心理学

2016年11月18日

予想外の感情

身体の固まったところには感情が溜まっているという考え方があります。

ライヒの『筋肉の鎧』という言葉を使っていたそうですし、
ハリウッドでやられる演技のトレーニングの中にも
個人の感情的な癖を取り除くために体の緊張に意識を向けて
そこを緩めていくものがあるらしいです。

実際、体の緊張した部位に注意を向けて、思い出される記憶を探っていくと
様々な感情的な出来事がよみがえってきます。

マッサージのような施術を受けていても
身体の固まりが緩むときに感情が沸いてきたり
昔の記憶がよみがえったりする経験があります。


自分で感情のわだかまりを解消しようとしたら
身体の緊張に意識を向けていくやり方もあるわけですが、
実際のところ、体の強張りに気づきにくい部位もあります。

そもそも体が固まるということは、その部分への意識の度合いが低く
普段から注意が向いていないから動かさないままで固まってしまい、
固まっていることにも気づきにくくなっている、というのが実情でしょう。

ですから「固まっている部分に意識を向ける」作業そのものが
それほど簡単ではないと思われます。

固まっている部分や緊張している部分を緩めようとしても
そもそも本当に固まっているところほど自覚すらできず、
緩める以前の段階で止まってしまいがちだ、と。

その点、マッサージのような施術を受けるのは効果的だと感じます。
自分では気づくことさえできない強張りを外からほぐしてもらえますから。

ただこの場合、本当にガチガチに固まっていることもあるようで、
「こんなところがこんなにも強張っていたのか!」と驚くほどです。
そして、強く押されると凄く痛い。


マッサージにおいて痛みを感じるほどの圧をかけるのかどうかには
流派や考え方によって違いがあるようですが、
自覚しずらい部位となると少しの刺激でも痛みが感じられるようです。

僕が最近発見したのは、脇のあたり(肩や腕の付け根近辺)には
自覚しにくいレベルで相当な固まりがあるということ。

しかも他の場所と違って、痛みの質が耐え難かったんです。

おそらく、ここには感情的なわだかまりも追加されていた気がします。

溜め込んでいた感情が強く結びついている場所。
ゆるめるときに感情が蘇る程度も大きかったようです。

他では感じたことのない「苛立ち」や「不満」が意識に上がりました。

別の場所だと痛みを堪えることもできますし、
痛くても気持ちがいい感じの場所もあれば、
痛くて逃げたくなるようなときも、謝りたくなるようなときもあります。

でも痛みに苛立ちが混ざったのは初めての体験でした。


どうも「脇のあたり」という場所が関係している気がします。

脇には内面の状態が色濃く表れるものです。
特に、生存レベルでの安心度合いが関係しそうな印象があります。

不安げな人や自信の小さい人ほど脇をしめている傾向が見受けられます。
ときにはギュッと脇の下の空間を閉めて、隙間をなくすようなことも。

逆に、地位や権力、格闘的な強さ、経済力などに自信がある人は
脇の下に空間を作っていたりします。

やってみると感じられるかもしれませんが、
脇の下を開けておくというのは意外と心細い感じがするものです。

実際、緊張した時には両肩が首の方向に近づくように力が入り、
脇の間がすぼまるようなことが頻繁に見受けられます。

おそらく僕の場合も、脇のあたりの強張りは
何らかの内面的な反応を反映していたんでしょう。

そこを緩めたときに苛立ちが出てきたということから推測すると
不満などを我慢して、グッと耐えていたような部分があったのかもしれません。

不満を感じても表に出さずに堪えるような傾向が
脇のあたりの痛みと連動した苛立ちに関係していた気がします。


自覚しずらい部分から出てきた反応だからこそ
普段は意識している以上の感情にも気づけたのだろうと思います。

自分だけで全てに気づくというのは難しいものだと実感しました。

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2016年11月12日

期間限定だから

今年の書道作品制作シーズンも残りわずかとなりました。

幅80cm、長さ180cmぐらいの紙に書くので
部屋中に大きく広げられるスペースが必要になります。

下敷きも大きいものを用意しますし、墨も多く使います。
準備がそれなりにかかる印象があるんです。
場所も取るので、常に出しっぱなしという余裕もありません。

なので作品の期間中は、書道用の物が部屋の端っこに置かれ続けます。
それなりに場所をとって、目につきやすいんです。

そして作品として提出した段階で、一通りの物を片づける。

スッキリもしますが、反面、なんだか寂しい印象にもなるものです。


普段の生活をしていると季節の移り変わりは急激に感じられず
気がついたら季節が変わっていたような印象を受けがちです。

夏と冬は2,3か月の間ずっと暑かったり寒かったりして変化を意識しませんが
春と秋は特に、知らない間に通り過ぎていたように感じているようです。

春や秋が暑い時期と寒い時期の通り道になっているイメージでしょうか。

春の入り口は寒くて冬と繋がっていて、春の終わりは暑くなって夏と変わらない。
秋も同様です。

いかにも春らしい・秋らしい時期というのは短いものなのかもしれませんし、
逆に常に移ろいでいくのが春や秋の特徴なのかもしれません。

その意味でいうと、僕の書道作品の制作シーズンは
まさに秋の期間に当てはまっているようで、
季節の移り変わりをしみじみと感じさせてくれるんです。

大体9月中旬から作品の準備に入る。

9月下旬あたりから書き始め、先生の指導を受けながら書き直し
仕上がるのが11月の中頃から下旬にかけて。

始まったあたりは、まだ夏の名残があって暑いぐらいなんです。
冷房をつけながら書いていて、少し汗ばんでいたのを覚えています。

ところが締め切りが近づいてくるあたりになると
もうすっかり寒さを感じるようになっていて、
暖房が必要になってきています。

墨の乾き方さえ違いを感じるほどです。


セミナーの仕事をしていると、いつも通りの終了時間が
明るかったり暗かったりして日照時間の変化を教えてくれます。

ここでも季節の移り変わりを感じますが
通年の変化でコンスタントに移り変わっていくため、
春や秋の印象は決して強くないみたいです。

「日が長くなった」、「日が短くなった」の二択といった感じ。

その点、秋の気温の変化を追いかけられるのが
僕にとっては、毎年の書道作品のシーズンとなっているんです。

秋の期間とピッタリ重なっているからこそ
移り変わりの大きい秋の時期を実感できるのかもしれません。

仕事の場合、一年中、似たような生活が続きますから
比較対象として際立って記憶に残ることが少ないのでしょう。

一年のうち、2か月程度。
それも秋という気温変化の大きい時期。

始まりと終わりのハッキリしていることが
違いを際立たせてくれると思われます。

意外と、僕が季節を実感する一番の要因が
書道の作品制作とかかわっているような気がしています。

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2016年11月10日

他人は変えられない

心理やコミュニケーションの分野、自己啓発なんかで有名なフレーズとして
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
といったようなものがあります。

詳しくは知りませんが、元々は
交流分析の創始者エリック・バーンの言葉だそうです。

最初に誰が言ったかはともかくとして
その内容は至極まっとうで、堅実なものだと思われます。

それによってハッとさせられるほどのインパクトはないとしても
自分が変えられるところにフォーカスする心がけとして有効でしょう。


ただし、この言葉の「他人は変えられない」の部分を
どれぐらい真正面から受け止められるかは、人それぞれなようです。

多くの場合、
 他人を変えようとしてアドバイスをしたり操作しようとしたりせず、
 自分にコントロールできる範囲を明確にして、自分が努力するほうがいい
といった程度の意味合いに見受けられます。

例えば、「子供に勉強をさせたい」は他人を変えようとしているから
「子供が勉強してくれるような関わり方をしたい」のように
自分の行動として心がけるようにする、といった具合です。

しかしながら、厳密にいえば「子供が勉強してくれるような」という発想は
すでに「他人に変わってもらう」ことを想定していることになります。

自分に都合よく誰かを変えようとすることに対しては慎重になる人でも、
誰かを幸せにしようとしたり、笑顔になってもらおうとしたりはする。

世界を平和にしたり、笑顔を増やしたり、社会を明るくしようとしたり、
組織をイキイキさせようとしたり、地域を活性化しようとたり…。

世間一般で「良い」とされることだって、厳密にいえば他人が関係していて
その他者を変えようとしている側面はあるわけです。

「良い方向に変えようとしているんだから構わない」とか
「喜んでもらえるんだから良いじゃないか」といった考え方もあるでしょう。

その一方で、
「誰かの人生を良くしてあげたとしたら 
本人が自分自身で人生を良くするチャンスを奪ったことになる」
という発想だって成り立つはずです。

他人に人生に介入しようとしている点では同じだろうということです。


実際、「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
という言葉を大切にしていて、そういうメッセージを発信している人が、
同時に「世の中をもっと良くしたい」、「皆が笑顔でいられる世界にしたい」
のように、他人を含んだ世の中を変える夢を語るケースも目にします。

「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」と言いながら
他人に対して貢献することを重視したり、
世の中を変えるような使命・天命を語ったりする場合もあります。

人間関係を上手くいかせるコツとして、
「他人を”無理に”変えようとするよりも
 自分から変わってしまったほうがスムーズなことが多い」
という心がけをしておくのは現実的に役立つでしょう。

そのぐらいの意味合いで
「過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる」
と捉えておくのも効果的だとは思います。

もしかしたらエリック・バーン自身も、そういうニュアンスだったかもしれません。

しかし、本当に、本気で、真正面から
「他人は変えられない」ことを受け止めると、
生き方のスタンスは変わるような気がします。

それを受け入れるのはショッキングですし、
なかなか諦め切れるものでもないみたいですが、
大きな転換点ではないでしょうか。

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2016年11月07日

旅の物語

NLPに関連するものとして「ヒーローズ・ジャーニー」というのが知られています。

ジョゼフ・キャンベルという神話学者が
世界各国の神話に共通するストーリー展開として
「英雄の旅」というパターンを見つけた、と。

スターウォーズがこの流れを取り入れたストーリーとして有名で、
人間に普遍的なものだからこそ多くの人の心に響く、というわけです。

NLPにおいては、
自分の人生を「英雄の旅」になぞらえることで
生き方の態度を見直したり、方向性を発見したり、
行き詰った現状を打破したり、必要な課題を見つけたり…
という形で役立てようとしているようです。

まぁ、どんなストーリーでも自分の置かれている状況へのヒントにはなりますから
汎用性の高いメタファーのパターンとして有効だとは言えそうです。


ただし英雄の旅が、全ての神話に共通するパターンではないわけですし、
キャンベル自身も「ヒーローの物語」についての法則として調べたのでしょうから、
なんでもかんでもヒーローになぞらえるべきということでもない気がします。

実際、同じように「旅に出る」ストーリーの神話や逸話の中でも
ヒーロー的な話ではないものも数多くあるようです。

キャンベルがヒーローに興味を持っていたから「英雄の旅」をピックアップしたのか
それとも、他のパターンも見つけながら「英雄の旅」だけが有名になったのか、
そのあたりについては詳しくありませんが、
明らかに英雄の旅とは真逆の方向性の話も沢山あるんです。

つまり、
 主人公が何かを思い立って旅に出て、
 大事なものを見つけようと探究を続け、
 自らの誤りを思い知らされる出来事に遭遇して、
 本当に大事なものは最初から家にあったと気づく…、
 そして家に帰ってきて大事なものに満たされて過ごす
といった感じの流れ。


両者の共通点を探せば
 旅に出る
 課題に遭遇する
 帰ってくる
という部分で似ています。

しかし、
 何かを達成するのか
それとも
 勘違いに気づくのか
という点では大きく異なります。

旅の目的を達成するほうに主眼が置かれているのが英雄の旅。
一方で、旅を通して「本当に求めているものは最初からあった」と
当初の目標設定の誤りを思い知らされるパターンもあるようなんです。

英雄の旅のほうでは、達成までのストーリーが魅力的で
帰ってくるあたりはエピローグ的な印象を受けますが、
別のパターンでは帰ってきてからのほうが
いよいよ素晴らしい展開に進もうとする感じでしょうか。


確かにアメリカンドリームに代表されるように
「手に入れる」、「達成する」の方向性が
魅力的に映る文化もあるんでしょう。

世の中には様々な神話・逸話があって、
ある段階の人に響くメタファーとして
いくつものパターンが語り継がれて来たんだと思われます。

ヒーローに心が躍るタイミングであれば
旅に出て使命を達成する展開に注目する。
一方で、ホームに戻るタイミングもあり、
その時期には英雄の旅とは違ったストーリーが響く。

そんなバリエーションがありそうです。

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2016年11月04日

訂正してもらう

読書時間が少なくなってきた僕にとって意外と貴重なのが
出張の移動時間です。

帰りは体力的にボロボロで、ほとんど本が読めませんから
行きの新幹線や飛行機が、本を読む主な時間になっています。

羽田空港にはモノレールで行くのがいつものルートなので
途中、浜松町にある「文教堂(ブックストア談)」で
本を買ったり、購入予定の目星をつけたり。

以前、山口県に住んでいたときも、
お盆休みや年末年始で東京に帰ってきたら
飛行機で山口に戻る途中に、よくこの本屋に立ち寄っていたものです。


で、最近買った中で面白かったのがこちら。



それほど新しい本ではありませんが
英語教育や英語学習の内容として楽しめます。

主に大学生の英作文指導を例として、
日本人英語学習者が陥りがちなミスを紹介してくれています。

しかも、そのルーツが中学校英語の教科書にあるというのを
実際に文章を引用しながら示している。

日本の英語教育の出発点が、かなり不自然なことを教えている
というのをまざまざと見せつけられる感じでした。


明らかな文法間違いをそのまま教科書に載せてしまっているケースもあれば、
カリキュラムの都合上、誤った文法で誤魔化したものが教科書に載ったケース、
そもそも教科書作成者がネイティブではないために不自然になったケースなど、
色々とおかしなポイントが指摘されています。

冠詞の使い分けや、動詞のイメージなど
ネイティヴでなければ掴みにくい内容もあって、
この辺りは教育の問題点というよりも
外国語学習では避けられない言語上のギャップにも思えました。

個人的に勉強になったのは接続詞のあたり。
アメリカ人の論理の感性を
「私ならこう伝える」という形で補足してくれます。

例として挙げられる日本人大学生の英文で
論理展開に飛躍が大きいのは、文化的にも仕方ない気もします。

学校教育でも論理のトレーニングはなされないし、
相手の考えの理由を汲み取るのを受け取り手の責任とするのも
文脈を汲み取る日本語コミュニケーションの特徴のようです。

著者は中学英語の教科書や大学生の英作文から
論理の問題点を指摘して、(英語)教育の問題のように
見ているように受け取れましたが、
この点は日本人全体に根づいた文化とも言えそうな気がします。


ともあれ、色々と興味深い指摘があって楽しめる本でした。

英語学習として役に立つ度合いとしては、
「このような問題点にいつ取り組むか?」
という点で考えさせられます。

もちろん初期教育から気にしていれば
後から苦労しなくて済む部分でしょう。

一方、ネイティヴの感性と結びついた部分は
身につけるのが大変な部分でもありそうです。

多少不自然でも、そこそこ使える…
というのも役には立つと思われます。

既に日本の学校教育で英語を勉強した人からすると、
ネイティヴにとって自然な英語に修正するのは
意外と骨の折れる作業かもしれません。

自然さにこだわるより、
そこそこコミュニケーションできるのが必要なこともある。

そう考えると、英文や単語のシンプルさに反して
意外と高度な内容の本なのかもしれません。

日常会話ですぐに気をつけられるものもありましたし、
使っていた教科書の問題を指摘してもらえるのは
「えー、そうだったんだ!」という驚きもあって
誰でも楽しめる本だとは思います。

ただし、それを自分で役立てるとなると
対象は限定されそうな印象も受けました。


ちなみに僕としては
間違った文章を例として挙げて
それを訂正する
という本の形式が参考になりました。

正しいやり方、効果的な方法だけでなく
ありがちな間違いを指摘する形だと、
自分が添削されている気分になって
記憶に定着しそうな気がします。

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2016年10月29日

好みがわかってくるまで

出張が増えたせいもあって、随分と
ホテルに滞在することに馴染んできました。

「馴染む」といっても「快適にいられる」という意味ではありません。

快適にいられる環境であれば、ホテルの部屋で仕事をするなんていうのも
意外と効率がいいものなのかもしれませんが、
僕の場合、どうしてもセミナー目的の滞在ですから疲労回復が最優先です。

地域によっては同じホテルを利用することもありますし、
毎回のように別のホテルに泊まることもあります。

色々と泊まってみると、自分の好みというか
自分にとっての重要度も見つかってくる感じがします。


どうやら僕の場合、
・隣の部屋の音が聞こえるかどうか
・部屋が広いかどうか
・バスルームの浴槽に余裕があるか
あたりが重要なようです。

この3要素のうち順位があるわけではなさそうです。
それぞれ許容範囲もあるし、どれか1つで全てが台無しになるほどでもない。

強いていうと隣の音は重要度が高い気がします。
僕の場合、隣の音の大きさが寝られるかどうかと直結するみたいなので。

特に会話が聞こえてくるとダメです。
イビキも厳しい。

会話は内容や感情が耳から入ってくる感じが、
イビキは自分のリズムをかき乱される感じが不快なようです。

その点、ホテルの外から聞こえてくる騒音は比較的大丈夫。
車の音とか電車の音とか、内容が聞き取れない範囲であれば
人の話し声でガヤガヤしているのも大丈夫な感じ。

背景音として捉えられれば騒音があってもノイズでしかないんでしょう。
その点、隣の部屋の話し声やイビキは背景ではなく、関心の中心になってしまう。
ここが厄介なところだと思われます。

部屋の広さに関しては、なんとなく広いほうが好きという程度。
3つの中では一番我慢ができるところでしょうか。

広いとゆったりできるし、気分も楽な感じになります。

そして僕にとって意外と大事なのがバスルーム。
綺麗さよりも、シャワーカーテンが気になります。

シャワーを浴びている最中にカーテンが触れるのが嫌いなんです。

どんなにバスルーム全体が広々としていても
浴槽側のサイズやカーテンレールの配置でシャワーカーテンが近いと
ものすごくストレスを感じます。


逆にアメニティとか内装とかはオマケ程度。
僕にとっては重要ではないみたいです。

多少、掃除が行き届いていなくてもウルサイよりはマシですし、
ベッドの大きさや硬さなどもあまり気になりません。
(体の大きい人は大変でしょうけれど)

どちらかというと
部屋の大きさの割に無理やり大きいベッドが入っているぐらいなら
小さいベッドでスペースに余裕があるほうが好きなほど。

どうも感覚体験として聴覚や触覚に不快感が加わるのが嫌なようです。

そちらの不満が少ないことの優先度が高く、
満足度を上げるような要素についてはオマケ程度に感じられる、と。


僕の場合はそんな好みになっていますが
きっと世の中には別の基準で選ぶ人もたくさんいるのでしょう。

レジャーで使っていたら僕の好みも変わるかもしれません。

とはいえ、ホテルの条件は泊まってみないことには判断できないので
なかなか好みを見つけるのは難しいように感じられます。

何より、自分の好みの基準に気づくまでにさえ
色々な経験をしてみる必要があるわけですから、
自分の好みという身近なものでも、意外と分かっていないものなんでしょう。

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2016年10月26日

分解する癖

自分がこんなにも発音に興味を持つようになったのも
どうやら細かいところに目がいく性分と関係しているようです。


そもそも化学が好きだったのは、
物資を構成要素に分解して理解するというところ。

元素の組み合わせで物質が説明できて
その組み合わせを変えるための化学反応がある。
そして元素の組み合わせが変われば別の物質になる。

こういう仕組みが面白かったんだと思います。

数式でどうこう説明するのでもなく、
傾向やパターンをただ覚えるのでもなく、
要素で仕組みを説明するスタイルが好みだったんでしょう。

それで応用化学を専攻したように記憶しています。


微生物を使った研究をしていたときも同様です。
細胞の内側にどんな成分があって、どんなことが起きているか?
培養槽という入れ物の中で、どんな要素がどんな変化を生み出しているか?

そんな風に1つ細かいレベルの要素に分解して理解する視点がありました。

研究職からコミュニケーションとか心理とかに移ったとき、
NLPに興味を持ち続け、そこを中心に”心”の理解を進めてきたのも似ています。

NLPは他の心理分野とは違い、心の構成要素を調べる視点を持っています。
サブモダリティと呼ばれるものです。

心の中で体験されていることがサブモダリティの組み合わせとして説明ができる。
その人が何を大切にしているか?
何に対して過剰に注目して歪んだ認知をしてしまうか?
どうすれば悩みの元になる物の見方を変えられるか?
その辺を上手く説明できたわけです。

要素の分解することで理解がスムーズになるのが好きなんでしょう。


語学で発音に興味を持ったのにも、その着眼点が含まれるみたいです。

発音においても最小要素は「音素」と呼ばれるそうです。
元素と同じく、要素の「素」が使われています。

音素の組合せで音の流れが生まれ、単語単位の発音になる。
それが組み合わさって文章になると、元の音素にも変化が生まれる。

そんなパターンが面白く感じられます。

言語を身につけるという観点からしたら必要のない細かさかもしれませんが、
話せるかどうか、聞きとれるかどうかとは別の次元で
言語特有の発音や、どういう風にして発声するかなどは興味深いんです。

ネイティブの人たちがどんな身体の使い方をしているかも関係するので
モデリングの観点からも興味が湧くのかもしれません。


色々と興味の幅が広がっているように見えて
意外と同じことしか繰り返していないみたいです。

着眼点の癖は変わりにくいものだと実感します。

中心になる個性といえば、それまでかもしれませんが。

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2016年10月17日

中道でバランスをとる

上手くいかなくなったら逆のアプローチをしてみる。
それによって解決されることは非常に多いようです。

とても本質的な話なのかもしれません。


実際、悩みが生まれるときの大部分は、
その人の強みが空回りし出したときです。

例えば、一人で切り抜ける力強さを持った人が頑張って成果を出してくると
人が周りに集まってきて規模が大きくなってきたりします。

すると一人では対応しきれなくなり、他の人に一部を任せる必要が出てくる。

そのときに「一人で切り抜ける」という、それまでに培ってきた強みが裏目に出て
他人を信頼して委ねるとか、人に期待をかけて育てるといったことが難しくなる、と。

そこで求められるのは、一人で切り抜ける力強さよりも、むしろ真逆な
他人の個性を尊敬しながら協力して取り組む強調性となります。

あるいは、他人に気を配って優しくするという親切心が強いと
皆を支えながら円満な関係を作るのが得意でしょう。

しかし、いつでも円満で穏やかな関係性に慣れてしまうあまり、
身近に苦しそうにしている人がいることに耐えられなくなります。

気の毒で放っておけない。
親切にして、なんとか円満な状態を取り戻そうと必死になるわけです。

親切心が過干渉を生み、おせっかいとして嫌がられてしまう。
結果として自ら人間関係を壊してしまったりしがちです。

そこで必要なのは、
一人一人が自分の人生を必死で生きていることを尊重する独立心や
その人本人の力を信頼して見守る勇気のほうかもしれません。

相手を気にかけている、心配している、大切に想っているということを示しながら
本人が自ら立ち上がるときを信じて待つ。
必要なときに必要なだけの手助けができる準備をするのが最善かもしれません。

そしてそういう真逆のスタンスが身についてくると
対応の幅が大きく広がります。
両方の対応ができれば、今後似たようなケースで悩むことは少なくなるでしょう。


セラピーについても共通点があります。

「大きな心の傷を抱えていて前に進めない」
「自分が好きになれず、こんな自分を生きているのが辛い」
…そういうケースでセラピーを受けたり、セミナーに行ったりする人がいます。

この状態で気分が楽になれるのは、「そういう自分を認める」方向性でしょう。

「今のままで良いんです」
「ありのままの自分を受け入れましょう」
「あなたは既に素晴らしい」
「過去の傷を労わりましょう」
といった感じ。

この方向性のアプローチも大切だと思います。
疲れたら休むのは有意義なことと言えます。

これで楽になれて問題が解決する人がいるのも実態ですし、
そういう人がいるから、この方向性のアプローチが広まり続けると考えられます。

しかし、それでいつまでも悩みが解決しないのだとしたら
逆の方向性をやってみたほうが役立つ可能性があります。

今の自分を受け入れるのではなく、
自分が受け入れられるような「より良い」自分になるアプローチです。

少しでも前に進めるようにチョットずつ努力してみる。
コツコツと努力を重ね、「できる」自信を高めていく。

すると過去への囚われが薄れ、自信の無さゆえの苦しさも減り
社会で生きていくことが楽になってくるという流れです。

心の痛みを身体の痛みのようにイメージしてみると分かりやすい気がします。

怪我をして痛いところがある。
切り傷のようなものだとしたら、傷口がふさがるには時間がかかります。

とりあえず消毒をして絆創膏や包帯を巻いたら
(≒苦しかった気持ちを誰かに話して少し楽になる、とか)、
あとは傷口がふさがるまでは放置すると思います。

何度も絆創膏をはがして傷口を確認したり、
血が出ているところを撫でたりはしないでしょう。
かさぶたを気にして無理やり剥がしたら治りは遅くなります。

ある程度の対応をしたら、あとは普通の生活に戻るんじゃないでしょうか。

もちろん、無理な行動をして傷口に負荷をかければ
傷口が再び開いてしまうこともあるでしょう。
傷の深さによっては安静にする時期も必要です。

一方で、傷がふさがってきているのに寝たきりでいる必要もありません。

むしろ寝たきりで動かないことで全身の筋力が衰え身体は固まり、
全身に様々な不具合が出てきてしまうこともあります。

だから適度なタイミングでリハビリをするんです。
(≒小さな目標をコツコツ達成して自信を高めていくアプローチ)

そして日常を取り戻し、傷口が完全にふさがった頃が、
その部分の強張りに目を向ける時期かもしれません。

傷跡が気になるとか、抜糸が必要だとか、
動かさなかった部分のリハビリが必要だとか。

痛い場所だけを安静にしていれば、そこに歪みが残ることがあります。
傷そのものは治ったとしても後遺症のようなものが残っている。

そんなときにするのがセラピーだというイメージかと思います。

もう痛みは忘れているし、傷も治っている。
でも思い切って何かをしようとすると、その場所をかばう癖があって
縮こまってしまうために全力が出せない。

そこで全身の自然な機能のバランスを取り戻すために
傷口あたりの強張りを取るようなアプローチをする、と。

つまり、
・セラピーは傷が治ってきてリハビリができる時期になってからする、
・傷が生々しくて動けなければ安静にする、
・傷口がふさがってきたら無理のない範囲で出来ることをする、
といった方針が有効だろうという話です。

あとは本人がその傷の程度を把握できるかどうかです。
把握を誤れば、効果的でないアプローチをしてしまうかもしれません。

そういうときこそ、違う方向性を考えてみると良いようです。


すべてを均等にやることがバランスの良さではなく、
真逆と思えることをも上手くこなせるのが「真ん中」なのではないでしょうか。

どっちでもないから真ん中なのではなく、
どっちもできるから真ん中でバランスが取れる。

しかもヤジロベエのように、両端に重りがあるほど
その安定感は高まるような気がします。

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2016年10月10日

読まずにいられない

当たり前の話かもしれませんが、僕の部屋に置いてある物には
日本語で文字が書かれています。

本とか書類とか資料とか手紙の住所とか。
洋書だとか、英語で書かれた資料などもありますが
そんなにパッと目に留まる場所に置かれているわけではありません。

英語の文字を目にすることが多いのは、
インターネットで検索したときか、SNSに勝手に表示されたときでしょうか。

普段はあまり意識していませんが、目に飛び込んだときの印象には
随分と大きな違いがあることを感じます。


英語の文章だって読めば理解できます。
理解しようと思って読むと、まぁそれなりに読み進められる。

ただし、目に入った段階では「英語の文章」という全体的な認識が先だって、
個別の単語や文章まで認識しようとはしていないようです。
つまり読んでいるわけではない、と。

一方、日本語の文字情報を目にしたときは「読もう」としなくても
勝手に頭の中に、読んでいる声が浮かんできたり
その単語の意味に関連する経験が連想されたりしているのに気づきます。

読もうとしなくても、日本語だったら自然と読んでしまう、と。
むしろ読まないことのほうができません。

日本語の文字には「日本語だ」という全体的な認識が起こらず、
単語の意味や文章としての認識が起きてしまうようです。

読むということが、もう癖になっているんでしょう。


これはちょうど、
日本人が内容を気にせずに英語の文字が書かれたTシャツを着ていたり、
あるいは
欧米人が意味も分からずに漢字のタトゥーを入れていたり…
というのと関連しそうです。

全体のデザインとして見ることができるか、
それとも全体を構成する要素としての単語に注目してしまうか。
その違いによって文字情報の内容を理解しようとするかが決まるんでしょう。
(実際には、文字内容を理解しようとする癖が単語に注目させるのかもしれません)

このような注目のサイズの違いは、どの単位で認識するかと関係します。

例えば花を見たとき、1つの「花」として見る人は
その形のパターンや全体としての色の配置などを捉えます。
全体としてカワイイ姿をしているとか、美しい色合いをしているとか、
そういう印象を持つわけです。

一方、花を見たときに細部に注目する人もいます。
おしべの形だとか、葉っぱの葉脈や皺だとか、表面の毛だとか、粒々の集合だとか
そんな「部分」に注目すれば、「花」という全体の認識はあまり起こらず
むしろ部分ごとの形態の特徴が強く認識されることになります。
そうして見れば、花もなかなかグロテスクな作りをしているようにも見えるようです。

このことは、どのように蚊に注目するかでも分かると思います。

飛んでいる蚊を見たときには、蚊の造形を意識するよりは
むしろ黒い点が不規則に飛び回っているような認識になりやすいでしょう。
そうすると空間に目ざわりなものがあるような印象が生まれがちです。

ところが昆虫図鑑で蚊の写真を見たりすれば、細部の形が分かってきて
なかなかグロテスクな造形物だというのが感じられたりもします。

どの範囲に注目して、どれだけの意味のまとまりとして認識するか?
ここに個人の癖が大きく影響しているということです。


やはり母国語の文字に関しては、
全体として「日本語の文章」という1つの認識をするのではなく、
内容を理解する必要性によって作られた癖から
部分ごとの単語や並び方のルールに注目して
その意味情報を認識する癖がついているのでしょう。

外国語だと、パッと目にした段階では
全体として、例えば「英語の文章」のように一まとまりで認識してしまう。
部分の構造に注目して意味を取るような認識が起きにくい、と。

もちろんトレーニングによって外国語でも意味への注目度は上がりますが
それには、どれだけ外国語の文章を読んだかが関わるはずです。

裏を返せば、
母国語であれば、そんなに頑張って読もうとしなくても
文章が目に入った瞬間に、頭の中では内容を捉えようとする働きが始まり
一字一句を理解しようとしなくても大まかな意味が掴めている
とも言えそうです。

パッと見ただけで、どれだけの単語を認識できるか…という部分については
読書量は目の使い方としての経験量が必要になると思われますが、
一字一句を丁寧に読もうとしなくても、それなりに意味は浮かんでしまっている
という性質は興味深いものじゃないかと感じます。

外国語の文章を認識するときと比較すれば、
 いかに母国語の文章を「読まない」ままで
 「あ、日本語の文章だ」とだけ認識することが難しいか
が実感できるでしょう。

心のどこかでは母国語は読んでしまっている癖があるようです。

速読ができる理由も納得です。

もしかすると我々は、小学校や中学校の頃に
文字から内容を理解する作業に慣れていなかった段階で
「読むというのは、こういうこと」と決めつけてしまった読み方を持っていて、
そこから離れた読み方だと「読んでいる」気がしないだけなのかもしれません。

目にしただけで自然と文字を読んでしまう癖を利用すれば
その人なりの速さで読書効率を上げていけるような気がします。

cozyharada at 23:12|Permalinkclip!

2016年10月05日

スケジュールが覚えられません

同じような生活を繰り返していると変化には気づきにくいものでしょうが、
たまに予想外のことがあると、過去を振り返るキッカケとなって
自分の変化を実感したりもするようです。

僕にとっての大きな違いの1つが、時間に対する注意の向け方。

ずっと僕は、時間を長さとして捉える傾向が強く
だいたい前後一カ月ぐらいのスケジュールが
頭の中に入っているような過ごし方をしていたんです。

ですから手帳を持っていませんでしたし、
念のため仕事の予定だけは記入をしていたような状態でした。

その傾向は研究職のときが顕著だったと思います。

実験の進み方が一週間単位だったりしていたことに加え
研究以外にすることがなかったですから、
全ての関心を実験の予定に充てて、全体を把握していた気がします。

だから僕は、あまりノートを詳細にメモしないほうだったんです。
…それが研究職としては良くなかったんですが。

大まかな流れが常に頭の中にあって、詳細な一日の予定は、
「まずどこに行って、それから何をして…」というように場所と行動内容とを
出勤中に自転車に乗りながら一日分シミュレーションしていたものです。


それが今は随分と違っています。

予定が頭の中に入っていなくなってしまいました。
その日に思いつきで行動するような感じ。

それを強く実感したのが、先日のことでした。

フランス語の勉強で大学の公開講座を取っているんですが、
今までに通っていたところのクラスを一通りとってしまったので
別の大学で違うレベルのものを探したんです。

そして申し込みをして、最初の授業の日。

…すっかり忘れてしまっていました。

夜にカレンダーで日付を見て、
「あれ、そういえばフランス語、今日からじゃなかったっけ?」
と気づいた始末。

10月の一週目という記憶はあったんです。

でも、その日の日付を意識していませんでした。
完全にすっぽかした状態です。

まぁ、大学の公開講座ですから、会社帰りに寄る人が多くて
予定が合わずに欠席という話は珍しくもないでしょう。

少しもったいない気もしますが、全体で10回以上ありますし、
内容も継続的なものではなさそうだったので
それほどショックは受けずに済んでいます。

初回を抜かしてしまうのは若干心細いぐらいなものです。

むしろ、こんな風に予定を忘れてしまうことのほうが驚き。
以前はそんなことはありませんでしたから。


最近はiPhoneのカレンダーに予定を記入して
こまめに確認することが増えています。

フランス語の講座は毎週決まった時間だったので
わざわざ書きこむほどもないだろうと高をくくっていたんです。

しかし、以前だったら忘れようのないほど把握しやすい予定さえも
スケジュール帳に残しておかないと忘れてしまうようになっていました。

記憶力が落ちたとも言えるのかもしれませんが
記憶力において重要な要素は、覚えるときの集中力だそうです。

一生懸命に意識を集めて、重要なこととして覚えようとすると
記憶に残りやすい、と。

その意味では、そんな風に一生懸命な注意の向け方をしていないんでしょう。

明らかに頭の中にスケジュールが浮かんでいません。
一週間ほども入っていない気がします。

良く言えば気楽な生き方になったということでしょうし
その瞬間に気持ちが集まってきているとも捉えられそうですから、
わざわざ前のような時間意識に戻すつもりもありません。

ただシンプルに、予定を忘れてしまったのがショッキングだったんです。

随分と変わったものだと実感します。

cozyharada at 23:32|Permalinkclip!
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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