NLPの基本情報

2016年12月10日

雪国

札幌出張はこれまでにも何度もありましたし、
冬に来ることも当然ありました。

雪の積もった中を歩いたときもあれば
雪の降る中に到着したときも。

ところが雪が積もる過程を体験したのは今回が初めてでした。


深夜に到着して次の日の朝には相当な積雪。
そのあとも日中、吹雪のように降り続け
雪の降りやんだセミナー終了時には、もうこんもりと
数十センチを超える積もり方をしていました。

風が吹く方向が一定なのか、街路樹の側面に雪が積もっていたり
雪の粒が風に舞うため丸みを帯びた形に雪が残っていたり、
東京では見られない景色ばかりです。

風で雪が移動するからでしょうが、
砂漠のように空気が流れた後が積もった雪にも見てとれます。

いわゆる吹雪とかホワイトアウトと呼ばれるような光景も
ある意味では貴重な体験だったみたいです。


ほとんどの物が白く覆われ、黒く影になった部分が際立って目に映る景色は
まるでグレースケールの白黒写真を見ているようで不思議な感じもします。

彩度がないんです。

カラフルなほうが明るい気持ちになる人は多いようですから
北国の冬で気持ちが暗くなる人がいても納得できそうなほど。

北欧だと日照時間の少なさと光の暗さからウツ傾向が増えて(季節性ウツ)
光を浴びるセラピー(光療法)での治療が知られています。

もちろん光そのものの影響もあるでしょうが、内面への影響としては
環境から色が失われ、世界が薄暗いモノトーンになることも関係しそうです。

実際、赤道に近いあたりのほうが文化的に陽気な傾向もある気がしますが
同時に太陽の明るさと自然のカラフルさも際立っています。

暑いところのほうが体もダラッとしやすく、
寒ければ筋肉を緊張させやすくもなります。
気温もまた内面に影響するでしょう。

赤や黄色のハッキリした花、常緑樹の緑色の葉っぱ、
青い空と海、光を反射する白い砂浜…
そんなカラフルで明るい景色が一年中つづく暖かい場所と、
薄暗いモノトーンの景色の寒い場所とでは
放っておいても内面の状態は異なってくるだろうと考えられます。


とはいえ、僕は好みの問題として
ギラギラしたカラフルなものよりも
シンプルに白黒のものが好きなところもあるので、
雪の積もったモノトーンの景色には逆に心を奪われたりもするんです。

一般論として内面に影響を及ぼす要因と、
個人的な好みや慣れと、両方があるんでしょう。

僕の場合は好みの影響が上回るようですが。

白黒だけが強調される景色を見ていると
版画で景色を写しとってみたくなります。

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2016年08月17日

タイトルについて

新刊の『心を読み解く技術』ですが、
8月12日あたりから一部の大型書店で見かけるようになりました。

Amazon での発売日は8月17日となっています。
そろそろ予約注文の方にも発送されるみたいです。



タイトルの「心を読み解く」ですが、
「誰の心を読み解くのか?」という疑問を持たれる方もいるようです。

表向きには、
 自分の心を出発点として、まずは自分の心を自覚できるようにして
 その着眼点を他人を理解するのにも利用する
といった説明になるでしょうか。

自分の心を捉えるときにも、他人の心の中を想像するときにも
原則的には、ほとんど同じ能力を必要とします。

違いがあるのは、自分の感情のほうが体感的に感じやすいということ。

まぁ、その分、他人の感情は観察によって客観的に捉えやすくもあります。

自分の様子を鏡で見て、自分の感情に気づく…なんてこともあるわけですから
「自分の感情のほうが他人の感情よりも理解しやすい」という話ではありません。

捉えるルートが違うだけで、その正確さや感度に優劣はありません。
どちらも慣れているほど精度良く捉えられるようにはなりますが。

ですから、感情をキャッチするルートが異なっているだけだ、と。

一度感情をキャッチしたら、あとの作業は共通しています。

実際、自分の心の動きを捉えるときに使われる着眼点は
自らを客観的に捉えるメタ認知の状態なので、
「自分」というものを一歩引いて客観的に見ているプロセスだといえます。

この視点は他人の心の動きを見ようとするときの視点と同じです。

心の動きを捉える際のポイントとして感情を押さえることができたら、後の作業は
自分の心についても、他人の心についても、同じ視点から
同じ作業によって進められることになります。

言い換えると、一番身近に意識しやすい自分の心を最初の題材として
自分の心の動きを捉えられる(=読み解く)トレーニングを積めば、
あとは自然と他人の心の動きも捉えられるようなる、ということです。


そうは言いながら、本には一般論としての傾向として
典型的な心の動きを例で示してありますから、
それを覚えることで他人の心の動きを想像しやすくなる人もいるでしょう。

カウンセラーなどのように他人の心を理解することに関心のある方は
そういった観点から読み進める場合もあるかと思います。

だとしても、他人の心を見ようとするときの着眼点としては
自然と身についてくる部分があるのではないかと想像しています。

それは、着眼点の中心となる発想が
「その心の動きは、いったい何を求めているのか?何を大切にしたいのか?」
というものだからです。

原因を分析したり、過去のトラウマに当てはめたりするのではなく、
「本当は何を大切にしたいのか?」という発想で心の動きを眺めることで
他人の言動を温厚に受け入れやすくなります。

もちろん実践として自分の心の動きや、他人の言動について
「何を大切にしようとしているのか?」と探る経験を重ねるほうが
この着眼点は染みつきやすいとは思いますが、
こういう発想で説明した心の動きの例を読んでいくだけでも
ベースにある着眼点を身につける効果は期待できると思います。


ちなみにですが、厳密に言ってしまうと
「誰の心」のように自分や他人の心を区別することのほうが
不可能なのかもしれません。

人の心は非常に密接に影響し合っています。

誰かの言動に対して、自分の気持ちが動くことがあったとしても、
それが「相手の言動が原因となって自分の気持ちが動いた」と言い切れるほど
因果関係がシンプルなのではありません。

「卵が先か、鶏が先か」と同じように
人の心の動きには分けて捉えにくいところが大きいようなんです。

”一人”の心の中に、沢山の役割を持った担当者がいる。
…その発想で心の動きを捉える発想を本で紹介したわけですが、
この視点に馴染んでくると、”一人”分の心が集合体だと感じられてくるはずです。

喩えるなら、小学校のクラスに沢山の児童がいて
それぞれが意見を持って話し合いをしているような…
そんな感じで一人の中の動きを捉えるということです。

そうすると実際に小学校のクラスで沢山の児童が話し合っている様子も
まったく同じような構図のように見えてくるのではないでしょうか。

そしてクラスの意見をまとめたものを全校で話し合う。
クラスの代表が20人ぐらい集まってまた話し合いをしたら、
全校の話し合いが進むことになります。

全校で決まった意見は、全クラスの意見が集まったもの。
クラス代表の意見は、全生徒の意見が集まったもの。
一人の生徒の意見は、心の中の担当者の意見が集まったもの。

…同じような構図がずっと続くんです。

どれが”自分”の心なのかが曖昧になるような気がします。
まるで全てを1つにまとめた”心”というものの中に
細かい心の部分が入れ子構造になっているような感じ。

この何層にもなった心の入れ子構造をどの階層で捉えるかには違いがあっても
どんなやりとりが起きているかを捉えるところは同じです。

「心の動きを読み解く」というのは、より本質的にいえば
”誰の心か?”ということとは関係なく、
意見のやりとりを追いかける作業でしかないように思います。

その意味でも、”誰の心か?”ということは気にせずに
心の動きを捉える着眼点さえ練習すれば、
さまざまな心のやりとりを理解しやすくなるでしょう。

本の中では、
・迷いや葛藤
・厄介な感情
・人間関係のもめごと
・執着や罪の意識
などの対処法を個別に紹介していますが、
共通して使われている着眼点を染みつけていただくのがポイントになりそうです。

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2016年08月12日

『あなたは、なぜ、つながれないのか』

珍しく購入した本の中に、興味深いものがありました。
こちらです。

『あなたは、なぜ、つながれないのか:ラポールと身体知』(春秋社)



著者の高石宏輔という人物は、カウンセラーとして活動しているそうですが、
以前は水商売のスカウトやナンパなどもやっていたとのことです。

元々あった対人恐怖やパニックを乗り越えるキッカケとなった催眠を学びながら
自らのコミュニケーションの幅を広げるために
街中で人に声をかけることを沢山重ねていたようです。

ここまでは、まあ、結構聞くパターンでしょう。
カウンセリングと催眠の両方に興味を持つ男性の中には
対人関係への苦手意識からナンパを実践する人たちがいます。

この著者がチョット違うのは、そこからさらに体の使い方に興味を持ったところ。
身体意識を高める方向でコミュニケーションを磨こうとしていったみたいです。

どういう経緯で身体の使い方に興味を持ったのかは定かではないですが、
催眠関係からだと野口整体を知って、それからボディワーク全般に広がる…
という流れは比較的よく耳にします。

ともあれ、ボディワークと呼ばれる身体の使い方をコントロール方法を追求し、
身体意識を高めて敏感にすることで、自分の想いを適切な形で表現し
それによって、上辺だけの、言葉だけのコミュニケーションとは違った
深い心の交流を目指すようになったのだろうと思われます。


そして僕がこの本を紹介している一番の理由は、
『身体的な同調』という科学的に根拠が分からない現象を
当然のこととして詳しく解説しているところにあります。

身体的な同調こそが心の繋がりと対応するものだ、と。

いわゆるラポールのテクニックとしてのミラーリングとは真逆に、
身体への意識の向け方と、コミュニケーションの最中の注意の方向を変えていくと
身体的な同調は自然と起きるようになっている。

そのあたりを体験談を交えながら詳しく解説しています。

そのうえで身体意識のトレーニング方法として
ボディワークの練習方法が紹介されている。

そんな感じの本です。


なお、『同調』という現象そのものは、実は心理学でも扱われます。
英語の論文だと「 synchronization 」と書かれるようです。

ただし心理学ですから
 どういうメカニズムで同調が起きるか?
は詳しくは解析できません。

「どういうときに」、「どういう関係性だと」同調が起きるのか?
そのあたりが中心でしょう。

一方、ラポールのテクニックとしての「ミラーリング」もまた心理学でも扱われます。

「ミラーリング」はNLP用語です。
心理学の論文では「 mimicking 」と書かれることが多い印象です。

「相手の真似をすると、どういう効果があるか?」を調べる研究が中心でしょう。

ちなみにNLPはミラーリングを、ミルトン・エリクソンのセッションを分析していて
相手に合わせる手法として紹介したみたいですが(出典不明)、
エリクソンがやっていたのは明らかに『同調』のほうに見えます。

同調ということを知らない初期段階では
エリクソンが真似をしているように見えたのかもしれません。

エリクソンはクライアントの心と深く繋がることで
自然と身体に同調という現象を起こしていたのだろうと思われます。

エリクソンは小児麻痺の影響で全身麻痺になったところから
意識的に自分の身体を動かせる状態にまで、自分で回復させた人物です。

どういう風に意識を向けると身体が動くのかをコツコツと調べ続け
全ての動作を17歳を越えてから再学習したわけです。

当然、身体への意識は一般人の範囲を大きく超えていたはずです。

そういうエリクソンのような身体意識の使い方をしながら
目の前の相手に注意を向けると、自然と身体は同調する。


この本とエリクソンの話は直接的に関係していませんが
同調という現象を丁寧に解説している本は滅多にありません。

トレーニング自体は本だけではなく、誰かに教わったほうが良い気がするものの
この内容をまとめているのは貴重だと思います。

著者が文学部出身のせいか、文章には文学的な雰囲気があります。
理系だった僕には馴染みの薄い文体。

好きな人は引き込まれるかもしれません。

好みの範囲を抜きにしても、大事な内容が書かれた本でしょう。

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2016年08月09日

新刊「心を読み解く技術」

もうすぐ新刊が出ます。

『悩みが消えて、相手が分かる 心を読み解く技術:NLPパート理論』(晶文社)

見本が届きました。
心を読み解く技術
















(写真は暗くなってしまいましたが、実物のカバーは白です)

心の「動き」を具体的に解説した内容となっています。

葛藤、迷い、厄介な感情がどういう心の動きによるものなのか。
そして感情に振り回されるコミュニケーションをどう対応すればいいのか。

そのあたりを中心に、悩みを根本的に解消する視点を説明しています。

中心になる発想は、「心は集合体」というもの。

心を1つのものとして考えるから悩みが続くんです。
心は一人分の体の中に、沢山の寄せ集めとしてできている。

宇宙船やロボットに喩えるなら、乗組員が沢山いるようなもの。
会社組織に喩えるなら、部署や従業員が沢山いるようなものです。

「自分」とは、その宇宙船やロボット、あるいは会社組織のようなものだ、と。

その集団の中で対立が起きているから悩みが続きます。
だったら対立を解消してやればいいわけです。

他人の気持ちを理解しようとするときにも同様です。
1つの心という統一されたものとして見るから複雑なんです。

目の前の人の中に、いくつもの心の担当者を見ていれば
人の気持ちの移り変わりや、言葉に表現しきれていない想いも
汲みとれるようになります。

そんな感じのことを紹介しています。


感情については、かなり細かく種類に分けて(27種類)
それぞれの対処法を解説してありますから
全体で360ページになってしまいました。

対処法の中には、「あきらめ」や「ゆるし」といった
執着を手放すための具体的な手法も紹介してあります。

手放すことが大事だと知りながらも、なかなか手放せないとか、
あるいは手放したつもりになっているけれど時々こだわってしまうとか、
そういったことが起きがちな部分です。

繊細な心の動きを扱う方法として有効だろうと思います。

基本的には心一般についての内容ですが、
専門的な情報が欲しい方には詳しく読みこんでいただければ
かなりのものが得られるのではないかと考えています。

3冊分ぐらいが込められているイメージでしょうか。

まだAmazonでは予約しかできませんが、近々店頭にも並ぶと思われます。


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2016年07月20日

実践心理学という呼び方

中身の分からないものを紹介するのに
なんとなくの雰囲気が想像できるキャッチフレーズをつけるのは
よく行われる効果的なやり方なんでしょう。

NLPについては「実践心理学」というフレーズが使われることがあるようです。

実際に心理学として扱われる分野にNLPが含まれるわけではありませんし、
NLPのスタンスはむしろ心理学とは真逆といっていいぐらいに違います。

心理学が人間全般に共通する心の性質(傾向)を知ろうとするのに対して
NLPでは、一人一人が異なった心の性質(傾向)を示す『仕組み』を理解したい。

心理学は統計を利用して、客観的に計測可能なデータで心を調べますが
NLPは個人の主観的な体験の中身を調べるのがメインです。

たしかに心理学においても応用的とされる分野があるものの
それが「実践心理学」などと呼ばれることはありません。

「実践心理学」という言葉は、「社会心理学」のような
心理学の一派を示す単語とは全く性質が違うわけです。

NLPのスタンスが心理学とは違うことからしても「実践心理学」は
「実践的な心理学」という意味にもなりません。

世間一般の人が「心理学」に対してイメージする
「心についての知識」という印象を利用して、さらに
「日常生活の中で使う」という意味での「実践」を付け加えることで
「日常生活で使えるような心についての知識」といった趣旨の造語としたのでしょう。


もっと言ってしまえば、心理学は「学問」です。
学問と実践は違います。

「研究」は学問でも実践の分野でもなされます。

企業で製品化を目指しながら研究をする人は大勢います。
企業の研究者は実践のための研究をしているといえますし、
もちろん、その人たちが研究成果の一部を学問の世界に発表することもあります。
学問の世界にも応用を意識した研究もあります。

とはいえ、企業で実践として研究をする趣旨と
学問として研究をする趣旨との間には違いが見えます。

学問は理解を深めるほうが主目的で
実践は役に立つほうが主目的だといえると思います。

学問分野の応用研究は、役に立つことを視野に入れながらも理解が重要。
企業などの実践から生まれる学術的成果は、
理解を深める成果であっても、そもそもは役に立つことが重要。
(企業の基礎研究部門では学問をすることもあるかもしれません)

つまり学問と実践は、そもそも真逆といえるぐらい
目指す方向性が違っているのではないか、ということです。

その意味では「実践心理学」という単語は、「中華和食」という言葉ぐらい
性質の違ったものを組み合わせた造語だと思われるんです。

ですから「実践心理学 NLP」といった表現は
「中華和食 ラーメン」ぐらいの感じでしょう。


強調しておきたいのですが、僕はこの「実践心理学」という言葉について
問題視しているわけではありません。

造語として見た場合には「中華和食」ぐらいの奇妙な取り合わせですが、
「中華和食」という造語がラーメンの性質を想像させる上で
ラーメンの性質を知らない人にそれなりの分かりやすさを提供するように、
「実践心理学」も奇妙な単語の組み合わせながら
知らない人が雰囲気を想像するには都合が良いようです。

「中華和食」という単語の組み合わせが奇妙に思えたとしても
セットで1つの造語として捉えれば、問題もなさそうです。

そして何度も繰り返し言っていると、「中華和食」にも馴染みが出てくるように
「実践心理学」にも違和感はなくなってくるとも思います。


その一方、NLPを紹介するキャッチフレーズとして
たまに目にすることがあるのが「NLP心理学」という言葉です。

この言い方をする人が、実際にNLPを紹介しようとしているのか
それともNLPをアレンジした何か別物を伝えようとしているのか
そのあたりは分かりませんが、
この表現には注意が必要な気がします。

「NLP心理学」は見ての通り、「NLP」と「心理学」とを組み合わせた言葉です。

「○○心理学」といった場合、学問としての心理学の一派として知られたものか、
あるいは「実践心理学」のように誰かが「心理学」という言葉の印象を利用して
作り出した独自の名称であるか、そのどちらかでしょう。

先ほども書きましたが、NLPは心理学の一派ではありませんから
「NLP心理学」という分野は心理学には含まれていないはずです。

となると「NLP心理学」というのは独自の名称だろうと考えられます。

また、「中華和食」が中華料理や和食そのものとは違うのと同様、
わざわざ2つの単語を組み合わせて作った言葉は
「元々の言葉の持つイメージを反映しながらも新しい別物」
という意味合いがあるでしょうから、
「NLP心理学」もNLPや心理学そのものではないことになってしまいます。

「実践心理学 NLP」が「中華和食 ラーメン」に対応するとしたら
「NLP心理学」は「ラーメン中華料理」みたいな言葉に相当するでしょう。

「ラーメン中華料理」と言われたら、
普通の中華料理ではなさそうに感じるのではないでしょうか。
いわゆるラーメン屋でもなさそうだし、一般的な中華料理でもなさそう。

そういう意味で、「NLP心理学」と言われると、僕の印象では
NLPでも心理学でもない独自のものに感じられてしまうんです。

「NLP心理学」として何かを伝えている人が
NLPそのものではない独自色の加わったものを扱っているなら
そういう呼び方もあるのかもしれません。

それが本人の扱っている内容を最も適切に説明しているとしたら
上手くタイトルをつけたとも言えるんでしょう。

実際、「NLPコーチング」のように
NLPそのものから派生した技法を紹介している人もいますから。

しかし、もしNLPを一般の人に伝える上で
「”NLP”という単語だけでは伝わりにくい」と判断して
「NLP心理学」という呼び名に換えていたのだとすると、
これはチョット、名称が実態を表しているとは言えないように感じます。

「NLP心理学」という心理学があると勘違いする人もゼロではないでしょうし、
逆に「NLPから派生した別物」と捉えて勉強してみたら
実情はNLPそのものだったというのも、宣伝として誤解が多そうです。

「実践心理学 NLP」のように、NLPの頭にキャッチフレーズをつけるのと
「NLP心理学」のように、NLPを含んだ別単語を作るのは、
どんな内容を説明する言葉になるかという点で
大きな違いがあるという話です。

知らない人に短い言葉で分かってもらう工夫は難しいものですが、
なんとなく似たようなものをイメージしてもらうのと
誤解を与えないようにするのとを両立するとなると、
さらに難しいことになるのかもしれません。

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2016年05月09日

夢で診断する

NLPには『優位表象システム』という考え方があります。

簡単にいうと、「五感のうち、どれを優先して使っているか?」
という傾向のことです。


『表象』は「内的表象」とも呼ばれることのあるものを表す言葉で、
 人間が体験している内容は、現実そのものではなく
 五感を通じてインプットした情報を頭の中で再構築して
 自分の頭の中だけの世界を作りなおしている
といったニュアンスを含むようです。

人間が見える光の波長は赤から紫に対応する可視光のみで
紫外線や赤外線は感知できません。

紫外線を識別できる虫や鳥などには
人間とは違った模様が見えているといった話もあります。

また最近よく聞く単語として「モスキート音」というのがありますが、
これは加齢によって聞こえなくなる高音域の音のことだそうです。

つまり若い人と高齢者とでは、同じ場所にいても
物理的に聞こえる音に違いがあるわけです。

頭の中で認識されている世界は別物なんでしょう。

ということで、『表象』という頭の中で再構築される世界が
五感の性質に基づいていることから、NLP用語としては
五感(とくにNLPでは、視覚、聴覚、体感覚の3つ)を
「表象システム」と呼ぶことにしているんです。


このように五感の性質の違いだけでも主観的に体験される世界が違いますが、
どの五感を積極的に使うかによっても体験される世界が変わります。

目を大きく開けると取り込まれる光の量が増えますから
世界は明るく見えます。

目を大きく開けているということは、
目からの情報を増やそうという狙いを反映していると想像できます。

普段から目を大きく開ける人と、そうでない人とでは
視覚を積極的に使う度合いが異なっているわけです。

眼球がキョロキョロと動く人は、目で色々なものを追いかけているはずです。
動かない人は、体の外で起きていることをあまり目で追っていないということ。

目の動にも、外に注意を配っているかどうかが表れるわけです。

そして頭の中で再構築される世界は、
そうして注意が集まった情報を中心としています。

視覚を積極的に使い、体の外のものに注意を配っている人であれば
頭の中で作られる世界(表象)も、外から得られた視覚情報が中心となります。

ですから五感のどれを積極的に、優先して使っているかによって
体験される世界(頭の中で作られる表象)にも違いが出てくるといえます。

その意味で、優先的に使っている五感(表象システム)のことを
『優位表象システム』と呼ぶようです。


で、この優位表象システムですが、
 色々な質問に答えながら、自分の五感の使い方の傾向を振り返って
 自分が何を良く使っているかを調べる
というチェック法が主流です。

まぁ、五感の使い方の傾向なのですから、
自分の経験を振り返って調べる以外にはありません。

最終的にはチェックのための質問集に頼らなくても
自分の生活を一通り振り返って、自覚としての優位表象システムを
自ら見つけられるようになるようです。

ただ、僕が意外と効果的な調べ方だと思っているのは、
あまりチェックのための質問集には登場しない要素なんですが、
表象をダイレクトに調べられる方法として有効そうな方法です。

それは夢を調べるというもの。

夢の中で、どの五感が、どれぐらい鮮明に感じられているか?です。

人によっては夢が白黒の場合もあります。
痛みや筋肉の感じが分かる人もいるようです。

会話は多いでしょうから音は聞こえるのが一般的かもしれませんが、
それでも周りの雑音は実世界よりも少ないのではないでしょうか?
雑音までハッキリと夢の中で聞こえる人もいると思います。

ちなみに僕は夢の中でも味と匂いが鮮明に分かります。
夢の中で食べたものの味を思い出せることも多いようです。

僕の夢はカラーですが、筋肉の感じや内臓感覚としての感情は少ない。
話し声は本人のものを再現しているものの、雑音は少なめです。

そうすると、僕が日頃から積極的にインプットしている情報は
実のところ、視覚と味覚・嗅覚なのではないかと考えられます。

普段からよく使っている五感の情報は夢でも再現される、と。

主観的な自覚としては感情や筋肉の動きなども気にしているつもりですが
記憶される情報量としては、視覚や味覚・嗅覚には及ばないのかもしれません。

つまり、「よく使っているつもり」の五感と
実際に頼りにしている五感とでは差がある可能性もある、と。

その辺が夢をチェックすることで分かるように思います。

頭の中を覗く方法は多くありませんが、夢はその1つのような気がします。

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2016年04月07日

医者の不養生

研究者と実践者が違うのは、当然のことのようです。

以前に参加した英語音声学会の講演会では、
列席の大学教授の中に発音のキレイな人はほとんどいなくて
むしろカタカナ英語そのままのような人までもいたりしました。

先日会って話をしたお坊さんも
「仏教学者は経典の研究をしているのであって
 経典の教えに沿って修行しているわけではない」
と言っていました。

研究は
 外部から客観的に物事を眺めて分析する
ものであって、
その内容を自分に適用するとは限らないわけです。

むしろ外から見ているからこそ、主観的な印象を切り離して
誰もが納得できるような客観的な説明を組み立てられるとも言えそうです。

本を読み、文献を紐解き、人から話を聞き、多くの情報を集める…、
そうすれば「よく知っている」ことにはなるでしょうが、
「よく分かっている」こととは違うわけです。


そしてまた、援助者と実践者もイコールではありません。

「援助」には様々な形がありますが、どのような形での援助であれ
その援助をする人自身が、援助内容を実践しているかというと
必ずしもそうではないように見受けられます。

分かりやすいのは、いわゆる「医者の不養生」でしょう。

医療分野においても、医学の研究者もいれば、治療に当たる医師もいます。
しかしながら、自らの身体から病気をなくすために
医療の成果を実践している人は滅多にいないみたいです。

カウンセリングやセラピーについても同様です。
自分の悩みや、自らの心の奥深くの問題を扱おうとする人は多くありません。

「教える」という形でも、「教えられる」ということと
「本人ができる」ということは直結しないようです。

語学の先生なんかは分かりやすい例でしょう。
英語の先生をしている人よりも英語が達者な別職種の人だって沢山います。

また、身体のケアをする人たちが姿勢について話しているのをよく聞きますが
だからといって、その人自身の姿勢や動作が良いかというとそうでもない。

近所のストレッチ専門店でチラシを配っているスタッフは
のきなみ姿勢がボロボロです。

看板に描かれている「良い姿勢、悪い姿勢」の絵の近くで
堂々と「悪い姿勢」ソックリの立ち方をしている援助者がチラシを配っています。

「援助は他者に対してのものだから、自分の実践とは関係がない」
という考え方もあるのかもしれませんが、一方では
「自分が誰よりも実践しているから他者についても分かる」
という考え方もあると思います。

実際、東洋の思想に基づいたものだと
援助と実践がセットになっていることもあるみたいですし。


研究にせよ、援助にせよ、対象を自分の外側に捉えている時点で
自分の内側で主観的に取り組もうとする心がけは生まれにくいのかもしれません。

「主観的な印象は自分のものであって、他人のもではない」という見方もありますが、
他者の体験を他者目線の主観で捉えることもあるわけです。

自分の主観は一人称。
客観的な分析は三人称。

それに加えて、相手目線の主観としての二人称があるだろう、と。

何かを理解したり援助したりする上では
三人称だけでなく、二人称も役に立つはずです。

相手目線の主観という二人称の視点を身につけるためには、その土台として
自分目線の主観という一人称の視点からの体験が必要ではないでしょうか。

自ら実践することには、そういう意味もあると思います。

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2016年04月02日

真似るために見るのではない

NLPには『モデリング』という考え方があります。

型を抜き出す。
エッセンスを取り出すということです。

モデリングのためのアプローチの1つは
 達人のやり方を分析して形式化する
といったもの。

たとえばNLPの中にも「メタモデルの質問」や「ミルトンモデル」など
セラピストの言葉の使い方をパターンとして抽出したものがあります。
これは達人として知られていたセラピストのやり方を分析して作られたといえます。

もう1つのアプローチは、身体で真似をすることを通じて
達人が何をやっているかを感じとり、そこからエッセンスを抽出するもの。

エッセンスを取り出すための分析として真似を使います。

いずれもエッセンスを抽出する、つまり型を取り出すところでは共通しますが、
その取り出すプロセスに違いがあるわけです。

客観的に調べて分析し、エッセンスを見つけるのか。
主観的に体験して得られた気づきを元に、エッセンスを見出すのか。


それぞれに違ったメリットがあると思われますが、
真似をするほうには副次的な効果があります。

それは「よく観察できる」ということです。

真似をしようという姿勢で見本になる人を見ると
普段何気なく見ているときよりも、ずっと細かく丁寧に見るようになるんです。

とくに身体の動きを細かく真似しようとした場合、
注目の仕方がニュートラルになります。
意味のあるところだけを見るのではなく、ただ身体の動きとしてだけ注目できる。

客観的な分析をした場合には、そもそも分析者自身が重要だと思うところに
自然と目がいくようになりますから、注目の仕方がニュートラルではないんです。
分析者が重視していないところは見過ごされやすい。

ところが身体の動きとして似ているかどうかの視点で注目すると
「どこが大事か?」とか「どんな意味があるか?」といった考えとは無関係に
とにかく動きそのものを見ようとすることができます。

真似しようと思ったときに初めてニュートラルに観察ができるようになる、と。

関心を向けられる量が増えるんです。


つまり、真似をしてエッセンスを抜き出すことだけが目的ではなく、
関心を向けることそのものができるようになる効果がある、という話です。

実のところ、興味のないものに関心を向けるのは難しいんです。

関心が向かないことを「興味がない」と呼ぶほうが適切でしょうか。

人は見ているつもりで見ていないし、
多くのものに関心を向けていません。

尊敬する人、憧れる人だと思っていても
それほど関心を向けていないものです。

真似をしようと思って注目したとき、やっと
その相手に関心を向ける度合いが増える。

それだけでも真似を通じたモデリングには意義があると思われます。

「真似るために見る」のではなく、「見るために真似る」。

そういう側面もあるようです。

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2016年03月14日

動画を見比べて変化を見つける

NLPの開発初期から関わっていたメンバーで
様々な手法を作り出したことで知られるアンドレアス夫妻。

下の動画のコニリー・アンドレアスは臨床心理学で博士号をとり
心理療法的な観点からNLPに取り組んでいった人です。(右側)

彼女が形にしたコア・トランスフォーメーションは
日本でも有名になっています。

そのコニリーの短い動画2つを見比べると
 高名なトレーナーでさえ変化をしていくものだ
ということが見て取れます。


まずは最近の動画から。

数十秒ですから内容は気にせずに、非言語メッセージに注目してください。

穏やかな表情。
詰まりのない穏やかに広がる声。
緊張が見当たらない体幹部…。

自然で作られた感じのないジェスチャーは
ダラけて流れるところも、過剰に力が入るところもなく、
リラックスしながらも隅々まで意識が行き届いているのがうかがえます。

受講生への説明として全体に気を配る一方で
クライアントの反応を見ようとして大きな関心を向ける目には、
目の前の相手への信頼と思いやりが見てとれるかのようです。




そして2つ目の動画は、もっと若い頃のものです。
約30年前に収録されたものとのこと。

その間の変化が見てとれます。

ファッションとかメガネとか、そういった表面部分ではなく、
また内容そのものでもなく、非言語メッセージに注目すると
「コニリー・アンドレアスという人がどのような研鑽を積んだのか」
が想像できるのではないでしょうか。



30年前の動画では、まず座り方が違います。

背もたれに寄りかかり、上半身を固定させるような様子があります。
肩と首に力が入っていて

時折クライアントを観察して”見極めようとする”かのような鋭い視線には
知性が感じられる一方で、眉間や口元の固さは厳しささえも感じられます。

話のスピードもクライアントより若干速く、返答のタイミングもかぶせ気味。
声のトーンは喉が詰まり気味で細く、広がりが少ない感じです。
声が胸やお腹で響くよりも、頭で響くため、冷たい印象があるかもしれません。

手の動きのスピードに注目しても、やはり動きが速く、力感のメリハリがあります。
若さゆえの速さとも言えそうですが、脱力気味に動作がスピーディーに終わるのは
身体の細部までは意識が行き届いていないことの表れと考えられます。

…と、このように批判的な評価をしているようですが、
それもあくまで最近の非言語と対比をしてのものだとご理解ください。
30年前から一流の心理療法家で、最前線のトレーナーだったわけですから。

裏を返せば、そんな人でさえ研鑽の跡が見られるということです。


30年前のコニリーは、セラピー技法においても色々と研究をしていたようです。

アンドレアス夫妻の共著で説明されている手法の多くが
イメージを活用したものである一方、
コニリー自身は言葉の使い方にも思い入れが強かったそうです。

一時期はクライアントの問題解決のお手伝いを
あえて全て会話だけで行うようにしていた時期もあったとか。
ストイックに技術を追求するタイプのトレーナーなんでしょう。

奥底には人の苦しみに目を向ける思いやりが常にあったと想像されますが
こちらの若い頃の動画では、技術への意識の高さがうかがえます。

技法に興味があり、どうやってセラピーの仕組みを解明するのに一生懸命。
自らの臨床経験やNLPのテクノロジーに信頼を置きながら
巧みな技術と知識で自信を裏づけしていた頃なのかもしれません。

それが最近の動画では、
存在そのものに自信があって
クライアントが前に進む力を信頼しながら
ただ目の前の心の動きに興味を向けている
といったように見えます。

そこには技術の向上や様々な手法の開発、トレーニングの経験などよりも
はるかに大きな影響として、コニリー自身の内面の変化がありそうです。

別の動画で本人も言っていたように、
「誰よりも自分自身をクライアントとしてセラピーしてきた」
ことで、内面を調えてきたのでしょう。

2つの動画を見比べるだけで
『成熟』ということの意味を感じられるような気がします。

以前の自分の動画もチョット見てみたくなりました。

cozyharada at 23:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2016年02月29日

統合と合成

NLPや心理療法では『統合』という言葉を使うことがあります。

「複数の物をまとめて1つにする」といった言葉ですが
まとまって「出来上がった1つのもの」に焦点があたる傾向にあるようです。

比較として挙げておくと、『合成』も
「複数の物を合わせて1つにする」という意味でありながら
「1つにまとまっていく」プロセスに焦点が当たっているように思われます。

その意味では、『統合』のほうが
「(全体という)より大きなものの一部になる」
ニュアンスがありそうで、
『合成』では元のものの量や大きさにはかかわらず
「(合成される)元のものは全て対等に「素材」として扱う」
ニュアンスがあるように感じます。

AのほうがBよりも大きくて影響力も強いとしたら
『統合』する場合、「AにBが統合される」といった表現も可能で、
『合成』する場合は「AとBを合成する」のようにニュートラルな表現になる、と。

ですからNLPや心理療法で『統合』という言葉が使われる場合も
やはり「より大きなものになる」という意味合いがあるように感じます。


NLPには「葛藤の統合」の手法があって、資格取得コースでも紹介される
かなりスタンダードな方法の1つだといえます。

「Aしてしまう」心の一部と、「Bしてしまう」心の一部が葛藤している。
それを『統合』しましょう、というんです。

作業としては「Aしてしまう」部分と「Bしてしまう」部分だけを扱って
2つをくっつけ合わせるような段階を含みます。
ですから「AとBを合成している」印象も受けるわけです。

しかしここで使われているのは『統合』という単語です。
2つの心の部分が一体となった後で出来上がるものに焦点が当たっている。

「AとBをくっつけてCを合成する」という話ではないんです。

実際、手法を使った後の心の状態を見てみると、
この作業は『統合』なんだということが実感できます。

最終的には、心の一部が全体に『統合』されます。


「〜してしまう」という心の働きは、
自分でコントロールできていない感じがするものです。

ですから「…したいのに、〜してしまう」とか「〜したいのに、〜できない」とか
そういった形で「思い通りにならない」こととして問題視されます。

ここで問題視しているのは「〜したい」と願っている心の部分です。

その願望に普段から気づいていて、それが自分にとって当たり前になっている。
馴染みがあるから、それを「いつもの自分らしい」と認識するんです。

この「いつもの自分らしい」心の範囲が、一般的に『意識の心』と呼ばれます。

意識の心は、ただ普段から意識に上がることの多い心の部分であって、
意識に上がるからこそ、その心の動きが望んでいることにも気づきやすい。

いつも意識に上がっている心の範囲を「自分」として認識することになって
(知っている自分を「自分とは○○だ」のように自己認識する)
意識に上がりやすい心の範囲の性質を「自分らしさ」として捉えます。

それが「自分」という「意識の心」の範囲です。

裏を返せば、「自分」として認識している「意識の心」の範囲から外れた部分
(つまり普段は意識に上がらず、知らない心の部分)については
「無意識の心」として、「自分」ではコントロールできないものと感じるということです。

こちらの「無意識の心」の範囲が担当している働きは、
「〜してしまう」とか「〜できない」のように
望ましくない物として認識されることになります。

そのためNLPや心理療法で扱っている葛藤は
「…したい」という「意識の心」の働きと
「…ではないことをする」という「無意識の心」の働きが
 意識の心の認識からは『対立』しているように見える
という状態だといえます。

客観的にニュートラルに捉えれば
 「…する(Aする)」働きと、「…ではないことをする(Bする)」働きが同時にある
だけのことです。

が、「…する(Aする)」ことが日頃から意識に上がっていて
その結果として「自分らしい」と認識していると、
「…ではないことをする(Bする)」のは、「自分らしくない」ことになります。

だから
 「…したい(Aしたい)のに、…ではないこと(B)をしてしまう」
のような表現で語られるわけです。

一部だけしか気づいていないことで、意識の心の範囲から外れたものは
「自分らしくない」と捉えられてしまう。
そこに問題意識が生まれていると説明できます。


で、葛藤の『統合』をしようという話になります。

一般的に期待されるのは、意識の心の願望に近づけたい方向性です。
 「…したい(Aしたい)のに、…ではないこと(B)をしてしまう」
なら
 「…できる(A)できるようになる」
という結末。

しかし、その方向性は『統合』とはいえません。

『統合』は、できあがったより大きなものに焦点を当てます。

ここでは、気づいていなかった『無意識の心』の範囲の働きを自覚して
それを意識できるようにしていきます。

そうすると今まで『無意識の心』が担当していた(と認識されていた)ことが
『意識の心』の一部分になるんです。

つまり『無意識の心』の一部が『意識の心』に統合される、と。

そして出来上がったものは、やはり『意識の心』です。

ただしそれは元の『意識の心』のままではありません。
今まで無意識だった範囲が追加されていますから
『意識の心』が広がったことになります。

『意識の心』として日頃から自覚されるものを「自分らしい」と知るわけなので
『意識の心』の範囲が広がれば「自分らしさ」もまた広がります。

「自分らしさ」が変わるんです。

ですから
「…したい(Aしたい)けど、…ではないこと(B)をしてしまう」などの問題は
最終的に
 「AしたいからAをするし、BしたいからBをする」
というシンプルな願望の間での選択に変わります。

対立がなくなるわけではないんです。

「対立している」と認識していた「自分らしさ」がなくなるんです。

問題は「対立していること」ではなく、
「対立」という認識を生むような心の偏りだった、ということです。

意識されていなかった心の部分に気づき、
そちらも意識の範囲に『統合』していくことで、
偏った意識の仕方をバランスの良い全体として整える。
そういう作業だといえます。

『統合』で、できあがった全体のほうに焦点を当てるのだとすると
葛藤の統合で最も変化するのは、まさに『全体』のほうなんです。

自分らしさとして認識されている意識の範囲全体のこと。

こちらが変わります。
いわば「自分」が変わるんです。

問題が「今までの自分」に都合良く修正されるのではなく、
「今までの自分」が「新しい自分」に変わる。

そういう性質のプロセスだといえます。

そんな風に考えると『統合』という言葉は、言い得て妙なんだと思います。

cozyharada at 23:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!
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プロフィール
原田 幸治
理系人材育成コンサルタント。
技術力には定評のあるバイオ系化学・製薬企業にて研究職として基礎研究から開発研究までを担当。理系特有とも言える人間関係の問題に直面して心理とコミュニケーションを学び始め、それを伝えていくことを決意して独立。
コールドリーディング®、NLP(TM)、心理療法、脳科学、サブリミナルテクニック、催眠、コーチング、コミュニケーションへ円環的にアプローチ。
根底にある信念は「追求」。

・米国NLP(TM)協会認定
 NLP(TM)トレーナー。

・コールドリーディングマスター
 講座石井道場 黒帯。
(コールドリーディング®は
有限会社オーピーアソシエイツ
http://www.sublimination.net/
の登録商標となっています)
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