NLPの基本情報

2019年03月05日

花粉症が楽になる

花粉が飛び始めているようです。

僕は以前、相当に重度な花粉症でしたが
最近は程度も収まって、大騒ぎするほどではなくなりました。

薬も飲んで症状を抑えることもしていますが。

僕の場合、皮膚科に行って抗アレルギー薬を処方してもらって
それを決まった量だけ飲むと、かなり症状は楽になります。

これが意外と僕の体質と合っているのかもしれません。

ピークの時期は一日2回。
花粉の始まりや終わりの頃は、一日1回ぐらいで大丈夫です。

眠くならないタイプですが、
市販のものよりも効きが良いように感じます。

値段も薬価そのものは市販品より安く、
病院での診察料と合わせて計算したときに
市販の花粉症の薬と同額ぐらいになる値段。

効果を考えると、むしろお得な感じもします。
皮膚科で順番待ちをするのは面倒臭いですが。


もともと何かに集中していたり、セミナーをやっていたりする間は
痒みや鼻水も楽になる傾向はあったんです。

その意味では、症状を意識しなくなるだけで
症状の程度そのものまで減る、と言えると思われます。

多くの人は、過去の記憶を引っ張り出して
実際の症状よりも強い体験を意識に上げているようです。

これが催眠で「痛みや味などの体験を変えられる」ことの原理でしょう。

人は今その瞬間に感覚器官を通して体験している内容に
過去の体験の記憶を補って「現在」を主観的に体験します。

例えば、レモンを思い出すだけで口に酸っぱい感じが戻ってくるように
記憶を頼りに感覚体験が引き出されるわけです。

「レモンは酸っぱいものだ」という想定で、
過去の酸っぱかったときの体感を思い出しながら
その瞬間にレモンをかじると、
実際のレモンの酸味以上に「酸っぱい」体験をすることになります。

ほとんどの人は、そうやって記憶で味を補って体験します。

レモンそのものの味をちゃんと感じてみると
意外とそんなに酸っぱくないものです。

催眠術ではレモンの味を桃に変えるような方法がありますが
このやり方で完全に桃の味を体験できる人と、
桃ではないけれどレモンを普通に食べられるようになる人とがいます。

桃の味ではないけれどレモンを食べられるようになる、という場合、
一番重要な要素は「レモンの酸味を思い出さずに食べられる」こと。

まずそれだけで酸っぱさを感じにくくなります。

NLPにもアレルギーへ対処する方法はいくつかありますが
そこでも一番期待される効果は、この「感じにくくなる」部分でしょう。

より正確には、それまでアレルギー症状の記憶を使って
症状を増幅しながら体験していたものが、
その瞬間に実際の量として体験されるものだけに減る、という現象です。

催眠でレモンを普通に食べられるようになる人は、
さらに催眠状態を利用して過去の記憶へのアクセスが強まります。

結果として桃の味を思い出しながら、
桃の味の記憶を追加しつつレモンを食べられるわけです。

レモンの酸味を思い出さず、
桃の味を思い出しながら、
実際のレモンの味を体験する。

そうすると、実際のレモンの味に
桃の甘味を追加したような体験になります。

つまり、ハチミツ漬けのレモンとか
オレンジやグレープフルーツのような、
甘い柑橘系の味が体験される、と。

これだと普通にレモンを美味しそうにかじれるようになります。

花粉症に対して、それを上書きするような快適な記憶を追加できれば
主観的な症状はもっと楽になっていくかもしれません。

最後に、催眠でレモンが桃の味に感じられるパターン。
これは少数派で、いわゆる「被暗示性が高い」ケースで起こりますが、
実際のその瞬間のレモンの味覚情報を遮断して
記憶の中の桃の味だけを体験している現象です。

こういうことも不可能ではありません。
実際、多くの人は風邪をひいて食べ物の味が分からないとか、
熱があるときに外がやたらと寒く感じられるとか、
主観的な体験が激変することも経験しているものです。

本を集中して読んでいたら周りの音が聞こえなくなるとか
臭いトイレも数分で慣れてしまうとか
眩しいほど明るい屋外でも徐々に目が慣れるとか、
そういうのも主観的体験の内容が調整される事例でしょう。

意識に上がる体験内容が一部分だけに限定されるケースとか
そもそも感覚器官の段階で、強い反応を抑え込むとか…
仕組みは様々でも、主観的な体験が変わることは少なくありません。

ですから、そういう風に今その瞬間の感覚体験を抑えて
かつ記憶のほうにだけ意識を集中する、ということができれば
その記憶の内容だけを体験することは可能なんです。

言ってみれば、夢の中で桃を食べているような状態です。
現実から意識を離して夢の中に入り込み、
夢の中で桃を食べているのを体験する、と。

そうなれば、催眠術によって
レモンを食べても桃の味を感じることができるようになるわけです。


僕の花粉症は、記憶で症状を増幅しなくなっただけで
だいぶ改善されたように思います。

その点では年々楽になっていっているかもしれません。
薬の消費量も少なくなっていますし。

一方、不思議なことに、薬を飲んでいても
寝起きの瞬間だけは症状が強烈になることがあります。

いわゆる「モーニング・アタック」と呼ばれる状態です。

通説では
ヽ萋阿鯆篁澆靴討い詭襪隆屬法部屋の空気中から
 花粉などの濃いアレルゲンが沈下してきて、
 寝ている間にそれを吸い込んでしまうから
起床や布団をたたむとき、その空気の動きで
 床や布団からアレルゲンが空中に舞い上がるから
5床の際に、副交感神経優位から交感神経優位に切り替わるとき
 バランスが乱れ感覚刺激へ過敏になるから
などが挙げられているようです。

が、 岾萋阿靴討い覆い箸のアレルゲンが舞い上がる」だとしたら
一人暮らしの人は、帰宅時にも同じような現象が起きるはずです。
僕は帰宅時に強烈なアレルギー症状は感じません。

△亡悗靴討蓮∨佑両豺隋¬椶覚めた瞬間が症状のピークで
布団の中に入ったままでも「モーニング・アタック」状態です。
空気中にアレルゲンを巻き上げる前から始まっているので、これは違う。

自律神経の切り替わりは関係しそうですが、
「バランスが乱れて刺激に過敏になる」
というのは何も説明になっていない気もします。

僕の場合、このモーニング・アタックは数分で終わるので
ひょっとすると、僕は症状を意識に上げなくしているのかもしれません。

裏を返すと、寝ている間に体験しているのが実際の症状のレベルで
寝起き直後はそのアレルギー症状が全て意識に上がる。
だから痒みや鼻水が酷い。

それから意識が覚めてくると、日常の様々なところに意識が再配分されて
症状の感覚体験への感度が落ちてくる。
もしくは催眠術的に、積極的な抑制さえ起きているかもしれません。

モーニング・アタックとはいえ、僕の症状はさほどキツくないですから
年々症状が楽になっている印象も加味すると、
いつの間にか症状を抑え込んでいるという可能性も否定できなそうです。

いずれにしても花粉症は
意識の仕方だけで随分と程度が変わるんでしょう。

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2019年02月11日

NLPには理論がない

「NLPはモデルであって、理論ではない」
ということがNLP分野では言われることがあります。

最近の講座で一般的に強調されているのかは分かりませんが…。


で、ここでいう「理論」は、もちろん「theory」の翻訳です。

ところが、日常的な日本語の意味での「理論」と
学術的な意味での「theory (理論)」とはニュアンスが異なります。


そもそも一般的に使われる日本語では
「理論」の意味がかなり曖昧になっていることが多いようなんです。

よくある混同の1つは、「論理」と一緒にしてしまっていること。
これは「理論的」と「論理的」の混同で頻繁に表れます。

例えば、「理論的な人」という言い方は、本来
「論理的な人」といったほうが適切です。

「感覚派」の対義語として「理論派」なんて言われることもありますが
これも「論理派」のほうが正確でしょう。

意味としては、「論理的」とは「話に筋が通っていること」を指します。
論理展開が明確で、様々な要因の因果関係が矛盾なく説明される様子のこと。


それに対して「理論」というのはシンプルに言うと
「現象を法則として示したものの集まり」です。

例えば、有名な「弦理論」という物理の理論であれば、
物質の構成要素の最小単位を粒子ではなく、弦(”ひも”のようなもの)として
自然界の全ての力を説明しようとするもののこと、といるでしょう。

そこには、「弦理論」が前提とする原理から数学の論理で導かれる法則が
複数含まれることになります。

「法則」というのは短い記述で表現されるパターンです。
「〜だと、…になる」といったもの。

数学で表すと、これが等式になるわけです。
等式(イコールで結ばれた式)だと、ある変数の値が増減すれば
他の変数がどのように変化するかが計算として導けます。
中学校の数学でいうところの関数のようなものです。

「弦理論」からは離れますが、分かりやすそうな法則の例として
『熱力学の第一法則』を挙げると、
  閉鎖系の内部エネルギー U の変化 ΔU は、
  系外から流入した熱 ΔQ と、系外から行われた仕事ΔW の和に等しい
のように言語的に書き表されます。
これが数式だと
  ΔU=ΔQ+ΔW
となります。

「理論」には、より具体的に現象を説明した「法則」が含まれる、と。


上記の説明は自然科学分野ですが、社会科学になってくると
物事の法則は数式で厳密に表すのが困難になってきます。

法則を証明するためのデータを集めて、それを統計的に解析して
法則が成り立っていそうかどうかをチェックする、という形が主流。

法則そのものは言語的に表されることが多いようです。

証明されていないとは思いますが、有名な「マーフィーの法則」なんてのも
日常生活でよく起こる現象をパターンとして言葉で説明したという意味で
一応は「法則」のカテゴリーに入れられています。

同様に、例えば心理学でも様々な法則があります。

ダニエル・カーネマンが提唱した「ピーク・エンドの法則」は
 体験が快/不快だったかの評価は、ピーク時と終了時の快/不快の度合いで決まる
という内容のものです。

これはデータをとって示されたもの。
客観的に示されると「法則」と呼ばれることになります。


一方、心理学分野でも「理論」という呼ばれ方をするものがあります。
例えば「愛着理論」とか。

愛着行動と呼ばれる「人への親密さの表現」についての考え方で、基本的には
「子供が正常な社会的・精神的発達をするためには
 ケアテイカー(世話をする人)と親密な関係を確立する必要がある」
といった内容です。

これは展開させれば、
 幼少期に親密な関係の体験がないと社会的・精神的に問題をきたす
という話へと進んでいきます。

その内容について、様々な情報を引き合いに出しながら論理展開して
筋の通った説にしようとしたわけです(もちろん、反論も生みます)。

これは幼少期の愛着と、発達や社会行動との関係を説明した
1つの捉え方であって、数多い解釈の仕方の1つだといえます。

この理論を採用するかどうかは人それぞれ。
愛着という観点から現象を説明するという流派なんです。

で、心理学分野では、こうした理論は正しさを示すことができません。

理論の妥当性を高めるためにデータをとるのが最大限の努力。
実験や調査を行って、愛着理論を裏付けるデータを収集する、と。

ここで登場するのが「仮説(hypothesis)」です。
「この理論が正しければ、こういうときには、こういう結果になるはずだ」
という発想で設定される予測される結論が「仮説」です。

仮説はデータをとって検証可能なように設定されるんです。

理論そのものは検証できないけれど、
「理論が正しければ、こういうことになるはずだ」という予測はできます。

そして実際にデータをとってみて、予測通りの結果になったら
それは、その理論の妥当性を支える1つの根拠になるわけです。


前述の「ピーク・エンドの法則」というのも
 「体験が快/不快だったかの評価は、体験のピーク時と終了時の
  快/不快の度合いで決まる」としたら
 こういう場面では、こういう結果になるだろう…
という予測で実験が設計されています。

例えば…。
 1つのグループには大音量の騒音を体験してもらう。
 二番目のグループには、同じ大音量の騒音の後に、
 それよりも程度の低い騒音を体験してもらう。
 すると騒音の不快さの評価は二番目のグループのほうが低くなった。
…という感じ。

この実験の場合、
 「体験が快/不快だったかの評価は、体験のピーク時と終了時の
  快/不快の度合いで決まる」
という想定の下で、だとしたら
 体験終了時の不快さが小さいグループのほうが
 主観的な不快さの評価は小さくなるはずだ
という予測をたて、
そこから
 「大きな騒音だけを体験したグループより、
  大きな騒音の後に小さな騒音を体験したグループのほうが
  不快さの評価は小さい」
という『仮説』が立てられているわけです。

この仮説1つで
 「体験が快/不快だったかの評価は、体験のピーク時と終了時の
  快/不快の度合いで決まる」
という一般論が全て断言できるわけではありませんが、
この法則を裏づける説明材料にはなっています。

その意味では「ピーク・エンドの法則」の内容を「理論(theory)」として
実験的に立証可能な「仮説(hypothesis)」を立てた、ということができます。

「法則」と呼ばれていますが、
 理論をもとに仮説をたてて、データで仮説を検証し、
 その理論の妥当性を裏づける
という構造には共通点があります。

なので心理学分野では、「○○理論」も「△△の法則」も、どちらも
仮説によって妥当性を検証する対象としての「理論」の一種、といえます。

違いは「○○理論」と呼ばれるもののほうが
複数の「法則」を含んでいる、というところでしょう。

「△△の法則」のほうが具体的な1つの行動パターンについての説明で、
「○○理論」になると、もっと幅広い行動を説明するものになる、と。


ポイントは、
「○○理論」も「△△の法則」も、それ自体では正しさを示すことができず、
妥当性を高める根拠として「仮説」の検証をする手段を採用している
ということです。

ここが圧倒的に誤解されやすいところなんです。

日常的な言葉の使い方では、証明されていない法則やパターンのことを
「それってあくまで仮説でしょう?」
みたいに言われてしまうことがあります。

そうではないんです。
理論は基本的にすべて証明できていないんです。

物理の理論もそう。
相対性理論だって数学的に矛盾なく論じられていて
相対性理論に基づいた仮説の多くが実証されていて、
相対性理論に基づいた応用が役立っている現状があっても、
それでも理論である以上は厳密に正しいかどうかは定かではありません。

かなり妥当で、もっともらしい理論ということで広く採用されているだけ。

むしろ「仮説」と呼ばれるものこそ、実験的に立証可能なんです。
(仮説段階では検証が終わってはいませんが)


つまり、理論とは
 正しいか定かではない法則(の集まり)
だということです。

なので、「理論的」という言葉の用法としては、例えば
「理論的にはそういえるけれど、実際はそうではない」
のように
「理論に沿っていえば」という意味になります。

「矛盾がなくて筋が通った説明の仕方」は「論理的」なんです。
理論的なのではなく。


だからこそ「NLPには理論がない」といった説明は、
別にNLPが論理的ではないという話ではありません。

NLPで論理的に説明することは可能です。
それをやらない人が多いだけで。

論理的な(理屈っぽい)説明を放棄しているわけではないんです。

「理論がない」というのは、
 「こうなったら、こうなる」
 「こういうことを経験したら、将来こんな風になる」
 「こういう行動をするのは、こういう原因である」
のような
『法則』を含んでいない
という話なんです。

NLPの中には、人間の行動や心の動きをパターンとして説明した法則がない
…それが「NLPには理論がない」という意味でしょう。

だからそこから生まれる仮説もなく、仮説を検証することもない。


これはおそらく、他の心理学の理論に対する反発でしょう。

例えば、前述の愛着理論もそうですが、発達心理学には理論が多いようです。

精神分析であれば、
 無意識に抑圧されたものが症状を生み出すため、
 抑圧されたものを意識化すれば症状が解消される
という理論があります。

心理療法にもそれぞれが独自の理論を想定していて、
その理論をベースにした解決のアプローチが作られます。

ロジャースの来談者中心療法だって
 自己概念と経験の不一致が不適応や病理を生み出す
という理論があります。

NLPには、そういう理論はありませんよ、と。

どういうものでも上手くいくパターンを探して
それをモデルとして試してみましょう。
上手くいかなかったら違うモデルを試しましょう。
…そんな発想なんです。

人間を理論に当てはめて理解するのをやめて
1つの考え方で全ての人に対処するのではなく、
その人に起きていることを実際に調べて
上手くいかないパターンを変える。

人の心について「これが正しい」という発想を捨てる。
「法則に当てはめて、目の前の人を見ない」なんていうことはしない。

そういうスタンスが
「NLPには理論がない」
ということなんだと考えられます。

目の前の人の心を論理的に説明できるようにする「説明モデル」は
NLPの中にちゃんと含まれています。

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2019年02月07日

NLPって何だ?

NLPのセミナーをやっていると、
コミュニケーションとか心理学とか自己啓発とかの流れで
NLPを知って興味を持つ人が大部分のようです。

結果として、営業や社内の人間関係に応用すればビジネス用途になり、
他人の目標達成に使えばコーチングになり、
自分の成長や自分の目標達成のために使えば自己啓発になり、
対人援助の場面を想定すればカウンセリングや相談技術になる。

いずれの目的であっても、その目的のために
どういう観点から向き合っていくかによって
ベースとする説明方法が異なってきます。

具体的な「コミュニケーションのやり方」として学ぶことで
人間関係を改善したり、営業成績を上げたりすることも可能ですし
コーチングやカウンセリングという形態で関わることもできます。
それで苦手な人付き合いを改善したら自己啓発です。

同じことを心理学の知識を利用してやることも可能です。
心理テクニックで人間関係や営業成績を上げることができ、
心理学の理論を元にしたコーチングやカウンセリングも学べます。
幸せな人の心の特徴を調べた心理学の知見を取り入れれば、
自分の幸福度も上がりますから、これは自己啓発の一種でしょう。

また、いわゆる自己啓発書などには、
成功者の考え方や習慣を取り入れて
自分も成功しようという発想が多いようですが、
これを応用した経営理論やビジネスマインド、
コーチングの手法なども存在します。

つまり、世の中には「目的」と「説明モデル」が様々あって
その組み合わせで『専門』の呼び名が変わる、ということです。

そして同じ目的であれば、
ベースとしている説明モデルが異なっていても
表面的なやり方には共通点が出てきます。

特に達人レベルになると、個性が際立つのと同時に
共通した要素もハッキリするように見えます。

「どういう説明の仕方を根拠とするか?」の違いがあっても
辿り着く本質的なポイントは同じところなのかもしれません。


その意味でいうと、NLPは「説明モデル」のほうでしょう。

もちろん、その説明モデルに基づいた手法が沢山ありますが、
それらは他の流派(別の説明モデルに基づくもの)で
扱っている技法と似ていることがよくあります。

逆に、NLPには「目的」がありません。
NLPの説明モデルを活かしさえすれば、どんな目的にも使える。

ですから、コーチングやカウンセリング、〇〇療法といった
具体的な技法の流派とは区別の質が違うんです。

むしろ、心理学、脳科学、精神医学、認知科学、スピリチュアル、仏教…
などと同じ抽象度のカテゴリーだと言った方がいいでしょう。

学問として確立しているわけではありませんし、
知名度や人気はスピリチュアル分野のほうが遥かに上のようですし、
仏教のような歴史があるわけではありません。

ただ同じような分類の仕方になる、という話。
つまり「心を説明するもの」というカテゴリーの中に入っていて
いずれも心をテーマとして扱っています。

ここは共通点です。
だから同じグループに入る。
同じレベルの抽象性を持っているわけです。
NLPが心理学のサブカテゴリ―(下位概念、一流派)なわけではない、と。

一方、「心を説明するもの」という同じグループの中に分類されながら
それぞれが違う名称で呼ばれているのは、個々に違いがあるからです。


ではその違い、特徴がどこに表れるのか?
それが「説明の仕方」です。
説明のモデルが異なるんです。
 (※注:モデルであって理論ではありません。参考情報は次の記事で)

心理学であれば、多くの人に共通する振る舞いのパターンを
「〜すると、人は…する」のように因果関係で説明したり、
「〜な人には、…な傾向がある」のように相関で説明したりします。

その際に、行動主義であれば
「刺激→反応」とか
「先行条件(Antecedents)→行動(Behavior)→結果(Consequences)」
とかで表現しますし、
論理療法であれば
「出来事(Activating event)→信念(Belief)→結果(Consequence)」
のように書き表すこともあります。

多くの場合は、「出来事・条件」→「行動・反応」のように
シンプルなモデルで留めておいて、
”心の内側で何が起きているか?”は議論しません。
内側で起きていることは測定しにくいので。

一方、脳科学であれば、脳の部位別の活動量とか
部位ごとの機能とかを調べて、
”脳の働きが人の行動にどう関与するか?”を議論します。

「脳の〇〇が〜だと、人は…する(になる)」とか
「脳の〇〇が〜な人は、…な傾向がある」とか
「〇〇な人は、△△な人よりも、脳の◇◇が〜な傾向がある」とか
そういったモデルでの説明です。

つまり、心という曖昧なものを脳の働きに置き換えよう
…といった説明のモデルだということです。

精神医学は心の病理を医学的な見地から議論しますし、
認知科学は心の動きを数式やコンピューターのプログラムで表現します。
医学や数式が説明モデルに使われる、と。

スピリチュアルの分野には様々な説明モデルがありますが、
魂とか前世とかカルマとか潜在意識とか…
人の振る舞いに影響を与える様々な要因を挙げます。

心理学が「出来事」とか「条件」などの
目の前に起きている測定可能なものだけを
”人の振る舞いに影響を与える要因”として考慮するのに対して
スピリチュアル分野では、時空を超えたもっと幅広い要因まで考慮する、
といった違いがあると言えそうです。

仏教の教えの中にも人の心の中身を説明したモデルがあります。
いくつかの要因に分けて心の動きや構造を説明するものです。

例えば唯識では、心の構造を
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識(あわせて「前五識」)、
それから意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)、
と、8つに分けて説明します。

また「五蘊」と呼ばれる考え方では、
”人が他の存在とどのように関わっているか?”という機能の部分を
色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の5つの要素で説明します。

これと同じように、NLPには心の働きのモデルがあります。
表象システム、サブモダリティ、アンカーなどです。

こうした要素を用いて、人の心を『プログラム』として説明する。
それがNLPの本質のはずです。

また、価値観、ビリーフ、メタプログラムなど
プログラムの種類を分類する観点も含まれます。

一般的には説明をごまかすことが多いですが、
こうしたプログラムの種類も心の構造や機能として
サブモダリティやアンカーの概念で説明することが可能です。

NLPの説明の仕方、NLPの用語や概念で、人の心を捉える。
それがNLPであって、他の学問やスピリチュアルとの違いだということです。


そして話を戻すと、こうした説明のモデルを使って
それぞれの分野で様々な目的への応用がなされます。

心理学は心理学のやり方で人の心を説明し、
その説明モデルに沿って得られた知見を基に
ビジネスや人間関係、心理療法やコーチング、自己啓発など
様々な応用方法が開発されています。

そしてその応用方法の中で、技法が作られます。

脳科学でマーケティングを検討した応用方法もありますし、
脳科学的なアプローチで心の問題を解決しようとする技術もあります。
脳科学の知見に基づいた自己啓発やコーチングの手法もあります。

それぞれの分野で、特定の目的のために応用が工夫できるんです。

コーチング、カウンセリング、セールス、マーケティング…などは
『目的』の分類だと考えると分かりやすいんじゃないでしょうか。

特定の『目的』のために、どの『説明モデル』で工夫するか?
それによって個別の『技法』が生まれてきます。

コーチングやカウンセリングが技法として認知されがちなため
紛らわしいところが出てくるのかもしれませんが、
コーチングとは「目標達成のサポート」という目的の関わり方です。
カウンセリングは「困りごとを解決するための相談」。

そこに本来、説明モデルが加わって、個性を生むべきものなんです。

本来は、もっと様々な説明モデルに基づいたコーチングやカウンセリングがあっても構わないんですが、
一般的に広まったのが心理学系統の説明モデルをベースとした
コーチング、カウンセリングだったので、
その印象が世間一般に定着したんでしょう。

技法の観点でも、心理学系統をベースとしたコーチング、カウンセリングのやり方が
一般的な手法として知られるようになったと思われます。

実際、異なる説明モデルをベースとしたコーチングもありますし、
カウンセリングに関しては、お坊さんが相談に乗ったら
「仏教の説明モデルをベースとしたカウンセリング」ということになるでしょう。

コーチング、カウンセリング、セールス、マーケティングなどは
「技法」の名称ではなく、「特定の目的のための行動」の名称です。

「技法」は、「特定の目的のための行動」の工夫として細分化されたものです。
「〇〇マーケティング」とか「△△セールス」とかのように。

「特定の目的のための行動」を、どの「説明モデル」で捉えるかによって違いが生まれ、
それをどういう工夫で行うかによって「技法」のバリエーションが生まれる。

まとめると、
・「特定の目的のための行動」=『なんのために?』
・「説明モデル」=「どんな観点で?」
・「技法」=「何を、どのようにやるか?」
という感じになります。

そしてNLPそのものは「説明モデル」のほうだ、と。

ただ、開発の過程では体系だった説明モデルよりも先に技法が重視されたため、
NLPが技法のような印象が強まったのかもしれません。

一方で、NLPには「特定の目的」というのはありませんでした。

そのため技法として理解しようとすると
「何のためのものなの?」という印象が生まれやすい。

一方、コーチングやカウンセリングは先に目的が決まっていて、
そのために個別の技法が作られていますから
全てのテクニックの目的が明確なんです。

技法としてコーチングやカウンセリングを捉えている人からすると
NLPも技法と想像しやすいでしょうから
余計に捉えどころが難しいんじゃないかと思われます。

NLPとは何か?を理解する一番のポイント。

それはNLPは「説明モデル」であって、
「特定の目的のための行動」ではないので決まった目的がない。
そのため紹介される技法にも具体的な目的が設定されていない。

…そういうことじゃないかと考えます。

あくまで技法は、NLPの説明モデルをベースとしたもの、
つまり『プログラムをどう扱うか』だけでしかない、と。

この辺りをハッキリさせると、NLPの紹介もしやすい気がします。

ただし、壮大な内容に思えてくるかもしれませんし、
人によっては魅力的ではないかもしれませんが。

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2018年10月21日

渡米予定(10/31-11/8)

11月の頭にアメリカに行ってきます。
今度はコロラド。

NLPコンプリヘンシブの本拠地とでもいいましょうか。

セミナーを受けに行ってきます。

できればスティーブ・アンドレアスのお墓も
お参りしたいと思っているんですが、
可能かどうかは分かりません。

それでもアメリカ式のお墓参りの作法ぐらいは調べておくつもりです。


スティーブ・アンドレアスといえば、NLPの手法の多くを開発し
NLPの骨格を作ったような人だと僕は考えています。

元々、化学を専攻していて(カリフォルニア工科大)、
それからマズローの元で心理学修士を取ったそうです。

実際にエンジニアとして働いていたこともあるんだとか。

そしてパールズからゲシュタルト両方を学び、NLPと出会う。

スティーブが書いている本も、開発したワークの多くも
心の構造、プログラムの仕組みを、特に
サブモダリティの観点で扱ったものが多いんです。

僕も応用化学専攻で、研究者として働いていましたから
その点でも共通点があるというか、共鳴するところがあるんでしょう。

心の構造やプログラムを、その構成要素から理解するあたり
いかにも化学っぽい発想だと思われます。

ロバート・ディルツが開発したスライト・オブ・マウスについても
開発した本人が14パターンにしていたものを
「これは大体3つぐらいに分類できてしまう」と
もっとシンプルにまとめた記事なんかも書いています。

僕も個人的に賛同することろが大きいですが、
「それを言っちゃあ凄そうな雰囲気がなくなってしまう…」
という思いから僕は一応そこまでは言いません。

スティーブには、そのあたりでも
本質へのアプローチに妥協がなかったんでしょう。

箇条書きの14パターンは、
特徴や構成要素ごとに物事を分類する化学的発想と
マッチしないんだと思われます。

なので「結局、やっていることは3種類でしょ?」となる。
あとは例えば、時間の要素を過去にしたり、未来にしたり、とか
そういうマイナーなバリエーションでしかない。

つまり、仮に時間の観点に注目して視点を変えるとしたら
「時間を扱う」という着眼点の下に、サブカテゴリ―として
「未来に目を向ける」と「過去に目を向ける」が含まれる…
という風に分類整理したくなるようです。

並列の箇条書きで物事を整理しない。
常に図解で捉える感じとでも言えばいいでしょうか。

こういう理解の仕方においても、
僕はスティーブの観点に馴染みがありました。

ただし、忍耐強くコツコツと手法の開発を続け
着実な成果を積み重ねてきたところは、
僕には届きようのない部分です。


そのように同類に対しての親しみも含め、
NLPの第一人者としての尊敬を抱く、
僕にとって特別な対象だったのがスティーブ・アンドレアスなんです。

この人が今年の9月7日にお亡くなりになりました。

僕がコロラドに行く頃には四十九日も過ぎていますし
(仏教の法要としての意味合いではなく
 残された人たちの心が落ち着くまでの最低期間として)、
できることならお墓に行きたいと思っています。

本当は今回の渡米で会えたらなぁと願っていたんですが。

参加する予定のワークショップは復習的な内容のはずですから
講座として予定されているワークもある程度は把握しています。

その中に、心の隙間を埋める手法があります。
たぶん、やることになるはずです。

そのとき、僕の中に少しだけポッカリしている
スティーブの部分を、ワークとして扱ってみようかと思っています。

自分でもできますけど、せっかくならコロラドで、と。

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2018年08月11日

原因と責任と可能性のはなし

先日、フェイスブックのコメントで
我ながら上手くまとまった内容があったので
切り出して加筆しながら転載しておこうと思います。


苦しみには自分の歪み、自分の心の癖が関わっています。
その意味で、全ての苦しみには自分の責任がある。

ここで「責任」とか「原因」という言葉を使うと
0か100かで考えられることがあるようなんですが、
責任や原因は、1つのことに100%集まるわけではありません。

「自分に責任がある」「本人に原因がある」というのは、
他に主要な責任の所在があったり、他人が大きな原因だったりしても
一部は少なくとも自分の範囲が含まれている、という意味です。

特に、出来事として「厄介なことが起きる」場合については
そのことが起きることの責任や原因は
限りなくゼロに近いこともありえます。

(ゼロと言わないのは、自分について向き合っていくと、最終的には
 自分と世の中との区別がなくなって、あらゆることに対して
 他人事として切り離して判断することができなくなるからです)

厄介な出来事が起こることには自分の責任や原因がほぼゼロだとしても
それをどれぐらい、どのように苦しむのかには
自分の心の癖が関与する度合いが大きくなってきます。

明らかにゼロよりも大きくなる。

例えば、悲惨なニュースを見ていて犯罪者に対して怒る人もいれば
犯罪に走るまでに至ったその人の境遇を悲しむ人も、あるいは
自分とは関係ないということでそれほど心を痛めない人もいますから、
どれぐらいの大きさで、どんな苦しみを体験するかには
かなりの個人差があるわけです。

そして体験の仕方に個人差があるということは、
そこに本人ならではの要因、つまり本人の責任の範囲が
少なからず含まれている、といえます。


また、自分にとって厄介な出来事が起きているときは
必ずと言っていいほど、どちらか一方だけに責任があることはなく
何か1つだけのことが原因になっていることはありません。

ニュートラルに、客観的に、網羅的に状況を捉えて
何にどれぐらいの責任と原因があるかを列挙するのが
悩まないためのコツの1つでしょう。

全部を自分のせいにして苦しむ必要はありません。
客観的に見たら、自分が原因、自分の責任という部分は
実際にはそれほど大きくない場合もあります。
困るべき人が別にいるケースです。

また、全部を他人のせいにしてしまっては
苦しみを減らせる可能性から逃げてしまうことになります。
これは苦しんでいる自分を楽にしてあげるチャンスから目を背ける点で
自分が自分を苦しめていることとも捉えられます。

何かに取り組むのは、それ自体がエネルギーを要求しますから
苦しみが大きすぎて何一つ元気がないときには
まず気持ちを楽にすることが最優先にはなりますが、
自分が取り組める課題を見つけられれば気力が高まる効果もあり得ます。


「原因」という言葉は、それが「根本原因」だと言っているのではない。
「責任」という言葉は、「その人のせいだ」と言っているのでもない。

あくまで
 沢山の要因が絡み合って物事は起こっていることを認め、
 その中で様々な原因と責任の所在を適切に分配して判断する
ということです。

複数の要因の中から「主要な原因」を特定することはできるかもしれません。
だからといって、主要な原因に対処するだけが解決方法でもありません。

様々な要因が絡んでいるのであれば、原因として小さなことでも
そこを変えることで全体が変わっていく可能性はありえます。

主要な原因が他人や、何か他の環境要因にあったとしても
自分が関わっている部分があるのだとしたら、
原因となっていることの小さな1つを自分に見つけられるかもしれない。

そしてそれが見つかれば、その「自分が原因」の部分は、
自分の責任の範囲として、自分がコントロールできる範囲として
主体的に取り組んでみることが可能になります。

このとき、自分の態度が変わるんです。
能動的、主体的になる。

そして実際に、自分が原因となっている部分に取り組めば
「自分のできる範囲の全てに対して、自分の責任を果たした」
と自然に思えるようになります。

最善を尽くしたと感じられてくるんです。

結果として望ましい方向には変わらなかったとしても
「できることは全部やった」と確信して言えるようになる。

残念な気持ちや悲しい感じは出てくるかもしれません。
しかし苦しみの種類が、以前とは別物になっています。
ずっと受け入れやすい形になっています。

これが自分の責任の範囲を明確にする効果です。


ある出来事に対して苦しむとしても、
その責任の全てが自分にあるわけではない。
もしかしたら相手に99%の責任があるかもしれません。

ただし、残りの1%の自分の責任が自分の側にあるのだとしたら、
その残りの1%に取り組む自由は、自分に100%あります。

とりわけ苦しみについては
自分の歪み、自分の心の癖が関わる度合いも大きいものです。

そこには結構な割合で、自分が取り組める範囲があるんです。

自分の問題の度合いが1%しかなくて、
客観的には99%相手のせいだとしても、
その問題で苦しむことには自分の範囲がもう少し大きく関わります。

苦しまないための取り組みには自分が取り組める余地が結構あるんです。
かなりの可能性が残されているんです。
その可能性に対して自分が100%扱うことができるんです。

苦しいのは自分のせいではなくても、
苦しまないのは自分の範囲で取り組む「ことができる」。

『全ては本人の受け取り方の問題』と言って、
不幸が本人のせいだとか、本人が不幸を引き寄せているとか、
そのように考える人もいるようですが、そうではないと思います。

どんな不幸に苛まれても、
その中で自分の責任の範囲については
自分で何とかできる「余地」が残されている。

そこに希望があるんです。

cozyharada at 23:20|Permalinkclip!

2018年08月04日

無意識の深さと遠さ

無意識に「深さ」があるという発想が誤解を招きやすいと思います。

ある意味、フロイトやユングのやらかしちゃったところというか。
まあ、鵜呑みにした後続もでしょうけれど。

特に「氷山」をモデルにするような形だと、
「深い無意識」は表面に上がってこないイメージになります。

結果として、「深い無意識」(=「潜在意識」)は
「意識」の本人には計り知れないものとなって
「潜在意識に支配されている」とか
「潜在意識が90%以上」とか
「潜在意識に暗示を入れる」とか
「潜在意識を活用する」とか、
どこか他人事の対象になってしまうようです。


無意識のアクセスしやすさは、ただの距離。
深さはなく、遠いか近いかだけ。

言い換えると、
 親しみのある範囲ほど意識に近く、
 慣れていない(親しみのない)範囲ほど
 アクセスしにくい「遠い」ところの無意識になる
ということ。

深さで無意識のアクセスしにくさをイメージすると、
深いところはいつまでたっても意識できないかのように考えがちです。

氷山の水面下、深いところは水面に上がってこなそうですし、
水面に上がれるのは浅いところが浮上する程度の感じでしょう。

しかも表面に出た意識を「顕在意識」などと読びながら
「顕在意識」の内容が万人に共通しているかのように想定すると、
対応する「潜在意識」のほうにも万人に共通した性質があるかのように
仮定したくなるのかもしれません。

これはある程度、仕方のないことだと思われます。

人は基本的に、他人の内面を想像できるようになる過程で
自分の経験を参照しながら
「これが仮に自分だったとしたら、こういう風に思うはずだ。
 だったらこの立場の人は、こんな風に感じるのだろう。」
といった視点の切り替えをしていくといえます。

こういうのは小学校の道徳の授業でやるような訓練です。
「自分だったら、どう思う?」みたいな作業。

その想像の積み重ねによって、他人の行動を見たときに
「一般的にこういう風に考えたり、感じたりするものだ」
という知見が作られていって、
自動的に他人の気持ちを汲み取ることに慣れてくるわけです。

ですが同時に、「自分だったら」をベースにしている以上
「その立場にいる自分」を想像しているに過ぎなくて、
「その立場にいる相手」の気持ちを想像しているわけではありません。

相手の気持ちを想像するには、相手の「立場」をもとに考えるのではなく、
相手の表情や非言語メッセージから感情を読みとって
相手の「感情」をもとに想像する必要があります。

これはまた別の訓練を求められます。

しかしいずれにしても、自分の体験をベースにして察するので
「他人にも自分と同じ心の動きがある」と想定したくなるのが
自然な発想だといえます。

だから人間には共通した心の動きがあるという前提で
人は心理学を研究し始めたのでしょうし、
動物にだって人間と同じような心があると想定したくなるんです。

犬が走り回っていたら「楽しそう」だと想像しますが
果たして犬が体験しているものが、人間と同じ「楽しさ」かどうか
それは定かではないはずです。

動物だったら人間と同じような仕組みがある可能性もあるでしょうが、
それがアンドロイドだったりしたら、もっとハッキリすると思います。

明らかにアンドロイドだと知っていて、
プログラムされた通りに動いているだけだと知っていて、
そのアンドロイドが他のアンドロイドが壊れるのを見て
涙を流し、泣き声を上げ、人間と同じような表情や姿勢をしたら
きっとそこに「悲しんでいる」という解釈をするのではないでしょうか。

本当にアンドロイドの反応がプログラムなのか、
もしかしたら本当に心があるのか、
その判断ができなくなりそうなのは、結局
 人が他者の内面を、自分の体験をもとに想像するのが根本にあるから
だといえるでしょう。

そういう仕組みがある以上、
人に共通する「顕在意識」や「潜在意識」がある
と考えたくなるのも分からなくはありません。

そして共通すると想定するからこそ生まれてくる
氷山のような「無意識の深さ」のモデルについても。


でも実際に内面を探る作業を重ねていくと
そうじゃないことが沢山見えてきます。

「深い無意識」だと思っていたものも、
やり方を工夫すれば意識に上げることができます。

つまり、普段の意識状態ではアクセスされない情報だっただけで
意識の仕方を変えるだけで、意識に上げることは可能なんです。
その意味ではもう、「無意識」ではなくなります。

そして一度でも意識に上げたものは、
「深い」無意識ではなくなります。
すぐにアクセスできるものになる。

意識に近いところにやってくるんです。

より正確には、「意識」の範囲が広がるということです。

無意識と呼ばれているのは、意識に上げる方法に馴染みがないだけのこと。
アクセスするルートがないんです。

そしてそのルートの道のりが遠いほどアクセスしにくい。
近ければ、うろうろしている間に偶然たどり着けることもありますが、
遠くにあればチョットうろうろしたぐらいでは到着しません。

この距離とルートがあるからこそ、
意識と無意識のモデルは「氷山」よりも
平面的な「ジグソーパズル」のようなイメージのほうが
近いんじゃないかと感じます。

ピースが繋がって絵柄が分かっているところが「意識」。

その範囲に隣接するピースだったら、端っこの形と絵柄をもとに
次に当てはまるものを見つけやすいはずです。

これが近くてアクセスしやすい「無意識」の範囲。
そして一度ピースがくっつけば、繋がった面積が大きくなりますから
「意識」の範囲が広がったことになります。

一方、完全にピースが連続していなくても、
ちょっと離れた場所に小さな塊を作ることはできます。

ピースの形同士を繋げて、少ない数のピースのまとまりができる。
特にそれが主要な絵柄と関係するように見えれば
全体に対しての配置も想像できるようになります。

この場合、少し離れた”島”のような形で
「意識」が広がっているといえそうです。

そして隣り合うピース同士を繋げていくと
面積として広げなくても、細い道のように遠くまで
「意識」の行き先を進めていくことができます。

これが「無意識」を探るルートのようなもので、
その先に何か、全体の絵柄を決めるうえで重要な部分が
ピースの模様として見えてくることがあります。

こうなると「無意識」の意味に気づけたり、
過去の重要な記憶が戻ってくることになったりして、
遠い無意識にアクセスできたことになります。

つまり遠くにある情報にアクセスするには、
主要な意識の範囲である絵柄の分かった塊から
少しずつ隣のピースを繋げていって
遠くまでルートを伸ばしていく必要がある、ということです。

実際に無意識の範囲にアクセスる手法は、
こういう連想の広げ方をします。

沢山のピースからなるジグソーパズルにおいて
すでに絵柄の分かった塊の範囲がある。

そのメインとなる面積の大きな塊を「意識」として、
そこから近い場所のピースはアクセスしやすく、
遠い場所のピースにアクセスるには
隣接するピースをコツコツ繋げて
遠くまでルートを伸ばす必要がある。

そういうイメージが理解しやすいと思います。


なので実態としても、ある人にとっての意識に近い情報が、
その人にとってアクセスしやすくても、
同じ情報が、別の人にとってはアクセスしにくいことがあるんです。

つまり、ある人にとっては完全に無自覚な「潜在意識」の記憶や行動も、
別の人にとっては常日頃から自覚している「顕在意識」ということがある、と。

例えば…。

寂しいときに心の隙間を満たすために甘い物を食べる、という人は
自覚しながら甘い物を食べます。

寂しいときほど、それに気づいて、甘い物を食べたい気持ちが大きくなる。
だから、食べたいときに食べる。
逆に寂しくない日は、別に食べなくていい。

そもそも「なぜか食べてしまう」のではなく、
食べたいから食べているだけなんです。

一方、同じ理由なのに自覚できていないで、
「なぜか甘い物をやめられない」という人もいます。

すごく寂しい日も、あまり寂しくない日も
「なぜか」甘い物を食べる。
で、「また食べちゃった」と後悔する。

この人にとって、甘い物を食べるのは
『潜在意識に勝てない』というヤツなんでしょう。

ところが、「なぜか甘い物を食べてしまう」ほうの人が、
物事をコンスタントに予定通りこなしたりする。

そして「甘い物を食べたいときにだけ食べる」ほうの人が、
物事を先送りにすることもあり得ます。

前者は「やろうと思ったからやる」だけのことで、
そこに「つい先送りにする」という発想さえありません。

後者は「やらなきゃ」と思っても、なぜか「つい先送りにしてしまう」。
すぐやるか、後でやるかの決定プロセスが無自覚なんです。
だから『潜在意識に勝てない』。
「つい先送りにする」ことの『深層心理』が分からない、と。

ある人にとっては当たり前で、日ごろから意識的なわけです。
理由は明白で、そこに『深層心理』もありません。

でも同じことが別の人には
なぜか分からない『潜在意識』のことになっていて、
そういうときにだけ『深層心理』が登場する。

こうしたことも、単純に距離の近さ・遠さだけで考えればスムーズでしょう。

そもそも「意識」の範囲に個人差がある。
ジグソーパズルの中で見えている絵柄の部分が違うんです。

そこから近い範囲もあれば、遠い範囲もある。

そういう考え方のほうが上手く説明できますし、
個人差についても理解もしやすいでしょう。


無意識は「深さ」ではなく、
平面的な場所の「遠さ」で考える。

それがオススメです。

cozyharada at 23:23|Permalinkclip!

2018年07月28日

体感を区別する

疲労というのも一言で片づけずに
ちゃんと中身を気にしてみると区別がついてくるようです。

少なくとも僕の場合、
・持久的な意味での筋肉疲労の蓄積
・運動を長時間続けたことでのエネルギー源の枯渇
・注意を配り続けたことによる精神的ストレスの蓄積
・注意を配る際に使う筋肉の過労的強張り
・特定のことをし続けるために動かなくなる部位の固まり
・集中的な作業に伴うエネルギー消費に対して
エネルギー生産が追いつかず全身が酸欠気味になること
・自律神経系のバランスに伴う代謝変化によって起きる脱水症状
…などがありそうです。

セミナーの場合だと、それぞれ
・歩き続けた後のような足の痛み
・全身の動きが鈍く、力が出ない感じ
・反動として気が抜け、内にこもりたくなる状態
・目の周りの筋肉、顎周りの筋肉の重苦しさ
・首と背中の硬直
・呼吸が荒くなり、息切れする感じ
・喉の渇き、肌の乾燥
に対応しそうです。

もちろん、相互に関連し合うものもあるでしょう。
背中の強張ると、呼吸筋の動きも悪くなりますから
息切れしやすくなると思われます。

とはいえ、それぞれに対して効果的なことを考えると
回復のために何をすればいいかが選びやすそうです。

食事なのか、水分補給なのか、サプリメントなのか、
有酸素運動なのか、筋肉を動かすために負荷をかける運動なのか、
リラックスするための休息なのか、瞑想なのか、睡眠なのか。

ちゃんと疲労感の種類を感じ分けてから
対応を決められたら良さそうな気がしています。

まあ、選ぶこともままならない日もありますから、
そういうときは諦めることになりそうですが。

同様に考えれば、空腹感なども
きちんと感じ分けることで
自然な食事管理ができるのかもしれません。

cozyharada at 23:00|Permalinkclip!

2018年07月22日

湿度への対応

日本人は一般的に湿度に対しての感度が低い印象を受けます。

もともと夏は高温多湿になりますし、
梅雨や秋の長雨の時期も湿度が高いですから
慣れてしまっているのかもしれません。

その点、日本在住のアメリカ人などは
湿度に慣れていないらしく、湿度の高さを不快に感じるそうです。

実際、湿度が高いと熱がこもった状態になって
頭がボーッとして疲れた感じになります。

いわゆる夏バテというのも、ある程度の割合は
この湿度の高さによるものじゃないかと僕には思えます。
慢性的に熱っぽくなってボーッとした感じ。

寒さを嫌がって冷房を好まない人もいますが、
湿度は気にしないようで、湿度の高さのために
パフォーマンスが落ちたり、元気が出なかったりする場合も
結構あるように見受けられます。

アメリカ人は湿度の高さを嫌うだけでなく、
太っている人が多いとか、普段から薄着の人が多いとか、
気温が低い方がシャキッとした気分になりやすいとか、
そういった理由で、アメリカのセミナー会場は、空調の設定を
16度ぐらいにするのが標準だと聞いたこともあります。

その温度設定だと湿度が下がり、頭がボーッとなりにくい。

もちろん寒がる人もいますが、そういう人は上着を着ればいい。
エコではないものの、セミナーを受ける人のパフォーマンスを
優先した設定だとはいえるのかもしれません。

湿度が高いと気化熱で体温が奪われにくいので
ジワジワと汗が出続けることがよくあります。

発汗は体温を下げるためのものでしょうから
汗をかいても体温が下がらず、ずっと熱がこもり続ければ
汗を出し続けるようなことがあると聞きます。

これが日本の夏における熱中症の原因の1つだとか。

アメリカだと湿度が嫌いなだけでなく、もしかしたら
そういう汗のかき方も嫌がるのかもしれません。

飲み物のサイズも大きいですし。

全般的に水不足になりやすいアメリカ国土を考えると
電気より水を大切にする方が重要な可能性もありそうです。

広い国土を使えば風力発電も効果的らしいので
日本人とはその辺の発想も違うのでしょうか。


僕自身は個人的にアメリカ人の対応のほうに近いです。
湿度の影響を体感するため、寒く感じたとしても
湿度が低いほうを優先します。

それは実際に起きている体験として
湿度の高さ自体も感知しているのと
そのときのパフォーマンスも意識に上げているからです。

一方、日本の湿度に慣れている人ほど
実際の体感よりも知識や常識を優先するのかもしれません。

近所のお爺さんは、近頃毎日、
玄関先の道に水を撒いています。
いわゆる打ち水です。

気化熱で気温が下がって涼しくなるという考えに基づく
昔ながらの生活の知恵ですが、
最近の気候で果たしてどれだけ効果があるのでしょう?

舗装されたアスファルトは黒い色が太陽光を吸収し、かつ石の冷めにくさの性質も加わって、
昔の土の道よりも多くの熱を溜め込みます。

水を撒いた瞬間、アスファルトに触れた水が蒸発し
まるで焼けたフライパンに水を落としたように
空気中に湯気が立ちのぼる。

一気にムワッとした熱気が充満するんです。

地面の温度は文字通り「焼け石に水」で下がらないでしょう。

気化熱で下がる気温がどれだけかは分かりませんが、
それ以上に一気に上がる湿度のほうが顕著です。

サウナで石に水をかけるようなもの。

体感温度は明らかに上がります。

実際、僕はその家の玄関先、水を撒いた道を通るとき
サウナのような熱気を感じます。

でもそのお爺さんは、昔の人知恵を信じてやっていて
実際の効果を体感で評価していないんでしょう。

湿度が上がる影響も感じないんだと思われます。

それだけ慣れと思い込みの影響は大きい。

空調メーカーのダイキンは湿度にこだわっているようですが、
全体的にもっと湿度を気にしてもいいんじゃないかと思います。

せめて安易に「暑い」「寒い」の一言で片づけないように
感じた温度と湿度を言葉にするとか。

cozyharada at 23:48|Permalinkclip!

2018年04月27日

相談援助のポイント

僕が相談を受けるときの土台は、文字通りペーシングです。

観察力と共感力を活用して本人の中で起きていることを捉える。
そのことが9割ぐらいの割合を占めていると思います。

言葉の内容は、その人の内面で実際に起こっていることを
補足説明するためのものでしかありません。

なんなら本人よりも僕の方が上手く言葉にできる自信があることも。


そうやって本人の中で起きていることを把握しながら
現状の不具合として、本人にとって気がかりなものを探ります。
これは主にネガティブな感情の動きの強さとして判断します。

で、感情が大きく動く要因を捉えながら
相談内容としての話題を絞り込みます。

この段階ではあくまでテーマの候補が出ているところまで。


それと並行して現状の不具合を生み出している心の癖に注目します。
これは「どういうプログラムが関わっているか?」という話。

「何を学習してきて、どの学習結果が上手くいっていないか?」
「何を学習してこれなかったために上手くいっていないのか?」
といった発想がメインです。


そして現状の中から本人が気にかけている部分のいくつかを踏まえつつ、
どういう学習・再学習をしたら、気がかりなことが改善しそうかを
話し合いながら決めていく。

ここでコントラクトとなります。

そうしたら後はもう、必要な学習・再学習を
ワークやトレーニング、課題としてやるだけ。


つまり、
_燭魍惱・再学習したら問題状況が改善しそうかを特定する
△匹Δい取り組みをしたら、その学習・再学習が可能かを考える
3惱・再学習の取り組みをして、その進行をチェック
こ惱・再学習の効果を予測して大丈夫そうであれば終了
(ジ綟、その効果を検証)
といった流れ。

大きなポイントは,鉢△任靴腓Α

何を学習・再学習したら改善するのかを話し合う段階と、
その学習・再学習をするための手法をか考える段階。

,里曚Δ倭綾劼猟未
 治
「何を相談のテーマにするか?」
「絡み合った困りごとのうち、どの部分を解決したいか?」
を決める作業と、
 治
「その困りごとを生み出しているのは
・何を学習していないからか?
・過去に学習したパターンのどれが空回りしているからか?」
を判断する作業、
の2つからなります。

が、自分の心の癖を「学習」という観点で捉えないクライアントには
 治欧里曚Δ枠獣任任ないほうが一般的です。

なのでそこは援助者側が積極的に見ていく必要がある部分でしょう。

そしてカウンセラーやコーチでも、
この「学習・再学習」という観点で取り組む内容を整理しないために
効果をだすための手法の選び方が曖昧になるケースが多いようです。

実際はそれほど取り組む内容を特定していなくても
セラピー的な手法をやっていくうちに
自然な流れで適切な落としどころに辿り着きますから、
それでも問題は起きにくいとは思いますが。

僕も振り返ると、
「とりあえずワークを初めてみて、様子を見ながら
クライアント自身が納得いくところに繋げていく」感じの
『結果オーライ』にする力に頼っていた時期がありました。

それは端的に、
「どの学習不足、どの学習の空回りが問題か?」
を見られていなかったのが理由の一つ。

もう一つの理由は、それが分かっても
「どういう手法で、どんな作業をしたら
その学習・再学習が可能か?」
を想定できていなかったことだと考えられます。

このことが⊆衙〜択の段階で困難さを生むようです。


ですから課題となるのは
学習・再学習の観点で取り組む内容を絞り込むことと、
学習・再学習のやり方を身につけること
でしょう。

様々な心理療法的手法がありますが、
それらが学習・再学習の観点ていえば何をしているのか?

その仕組みを理解した上で
効果を狙って手法を選べるようになれば、
『結果オーライ』ではない見立て通りの効果を
出しやすくなってくるはずです。

そしてこの部分こそ、学習・再学習を
「プログラム」として理解するNLPの特徴だと思うんですが、
残念ながらこの部分をトレーニングする機会は
滅多にないような気がします。

今度、手法の仕組みと効果を解説したり
効果を出すために必要な流れを練習するような
トレーニングをしてもいいかもしれません。

cozyharada at 23:17|Permalinkclip!

2018年02月21日

音楽の力

先日、フランス語教材のCDを取り込んだときのことです。

やるときはまとめてやってしまいたかったのと、
取り込み作業をやると決めたことで
「せっかくなら」という気分が出てきたため、
音楽のCDも取り込むことにしました。

気になっていたものを数本レンタルしてパソコンに取り込み。

まんまとレンタルショップの策略にはまっているわけですが、
まとめて借りると得になるシステムを利用するために
予定していなかったものも借りることになりました。

以前よく聞いていた歌手のCDです。
ベストアルバムが出ていたので懐かしさとともにレンタルしたんです。


取り込んで聴いてみると、これがなんとも不思議な気分。

懐かしさは大きかったです。
よく聴いていた当時の記憶が蘇ります。

その頃は新曲が出ると追いかけてCDを購入していたものですから
曲と時期がリンクしているんです。

聴く曲によって思い出される記憶が異なります。
思い浮かぶ景色や場面が色々あるんです。

車の中で聴くことが多かったものですから
多くは車内から見た景色ですが、
どこに出かけていた時期の記憶かは特定できました。

「そういえば、こんなことをしていたなぁ」と。

いわゆるアンカーという仕組みですね。

そういう思い出がある一方で、
その頃に心を動かされていた部分はあまり反応しませんでした。

当時の状況、心境で感じ入っていた曲は
あの頃の僕の苦しさや悲しさに響いていたのでしょう。
今はもう、その感情がないみたいです。

それが寂しいようでもあり、
以前の自分に同情するようでもあり、
時間の移ろいと状況の変化を実感するキッカケになりました。


15年も前だということにも驚きます。

そして15年前の記憶でも思い出させてくれる音楽に
その力のほどを感じ入りました。

毎日を重ねていると意識されない時間の流れですが、記憶を辿ると、
その思い出から引っ張り出される気持ちもあるようです。

過去を思い返すからこそ未来も同時に意識しましたし。
長さとしての時間を感じる機会になりました。

cozyharada at 23:46|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《怒りの取り扱いマニュアル》
 〜期待の手放し方と
  ゆるしの技法〜


【日時】 
  2019年7月6日(土)
     7月7日(日)
   10:00〜18:30


【場所】 
  滝野川会館

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

詳細はこちら>>
次回未定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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