NLPの基本情報

2017年09月08日

相性と価値観の区別

「合う・合わない」と「好き・嫌い」を区別できると
人間関係や出来事を受け入れやすくなるようです。

裏を返すと、「合う・合わない」と「好き・嫌い」を混同していたら
楽になれる方向性の取り組み方があるのに、異なった取り組み方をして
長いこと苦しみ続けてしまいかねない、という話です。

本当は「嫌い」なことを「合わない」と拒絶して
「好き」あるいは「嫌いではない」ぐらいになれる可能性から目を背け
改善の努力に取り組もうとしない。

あるいは「嫌い」なのを「合わない」と捉え
違いがあるのは仕方のないことだと頑張って受け入れようとして
「嫌い」の奥にある自分の価値観を抑え込んでしまう。

逆に「合わない」ことを「嫌い」だと捉えている場合には、
「”嫌い”という個人の反応は自分が成長すればなくなるはず」
「自分が変われば関係性も変わって、嫌いではなくなるはず」
と期待して、噛み合わない関係性に身を置き続ける結果
ずっと苦しい思いを味わい続けることになったり。

あるいは「合わない」だけなのに「嫌い」だと思うあまり
他者を嫌っている自分に対して「それは良くない」と判断して
自己嫌悪に陥ってしまうケースも見受けられます。


「合わない」のではなく「嫌い」なのだとしたら、
そこには自分の価値判断が表れています。

これまで経験してきたことによって
「こうすることが良い、正しい、普通だ」と考えるところがあり、
その考え方によって大切にしたい何か(価値観)がある。

相手とは、その価値判断が異なっているわけです。

よく話し合ってみたら、相手の考えの中にある価値観に共感できて
相手のことを受け入れられる可能性だってありえます。

お互いの価値観をすり合わせて共通のゴールを見出せるかもしれない。

ただの「違い」として諦めるのではなく、
自分の価値観も、相手の価値観も、どちらも大切にできるように
双方にとってベストな関わり方を見つけられる余地があります。

逆に、「嫌い」なのではなく「合わない」のだとしたら、
その性質そのものを受け入れて、素直に諦めることもできます。

「合わない」という違いについては「合う」ように無理をするよりも
「合わない」もの同士、どのような接点にしておけば
不快な思いをする必要がなくなるのか、という考え方です。

「合わない」から「嫌う」必要もありません。
相手の存在を尊敬しながらも距離を取ってもいいでしょう。
嫌悪感という感情を、心理的な距離を取る手段にする必要はありません。

「合わない」ものは「合わない」。
そのことで自分を肯定する必要も、否定する必要もない、と。


では、「合う・合わない」と「好き・嫌い」の違いは何なのか?

一言でいうと、
 学習されたものが「好き・嫌い」
 学習以前の生まれもった性質によるものが「合う・合わない」
と区別できます。

この区別が定義として正しいかどうかは定かではないですが、
『学習されたものかどうか』という基準で考えると
 「学習されたものなら再学習して変えられる。
  学習以前の生まれもったものは変えるのが大変。」
という現実的な理解が可能になります。

再学習して変えられるものであれば
変える方向で対処したら改善する余地があるわけです。

生まれもった度合いが大きくて変えにくいものだとすると
無理やり変えようと頑張るよりも、
現状を受け入れてしまった方が楽になれる可能性があります。

そういうシンプルな指針を目的とした区別です。


学習されたものは基本的に経験に基づきます。

本人が直接体験していなかったものであっても
教育という経験を通じて、何らかのイメージを仮想体験して
頭の中でシミュレーションできるだけの材料にはなります。

直接経験したものは、快・不快の状態を伴って
「〜したら、〇〇(快・不快)になる」という経験則になります。

で、「どういう種類のことに対して快を感じるのか」の分類が
価値観(=何を大切にしているか)だといえます。

例えば、人と穏やかに関わっている時の安らいだ状態を”快”とする人は
安心感や優しさなどを価値観としているということです。

そもそもどうして、その種の状態を”快”と捉えるのでしょうか?
どうしてその価値観を持つに至ったのでしょうか?

そこを振り返っていくと、何を頻繁に経験していたかに行き着きそうです。

生き物として安全に生存していられる状態、一切のリスクがない状態に
どの種類の体験が結びついているか。

言い換えると、どういう種類の状態にいるときに
生存の心配をする必要がなくなっていたか、ということです。

具体的には例えば、赤ちゃんのときに
抱きかかえてもらっている最中に安心していられたとすると、
身体の暖かさや触れ合い、揺すってもらっているリズムなどが
馴染みのある”快”の状態として経験されていくはずです。

何か生き物として不快な状態が起きて、泣いて表現する。
すると誰かが抱き上げて、揺すって、あやしてくれる。
そんな経験が多ければ、そこに基準が生まれてきやすい、と。

あるいは、不快なことがないまま目が覚めている状態のときほど
周りの人たちが集まって笑顔で見てくれている…といった経験が多ければ
人との穏やかな交流や静かな心地よさを”快”として学習しそうです。

また、不快なことがないときに体を動かして声を出して
身体的なエネルギーを活発に使っている場合ほど、
周りの人たちが関心を向けてくれたり、一緒に遊んでくれたりすれば
身体のアクティブな状態や、明るさ、楽しさなどを”快”と結びつける。

そんな風に小さいころから、
生き物として安全なときに慣れていた状態を
”快”のベースとして学習していくと考えられます。

それが価値観の土台になっていく、と。
つまり価値観も「慣れ」から生まれている。

食べ物の好み、生活習慣の好みも慣れによるところが大部分です。

辛い物が当たり前の文化で育てば、辛い物が好きになる。
味付けの濃い文化や家庭で育てば、そこに馴染んで基準が作られます。

生活環境の好みにしても同様。

人の外見の好みなんかも、自然に体験してきた情報量の影響が大きく、
身近な人に似た印象や、あるいは鏡に映った自分に似た印象、
テレビで頻繁に露出されている人の印象など、
体験の量が非常に大きく関わっているものです。

「慣れ」という単語が適切かは分かりませんが、
とにかく体験の量が、価値観を含めて
「好き・嫌い」の土台を生み出してきている、ということです。


一方、「合う・合わない」は学習と切り離れます。

エビ・カニにアレルギーのある人は、美味しいと感じても食べられません。

僕はグラノーラなどのシリアルを食べたいときがあるんですが、
牛乳をかけて食べると、決まってお腹の具合が悪くなります。
合わないんです。

生き物として個体のリズムもありますから、
歩くスピードや話すスピード、話し声のトーンなどは、
自分のリズムと相手のリズムが「合う・合わない」の話になります。

僕が女子高生のテンションと合わせるのは大変です。

犬が好きな僕ですが、リズムという観点で
小型犬よりも大型犬のほうが「合う」感じがあって心地いいです。

で、ここが少し紛らわしくて注意が必要なところ。

「合わない」のは心地よくない。

心地よくないということは「不快」として認識されます。

嫌いなものの土台にあるのも「不快」な状態です。

「不快」な状態が共通しているので混同されやすいわけです。

そうすると「合わない」から「不快」なだけなのに
「不快だということは嫌いなんだ」と判断してしまったりする。

アレルギーの人がエビを食べて苦しむ体験をする。
ここでアレルギーという理解があると「合わない」と判断できます。

でも「合わない」理由が何なのかを知識として理解できないと
「〇〇を食べると気分がよくない」という不快の体験だけから
印象を捉えることになります。

例えば僕はニンニクが多いものを食べるとお腹の具合が悪くなったり、
中華料理をたくさん食べたり、チェーン店の牛丼を食べたりすると
身体が重ダルくなったりする傾向がありますから、控えています。

味の慣れとしても「好き」の部類には入っていない自覚があります。

すると「好きではない」+「合わない」=「嫌い」のように
判断してしまいかねないんです。

確かに「食べたくない」気持ちは起こります。
でもそれは厳密には「嫌い」だからではない。
「合わない」からです。

もちろん、「合う」から「快」なだけなのに
「快だということは好きなんだ」と判断することもあります。

「快」を基準に選んで関わっていて、「快」が続くのであれば
それが「合う」だろうが「好き」だろうが問題は起きません。

ですが「合わない」から「不快」なのに
それを「嫌い」と混同してしまうと、
最初に述べたような問題が起きてきます。

食べ物ぐらいなら大きなトラブルにはならないでしょう。
しかし人間関係で「合わない」を「嫌い」だと認識してしまうと
「合わない」だけの人を不必要に嫌悪し、
拒絶や対立にまで発展したりする可能性もあります。

もしかしたら社会問題とされるものの中にも
「合わない」を「嫌い」とするためのものがあるかもしれません。

本当は「合わない」だけなら、
それを理由に「嫌う」必要はないでしょう。

「合わない」ことを無理やり合わせようと頑張る必要もない。

自然界はちゃんと棲み分けをしています。
合わない環境には生きていない。
合わない者同士は距離を取る。

人間以外の動物にも体験に基づいた「好き・嫌い」はあるようですが、
その度合いは人間よりもずっと小さいように見えます。

現実的ではない解決努力で苦労したり、
解決できるのに避けてしまったり、
取りつく島もないほど全てを拒絶してしまったり、
無理に受け入れようとして苦しんだり…、
そういうのは動物には起きなそうです。

まずは「合う・合わない」なのか「好き・嫌い」なのかを区別する。
体験によって学習されたものなのか?と振り返る。

その区別をつけるだけで楽になることが結構あるはずです。

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2017年09月03日

外国語の聞き取りの訓練として

ここ数日、フランス語のディクテーションを少しずつ続けています。

スピードが速いところは音として聞き取るのも難しく、
音が取れたとしても意味が追いつかない場合もあったりします。

一方、ある程度の長さの塊で意味が確定するようなフレーズは
僕の記憶の中で、音と意味が結びついているらしく
スムーズに聞くことができます。

そのような意味をとらえられるフレーズだと
音読しようとしたときにも自然に発声することができます。
音源と同じスピードで読める。

逆に音が聞き取れないところは音読しようとしても大変だったり、
音が分からなかったり、音の繋がりを理解するのに時間がかかったり、
頭で分かっているつもりでも口が回らなかったり…、
音源と同じようには読めないことが多いんです。

さらに意味が取れない部分になってくると、
その意味の長さ分を覚えて再現することができません。
そのフレーズの長さ分を頭の中に保持できていない。


これまでの英語学習のトレーニングでもやってきましたが
発音のトレーニングとして音源の発音、イントネーション、スピードを
真似できるようになると、同じフレーズはすぐに聞こえてくる
という経験は多々あります。

言えるものは聞こえる、と。

特に僕の場合、理解のステップとして
頭の中でそのフレーズが再生される段階があるようなんです。

耳から入った音を頭の中でもう一度再生して追いかける。
これが一生懸命に理解しようとして聴いている状態。

逆に何気なく聞き流しているときは頭の中の再生がありません。
その場合、音は入っているけれど記憶には残りません。

日本語だと慣れ過ぎていて、どんなに聞き流しているつもりでも
頭の中で自動的に再生されてしまう癖ができているようですが、
外国語の場合、再生されるときと再生されないときがあるんです。

つまり、頭の中で再生できれば聞けるようになりそうだ、ということ。
だったら再生できるのは聞き取りの重要なポイントになりそうです。

で、再生するためのトレーニングとしては
音源と同じように発音できるようにするのが効果的なようなんです。

聞いて真似できるようにする。
文章を読んで発音して、音源と同じように音読できるようにする。

そうすれば音源を聞いているときにも、
頭の中で聞いたものを再生しながら追いかけられるようになる。

そんなトレーニングが有効じゃないかと思われます。


一方、意味が取れないところになると
その長さ分を覚えていられないことが多いようなんです。

途中までは記憶として保持して再生できる。
けれどもフレーズが重なって長くなってくると
その長さ分を最初から最後まで再生することはできない。

もちろん覚えて再生できる範囲であれば
その範囲の意味も捉えられています。

おそらく日本語でも、聴いて内容を理解できているときは
全く同じフレーズではなくても、同じような内容を要約して
自分の口から言える状態になっているはずです。

意味を納得はしていても自分で言えないケースもあると思いますが、
少なくとも自分で言える状態であれば意味は分かっているでしょう。

ですから意味を踏まえながら、その長さ分をフランス語で言えれば
その内容は理解できていることになると考えられます。

つまり、その文章を覚えて、音源と同じ発音で、しかも
意味をイメージしつつ再現できるようになれば
聞いた時にも内容が掴めるようになっているだろう、と。

トレーニングとしては、聞き取れなかった部分を
フランス語のまま覚えて再現できるようにする方法が良さそうです。
音読ではなく、暗唱する練習です。


これまでの経験としても、
自分でスピーキングの際にスムーズに言える文章は
聞いた時にも難なく聞き取って理解することができます。

まとめると
・意味を(五感のイメージとして)頭の中に作り上げながら
・ネイティブと同じ発音で(音読できるようにして)
・(それから)何も見ないで言えるようにする(=暗唱する)
という流れでやると、
「連続した音の聞き取り+聴解力」がついていくのではないか。

そういうことが予想されます。

実際、じっくり音を1つずつ取りながらディクテーションをして
音源の文章を書きだした後、正解と照らし合わせて、
それから音読と暗唱のトレーニングをすると、
その後でもう一度音源を聞いたときにはスムーズに聞くことができます。

文章として把握しているものと同じことを言っているように聞こえるし、
聴きながら頭の中で再生して追いかけられるし、
意味もイメージできるようになります。

言語活動は最終的にパターン認識だと考えられますから、
あとは量を繰り返して、自動的にパターンが頭の中に作られるのを待つ。

すると聞き取りの力も上がるんじゃないかと期待しているところです。

1つの教材をじっくりと丁寧に使い倒すぐらいのつもりで
コツコツ繰り返していこうと思っています。

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2017年04月15日

花粉症が改善した理由

花粉のシーズンもピークを過ぎてきたのでしょうか、
マスク姿の人を見かける頻度が減っている気がします。

他にも、インフルエンザのピークが過ぎたり
気候が暖かくなってきたことでマスクをつけるのが暑かったり、
いろいろな要因があるかもしれませんが。

とはいえ、僕自身の実感としては
4月を過ぎると花粉症の症状は減ってくるようです。

実態として症状が強めに感じられるのは3月ぐらいかもしれません。


しかしながら、僕の花粉症のレベルは随分と下がっています。
年々下がっているかは定かではありませんが、
10年前とは比べ物になりません。

病院に行けば「酷いレベル」と言われるほどでしたし、
医者の処方薬をいろいろと試し、時には市販薬も併用したり、
目薬も欠かせない感じでシーズンを乗り切っていたものです。

1月末ぐらいから準備を始め、6月はじめぐらいまで
なんとなく症状を引きずるような感じでした。

ヒノキのアレルギーもあったらしく、梅雨入り前までは
かゆみと鼻水・鼻づまりに苦しんでいました。

そういえば、山口に住んでいたころは楽だった記憶があります。
西のほうは杉が少ないらしいので、その影響でしょう。

ゴールデンウィークに東京に戻るとき、
飛行機に乗った瞬間から花粉症の症状が出始め
東京から運ばれてきた花粉を強く実感したのを覚えています。

寝て起きれば目ヤニで瞼がくっついてしまっているとか、
鼻の奥や喉の奥が痒くて困っていたとか、
鼻をかんでも鼻水が出てこないぐらいに鼻が詰まっているとか、
そういうのが当たり前だったんです。

それが今は、ほとんど気にならないレベルです。


最近は毎年、2月の中頃から薬を飲み始め、
5月に入るぐらいまでは一応、薬を飲むようにはしていますが、
どうしても服用が必要なわけでもありません。

飲み忘れても大して困ることはなく、
鼻をかむ頻度が増えるのと、軽く鼻が詰まった感じがするのと
気にすると目が痒いような気分があるぐらいなもの。

薬を飲むとそれがピタッと止まります。
鼻の通りが快適になって呼吸がしやすいので
少しでも呼吸をスムーズにする目的で薬を飲む感じです。

実際には1日2回の薬を、1日1回で大丈夫なぐらい。
ピークの時期だけ念のため1日2回にしてはいますが。

薬を飲んでも鼻をズルズルさせていた頃と比べると
もうすっかり良くなっている印象です。

最近は薬を飲まなくても、ホコリで鼻がムズムズするのと同程度で、
もしかすると花粉よりもハウスダストのほうが
身体は嫌がっているようにさえ感じられます。


ただ、何をして改善したかというと、定かではないんです。

NLPや催眠をやり始めてからも症状は残っていました。
症状をコントロールできることを知って程度は減っていたものの、
それでもある程度は残っていた記憶があります。

1つ大きそうなのは、意識の範囲が広がったことでしょうか。

以前、僕の意識は常に、目と鼻のあたりにありました。
目は一生懸命に見ようとするため(視覚情報を重視するため)、
鼻は厳密にいうと口から鼻の奥にかけてなので
味覚・嗅覚を重視するためだったと思われます。

僕にとって意識の中心は常に、頭の中…
目から鼻にかけての範囲で、顔の奥に入ったあたりにありました。

常にその場所から全身を見ているような感じ。
まるで目と鼻の奥のところにコクピットがあって
そこから巨大ロボを運転しているようなイメージです。

それが身体の使い方が上達してきたあたりから
意識の及ぶ範囲が広がっていったんです。

身体のケアをするようになって、
身体への意識が敏感になったのも関係していると思います。

それ以上に、意識の範囲を拡大できるようになったのが効いていそうです。

目に意識を集中すれば、目のあたりの感覚刺激が強く自覚されます。
結果、そこの痒みや不快感が強く意識され、さらに意識が集まるようになる。

意識が集まると血流も集まりやすくなって、余計に感覚刺激が強まる。
痒みを意識するほど、どんどん痒くなっていくという悪循環です。

だいたい花粉症の症状が強く表れる部位は、
その人が意識を集めているところになっているものです。

視覚をよく使う人は目を痒がる。
皮膚感覚の強い人は、花粉のアレルギーも肌の痒みになるようです。

その意味では、僕は意識の範囲を拡大できたことによって
目や鼻の反応だけに集中してしまう悪循環から抜けられたのかもしれません。

即効性のある手法で花粉症が治ったというわけではなさそうですが、
時間をかけて取り組んできたことが、思わぬ好影響を及ぼしたみたいです。

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2017年03月27日

「忙しい」の中身

なんでしょうか、忙しい時期ほど色々と立て込んでくる感じがします。

落ち着きがないわけではないんですが、
頭の中で複数のことが同時進行していて
ボーっとする時間が少ない状態。

1つの作業が始まれば、それについては集中して取り組みますし、
やっている途中で他のことを考えることもありません。

しかし一人に戻ったときに、多くのことが意識にあがってきます。

頭の中のスピードだけが速いような印象です。
「気ぜわしい」というのは、こんな感じなんでしょうか。

こういう状態だと、大したことのない作業でも
新しいことを追加するのに乗り気でなくなるようです。

ただの振り込み一件でさえ、どうも動こうとしない。
やってしまえば数分で済むような単純作業であるにもかかわらず。


どうやら内面を探ってみると、むしろ簡単過ぎるからこそ
ギリギリまで優先順位が下げられているような気がします。

おそらく一般的な発想では、何かを『やる』という意味において、
「行動に起こす」、「作業を始める」というアクションの部分と、
「考える」、「何かを気にしている」、「どうしようかな、という気分になる」
などの頭の中で進行する作業の部分とでは、違った捉え方をすると思います。

「『やる』というのは行動に起こすこと」という発想が多そうです。
つまり意図的に体を動かして作業に取り組んでみて、
体の外で何かの変化が起こることを『やる』というのではないか、と。

もしかすると『考える』についても
積極的に集中して1つのことについて考えを巡らせ
1つの結論を出すとか、何かのアイデアをまとめるとか、
そうしたアウトプットの段階を含まないと
「〜について考える」という作業として認識されない場合もあるかもしれません。

なんとなく意識の片隅で気になっていたり、
ああでもない、こうでもないと思ったりしている段階では
「考える」という作業に取り組んでいないと捉えているのではないか、と。

確かに「意図的に何かをする」ということが「自分」の作業だと考えると
『行動に起こす』、『集中して考える』、『そのことが気になっている』の間には
大きな違いがあるように見えるでしょう。

しかしNLPの発想では、いずれもプログラムは進行しているわけです。
そのことは起きている。

『気になる』と『集中して考える』は、
 そのテーマとは関係のない作業をしている間に
 そのテーマに関したプログラムのいくつかが時々動く(=気になる)
のか、
 決まった時間に、そのテーマに関したプログラムが同時に動き
 無関係なプログラムの進行が抑えられる(=集中して考える)
のか、
という違いだといえます。

『行動に起こす』のと『気になっている』のとの差も、さほど大きくありません。

ある作業について『気になっている』状態は
その作業に取り組もうとするプログラムが動いた瞬間です。

それに引き続き、その取り組む内容に沿って体を動かすプログラムが動けば
実際に『行動を起こす』ことになります。

取り組もうとする(作業内容が決められる)
→体を動かす(決めた作業内容通りに体を動かす)
という二段階なんです。

その作業内容が決まって、取り組もうという気になるところまでは同じです。
もう1ステップのプログラムが作動するかどうかの違い。

頭の中では別の作業についても「取り組もうとする」プログラムは動いていますから、
 最終的には「体を動かす」プログラムが、
 どの作業についての「取り組もうとする」プログラムに連動するか
によって、実際に何の行動を起こすかが決まります。

気になっているけれど、やらない…という状態は、実態として
 いくつもの作業について「取り組もうとする」プログラムが動いたとき、
 別の作業のほうに「体を動かす」プログラムが作動した
ということに過ぎないんです。

プログラムとしては色々なことが起きているし、
それによって多くのことも進行しています。

集中して『考える』時間を取っていないときにも、
パソコンのウイルス対策ソフトが背後で動いているのと同様に
考える作業のプログラムそのものは働いているわけです。

気になっているけれどやらない、というときも
何をやるかまでの作業内容までは頭の中で進んでいます。

頭の中の作業はプログラムとして同時進行できますが、
体は1つしかありませんから、行動として体を動かすときは
1つの作業だけになってしまいます。

そこで何を『やる』かという、行動レベルとしての優先順位が表れてくる。


たぶん、僕の「忙しい」は、「寝る時間がない」という意味ではなく、
沢山のテーマについてプログラムが同時進行していることで
多くのことが「気になっている」の状態で停滞しているからでしょう。

パソコンでいうなら、CPUやハードディスク上のデータなど
1つの作業を進めるのに必要なものは揃っているのに、
沢山の作業が同時進行してしまう結果、メモリが足らなくなる感じでしょうか。
体がメモリに相当するようなイメージです。

思えば研究職の頃は、確かに睡眠時間は少なかったですが
やるべき作業は決まっていたので、同時進行するプログラムは少なく、
メモリ不足的な意味での気ぜわしい「忙しさ」はなかった気がします。

1つ1つの作業は単純でも、種類が多くなってしまうのが
僕の気分を落ち着きのないものにしているようです。

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2017年03月04日

書道の筋肉痛

僕が加盟している書道会は、年に二回の展覧会を開催します。

一回はメインとなるもので、1月の上旬に開かれるもの。
こちらは原則的に出品者全員の作品が提出され(違反がない限り)、
いろいろと賞が選定されます。

もう1つは夏ごろに開催されるもので、こちらは
提出された作品のうち審査を通ったものだけが展示されるスタイル。
賞の数は少なめで、展示されるかどうかが審査の中心のようです。

賞そのものは別にさほど重要ではないのですが、
書道の分野で「良い」と評価される基準は伝統的に受け継がれてきたもので
その審美眼を身につけることも書道として習得すべき要素でしょうから、
どういう作品が評価されるのかを理解するのが僕の目的となります。

で、年二回の展覧会はその展示スタイルの違いから
審査方法にも違いが生まれます。

メインのほうは全員が展示される兼ね合いと
審査から展示までの期間が短いことから、
作品は表装して額に入れられた形で審査を受けることになります。
そうするとすぐに会場へ輸送して並べることができる、と。

夏ごろのほうは選抜された作品だけが展示されますから
入選しなかったものは出品者のもとへ返送されることになります。
展示されないのに表装して額に入れて…というのは勿体ないですから
審査は表装する前の段階、ペラペラの紙のままで行われるんです。

ここに審査基準の違いが出てくるようです。

表装されて額に入れられると、額の中の縁取り(背景)として
色のついた紙の部分がつきます。
その色紙との対比されることで紙面全体の範囲が切り取られ
紙の白い部分が際立って見えやすくなると考えられます。

一方、表装されない段階だと紙の範囲は際立ちませんし、
文字に対して紙が背景のように認識されやすくなります。
白い部分への認識が下がるためか、文字ばかりに注意が向き
黒いところが気になりやすいのでしょう。

表装されていなければ紙面そのものもヨレヨレですから
余計に白い部分を色として認識しにくくなって
単なる背景として認識から外してしまいやすくなるのもありそうです。

そういった理由からか、一般的な傾向として
白い部分が多く見えて余白の綺麗な作品が選ばれやすいようなんです。


ということで今回は、ゆったりと白地が綺麗に見えるような字体のものを
書いてみることにしました。

11月ぐらいに1月の展覧会の作品を書き上げたのに
3月の時点でまた作品に取りかかることになりますから
「もう次の出展か…」と慌ただしさも感じています。

審査に通った作品だけが、それから表装されて額に入れられ
展覧会場へ運ばれて展示される…ここで少し時間がかかりますから、
出品期限は展覧会時期よりもかなり前倒しになるみたいです。
なので余計に間隔が短いんでしょう。

期限まで時間もそれほどありませんから
さほど力を入れずに気楽な感じでと思って取り組み始めましたが、
やってみて驚いたのは体への負担です。

ゆったりと余白の綺麗な字体ということで選んだものが
文字そのものの特徴として楷書と行書の中間ぐらいで画数が多く、
字体としても筆運びの特徴がゆったりとしているため
下半身を固定している時間が長いんです。

全体としての統一感を考えると文字数が多いほうが良さそうなので
1枚を書き上げるのにかかる時間も長くなってしまいます。

中腰で体を浮かせて書き続けるのも負担ですし、
かといって膝をついて座っているのも大変。

ここ数年で、こんなに体に負担を感じる作業は珍しいです。

内股の筋肉が張って、筋肉痛が出ました。
歩くのが遅くなってしまうぐらいの負荷を感じています。


同じような書体の作品は、7年前ぐらいにも書いているはずなんですが
そのときはこれほどの負荷を感じてはいませんでした。

確かに身体の感覚への敏感さは上がっているとは思うものの、
筋肉痛になるかどうかの話ですから、
そういう繊細なレベルの問題ではないと思われます。

7年の間に筋力が低下して負荷に耐えられなくなったのでしょうか。
加齢を考えれば十分にありそうな要素でしょう。

もう1つは書くときの姿勢の変化。

7年前はもっと姿勢を低くして、背中を丸めながら書いていた気がします。
座り込んでいるような感じ。
座りやすいところで身体を止めて、手先だけで書いていた。

今は紙面を少し高いところから見たくなっているのと
真上から見下ろせるように、上半身を高い位置でキープしようとしています。

その上半身の重さを左手と背筋、腰回りの筋肉で支えている分
身体への負担が大きくなっているとも考えられます。

少しでも上手く書きやすい姿勢を身につけてきたとも言えますが
一文字当たりの時間、一枚あたりの時間が長くなるタイプの作品だと
そういう姿勢は厳しいのかもしれません。

先生がどうやって座っていたかを思い出しつつ、
座り方を含めて検討しなおす必要がありそうです。

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2017年03月03日

お金の使い途

わりと最近になって実感したことなんですが、
僕は物欲が小さいほうみたいです。

ここ数年の範囲で、短い周期で買い替えたものといえば
スマートフォンぐらいでしょうか。

IiPhone 5 から 6S にしましたから多分、3年ちょっと使ったぐらい。
こちらはバッテリーの問題からでした。

でも、その間、カバーは一度も換えていません。

その前の携帯も、かなりの年数を使っていた気がします。
5年ぐらいずつは使ったかもしれません。

ノートパソコンは必要に迫られて買い足すことはあっても、
未だに自宅のパソコンでは7,8年前のものが動いています。

こちらは動きが遅くなりすぎてきたので、そろそろ買い換えたいところ。

出張で使っているキャリーバッグは10年以上使っていて、
キャスター部分がかなり不安定になってきています。

ガタガタするなぁと思ってみてみたら、タイヤ部分が擦り減っていました。
こちらも買い替えが必要です。

日用品、食料品などの消耗品を除くと
一番頻繁に購入するのは本だと思いますが、
こちらは「買い替える」種類のものではないでしょう。

どうも僕は「買い替え」のタイミングが遅いようなんです。


ここに「もったいない」という発想はありません。
「もったいない」という言葉を聞きながら育ってきたわけではないんです。

確かに僕の祖父は、物が壊れても自分で修復して使い続ける人でした。
決して上手い修復ではなかったですが、それを気にしなかったんでしょう。

じゃあ、その影響で物を大切に使い続けるかというと、
やはりそこまででもありません。

多少の靴底ぐらいは修理することもありますが、
最近は大抵のものが安く手に入るので
修理するまでもないようなケースだって多いように感じます。

実際、僕の「買い替え」のタイミングは「機能に支障が出てきたとき」みたいです。
なので修理で対応することはむしろ稀で、どうしてもとなれば買い替えます。

ただ「機能に支障が出た」という判断が遅いようなのと、
「新しいものが欲しい」という気持ちが少ないのとで、
かなり長い間、同じものを使い続けてしまう傾向があるみたいです。

つまり「もったいない」という判断で、買い替えを控える発想は持っていない、と。

新しい物に買い替えていくことに「悪いことをしている」ような意識もありません。
欲しい物があるんだけど我慢するというわけでもありません。

新しい物を欲しいと思う物欲のほうが小さいんでしょう。

ちなみに新しいものが欲しい気持ちが強くて、
かつ買い替えることに「悪いことをしている」意識が働く場合、
 物がドンドン増えていって、使っていないものが溜まっていく
ということが多いようです。

欲しい物があって、我慢もしないとなると
かなり頻繁に買い物をする感じになると思われます。

裏を返すと、僕はあまり買い物に行かない、ということです。


おそらく僕の物欲が小さい、買い替えのタイミングが遅い原因のメインは
 買い物の習慣を身につけてこなかった
ことではないかと考えられます。

子供の頃、お小遣い制ではなかったので
小学校の頃に自分で何かを買うことは滅多にありませんでした。

マンガはそれなりに買っていましたが、
欲しいときにその分だけ貰うような形だったのを覚えています。

もちろん毎回もらえるわけでもなかったですから
欲しい物を選びながら、欲しい気持ちをコントロールする必要はありました。

中学に入っても、塾の行き帰りでジュースを買うぐらいの小銭は持っていても
まとまった額で何かを買うことはありませんでした。

高校に入ると電車通学になったのと、部活動で帰りが遅くなるのとで
コンビニで何かを買って食べられるぐらいのお小遣いはもらい始めました。

が、自宅から近い高校だったので通学の途中に繁華街を通ることもなく
お金を使う機会は飲食だけに限られていた記憶があります。

部活はゴルフ部で、道具にはお金がかかりましたから、
学校の計らいでゴルフ場のキャディのアルバイトをさせてもらってもいました。
部活にかかるお金は、そちらで賄っていたわけです。

大学に入ってからはゴルフ練習場でアルバイトをしたりもしましたが、
やはりお金の使いどころは限られていました。

高校が男子高、大学は理系だったことも関係しているのか、
オシャレを意識することもなく、衣類にお金をかけたい欲求もなかった。
となると足を運ぶ店そのものが限られてしまいます。

しかも大学ぐらいになるとレポートや実験、研究が忙しくて
店が開いている時間に外を出歩くことも少なくなかったですし。

ですから僕は、買い物に行くという頻度そのものが低かったんです。
欲しい物を自分で探すという体験に慣れていない。

買い物をする喜びを、あまり分かっていないんだと思います。

「必要に迫られた」ときは買いに行く。
それ以外では「買い物に行きたい」という動機づけがなされません。

買い物という行為に対してポジティブな印象や良い気分の経験が伴っていれば
おそらくもっと買い物に行きたい気持ちが湧いていたことでしょう。

新しい物の価値を感じて欲しい気持ちが生まれていたかもしれません。


今の僕は大部分、「不便を回避する」という動機づけで買い物をしています。

一方、本や講座の参加費、学費など、勉強するためのほうは
「それが楽しいから」、「もっと〜できるように」という理由でお金を使っています。

物を買うときにも、その魅力に対して動機づけられるようになれば
もっと物欲が高まってくる可能性はありそうです。

本や勉強のほうには喜びを感じたことが多かった。
だから「もっと」という種類の動機づけでお金を使う。

身の回りの物については、買い物という行為に喜びを感じた経験が少ない。
だから「このままだと困ったことになるから、それを避けたい」という動機づけで
「〜にならないように」との思いからお金を使うことになる。

そんな違いがありそうです。

…ちなみに、物欲がないからといって貯金が溜まるわけでは決してありません。
むしろ勉強のほうにばかりお金を回しているだけのことなんでしょう。

cozyharada at 23:06|Permalinkclip!

2017年02月20日

問題意識〜心の癖に気づけるか〜

人には無数の心の癖があります。

パターン化された行動や感情、考え方など
自動的に起こるものは心の癖といっていいでしょうが、
特にワンパターンで他の選択肢がない状態は
「癖が強い」、「パターンが強固」、「柔軟性がない」といえそうです。

しかしほとんどの心の癖は、それがワンパターンであったとしても
それほど大きな”問題”になりません。

全ての人が心の癖をもっていますし
その癖の間で相性の良し悪しは生まれますが、
大部分は「よくある範囲」の結果に終わります。

ここでいう結果は、そこで起こるコミュニケーションそのものとか
その後の人間関係とか、相手との関わりから生じる利益だとか、
あらゆるものを含んでいます。

とにかく自分が外的な刺激に対して反応した結果のことです。

で、この結果に対して「望ましい/望ましくない」の評価がなされます。
単純に「好き/嫌い」の話です。

「望ましい/望ましくない」の評価は、基本的に経験がベースです。
慣れの問題。

慣れ親しんだものを快適に感じて「望ましい」とすることもあれば、
慣れていないだけの理由で不安を感じて「望ましくない」とすることもある。

特別なケースでだけ味わえる報酬と似た出来事であれば
喜びの記憶が引き出されて「望ましい」と評価されますし、
ストレスになるような出来事でも頻繁に経験して慣れてしまえば
そこが「よくある範囲」になりますから、「望ましくない」とは評価されません。

ここで、「快適」だとか「不安」とか「喜び」とか「ストレス」とか、
評価の基準となっているものが感情になっているのがポイントでしょう。

自分が何かをしたときの結果として起きる出来事に対して感情が起きる。
それがポジティブな種類の感情なら「望ましい」、
ネガティブな種類の感情なら「望ましくない」という評価になる、と。

実際には、自分の中に起きている感情に対して
さらに次の感情が生まれる場合があります。

例えば、すぐに落ち込んでしまう自分に腹が立つ、とか。
落ち込みの反応に対する評価の結果、次の感情が生まれるケースです。

逆にネガティブな感情が起きているのに、
それをネガティブに評価しない場合もあります。
ストレスに慣れてしまうようなケースはこれです。

つまり、
”垈な気持ちになることに対して不快になる場合、
不快な気持ちが生まれても、そのことに慣れていて
 不快なことについての不快感は抱かない場合、
ただ不快な気持ちが起こって、すぐに忘れてしまう場合、
がある、と。


いわゆる”問題”として認識されるのは,離院璽垢任后
ポイントはパターン化されているかどうか。

,痢嵒垈なことに不快になる」は、
自分の感情のパターンに対して不快感を抱くケース
(例:つい怒って怒鳴ってしまう自分が嫌いだ)、
自分に嫌な気持ちが起きる環境や人間関係に対して不快感を抱くケース
(例:いつも虚しい気分になる職場が嫌だ)、
の両方を含みます。

自分のパターンが問題となる場合、
環境や人間関係が問題となる場合。

いずれにしても不快な感情が繰り返されていることに注目してください。

繰り返される不快感をパターンとして捉えた結果、
その状態について不快な気分が生まれ、問題意識を持つわけです。

一方、△痢嵒垈な気持ちに慣れている」場合は、
繰り返される不快感があっても、
そのパターンに不快感を持っていません。

例えば、常にイライラしている(自分の感情のパターン)とか
ウンザリする職場の人間関係がある(環境や人間関係)とか、
日頃から不快な感情が繰り返し起きているわけです。

それでも、その不快な感情のパターンを「当たり前」の範囲に設定してしまうと
そのパターンについて不快感を持つことはなくなります。

慣れてしまうわけです。
我慢しているという意識もなく、「そんなものだ」と受け入れてしまう。

望ましい状態を期待して、それが期待外れになればネガティブな感情が起きますが、
そもそも望ましい状態を期待せず、不快感が沸く状態を「当然」と認識するため
期待外れから生まれるネガティブな感情がないんです。

だから嫌なことは起きているし、嫌な気持ちは繰り返し味わっているけれど、
そのことを大きな問題だとは思わない。
耐えられてしまうケースです。

それに対しては、繰り返しのパターンが認識されていないのが特徴です。

ネガティブな感情が起きる。
けれどもすぐに忘れる。

「嫌なことがあった」という出来事としては思い出せても、
そこに自分の感情のパターンを見つけたり、
繰り返しネガティブな感情を起こさせる環境や人間関係を特定してはいません。

例としては、電車の中で足を踏まれて腹が立つようなものです。
嫌な出来事だったし、感情も動きます。
けれどすぐに忘れる。

一回限りの出来事でパターンにはなっていないわけです。

これが例えば、「いつもイライラしてしまう自分が情けない」となれば
,砲ける感情のパターンへの問題意識となりますし、
「こんなに頻繁にイライラさせられる通勤電車は間違っている、ムカつく!」
となれば、,砲ける環境・人間関係への問題意識となります。

そして「いつもイライラするけれど、そんなものだ」とか
「いつも通勤電車にはイライラさせられるけれど、日本なんてそんなものだ」
などと認識されると、△良垈感に慣れた状態となります。

はネガティブな感情が繰り返し起きるというパターン認識がなく、
そのときにネガティブな感情になってもすぐに忘れる。
だから問題意識はない。

,魯優ティブな感情が繰り返されるパターン認識から、
そのパターンに対してのネガティブな感情が生まれて問題意識を持つ。

△魯優ティブな感情が繰り返されるパターン認識はあるけれど、
そのパターンに対してはネガティブな感情が生まれず、問題意識もない。

そういう違いです。


いわゆる「問題」は、,
 ネガティブな感情が繰り返し起きるパターンに対して
 さらにネガティブな感情を抱く
ときに自覚されるようです。

逆に言うと、そのパターンが嫌だから何とかしたいと思う、と。

心の癖として見ると、
まずネガティブな感情が沸くパターンそのものが挙げられます。
この癖を修正すれば、そもそも不快な感情が起きなくなるでしょう。
(,隆蕎陲離僖拭璽鵑悗量簑螳媼院

それからネガティブな感情が起きる前に、時間的な順番として
何かしらのキッカケとなる出来事が起こっているはずです。

この出来事を未然に防ぐようなコミュニケーションができれば、
ネガティブな感情が沸く心の癖はそのまま残るけれど
そのネガティブな感情が起きる原因はなくなります。
(,隆超・人間関係への問題意識)

ちなみにこの場合、修正するのはコミュニケーションの仕方としての
心の癖だということになります。
感情レベルの癖ではなく、行動やコミュニケーション技術として
心の癖を修正するという話です。

また、ネガティブな感情が繰り返し起きるパターンについての認識も
1つの心の癖です。

△里茲Δ法崚たり前」、「こんなもの」と考えるようにすれば
ネガティブなパターンに対して更にネガティブな感情が起きることはなくなります。

あるいはネガティブなパターンが起きることを、
もっと肯定的に捉え直しても良いでしょう。
「これは学びのチャンスだ」とか、「嫌なことがあれば、他で良いことがある」とか、
様々な考え方で、ネガティブなパターンに対処している人がいます。

,杷Ъ韻気譴詭簑蠅梁仆茲箸靴董⊃瓦諒覆鮟だ気垢詈法は色々あるわけです。


いずれにしても心の癖を修正すれば問題意識がなくなります。

大部分の人は、そうやって問題意識を元に物事へ取り組みます。
そして問題意識がなくなれば、あまり気にせずに普段の生活を送る。

しかし問題意識がないことと、心の癖がないこととは違います。

環境が変われば、今までは問題になっていなかった心の癖が
急にネガティブなパターンを生み出して問題になることもある。

まぁ、その都度、問題意識を元に心の癖を修正していけば
自然とスムーズな方向に進むかもしれません。

ただし問題意識を指標にしていると、
将来に厄介なことに繋がるかもしれない心の癖を
自覚できない場合もあります。

△離優ティブなパターンに慣れているケースは、その典型です。

人は慣れてしまうんです。

慣れてしまうと、慣れていることにさえ気づかなくなる。

問題意識がなくなってきた後には、
繰り返されるパターンに対するネガティブな感情が減ります。

「このパターンが問題だ」という認識がなくなるわけです。

すると自分のパターンを自覚するキッカケが減ります。

その後は、自ら「どんなパターン、心の癖があるだろう」と振り返り、
その癖を修正する段階が来るのかもしれません。

別にそんな面倒臭いことをしなくても生きていけますし、
問題意識がないのであれば幸せな状態だとは言えるでしょう。

事前に対処するか、問題が起きてから対処するかの違いだけでしょうか。

あまり気にしなくても良いところとも言えそうですが
1つ僕が気づいているのは、
 そういうパターン・心の癖を自ら発見して修正することを事前にしておくと
 人生の展開がスムーズになる場合が多い
ということです。

知らないうちに自分を制限していた何かが取り払われて
チャンスが上手く機能しやすくなるようなイメージ。

根拠はありませんが、そういう側面もあるような気がします。

cozyharada at 23:21|Permalinkclip!

2017年01月15日

2017作品

今年も展覧会に出品しています。

筆遣いのスムーズさや線質については
長く続けるうちに上達してきている実感はあります。

が、展覧会場に並ぶ2000点ほどの作品の中で
僕の書いたものと同じような傾向の作品は見当たりません。

良くいえば目立つということでしょうが、実態はむしろ
その分野が求めるものと方向性が違う、という意味のような気がします。

しかしながら求められる方向性の基準を見つけるのは大変です。

芸術家なら自分がやりたい表現だけをしていれば良いのでしょうが
僕のやっている程度の書道は芸術にはなっていません。
技術を磨くのが主目的。


その意味で今回の展覧会では大きな収穫がありました。

それは団体の創始者本人(もう亡くなっています)の作品を
一度に10点近く見られたこと。

団体のどの重鎮も辿り着けていない(らしい)最終形ともいえる書家が
どんな作品を書いていたのか?
そこから共通点として見出せる特徴こそが、
この分野で「美」とされる基準だろうと考えられます。

僕は今まで、自分が習っている先生の書きぶりだけを参考にしてきました。
さらに抽象度の高い、書芸術としての基準を知るには
最高峰とされるものを見ておくのが重要だろうと感じます。

そして技術的な観点でも役に立ちそうだったのが
その創始者が実際に書いている様子のDVDが放送されていたこと。

どうやって書いているのかを見られたわけです。

ここにも技術として、筆遣いとして、線質としてのポイントが
集約されているだろうと思われます。


心理業界でいうと、ミルトン・エリクソンの記録を読み、
催眠の動画を見られたような体験です。

ポイントを抽出する作業はこれから長くかかるのでしょうが
必要なポイントが含まれているはずのものを見られたのは
インプットとして重要な意味を持っていると思われます。

2017独立展12017独立展1

cozyharada at 23:13|Permalinkclip!

2017年01月12日

語学とペーシング

つくづくペーシングはコミュニケーションに大きな影響を及ぼすものだと感じます。

技術として身体を同調させるのが癖になってきたり、
もともと他者の影響を受けやすい傾向があったりすると、
自然と相手に巻き込まれる形で相手のコミュニケーションに感化されがちです。

知らないうちに相手の表情や姿勢を真似してしまっていたり、
相手の言葉遣いの癖や、話し方のリズム、方言やイントネーションが
移ってしまっている…なんていうのは感化される例でしょう。

メリットは相手との信頼関係とか一体感を生み出すとかだけでなく、
相手の感情に共感して気持ちを察することがしやすい、あるいは
相手の持ち味を自分に反映させることができる、などもあります。

科学的な説明はできませんが、経験的にいって
例えば視覚的にイメージを浮かべるのが得意な人にペーシングすると
会話の最中に普段よりも自分の意識に映像のイメージが浮かびやすくなるとか、
陽気な人と会話をしていると自分まで気分が楽しくなるとか、
そういったことは起きるようです。

逆にデメリットとしては、相手の不快な感情や身体の緊張や硬直につられて
自分の身体の中にも感情や身体の強張りが生まれたりする、などがありそうです。


このペーシング(同調)のメリットは、技術習得に大きく役立ちます。
上手い人のやっていることを真似しやすいわけですし、
頭の中の状態も近づくのだとしたら心構えや注意点、意図的な工夫なども
感じとりやすくなるだろうと考えられます。

語学なんかでは、かなり効果的に働くと感じています。

ネイティブスピーカーにペーシングをしていれば
日本語で考える癖が抑えられますし、
言葉遣い、文章の組み立て方、リズムや発音なども
自然と感化される形で身につきやすいでしょう。

小さい子供が母国語を習得するときと近い形を利用できそうです。

実際、僕が英語を勉強してきたときも、今フランス語をやっているときも
発話のスムーズさはネイティブ相手のときのほうが上がるようです。

日本人の講師を相手にしたり、日本人の受講生同士で話したりするときは
逆にスムーズには言葉が出てきません。
なんとなく考え過ぎてしまう感じになります。


ただしデメリットでもあるのが、相手の持ち味を利用しているという部分。
自分のスピーキング力が相手に依存するわけです。

一人でプレゼンをしたり、語学のスピーキング試験とかになると
ペースを合わせるのが難しくなるため、発話がスムーズでなくなります。

これを「普段よりスムーズでない」と捉えるのか、
「一人で話せるときが本当の実力であって、
ペーシングしたときのスピーキング力は実力以上に上乗せがある」
と捉えるのか、そこは一概には言えないかもしれません。

ともあれ、ペーシングする相手がいなくなると流暢さが落ちるのは実情。
とするとやはり、スピーキングのトレーニングとしては
会話に慣れてきた段階から、独り語りのような形を取るのが望ましそうです。

おそらく僕の日本語力に関しても、プレゼンや人前で話す作業を重ねるうちに
自然と向上してきた部分もあるんではないかと思います。


また相手の持ち味を利用するということは、
相手によっても自分の発話能力が変わるということでもあります。

僕の英語は基本的に学術寄りでトレーニングしてきたものです。
土台作りは化学の論文や教科書を読むところでしたし、
英語を本格的に勉強し始めたのもTOEFLという留学向けの英語試験でした。

その後も英語で大学の授業を取ったり、
普段の英会話でも割と専門性の高い議論を好んでやっていました。

僕自身が英語を鍛えてきた分野が学術寄りだということは
ボキャブラリーについても文章構造についても、
そっちの方面に偏っているという意味でしょう。

しかもペーシングをしながらですから、会話の相手になっていた人達も
学術寄りの論理的な人や、少なくとも論理的なモードで会話をしていたはずです。

そういう意味では、日常会話というか、気軽な会話のほうが慣れていないんです。

気軽な会話を好む人とか、論理的な話や学術的な話題を好まない人、
そもそも論理的な話し方をしない傾向の人が相手になると、
僕がトレーニングしてきていない領域が求められてしまいます。

そこでペーシングまでしようものなら、今度は
今までトレーニングしてきた領域の発話力が使えなくなります。

論理的に話すのが難しくなるのが実感されますし、
ペースに合わせるのが精一杯で、タイミングに合わせながら発話するのが大変。

よほどプレゼンのように自分のペースで話せるほうがスムーズな気がします。


では、そういう人とどうやって会話していくのか?

1つの発想はペーシングせずに、自分のペースで話す練習をする。
相手の持ち味を使わずに自分を保つ方向で頑張るという方向性です。

もう1つは、あえてそっちにペースを合わせ、
日常会話や気軽な会話の能力を上げていく方向性。

どちらかに絞る必要はないでしょうから、ときおり変えながら
・ペースを合わせないで自分主体にして話す能力
・日常のフランクな会話におけるスピーキング力
の両方を鍛えるのが良さそうに感じます。

どちらも今までに本腰を入れなかった分野ですから
これから心がけることになる気がします。

cozyharada at 23:41|Permalinkclip!

2016年12月29日

基準が見えてこない

1月上旬に開催される書道展の審査結果が届きました。

今年も秀作。
何%かは忘れましたが、中の上ぐらいの評価といった印象でしょうか。

7回目の出品で、佳作1回、秀作5回、準特選1回となっています。
ここ3年は連続して秀作。

選抜展というのも一度出品しましたが、
こちらは全員分が展示されるのではなく選ばれた半数ぐらいが陳列される仕組み。
陳列された時点で秀作と同等の評価とされているらしいです。

なので計8回、平均するとピッタリ秀作となります。
ずっと中の上ぐらいということ。


別に、良い賞が欲しいわけではありません。
客観的な評価基準を自分の中に取り入れていくために
審査をしてもらってポイントを知りたいんです。

初めて出品したときからほぼ毎回秀作ということは
上手くなっていないんじゃないか?という気がしなくもありません。

厳密に言うと、自分としては上手くなっているつもりでも
自分が理解している「上手さ」、「上達」は
書道の基準からズレているという可能性はあり得ます。

評価のポイントと違うところで頑張っているんじゃないだろうか?と。

そこが気になりますし、もどかしくもあります。

芸術家として表現のために書をやるのであれば
他者からの評価は二の次かもしれません。

しかし書道の場合、大半は歴史的に積み上げられてきた美の基準があって
そこを土台として表現の幅を出していくことになるようです。

好き勝手にやっていいわけではない。
そこが他のアートと毛色が違うと感じます。

だからこそ基準となるポイントを身につけたいんです。


もちろん、賞としての評価が変わらなくても
少しずつ上達している可能性はあります。

大部分の人は継続的に出品していますから
全員が上達していて相対的な評価としての賞は同じぐらいに落ち着く。
そういうことかもしれません。

1つの賞でも受賞人数はそれなりにいます(数十人から数百人)。
仮に100人だとして、その中で変動があるのかもしれません。
例えば、中の中から、中の上ぐらいにはなっている、とか。

そんな実情までは分かりませんし、ある程度の偶然性もあるものでしょう。

一方で、二年連続で特選(一番上の賞)を取るような人もいます。

と考えると、やっぱり基準に合っているかどうかの影響は大きいはず。

おそらく僕の書きぶりは何かしらの癖があって
書芸術としての美の基準と沿わないところがあると思われます。

なかなかそこが掴めません。

練習の仕方、取り組み方を工夫する必要がありそうです。

cozyharada at 23:37|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

New!

《心を調える実践会》

【日時】 2017年9月10日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 滝野川会館
    304集会室

    JR上中里駅より7分
    JR駒込駅より10分
    南北線西ヶ原駅より7分


【日時】 2017年9月24日(日)
     10:00〜16:30


【場所】 北とぴあ
    801会議室

    JR王子駅より2分
    南北線王子駅直結

詳細はこちら>>
次回開催は10/15の予定


 ◆ 過去の講座 

《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


当時の内容はこちら>>


《勉強会》 

【テーマ】 変化の流れを考える

当時の内容はこちら>>
次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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