるのも実情で、
 どれだけ効果を実感するタイミングがあるか
も考慮する必要があるでしょう。

たまにではあっても、効果を感じるための場として
テストとか、実用的な会話の機会とか、
そういったものを取り入れられたら良いのかもしれません。

英語だとそういう機会も多く用意されているんですが…。
フランス語だと探すところから苦労しそうです。

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2017年11月01日

大きな感情が表れるとき

ロシア語の講座には全部で8人の生徒がいます。

大学の公開講座になっていますから、
OBには若干の割引があったり、そもそも結びつきの強さがあったり、
参加している方の中には結構な割合で卒業生がいそうです。

その中に一人、20代ぐらいの女性で
勉強の得意そうな雰囲気の人がいます。

実際、毎回の講座にはしっかりと予習をして臨んでいるようで
単語帳を見ながら暗記もしているし、
質問も積極的にして確実に身につけようとしている印象を受けます。


おそらく非常に負けず嫌いの傾向が強く
塾でも学校でも優等生で通してきたんでしょう。

質問をするときの言葉遣いや声のトーンからも
若干の敵対心というかケンカ腰というか
自分の正しさを示そうとするような雰囲気が感じ取れます。

で先日、その人が練習問題を当てられて答えるときに、
ちょっとした間違いをしたんです。

予習として解いてあったものを読みながらでしたから
それなりの自信とともに言っていたと思います。

確かに少しだけ複雑な部分ではありました。
英語にはない文法項目でしたし。

「あなたたちの辞書」という言い回しの訳なだけなんですが、
英語だと「your dictionary」か「your dictionaries」か
いずれかしかありません。

それがヨーロッパ言語になると、
フランス語でもスペイン語でもロシア語でも
2人称(あなた)にあたるところが
「君」と「あなた」のように親しみ度合いで2種類あるんです。

そして「君たち」のように2人称複数形になったものが
「あなた」という敬意のある2人称単数と同じ形になります。

もちろん「あなたたち」という2人称複数も同じ形です。

ですから「君」という親しい関係の2人称単数にあたる単語が1つ。
それとは別に、
 峽たち」(親しい2人称複数)
◆屬△覆拭廖雰桧佞里△襭何余涼運堯
「あなたたち」(敬意のある2人称複数)
の3つに対応する単語が1つある、ということです。

この問題では「あなたたちの」ですから
後半の3つのほうの話です。

さらにロシア語でもフランス語でも、
「誰々の〜」という所有形容詞は
あとに続く名詞が単数か複数かによっても形が変わります。

ですから「君の1本のペン」と「君の複数のペン」では
「君の」の形が変わるんです。

当然、もう一方の「君たち、あなた、あなたたち」に対応するほうでも
後に続く名詞が単数か複数かによって形の違いがある。

そういう意味で、「あなたたちの辞書」という日本語は
ロシア語に変換するときには少し複雑なわけです。

2人称単数のほうなのか、2人称複数(敬意のあるほう)なのか。
後に続く名詞は単数なのか、複数なのか。
この両者を同時に扱う必要がある。

そこでその負けず嫌いの人は、
2人称複数のほうにするのを見落としてしまっていたようなんです。

ですから実際には「君の複数の辞書」として訳してしまった。


かなり準備もしているし復習もしているし、
自信があって負けず嫌いの優等生といった感じですから
間違いが気に入らないわけです。
間違っていることを認めたくもない。

それで「いや、でも…」なんて食い下がりかけたんですが、
このロシア語の先生が一風変わったコミュニケーションの持ち主で
相手の気持ちを汲み取るとかは一切しないし、
オドオドしながらも自分のペースを崩さないような
いかにも大学教授といった人なんです。

そのため彼女の質問を途中で遮り、
上記の違いを独特のペースで説明し始めました。
かなり分かりにくい説明だったと思います。

途中、何度か答えを言い直させようとして問いかけるんですが
解説そのもののやり方がグチャグチャなうえに
間違えを指摘されたことで平常心を大きく失っている彼女は
まともに理解することもできなくなっていました。

ほとんど泣きそうな状態。
内側にもどかしい怒りも溜まっているので
ほとんど小さい子供の「癇癪」に近い状態だったと思います。

優秀さと正解を自分の存在の拠り所として育ってきたら
無理のない状況だったことでしょう。

はたから見ていれば
「たかがロシア語入門の練習問題の1つを
 半分だけ間違えただけなのに、そこまで…」
と感じた人もいたかもしれませんが
(その感情すら見ていない人もいたでしょうが)
本人にとっては重要な部分なんだろうと考えられます。


それで思い出したのは、
 僕は個人として、もうここ何年も
 そこまで強い感情を体験していない
ということでした。

先日、スカイプが動かなくて先方を待たせてしまったときと
寝坊をして遅刻してしまったときには焦りが出ました。

でも逆に言うと、大きな感情が起こっていないようです。

確かに以前はあったんですが。
他人から気づかされることは多いものですね。

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2017年10月26日

トラブル続き

なんだか最近、トラブルが続きます。

よく分からないけれど上手くいかない結果に巻き込まれて
色々と手を打つ必要が出てきたり。

なぜかパソコン絡みで急なトラブルが起きて
大事なオンラインミーティングができなくなり、
スケジュールを改めてもらったり。

肉体的にも精神的にも負荷のかかる仕事が重なったり。

自分の不注意で先方に迷惑をかけてしまったり。

幸い破滅的な結果には結びついていませんが
振り返ってみるとトラブルが多い印象です。


不思議なもので、いろいろとスケジュールが重なって
気ぜわしくなっているときほどトラブルが多い気がします。

もちろん、忙しさから自分の落ち着きがなくなって
自分の不注意からしてしまうミスも含まれますから、
そちらのほうは、ありがちな話ともいえるかもしれません…
反省とは別のレベルとして。

しかし自分が起点になっていないトラブルに巻き込まれる。
普段だったらスムーズに進むところがそうならない。
これが重なるのは何とも奇妙な感じです。

秋の終わりに2週連続で台風が日本列島を直撃する…
なんていうのと同じぐらい、偶然かもしれないけれど
「滅多にない厄介なケース」として感じられます。

それによって自分の日々の行動に支障が出ないよう
しっかりと心身を調えるのが可能な範囲の最善でしょうか。


そういう意味でいうと、最近ふと目に留まったフレーズ
 『心の目を閉じる』
というのは意味がありそうです。

忙しさの理由の1つになっている資料の翻訳ですが、
その中でパッと目に留まった言い回しでした。

資料の本筋の内容とは無関係で、
ただの説明の一部に使われていた
資料を作成したご本人特有の言い回しなんだと思います。
(内容的に著作権に引っかかるとかいうものではないはず)

ただそれが今の僕の状態に役立ちそうだった。
それで印象に残ったんでしょう。

忙しい時ほど、目を閉じても
頭の中、心の中が動き続けるような感じがするものです。
眠れないときなんて、余計にそんな状態でしょう。

むしろ目を閉じることで一層、
頭の中の作業が意識に上がりやすくなって
さらに気ぜわしさを高めてしまうこともあるかもしれません。

そんなとき、心の中の目を閉じるような”つもり”になるだけで
スーッと落ち着いていく部分があるのにも気づけます。

そういうリセットの仕方も大事な時期という印象です。


まぁ、それ以上に慌ただしさに一区切りがついたあたりで
大きめのリフレッシュをする必要はありそうですが。

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2017年10月22日

海外からの”達人”

この週末、4日間にわたって
海外から講師を招いたセミナーのお手伝いをしています。

自分でやるときとは全く違った肉体疲労もありますが
刺激的な体験をさせてもらっている感じです。

先生は心理学で博士号をとった発達心理の専門家で
大学では教育学部に身を置きながら、
学生の教育だけでなく社会人向けのトレーニングにも
長きにわたって携わってきたとのこと。

自然体で大げさではないものの
実直で無駄のない、洗練されたスタイルで講座をしています。

もちろん学び方の構造そのものも教育は発達の観点から
意図的に設計されたものだと思われますが、それ以上に
受講生とのやり取りの中にも効果的なアプローチが多々見られます。

かなり多くのことを工夫しているんでしょう。


サラッと見てしまったら何がスゴイんだか分かりにくそうでも
実体としては、熟練されているからこそのシンプルさがある。

料理人でも様々なパフォーマンスを見せて
見る方でもお客さんを楽しませようとするタイプの人もいれば、
ただひたすらに全てを料理に注ぐ人もいます。

ともすると所作に美しさが感じられないほど
当たり前に、むしろ適当そうにやっている様子でも、実際は
その何気ない自然体が知恵と技術と経験の集大成になっている…
そういう達人がいます。

素人から見ると簡単そうに見えて、
それぐらいできてしまいそうな気がするのに、
出来上がったものには決定的な違いがある、と。

書道なんかもそういった分野でしょう。
過度にならず、さりげなく、絶妙なバランスを取る。
そこに伝統的な美の基準と品格が出るようです。

アメリカ人で、大学の教授でありながら
そういうタイプの人がいるというのは面白いものだと感じます。


個人的に興味があるのは、
どれぐらいの意図でセミナーを設計しているのか、です。

表面的に伝えていることと、実際に出そうとしている影響とには
もしかしたら差があるんじゃないかという気もします。

分かりやすくビジネス分野の人たちに魅力的なテーマを作り、
裏で与えている影響は、もっと人間的な側面のほうにあるような印象。

大勢の人に向けて分かりやすい構造を作りつつ、
その中に大切な種をまいておくような感じでしょうか。

こういう方向の伝え方も求められるのかもしれないと思った次第です。

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2017年09月18日

プログラムとしての理解

最近、いろいろな形で頼まれごとが続きました。

もちろん僕に頼んでくる人は、僕のやっていることを知って
そこをベースに尋ねるようなので、
仮にも体力的な面(例えば、引越しの手伝いとか)ではなく
人の内面に関わるような話が自然と中心になります。

そこで改めて気づくのは、僕の発想の基盤にはNLPがあるということ。

つまり、人が何を学習しているのか、
どういう体験によって学習された結果、
どのような認知の仕方をするようになり、
どんな反応の癖が身についているのか、
そして、それはどれぐらい変えやすいものなのか、
どういうことによって変えていけるのか
…などを考えるようなんです。

人に起きていることの全てが学習されたプログラムだとは言えず
僕の扱う範囲の中にはプログラムとは違うものも含まれますが、
人が日常的に体験している問題の大部分は
プログラムの発想を踏まえた上のような問いで説明できそうです。


それに対して心理学的な研究成果の中には
人のやっていることを傾向として分類したものがあって、
例えば「ストレスがかかったときに、どう反応するか?」などは
その反応の仕方(どんな反応が表れるか)に注目した分類であって、
「どのタイミングで起こるか?」は分類の要件に入っていません。

つまり、
「ストレスがかかってから、何が起きて、そのあとでどうなって
 どんな時期が続く結果として、どういう反応をするようになるのか」
など、長い時間の中で起きることを、時間枠の区別なく
一様に「どんな反応が出るか」だけを基準に分類したりするわけです。

それで役に立つし、それに応じた対処も考えられるので
「どのタイミングで」というのは重要視しないんでしょう。

しかしNLPとしては、そうしたストレス反応を生み出す”しくみ”をもとに
本人の中で何が起きているかを考えようとします。

なぜなら、反応を生み出す”しくみ”の中の
どの過程で問題が起きているのかによって
対処の仕方が異なるからです。

例えば、身の危険が迫るような大きなストレスがかかったときには
身体は動物的な防衛の反応を始めることが知られています。
これは学習されたものではないので、どうにかする対象ではありません。

むしろ動物的な防衛反応が出た後に、どうやって
人間らしい社会生活に戻っていくかのほうが大事になる。
タイミングとしては「防衛反応の出た後」にアプローチをする、と。

ところが、ストレスのレベルが小さいときには話が変わります。

身の危険が迫るような災害や災難などはストレスレベルの大きなものですが、
そこまで体のレベルで危険ではないけれども
最終的に不快な気分になるケースは日常生活に多々あります。
人間関係の不満などは典型的でしょう。

多くの人間関係のトラブルは、そこまで動物的な危険ではありません。
相手の対応について、自分に不満があるだけのことです。

しかし相手の対応が望ましくないことで、
自分の内面に「不快な感情(怒りや悲しみ、傷つきなど)」が生まれます。

この不快な感情を自覚したときに、「嫌な出来事だった」と振り返ります。
そしてそのキッカケとなった出来事を「ストレス」と判断する。

こういうケースにおいてNLPでは、
不快な感情が起こらないようにプログラムを変えようとします。

つまり「嫌な出来事だった」という捉え方を変えたり、
怒りや悲しみなどの感情が出てしまう癖を修正したりするんです。

対処のタイミングは、「出来事が起こる」とき。
望ましくない反応を生み出すキッカケの出来事のタイミングを対象にします。

大きなストレス反応については、反応が起こった”後”に対処する。
小さな反応については、反応が起こる”前”の出来事にアプローチする。
そういうタイミングの違いがあるんです。

さらに心理学的な分類に基づいたストレス反応には、
長期的に体のレベルでのストレス反応が続いた後に
元気がなくなるのか、逆に頑張ろうとするのか、など
次の段階としての反応の区別もあります。

これは時期的に考えると、数秒とか数分の範囲の話ではありません。
何日後とか何か月後とかの長い範囲の話です。

大きなストレス的な出来事があった直後の動物的な身体の反応は
一秒にも満たない範囲で起きていることです。
そのあとに反応を落ち着けるように対処するのも数十秒レベルの対処です。

これだけ時間枠の範囲が異なっていると
NLPでは対処の仕方も違ってくるんです。

しかし心理学の分野によっては、
心の癖を修正するような対処を想定してはいないので
時間枠の違いを考慮する必要がないんでしょう。

NLPは心の癖を修正するのが基本ですから
注目の仕方、区別の仕方が異なるわけです。


僕の発想には、NLP的な時間枠の区別が染みついています。
その人の中で何が起きているかを考えようとします。

すると心理学の知識の解説を頼まれたりする方が
そもそもの着眼点の違いから難しかったりもするんです。

いかにNLPが土台になっているかを実感します。

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2017年09月08日

相性と価値観の区別

「合う・合わない」と「好き・嫌い」を区別できると
人間関係や出来事を受け入れやすくなるようです。

裏を返すと、「合う・合わない」と「好き・嫌い」を混同していたら
楽になれる方向性の取り組み方があるのに、異なった取り組み方をして
長いこと苦しみ続けてしまいかねない、という話です。

本当は「嫌い」なことを「合わない」と拒絶して
「好き」あるいは「嫌いではない」ぐらいになれる可能性から目を背け
改善の努力に取り組もうとしない。

あるいは「嫌い」なのを「合わない」と捉え
違いがあるのは仕方のないことだと頑張って受け入れようとして
「嫌い」の奥にある自分の価値観を抑え込んでしまう。

逆に「合わない」ことを「嫌い」だと捉えている場合には、
「”嫌い”という個人の反応は自分が成長すればなくなるはず」
「自分が変われば関係性も変わって、嫌いではなくなるはず」
と期待して、噛み合わない関係性に身を置き続ける結果
ずっと苦しい思いを味わい続けることになったり。

あるいは「合わない」だけなのに「嫌い」だと思うあまり
他者を嫌っている自分に対して「それは良くない」と判断して
自己嫌悪に陥ってしまうケースも見受けられます。


「合わない」のではなく「嫌い」なのだとしたら、
そこには自分の価値判断が表れています。

これまで経験してきたことによって
「こうすることが良い、正しい、普通だ」と考えるところがあり、
その考え方によって大切にしたい何か(価値観)がある。

相手とは、その価値判断が異なっているわけです。

よく話し合ってみたら、相手の考えの中にある価値観に共感できて
相手のことを受け入れられる可能性だってありえます。

お互いの価値観をすり合わせて共通のゴールを見出せるかもしれない。

ただの「違い」として諦めるのではなく、
自分の価値観も、相手の価値観も、どちらも大切にできるように
双方にとってベストな関わり方を見つけられる余地があります。

逆に、「嫌い」なのではなく「合わない」のだとしたら、
その性質そのものを受け入れて、素直に諦めることもできます。

「合わない」という違いについては「合う」ように無理をするよりも
「合わない」もの同士、どのような接点にしておけば
不快な思いをする必要がなくなるのか、という考え方です。

「合わない」から「嫌う」必要もありません。
相手の存在を尊敬しながらも距離を取ってもいいでしょう。
嫌悪感という感情を、心理的な距離を取る手段にする必要はありません。

「合わない」ものは「合わない」。
そのことで自分を肯定する必要も、否定する必要もない、と。


では、「合う・合わない」と「好き・嫌い」の違いは何なのか?

一言でいうと、
 学習されたものが「好き・嫌い」
 学習以前の生まれもった性質によるものが「合う・合わない」
と区別できます。

この区別が定義として正しいかどうかは定かではないですが、
『学習されたものかどうか』という基準で考えると
 「学習されたものなら再学習して変えられる。
  学習以前の生まれもったものは変えるのが大変。」
という現実的な理解が可能になります。

再学習して変えられるものであれば
変える方向で対処したら改善する余地があるわけです。

生まれもった度合いが大きくて変えにくいものだとすると
無理やり変えようと頑張るよりも、
現状を受け入れてしまった方が楽になれる可能性があります。

そういうシンプルな指針を目的とした区別です。


学習されたものは基本的に経験に基づきます。

本人が直接体験していなかったものであっても
教育という経験を通じて、何らかのイメージを仮想体験して
頭の中でシミュレーションできるだけの材料にはなります。

直接経験したものは、快・不快の状態を伴って
「〜したら、〇〇(快・不快)になる」という経験則になります。

で、「どういう種類のことに対して快を感じるのか」の分類が
価値観(=何を大切にしているか)だといえます。

例えば、人と穏やかに関わっている時の安らいだ状態を”快”とする人は
安心感や優しさなどを価値観としているということです。

そもそもどうして、その種の状態を”快”と捉えるのでしょうか?
どうしてその価値観を持つに至ったのでしょうか?

そこを振り返っていくと、何を頻繁に経験していたかに行き着きそうです。

生き物として安全に生存していられる状態、一切のリスクがない状態に
どの種類の体験が結びついているか。

言い換えると、どういう種類の状態にいるときに
生存の心配をする必要がなくなっていたか、ということです。

具体的には例えば、赤ちゃんのときに
抱きかかえてもらっている最中に安心していられたとすると、
身体の暖かさや触れ合い、揺すってもらっているリズムなどが
馴染みのある”快”の状態として経験されていくはずです。

何か生き物として不快な状態が起きて、泣いて表現する。
すると誰かが抱き上げて、揺すって、あやしてくれる。
そんな経験が多ければ、そこに基準が生まれてきやすい、と。

あるいは、不快なことがないまま目が覚めている状態のときほど
周りの人たちが集まって笑顔で見てくれている…といった経験が多ければ
人との穏やかな交流や静かな心地よさを”快”として学習しそうです。

また、不快なことがないときに体を動かして声を出して
身体的なエネルギーを活発に使っている場合ほど、
周りの人たちが関心を向けてくれたり、一緒に遊んでくれたりすれば
身体のアクティブな状態や、明るさ、楽しさなどを”快”と結びつける。

そんな風に小さいころから、
生き物として安全なときに慣れていた状態を
”快”のベースとして学習していくと考えられます。

それが価値観の土台になっていく、と。
つまり価値観も「慣れ」から生まれている。

食べ物の好み、生活習慣の好みも慣れによるところが大部分です。

辛い物が当たり前の文化で育てば、辛い物が好きになる。
味付けの濃い文化や家庭で育てば、そこに馴染んで基準が作られます。

生活環境の好みにしても同様。

人の外見の好みなんかも、自然に体験してきた情報量の影響が大きく、
身近な人に似た印象や、あるいは鏡に映った自分に似た印象、
テレビで頻繁に露出されている人の印象など、
体験の量が非常に大きく関わっているものです。

「慣れ」という単語が適切かは分かりませんが、
とにかく体験の量が、価値観を含めて
「好き・嫌い」の土台を生み出してきている、ということです。


一方、「合う・合わない」は学習と切り離れます。

エビ・カニにアレルギーのある人は、美味しいと感じても食べられません。

僕はグラノーラなどのシリアルを食べたいときがあるんですが、
牛乳をかけて食べると、決まってお腹の具合が悪くなります。
合わないんです。

生き物として個体のリズムもありますから、
歩くスピードや話すスピード、話し声のトーンなどは、
自分のリズムと相手のリズムが「合う・合わない」の話になります。

僕が女子高生のテンションと合わせるのは大変です。

犬が好きな僕ですが、リズムという観点で
小型犬よりも大型犬のほうが「合う」感じがあって心地いいです。

で、ここが少し紛らわしくて注意が必要なところ。

「合わない」のは心地よくない。

心地よくないということは「不快」として認識されます。

嫌いなものの土台にあるのも「不快」な状態です。

「不快」な状態が共通しているので混同されやすいわけです。

そうすると「合わない」から「不快」なだけなのに
「不快だということは嫌いなんだ」と判断してしまったりする。

アレルギーの人がエビを食べて苦しむ体験をする。
ここでアレルギーという理解があると「合わない」と判断できます。

でも「合わない」理由が何なのかを知識として理解できないと
「〇〇を食べると気分がよくない」という不快の体験だけから
印象を捉えることになります。

例えば僕はニンニクが多いものを食べるとお腹の具合が悪くなったり、
中華料理をたくさん食べたり、チェーン店の牛丼を食べたりすると
身体が重ダルくなったりする傾向がありますから、控えています。

味の慣れとしても「好き」の部類には入っていない自覚があります。

すると「好きではない」+「合わない」=「嫌い」のように
判断してしまいかねないんです。

確かに「食べたくない」気持ちは起こります。
でもそれは厳密には「嫌い」だからではない。
「合わない」からです。

もちろん、「合う」から「快」なだけなのに
「快だということは好きなんだ」と判断することもあります。

「快」を基準に選んで関わっていて、「快」が続くのであれば
それが「合う」だろうが「好き」だろうが問題は起きません。

ですが「合わない」から「不快」なのに
それを「嫌い」と混同してしまうと、
最初に述べたような問題が起きてきます。

食べ物ぐらいなら大きなトラブルにはならないでしょう。
しかし人間関係で「合わない」を「嫌い」だと認識してしまうと
「合わない」だけの人を不必要に嫌悪し、
拒絶や対立にまで発展したりする可能性もあります。

もしかしたら社会問題とされるものの中にも
「合わない」を「嫌い」とするためのものがあるかもしれません。

本当は「合わない」だけなら、
それを理由に「嫌う」必要はないでしょう。

「合わない」ことを無理やり合わせようと頑張る必要もない。

自然界はちゃんと棲み分けをしています。
合わない環境には生きていない。
合わない者同士は距離を取る。

人間以外の動物にも体験に基づいた「好き・嫌い」はあるようですが、
その度合いは人間よりもずっと小さいように見えます。

現実的ではない解決努力で苦労したり、
解決できるのに避けてしまったり、
取りつく島もないほど全てを拒絶してしまったり、
無理に受け入れようとして苦しんだり…、
そういうのは動物には起きなそうです。

まずは「合う・合わない」なのか「好き・嫌い」なのかを区別する。
体験によって学習されたものなのか?と振り返る。

その区別をつけるだけで楽になることが結構あるはずです。

cozyharada at 23:01|Permalinkclip!

2017年09月05日

足がつるとき

移動で新幹線や飛行機に乗っていると、それだけで
降りたときや一日の終わりに「疲れた」と感じます。

が、座っているだけで、せいぜい本を読むぐらいですから
疲れる理由はそれほど見つかりません。

一説では、高速移動の最中には結構な重力がかかっていて
それに対抗するだけでも疲れるものだとか。

特に横方向の重力に関しては窓際のほうが強くなるとかで
なるべく中央の席のほうが疲れにくい、
なんて話も耳にしたことはあります。

確かに新幹線の中でパソコンの書き物をしようとすると
僕は、揺れのひどさに注意が奪われて全然集中できません。

ただ乗っている分には気にならないけれど
意外と揺れに耐えなくてはいけない度合いは高いんでしょう。


しかしそれ以上に、狭いスペースで身動きが取れないことのほうが
身体への負荷は大きいような気がします。

「疲れた」という体感で自覚されますが、実態は疲れているというよりも
「固まって痛い」という表現のほうが近いのかもしれません。

とりわけ飛行機はスペースが狭いので、身体の硬直を強く実感します。

隣の人との距離感などもあって心理的な緊張からくる体の強張りとか
他の人の匂いから離れようとするときに片側に重心をかけ続けてしまうとか
普段とは違う形で体に負荷がかかっているんだと思われます。

実際、JALの国内線で1000円高いだけの広めのシートを利用すると
同じ通路側を使っていてもパーソナルスペースが少し広がるだけのことで
随分と疲労感が小さいのを体感します。

どうも僕にとっての移動による疲労とは、
パーソナルスペースが小さいところで緊張から体を硬直させ
しかも同じような姿勢をとり続けることによる負荷
というのが大きいように思えます。


先日、久しぶりに寝ている間に「こむら返り」が起きたのも
移動が重なった日の夜のことでした。

ふくらはぎの痛みを弱めようと足首と膝を伸ばしていたら
今度はさらに足の甲までつりそうになってしまいました。

肉体疲労だけならジムで運動した後のほうが筋肉疲労はあるはずなのに
一定の緊張感を長時間続けたときのほうが足をつりやすいみたいです。

もしかすると運動によって体のレベルで疲れているときは
「痛い」とか「動けない」とか「力が入らない」とか「眠い」などと
「疲れた」とは違った自覚のされ方をするのかもしれません。

「疲れた」と感じるときは、意外と体の疲れではなく
心理的な緊張や、体を運動させられなかった硬直の蓄積などのほうが
影響が大きいような印象を受けます。

そうすると本当は「疲れた」ではなく
「ストレスがかかった」とか「強張った」とか
「負荷が溜まってきた」とか「ダルくなってきた」とか
そういう表現のほうが適切だとも思えてきます。

「疲れた」という言葉で安易に認識してしまうと
「疲れたときは無理せずに休む」のようなシンプルな発想で
本当に体が求めているケアとは違った方向で対処してしまいそうです。

実際に心身に起こっていることを正確に認識して
適切な対応をしていきたいものだと痛感します。

cozyharada at 23:51|Permalinkclip!

2017年09月03日

外国語の聞き取りの訓練として

ここ数日、フランス語のディクテーションを少しずつ続けています。

スピードが速いところは音として聞き取るのも難しく、
音が取れたとしても意味が追いつかない場合もあったりします。

一方、ある程度の長さの塊で意味が確定するようなフレーズは
僕の記憶の中で、音と意味が結びついているらしく
スムーズに聞くことができます。

そのような意味をとらえられるフレーズだと
音読しようとしたときにも自然に発声することができます。
音源と同じスピードで読める。

逆に音が聞き取れないところは音読しようとしても大変だったり、
音が分からなかったり、音の繋がりを理解するのに時間がかかったり、
頭で分かっているつもりでも口が回らなかったり…、
音源と同じようには読めないことが多いんです。

さらに意味が取れない部分になってくると、
その意味の長さ分を覚えて再現することができません。
そのフレーズの長さ分を頭の中に保持できていない。


これまでの英語学習のトレーニングでもやってきましたが
発音のトレーニングとして音源の発音、イントネーション、スピードを
真似できるようになると、同じフレーズはすぐに聞こえてくる
という経験は多々あります。

言えるものは聞こえる、と。

特に僕の場合、理解のステップとして
頭の中でそのフレーズが再生される段階があるようなんです。

耳から入った音を頭の中でもう一度再生して追いかける。
これが一生懸命に理解しようとして聴いている状態。

逆に何気なく聞き流しているときは頭の中の再生がありません。
その場合、音は入っているけれど記憶には残りません。

日本語だと慣れ過ぎていて、どんなに聞き流しているつもりでも
頭の中で自動的に再生されてしまう癖ができているようですが、
外国語の場合、再生されるときと再生されないときがあるんです。

つまり、頭の中で再生できれば聞けるようになりそうだ、ということ。
だったら再生できるのは聞き取りの重要なポイントになりそうです。

で、再生するためのトレーニングとしては
音源と同じように発音できるようにするのが効果的なようなんです。

聞いて真似できるようにする。
文章を読んで発音して、音源と同じように音読できるようにする。

そうすれば音源を聞いているときにも、
頭の中で聞いたものを再生しながら追いかけられるようになる。

そんなトレーニングが有効じゃないかと思われます。


一方、意味が取れないところになると
その長さ分を覚えていられないことが多いようなんです。

途中までは記憶として保持して再生できる。
けれどもフレーズが重なって長くなってくると
その長さ分を最初から最後まで再生することはできない。

もちろん覚えて再生できる範囲であれば
その範囲の意味も捉えられています。

おそらく日本語でも、聴いて内容を理解できているときは
全く同じフレーズではなくても、同じような内容を要約して
自分の口から言える状態になっているはずです。

意味を納得はしていても自分で言えないケースもあると思いますが、
少なくとも自分で言える状態であれば意味は分かっているでしょう。

ですから意味を踏まえながら、その長さ分をフランス語で言えれば
その内容は理解できていることになると考えられます。

つまり、その文章を覚えて、音源と同じ発音で、しかも
意味をイメージしつつ再現できるようになれば
聞いた時にも内容が掴めるようになっているだろう、と。

トレーニングとしては、聞き取れなかった部分を
フランス語のまま覚えて再現できるようにする方法が良さそうです。
音読ではなく、暗唱する練習です。


これまでの経験としても、
自分でスピーキングの際にスムーズに言える文章は
聞いた時にも難なく聞き取って理解することができます。

まとめると
・意味を(五感のイメージとして)頭の中に作り上げながら
・ネイティブと同じ発音で(音読できるようにして)
・(それから)何も見ないで言えるようにする(=暗唱する)
という流れでやると、
「連続した音の聞き取り+聴解力」がついていくのではないか。

そういうことが予想されます。

実際、じっくり音を1つずつ取りながらディクテーションをして
音源の文章を書きだした後、正解と照らし合わせて、
それから音読と暗唱のトレーニングをすると、
その後でもう一度音源を聞いたときにはスムーズに聞くことができます。

文章として把握しているものと同じことを言っているように聞こえるし、
聴きながら頭の中で再生して追いかけられるし、
意味もイメージできるようになります。

言語活動は最終的にパターン認識だと考えられますから、
あとは量を繰り返して、自動的にパターンが頭の中に作られるのを待つ。

すると聞き取りの力も上がるんじゃないかと期待しているところです。

1つの教材をじっくりと丁寧に使い倒すぐらいのつもりで
コツコツ繰り返していこうと思っています。

cozyharada at 23:10|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

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《心を調える実践会》

【日時】 
  2017年12月23日(土)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回は2018年の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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