2007年07月
2007年07月31日
無意識への刺激
昨日まで箱根にいました。
身も心もリフレッシュです。
頭と心には多くの学びがありました。
体は温泉で癒してきた感じです。
今回は自分にとって本当に大きな変化が起きました。
小さな変化に見えるかもしれませんが、僕には驚きでした。
本当はパソコンを持っていって
メールやブログの更新に利用するつもりだったんですが。
この4月からWILLCOMのをやめてEMOBILEに替えたもので
箱根が圏外になってしまって使えませんでした。
とはいえ、自分の中に起きた学びの多くは言語化できないものでしょうし、
何よりも時間が充実しすぎていてパソコンを使う気がしなかったとも思います。
ただ、その場の中と自分の中に起きていることを深く味わう。
それが本当に素晴らしいことだったと信じています。
学びを共有した皆さんは本当に素晴らしい方ばかり。
自由で、楽しくて、真剣で、本気で、暖かくて。
制限がなくて、自然で、安全で、許された場でした。
脈々と受け継がれる命の重さと暖かさ。
関係性の中で生きる、その責任と自由。
短い時間でしたが、非常に大切なものを実感できた気がします。
そしてそれは、きっと無意識により深く刻まれているのだと思います。
今、少し思い出しても、感動が涙とともによみがえりますから。
そんな安全な場だったから、僕は初めて人に身を委ねることができました。
整体に行っても、体の力を抜くことができなかった僕が。
何をして、そのように感じたのかは言えませんが、
とても大事なことに気づきました。
沢山の支えてくれる人がいたのに、一人で頑張ろうとしていたことに気づきました。
誰一人、心の底から信じていなかった。
初めて人を信じられた気がしました。
そうしたら、「ごめんなさい」と「ありがとう」で気持ちがいっぱいになりました。
そして、その「ありがとう」が体中にあふれていました。
それを伝えられる仲間がいて、その気持ちを真正面から受け入れてくれて、
さらに「ありがとう」が強くなって。
本当に「ありがとう」でいっぱいでした。
以前にも少し書いたかもしれませんが、
僕の足のつま先はいつも少し上がっていたんです。
緊張感なのか、頑張りなのか、背伸びをしていたのか、
それは良く分かりませんが、いつも力が入って反っていたんです。
でも、その「ありがとう」でいっぱいの経験をしてから
僕の足のつま先は地面に触れています。
なぜかは知りません。
足先が地面についているのを感じるとき、
僕はまた「ありがとう」の気持ちを思い出します。
地球もまた僕を支えてくれているんですね。
2007年07月26日
箱根に行ってきます
昨日の勉強会にご参加くださった方、大変ありがとうございました。
質問の技術というテーマにピッタリな鋭い質問を沢山いただきました。
こちらが大変勉強になっていました。
いつもながら不思議な感覚なんですが、
質問に答えているときには、何か自然と言葉が出てくるような感じがするんですね。
そのなかで納得してもらえる説明ができたときは
答えている自分もとても腑に落ちて、
次回以降に同じような説明をするときに大変役立つものを手に入れた気分なんです。
特に、今回は質問ということをベースにコーチングについても考えてみたわけですが、
そうすることで気づいたのは
「NLPの範囲で扱うコーチングは良くできている」
ということです。
別に僕がNLPを全面的に推奨しているわけではありませんし、
一般的なコーチングを否定的に見ているわけでもありませんが、
質問を色々な視点で見ていったときにNLPのコーチングは
良くまとまっていることが実感できたわけです。
まさにエッセンスだな、と。
コーチングを実践されている方は数多くの質問を使いこなせるように
トレーニングしていくのかもしれませんが、
同時に難しさもあるような気がするんです。
どの質問を、どの状況で選ぶかという部分にセンスやスキルの個人差が出るだろうと。
その意味では、NLPで伝えているコーチングの、たった8つの質問は
それだけで効果的なんだろうということを思ったんです。
つまりコーチングとか質問の技術とか、これまでに何も考えたことのなかった人でも
ただ8つの質問を、テキストに書かれたのを見ながら言うだけで
質問される側にとっては目標達成に向けた考えの整理ができてしまうということです。
シンプルになっているわけです。
この8つの質問に興味がおありの方は
『8フレームアウトカム』
という言葉をネットで検索していただけたら見つかると思います。
質問というものを思いっきり幅広く網羅的に考えて、
その中から目標達成、問題解決に効果的という観点で質問を分類してみたら
集約して出来上がったものがNLPの中にあるものと一緒だった。
そう考えたとき、今までよりもずっと納得できたという体験でした。
一度大きく広げてから様々な観点でまとめてみると
本質的な部分に気づくことがしやすいのかもしれませんね。
さて、個人的な話ですが、
7月27日から30日まで箱根に行ってきます。
心と体のリフレッシュをしてくるつもりです。
頭は勉強に使うんですけど。
質問の技術というテーマにピッタリな鋭い質問を沢山いただきました。
こちらが大変勉強になっていました。
いつもながら不思議な感覚なんですが、
質問に答えているときには、何か自然と言葉が出てくるような感じがするんですね。
そのなかで納得してもらえる説明ができたときは
答えている自分もとても腑に落ちて、
次回以降に同じような説明をするときに大変役立つものを手に入れた気分なんです。
特に、今回は質問ということをベースにコーチングについても考えてみたわけですが、
そうすることで気づいたのは
「NLPの範囲で扱うコーチングは良くできている」
ということです。
別に僕がNLPを全面的に推奨しているわけではありませんし、
一般的なコーチングを否定的に見ているわけでもありませんが、
質問を色々な視点で見ていったときにNLPのコーチングは
良くまとまっていることが実感できたわけです。
まさにエッセンスだな、と。
コーチングを実践されている方は数多くの質問を使いこなせるように
トレーニングしていくのかもしれませんが、
同時に難しさもあるような気がするんです。
どの質問を、どの状況で選ぶかという部分にセンスやスキルの個人差が出るだろうと。
その意味では、NLPで伝えているコーチングの、たった8つの質問は
それだけで効果的なんだろうということを思ったんです。
つまりコーチングとか質問の技術とか、これまでに何も考えたことのなかった人でも
ただ8つの質問を、テキストに書かれたのを見ながら言うだけで
質問される側にとっては目標達成に向けた考えの整理ができてしまうということです。
シンプルになっているわけです。
この8つの質問に興味がおありの方は
『8フレームアウトカム』
という言葉をネットで検索していただけたら見つかると思います。
質問というものを思いっきり幅広く網羅的に考えて、
その中から目標達成、問題解決に効果的という観点で質問を分類してみたら
集約して出来上がったものがNLPの中にあるものと一緒だった。
そう考えたとき、今までよりもずっと納得できたという体験でした。
一度大きく広げてから様々な観点でまとめてみると
本質的な部分に気づくことがしやすいのかもしれませんね。
さて、個人的な話ですが、
7月27日から30日まで箱根に行ってきます。
心と体のリフレッシュをしてくるつもりです。
頭は勉強に使うんですけど。
2007年07月24日
形から入る
最近、体の話題が多いですが
先日、勉強しに行ったところでも体の話題が印象に残りました。
自分でも感じていることを超一流のプロから聞けると
すごく納得して腑に落ちる感じがします。
それは権威付けとか言うよりは、別の視点からの説明や
専門的なバックグラウンドで体系だてられた説明を聞けることで
整理や理解が深まる感じなのかもしれません。
体の使い方を変えるということに関しては
意識的に対応しにくい癖のような部分にアプローチするのに効果的だと思います。
僕自身、行動面から課題に取り組まれる方に対しては、
その課題と密接に関わっている体の反応の癖を
意識化してもらってコントロールできるようにすることをしたりしていました。
ただ、自分に関してはあまりそういう発想がなかったんでしょうね。
自分を客観的に見るのは難しいものですね。
NLPではモデリングといって、なりたい状態や能力の人を
そっくりそのまま真似することで、その人の本質を掴もうとするトレーニングをします。
日本古来の武道とか華道、茶道など「〜道」と呼ばれるものでも
型から入っていくということをしますね。
型を真似する、という時に、その体の使い方から身体レベルの反応を通じて
内面的な感情や気持ち、考え方にも影響が出てくるわけです。
自分の気持ちをコントロールするときに
まず体の姿勢をコントロールしてみるのは本当に効果的だと実感しています。
先日、勉強しに行ったところでも体の話題が印象に残りました。
自分でも感じていることを超一流のプロから聞けると
すごく納得して腑に落ちる感じがします。
それは権威付けとか言うよりは、別の視点からの説明や
専門的なバックグラウンドで体系だてられた説明を聞けることで
整理や理解が深まる感じなのかもしれません。
体の使い方を変えるということに関しては
意識的に対応しにくい癖のような部分にアプローチするのに効果的だと思います。
僕自身、行動面から課題に取り組まれる方に対しては、
その課題と密接に関わっている体の反応の癖を
意識化してもらってコントロールできるようにすることをしたりしていました。
ただ、自分に関してはあまりそういう発想がなかったんでしょうね。
自分を客観的に見るのは難しいものですね。
NLPではモデリングといって、なりたい状態や能力の人を
そっくりそのまま真似することで、その人の本質を掴もうとするトレーニングをします。
日本古来の武道とか華道、茶道など「〜道」と呼ばれるものでも
型から入っていくということをしますね。
型を真似する、という時に、その体の使い方から身体レベルの反応を通じて
内面的な感情や気持ち、考え方にも影響が出てくるわけです。
自分の気持ちをコントロールするときに
まず体の姿勢をコントロールしてみるのは本当に効果的だと実感しています。
2007年07月22日
体の記憶
人は左右対称じゃありませんね。
必ず歪みがあります。
ビートたけしさんが交通事故で顔に大怪我を負ったとき
右半分の怪我を修復するための整形手術で顔の左半分を元に手術をした、
という話だったかと思います。
神経麻痺の影響もあるのでしょうが、左右対称に近づいた分、
事故以前とは随分印象の違う顔になったように記憶しています。
左右非対称なのは顔だけではなく、体の様々な部分や
体の使い方にも左右非対称な傾向がありますね。
コールドリーディングではMeタイプ、Weタイプのタイプわけを
この全身にあらわれる左右非対称の様子を観察するところで判断していきます。
この外見的片寄りと心理的特性の関係を見出したことは
石井先生の大発見だと確信していますが、
体の反応に内面(特に無意識)との関わりを見出していくことは
様々な心理療法で大切にされている部分だとも言えると思います。
筋肉としての蓄積や骨格の歪みというのは長年の行動や反応を反映しているようで、
そのあたりを基準に観察をしていくと個性に迫ることができるように感じます。
一方、蓄積ではなく、その時点での反応にも個性が出てくるようです。
こちらに関しては癖のようなものとして見ることもできますが、
もっと微妙な緊張感や体の内部での反応となると
本人が気づくことの意味のほうが大きいのかもしれません。
そういった体の緊張にはトラウマが宿っているという考え方もありますし、
体の感覚も記憶と密接に関係していると考えられます。
体の感覚と記憶が強く結びついているということは、
その出来事が脳のレベルではエピソード記憶としてリアリティを持ったまま
維持されているという風に判断できます。
NLPで言うとアソシエイトした記憶ということになります。
感情は体の感覚と密接に関係していますから、
その意味でも感情的なインパクトが強かった出来事の記憶は、
体の感覚と関連付けて整理されているように考えられます。
心理療法の中にフォーカシングという技法がありますが、
それは体の感覚に集中していくことから始まります。
自分の中にある感覚を大切にするだけでも体の反応は変わってくることが実感できます。
ちなみに僕の場合、右足のつま先に左足よりも強い緊張感がいつもあったんですが、
この感覚にフォーカスするところから始めていたら
中学、高校ぐらいの勉強を一生懸命していたときの感じを思い出しました。
テスト前になると決まって見ていた夢のことなんかも思い出したりして。
面白いものですね。
無意識はいつも守っていてくれていたんですね、
体の反応を通して。
無意識は自分を守るために体を利用することが多いのかもしれません。
体は頭よりも無意識に近いのでしょうね。
必ず歪みがあります。
ビートたけしさんが交通事故で顔に大怪我を負ったとき
右半分の怪我を修復するための整形手術で顔の左半分を元に手術をした、
という話だったかと思います。
神経麻痺の影響もあるのでしょうが、左右対称に近づいた分、
事故以前とは随分印象の違う顔になったように記憶しています。
左右非対称なのは顔だけではなく、体の様々な部分や
体の使い方にも左右非対称な傾向がありますね。
コールドリーディングではMeタイプ、Weタイプのタイプわけを
この全身にあらわれる左右非対称の様子を観察するところで判断していきます。
この外見的片寄りと心理的特性の関係を見出したことは
石井先生の大発見だと確信していますが、
体の反応に内面(特に無意識)との関わりを見出していくことは
様々な心理療法で大切にされている部分だとも言えると思います。
筋肉としての蓄積や骨格の歪みというのは長年の行動や反応を反映しているようで、
そのあたりを基準に観察をしていくと個性に迫ることができるように感じます。
一方、蓄積ではなく、その時点での反応にも個性が出てくるようです。
こちらに関しては癖のようなものとして見ることもできますが、
もっと微妙な緊張感や体の内部での反応となると
本人が気づくことの意味のほうが大きいのかもしれません。
そういった体の緊張にはトラウマが宿っているという考え方もありますし、
体の感覚も記憶と密接に関係していると考えられます。
体の感覚と記憶が強く結びついているということは、
その出来事が脳のレベルではエピソード記憶としてリアリティを持ったまま
維持されているという風に判断できます。
NLPで言うとアソシエイトした記憶ということになります。
感情は体の感覚と密接に関係していますから、
その意味でも感情的なインパクトが強かった出来事の記憶は、
体の感覚と関連付けて整理されているように考えられます。
心理療法の中にフォーカシングという技法がありますが、
それは体の感覚に集中していくことから始まります。
自分の中にある感覚を大切にするだけでも体の反応は変わってくることが実感できます。
ちなみに僕の場合、右足のつま先に左足よりも強い緊張感がいつもあったんですが、
この感覚にフォーカスするところから始めていたら
中学、高校ぐらいの勉強を一生懸命していたときの感じを思い出しました。
テスト前になると決まって見ていた夢のことなんかも思い出したりして。
面白いものですね。
無意識はいつも守っていてくれていたんですね、
体の反応を通して。
無意識は自分を守るために体を利用することが多いのかもしれません。
体は頭よりも無意識に近いのでしょうね。
2007年07月20日
ひとり
自分を愛することは、とても大切なことですね。
自分を愛しているから他人を愛することができる。
自分が幸せだから他人を幸せにできる。
ただし、自分を愛する気持ちが強すぎてもバランスは悪いようです。
自己愛性人格障害なんて言います。
(最近は人格障害と言わずに、パーソナリティ・ディスオーダーという方が主流)
ただ、僕が思うのは、もしかすると自己愛性人格障害の人というのは
本当の意味で自分を愛せてはいないのかもしれない、ということです。
愛していないから、極度に愛を求める。
自分は愛されるべきだという思い込みで他人にあたるのかもしれません。
自己愛の強さと自己受容の大きさには関係が無いような気もしますが、
とにかく自分をOKだと思えることは非常に大切なことだと実感します。
一方で、社会性ということを考えた場合には
自己客観視の能力も求められると思うんです。
自分を客観的に他人との関係の中に見られるか、ということです。
自己重要感と自己客観視が両方高い人を大人と呼ぶ、
なんていう話も聞いたことがあります。
自分は大切です。
でも自分と他人は違うわけです。
そこの区別をつけるのが社会性ですが、
自分と他人が違うからこそ、他人を大切にするのは難しいのだと思います。
なんとなく自分の思い込みで他人に接してしまうのが普通じゃないでしょうか。
となれば、自分に対して望むように接してくれる他人というのは
ほぼあり得ないことになると思うんです。
他人ですから。
つまるところ、人は孤独なんだと思うんです。
自分は宇宙と一体で、全てと繋がっていることを、
心の底から実感できたとしたら孤独感は感じないのかもしれません。
それは悟りに近い状態なのでしょうか。
でも普通に生きていれば孤独なほうが当然なのではないかと思います。
仲間を求めてしまうのも孤独だからでしょうね。
ただ、自分は孤独でも、決して一人ではありません。
自分の中には大勢の自分がいます。
状況に応じて自分は使い分けられているんです。
その沢山の自分が、自分の中でケンカをしたとき、人は苦しむのでしょう。
でもケンカするだけ、沢山の自分がいるんです。
自分の中には沢山の自分がいる。
孤独じゃないんです。
自分の中には、いつも沢山の自分が一緒にいてくれているんです。
自分の味方は自分の中にいるんじゃないかと思います。
自分の中に自分の味方を見つけていくのが
孤独感から癒される方法の1つだと思うんです。
自分の味方を自分の中に見つけられると、
他人に味方をしてもらうことを求めなくなるかもしれません。
他人に期待しなくなるかもしれません。
そうしたら、他人に優しく接することもできるような気がします。
自分を愛しているから他人を愛することができる。
自分が幸せだから他人を幸せにできる。
ただし、自分を愛する気持ちが強すぎてもバランスは悪いようです。
自己愛性人格障害なんて言います。
(最近は人格障害と言わずに、パーソナリティ・ディスオーダーという方が主流)
ただ、僕が思うのは、もしかすると自己愛性人格障害の人というのは
本当の意味で自分を愛せてはいないのかもしれない、ということです。
愛していないから、極度に愛を求める。
自分は愛されるべきだという思い込みで他人にあたるのかもしれません。
自己愛の強さと自己受容の大きさには関係が無いような気もしますが、
とにかく自分をOKだと思えることは非常に大切なことだと実感します。
一方で、社会性ということを考えた場合には
自己客観視の能力も求められると思うんです。
自分を客観的に他人との関係の中に見られるか、ということです。
自己重要感と自己客観視が両方高い人を大人と呼ぶ、
なんていう話も聞いたことがあります。
自分は大切です。
でも自分と他人は違うわけです。
そこの区別をつけるのが社会性ですが、
自分と他人が違うからこそ、他人を大切にするのは難しいのだと思います。
なんとなく自分の思い込みで他人に接してしまうのが普通じゃないでしょうか。
となれば、自分に対して望むように接してくれる他人というのは
ほぼあり得ないことになると思うんです。
他人ですから。
つまるところ、人は孤独なんだと思うんです。
自分は宇宙と一体で、全てと繋がっていることを、
心の底から実感できたとしたら孤独感は感じないのかもしれません。
それは悟りに近い状態なのでしょうか。
でも普通に生きていれば孤独なほうが当然なのではないかと思います。
仲間を求めてしまうのも孤独だからでしょうね。
ただ、自分は孤独でも、決して一人ではありません。
自分の中には大勢の自分がいます。
状況に応じて自分は使い分けられているんです。
その沢山の自分が、自分の中でケンカをしたとき、人は苦しむのでしょう。
でもケンカするだけ、沢山の自分がいるんです。
自分の中には沢山の自分がいる。
孤独じゃないんです。
自分の中には、いつも沢山の自分が一緒にいてくれているんです。
自分の味方は自分の中にいるんじゃないかと思います。
自分の中に自分の味方を見つけていくのが
孤独感から癒される方法の1つだと思うんです。
自分の味方を自分の中に見つけられると、
他人に味方をしてもらうことを求めなくなるかもしれません。
他人に期待しなくなるかもしれません。
そうしたら、他人に優しく接することもできるような気がします。
2007年07月19日
生命ということ
僕は長いこと生物化学を専門に研究をしていました。
全ての自然が対象ではありませんでしたが、
対象とする現象を化学的に捉えていました。
生物を含んだ現象を化学の視点で理解・利用しようとしていたわけです。
生物を中心に、世の中のあらゆる現象を化学の視点で見るわけです。
命さえも化学として見ようとしてきたのかもしれません。
それは冷静で客観的な見方だったと思います。
ただ、最近思います。
命はもっと主体的に感じられるものだって。
最近はスピリチュアルブームのようですが、宗教的なものも含めて
自分を超えた存在との繋がりを目指すような方向性があると思います。
瞑想などを続けて、自分が宇宙と一体であるような状態を実感する、と。
世の中の全てのものは関係性の中に存在していますから
何かそれ自体が単独で存在し続けられるということはあり得ないと考えられます。
自分も他者との関係性の中にいるんです。
でも、生まれたばかりの赤ちゃんというのは、自他の区別がつかないと言われます。
お母さんが自分とは別の存在だということに気づくところから始まると。
生まれる前は文字通り一体だったわけですから、当然なのかもしれません。
そして成長していくにしたがって自分というものに目覚めていく。
自我が確立されるわけですね。
自我の役割はとても重要だと思います。
社会性という意味では欠かせないものでしょう。
自分という方向に意識が向くのは自然な流れなのだと思います。
そうして自我を育てた上でこそ、
自分を超えたものとの繋がりに意味があるような気がするんです。
ところが女性の中には、こうした自分以外の何かとの繋がりを日常で
ありありと感じている人達がいるようです。
それはもしかすると男性には感じにくいものなのかもしれません。
命の繋がり。
命の神秘。
それを子供を通じて感じられる方が多いように思います。
新たな命の誕生。
生々しくリアルな命。
成長。
自分の命があること、それが受け継がれていること、
自分の命も受け継がれてきたこと、これからもずっと受け継がれていくこと。
命を実感している人の目は輝いています。
命は日々の生活の中にあふれている。
そのことに気づきやすいのは女性の本能なのかもしれません。
こういった表現を差別的に捉える方はいらっしゃらないと思いますが
僕は、そのような女性の持つ命の力を尊敬しています。
生々しくリアルな命。
生きていることを日々、実感できるというのは凄いことだと思います。
生物を客観的に学問としてきた僕とは、ある意味で対極なのかもしれません。
自分が宇宙と一体であるのと同時に、
自分の命は脈々と受け継がれてきていることを実感することが大切なように感じました。
命は現実的で、生々しいものなのでしょうね。
生の命と書いて『生命』。
そんな意味もあったりするかもしれません。
全ての自然が対象ではありませんでしたが、
対象とする現象を化学的に捉えていました。
生物を含んだ現象を化学の視点で理解・利用しようとしていたわけです。
生物を中心に、世の中のあらゆる現象を化学の視点で見るわけです。
命さえも化学として見ようとしてきたのかもしれません。
それは冷静で客観的な見方だったと思います。
ただ、最近思います。
命はもっと主体的に感じられるものだって。
最近はスピリチュアルブームのようですが、宗教的なものも含めて
自分を超えた存在との繋がりを目指すような方向性があると思います。
瞑想などを続けて、自分が宇宙と一体であるような状態を実感する、と。
世の中の全てのものは関係性の中に存在していますから
何かそれ自体が単独で存在し続けられるということはあり得ないと考えられます。
自分も他者との関係性の中にいるんです。
でも、生まれたばかりの赤ちゃんというのは、自他の区別がつかないと言われます。
お母さんが自分とは別の存在だということに気づくところから始まると。
生まれる前は文字通り一体だったわけですから、当然なのかもしれません。
そして成長していくにしたがって自分というものに目覚めていく。
自我が確立されるわけですね。
自我の役割はとても重要だと思います。
社会性という意味では欠かせないものでしょう。
自分という方向に意識が向くのは自然な流れなのだと思います。
そうして自我を育てた上でこそ、
自分を超えたものとの繋がりに意味があるような気がするんです。
ところが女性の中には、こうした自分以外の何かとの繋がりを日常で
ありありと感じている人達がいるようです。
それはもしかすると男性には感じにくいものなのかもしれません。
命の繋がり。
命の神秘。
それを子供を通じて感じられる方が多いように思います。
新たな命の誕生。
生々しくリアルな命。
成長。
自分の命があること、それが受け継がれていること、
自分の命も受け継がれてきたこと、これからもずっと受け継がれていくこと。
命を実感している人の目は輝いています。
命は日々の生活の中にあふれている。
そのことに気づきやすいのは女性の本能なのかもしれません。
こういった表現を差別的に捉える方はいらっしゃらないと思いますが
僕は、そのような女性の持つ命の力を尊敬しています。
生々しくリアルな命。
生きていることを日々、実感できるというのは凄いことだと思います。
生物を客観的に学問としてきた僕とは、ある意味で対極なのかもしれません。
自分が宇宙と一体であるのと同時に、
自分の命は脈々と受け継がれてきていることを実感することが大切なように感じました。
命は現実的で、生々しいものなのでしょうね。
生の命と書いて『生命』。
そんな意味もあったりするかもしれません。
2007年07月18日
整体に行ってきました
今日、初めて整体に行ってきました。
知人の整体師のところです。
以前に少し見てもらったことがあって、
様子を知っていてくれたので非常に快適でした。
で、少し前に見てもらったときと比べて
今日の首の状態はかなり違っていたそうなんです。
改善していると。
ストレスは体に出るというのは良く聞く話ですが、
僕の場合、もしかすると体にお礼を言ったことが良かったのかもしれません。
以前にも少し書きましたが、僕は自分の体を酷使してきていたようです。
それが最近、体を大切にしようと思えた。
そして自分の体に向き合って、「ありがとう」を言ったんです。
体に対して言葉で「ありがとう」と言って、
一体何が変わるんだ?と思われるかもしれませんが、
こういった体とのコミュニケーションは心理療法では良く行うんです。
フォーカシングなどでは体の一部に意識を向けて、
今まで気づいていなかった部分に気持ちを向けていきます。
重さや熱さ、苦しさといった感覚に気づき、
「今まで頑張ってくれてありがとう」とお礼を言うと、
不思議とその感覚が和らいでいくのを多くの人が感じられます。
僕の場合も、そんな風に体に対して気持ちを向けることで
少し和らいだ部分があったのかもしれません。
ただ、今日は体中がダルい感じです。
そうなるのが普通らしいですが、
今まで聞いていなかった体のメッセージが一気に聞こえるようになったような
そんな感じなのかもしれませんね。
知人の整体師のところです。
以前に少し見てもらったことがあって、
様子を知っていてくれたので非常に快適でした。
で、少し前に見てもらったときと比べて
今日の首の状態はかなり違っていたそうなんです。
改善していると。
ストレスは体に出るというのは良く聞く話ですが、
僕の場合、もしかすると体にお礼を言ったことが良かったのかもしれません。
以前にも少し書きましたが、僕は自分の体を酷使してきていたようです。
それが最近、体を大切にしようと思えた。
そして自分の体に向き合って、「ありがとう」を言ったんです。
体に対して言葉で「ありがとう」と言って、
一体何が変わるんだ?と思われるかもしれませんが、
こういった体とのコミュニケーションは心理療法では良く行うんです。
フォーカシングなどでは体の一部に意識を向けて、
今まで気づいていなかった部分に気持ちを向けていきます。
重さや熱さ、苦しさといった感覚に気づき、
「今まで頑張ってくれてありがとう」とお礼を言うと、
不思議とその感覚が和らいでいくのを多くの人が感じられます。
僕の場合も、そんな風に体に対して気持ちを向けることで
少し和らいだ部分があったのかもしれません。
ただ、今日は体中がダルい感じです。
そうなるのが普通らしいですが、
今まで聞いていなかった体のメッセージが一気に聞こえるようになったような
そんな感じなのかもしれませんね。
整体
今日、初めて整体に行ってきました。
知人の整体師のところです。
以前に少し見てもらったことがあって、
様子を知っていてくれたので非常に快適でした。
で、少し前に見てもらったときと比べて
今日の首の状態はかなり違っていたそうなんです。
改善していると。
ストレスは体に出るというのは良く聞く話ですが、
僕の場合、もしかすると体にお礼を言ったことが良かったのかもしれません。
以前にも少し書きましたが、僕は自分の体を酷使してきていたようです。
それが最近、体を大切にしようと思えた。
そして自分の体に向き合って、「ありがとう」を言ったんです。
体に対して言葉で「ありがとう」と言って、
一体何が変わるんだ?と思われるかもしれませんが、
こういった体とのコミュニケーションは心理療法では良く行うんです。
フォーカシングなどでは体の一部に意識を向けて、
今まで気づいていなかった部分に気持ちを向けていきます。
重さや熱さ、苦しさといった感覚に気づき、
「今まで頑張ってくれてありがとう」とお礼を言うと、
不思議とその感覚が和らいでいくのを多くの人が感じられます。
僕の場合も、そんな風に体に対して気持ちを向けることで
少し和らいだ部分があったのかもしれません。
ただ、今日は体中がダルい感じです。
そうなるのが普通らしいですが、
今まで聞いていなかった体のメッセージが一気に聞こえるようになったような
そんな感じなのかもしれませんね。
知人の整体師のところです。
以前に少し見てもらったことがあって、
様子を知っていてくれたので非常に快適でした。
で、少し前に見てもらったときと比べて
今日の首の状態はかなり違っていたそうなんです。
改善していると。
ストレスは体に出るというのは良く聞く話ですが、
僕の場合、もしかすると体にお礼を言ったことが良かったのかもしれません。
以前にも少し書きましたが、僕は自分の体を酷使してきていたようです。
それが最近、体を大切にしようと思えた。
そして自分の体に向き合って、「ありがとう」を言ったんです。
体に対して言葉で「ありがとう」と言って、
一体何が変わるんだ?と思われるかもしれませんが、
こういった体とのコミュニケーションは心理療法では良く行うんです。
フォーカシングなどでは体の一部に意識を向けて、
今まで気づいていなかった部分に気持ちを向けていきます。
重さや熱さ、苦しさといった感覚に気づき、
「今まで頑張ってくれてありがとう」とお礼を言うと、
不思議とその感覚が和らいでいくのを多くの人が感じられます。
僕の場合も、そんな風に体に対して気持ちを向けることで
少し和らいだ部分があったのかもしれません。
ただ、今日は体中がダルい感じです。
そうなるのが普通らしいですが、
今まで聞いていなかった体のメッセージが一気に聞こえるようになったような
そんな感じなのかもしれませんね。
2007年07月17日
催眠療法
先日、僕の尊敬する催眠療法家の先生が行ったエリクソン催眠のワークショップに
受講生として参加してきました。
僕にとって仲間という気持ちよりも先生という気持ちのほうが遥かに大きいんです。
もちろん内容をここで言うわけにはいきませんが、
学んだ内容というのはとても重要なことだったと感じています。
とにかく、この先生のクライアントさんに対する関わり方が素晴らしいんです。
本気なんです。
その本気の関わり方を至るところから感じられたことも
ワークショップに参加して手に入れられた素晴らしいリソースでした。
普段、催眠のクライアントになるということはあまり多くありませんので
ワークショップでの実習ではありますが、
自分でクライアント役を体験する良い機会にもなったわけです。
そのときに感じたのは、トランス状態での感受性の高まりです。
通常であれば大人数の中で催眠的なアプローチはあまりしませんので
大勢の中で深いトランス状態になることは体験として少なかったんです。
ところが実際にそうした場面でトランスを味わってみて感じたのは
周りの状況が敏感に感じ取れるということでした。
どこかに集中しながらも意識が拡散したような状態では
周囲の物音や人の気配に非常に敏感になるんですね。
知識として知っていたり、そういう体験談を聞くことは多かったですが
自分自身がそういった体験をしたのが有意義でした。
離れたところから聞こえる紙をめくる音や、遠くの話し声、
部屋の中を歩く人の気配が凄く近いところのようにハッキリと感じられたんです。
あとでその場所を確認して
「えっ!こんなに離れてたの?」
って思うほどです。
自分の感覚では耳元で聞いていたような気分だったんです。
3人組でワークをやったりすると、隣で見ている人の気持ちが
「あれ、今この人、嬉しそうだったな」
なんて思ったりもするのですから、面白いですよね。
そういうことを考えると、セラピスト側に求められるものは
非常に大きいと思えるわけです。
トランス状態にいるクライアントさんは非常に敏感になっているわけですから。
いかに本気で、心を込めて、相手のために取り組むことができるか。
その気持ちのあり方は如実にクライアントさんに伝わると思ったんです。
そして実際に、その先生は強い思いを持ってクライアントさんと関わっていました。
なるほど、と思いました。
僕自身も覚悟を持って取り組んでいるつもりでしたが
今回、改めて身が引きしまる思いをしました。
気持ちが大事だと言うのは簡単ですが
その大切さというのは身をもって感じるごとに深まるものかもしれませんね。
受講生として参加してきました。
僕にとって仲間という気持ちよりも先生という気持ちのほうが遥かに大きいんです。
もちろん内容をここで言うわけにはいきませんが、
学んだ内容というのはとても重要なことだったと感じています。
とにかく、この先生のクライアントさんに対する関わり方が素晴らしいんです。
本気なんです。
その本気の関わり方を至るところから感じられたことも
ワークショップに参加して手に入れられた素晴らしいリソースでした。
普段、催眠のクライアントになるということはあまり多くありませんので
ワークショップでの実習ではありますが、
自分でクライアント役を体験する良い機会にもなったわけです。
そのときに感じたのは、トランス状態での感受性の高まりです。
通常であれば大人数の中で催眠的なアプローチはあまりしませんので
大勢の中で深いトランス状態になることは体験として少なかったんです。
ところが実際にそうした場面でトランスを味わってみて感じたのは
周りの状況が敏感に感じ取れるということでした。
どこかに集中しながらも意識が拡散したような状態では
周囲の物音や人の気配に非常に敏感になるんですね。
知識として知っていたり、そういう体験談を聞くことは多かったですが
自分自身がそういった体験をしたのが有意義でした。
離れたところから聞こえる紙をめくる音や、遠くの話し声、
部屋の中を歩く人の気配が凄く近いところのようにハッキリと感じられたんです。
あとでその場所を確認して
「えっ!こんなに離れてたの?」
って思うほどです。
自分の感覚では耳元で聞いていたような気分だったんです。
3人組でワークをやったりすると、隣で見ている人の気持ちが
「あれ、今この人、嬉しそうだったな」
なんて思ったりもするのですから、面白いですよね。
そういうことを考えると、セラピスト側に求められるものは
非常に大きいと思えるわけです。
トランス状態にいるクライアントさんは非常に敏感になっているわけですから。
いかに本気で、心を込めて、相手のために取り組むことができるか。
その気持ちのあり方は如実にクライアントさんに伝わると思ったんです。
そして実際に、その先生は強い思いを持ってクライアントさんと関わっていました。
なるほど、と思いました。
僕自身も覚悟を持って取り組んでいるつもりでしたが
今回、改めて身が引きしまる思いをしました。
気持ちが大事だと言うのは簡単ですが
その大切さというのは身をもって感じるごとに深まるものかもしれませんね。
2007年07月14日
他の人
他人の気持ちは分からない。
絶対に分からない。
どんなにスゴイ占い師でも霊能者でもシャーマンでも超能力者でも
他人の気持ちは絶対に分からない。
相手の家の様子が分かっても、前世が分かっても、未来が見えても、オーラが見えても
相手の気持ちは分からない。
絶対に。
潜在意識が繋がっていようが、全ては宇宙の一部だろうが、
他人の気持ちは絶対に分かるはずがない。
他人の気持ちが伝わってきたとしても、自分が解釈しているのだから
それは相手の気持ちではない。
自分が推測した他人の気持ちが合っていたように感じられることはあっても
他人の気持ちが100%分かることはあり得ない。
他人の気持ちが分からないから、
自分と他人が違うのだから、
自分ではないその人のことを大切に思えるのかもしれない。
そして、自分ではない存在がいることで
自分という存在に気づくことができる。
自分が自分にとって大切な存在だと気づくことができる。
他人のことは分からない。
だから他人のことを分かろうとする人に期待を寄せる。
「この人は分かってくれるんじゃないだろうか」
そうして人は他人に心を開こうとするのかもしれない。
でも、他人の気持ちは分からない。
分かろうとしてくれる人に対して寄せる期待は、
「分かったら大切にしてくれるだろう」
というものかもしれない。
「どうして分かってくれないの!?」
「分かってくれよ!」
それは、分かって欲しいんじゃない。
大切にして欲しいんだ。
分かると思ったら大間違いだ。
他人の気持ちは絶対に分からない。
分からないから大切にできる。
分かると思ったとき、それは相手を大切にしていない。
相手を大切にしていたら、分かったような気がしても
「本当に分かったんだろうか?」
「違っていたら相手を傷つけることにならないだろうか?」
というような疑問が沸いてくるだろう。
こんなことも思う。
分かりたいという気持ちと
大切にするために分かろうとする気持ちは
全く別物なんじゃないだろうか、と。
分かりたいのは何故だろう?
…その人が分かってもらいたいと思うから?
分かってもらいたいのは何故だろう?
…大切にしてもらいたいから?
大切にしてもらいたいのは何故だろう?
…大切にされていないから?
じゃあ、大切にしていないのは誰だろう?
他人の気持ちは分からなくていい。
大切にするのは、分からなくてもできる。
どうやって大切にするか。
そのための1つの方法が分かろうとすることなのかもしれない。
分かりたいという気持ちには良く向き合ってみる必要がある気がする。
誰のために分かりたいのか。
相手を大切にするためなのか、
それとも
自分を大切にするためなのか。
もちろん自分を大切にするのは素晴らしい。
でも自分はそんな方法で大切にしなくてもいいはずだ。
絶対に分からない。
どんなにスゴイ占い師でも霊能者でもシャーマンでも超能力者でも
他人の気持ちは絶対に分からない。
相手の家の様子が分かっても、前世が分かっても、未来が見えても、オーラが見えても
相手の気持ちは分からない。
絶対に。
潜在意識が繋がっていようが、全ては宇宙の一部だろうが、
他人の気持ちは絶対に分かるはずがない。
他人の気持ちが伝わってきたとしても、自分が解釈しているのだから
それは相手の気持ちではない。
自分が推測した他人の気持ちが合っていたように感じられることはあっても
他人の気持ちが100%分かることはあり得ない。
他人の気持ちが分からないから、
自分と他人が違うのだから、
自分ではないその人のことを大切に思えるのかもしれない。
そして、自分ではない存在がいることで
自分という存在に気づくことができる。
自分が自分にとって大切な存在だと気づくことができる。
他人のことは分からない。
だから他人のことを分かろうとする人に期待を寄せる。
「この人は分かってくれるんじゃないだろうか」
そうして人は他人に心を開こうとするのかもしれない。
でも、他人の気持ちは分からない。
分かろうとしてくれる人に対して寄せる期待は、
「分かったら大切にしてくれるだろう」
というものかもしれない。
「どうして分かってくれないの!?」
「分かってくれよ!」
それは、分かって欲しいんじゃない。
大切にして欲しいんだ。
分かると思ったら大間違いだ。
他人の気持ちは絶対に分からない。
分からないから大切にできる。
分かると思ったとき、それは相手を大切にしていない。
相手を大切にしていたら、分かったような気がしても
「本当に分かったんだろうか?」
「違っていたら相手を傷つけることにならないだろうか?」
というような疑問が沸いてくるだろう。
こんなことも思う。
分かりたいという気持ちと
大切にするために分かろうとする気持ちは
全く別物なんじゃないだろうか、と。
分かりたいのは何故だろう?
…その人が分かってもらいたいと思うから?
分かってもらいたいのは何故だろう?
…大切にしてもらいたいから?
大切にしてもらいたいのは何故だろう?
…大切にされていないから?
じゃあ、大切にしていないのは誰だろう?
他人の気持ちは分からなくていい。
大切にするのは、分からなくてもできる。
どうやって大切にするか。
そのための1つの方法が分かろうとすることなのかもしれない。
分かりたいという気持ちには良く向き合ってみる必要がある気がする。
誰のために分かりたいのか。
相手を大切にするためなのか、
それとも
自分を大切にするためなのか。
もちろん自分を大切にするのは素晴らしい。
でも自分はそんな方法で大切にしなくてもいいはずだ。