NLPの基本情報

2018年04月27日

相談援助のポイント

僕が相談を受けるときの土台は、文字通りペーシングです。

観察力と共感力を活用して本人の中で起きていることを捉える。
そのことが9割ぐらいの割合を占めていると思います。

言葉の内容は、その人の内面で実際に起こっていることを
補足説明するためのものでしかありません。

なんなら本人よりも僕の方が上手く言葉にできる自信があることも。


そうやって本人の中で起きていることを把握しながら
現状の不具合として、本人にとって気がかりなものを探ります。
これは主にネガティブな感情の動きの強さとして判断します。

で、感情が大きく動く要因を捉えながら
相談内容としての話題を絞り込みます。

この段階ではあくまでテーマの候補が出ているところまで。


それと並行して現状の不具合を生み出している心の癖に注目します。
これは「どういうプログラムが関わっているか?」という話。

「何を学習してきて、どの学習結果が上手くいっていないか?」
「何を学習してこれなかったために上手くいっていないのか?」
といった発想がメインです。


そして現状の中から本人が気にかけている部分のいくつかを踏まえつつ、
どういう学習・再学習をしたら、気がかりなことが改善しそうかを
話し合いながら決めていく。

ここでコントラクトとなります。

そうしたら後はもう、必要な学習・再学習を
ワークやトレーニング、課題としてやるだけ。


つまり、
_燭魍惱・再学習したら問題状況が改善しそうかを特定する
△匹Δい取り組みをしたら、その学習・再学習が可能かを考える
3惱・再学習の取り組みをして、その進行をチェック
こ惱・再学習の効果を予測して大丈夫そうであれば終了
(ジ綟、その効果を検証)
といった流れ。

大きなポイントは,鉢△任靴腓Α

何を学習・再学習したら改善するのかを話し合う段階と、
その学習・再学習をするための手法をか考える段階。

,里曚Δ倭綾劼猟未
 治
「何を相談のテーマにするか?」
「絡み合った困りごとのうち、どの部分を解決したいか?」
を決める作業と、
 治
「その困りごとを生み出しているのは
・何を学習していないからか?
・過去に学習したパターンのどれが空回りしているからか?」
を判断する作業、
の2つからなります。

が、自分の心の癖を「学習」という観点で捉えないクライアントには
 治欧里曚Δ枠獣任任ないほうが一般的です。

なのでそこは援助者側が積極的に見ていく必要がある部分でしょう。

そしてカウンセラーやコーチでも、
この「学習・再学習」という観点で取り組む内容を整理しないために
効果をだすための手法の選び方が曖昧になるケースが多いようです。

実際はそれほど取り組む内容を特定していなくても
セラピー的な手法をやっていくうちに
自然な流れで適切な落としどころに辿り着きますから、
それでも問題は起きにくいとは思いますが。

僕も振り返ると、
「とりあえずワークを初めてみて、様子を見ながら
クライアント自身が納得いくところに繋げていく」感じの
『結果オーライ』にする力に頼っていた時期がありました。

それは端的に、
「どの学習不足、どの学習の空回りが問題か?」
を見られていなかったのが理由の一つ。

もう一つの理由は、それが分かっても
「どういう手法で、どんな作業をしたら
その学習・再学習が可能か?」
を想定できていなかったことだと考えられます。

このことが⊆衙〜択の段階で困難さを生むようです。


ですから課題となるのは
学習・再学習の観点で取り組む内容を絞り込むことと、
学習・再学習のやり方を身につけること
でしょう。

様々な心理療法的手法がありますが、
それらが学習・再学習の観点ていえば何をしているのか?

その仕組みを理解した上で
効果を狙って手法を選べるようになれば、
『結果オーライ』ではない見立て通りの効果を
出しやすくなってくるはずです。

そしてこの部分こそ、学習・再学習を
「プログラム」として理解するNLPの特徴だと思うんですが、
残念ながらこの部分をトレーニングする機会は
滅多にないような気がします。

今度、手法の仕組みと効果を解説したり
効果を出すために必要な流れを練習するような
トレーニングをしてもいいかもしれません。

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2018年02月21日

音楽の力

先日、フランス語教材のCDを取り込んだときのことです。

やるときはまとめてやってしまいたかったのと、
取り込み作業をやると決めたことで
「せっかくなら」という気分が出てきたため、
音楽のCDも取り込むことにしました。

気になっていたものを数本レンタルしてパソコンに取り込み。

まんまとレンタルショップの策略にはまっているわけですが、
まとめて借りると得になるシステムを利用するために
予定していなかったものも借りることになりました。

以前よく聞いていた歌手のCDです。
ベストアルバムが出ていたので懐かしさとともにレンタルしたんです。


取り込んで聴いてみると、これがなんとも不思議な気分。

懐かしさは大きかったです。
よく聴いていた当時の記憶が蘇ります。

その頃は新曲が出ると追いかけてCDを購入していたものですから
曲と時期がリンクしているんです。

聴く曲によって思い出される記憶が異なります。
思い浮かぶ景色や場面が色々あるんです。

車の中で聴くことが多かったものですから
多くは車内から見た景色ですが、
どこに出かけていた時期の記憶かは特定できました。

「そういえば、こんなことをしていたなぁ」と。

いわゆるアンカーという仕組みですね。

そういう思い出がある一方で、
その頃に心を動かされていた部分はあまり反応しませんでした。

当時の状況、心境で感じ入っていた曲は
あの頃の僕の苦しさや悲しさに響いていたのでしょう。
今はもう、その感情がないみたいです。

それが寂しいようでもあり、
以前の自分に同情するようでもあり、
時間の移ろいと状況の変化を実感するキッカケになりました。


15年も前だということにも驚きます。

そして15年前の記憶でも思い出させてくれる音楽に
その力のほどを感じ入りました。

毎日を重ねていると意識されない時間の流れですが、記憶を辿ると、
その思い出から引っ張り出される気持ちもあるようです。

過去を思い返すからこそ未来も同時に意識しましたし。
長さとしての時間を感じる機会になりました。

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2018年02月15日

片付けのパターン

僕のiPhoneの中に入っている音楽ファイルは
かなりの割合が語学のリスニング教材です。

近頃はフランス語の割合が高まってきていますが
CD音源のパソコンへの取り込みや、iPhoneとの同期、
リスト作成やデータの整理など、伴う作業を考えると、
僕にとって音声ファイルの取り込みは少し面倒に感じるんです。

パソコン本体にCDドライブがついていないのも関係します。
外付けドライブを用意して…なんていう作業を想像すると、
「ここは1つ、CDでも取り込むか!」などと
しっかりした意欲が高まってからでないと動けないようです。

どの作業も1つ1つは些細なことだとは分かっていても
積み重なったときに億劫な気がしてくる。

NLP的にいうと、時間把握のプログラムとして
スルータイムと呼ばれる長さ感覚を利用する癖があるからでしょう。

目の前の作業1つに集中すればパッと取り組めて
1つ1つ表れてくる作業をこなすだけでいいはずですから、
逆のインタイムと呼ばれるプログラムだったら
もっと気軽に沢山の音源を取り込んでいたと思われます。

そういえば僕の知り合いのインタイムの人は
物凄く大量の音源をiPhoneに入れていました。


で、先日、ようやく重い腰を上げて
CD音源の取り込みをやることにしたんです。

時間意識の使い方は変わっていません。

面倒臭い作業の積み重ねがヤル気を減退させる一方で、
音源を取り込みたい動機というのもあります。

今回はその動機が高まったわけです。
必要性が面倒臭さを上回った、と。

フランス語のリスニング教材がちょうど1つ終わって
次のものに移ろうというタイミングだったのが大きそうです。

CDのまま聴き取りをするよりもパソコンから行うことが多いので
次の教材に取り組むためには取り込む必要がありました。

他にも今までに買っていた教材の付録のCDが残っていたのもあります。
フランス語の聴き取り練習を移動中にもできそうでしたし、
一度やったものの復習は電車の中などだと好都合だったので
一気に取り込んでしまおうという気になったんです。

このように必要性が少しずつ積み重なって
面倒臭さを上回ると、行動に移ることができる。

部屋の片づけをやるときも同じパターンです。

ある程度、本が積みあがってきた時点で整理しようとする。

典型的なやり方なんでしょう。


そして一気に音源を取り込んで、そのままの流れで
教材の整理まで一緒にすることになりました。

始めると一気にやってしまうのも良くある傾向です。

そして以前に購入した教材の中に
今の自分のタイミングにちょうど良さそうなものを発見。

良さそうだと思って購入しても、あまり取り組まずに
放ったらかしになってしまうものも時々あります。

そういうのが一気に整理するこのタイミングで
必要そうなものとして見つかってくることもあるんです。

時間の流れを先まで考えてから行動するパターンは
教材を購入するときにも、その時点の実力だけを反映せず
「いつか役に立ちそう」、「質の高いものだから使えそう」
といった先取りで買ってしまう行動とも関係するのかもしれません。

そして実際にしばらくしてから役に立ち始める。

今回は特に掘り出し物を見つけたような気分なので
その教材にも力を注いでみようと思っています。

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2018年02月01日

風邪が治りません

どうも調子が戻りません。

ダルさと節々の痛みが続きます。
喉の痛みは引いてきていますが、
ときどき咳が止まらないときも。

これは一応、病院に行って
喉に巣くいやすい細菌を殺すタイプの抗生物質を
もらってきたおかげではないかと思われます。

何より、インフルエンザではなかっただけでも安心。


熱は出たり下がったりを繰り返していて
症状が移り変わっていく感じです。

ただ寝て養生しているだけでも、変化はあるものなんですね。
むしろ何もしていないからこそ
変化に敏感になっているのかもしれません。

もしかしたら昔よりも体の内側の変化に敏感になっていて
体調をモニターできるようになっている可能性もあります。

以前は鈍感だったというか、気にしていなかったから
体調を変動するものとして捉えていなかっただけだろう、と。

「体調が悪い」という判断を「良い」〜「悪い」の数段階だけで
評価していたような気もします。

いや実情は「悪くない」〜「すごく悪い」ぐらいだったかも。

「体調が良い」の基準がなかったようにも思いますし、
「悪い」についても「熱があるかどうか」とか
「どこかが痛いかどうか」ぐらいしか気にしていませんでした。

今は重みや動きの悪さ、熱が籠った感じ、強張り…など
体の内側がスッキリとクリアになっていないことで
「良くない」と判断していることを自覚します。

「体調が良い」の設定値ができたんでしょう。


それはそれで体調維持にはメリットがありそうですが
ひとたび体調を崩すと苦痛が強く意識に上がって
なんとも過ごしにくくもあります。

何事も裏表ですね。

cozyharada at 23:26|Permalinkclip!

2018年01月19日

感覚刺激への感度

今年最初の出張は札幌です。

値段の関係で普段よりも早い便に乗りました。
日中の飛行機はあまり利用していなかったのですが
日差しのまぶしさが厳しかったです。

窓際の人が景色を眺めたり、かと思うと眠りについたりして
日よけを閉めてもらうこともできず、自分の顔を隠すので精一杯。

どうも僕は子供のころから日差しが苦手で、記念写真は決まって
まぶしそうな顔をして写っていたものです。

飛行機の中でも他の人は日光を気にしていない様子でしたから
僕の個人的な傾向として光が得意ではないのかもしれません。

冬でも日中の飛行機はサングラスが必須だと感じました。
でないと本も読めません。

寝るならアイマスクが必要そうにも思えますが、かといって
耳にゴムを引っかけるのが痛くて嫌だというワガママもあります。

鼻と口を覆うための普通のマスクにしても耳が痛くて嫌ですし、
帽子も耳の上に加わる感触が苦手です。

耳栓も痛いから本当は嫌なんです。
騒音の音圧の強さを避けるか、耳の穴の痛みを避けるか…。
耳栓を使うかどうかは迷うところです。

イヤホンも痛くて苦手でしたが、カナル型(深く差し込むタイプ)が出て
だいぶ楽になりました。

随分と目や耳の周りについて好みがうるさいことを自覚します。

小さいころは苦手な刺激が多くて、それでも
大人になって我慢できるようになってきていました。

ですが最近また苦手意識が高まってきている印象があります。

我慢して気にしないようにしていた感覚刺激が
改めて意識に上がるようになってきたんでしょう。

NLPでは「五感を鋭敏に」なんてことも言われたりしますが
敏感さは強い刺激への脆さにも繋がるようです。

メリットとデメリットは裏表なのかもしれません。


この辺の「感覚刺激への過敏さ」については
「HSP(Highly Sensitive Person)」という概念が提唱されています。

臨床心理学者のエレイン・アーロンという人が決めたものですから
生きにくさの1つの指標として、その基準を設定したといえます。

ネット上にもアーロンが作った測定法(質問リスト)がありますから
すぐに自分でも調べてみることができます。

心理学においては、この手の測定法の研究は
統計的に一貫していて妥当かどうかを調べますが、
実際に本人の中で何が起こっているかどうかは無関係です。

「こういう質問をすれば、この特徴が調べられるだろう」という想定で
工夫しながら質問集を作っているだけのこと。

調べたい特徴は既に、測定法の設計者の中で決まっているわけです。

その意味では、このHSPという個性は
「HSPに分類されるかどうか」で評価されるのであって、
それ以外の特性との関係などは気にされていない、ともいえそうです。

どのような生物学的な仕組みが関係しているか?などは
後の研究者が考える可能性はありますが、
そこが前提になっているわけではないはずです。

一方、僕の個人的な印象といいますか、NLP的な視点を踏まえてみると
HSPは2つの要素の組み合わせで説明ができそうです。

1つは五感刺激への感度そのもの。
情報を細かく知覚して、意味づけの少ない五感情報のまま処理がされる度合い。
感覚情報に対して直接的に反応が起こる傾向ともいえます。

その対極は五感情報を組み合わせて社会的に意味づけして
その意味に対する反応を学習する傾向。

心の中には様々な処理が同時並行で起こっていますから
両方の傾向の反応がどちらも進んではいますが、
感覚情報に直接反応する度合いが大きい、ということです。

もう一方は、反応が表に強く表れる度合い。
これは1つの「刺激−反応」に集中して意識体験が起こる傾向です。

対極は、同時に複数の処理が意識される体験の傾向。

HSPは「感覚刺激に圧倒されやすい」という意味で
「感覚刺激への感度の高さ」と
「圧倒のされやすさ」
の2つが含まれるとも考えられる、という話です。


僕は個人的に感覚刺激への感度は高そうですが、
1つの反応に集中して意識化するほうではなく、
好ましくない反応があっても「数多くの心の動きの1つ」と捉え
それに集中することがありません。

ですから「嫌い」ですが
「圧倒される」ことはないんです。

その意味では僕は「HSP」の分類には入りません。

感覚刺激への感度は高くても、
それだけが「HSP」の基準ではないからでしょう。

「五感刺激への感度」と「1つの意識体験への集中度(強さ)」。
この2つがHSPには含まれていそうに思えます。

実際、僕が測定法に沿って質問に答えてみると
半分だけが当てはまりますし。

名称は「Highly Sensitive(高感度)」ですが
それだけではなさそうだということです。

逆に、僕はただの高感度だ、と。

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2017年12月25日

ホワイトクリスマス

今年はクリスマスのタイミングで知人を訪問しました。

メインの目的は、その人が飼っている犬に会うことですが。

この写真の犬です。
皆でドッグカフェ(屋内)に行ったときの一枚。

グレートピレニーズという種類で、
体重は45kgぐらいじゃないかと思います。

メスなので少し小さめ。
オスだと60kgぐらいにまでなる犬種です。

Jolly


























ラブラドールやシェパードのように
人間の仕事の手伝いをする種類ではありませんから、
一般にはそれほど賢いとはされていません。

が、この犬はとても穏やかで賢かったです。
マイペースな部分もあるとはいえ
気遣いの部分が大きいように見えました。

この写真のときは、もう一匹のヤンチャな若い犬が
暴れまくっていて飼い主の手を煩わせている最中。

そのヤンチャなほうを大人しくさせるために
遊んであげたりオヤツをあげたりしているところ。

その様子を羨ましそうに眺めた後、
「こっちにはオヤツないの?」
とでも言わんばかりの表情に見えました。

それでも欲しがりはしないし、
飼い主のほうに行こうともしません。

ジッと待つ。
たまにオヤツを貰えていましたし。


犬でもやはり個体差は大きいように感じました。

もちろん年齢的に落ち着きが出てくるとかもありますし
小型のほうがチョコマカした動きが増え、
大型犬のほうが、ゆったりした雰囲気も多い傾向はあるようです。

ただ、それ以上にも個体差があるんじゃないか、と。

この犬はトレーニングに出して躾を受けたそうですが、
もう一匹のヤンチャなほうも同じ訓練をしたらしいので
躾をすれば皆が同じように振る舞うわけではないはずです。

この犬が、個性として、すごく温厚で
周りに気を遣いながら行動するんだろうと思われます。

決して物凄く知的で賢いわけではないのでしょうが
(もっと知的な印象の犬も見たことがあります)
持っている賢さを温厚な気配りに費やしている感じかもしれません。

とても健気な犬だと感じました。

そしてそういう個性、リズムなどがある以上、
人間との関係性・ラポールにおいても相性があるようです。

僕はこっちの白い大型犬については
自分からペースを合わせる必要はありませんでしたが、
もう一匹のヤンチャなほう(オス)には
少しスピードを上げて力強く振る舞うことで
ペースが合うような印象を受けました。

「犬は飼い主に似る」なんて言葉もありますが
ラポールや同調、ペーシングといった観点で考えてみても
人間と犬の関係性は説明できそうな気がします。


ちなみに僕が1つ後悔しているのは、帰りがけに
この犬が一人で脱走していたのを見つけたときのこと。

皆で犬小屋を見学しながら会話をしていたとき
玄関が空いていたせいもあって、
この犬が脱走して向かいの公園のほうに行っていたんです。

たまたま玄関に一番近いところにいた僕が
犬がいなくなっていることに気づき、
外を見に行って公園に大きな白い犬影を発見しました。

「脱走」とはいっても、ただ佇んでいるだけ。
逃げている感じではありません。

僕は咄嗟に、常識で判断して
すぐにその犬を連れて帰りました。

呼んでも来ないので首輪を掴んで連れてくるだけですが。
距離にしたって道一本隔てるぐらいですから数メートルでしょう。

なんとなく寂しそうな雰囲気ではあったんです。

呼んでも来ないところを踏まえても、もしかすると
自分なりの気晴らしだったのかもしれない、と今にして思います。

一日中、気を遣い、もう一匹のヤンチャぶりに付き合わされ、
我慢することが多かったのかなぁ、と。

人間に言われたことを守り、ちゃんと振る舞った一日だったとしたら
少しぐらい気晴らしとして自由な時間が欲しかったのかもしれません。

2,3分でも、外で自由に遊ばせてあげたら良かった気がしています。

犬でも心の動きは人間と共通しているところがあるでしょうから。

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2017年09月08日

相性と価値観の区別

「合う・合わない」と「好き・嫌い」を区別できると
人間関係や出来事を受け入れやすくなるようです。

裏を返すと、「合う・合わない」と「好き・嫌い」を混同していたら
楽になれる方向性の取り組み方があるのに、異なった取り組み方をして
長いこと苦しみ続けてしまいかねない、という話です。

本当は「嫌い」なことを「合わない」と拒絶して
「好き」あるいは「嫌いではない」ぐらいになれる可能性から目を背け
改善の努力に取り組もうとしない。

あるいは「嫌い」なのを「合わない」と捉え
違いがあるのは仕方のないことだと頑張って受け入れようとして
「嫌い」の奥にある自分の価値観を抑え込んでしまう。

逆に「合わない」ことを「嫌い」だと捉えている場合には、
「”嫌い”という個人の反応は自分が成長すればなくなるはず」
「自分が変われば関係性も変わって、嫌いではなくなるはず」
と期待して、噛み合わない関係性に身を置き続ける結果
ずっと苦しい思いを味わい続けることになったり。

あるいは「合わない」だけなのに「嫌い」だと思うあまり
他者を嫌っている自分に対して「それは良くない」と判断して
自己嫌悪に陥ってしまうケースも見受けられます。


「合わない」のではなく「嫌い」なのだとしたら、
そこには自分の価値判断が表れています。

これまで経験してきたことによって
「こうすることが良い、正しい、普通だ」と考えるところがあり、
その考え方によって大切にしたい何か(価値観)がある。

相手とは、その価値判断が異なっているわけです。

よく話し合ってみたら、相手の考えの中にある価値観に共感できて
相手のことを受け入れられる可能性だってありえます。

お互いの価値観をすり合わせて共通のゴールを見出せるかもしれない。

ただの「違い」として諦めるのではなく、
自分の価値観も、相手の価値観も、どちらも大切にできるように
双方にとってベストな関わり方を見つけられる余地があります。

逆に、「嫌い」なのではなく「合わない」のだとしたら、
その性質そのものを受け入れて、素直に諦めることもできます。

「合わない」という違いについては「合う」ように無理をするよりも
「合わない」もの同士、どのような接点にしておけば
不快な思いをする必要がなくなるのか、という考え方です。

「合わない」から「嫌う」必要もありません。
相手の存在を尊敬しながらも距離を取ってもいいでしょう。
嫌悪感という感情を、心理的な距離を取る手段にする必要はありません。

「合わない」ものは「合わない」。
そのことで自分を肯定する必要も、否定する必要もない、と。


では、「合う・合わない」と「好き・嫌い」の違いは何なのか?

一言でいうと、
 学習されたものが「好き・嫌い」
 学習以前の生まれもった性質によるものが「合う・合わない」
と区別できます。

この区別が定義として正しいかどうかは定かではないですが、
『学習されたものかどうか』という基準で考えると
 「学習されたものなら再学習して変えられる。
  学習以前の生まれもったものは変えるのが大変。」
という現実的な理解が可能になります。

再学習して変えられるものであれば
変える方向で対処したら改善する余地があるわけです。

生まれもった度合いが大きくて変えにくいものだとすると
無理やり変えようと頑張るよりも、
現状を受け入れてしまった方が楽になれる可能性があります。

そういうシンプルな指針を目的とした区別です。


学習されたものは基本的に経験に基づきます。

本人が直接体験していなかったものであっても
教育という経験を通じて、何らかのイメージを仮想体験して
頭の中でシミュレーションできるだけの材料にはなります。

直接経験したものは、快・不快の状態を伴って
「〜したら、〇〇(快・不快)になる」という経験則になります。

で、「どういう種類のことに対して快を感じるのか」の分類が
価値観(=何を大切にしているか)だといえます。

例えば、人と穏やかに関わっている時の安らいだ状態を”快”とする人は
安心感や優しさなどを価値観としているということです。

そもそもどうして、その種の状態を”快”と捉えるのでしょうか?
どうしてその価値観を持つに至ったのでしょうか?

そこを振り返っていくと、何を頻繁に経験していたかに行き着きそうです。

生き物として安全に生存していられる状態、一切のリスクがない状態に
どの種類の体験が結びついているか。

言い換えると、どういう種類の状態にいるときに
生存の心配をする必要がなくなっていたか、ということです。

具体的には例えば、赤ちゃんのときに
抱きかかえてもらっている最中に安心していられたとすると、
身体の暖かさや触れ合い、揺すってもらっているリズムなどが
馴染みのある”快”の状態として経験されていくはずです。

何か生き物として不快な状態が起きて、泣いて表現する。
すると誰かが抱き上げて、揺すって、あやしてくれる。
そんな経験が多ければ、そこに基準が生まれてきやすい、と。

あるいは、不快なことがないまま目が覚めている状態のときほど
周りの人たちが集まって笑顔で見てくれている…といった経験が多ければ
人との穏やかな交流や静かな心地よさを”快”として学習しそうです。

また、不快なことがないときに体を動かして声を出して
身体的なエネルギーを活発に使っている場合ほど、
周りの人たちが関心を向けてくれたり、一緒に遊んでくれたりすれば
身体のアクティブな状態や、明るさ、楽しさなどを”快”と結びつける。

そんな風に小さいころから、
生き物として安全なときに慣れていた状態を
”快”のベースとして学習していくと考えられます。

それが価値観の土台になっていく、と。
つまり価値観も「慣れ」から生まれている。

食べ物の好み、生活習慣の好みも慣れによるところが大部分です。

辛い物が当たり前の文化で育てば、辛い物が好きになる。
味付けの濃い文化や家庭で育てば、そこに馴染んで基準が作られます。

生活環境の好みにしても同様。

人の外見の好みなんかも、自然に体験してきた情報量の影響が大きく、
身近な人に似た印象や、あるいは鏡に映った自分に似た印象、
テレビで頻繁に露出されている人の印象など、
体験の量が非常に大きく関わっているものです。

「慣れ」という単語が適切かは分かりませんが、
とにかく体験の量が、価値観を含めて
「好き・嫌い」の土台を生み出してきている、ということです。


一方、「合う・合わない」は学習と切り離れます。

エビ・カニにアレルギーのある人は、美味しいと感じても食べられません。

僕はグラノーラなどのシリアルを食べたいときがあるんですが、
牛乳をかけて食べると、決まってお腹の具合が悪くなります。
合わないんです。

生き物として個体のリズムもありますから、
歩くスピードや話すスピード、話し声のトーンなどは、
自分のリズムと相手のリズムが「合う・合わない」の話になります。

僕が女子高生のテンションと合わせるのは大変です。

犬が好きな僕ですが、リズムという観点で
小型犬よりも大型犬のほうが「合う」感じがあって心地いいです。

で、ここが少し紛らわしくて注意が必要なところ。

「合わない」のは心地よくない。

心地よくないということは「不快」として認識されます。

嫌いなものの土台にあるのも「不快」な状態です。

「不快」な状態が共通しているので混同されやすいわけです。

そうすると「合わない」から「不快」なだけなのに
「不快だということは嫌いなんだ」と判断してしまったりする。

アレルギーの人がエビを食べて苦しむ体験をする。
ここでアレルギーという理解があると「合わない」と判断できます。

でも「合わない」理由が何なのかを知識として理解できないと
「〇〇を食べると気分がよくない」という不快の体験だけから
印象を捉えることになります。

例えば僕はニンニクが多いものを食べるとお腹の具合が悪くなったり、
中華料理をたくさん食べたり、チェーン店の牛丼を食べたりすると
身体が重ダルくなったりする傾向がありますから、控えています。

味の慣れとしても「好き」の部類には入っていない自覚があります。

すると「好きではない」+「合わない」=「嫌い」のように
判断してしまいかねないんです。

確かに「食べたくない」気持ちは起こります。
でもそれは厳密には「嫌い」だからではない。
「合わない」からです。

もちろん、「合う」から「快」なだけなのに
「快だということは好きなんだ」と判断することもあります。

「快」を基準に選んで関わっていて、「快」が続くのであれば
それが「合う」だろうが「好き」だろうが問題は起きません。

ですが「合わない」から「不快」なのに
それを「嫌い」と混同してしまうと、
最初に述べたような問題が起きてきます。

食べ物ぐらいなら大きなトラブルにはならないでしょう。
しかし人間関係で「合わない」を「嫌い」だと認識してしまうと
「合わない」だけの人を不必要に嫌悪し、
拒絶や対立にまで発展したりする可能性もあります。

もしかしたら社会問題とされるものの中にも
「合わない」を「嫌い」とするためのものがあるかもしれません。

本当は「合わない」だけなら、
それを理由に「嫌う」必要はないでしょう。

「合わない」ことを無理やり合わせようと頑張る必要もない。

自然界はちゃんと棲み分けをしています。
合わない環境には生きていない。
合わない者同士は距離を取る。

人間以外の動物にも体験に基づいた「好き・嫌い」はあるようですが、
その度合いは人間よりもずっと小さいように見えます。

現実的ではない解決努力で苦労したり、
解決できるのに避けてしまったり、
取りつく島もないほど全てを拒絶してしまったり、
無理に受け入れようとして苦しんだり…、
そういうのは動物には起きなそうです。

まずは「合う・合わない」なのか「好き・嫌い」なのかを区別する。
体験によって学習されたものなのか?と振り返る。

その区別をつけるだけで楽になることが結構あるはずです。

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2017年09月03日

外国語の聞き取りの訓練として

ここ数日、フランス語のディクテーションを少しずつ続けています。

スピードが速いところは音として聞き取るのも難しく、
音が取れたとしても意味が追いつかない場合もあったりします。

一方、ある程度の長さの塊で意味が確定するようなフレーズは
僕の記憶の中で、音と意味が結びついているらしく
スムーズに聞くことができます。

そのような意味をとらえられるフレーズだと
音読しようとしたときにも自然に発声することができます。
音源と同じスピードで読める。

逆に音が聞き取れないところは音読しようとしても大変だったり、
音が分からなかったり、音の繋がりを理解するのに時間がかかったり、
頭で分かっているつもりでも口が回らなかったり…、
音源と同じようには読めないことが多いんです。

さらに意味が取れない部分になってくると、
その意味の長さ分を覚えて再現することができません。
そのフレーズの長さ分を頭の中に保持できていない。


これまでの英語学習のトレーニングでもやってきましたが
発音のトレーニングとして音源の発音、イントネーション、スピードを
真似できるようになると、同じフレーズはすぐに聞こえてくる
という経験は多々あります。

言えるものは聞こえる、と。

特に僕の場合、理解のステップとして
頭の中でそのフレーズが再生される段階があるようなんです。

耳から入った音を頭の中でもう一度再生して追いかける。
これが一生懸命に理解しようとして聴いている状態。

逆に何気なく聞き流しているときは頭の中の再生がありません。
その場合、音は入っているけれど記憶には残りません。

日本語だと慣れ過ぎていて、どんなに聞き流しているつもりでも
頭の中で自動的に再生されてしまう癖ができているようですが、
外国語の場合、再生されるときと再生されないときがあるんです。

つまり、頭の中で再生できれば聞けるようになりそうだ、ということ。
だったら再生できるのは聞き取りの重要なポイントになりそうです。

で、再生するためのトレーニングとしては
音源と同じように発音できるようにするのが効果的なようなんです。

聞いて真似できるようにする。
文章を読んで発音して、音源と同じように音読できるようにする。

そうすれば音源を聞いているときにも、
頭の中で聞いたものを再生しながら追いかけられるようになる。

そんなトレーニングが有効じゃないかと思われます。


一方、意味が取れないところになると
その長さ分を覚えていられないことが多いようなんです。

途中までは記憶として保持して再生できる。
けれどもフレーズが重なって長くなってくると
その長さ分を最初から最後まで再生することはできない。

もちろん覚えて再生できる範囲であれば
その範囲の意味も捉えられています。

おそらく日本語でも、聴いて内容を理解できているときは
全く同じフレーズではなくても、同じような内容を要約して
自分の口から言える状態になっているはずです。

意味を納得はしていても自分で言えないケースもあると思いますが、
少なくとも自分で言える状態であれば意味は分かっているでしょう。

ですから意味を踏まえながら、その長さ分をフランス語で言えれば
その内容は理解できていることになると考えられます。

つまり、その文章を覚えて、音源と同じ発音で、しかも
意味をイメージしつつ再現できるようになれば
聞いた時にも内容が掴めるようになっているだろう、と。

トレーニングとしては、聞き取れなかった部分を
フランス語のまま覚えて再現できるようにする方法が良さそうです。
音読ではなく、暗唱する練習です。


これまでの経験としても、
自分でスピーキングの際にスムーズに言える文章は
聞いた時にも難なく聞き取って理解することができます。

まとめると
・意味を(五感のイメージとして)頭の中に作り上げながら
・ネイティブと同じ発音で(音読できるようにして)
・(それから)何も見ないで言えるようにする(=暗唱する)
という流れでやると、
「連続した音の聞き取り+聴解力」がついていくのではないか。

そういうことが予想されます。

実際、じっくり音を1つずつ取りながらディクテーションをして
音源の文章を書きだした後、正解と照らし合わせて、
それから音読と暗唱のトレーニングをすると、
その後でもう一度音源を聞いたときにはスムーズに聞くことができます。

文章として把握しているものと同じことを言っているように聞こえるし、
聴きながら頭の中で再生して追いかけられるし、
意味もイメージできるようになります。

言語活動は最終的にパターン認識だと考えられますから、
あとは量を繰り返して、自動的にパターンが頭の中に作られるのを待つ。

すると聞き取りの力も上がるんじゃないかと期待しているところです。

1つの教材をじっくりと丁寧に使い倒すぐらいのつもりで
コツコツ繰り返していこうと思っています。

cozyharada at 23:10|Permalinkclip!

2017年04月15日

花粉症が改善した理由

花粉のシーズンもピークを過ぎてきたのでしょうか、
マスク姿の人を見かける頻度が減っている気がします。

他にも、インフルエンザのピークが過ぎたり
気候が暖かくなってきたことでマスクをつけるのが暑かったり、
いろいろな要因があるかもしれませんが。

とはいえ、僕自身の実感としては
4月を過ぎると花粉症の症状は減ってくるようです。

実態として症状が強めに感じられるのは3月ぐらいかもしれません。


しかしながら、僕の花粉症のレベルは随分と下がっています。
年々下がっているかは定かではありませんが、
10年前とは比べ物になりません。

病院に行けば「酷いレベル」と言われるほどでしたし、
医者の処方薬をいろいろと試し、時には市販薬も併用したり、
目薬も欠かせない感じでシーズンを乗り切っていたものです。

1月末ぐらいから準備を始め、6月はじめぐらいまで
なんとなく症状を引きずるような感じでした。

ヒノキのアレルギーもあったらしく、梅雨入り前までは
かゆみと鼻水・鼻づまりに苦しんでいました。

そういえば、山口に住んでいたころは楽だった記憶があります。
西のほうは杉が少ないらしいので、その影響でしょう。

ゴールデンウィークに東京に戻るとき、
飛行機に乗った瞬間から花粉症の症状が出始め
東京から運ばれてきた花粉を強く実感したのを覚えています。

寝て起きれば目ヤニで瞼がくっついてしまっているとか、
鼻の奥や喉の奥が痒くて困っていたとか、
鼻をかんでも鼻水が出てこないぐらいに鼻が詰まっているとか、
そういうのが当たり前だったんです。

それが今は、ほとんど気にならないレベルです。


最近は毎年、2月の中頃から薬を飲み始め、
5月に入るぐらいまでは一応、薬を飲むようにはしていますが、
どうしても服用が必要なわけでもありません。

飲み忘れても大して困ることはなく、
鼻をかむ頻度が増えるのと、軽く鼻が詰まった感じがするのと
気にすると目が痒いような気分があるぐらいなもの。

薬を飲むとそれがピタッと止まります。
鼻の通りが快適になって呼吸がしやすいので
少しでも呼吸をスムーズにする目的で薬を飲む感じです。

実際には1日2回の薬を、1日1回で大丈夫なぐらい。
ピークの時期だけ念のため1日2回にしてはいますが。

薬を飲んでも鼻をズルズルさせていた頃と比べると
もうすっかり良くなっている印象です。

最近は薬を飲まなくても、ホコリで鼻がムズムズするのと同程度で、
もしかすると花粉よりもハウスダストのほうが
身体は嫌がっているようにさえ感じられます。


ただ、何をして改善したかというと、定かではないんです。

NLPや催眠をやり始めてからも症状は残っていました。
症状をコントロールできることを知って程度は減っていたものの、
それでもある程度は残っていた記憶があります。

1つ大きそうなのは、意識の範囲が広がったことでしょうか。

以前、僕の意識は常に、目と鼻のあたりにありました。
目は一生懸命に見ようとするため(視覚情報を重視するため)、
鼻は厳密にいうと口から鼻の奥にかけてなので
味覚・嗅覚を重視するためだったと思われます。

僕にとって意識の中心は常に、頭の中…
目から鼻にかけての範囲で、顔の奥に入ったあたりにありました。

常にその場所から全身を見ているような感じ。
まるで目と鼻の奥のところにコクピットがあって
そこから巨大ロボを運転しているようなイメージです。

それが身体の使い方が上達してきたあたりから
意識の及ぶ範囲が広がっていったんです。

身体のケアをするようになって、
身体への意識が敏感になったのも関係していると思います。

それ以上に、意識の範囲を拡大できるようになったのが効いていそうです。

目に意識を集中すれば、目のあたりの感覚刺激が強く自覚されます。
結果、そこの痒みや不快感が強く意識され、さらに意識が集まるようになる。

意識が集まると血流も集まりやすくなって、余計に感覚刺激が強まる。
痒みを意識するほど、どんどん痒くなっていくという悪循環です。

だいたい花粉症の症状が強く表れる部位は、
その人が意識を集めているところになっているものです。

視覚をよく使う人は目を痒がる。
皮膚感覚の強い人は、花粉のアレルギーも肌の痒みになるようです。

その意味では、僕は意識の範囲を拡大できたことによって
目や鼻の反応だけに集中してしまう悪循環から抜けられたのかもしれません。

即効性のある手法で花粉症が治ったというわけではなさそうですが、
時間をかけて取り組んできたことが、思わぬ好影響を及ぼしたみたいです。

cozyharada at 23:47|Permalinkclip!

2017年03月27日

「忙しい」の中身

なんでしょうか、忙しい時期ほど色々と立て込んでくる感じがします。

落ち着きがないわけではないんですが、
頭の中で複数のことが同時進行していて
ボーっとする時間が少ない状態。

1つの作業が始まれば、それについては集中して取り組みますし、
やっている途中で他のことを考えることもありません。

しかし一人に戻ったときに、多くのことが意識にあがってきます。

頭の中のスピードだけが速いような印象です。
「気ぜわしい」というのは、こんな感じなんでしょうか。

こういう状態だと、大したことのない作業でも
新しいことを追加するのに乗り気でなくなるようです。

ただの振り込み一件でさえ、どうも動こうとしない。
やってしまえば数分で済むような単純作業であるにもかかわらず。


どうやら内面を探ってみると、むしろ簡単過ぎるからこそ
ギリギリまで優先順位が下げられているような気がします。

おそらく一般的な発想では、何かを『やる』という意味において、
「行動に起こす」、「作業を始める」というアクションの部分と、
「考える」、「何かを気にしている」、「どうしようかな、という気分になる」
などの頭の中で進行する作業の部分とでは、違った捉え方をすると思います。

「『やる』というのは行動に起こすこと」という発想が多そうです。
つまり意図的に体を動かして作業に取り組んでみて、
体の外で何かの変化が起こることを『やる』というのではないか、と。

もしかすると『考える』についても
積極的に集中して1つのことについて考えを巡らせ
1つの結論を出すとか、何かのアイデアをまとめるとか、
そうしたアウトプットの段階を含まないと
「〜について考える」という作業として認識されない場合もあるかもしれません。

なんとなく意識の片隅で気になっていたり、
ああでもない、こうでもないと思ったりしている段階では
「考える」という作業に取り組んでいないと捉えているのではないか、と。

確かに「意図的に何かをする」ということが「自分」の作業だと考えると
『行動に起こす』、『集中して考える』、『そのことが気になっている』の間には
大きな違いがあるように見えるでしょう。

しかしNLPの発想では、いずれもプログラムは進行しているわけです。
そのことは起きている。

『気になる』と『集中して考える』は、
 そのテーマとは関係のない作業をしている間に
 そのテーマに関したプログラムのいくつかが時々動く(=気になる)
のか、
 決まった時間に、そのテーマに関したプログラムが同時に動き
 無関係なプログラムの進行が抑えられる(=集中して考える)
のか、
という違いだといえます。

『行動に起こす』のと『気になっている』のとの差も、さほど大きくありません。

ある作業について『気になっている』状態は
その作業に取り組もうとするプログラムが動いた瞬間です。

それに引き続き、その取り組む内容に沿って体を動かすプログラムが動けば
実際に『行動を起こす』ことになります。

取り組もうとする(作業内容が決められる)
→体を動かす(決めた作業内容通りに体を動かす)
という二段階なんです。

その作業内容が決まって、取り組もうという気になるところまでは同じです。
もう1ステップのプログラムが作動するかどうかの違い。

頭の中では別の作業についても「取り組もうとする」プログラムは動いていますから、
 最終的には「体を動かす」プログラムが、
 どの作業についての「取り組もうとする」プログラムに連動するか
によって、実際に何の行動を起こすかが決まります。

気になっているけれど、やらない…という状態は、実態として
 いくつもの作業について「取り組もうとする」プログラムが動いたとき、
 別の作業のほうに「体を動かす」プログラムが作動した
ということに過ぎないんです。

プログラムとしては色々なことが起きているし、
それによって多くのことも進行しています。

集中して『考える』時間を取っていないときにも、
パソコンのウイルス対策ソフトが背後で動いているのと同様に
考える作業のプログラムそのものは働いているわけです。

気になっているけれどやらない、というときも
何をやるかまでの作業内容までは頭の中で進んでいます。

頭の中の作業はプログラムとして同時進行できますが、
体は1つしかありませんから、行動として体を動かすときは
1つの作業だけになってしまいます。

そこで何を『やる』かという、行動レベルとしての優先順位が表れてくる。


たぶん、僕の「忙しい」は、「寝る時間がない」という意味ではなく、
沢山のテーマについてプログラムが同時進行していることで
多くのことが「気になっている」の状態で停滞しているからでしょう。

パソコンでいうなら、CPUやハードディスク上のデータなど
1つの作業を進めるのに必要なものは揃っているのに、
沢山の作業が同時進行してしまう結果、メモリが足らなくなる感じでしょうか。
体がメモリに相当するようなイメージです。

思えば研究職の頃は、確かに睡眠時間は少なかったですが
やるべき作業は決まっていたので、同時進行するプログラムは少なく、
メモリ不足的な意味での気ぜわしい「忙しさ」はなかった気がします。

1つ1つの作業は単純でも、種類が多くなってしまうのが
僕の気分を落ち着きのないものにしているようです。

cozyharada at 23:18|Permalinkclip!
おしらせ
 ◆ セミナー情報 

終了しました

《コミュニケーション講座》
〜幅を広げるリフレーミング〜


【日時】 
  2018年4月22日(日)
  10:00〜16:30


【場所】 
  滝野川会館
  304集会室

   JR上中里駅より7分
   JR駒込駅より10分
   南北線西ヶ原駅より7分

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次回は2018年9月9日(日)


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《新カウンセリング講座》
 〜まとめと実践〜


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《勉強会》 

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次回は未定



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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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